第9交響曲については、伝説的なあのバーンスタイン・ベルリンフィルの演奏をFMで聴いたのが最初かも知れない。 他の演奏を知らないままにこの演奏をカセットに録音して繰り返し聴き、じきに音楽をすっかり覚えてしまったので、 この演奏の「異様さ」というのを客観的に把握するには随分と時間がかかった。他の方がどうかはわからないが、 私はマーラーの場合に限って言えば、楽譜をほとんど持っていることもあり、またその音楽の脈絡をかなり記憶していることも あって、CDなどを聴いても、実際には自分の頭の中にある音楽を確認しているだけのことがしばしばあったし、 多少の距離感をおいて接することができる今ですら、その傾向は残っている。だから良く聴いて、馴染んだ曲ほど 演奏解釈の違いというのに無頓着な傾向が強く、そのせいもあって、いわゆる聴き比べのようなことに興味がない。 否あったとしても、細かい違いを気にして聴くことがそもそもできる自信がないのである。さすがに極端なテンポ設定や アゴーギクの違いには気づくし、明らかなミスは頭の中の音楽と比べることで容易に検出できるのでわかるし、 場合によっては使用している楽譜の版の違いにも気づくことがあるが、それはあくまでも自分の頭の中に納まっている ものとの違いによってに過ぎない。もしかしたら、コンサートホールでの実演に感動することが少ないのは このことと関係するかも知れない。マーラーとかヴェーベルンのような、「身に付いた」音楽ほどその傾向が強いのは、 多分そのせいなのだろう。もっとも第6交響曲のような例外もあるから、そればかりとは言えないと思うのだが。
というわけで、第9交響曲もまた、実演を聴いた印象は極めて希薄である、というよりほとんど聴いたという 事実以外のことは記憶にないというのが正直なところで、これでは聴いても聴かなくても同じことなのだが、 その実演とは井上道義・京都大学のオーケストラのサントリーホールでの演奏(第140回定期:1987年1月)(*1)で、 音楽が全く自分の内側に入ってこず、周囲の空間を素通りしていくに驚いたこと以外これといった印象がない。 学生オーケストラの技術は非常に高くて、技術だけとれば決してプロに 見劣りすることはないだろうが、この曲はプロでも下手をすれば楽譜をなぞるだけで終りかねない 難曲であり、恐らく、何かが伝わってくる水準の演奏ではなかったのであろう。学生オーケストラの 演奏会は第一義的には演奏する学生のためのものだから、その出来を云々するのはもともと 筋違いなのだろうし。だが、例えば別の機会に接したショスタコーヴィチの学生オケによる演奏では、些かユニークでは あっても作品に対する共感を感じる演奏であり、その演奏に私もまた充分に共感できたことがあるから、 これはマーラーの音楽が、普通に思われているより遙かに今日の日本人にとって遠い存在であるということを 告げる徴候のようなものとして考えることができるかも知れない。あるいはこの作品の持つ極端に私的な性格 (そして逆説的に、それこそが普遍性への通路になっているように思われる)と非人称的な客観性(これは シェーンベルクがかのプラハ講演で指摘した事柄と恐らく関係する)の共存に起因する部分があるのかも 知れない。
(*1)京都大学交響楽団第140回定期演奏会:ベートーヴェン「フィデリオ」序曲、マーラー第9交響曲、指揮:井上道義、京都大学交響楽団、1987年1月、サントリーホール
FMで聴いたベルティーニ・シュトゥットガルト放送交響楽団(1984.1.20)の演奏も素晴らしく、ベルティーニは FMで第3、第5、第7、第9と素晴らしい演奏を聴いていたのだが、第3交響曲の項で書いた通り、実演で 聴いたときの経験があまりにも不幸なものであったこと、ケルン放送交響楽団との来日が、丁度いわゆる マーラーブームの頂点の時期で、その時には私はマーラーから距離を置き始めていたという巡り合せの悪さも あって、ベルティーニが東京都交響楽団のシェフであった時期も結局一度も実演を聴くことはなかった。
LPは、ジュリーニの演奏がずっとレコード屋の店頭にあったのを記憶しているが、あいにくそれ以外の廉価盤が なかったせいもあって、とうとうレコード自体を買いそびれてしまった。CDの時代になってからは、かつてカセットテープで ベルリン・フィルとのライブをさんざん聴いたこともあり、バーンスタイン・コンセルトへボウの録音やインバルと フランクフルト放送交響楽団の演奏も一時期聴いたが、 結局のところ、ようやく聴くことがかなったバルビローリとベルリン・フィルの演奏に落ち着いた。
だがこの曲には他にも優れた演奏が多く、マーラーの作品中、色々な演奏を聴くという多様性の点では 他を圧して一番のように思える。ワルターとウィーン・フィルの1939年の演奏は、録音の悪さを超え、 もしかしたら演奏のクオリティだけで語ることが不完全であるかもしれないような時代の証言としての重みがある。 このような記録で、音楽をその音楽が演奏された状況と切り離して論じることは妥当ではないと私は思う。 コンドラーシンはモスクワ・フィルとの演奏でセッション録音と、日本初演の記録があるが、いずれも圧倒的な 説得力を持っている。ザンデルリンクの解釈はユニークでありながらこの曲の持つ別の一面を浮かび上がらせている ように思える。ジュリーニの演奏は評価が高いが、私はこの演奏を聴くと非常に具体的で現実的な風景が 見えてくるように感じられる。特に第4楽章を聴くと、ドロミテの、現地でEnrosadiraと呼ばれる現象を 思い浮かべずにはいられない。バルビローリもベルリンでのセッション録音の他に、トリノの放送管弦楽団との ライブ、ニューヨーク・フィルハーモニックとのライブがあって、それぞれオーケストラの個性により少しずつ違った 質の演奏になっている。インバルの演奏は、曲の持つ「記憶」の再現の克明さという点で卓越した演奏だと 私は思う。
この曲は楽譜に比較的早くから親しんだ曲の一つでもあり、音楽之友社からポケットスコアが出たときに 真っ先に買ったのがこの曲と6番、7番であった。(それ以前に持っていたのは、「大地の歌」と第8交響曲の Universal Edition版と、第2交響曲の全音版。)
この曲をマーラーの交響曲の頂点と考える人は多いだろうが、私は(これも昔からよくある)第1楽章の 出来が良すぎて、後続の楽章とのバランスが悪いと感じる方である。第2楽章以降の出来が悪いというのではなく、 個人的な嗜好では第1楽章があまりに素晴らしいのだ。それ故自宅でCDを聴く場合など、 第1楽章で終わりにすることも非常に多い。この曲の楽章構成がユニークなものでありながら、極めて 巧妙なものであり、あるいはまたこの曲の遠心的な構成の方が第6交響曲などよりマーラー的なのだとは思っても、 マーラー特有の叙述の分裂に同調できないことも多い。 結局私はほとんどの場合音楽をムーディーにしか聴いていないということの証なのだろうが、どうしようもない。 全曲聴くぞと思って聴かないと、全曲聴きとおすのが難しい場合が多く、そうした傾向は実は昔から現在まで 一貫して変わらないのだ。要するに、知的で分析的なレベルでは楽章構成に難をつけることはできないけれど、 実際に音楽を聴いてみると、第1楽章で音楽が完結してしまっていると感じることが多く、これは寧ろ 心的なダイナミクス、精神分析的な意味合いでの句読点の問題に違いなく、私の個人的な心的な機制の 問題の反映なのかも知れない。例えば、この曲を精神分析的な視点から解読した文献として、Holbrookの 著作があって、これは非常に面白い本だけれども、そして、そこに書かれている楽章構成の解釈に一定の 説得力は感じても、プライヴェートな聴取の次元では第1楽章で終わりにすることが多いという事実には 変わりがないのだ。もしかしたらそれは、私がこの曲を聴くに値するほどまだ人間的に成熟していないという ことなのかも知れない。大地の歌の方は、その巨視的な構造がもたらすメンタルなプロセスにすっかり馴染んだのに、 この曲については、まだ難しい瞬間があるようだ。
もっともそれでは中間楽章が嫌いかといわれればそんなことはない。第2楽章のイロニー、第3楽章の 暴力性ともども、それは自分の心象には寧ろ親和的にさえ感じられる。個人的には(こういうロマン派的な 聴き方自体を問いに付すことはとりあえず棚上げにしてしまえば)よりポピュラーなロマン派の音楽を どう聴けばいいのか寧ろ戸惑いを感じて、白けてしまって聴いていられないくらいである一方で、 病的な心象風景という見立てさえあるらしいショスタコーヴィチのカルテットや後期交響曲は私にとっては ごく自然な音楽なのである。それゆえ、マーラーの第9交響曲の第2楽章、第3楽章もまた、 それをロマン派的な通念で捉えたとして、そういう音楽が書きたくなる気持ちは良く分かるように思えるし、 ムーディに聴いたところでこういう気分はよくわかる。第3楽章の「極めて反抗的に」という演奏指示は確かに 異例のものかも知れないが、その音楽の風景には何ら異様なところはないように私には思える。 それゆえ、私はこの曲が何か特殊で例外的な心理の表現であるという意見には全く共感できない。 そういう意味では100年前の異郷の人間であっても、マーラーは私には随分と身近なメンタリティの 持ち主であると思える。
それと関係があるのかないのかはこれまた定かではないが、一つ気づいたこととして、どうやら、中間楽章、 特に第2楽章を聴くことの(勿論、私のとっての)容易さが演奏によって異なるらしいということがある。 手元にある5種類の演奏は、それぞれ優れた演奏だと思うが、例えば中間楽章の面白さという点では 違いがあるようなのだ。
いずれにせよ、この曲の第1楽章は本当に素晴らしい。否、単に素晴らしいというだけではなく、 あるタイプの演奏で第1楽章や第4楽章を聴いていると、マーラーがその中に立った風景が、 その時のマーラーの「感受」の様態が、そのまま自分の中に再現されるように感じることがある。勿論勝手な 思い込みだが、私にはマーラーが見た風景が見えるような気が、マーラーが感じた印象が 自分の中にそっくり再現されるような、言ってみれば私的な筈のクオリアの伝達が可能になっている ような気がするのだ。(勿論これは、スティグレールの言う第三次過去把持の効果であり、マーラーに関しては例外的に子供の頃から、アルマの回想を始めとしたさまざまな生涯の記録や証言に接して、まるで見てきたかの如くアネクドットの類まで覚え込み、作品の演奏記録に接し続けてきたことに基づくものに違いなく、神秘的な何かが生じているわけでは決してない。)クオリアの私性と共感とは一見したところ論理的に両立しないように 見えるが、それは知的な概念化に伴う単純化に起因する誤謬であるに違いない。 勿論、私の心の中で起きる事象はマーラーの心の中で起きたものと同じではなく、何らかの 変形が生じているのは間違いがない。それを言い出せば昨日の私が聴いた時と、今日の私が 聴いた時にだって違いはあるだろう。けれども、何か不変なものがそこにはある。それは言語化し 概念化すると、その時に生じる歪みにより大切な部分が揮発してしまうようなデリケートなものであって、 従っていわゆる言語的なレヴェルでの「標題(プログラム)」と同一視することはできないに違いないが、 言語化できなければ何もないというのもまた、知性の犯す誤謬なのだ。
昔のマーラーに熱中していた私がマーラーを必要としていたのも確かだろうが、それとは少し違った 意味合いでマーラーの音楽が本当に必要に思える時期というのが、今の私にはある。 それはその音楽が優れているか、その音楽が好きかというのとは少し異なった位相での音楽との 接し方で、そしてその切実さの度合いは、寧ろかつてよりも今の方が深いかも知れない。 そしてそうした切実な必要に応えるのは、子供の死の歌であったり、大地の歌であったり、 この第9交響曲であったりすることが多いように思える。こうした聴き方は、治療の手段として音楽を 聴く方にとっても、自律的な音楽の価値を追及する方にとっても中途半端であったり不徹底で あったりする問題のある聴き方かも知れない。そうであれば申し訳ないとは思うけれど、でも、 私にはそうした聴き方が必要な時がやはりあって、どうすることもできないのだ。そして、そうであれば これは非常に不遜で身勝手な感じ方だということになるのかも知れないけれど、私にとって マーラーその人が、その音楽ともども最も身近に感じられる瞬間というのは、そうした聴き方と 無関係ではありえないのも否定し難いのだ。かつて実演を聴いたコンサートホールでこの音楽が 素通りしていったのは惨めな経験だったけれど、だからといって、このような聴き方をするようになった 現在の私がこの曲をコンサートホールのような場所で聴くことが適切なことであるかといえば、 率直に言って自信がない。
[追記]その後、以下の公演で実演に接している。演奏会記録はこちら。
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会:マーラー第9交響曲、指揮:井上喜惟、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ、2012年6月24日、文京シビックホール