お知らせ

アマチュア・オーケストラ演奏頻度を2025年の公演の集計を追加して更新しました。(2025.12.25)

2026年3月23日月曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第26回定期演奏会(2026年4月11日)

  マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第26回定期演奏会が2026年4月11日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます(12:45開場、13:30開演)。以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページもご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)

プログラムは、リトアニアの作曲家・画家であるチュルリョーニスの交響詩「森の中で」、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番に加え、アントニー・ボーモンによる新校訂版を使用したツェムリンスキ―の大管弦楽のための幻想曲「人魚姫」より構成されるという極めて意欲的な企画です。




(2026.1.2公開)

他の作曲家との比較——マーラーを「座標系」の中に置く(データ分析概要紹介・速報版)

前の記事ではマーラーの交響曲12作品に絞って分析を行った。ここでは視野を広げ、ブルックナー、シベリウス、ブラームス、ショスタコーヴィチの後期作品群、および参照点としての古典派2作品(ハイドン第104番・モーツァルト第41番)を加えた全27作品で同じ主成分分析を行った結果を見ていく。

作曲家ごとに色分けした図を主に参照してほしい。各作品のラベルが付いた図は個々の作品の位置を確認する際に補助的に使うとよい。



分析の構成

対象としたのは以下の作品群である。ブルックナーは後期の第7・8・9番、シベリウスは第6番(第1,4楽章)・第7番・タピオラ、ブラームスは第1〜4番の全曲、マーラーは第1〜10番および大地の歌の全11作品(第5は第2楽章、第6のみ第1,4楽章で計12楽章)。これに古典派の代表として、ハイドン第104番とモーツァルト第41番(ジュピター)の第一楽章を加えた。古典派の2作品は、調性音楽の「典型」として分析空間の参照点となる。

横軸(PC1)と縦軸(PC2)の2軸で全体の情報量の約70%が保存されている。

古典派——空間の左端に位置する参照点

まず図の左端に目を向けると、ハイドンとモーツァルトの2点(青)が他のすべての作品群から大きく離れた位置に孤立している。五度圏上の重心移動が最も緩やかで、調性の求心力が際立って強い。この2点は「調性音楽の原点」として空間を基準付ける役割を果たしており、他の作曲家がそこからどれだけ離れているかを測る目盛りとして機能している。

各作曲家グループの配置

色分けされた図を全体として眺めると、作曲家ごとのグループが比較的まとまった領域を占めていることがわかる。これは、指標として抽出した和声の動き方の特徴が、個々の作品の差異を超えて作曲家ごとの様式的な一貫性を反映していることを示している。

ブルックナーの3作品(緑)は図の上方、縦軸の正方向に集まっている。五度圏上での重心の動きは中程度でありながら、音が広い空間に分散するという特徴がこの上方への配置を生んでいる。広大な音域を使いながら局所的には「漂う」ような動き方——ブルックナーの和声の独特の広がりが数値に現れている。

シベリウスの4作品(紫)は図の下方、縦軸の負方向に集まっている。音高の種類を広く・高密度に被覆しながら局所的な揺れにとどまる傾向が強く、ブルックナーとは縦軸上で対称的な位置関係をなしている。晩年のシベリウスの、音を凝縮させてゆく様式が指標に表れた結果と読める。

ブラームスの4作品(橙)は横軸・縦軸ともに中間域に散在し、原点付近にゆるくまとまっている。突出した極性を持たない「中間的な多様性」がブラームスの指標上の特徴であり、古典的な構造への志向と後期ロマン派的な語法の並存がこの位置を生んでいると考えられる。

ショスタコーヴィチの2作品(グレー)は図の上方右寄りに位置し、縦軸の正方向への突出が際立つ。和声の移動幅が全作品中最大値域にあり、かつ音高の被覆範囲が最も狭いという組み合わせがこの配置を生んでいる。大きな跳躍と局所的な密度の低さ——調的な「根」を持たぬまま激烈に動き回る語法が数値に反映されている。

全体の中のマーラー

マーラーの12作品(赤)は、他の作曲家グループのちょうど中央に位置するかたちで分布している。マーラー単独で分析したときには明確に見えていたℓ字型の軌跡は、全体の中に置かれると他の作曲家の領域に「埋め込まれた」状態になる。

特に縦方向(PC2)の変動が圧縮されている点が目につく。マーラー単独ではPC2の変動が比較的大きく見えていたが、全体の尺度ではブルックナー(上方)とシベリウス(下方)に挟まれる形で、縦方向の幅がかなり狭まって見える。一方、横方向(PC1)はスケールがほぼ保存されており、古典派(左端)からショスタコーヴィチ(右寄り)への横軸方向の広がりの中で、マーラーの時系列的な推移は依然として読み取れる。

この「埋め込まれた」配置は、マーラーの音楽が複数の方向への可能性を内包していることと整合する。縦軸についていえば、ブルックナーのように音空間を広く漂うわけでも、シベリウスのように音を凝縮させるわけでもなく、その中間でさまざまな様態を取り続ける。マーラーの交響曲が「折衷的」と評されることがあるとすれば、その印象の一端がこの配置に現れているとも言えるだろう。

2つの軸が示すもの

この分析から取り出された2つの軸は、和声的な運動の2つの独立した側面を切り出していると考えられる。

横軸(PC1)は「調性中心への凝集——拡散」の軸である。左端の古典派から右端のショスタコーヴィチへと、調性の求心力が段階的に薄れてゆく方向が、この軸に沿って並んでいる。縦軸(PC2)は「調性運動の慣性——攪乱」の軸である。下方のシベリウス的な持続的・高密度の運動から、上方のブルックナー・ショスタコーヴィチ的な広域分散・断続的な動きへの対比がこの軸に対応する。

この2軸の読み方は、音楽の様式論的な問いと接続してゆく余地がある。横軸を「主体の自己同一性——離心化」、縦軸を「主体の持続的推進——断続的変容」と言い換えることもできるかもしれない。数値分析の射程がどこまで及ぶかは今後の検討に委ねるとして、少なくとも聴感上の印象と大きく乖離しない形で、複数作曲家の和声的な様式を一枚の地図に収めることができたといえるだろう。


(2026.3.23 公開)

マーラー交響曲の「調性の軌跡」——数値分析が示すもの(データ分析の概要紹介・速報版)

マーラーの音楽について語るとき、「晩年に向かうにつれて調性が崩れていく」「初期と後期では音の世界がまるで違う」といった印象はよく共有される。こうした聴感上の直観を、楽譜の数値データから検証することはできるだろうか。ここで紹介するのは、そのような問いに取り組んだ分析の結果である。

音楽を「座標」として記録する

分析に用いたのはMIDIデータである。MIDIとは楽譜の情報をデジタル化したもので、「どの音が、いつ、どれだけの長さで鳴っているか」を数値として記録している。ここから各瞬間にどの音が鳴っているかを取り出し、「五度圏」という座標系の上に投影する。

五度圏とは、12の音(ドレミファソラシと、その間の半音を含む全12音)を円周上に配置したものだ。ハ長調のド、ト長調のソ、ニ長調のレ……と、五度(鍵盤で数えて7鍵分)の関係にある音が隣り合うよう並んでいる。調性音楽においては同じ調に属する音が集まって鳴ることが多いため、ある瞬間に鳴っている音の「重心」がこの円のどこにあるかを計算することで、その音楽が調性的にどこに「根を張っているか」を追跡できる。

この重心の動き方を記述するために9種類の指標を算出した。重心の平均的な移動幅はどれくらいか、単位時間あたりどれだけ速く動くか、どのくらいの揺らぎがあるか、五度圏上のどれだけ広い範囲を使うか——といった数値である。対象はマーラーの交響曲12作品(第1番から第10番、大地の歌)の第一楽章ないし相当する楽章とした(第5番は第2楽章、第6番のみ第1楽章と第4楽章の2つで合計12楽章)。

9次元を2次元の地図に圧縮する

9つの指標を同時に見渡しても全体像はつかみにくい。そこで「主成分分析(PCA)」という統計手法を用い、9次元の情報をできる限り損なわないまま2次元の地図として描き直した。今回の分析では、横軸(PC1)と縦軸(PC2)の2軸で全体の情報量の約73%が保存されている。

添付の図(バイプロット)において、各点は1つの楽章を表す。点が近いほど指標上の特徴が似ており、遠いほど異なる。図中の灰色の矢印は各指標を表しており、矢印の向きがその指標の高い方向を示している。


横軸——「調性の求心力」の軸

まず横軸(左右方向)に注目してほしい。

左側にある作品ほど、五度圏上の重心の移動が緩やかで、特定の調性の「場」に引き留められている。一方、右に行くほど重心の移動幅が大きく、動きが速く、調性の求心力が薄れる。特定の調的な「根」を持たず、高速・高密度で変動し続ける状態に対応している。

この左右の位置が作曲年代とほぼ対応していることは、図を見ればひとめでわかる。最も左寄りにある第1番(1888年)から、中央付近に集まる第5番・第6番・第7番(1902〜08年頃)を経て、右端の第9番・第10番(1910年頃)へと、作品が概ね時代順に並んでいる。マーラーの音楽が年を追うにつれて調性の「重力」を手放してゆく過程が、数値の上にも明確に現れている。

縦軸——「音の空間の使い方」の軸

次に縦軸(上下方向)を見てほしい。こちらは横軸のような一方向の時系列的傾向を示さない。

上方向は、五度圏の広い範囲に音が分散しながら動く状態に対応する。下方向は逆に、音高の種類を広く・高密度に使いながらも、局所的な揺れにとどまる状態を意味する。

縦軸に沿ったマーラー作品の推移をたどると、山型を描く。初期作品群(第1〜4番あたり)は図の下寄りに位置し、純器楽の中期交響曲(第5〜7番)が上方へ移動し、後期(第8番・大地の歌・第9番・第10番)で再び下へ戻る。

ℓ字型の軌道——全体像

この2つの動きを重ね合わせると、マーラー12作品のPCA空間上の軌跡は、全体として「ℓ字型」を描くことがわかる。

初期から中期にかけては、横軸の右方向への移動と縦軸の上方向への移動が同時に進み、図の左下から右上へと向かう。ところが後期に差しかかると、縦方向の上昇は止まりむしろ反転して下降し、横方向だけが引き続き右へと伸びる。これがℓ字の「折れ曲がり」に相当する部分である。

この軌跡のなかで、第8番と大地の歌は特徴的な位置に現れる。純器楽の中期作品群が右上に集まるのに対し、この2作品は左下方向へと引き戻され、初期の作品群に近い領域に位置している。第8番は大規模な合唱交響曲、大地の歌はテノールとアルトの独唱を擁する連作歌曲的な交響曲であり、声楽という様式の存在が和声の動き方の統計的な特徴にまで影響を与えているのは注目に値する。その後、第9番・第10番では横軸方向への推進が再開する。ただし今度は縦軸が下寄りのままであり、中期のような「音空間への広がり」を伴わない。運動強度が増大しながら、展開様式は高密度・高被覆率という性格を帯びている。図の右端に孤立するように突き出た第10番は、マーラーが未完のまま残したこの作品の、既存の交響曲的語法からの急進的な逸脱を端的に示している。

こうした数値分析の結果は、私たちがマーラーの音楽について聴感的に抱いてきた印象——初期の民謡的・歌謡的な親しみやすさ、中期の純器楽的な緊張、晩年の解体感——と大きく乖離するものではない。むしろその直観を、五度圏上の重心の運動という具体的な指標に接続することで、より精密な言語で語る足がかりを提供するものといえる。


(2026.3.23 公開)

2026年2月23日月曜日

交響曲的思考における音楽的主体の存在様式についての覚書

 1. 問題設定

本稿では19世紀後半から20世紀初頭にかけての交響曲的思考において、「音楽的主体」がいかなる存在様式として仮定されているのかを考えてみたいと思います。ここでいう主体とは、作曲家の心理や表現意図を指すものではなく、また聴取主体の受容構造でもありません。むしろそれは、音楽的時間の組織、形式の成立条件、力学的進行の様態のうちに、暗黙裡に前提される存在論的な位置づけとして理解されるようなものとして考えられています。

本論が対象として交響曲を選ぶのは、このジャンルが、外的な物語や機能に依拠することなく、純粋に音楽的な時間構造と形式的展開の内部において、自律的に全体性を構成しようとする試みを最も徹底的に担ってきたからです。交響曲は、主題の展開・回帰・変容を通じて時間を統合する形式であり、その過程において、音楽的出来事をいかにまとめ上げ、持続させ、あるいは崩壊させるのかという問いを不可避的に孕みます。この点において交響曲は、音楽的主体が仮定されるか否か、またそれがどのような様式で成立するのかを検討するための題材として適当なものと考えられます。

特にここでは、以下の三つの作曲家を、主体の存在様式という観点から非連続的な三項図式として配置してみたいと思います。

  • アントン・ブルックナー

  • グスタフ・マーラー

  • ジャン・シベリウス

この三項は、発展史的連続ではなく、主体の成立条件そのものが質的に異なる三つの音楽的世界を示すものとして位置づけられます。


2. 理論的前提

2.1 主体の最小定義

本論における「主体」とは、以下の条件を少なくとも部分的に満たす存在を指します。

  • 内部/外部の区別を持つ

  • 時間的推移を自己に帰属させる

  • 音楽的出来事を統合・予期・回収する

この定義はフリストンの自由エネルギー原理を念頭においた定義であり、心理学的主体ではなく、構造的・力学的な主体です。本論では、生成モデルや能動的推論を備えた主体のみを対象とするのではなく、それらを欠いた場合においても、音楽的時間の組織や形式の持続において、主体的機能がいかに仮定され、あるいは仮定されえないかを問うこととします。

2.2 FEP(自由エネルギー原理)の位置づけとアドルノの近代的主体批判

自由エネルギー原理(FEP)は、ここでは説明理論としてではなく、主体モデルを極限まで抽象化した参照枠として用いられます。FEPが前提とするマルコフ・ブランケット(内部/外部境界)の有無は、音楽における主体の成立条件を検討するための反照的装置として機能するものと考えることができます。

ここで興味深く、また注意すべき点は、その自由エネルギー原理の標準的主体モデルが、世界を不確実性として把握し、それを管理・低減しようとする存在様式を前提としている点です。

FEPにおける能動的推論主体は以下のように特徴づけられます。

  • 境界(マルコフ・ブランケット)を持つ

  • 内部モデルを保持する

  • 世界を不確実性として経験する

  • 行為によって不確実性を低減する

上記の特徴は、FEPが想定しうる多様な適用レベルのうち、予測・モデル化・境界設定が明示的に問題となる水準におけるものです。これは生物学的・数理的には中立ですが、 存在論的に見るとこう言い換えられるでしょう。

世界は本質的に不確実であり、 主体はそれを管理・低減すべき存在である。

自由エネルギー原理が自然科学的理論であり、生物学的レベルから部分システムに至るまで広範な適用可能性を持っていることは踏まえた上で、その予測・モデル化・境界設定を伴う主体モデルを、規範的に拡張した場合の形式的帰結を見る限り、近代的主体の社会理論を意図していないにもかかわらず、近代的主体像と構造的な共鳴が生じうるように見えます。

実際アドルノが(否定的に)前提していた近代主体もまた、

  • 世界を脅威・異質性として経験する

  • 同一性の論理によってそれを把握・統御しようとする

  • 不確実性を耐えがたいものとして扱う

という特徴を持ちます。こちらはこちらで、目的論も弁証法も捨てた後の、「裸の管理主体」 として見たとき、自由エネルギー原理における主体と少なからぬ共通点を持つように思えます。(なお、ここで言う「裸の管理主体」とは、目的論的・弁証法的構造を剥奪され、同一性の維持と不確実性の低減という機能のみに還元された主体像を指すものとします。)

ここで重要なのは、FEPが近代主体を継承しているのではなく、 近代主体がすでに 生存最適化的な存在として構想されていたという逆転です。FEPは記述理論であって、規範理論ではありません。しかし同時に、

  • どのような存在を「存続するもの」とみなすか

  • どのような振る舞いを「合理的」と定義するか

について、非常に強い前提を置いています。つまり、

「生き残るシステムとは、 驚きを減らし、 境界を保ち、 内部モデルを更新し続ける存在である」

という前提です。これは価値判断ではありませんが、 存在様式の選別ではあります。

この点においてFEPは、アドルノが批判的に念頭に置いていたカント・ヘーゲルにおけるような近代的主体像と奇妙に構造的な共鳴を示していると見ることもできるでしょう。

本論はFEPの理論的バイアスのメタ批判を目的としているわけではないので、この共鳴関係を批判的に検証することを目的としませんが、ブルックナーおよびシベリウスの音楽が、FEPが暗黙裡に前提としている主体モデルの射程外にある存在様式を提示していることを示すための、限定的・反照的参照枠としてFEPを位置づけることになっている点は指摘しておくべきかと思います。

更に言えば、FEPは価値中立的・自然科学的に見えるにも関わらず、その「標準的主体像」がある歴史的・規範的主体モデルと思いがけずよく噛み合ってしまうこと自体、主体モデルが自然化された瞬間に最もイデオロギー的になるという、非常にアドルノ的な逆説を呼び起こさずにはいないでしょう。それは一方で、ここで取り上げるブルックナーやシベリウスに対するアドルノの著名な批判を思い起こさせます。しかし他方では、本論において生成モデルや能動的推論を備えたFEP的な主体のみを対象とするのではなく、それらを欠いた場合の主体的機能を問うことは、そうしたアドルノの批判を相対化し、ブルックナーやシベリウスに関する別の見方、「近代の失敗例」ではない「別の人類学的レイヤーの音楽」とする見方への通路を啓くものでもあるでしょう。

2.3 FEP(自由エネルギー原理)主体の2つのタイプ

自由エネルギー原理が記述しうる主体モデルは、単一の形式に還元されるものではありません。とりわけ、能動的推論と行為を強く前提とする「標準的主体モデル」は、FEPが適用可能な存在様式の一部に過ぎません。本論の議論を整理するため、ここでは便宜的に、FEP的主体を以下の二つの型に分けて考えてみることにします。

(A)動物型FEP主体(standard active inference)

  • 明確なマルコフ・ブランケットを持つ

  • 中枢化された内部モデルを保持する

  • 世界を不確実性として表象する

  • 行為によって環境を操作し、予測誤差を低減する

  • 時間は選択と決断の連鎖として経験される

(B)植物型FEP主体(non-strategic inference)

  • 境界はあるが、移動や環境操作を前提としない

  • モデルは分散的・局所的で、世界の再現を目的としない

  • 応答は行為ではなく、配置や形態の変化として現れる

  • 誤差は解消されるのではなく、成長様式に吸収される

  • 時間は出来事の系列ではなく、相の変化として展開する

植物型主体においても自由エネルギーの低減は生じていますが、それは行為選択としてではなく、構造的適応として現れる点が特徴です。

藤原辰史が『植物考』において横断的に展開している植物観を踏まえ、本論では植物的なFEP主体を、非典型的・非標準的な主体モデルとして仮設してみようと思います。それによって、典型的・標準的なFEP図式で記述可能なマーラー的主体――すなわち近代主体の危機的・過剰化した形態――に対し、それとは異なる存在様態としてのシベリウス的主体を位置づけることが可能となります。ここで提示されるシベリウス的主体は、誤差最小化を弱く行う主体ではなく、誤差最小化を行為の駆動原理としない主体であり、その点において動物型主体とは構造的に異なる存在様式を示していると考えます。


3. 第一項:ブルックナー――前主体的・力学系的音楽

3.1 主体の不在

ブルックナーの音楽には、マルコフ・ブランケットによって世界から区切られた主体は存在しないと言えるかも知れません。内部/外部の区別、予測、行為といった要素は仮定されず、音楽は世界そのものの運動として立ち現れるかのようです。この点で興味を惹くのはクルトのエネルギー論的なブルックナー解釈です。

3.2 クルトのエネルギー論とテイラーの「多孔質的自己」

エルンスト・クルトのブルックナー論は、音楽を意志や表現ではなく、

  • 緊張場(Spannungsfeld)

  • 力線(Kraftlinien)

  • エネルギー的和声(Energetische Harmonik)

  • 波状形式(Wellenartige Form)

として記述します。この理論は、ブルックナー音楽を主体なき制御を示す力学系として捉える点においては、本論の枠組みと完全に整合します。

その一方でそれはFEP的な枠組みが主としてフォーカスしている能動的推論主体としての個体と環境との相互作用という枠組みではなく、有機体的というよりは物理的な力学系の描像に近接するのかも知れません。

クルトにとってブルックナーの音楽とは緊張の蓄積・保持・遅延、エネルギーが絶えず緊張と解放を繰り返す波動的な発展の場です。つまりそれは目標状態に到達し、不確定性が解消されるというモデルではありません。クルト的ブルックナーは「解決を志向するシステム」ではなく、寧ろ 「緊張を保ち続ける場」としての性格が強いように思います。それ故、クルト的ブルックナーはFEP的な 予測誤差最小化主体として捉えることはミスマッチに感じられます。

同じ理由で、アドルノ的な批判をブルックナーに適用するのもミスマッチに感じられます。何故ならばそれは暗黙のうちに近代市民的主体が成立済であることを前提しているからです。

しかしブルックナーはその生育環境から見ても、オーストリアの田舎に生まれ、修道院で教育を受けて、オルガン奏者として生活しており、世俗的市民文化からある時点までは距離があり、主体のあり方そのものが違う文化圏にありました。ブルックナーは些か時代錯誤的にも、都市的・市民的・啓蒙的主体ではなく、典礼的・共同体的・宇宙論的主体の中で音楽を生きていたとは言えないでしょうか?

それは寧ろ中世的主体の特徴に近接するように思えます。そこでは、

  • 自己は世界から隔絶されていない

  • 神・自然・共同体と連続的

  • 内面は閉じた空間ではない

このことがクルトが聴いたブルックナーの音楽的空間と対応するように思われるのです。

そしてこうした主体の存在様態を考えた時に思い浮かぶのは、チャールズ・テイラーの「多孔質的自己」(porous self)です。テイラーのいう 「多孔質的自己」 は以下のような特徴を持っています。

  • 内面と外界の境界が弱い

  • 力・霊性・超越が侵入可能

  • 近代以前の主体モデル

そしてブルックナーの音楽はまさに、内面から外へ表現するのではなく、外部的な力が通過していく場として鳴っています。音楽は「語る」のではなく「鳴り続ける」のです。

3.3 存在様式の規定

これまでの考察から、ブルックナーの音楽は、以下のように規定されます。

  • 主体:多孔質的

  • モデル:物理的・力学的システム

  • 時間:緊張と解放を繰り返す波動的な発展の場

  • 世界観:前主体的・宇宙論的



4. 第二項:マーラー――主体の裂開と過剰

4.1 主体の成立と危機

マーラーの音楽では、主体は明確に成立しています。しかしそれは統一的ではなく、声・引用・アイロニーによって絶えず分裂し、過剰化するものです。

4.2 境界の問題と形式の唯名論性

マーラーにおいては、主体と世界の境界は維持されています。これはチャールズ・テイラーの自己モデルでは、「緩衝材で覆われた自己」 (buffered self)に相当すると考えられます。(なおここでの「緩衝材」はFEP的にはマルコフ・ブランケットに他なりません。)

しかしながらマーラー的主体の特徴は、それが常に侵食され、暴露される点にあります。この点でマーラーは、近代的主体が最大限に展開された末の危機的形態を示していると考えられます。アドルノが近代的主体への批判力をマーラーの音楽に見出したのは、まさにこの点にあると考えられます。

そのようなマーラーの音楽における主体の存在様式は、自由エネルギー原理でモデル化されるに適切なものと考えられます。マーラーの音楽における主体は、自由エネルギー原理における能動的推論主体が持つとされる以下のような特徴づけを持っています。

  • 境界(マルコフ・ブランケット)を持つ

  • 内部モデルを保持する

  • 世界を不確実性として経験する

  • 行為によって不確実性を低減する

但しそれはしばしば病理的な状態を示すこともあり、また「老化」のシステム論的定義(今井眞一郎による)である「ロバストネスの変移と崩壊」に晒されたものであることには留意する必要がありますし、更にそれは「老いの意識」を持つ主体として自由エネルギー原理でモデル化されるべきですが、これについては既に別のところで試みているので、ここでは指摘に留めさせて頂きます。

さらにアドルノがマーラーの音楽を捉えるべく提示した性格的要素としての「突破」「停滞」「充足」といったカテゴリもまた、自由エネルギー原理に翻訳可能なものと考えられますが、ここでも「崩壊」や「解体」が含まれていることに注意する必要があります。

マーラーが発展的な作曲家であること、常に形式が都度の作品の内容によってボトムアップに、唯名論的な仕方で定まるというアドルノの指摘もまた、上記のような主体の存在様式から導くことができるでしょう。これもラフスケッチに留めますが、大きくは以下のように整理することができるのではないでしょうか?

  1. 初期:境界は声に外在化

  2. 中期:境界を器楽だけで維持しようとする

  3. 後期:その試みが過剰化・破綻する(声の再導入を含むが、初期とは機能が異なる。)

初期交響曲においては、声を侵入させ、声を媒介にすることによってその音楽は、いわば外側から境界を獲得しているとは言えないでしょうか?ここで思い浮かぶのは、彼の歌曲と交響曲の素材の共通性です。つまり明示的に作品に声が導入されていない場合でも、例えば第1交響曲第1楽章第1主題や第3楽章のトリオの部分は声が侵入しています。それが最も雄弁になるのは、第2交響曲第3楽章のスケルツォです。ここを「パドヴァの聖アントニウス」歌曲と切り離して論じるのは困難です。交響曲の歌曲の歌詞を読み込むのは筋違いかも知れませんが、同じ旋律が一方でそのような歌詞を担い、他方では交響曲楽章として機能するという事実は残ります。そしてこのレベルであれば、それは中期や後期の交響曲にも歌曲との素材の共用はあり、えてして人は交響曲に歌曲の歌詞を読み込む誘惑にかられます。

中期の交響曲は純器楽作品ですが、そこで声を媒介にすることなく、「緩衝材で覆われた自己」 (buffered self)が確立すると考えることができるでしょう。アドルノをはじめとする様々な論者が指摘するマーラーの後期様式については、これもまた既に別のところで自由エネルギー原理やカタストロフィー理論を援用しつつ、中期(特にその頂点として、「崩壊の形式化」を実現している第6交響曲)との対比を行いつつ、素描を試みているので、ここでは詳細は割愛します。

4.3 存在様式の規定

これまでの考察から、マーラーの音楽は、以下のように規定されます。

  • 主体:成立しているが不安定

  • モデル:表象的・弁証法的システム

  • 時間:回収と崩壊を繰り返す歴史的時間


5. 第三項:シベリウス――環境内在的主体

5.1 主体の環境化

シベリウスの音楽では、主体は消失するのではなく、環境へと拡散するかのようです。主体は音楽を制御・予測せず、誤差と共存する存在として構成されるように感じられます。

5.2 FEPとの反照的関係

FEPが想定する予測誤差最小化主体は、シベリウス音楽においては不要となっているかのようです。あえて単純化した言い方をしてしまえば、ここでは、主体は生存戦略を持たず、共振的・生態学的存在としてのみ成立していると考えることができるように思えます。

アドルノのシベリウスに対する辛辣な態度は有名で、

  • 形式的必然性を欠く

  • 動機労作が擬似的

  • 神話的自然主義への退行

として断罪しますが、これはアドルノが暗黙に前提している規範をシベリウスが共有していないことに由来するのではないでしょうか。

ここで同じように「木石の音楽」と形容されることが多く、またシベリウスが共感していた事が知られているブルックナーとの対比には興味深いものがあります。アドルノが批判的であった点でも両者は共通していますが、しかし主体の存在様態には違いがあるように感じられます。ブルックナーにおける主体は、中世的であり、テイラーの「多孔質的自己」の定義に適合するように思われますが、シベリウスの場合には、主体は存在するのですが、世界との関わりの様態は、アドルノがそれを以て批判/擁護するようなものではないようです。

主体は表現し、語ることを控え、前面に出ることなく、世界を操作することによって自己を更新するという能動的推論とは異なった世界の受容の仕方をしているように感じられます。また、ブルックナーの周縁性が方言周圏論的な時間的なずれによるものなのに対して、シベリウスの場合、地理的・文化的な周縁性、もっと言えば、そもそもが西欧とは異なる伝統に根差していることに由来しているかも知れないことは留意すべきかも知れません。

シベリウスの音楽における主体の存在様態は、環境内在的主体(ecological subject)と呼ぶことができるものではないでしょうか?。主体が世界の中にありながら、世界をモデル化することなく、世界の変化に感応的に応答するのに応じて、音楽的には動機が発展せず、形式もあたかも環境圧で決まるかのような独特の論理を持ちます。これは FEP 的に言えば、

  • 強い能動的推論を行わない

  • しかし完全な非主体でもない

  • 低エージェンシーの感応系

というように規定できるように思われます。

けれどもシベリウスの音楽における主体の存在様式を、単に「弱い主体」あるいは「低エージェンシーの主体」として理解することは、必ずしも十分ではないように思われます。なぜなら、そこでは主体性の強度が問題なのではなく、主体と世界の関係構造そのものが異なっているからです。この点を明確にするための一つの思考実験として、ここでは植物的存在様態とのアナロジーが示唆的だと考えます。植物は、生存のための境界を持ち、環境に応答し、恒常性を維持しますが、動物的主体のように世界を不確実性として表象し、それを行為によって低減する存在ではありません。植物の応答は予測と選択によってではなく、成長や配置の変化として現れ、環境操作ではなく環境への内在的適応として進行します。同様にシベリウスの音楽においても、主体は出来事を予期し、統御し、回収する位置には立たず、むしろ音楽的環境の中に分散的に埋め込まれた感応的存在として構成されます。ここでの主体は、誤差を解消すべき問題としてではなく、音楽的形態の変化として吸収し、持続させる存在です。この意味でシベリウスの主体は、FEP的主体の量的縮小形ではなく、戦略的行為や最適化を前提としない、構造的に異なる主体性の型として理解されるべきではないかと思うのです。

5.3 存在様式の規定

これまでの考察から、シベリウスの音楽は、以下のように規定されます。

  • 主体:環境内在的

  • モデル:生態学的システム

  • 時間:風景化された非目的論的時間


6. 三項図式のまとめ

作曲家

主体

モデル

音楽的世界

ブルックナー

多孔質

力学系

前主体的宇宙論

マーラー

裂開

表象・弁証法

近代主体の危機

シベリウス

環境内在

生態学

主体後的風景


7. 理論枠組みの射程と限界

7.1 本論の理論的意義の再確認

本論は、交響曲的思考を主体の表現史や様式史としてではなく、音楽的主体の存在様式がいかに構成され、変容し、あるいは成立しえないかを問う理論的枠組みを提示しようと試みたものです。ブルックナー、マーラー、シベリウスの三項図式は、主体の発展段階を示すものではなく、主体の成立条件そのものが異なる三つの音楽的世界を並置するものとして考えられています。この配置によって、交響曲形式が近代的主体を前提としない思考形式としても成立しうることが示唆されます。本章では、この枠組みの射程と限界を簡潔に確認してみたいと思います。

それを確認するためにここでは、三項図式で取り上げていない3人の作曲家、ブラームス、ショスタコーヴィチ、カンチェリを取り上げて、どのように位置づけられるかをごく簡単にではありますが検討してみることにします。

7.2 ブラームス:主体が問題化されない交響曲

ブラームスの音楽は以下のような特徴づけを持つと考えられます。

  • 強固な形式意識

  • 歴史的様式の内在化

  • 動機労作の厳密な因果性

これは主体が世界を把握し、世界を時間的に統御するという意味で、 アドルノが想定した主体図式の中核に収まるように見えます。つまりブラームスは、FEPの脱構築でも前主体的世界でもなく近代主体の高度な安定形と捉えることができそうです。

ブラームスの交響曲においては、主体は形式の内部に安定的に位置づけられており、その成立や崩壊自体が問題化されることはありません。音楽的時間は統合と回収の原理に従って組織され、主体はそれを支える暗黙の前提として機能しています。この意味でブラームスは、近代的主体が疑問に付される以前の交響曲的思考を代表しています。ブラームスは「主体が過剰に自己調整され、問題化されない交響曲」であり、主体が危機にさらされることはありません。

本論の枠組みは、こうした主体の安定を説明するためのものではなく、むしろそれが失効する地点を照射する点にあり、三項はそれぞれ異なる仕方でのFEP的主体の脱構築を示すものと考えられます。

7.3 ショスタコーヴィチ:外部化された主体と交響曲形式

ショスタコーヴィチはしばしばマーラーの後継者として位置づけられ、その作品にもマーラーの作品の影響を指摘されますが、形式や歴史的様式に対する姿勢や意識の面ではマーラーとはやや異なっており、既に述べたブラームスに近い側面も窺えます。彼は古い形式を「空の器」として再利用します。その点だけとればマーラーも同じに見えますが、マーラーとは異なって、都度形式を換骨奪胎するというよりは、(マーラーの作品自体をもその一部として)歴史的所与としての形式を壊すことなくいわば「借用」「引用」する姿勢で一貫しており、それは後期作品についても当て嵌まりるどころか、寧ろその姿勢が徹底されているようにも見えます。

またショスタコーヴィチの交響曲において主体は強く前景化されますが、それは音楽形式の内在的力学というより、歴史的・社会的意味作用によって規定されています。主体は裂開やアイロニーを通じて表現されるが、その不安定性は主として外部条件に由来したものです。

表現主体は極端に前景化されますが、それは社会的・歴史的・楽式論的・記号論的 な圧力のもとにあるものとして、外部条件として前提されています。この点でショスタコーヴィチの主体は、本論が扱う「形式内部で生成・変容する主体」とは異なる次元に属していると言えるでしょう。したがって彼の交響曲もまた、本論の枠組みによって直接分析される対象ではなく、その適用限界を示す対照例として位置づけられると考えるのが適当ではないでしょうか。

7.4 カンチェリ:主体なき持続と祈りの並置

カンチェリの音楽は、主体の成立や変容という問題設定そのものを空洞化する地点に位置していると言えるでしょう。そこでは交響曲的時間は持続しますが、力学的展開や主体的統合はほとんど停止しています。その音楽は主体なき暴力的な持続のブロックと、それと非連続に交替するモノディ的でこちらもまた展開することなく繰り返される祈りのパートからなります。世界と主体の間には対話は存在しません。世界も生成・発展することなく廃墟のような相貌を示す一方で、主体は世界に対して能動的推論によって関係することなく、寧ろ世界の外部に向かって祈ることによって、かろうじて世界の中に踏みとどまり、自己を存続させることができているかのようです。ここではFEP的な図式は停止してしまっているように思われます。

このためカンチェリは、本論の三項図式を拡張する第四の分析対象というよりも、理論枠組みが限界に達する地点を示し、本論の枠組みの輪郭を逆照射する「影」として導入されるべき位置づけを持っていると見做すのが適当ではないでしょうか?

7.5 結語――音楽的主体の存在様式をめぐって

本論では、交響曲的思考における音楽的主体を、心理的・表現的存在としてではなく、時間・形式・力学の中で仮定される存在様式として再定義することを試みてきました。ブルックナー、マーラー、シベリウスという三項は、主体の発展段階を示すものではなく、主体が成立しうる条件そのものが質的に異なる音楽的世界を指し示しています。改めて整理をすると、それぞれは以下のように特徴づけられます。

ブルックナー
→ FEP的主体モデルが前提とする境界と推論が成立しない
→ 境界もモデルも仮定されない前主体的力学系

マーラー
→ 動物型FEP主体が最大限に展開され、裂開する地点

シベリウス
→ 動物型主体とは異なる、植物型主体の音楽的構成


この非連続的配置によって、音楽史を近代的主体の自己展開として理解する図式は相対化され、主体の不在、裂開、環境化といった複数の存在様式が同時的に可視化されます。
また、FEPは説明理論としてではなく、主体概念の限界を照らし出す反照的枠組みとして用いられ、特定の音楽がその射程内に収まらないこと自体が、理論的に意味を持つことが示されたと考えます。
更にカンチェリを「影」として配置することで、本枠組みは自己完結するのではなく、交響曲的思考そのものが歴史的に消耗し、希薄化していく地平をも示唆するのではないでしょうか。