お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2019年7月6日土曜日

第10交響曲への言及1件(アルフ・ガブリエルソン「強烈な音楽経験による情動」)

 P.N.ジュスリン・J.A.スロボダ編『音楽と感情の心理学』(Patrik N. Juslin & John Sloboda (eds.) "Music and emotion : Theory and research", Oxford University Press, 2001, 監訳:大串健吾、星野悦子、山田真司, 誠信書房, 2008)の第12章に所収の論文、アルフ・ガブリエルソン「強烈な音楽経験による情動」はSEM(Strong Experiences of Music)プロジェクトの報告であるが、この中では、マーラーの第10交響曲が事例として複数回登場する。

 第4節「SEMの情動的な側面」では、激しい情動・快の情動・不快の情動・情動の混合/情動の拮抗の4つに分類され、それぞれについて事例が示されているが、その中の、不快の情動の中で1回、情動の混合/情動の拮抗で1回。マーラーの中では第10交響曲だけが取り上げられ、不快の情動の事例での具体的な作品として、他には「春の祭典」や「フィンランディア」が取り上げられるだけ、情動の混合/情動の拮抗での具体例は、第10交響曲のみで占められている。更に後続する「影響を与える要因」の節で、今度はガブリエルソンの分析の対象となり、クック版の第1楽章200小節以降の、あの有名な和音の箇所の譜例まで示されており、譜例はこれのみだから、些か特別な扱いを受けている感じがある。

 ここではSEM自体についての議論とか、事例自体についてのコメントは一旦、一切控えて、まずは参照されている箇所を以下に引用することにする。(引用は上記の邦訳のままとし、不適切と思われる部分もあえて訂正していない。例えば3.に出てくる「ストッパー」は「音栓」(ストップ)のことで、要するに言いたいのはvolles Werkのことだろうし、4.の曲頭のヴァイオリンのソロは、ヴィオラのパートソロの誤りであろう。またフィナーレ冒頭のバスドラムに関する訳文は意味不明であって、作品を知っていて訳したとは到底思えない。)

3.不快の情動
 次にわずかであるが、非常に不快なSEM事例について述べる。
(中略)
マーラーの『第10交響曲』の和音に関して報告した事例
 ―最愛の近親者を失った直後、この音楽を聞いた男性。
(E6)でも、そこにあった。それまで経験したことがないような、心を引き裂くような、幽霊が出てくるような和音。単音が…オーケストラの無数の楽器によって、付け加えられた。無作為にオルガンのストッパーを引き抜いたような、巨大なオルガン音に似ている。不協和音が脊髄を貫いた。弟と私は同じように反応した。二人とも、原初的で、たぶん有史以来の恐怖でこわばってしまった。一言も口がきけなかった。二人とも、大きな黒い窓に、家の外から私たちを見つめる、死神の顔を見たような気がした。
 これらの事例にみられる不快な情動は、主に音楽によって引き起こされているが、ほかの事例では不快な経験は、さまざまな個人的あるいは状況的な要因と関連付けられる。
(後略)
4.情動の混合/情動の拮抗
 これまでに述べてきたカテゴリーは、快あるいは不快の情動が主となる事例であったが、情動が交錯してあらわれる、聞いているうちに情動が変わる、正反対の方向へ変わる、両方の情動が拮抗するといった事例も多く報告されている。
(中略)
 グスタフ・マーラーの音楽に魅了され、相反する情動が貫くのを感じたという事例が、若い女性によって報告されている。彼女は、マーラーの未完作品、『第10交響曲』の補筆版による演奏に同席した。
(E14)恐怖のなかで待っていた。休憩時間の後、何が起こるのだろうと待っていた…。私はおびえていた。事実、ずっと前から、家や地下鉄の中でおびえていた。失望を恐れていた。この作品が、絶望を引き起こすのではないか、こうなるはずと思っている新しい音楽にならないのではないかと、とても恐れていた…。休憩時間は終わりに近づいた…。私はかつてない期待でいっぱいになった。指揮者が登場した。静寂。指揮者は指揮棒を振り上げ、ヴァイオリンのソロの部分が始まった。この単々とした数小節の奇妙な不可解な旋律のあと、嘘のように太陽が上った。オーケストラは魅惑的な苦しみを伴う激情のなかへ、不意に突入していった。私は、流れる涙を覚えている。私は、まるであの時から今へ、マーラーから私たちへと伝わったメッセージを、理解したように思った。私は、ひじかけをつかんだまま、石と化したように座っていた。しばらくして、めまいを感じた。そして、息をするのを忘れていたことに気づいた…。第一楽章の終わりで、オーケストラは、一丸となって巨大なオルガンのような音で、―苦痛の叫びと恐怖を奏でた。しばらく続いたピアニッシモのあとに、衝撃がやってきた。死への恐怖を引き起こすようなすさまじさに圧倒された。私は汗びっしょりになって息をするのが困難になった。私の人生でただ一度、何がでひどく、強く地面に叩きつけられたようだった。集中していないと知らない間にすり抜けていく思いは、完全にふきとばされた。最終楽章は、大きなバスドラムに対抗する大太鼓の11拍打で始まった。この効果は絶大である。弦楽器に続いてフルートが消え入りそうに旋律を奏するが、突然、大太鼓のビートによってさえぎられる。私は完全に驚嘆した。ビートが打たれるたびに、恐怖でいっぱいになった。楽器が音を奏でるごとに、よくわからないが、大太鼓の音を予想し、嘆いた。ここでもまた、私は、自分がメッセージの受信者であることを感じた…。私は一つの音をも聞き逃さないようにした…。強く、そして直接的に話しかけられているという感覚は、私のなかに息づいていた。恐らくこれは、私がこの作品が未完であること、飾りがなく、むきだしで、―つまり、死の恐怖と闇へのあこがれの間で、揺れ動いている無防備な作品であることを知っているからだろう。
 オーケストラが静かになったあと、しばらく聴衆は座ったままだった…。私と同じように多くの人が、魂の存在に気づき、だからこそ歓喜を感じたのだと思う。拍手と歓声が湧き起こった。それは鳴りやまなかった。作品を貫いていたものは、厳格さと驚愕であり、衝撃ですらあり、しかし同時に偉大な至福であり、―この体験ができたという誇りですらあった。私は、無重力状態でふらふらと家に帰った。私は、一人でコンサートに行ってよかったと思った。すべての言葉が不必要に思え、私自身の言葉ですら不必要かもしれない。この思いを言葉で説明することはできない。
(中略)
6.影響を与える要因
 SEMに影響を与える要因として、音楽的、個人的、状況的要因が考えられる。以下、例をあげながらまとめる。
音楽的な要因
(中略)
E6では、マーラーの『第10交響曲』の「心を引き裂くような、幽霊が出てくるような」和音が、恐怖反応を引き起こした。恐らく、E14の「オーケストラが一丸となって、巨大なオルガンのような音―苦痛の叫びと恐怖―を出した」と同じ和音が、聞き手の衝撃の原因となっている。この和音の楽譜(図12-1:この引用では略するが、クック版の第1楽章200小節以降)から、オーケストラの全パートにおいて、フォルティッシモの和音が、不協和知覚を引き起こす(主に)短三度音程の積み重ねで奏でられていることがわかる。音楽自体には、聞き手にこうした爆発を期待させるような先行部分は、ほとんど何もない。したがって、この和音は、強い不快情動の指標として働いており、併せて期待を刺激している。つまり情動の喚起であり象徴である。同じ和音は、この交響曲の最終楽章(275~283小節)で、再び手の込んだ形で使われている。私の知りうる限り、こうした複雑な和音はそれ以前には見当たらないものであり、無調音楽が作曲され始めた1910年ごろに、ウィーンで、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクらによって使われている。E14の聞き手は、この交響曲の最終楽章の冒頭部分についても「大きなバスドラムに対抗した巨大な大太鼓」のビートがほがの楽器をさえぎり、恐怖を引き起こしたと述べている。
(後略)
(pp.356~364)


 繰り返しになるが、上記の事例の記述内容や、この論文の著者の分析の当否についてのコメントは差し控えたい。心理学研究の事例の中で、マーラーの音楽が、就中、第10交響曲がどのように扱われているのかのサンプルを示すこと自体に意義があると考えたい。情動の極めて大まかな分類、クック版の全楽章が対象でありながら、有名なあの和音にだけ言及して、その情動の類型の片方との対応付けを論じているに過ぎないことなど、マーラーに対するミクロロギー的な立場からすれば、あまりの肌理の粗さに驚きを禁じ得ないが、形式的な分析か、印象批評かのいずれかでしかなかった音楽に対する言説が、演奏会において演奏される作品と聴き手の間に生じる複雑な相互作用を解明する第一歩として、聞き手の情動にフォーカスしたことの証言というように捉えるべきなのかも知れない。寧ろそこで、未だに、そこで起きている出来事を語る適切な語彙を我々は持っていないということに気付くべきなのではなかろうか。とりわけても第10交響曲のような、「二分心」の崩壊後、自伝的意識を持つようになった人間が創造した、最も複雑な作品の一つ、或る種の限界、ないし行き止まりかも知れないような作品を語る準備は、まだ整っていないのではなかろうか、と。

 シェーンベルクは第10交響曲について、(正確な訳ではないが)まだ我々の側がそれを聞く準備ができていない、といったことを述べていたかと思う。勿論それは実証のレベルでは、第10交響曲の草稿が、クックが補完する以前の状態であり、その全貌をシェーンベルク自身も知らなかったことの反映といった面もあったであろう。しかし私は寧ろ、第9交響曲と第10交響曲との間の「亀裂」をシェーンベルクが指摘したと考えたいように思うのである。(ちなみにシェーンベルクは、アルマがジャック・ディーサーを介して第10交響曲の補筆完成を持ちかけた何人かの作曲家の一人であった。だが上記のような発言をするような彼がその仕事を引き受ける筈はなく、同じくジャック・ディーサーに話を持ちかけられたショスタコーヴィチ同様、断っている。)そしてあえて我が事として引き寄せれば、私はこの曲を、マーラーの(未完成なので「ありえたかもしれない」と言わざるを得なくとも)全作品の頂点に立つものと考えている一方で、自分にこの曲を聴く「資格」があるのか?私はそれを十二分に受け止められているのか、という疑念に常に囚われてしまうが故に、シェーンベルクの言葉は万鈞の重みを持つものと感じられる。

 かつて私が個人的にこの曲(私は常にクックが補完した5楽章版を念頭に置いているが)を聴いて連想したのは、ヘルダーリンの最後期の詩編、いわゆるスカルダネリ詩編と同時期に書かれた、でもそれらとは違った音調を備えた断片、Wenn aus der Ferne... であった。そこでの「遠く」は、人間が生きたまま到達できるとは到底思えない場所、ヘルダーリンがあの状態で垣間見た「場所」であり、まさに第10交響曲は、そのような場所で鳴り響いている、そのような「場所」を垣間見せてくれる音楽であると思う。そしてもう出会って40年になるけれど、その認識は変わらないようだ。

 一方でその「場所」とは、三輪眞弘さんが「音楽」の定義で示されている「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありか」でもないかと思っている。アプローチの仕方は時代に応じて一見全く異なるけれど、私には、それは同じものなのではないか、そしてそれは自伝的意識を持つ「人間」の、同じエポックにいるが故ではないか、と思えるのである。マーラーの「うたう」ことへの執着を、三輪さんの(やはり見かけはまったく異なる)「うたう」ことへの執着に重ね合わせてしまうのだ。

 今日の展望からすれば、例えば第10交響曲の補筆をAIにやらせたらどうなるのか、というような問いを立てることができるだろう。かつてスタニスワフ・レムは「ビット文学の歴史」において、ドストエフスキーの翻訳をしていたコンピュータが、空き時間を使って、「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」の間を埋める「ありえたかも知れない」作品を産み出すといった状況を提示してみせた。加えて、カフカの「城」の未完成部分の補完には失敗したという「オチ」さえ用意しているのだが、それらに比べれば、ほぼ完成した第1楽章があって、その他の楽章も粗密はあっても水平的には最後までドラフトが遺された作品の補完作業は遥かに可能性が高そうに見えるかも知れない。おまけに今なら、クック以外にも存在し、かつますます増え続けているかに見える様々な補完のヴァリアントを機械学習の素材とできるわけである。既に機械学習技術が、バッハのコラールもどきを人間を騙せる程度にまで自動生成できるのであれば、遥かに長大で複雑な作品であっても、様々な補完作業の良いとこ取りなら技術的に不可能とは言えないだろう。完成された部分は遥かに多くても、フィナーレのコーダが全く欠落し、かつフィナーレのための試行錯誤に費やされた余りに長い時間故に、先行する3楽章との間に様式のギャップが生じてしまっているかに見えるブルックナーの第9交響曲に比べても、有利な条件は揃っていそうではないか。

 だが、現状の機械学習の能力を前提にする限り、その試みは大して興味の持てる結果をもたらさないであろうことは、予め決まっているのだ。それは、最大限に成功して、極めて巧妙な折衷に過ぎないのだ。もしかしたら、過去のマーラーの作品の側により引き摺られた結果が得られる可能性はあるだろうが、マーラーその人が切り開きつつあった「未来」の方向に踏み出した結果が得られることは、原理的に言ってあり得ない。マーラー以降の様々な傑作をサンプルとして与えたところで、それはマーラーの「ありえたかも知れない未来」とは無縁のものであり続けるのは明らかなことだ。古典派以前の、作曲家が音楽職人であり、消費財としての作品を、固定化されたパターンを再利用して、コピーするようにして生産する時代であれば事情は異なるだろうが、(今は価値の優劣は一先ず措くとして)マーラーのように一作、一作毎に発展し続けた作曲家においては最後の作品が目指していた「未来」が含み持つ、未聞の「新しさ」の理解抜きに補筆はあり得ない。そして「新しさ」と「例外」の区別は、つまるところ創造性は、少なくともシンギュラリティの手前の現時点では未だに「人間」のものであるようだ。レムの「ゴーレムXIV」におけるゴーレムやオネスト・アニーの「旅立ち」は未だ暫らく先のことだし、有性生殖と有限の寿命といった生物学的な拘束条件を持たない彼らにとっては、そもそも第10交響曲の「遠く」など全く無縁のものだろう。

 以前に記したマーラーのMIDI化状況を報告した記事を読んで下さったある方から、記事へのコメントとして教えて頂いたのだが、今やヴォーカロイドがマーラーの歌曲を歌う時代となっている。私は2016年の年頭に書いた記事で、以下のように記したのであった。
「(…)しかしながら、こと Mahlerに関してMDI化にあたっての最大のネックは、「声」ではなかろうか。今日であらば初音ミクのようなヴォーカロイドに歌わせることは当然、技術的には可能なのであろうが、調べた範囲では、歌詞を歌わせたMIDIファイルは一つもなく、いずれも歌詞パートをある音色をあてて鳴らしているだけに留まっている。この状況は日本だけではなく 外国語の歌詞に対する距離感が違う筈の海外においても同じなのだが、主として技術的制約故であることを思えば、当然のことかも知れない。もっとも、網羅的に調べたわけではないので、どこかでヴォーカロイドに歌わせた例がある可能性は十分にある。しかし総じて言えば、「鳴らして聴く」目的のMIDI化にしても、Mahlerが優れて人間の声の、歌の作曲家であるが故に、まだ途上にあると言うべきなのかも知れない。(…)」
コメントを頂いたのは2019年の1月だから、3年が経過したことになるのだが、ご教示頂いた「ニコニコ動画」の以下のページを確認すると、既に角笛歌曲の幾つかとリュッケルト歌曲集の全て、大地の歌の全曲が存在している。しかも公開時期を確認すると、早いものは2009年にまで遡るようだから、要するに単に上記の記事の時点で私が知らなかっただけに過ぎないことが確認できるのである。(ご教示頂いた方には、この場を借りて遅ればせながら御礼を申し上げたい。)

https://www.nicovideo.jp/tag/VOCALOID+%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC?sort=h&order=d

 にも関わらず、そうしたヴォーカロイドによる歌唱の存在も含めて、依然として「うたう」ことも「音楽」も、いずれも「人間」のものであり続けている状況には変化はないし、これからも(シンギュラリティが私が生きている間には到来しないと思っているし、そもそも定義上、「私」がシンギュラリティの向こう側では最早存在しないことを思えば、少なくとも「私」にとっては)ないし、ヴォーカロイドが「うたう」の主体の位置に来ることもまたない。100年前の異郷から投壜された手紙の受取人は「私」でしかあり得ないし、それに応答するのもまた「私」の他にはないのだ。いつしか、シンギュラリティの向こう側の、「人のきえさり」の後の海岸で、誰にも拾われることのない壜の中に封じ込められたトーテムのような音楽機械がかつて発した音響が、かつて「音楽」と呼ばれたものの痕跡、「うた」の化石であったことを知る存在もなく、打ち寄せては返す波に洗われ続ける時が来るとしても。(2019.7.7確定稿)





続・マーラーにおける「うたう」ことについて:ある音楽学者への手紙より

(…)

私が「うたう」ことを持ち出した、その拘りの由縁をもう少し書かせて頂きたく思います。主旨としては「うたう」ことの回帰は、「器楽の歌化」なのか?個別には少しずつ異なるのではないか?というような気がするということになるかと思います。

マーラーについては、今回は簡単にします。端的に、彼の場合には人「も」歌うことに目くばせをしたいと思います。しかも、天使と争うヤコブも、悔恨の涙を流すペテロも、女声がうたう。「大地の歌」には、アルトとバリトンの選択肢が用意されていますが、一般にアルトが好まれるのは、コントラストのためだけではなく、「誰」が歌うのかについてのマーラーにおける或る種の異化作用とでも言うべきものに、そちらの方が合致しているからだと思います。バリトンの歌唱での優れた演奏記録が存在することを少しも否定する気はないけれど、バリトンでやれば、それはアウトサイダーとしての、「非人間」への、外への歩みの契機を一つ手放すことになるのでは、と思います。

これもまたアドルノが言っていますが、マーラーはドイツリートの系譜に属していない(新ウィーン楽派の方が正統的)し、バルトーク、ヤナーチェクの土着性・民俗性に対して、マーラーの民謡は紛い物(「魔法の角笛」自体が紛い物に加えて、3重の疎外を抱えたさまよえるユダヤ人が取り上げるのは、ナショナリズム的な観点からは何とも不当な越権行為に見えたであろうことは、「独創性の欠如」「カペルマイスタームジーク」「文化の簒奪者」というレッテルから窺い知ることができると思います。)これまたアドルノの「仮晶」で言い当てられていますが「中国」は初めから紛い物でした。ベトゲの詩も悪名高い紛い物nachdichtungだが、マーラーも、そういう意味でnachkomponierenではないかという見立ても成り立つでしょう。でも、そもそもマーラーの作曲は、第3交響曲でも「大地の歌」でも、否、全作品において一貫して、カペルマイスターの日曜仕事、ブリコラージュではなかったでしょうか?第3交響曲の作曲の折のあの有名な発言は、まさにブリコラージュの証言そのものであるように思えます。nachkomponierenの価値はかくして転倒するように思えます。あえてアドルノに引き付けるならば、それは彼が「唯名論的」と呼ぶ行き方に外ならないのではないでしょうか?

このように、マーラーにおいて「うたう」は何重もの屈折を帯びます。だけれども、その行く先は、人声と器楽ということに拘った例示ということであれば、「大地の歌」の「告別」のあのフルートとアルトのレシタティーヴォのように、別の例ならば、第9交響曲のアダージョの対比群の、あの大きく乖離した二声の対位法のように、「人間」と「自然」といった対立を解消してしまって、シェーンベルクの「非人称」へと赴くといったものではなかったかと思えてなりません。「Esがうたう」は、確かにマーラーにおいて真だと思いますが、そのEsは一体何でしょうか?それはフロイトの心的装置論の構成要素という限定を超えて、さりとて集団的無意識のような、暗黙裡に「人間」概念が忍び込んでいるようなものでもない。互盛央さんに『エスの系譜』という優れた思想史の著作があって、そこではマーラーが愛読したらしい、ショーペンハウアーの「意志」も、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無意識の哲学」も登場しますが、そこで扱われているようなものではなく、寧ろ、今日の展望に立てば、通常は環境とか外部と呼ばれるものへの生態学的な、行為・実践的な関与の様相(ギブソンのアフォーダンスを思い浮かべています)に近接するものではないか、マーラーにおいての「うたう」ことは、そういう意味において人と器楽を区別しない、だが他方で「うたう」ことが「人間」の条件である限りにおいて、人間によって演奏されるものであるとは言えまいかというように考えます。

私見では、寧ろEsの概念の方を改訂・更新する必要があるのではないかと思います。そのために、一先ずはEsを自然化する必要があるように思うのです。脳神経科学的説明でもいい、最近、構成主義的な認知ロボティックスで試みられているようなアフォーダンスの構造のカオス理論によるモデル化でもいい。そこまで科学的な記述に行かないまでも、例えば「二分心」とその崩壊による意識の発生の仮説を科学的な知見で裏付けることによって、Esとは何かを語りなおす必要があると考えます。

これは藤井貞和さんの『古日本文学発生論』のような文学の起源、生成の過程に関する卓越した成果と突き合わせる必要があると思うのですが、「うたう」ことにbeschwörenを突き合わせると、リズムの周期的な反復の呪術的効果が視界に入ってきます。そして、反復を嫌うマーラー、或いはシューマン以降のロマン派のDurchkomponierte Formに対して、Strophen Form、韻律といったものの対立が浮かび上がります。そういう意味では、マーラーの「うたう」はリズムの周期的な反復という狭い意味合いでのbeschwörenからは遠ざかるように見える。にも関わらず、「うたう」ことは放棄されていないし、beschwörenは存続しているように見える。それは一体どういうことなのか?ジュリアン・ジェインズの「二分心」の仮説を踏まえるならば、「二分心」に遡る古い層(ヘルダリンにおいては、晩年のスカルダネリ詩篇群に相当)と、「二分心」崩壊後の、「隠れたる神」の時代の「意識」の新しい層(ヘルダリンであれば、後期のあの空前にして絶後の自由律の讃歌群に相当)を考えるべきなのか、といった話にも繋がってくるかと思います。そしてそれは、レヴィ=ストロースにおいては双分制と三分観の問題として取り上げられていることとの関わりにおいて考えてみるべきかとも思っています。

(…)

ところで、自殺を思い止まるきっかけ、精神的ショックのあの麻痺状態から脱出するきっかけ、といった文脈では、単なる偶然かも知れませんが、不思議とブラームスの、しかも声楽曲が出てくるように思います。私自身、東日本大震災の際、親しくしていた知人が被災された後にお会いした折、お見舞いというわけでもなかったのですが、シュタイン指揮バンベルク交響楽団の交響曲全集のCDを差し上げた際の経験があります。ブラームス自身は旋律が書けないと悩んでいて、ドヴォルザークやヨハン・シュトラウスを羨ましがったらしいことを思えば、ブラームスの「うた」は、これもまた一つの大きな謎に見えます。

東日本大震災以来、「ヒーリング・ミュージック」が世間を席巻し、「がんばろう日本」ともども、そうした現象に対する高所からの、冷静で怜悧な批判が為されてきたことを知らないではありませんが、一見すると音楽を自己治療の道具としている点では同じに見える上記の2つのケースは、本当に分離不可能なのか?

正直に言えば、私が音楽なしにやっていけないのには、明らかに自己治癒的な使い方をしている側面があるのは否定できず、アドルノの聴取の類型論でなら、寧ろ批難されるタイプの聴き手であることを白状せざるを得ません。でも、マーラーの場合、作曲が自己治癒であり、特に「大地の歌」が「喪」の状態からの脱出のドキュメントであることは寧ろ事実に属するものだし、アドルノに抗して開き直ってみたい気持ちも正直ありますが(苦笑)。

その当時、レクイエムの不可能性の認識にたって三輪眞弘さんがLux aeternaを作曲され、その初演に立ち会って、その辺りのことはその感想に記しましたし、ここでは繰り返しませんが、「がんばれ」という言葉に対して、それを控えるべきだとの正論を書かれた文章に、私は心底反撥したのでした。被害に直面して、でもとにかく何とかしなくてはならなかった、頑張った(いや過去形で書くのはおかしい、まだ続いているし、終わる見通しは立っていないのですから)人達がいたことを訴えたかったのです。「がんばれ」はやめようという主張には理論的にも裏付けがあるようだし、実際頑張れと言われて折れてしまう人だっていたでしょう。が、現実に、復旧に携わられた「現場」で、それこそブリコラージュの繰り返しによって日々格闘された方々の思いは別だと訴えたかったのでした。それが高所から見てどのように批判的に扱われようと、そうした行為なしには現実は立ち行かない訳ですし。

ちなみに私の場合、東日本大震災直後の麻痺状態からの脱出は、或る日の朝、出勤の時にオフィスの近くを歩いていた時に、頭の中に突然流れ出した、マーラーの第9交響曲の第1楽章、場所は練習番号8番の10小節手前、Noch etwas zögernd, allmählich übergehen zu ... Tempo I の部分でした。もっと正確には、更にその5小節前あたり、ホルンのシグナルが途切れて、ヴィオラに導かれてヴァイオリンが入ってくるところ以降、バーンスタインがスル・ポンティチェロで弾かせることで有名な部分です。(最初に聴いたのが、あの伝説的なベルリン・フィルライブのFM放送で、これが長らく唯一の音源だったのに、私の頭の中では、スル・ポンティチェロでは鳴りませんが。)

これは先生がお書きになられた、マーラーの後期作品にも残っているBildungsroman的な契機と関わりがあると思います。それはヘーゲル的な「世の成り行き」への回帰だったのでしょうか?第9交響曲は非常に遠心的な構造を持っていて、第1楽章を取り囲むように残りの3楽章が配置され、中間楽章では明らかに「世の成り行き」が回帰して、だから私はしばしば第1楽章で聴くのを止めてしまう程なのですが、近年多くの方が、その第1楽章こそ、例えばその主題を取り上げて、甘ったるくて懐旧的、感傷的であるという言い方をされるようです。

確かにそうかも知れません。でも、それならそれで、寧ろ私はそこにこそ「うたう」ことへの回帰を見てとりたい気持ちがあるのです。「大地の歌」が「喪」からの回復過程のドキュメントである限りで、観方によってはそれもまたヘーゲル的な「世の成り行き」への回帰なのかも知れません。だけど、回帰するとき、もはや「うた」は同じじゃなく、元と同じようには「うた」えないのではないでしょうか?それでも回帰する「うた」がマーラーの「うた」ではないでしょうか?この件の最初の手紙で私が記したマーラーの「うた」の様々な特徴は、「うた」の不可能性の中での「うた」の回帰という状況に構造的に見合ったものに思えます。

(…)

(2019.7.6)