お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2013年3月3日日曜日

『狂気の西洋音楽史』におけるマーラーに関する言及について

椎名亮輔さんの『狂気の西洋音楽史』(岩波書店, 2010)の第4章「「シュレーバーの音楽」の 始まりと終り」の中ではマーラーはその「終わり」に位置づけられるものとして取り上げられている。 「ニ-1.伝達不全の狂気-マーラー」と題された節がそれにあたる。

椎名亮輔さんについてはフランスで書かれた博士論文の翻訳であるらしい 『音楽的時間の変容』(現代思潮新社, 2005)を過去に読んだことがあり、 音楽的時間に関する考え方のごく基本的な立場については共感できる ものの、具体的な内容については私にとっては疑問だらけで、特にそこにおけるマーラーのような 音楽の時間と、例えばケージに代表される音楽における時間の性格づけと対比について、 強い違和感を感じたことを思い出す。

『狂気の西洋音楽史』は中沢新一さんの慫慂で書かれたとのことであり、ナイマンの実験音楽に ついての著作の翻訳者でもあり、だとすれば私が持続的な関心を抱いていて、かつその関心の あり方を記録にとどめることにしているほぼ唯一の同時代の試みである三輪眞弘さんの 問題意識と決して無縁なわけでもない。

『狂気の西洋音楽史』という本は2010年11月に出ていたようだが、2012年の7月くらいまで それに気付かなかった。そしてその後未曾有の震災を経験し、それから1年余りが経過した、 すっかり風景が変わった世界の中でそれを紐解いたということが与っている可能性もあるが、 一通り読んで、前回同様の強い違和感を感じずにいられなかったのみならず、震災後の 風景の中でマーラーその人とその音楽が自分の周囲の風景の中に占める位置に照らしたときに、 その違和感の在り処をつきとめ、ささやかな異議申し立てをしたい気持ちを抑えることができなくなっている。 今度はマーラーが主題的に扱われていることもあり、その扱い方もさることながら、 その議論の組み立てについても、違和感の連続だったのである。

残念ながら専門の学者でもない人間が、学術的な研究に対してきちんとした 批判を企てるのは、能力的にも無理だし、また時間の余裕がないまま今日に至っている。 そもそも椎名さんの主張の妥当性や学術的な意義についての判断は私の如き市井の 音楽愛好家の能くするところではないので控えるべきなのであろうが、 それでもなお、ことマーラーに関する限り、私にとってはどうでもいいことではないのは確かなことで、 能力と時間の不足で、きちんとした反論が出来ないことを遺憾とする。そしてその上でなお、 それが異議申し立ての体をなさないとしても、違和感を感じたことをこのように証言せずには いられないのである。

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まず、『音楽的時間の変容』における違和感について触れておきたい。というのも、そこでの 時間論的分析は椎名さん自身も後書きで述べているように、今回の著作におけるマーラーに 対するアプローチと無縁ではなく、前著ではマーラーが名指しされることはないとはいえ、 マーラーを含む音楽、つまり今回の著作では「シュレーバーの音楽」として括られている音楽の 持つ時間性が問題となっているからである。

実はマーラーの音楽の時間性を扱った分析に関する違和感は椎名さんのそれに対してだけではない。 David Greeneというアメリカの音楽学者(彼は宗教哲学の素養があるようだが)が書いたマーラーについてのモノグラフ (こちらは管見では邦訳は存在しないが、そのかわりベートーヴェンについて、同様のアプローチをしたモノグラフの 翻訳があるようだ)についてもそうなのだが、私には、それらがいわば「哲学」の濫用に感じられる。

私は実験音楽のラディカルさに共感する部分も多いし、 そこで得られたものを否定するつもりはないけれど、椎名さんの実験音楽の時間性の把握と それを賞揚する論理は、私には理解できない部分が多々ある。文献の参照も豊富であり、 大筋の論理は寧ろ明快というべきなのだろうが、論理の一貫性の問題というよりは、 具体的な音楽の、ここでは「時間性」を扱う手つきのデリカシーの無さのようなものが気になるの かも知れない。

色々な時間論が参照されるけれど、(一応、哲学の専門教育を受け、特にエマニュエル・レヴィナスを中心とした 現象学、およびホワイトヘッドのプロセス哲学における時間論については自分の研究領域としていた こともある私の認識では)それらについての理解もひどく図式的だし、何より「音楽的時間」を分析することが、 寧ろそれらの時間論の肌理の粗さを示すことにすらなりえる筈なのに、逆にそうした肌理の粗い図式的な理解で 「音楽的時間」を整理するのは対象となる音楽を分析のベッドの長さに合わせて切断する暴力を伴っているように 感じられる。勿論それは理論的分析にはついてまわるものであるから、所詮は程度の問題であり、 私がないものねだりをしているのかも知れないが、私にとっては決定的な何かが、この分析には 欠けているという焦燥感にも似た感覚に囚われるのは避けがたい。

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Greeneの主張とは異なって、マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、 それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。 (例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。) 音楽の研究者が「日常の時間」というとき、物象化された時間表象にあまりにとらわれすぎていて、現象学が見出した 領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との区別は必要で、後者は自明でない。 少なくともGreeneが頻繁に参照するSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことにあるのだし、その不自明性はいわゆる存在論的な構造に起因するのだから。

椎名さんの分析も同様のものに私には見える。何も現象学的還元を持ち出す必要などなく、音楽的経験の時間は日常的なそれと 異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については、Greeneの transfiguredという性格づけが疑わしく、 その妥当性に対して慎重であるべきであるのと同様に、慎重であるべきだ。

勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに(椎名さんは真木悠介、 木村敏、九鬼そして道元などを参照している)様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に貢献するとは思えない。 Greeneにせよ、椎名さんにせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために利用しているのでは、 という疑いを否定することは困難だ。 日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は一体どういった扱いを受けるのか、 日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることが あたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。 そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な 時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた表象であることだ。それは文化依存ですらありえて、ジュリアン・ジェインズの 二院制の心の説の背景をなす仮説によれば、意識そのものの構造の可塑性・文化依存性との相関物であるかも知れないのであって、 控えめにいっても、スティグレールのいう第3次過去把持の水準に結び付けられるものなのだ。 だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。

もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険である。 これは「時間性」を扱うといったときに用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析をとりあげれば、 一次元しかなく、しかもメトリクスすら定義されない離散的な粗雑な対立、それも2つの極を持つのではなく、ある質の有無でしかないような 装置でマーラーのような複雑な時間性を持つ音楽を分析すれば、分析図式の貧困が対象を破壊するのは避け難い。

一方で椎名さんの方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っているロマン主義の音楽、 例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉ひとつで片付けてしまうのは、些か不当で粗暴に感じられる。意地悪な見方をすれば、 実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ) より単純で分析しやすく、 それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。「実験」は現実の複雑さを捨象した モデルを作り、理論を構築したり、検証したりするために行うのである。一方で、実験室の外の現実の現象(例えば、スーパーコンピュータを 用いても一定の精度の解析・予測しかできない気象を例をして考えてみたらよい)の複雑さは、それを理論的に記述することが遥かに 困難なものなのだ。とりわけて、ベートーヴェンの後期も含め、マーラーのような後期ロマン派の音楽は、単純な目的論的図式に収まらないことこそ、 その音楽の特徴であろうというのに、ロマン主義=目的論的で片付けるのは、まるで天気の予測を下駄投げをもってするが如き、分析する側の 無力の顕れではないのか。

実際のところどうなのかはわからない。 なぜなら椎名さんの議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから(これも、実験の精神に反する、酷くアンフェアな手続ではないだろうか)。 Greeneの分析の結果の貧しさもまた同様に、マーラーの音楽そのものの時間性の貧しさではない。それらは総じて分析の手段の貧しさに過ぎない。 椎名さんの近代音楽の時間性についての議論の方はそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。音楽記号学が(少なくとも、私が関心を 持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについてはあまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、 こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽についてどうなのだろうか、些か腑に落ちないものがある。

近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の 貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここでマーラーという 近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。実験音楽が切り開く時間性が、 日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか? 一方で、マーラーの音楽の時間性が、 ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、「日常的時間と切り離された閉じたもの」 ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の方が日常的な時間性に対して閉じていると 言えないのはどうしてなのか、、、

否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、 その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて 流通している点で何ら変わるところはないというのに。椎名さんご自身はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、 残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には椎名さんが実践し、実感されているのかも知れない 実験音楽のありがたみをわかることはなさそうだ。Sein und Zeit風には、頽落したDas Mannであるところの私には無縁の話なのだろうと でも考えるほかない。まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、その音楽論を 述べるにあたり、「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。 少なくとも本当の意味での「変容」の過程自体(それがあることすら自明ではないはずだが)は、例えば何らかの数理的なモデルを 示唆するようなメタファーのレベルですら説明されているようには見えない。「変容」ではない、単なる対比、「実験音楽」を賞揚するための、 反面教師としてロマン派音楽が引き合いに出されているに過ぎないようにしか見えない。

そもそも日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは不十分だろう。 演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の議論をしなければ 片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを考えれば不十分なはずだ。 (風呂敷を広げたのは椎名さんの方であって、読み手の私ではないので、読み手の私はすっかり戸惑うことになる。) 否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論であり続けることができるだろうか。率直に言って、 こうしたレベルの議論が博士論文で扱われている音楽学という分野のあり方が私には、自分の実感から乖離したものに感じられるのを 禁じることができない。

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『狂気の西洋音楽史』についても基本的な歴史的展望は変わっていないようで、ただしここでは 「シュレーバーの音楽」というラベルを貼られ、意味の病を病んでいるというように言い換えが為されているようだ。 (そもそもそれ自体がかなり怪しい)フーコーの「狂気の歴史」の考古学の音楽版といったところが 狙いのようなのだが、ここで一番気になるのは「狂気」という「記号」のいわば「濫用」ではないかと思われる。 しかも、ここで論じられているのはほとんど専ら「音楽」の外側のエピソードばかりで、肝心な「音楽」そのものの 「意味」の分析がされているとは到底思えないことは、「音楽史」の実質を私が勘違いしていなければ致命的なことと思えてならない。

例えばマーラーの場合、椎名さんはマーラーの章のタイトルを「伝達不全の狂気」とし、特に第10交響曲を取り上げる。
「《第十交響曲》が表現しようとしていた「世界」とはどのようなものであったのか、 それに彼が失敗した(最終的にこの作品は未完で残されたのだから)はなぜなのか。 次にそれをマーラーとアルマ、そしてマーラーとフロイトの関係の中に探ってみよう。」(p.203)
という文章で問いがたてられるわけだが、それに対する答えは、好意的に読めば
「(…)もちろんマーラーの交響曲はすべてが彼の全世界を表現していて、 その中に「世界の本質」としての「狂気」も含まれているが、それ以前の作品では それが強固な意思と多大な労力によってようやく「合理化」されるに至っていた。それが 《第十》については、創作の起源にあるアルマとの悲劇があまりに衝撃的であったために、 「狂気」が合理化されずに生き延びてしまった、と。つまり「狂気」が作品創作の原動力でも あり、作品を未完に終わらせた原因でもある。」(p.233)
という部分なのだろうと推測される。しかし、まず末尾の一文は「つまり」で続けられるような論理なつながりが ないように感じられる。更に、作品が未完で終わったことは、単にマーラーが(当時不治の 病であった)連鎖球菌の感染によって死んでしまったからではないかといった別の原因は 予め問いを立てる時点で排除されているらしい。また、未完で終わることが何故「世界」の表現に 「失敗した」ことになるのかも私には理解できない。椎名さんの言う「狂気」(それは「世界の本質」 らしいのだが)が具体的に何なのかもわからないし、そもそも「世界」、「本質」ということで何を 指し示しているのかすら判然としない。でも椎名さんはお構いなしにこう続けるのだ。
「すでに見たように、マーラーはそれをはっきりと言葉で残していた。「狂気が私をつかむ。 呪われたる者!」と。(...)マーラーは、絶対音楽の精髄としての「交響曲」が、 その意味を伝えるぎりぎりのところまで来ており(《第七》の意味はアルマに伝わらなかった)、 これ以上どのような努力をしてもそれを完遂することはできない、あるいはそのような努力は 「狂気」となるしかない、ということに気づいていたのである。」(p.223)
マーラーが《第十交響曲》のスケッチに残されていた言葉が《第十交響曲》の音楽の実質と どう関わるかは自明なのだろうか?椎名さんのいう成功・失敗とそもそも関係があるのだろうか? 《第七》の意味がアルマに伝わらなかったというのもまた、リハーサルでのあるエピソードの 証言が根拠になっているらしいが、(アルマが《第七》を好きでなかったかも知れないという 事実はあるにせよ)それが一般的な議論の水準での彼の「音楽」の「伝達不全」とどう関係するのか? 一方で、そもそもマーラーのスケッチの文章は、椎名さんが敷衍したように解釈できるのだろうか?

勿論、ここでは椎名さんの途中の議論を割愛しているので、その部分の内容によって、 椎名さんの結論が自然に感じられるということもありえるだろうが、私には全くそのようには 感じられない。前著同様の、予め自分が用意した恣意的な図式に対象を押し込んで、 その妥当性は抜きにして、それをもって自分の図式の実証であるとしているようにしか思えないのである。 (もしかしたら、それは自明のことであって、論証するまでもないことなのに、私がそれを理解できていない だけなのかも知れないが。)

椎名さんご自身が立てた「《第十交響曲》が表現しようとしていた「世界」とはどのようなものであったのか」という 問いに対する答えは結局のところどうなるのか?「マーラーの交響曲はすべてが彼の全世界を表現して」いるからには、 《第十交響曲》もまた、「彼の全世界」を表現しているのだろうか?「世界の本質」であるらしい「狂気」をも 表現しているのだろうか?作品創作の原動力と作品が「表現」するものの関係はどうなっているのか? アルマに伝わらなかった《第七》の「意味」はそれでは何なのか?狂気は伝達不全の結果なのか? 原因なのか?作品創作の原動力なのか?作品の成功を妨げるものなのか?作品に表現されているもの、意味なのか?

仮にもし、マーラーの音楽そのものを、ではなく、マーラーが音楽の傍らに書き残した言葉の方を殊更に重視するという 選択をするのであったとしても、それならそれで例えば、
「すでに見たように、マーラーはそれをはっきりと言葉で残していた。「狂気が私をつかむ。 呪われたる者!」と。これは、ド・ラ・グランジュの翻訳によれば、「狂気よ、私をとらえよ、生きていることを 忘れさせるように」となっている。」(p.223)
という文章は一体何が言いたいのか?内容以前の問題として、まず、引用部分の明確な不一致がある。p.197で椎名さん自らその全体を 引用しているうち、少なくとも「私を滅ぼせ、生きていることを忘れさせてくれ!」までを含まなければ、ド・ラ・グランジュの翻訳の範囲と対応しないだろうに。 また、ここであえてド・ラ・グランジュの翻訳を参照する意味も全く不明であるし、この翻訳が忠実なものではなく、 断片的なものであることを考えれば、一体、ド・ラ・グランジュの文献を参照したというアリバイ以外に、この翻訳を 引用することの意味がどこにあるのか、私には全く理解できない。もし、この翻訳が椎名さんの立論にとって殊更に 意味があるなら、それがどこにあるのかを明記すべきだし、「翻訳」という行為自体が、椎名さんの立論にとって 意味があるのなら、それについての理論的な記述があってしかるべきではないか?そんなことも言外に読み取れない 私はもう一度、読者として失格なのだろうか?いや、そうなのかも知れないが、、、

上記のような指摘は些事拘泥であり、ここでは椎名さんの提示するマクロなスキームが問題にすべきで あって、一サンプルに過ぎない個別の例の取り上げ方に噛み付くのは近視眼的だという批判があるかも 知れない。だが、「狂気の西洋音楽史」の妥当性を判断しようとするならば、サンプルの扱いこそが問題だし、 論証の手続こそが問題なのではないか。実際には、椎名さんが言いたいことは漠然とは推量できるけれども、 そしてそれが全面的に間違いだということはないかも知れなくても、「狂気の西洋音楽史」の「論証」には違和感を 感じるばかりで全く納得も共感もできない。もし主張が正しいとしても、ことマーラーの部分に限っていえば、 その「論証」の手続にはミクロのレベルにおいても到底納得がいかないのである。

更に椎名さんは、アドルノのマーラー論を敷衍しつつ、更にそこに渡辺裕さんの「マーラーと世紀末ウィーン」の 文章を織り交ぜつつ(実際、それはそのように注記されることなく為されるので、それのどこが2つの著作の いずれから引用されているのか、読み手には一見したところはわからないようになっている)、以下のように アドルノのカテゴリーを換骨奪胎することを主張する。
「マーラーの音楽とは、古典的な形式言語によって支えられていた純粋に自律的な絶対音楽の理念が もはや機能しなくなった時代に現れた、いわば遅れてきた(本文は傍点)絶対音楽なのであって、 そのような存在が「合理化の精神に支えられた近代の危機と重ね合わせて考えられ」る中から、 その「批判的」なあり方も読み取れられるのであろう。しかし、むしろ我々は、そのようなマーラーの音楽を 合理主義「批判」ではなく、その「危機」的状況、すなわち「世の成り行き」を忠実に写し取っているものと 見たいのだ。つまり、アドルノにとって「批判」的な要素として解釈された「突破」、「一時止揚」、「充足」の ような、古典的形式概念では説明がつかない、いわば「不合理」な要素も実はこの「世の成り行き」の 中に含まれるものであり、言葉を換えて言えば、「この世」はまさにそのままで「不合理」で説明がつかない ものとして表現されているということだ。(p.221)
要するに、今度は「世の成り行き」にマーラーの音楽をそっくり回収し、例えばアドルノが救い出そうとした批判的な契機には 関心がない(いや、より強く、批判的な契機の存在を認めない)かのようだ。しかもその「世の成り行き」の音楽が、「シュレーバーの音楽」であり、意味の病を病んだ挙句に、 「伝達不全」を起こしているということのようなのである。だが、まずマーラーの音楽は、全面的に「世の成り行き」の音楽で あるわけではなく、寧ろ「突破」や「一時止揚」「充足」「崩壊」というのは、そうした「世の成り行き」に対する反応を 表す類概念であった筈ではなかったか。だとしたら、要するにここでは、「世の成り行き」というヘーゲルの精神現象学に由来する、だが アドルノ独自の概念の方こそ換骨奪胎されているのかも知れない。だがこの換骨奪胎は、マーラーに関して言えば、アドルノが このモノグラフのみならず、ウィーン講演においてもあれほど拘った、その音楽の持つ契機を決定的に毀損するものであると 私には思われる。しかもマーラーの音楽の具体的な様相に照らして、アドルノの主張を斯くの如く 換骨奪胎することが如何にして可能なのかの論証は見当たらず、作品そのものではない音楽の傍らに書き残した言葉やら ある作品に対する嗜好の回想などを根拠にして、ただそのように断定されるばかりである。ここには論証は存在していない。 要するに椎名さんのテーゼを述べるための材料として利用されているだけで、それはテーゼを裏づけ、傍証するものとして取り上げられている ようには見えないのである。

私見によれば、椎名さんの主張は、「世界」という言葉の意味、更には「世の成り行き」と「主観」の関係についての把握に関して アドルノに対して不当なまでに単純化している点に問題がある。それは音楽作品を(こちらは直接にはベンヤミンの用法に由来する らしいが)「モナド」として「社会」を無意識的に「表現する」非概念的な言語であるというアドルノの規定のニュアンスを捉え損なって いる点と関連しているように見える。それは「「世の成り行き」を忠実に写し取っている」という言い方が「そのままで「不合理」で 説明がつかないものとして表現されている」という言葉で言い換えられている点に如実に顕れている。音楽には模倣的な契機が あることはアドルノも認めているが、それは単なる「反映理論」ではない。また、アドルノのマーラーに関するモノグラフにおいても、 個別には例えば第8交響曲(そう、第8交響曲であって、第10ではないし、第7でもない。第7については、その第5楽章については確かに第8交響曲とともにあげられているが、そうだとしても、第7交響曲の全体ではないのだが)に関して「攻撃者との同一化」(アドルノ, 『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, VII 崩壊と肯定, p.181)を 示唆しているような場合もあるが、だからといって「世の成り行き」を世界の本質として物象化し、それを強化することにマーラーの音楽が終始しているとは言っていない。 マーラーの音楽は「世の成り行き」を模倣しつつ、それに対して異議申し立てをしているのだという点をアドルノは強調しており、 かつその異議申し立てが失敗に終わる点にこそ批判的な機能を見出しているのだ。マーラーの音楽は勿論、合理主義「批判」ではなく、 寧ろ「不合理」なものと化した「世の成り行き」に対する抵抗の叫びなのであって、椎名さんの批判も批判の前提となる主張も、 全く的外れなものにしか見えない。そしてそれは椎名さんが持ち込みたがっている「狂気」とは差し当たり関係はない水準での 議論の筈である。

ちなみにアルマの名誉のために言っておけば、アルマにとって第10交響曲は、自分自身が惹き起こし、 彼女自身それに対して罪の意識を恐らくは感じていたであろう出来事を思い起こさせるが故に、特別な感情を惹き起こす 作品であったろうが、デリック・クックの演奏会用バージョンの作成作業を最終的に認め、それを支援してさえいる。そのきっかけは クックが試演した演奏会用バージョンの初期の形態の録音を聴いてのことであったらしい。アルマは第10交響曲を「理解」しなかった のだろうか?否、そうは思わない。自身も作曲の心得があり、マーラーの音楽を最初は嫌っていた彼女は、マーラーの伴侶と なった後も、マーラーの音楽を全面的に受け容れることはできなかったかも知れないが、少なくともその作品の価値は、 彼女にとって疑問の余地のないものであったように私には思われる。しかもアルマは自分の音楽観によってマーラーの音楽を 断罪するのを留保し、その音楽そのものを聴くことによって、その音楽にも固有の価値を見出していたのである。そうしたアルマの 姿勢は言及されることなく、第7交響曲のエピソードだけで「伝達不全」を述べ立てるのは、アルマの場合という個別のケースに 関しても、言いがかりの類としか思えない。

ごく単純に、私生活上の出来事と音楽作品を短絡させる ことには慎重であるべきだし、特に初期の作品を中心に今なお懲りずに取り上げる人がいるかの「標題」についての問題が 示しているように、作品の脇に書かれた言葉は、無視されるべきものではなく、作品を理解する文脈を否応なく形成するもので あるにしても、それのみで作品について語りうると考えるのは本末転倒以外の何物でもない。それはマーラー研究の文脈では それこそさんざん議論され尽くしてきたことの筈であるのだが。

いずれにせよ、先に引用したものが現時点での、過去の西欧音楽に起きた現実の出来事についての椎名さんの 認識であるというならそれでもいい(私には、実のところ、そうした総括にはあまり関心がない)。そして、その認識が全く誤っていると いうようには私は考えていない。寧ろ、マーラーの音楽を取り囲む状況に関して、ある部分については認識を共有した上で、 だが、椎名さんのようにマーラーの音楽と捉えるということ自体、或る種の態度決定を、(それが無意識的なものであれ、)選択を含んでいて、 私のような立場で、過去の音楽であるということを意識した上で、それでもなお、今日それを必要不可欠なものとしてマーラーの音楽に接するものに とってはその選択の恣意性は到底無視しがたいことである。

要するに、マーラーの音楽は声なき者の代弁者などではなく、時代の病の症例に過ぎないし、 そうしたマーラーの聴取自体もまたそうなのだということなのだろう。かくして私もまた、21世紀にもなって、まだ「シュレーバーの音楽の終り」と 共にある存在という位置づけを得るのだろうか。ともあれ、私が東日本大震災を経て2012年の5月5日に記した文章に書きとめた、 マーラーに見出したと思った以下のような契機など、椎名さんにとっては(マーラーの音楽が「彼の世界」に過ぎないのだから、 当然といえば当然だが)私の「妄想」に過ぎないということなのだろう。
 だが掟の門前でうろつくばかりしか能のない門外漢にしてみれば、マーラーの音楽にはあれ程豊富に存在した筈の時間方向の構造、聴き手をもどこか別の場所に連れて行かんばかりの、それが作者の意図するところであるならばその限りにおいて「目的論的」という形容すら誤りとは言い難い、巨大な時間的持続を支える時間方向の方法論的図式に代替するものが、20世紀の音楽の中では結局発見されることはなかったのではという感覚は否み難い。否、一例をとればマーラーの作品の長大な時間的経過を支える音楽的構造と、それを利用する具体的な適用の卓越は非専門家の耳にも明らかで、そうであれば尚更、その後の音楽においてかくも生産的な原理が放棄されたのは何故なのか改めて不思議な思いに囚われても不思議はない。確かに、今この音楽をもう一度創ることの不可能性もまた疑いを容れない事実のように思われる。それにしても何故なのだ、という疑問が頭に取り憑いて離れない。それは時代の要請なのか。  逆に言えば100年前の音楽に確実にあって、更には今尚力を喪っていないと感じられる側面が未だにあるというのは、その音楽の指し示す未来を告げてはいないか。時代の制約の中、所与であった語法を換骨奪胎して提示する、今なお異様な力を喪わないその音楽の動性、超越への衝動に支配された外への運動、未知の地点に聴き手を運んでいってしまう、暴力的なまでの力。アドルノは全般としては己が批判的に考えていたマーラーの第8交響曲に対して「救い主の危険」という表現を用いた。私にはこの言い回しはアドルノの逡巡を、聴経験に忠実なアドルノの、論理でもって断定し去ることへの躊躇いを感じずにはいられない。「救い主の危険」。それは今やマーラーの音楽全体について言いうるように私には感じられる。マーラーの音楽の持つ時間性のアナクロニスムは、だが閉塞した現在の凍りついた時間(その認識の何と正しいことか)にあって、単なる夢想に過ぎないとさえ感じられるし、そのように断罪されるケースも、しばしば見受けられる。だが、そこには文字通り、未だ来たらざるものとしての未来への途があるのではないか。それは仮想されたものを恰も現実に実現するかのように見せかける詐術ではない。ポテンシャルとしての未来が、音楽の彼方にあるものとしてヴァーチャリティとして指し示されているのではないか。   だが、ここでこれ以上遠くに行くことはもうできない。私にとって確実なのはマーラーの音楽を手放してはならない、ということだ。異様な力に満ちたその音楽を聴くことが時折困難になるにせよ、自分に向かって手を差し伸べ、自分を幽霊の隊列に加わるよう誘う音楽に耳を閉ざしてはいけない。生き延びてどこか別の場所に辿り着くことを希求し続けるならば。  

あるいはまた、別のときに以下のように書き付けたとおり、マーラーの音楽世界はそれ自体、そうしたいわば「落伍者」の形象に満ちていて、私はそこでしか 安らぎを見出すことができないのだ。そう、私は恐らくは自ら進んで、その「世の成り行き」の「不合理」に、何なら「狂気」に留まることを選ぶほかないのだろう。 自分の同類であるあまたの名もなき「幽霊」たちと共に。

カフカの「審判」は、理由もわからず逮捕され、己の罪名もわからぬまま訴訟を起こされて裁判の被告となり、恥辱だけを残して犬のように「処刑」されていくヨーゼフ・Kの物語だが、アドルノはそれをマーラーの第9交響曲のロンド・ブルレスケのエピソードについて述べるところで引用している。それは丁度、更に後の、このマーラー論全体の末尾近くで、» Straßburg auf der Schanz' «に言及するのと呼応し、最後に「子供の魔法の角笛」に登場するヴァリアント達、見捨てられた歩哨、美しいトランペットの響くところに埋葬された男、哀れな少年鼓手といった面々に繋がっていく。  全てのものが、誰も聞いてくれないのに大声で語られる末期の言葉なのだ。ヨーゼフ・Kはその光景を目にして、友達が、自分を助けてくれる人間が居るのでは、自分を弁護する異議がまだあるのではと自問する。だが彼は、抵抗することが無価値なことを既に覚っているのだし、実際、その通りにしかならない。「極めて反抗的に」と指示された音楽もまた、真理が幻としてしか経験されえないものであることを身をもって示すのだ。この音楽は、ヨーゼフ・Kのような経験を自己のものとするような人間にとってまさに己を代弁するものとなる。
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勿論、違和感の根底には、根本的な 立場の違いがあるのだろうとは思うが、価値観の違いを問題にし、論争を挑もう というのではない。寧ろ違和感の由来するところは、それ以前の問題ではないか、マーラーのみならず、シューマンや シェーンベルクの、更にはシュレーバーに対し、作品を創る「現場」、各人の生の「現場」に 対する「想像力」が欠如している点にあるように感じられてならないのである。要するにマーラーに関する伝記資料や アドルノのモノグラフもそうだが、それ以前にマーラーの音楽を聴いても、スコアを、第10交響曲の スケッチを見ても、そこから椎名さんの主張するような内容がどのようにしたら抽出できるのか私には 率直に言ってわからないのだ。端的にこれは牽強付会のための曲解か、誤解に基づく 牽強付会にしか思えないのである。

自分がコミットしたいと思っている価値を持った対象がこのように(私から見れば)「権威」が 流布する共感なき評価によって惹き起こされる「誤解」に巻き込まれることに私はしばしば 耐えられなくなる。こうしたことを動機に書くことが果たして意味あることなのかは良く わからないが、考えてみれば、マーラーのページは、アドルノのマーラー論の(アドルノ研究者であり、 マーラーの音楽の実演に本場で接していることを後書きに記している人による)翻訳の不正確さ (としか私には思えないもの)から始まって、マーラーを研究し、紹介する「識者」と呼ばれている人達の言っていることに いい加減さ、不正確さに対する苛立ちを、あるいは(例えば椎名さんも言及している渡辺裕 さんの研究のような)よりきちんとした議論に対してなら、その内容に違和感を感じて、 それを最初は自分のために記録しはじめたのがきっかけの一つであったわけで、 今尚、こうして文章を書いている原動力であることは認めざるを得ない。

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だが、椎名さんの主張に関してのみ言えば、そもそもこうした時間を生きている私のような 人間のあり方こそ、椎名さんが問題としている様態そのものなのだろうから、 私のこうした反応は、椎名さんの議論のある水準での正当性を裏付けるものなのかも 知れないとも思う。椎名さんのような立場で音楽に接する人にとっては、 私のように音楽に接するのは、強迫的な消費の恰好のサンプルそのものであり、 そのように仕向けられていることの証拠だということになるのだろう。

恐らくは椎名さんのような方は、 「世の成り行き」の端的な外部に在ることができているに違いない。外から見れば、「世の成り行き」に 巻き込まれ、翻弄された挙句、流砂に呑まれるように跡形もなく消えてゆく声なき人間は 「世の成り行き」の一部にしか見えないに違いない。 結局のところ、構図は「音楽的時間の変容」の 時と変わることはない。そこでは実験音楽は日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされていた。

だが、皆がケージのように、あるいはラモンテ・ヤングのように、テリー・ライリーのように生きられる わけではない。それが選択の問題だと言われても、そもそも選択の余地などない人間だって数多く いるのだし、アドルノはマーラーの音楽をそういう声を奪われた人間のために手を差し伸べるものと して規定したはずなのだ。だが、立ち位置が異なれば、展望も自ずと異なってくる。 「世の成り行き」の中にいる人間は、「世の成り行き」に対して客観的たりえないのであれば、 外部からの客観的な視点に対して抗弁することは権利上許されていないのだろう。

しかし、もしそれが客観的に見て妥当であったとしても、それを認めざると得ないとしてもなおかつ、 ここで私が言いたいのは、もしそうであったとしたら、そうした水準は私のような人間には 関係がないので、その正当性は私にとってはどうでもいいことだし、西洋音楽史を椎名さんのように 捉えることの意義もまた、私のように批判される側に居るのであろう人間には杳として 知れないということである。そして、私が聴くマーラーは、私が見出すマーラーは、椎名さんの 「西洋音楽史」に位置づけられるらしいそれとは「別人」の音楽なのだということである。 そしてそのような異議申し立てがあるという事実だけでもせめて記録しておきたいのである。

私は、私のような声なきものの代弁者としてマーラーを見出していたのだが、 実はそれは私の思い込みであったかも知れない。であるとしたも、それを認め、 「私のマーラー」が虚像であったとしても、私は自分でそれを書きとめるしか術はない。 私は私の代弁者であり、私の中の奥の部屋に住んでいて、私の声を通して語ろうとする 存在としてのマーラーを擁護しなくてはならないのだ。それが「彼の世界」といういわば「妄想」の体系を 生涯に渉って築き続けたマーラーその人のありように丁度対応するように、こちらは「私の世界」の 「妄想」であったとしても。

この文章は実質において異議申立のための準備書面のごときものの更に冒頭陳述の部分に 過ぎないだろうが、永遠に本論が書かれることのないであろう準備作業をこのように公開するのは、 こうした企てが行われた事実を証言するためである。 何なら、そのような「狂気」を抱いたマーラーの聴き手が21世紀の日本に一人居たということで あっても構わない。私のような聴き手は、21世紀におけるマーラー受容のパースペクティブを 捉え損なっており、無知と視界狭窄そっちのけに、主観的な根拠なき確信のみに基づく虚像を 押し付けているのであるとするならば、私は沈黙すべきなのだろう。 そもそも未定稿を公開することなど、マーラーの創作姿勢に関する言葉を思い浮かべれば、 それ自体許されることではないではないか、何という不実さよ、というわけだ。 だとしたら、この文章そのものをマーラーに関する「症例」の一つとして、後年の分析の対象に資すべく、 斯くの如く「投壜」し、後はマーラーに関しては沈黙することにしよう。 (2013.3.3, 5.1,9.14, 2023.6.15 アドルノのマーラー・モノグラフにおける「攻撃者への同一化」に関して参照箇所を追記。)