マーラーの音楽そのものについて語ろうとするときに重要なパラメータが、その音楽が辿る調的な遍歴のプロセス(力学系における軌道)にあることについては
異論の余地はないだろう。それは交響曲や連作歌曲集というフォーマットが選択された個別の楽曲の中で起きるその変容のプロセスについても
言いうるし、ワグナーの音楽が席巻した時代にあって彼自身もその影響を受けなかったわけではないにも関わらず、アナクロニスムかと思われかねないほどに
全音階的な初期の語法から、新ウィーン楽派との近接を無視できない後期作品の語法への通時的なプロセスについても言いうると思われる。
未完成に終わった第10交響曲においてすら、部分的には調性の限界に近づくことはあっても全体としては調性のシステムの中にいるマーラーの
音楽は、調性の遍歴のプロセスを巡る実験であったという見方すらできるだろう。もちろんそれはマーラーの音楽をある一面から眺めて記述しているに
過ぎず、それで全てが言い尽くせるわけではない。だが現象の記述を行う際に、その挙動を的確に記述できるパラメータを選択することの重要性は
明らかなことだ。マーラーを語ろうとする時、音楽そのものに決して辿り着くことがない標題にまつわる議論や、伝記的な事実の詮索、あるいは
文化史的な渉猟などよりも、音楽そのものについての記述方法を確立することの方が余程重要なのは明らかなことに思われる。そしてそうした水準での
語彙の貧困は明らかなようで、ニーチェの思想との連想から第3交響曲を「円環的」としてみるかと思えば、「大地の歌」の終曲の付加6の和音を
「調性からの告別」と呼んでみるといった類の言説は、だがそうした語彙の使用の根拠を尋ねてみればあまりに粗末で粗雑なアナロジーであったり、
不正確な修辞に過ぎないことがわかってしまう。結局のところ一見すると楽曲そのものの特徴を捉えた言辞に見えるそうした発言も、実のところ
楽曲を分析することから帰納されたわけではなく、外から文学的な想像力やら文化史的な展望とやらによって押し付けられたもので、かえって
音楽自体を見えにくくし、あるいはかえって歪めて聴取することを誘発していないだろうかという疑念にかられてしまうのである。
一方で例えば伝統的な形式からの逸脱をもってマーラーの創意工夫を測ろうとする主張が日本でなされることもないではないが、
その主張そのものには首肯できてもその実質を見ればこちらもまた首を捻るケースの頻出に困惑することになる。一つにはそこで言われている
「伝統的な形式」の方の定義が少しも明確でなく、だからそこで意図されている筈の差異のあぶり出しが鮮明に浮かび上がってこないことになるのではという
感じが拭い難いのである。例えばこの点では邦語文献中最も網羅的な長木による全作品解説はまさに(序文にてそのように述べられている通り)
上述のようなアプローチによるもので、その価値は極めて高い(否、網羅性の観点に限れば、管見ではこれに匹敵するのはラ・グランジュの伝記の補遺として
収められたそれがあるだけで、世界に誇っても良いと思われるのである)が、その一方で調性の変容の具体的な例示に関していえば、「原則としてスコアの調号に従」うという
方針もあって中途半端なものになってしまっているし、恐らくは色々な文献をあたって様々な分析を比較した結果なのだろうが、巨視的な構造の
把握についても疑念を抱く箇所が少なくない。問題は個別の分析そのものではなくて、全体としての整合性にあって、そこで想定されているはずの
「形式的な定型」の側が一貫していないような気がするのである。一貫していなくても、それを断ってくれれば構わないのだが、そうでもないし、
「逸脱」の方は自分で考えろといわんばかりに分析者がどう「逸脱」していると考えるかについては全く言及がないのも(もともとが演奏会プログラム
の解説であることを考えれば仕方ないのかも知れないが)期待はずれの感が大きい。確かにマーラーの楽曲の分析はマーラーの音楽を自らの伝統とする
彼の地においてもなかなか意見の一致を見ないようだし、だからそれは今日のこの国固有の問題ではないのかも知れない。
だが市井の一享受者に過ぎない私にとって学問の世界がどうであるかなど所詮は他人事で、要するに自らの経験と背馳しないような仕方で
「マーラーの場合」を記述することが出来さえすれば良いのだ。
そうした視点に立つことを前提とした場合に、では調的な遍歴の過程に注目することの妥当性はどうだろうか。例えばニューリンの指摘以来、
これは定着した感じのある「発展的調性」という見方は聴取の経験と関係があるのか、それともそうした分析はいわば机上の議論なのか。
学問的にはこれはこれで一つの問題なのだろうが、素人である私にとっては自分の主観的な経験からそれに対して、聴取の経験と無関係とは
思えないと言えれば充分である。私は絶対音感についてはあまり自信はないが、それでもマーラーの楽曲間の調的な関係の認知ははっきりとある
らしい。また始点と終点だけを取り出すことに心理的に疑義を抱く向きも、ミクロな転調のプロセスの認知についてはまさか否定はすまい。何より
楽譜を見ずにいわば身体で覚えた楽曲のマクロな構造の認知やら、動力学的な印象、アドルノに由来する例のカテゴリ( 突破 / 停滞 / 充足の3つに更に
崩壊を加えたものが用いられることが多いだろう)の説得力の源泉を訪ねてみた時に、調的な配置の設計がそれらに無関係であるとは私には思えないのである。
(なお私はこれを「音楽一般」に敷衍することには興味がない。ここではマーラーの楽曲だけを問題にしている。)
勿論、それらをきちんと記述しようとしたら個別の楽曲について詳細に跡付ける作業が必要で、それはそれで仕掛り作業として今後やっていかなくては
と思っているのだが、ここでは今後の作業の準備の意味合いも込めて、特に印象的な楽曲や部分について思いつくままに書き留めておこう。
(大地の歌についてだけは別に少し具体的に採り上げたことがあるのでここでは言及しない。)
第1交響曲ではまず、第1楽章が問題だろう。ニ長調の、しかも調的に極めて静的な性質を帯びた長大な序奏、歌曲旋律による主題の提示に
ついては問題ないのだが、これをソナタと見れば、調的な緊張の構成については全く非因習的なことがわかる。別のところではマーラー自身も用いる
2主題の対比によるやり方はここでは採用されず、主要主題が変容していくなかで転調が起きて、結局(マーラー自身が「後から」追加した提示部
反復のための複縦線のある練習番号12では)確かに属調で終止するのである。(84小節以降を第二主題とする分析もあるが、これはソナタ形式に
おける調的な機能を考えれば些か無理があるだろう)。しかも展開部では(これまた後のマーラーの楽曲で繰り返し起きることだが)
序奏がもう一度戻ってきてしまう。展開部と再現部の境界でいわゆる「突破」が発生するのだが、この再現は文字通りのものではなく、
寧ろ別の段階に移行したような感じが強い。結局、ソナタ形式が下敷きにあるとは言いながら、何か別のパラメータが支配的である印象が既に強いのである。「突破」による再現部の開始を告知する素材は、実は提示部の複縦線の後、回帰した序奏の中から浮かび上がるホルンが吹き鳴らす新しい素材であることにも注意しよう。そういう言い方をするならば、展開部で初めて導入される主題が、順序を変えて先に再現し、逆行するようにして主要主題が後から再現されるという、回文的な構成法が採られているという見方も可能だろう。再現部において主題の再現の順序が提示の時のそれとは入れ替わって、アーチ状の対称的な構造を形成するという構成法は、例えば第6交響曲のフィナーレでも見られるが、その点だけを取り出して共通性を言うことの意義は限定的なものだろう。それは第1交響曲の第1楽章における「突破」と第6交響曲のフィナーレにおけるハンマー打ちという伝統的な図式に介入する要素の介入の場所とその様相の違いの方が、アドルノのいう「唯名論的」なあり方を示すマーラーの楽曲の場合にはより重要かも知れないからである。
第2交響曲では、もともと冒頭楽章と同一の楽曲を構成する予定ではなかったらしい(それゆえマーラーは冒頭楽章を単独の交響詩と見做そうとさえした)
第2楽章アンダンテが「浮いてしまう」のに対して、第1楽章を第1部に、後続の楽章を
第2部とするかのような長大な楽章間休止指示がある一方で、第3楽章以降はアッタッカで演奏されるという全体の構想がある。第2楽章が持つ対比の
効果は調的な配置によっても強調される。マーラーは多楽章形式の作品に拘り続けたが、それはこのような異なる視点、異なる意識のレベルを
同一の曲の中で併置して重層化させる効果を求めていたからに違いない。単一楽章の中での転調では同じ効果は決して得られないだろうが、
例えば第1楽章の第2主題がホ長調という遠隔調で登場する部分などは、こちらは単一楽章の中での重層化が生じているし、前後の楽章と
アッタッカで繋がれているにも関わらず第4楽章の調性もまた前後の文脈に対して「島」を形成するかのようだ。聴く人が聴けばとりとめない、しっかりと
した構造のないものと聞えるかも知れないが、楽章間の長さの極端なアンバランスとともに、こうした多層的な構造がマーラーの楽曲の特性であることは
確かだし、彼が交響曲を選んだのは理にかなっていると言えるように思われる。
第3交響曲第1楽章では提示部の終わり、展開部の終わりは誰の眼から見ても明らかなのだが、各部分の内部構造の方は一見混沌として見える。
一つには冒頭のホルン斉奏による序的主題により開始される一見したところ序奏に見える部分が展開部でも再現部でも幅を利かせていて、しかも次から次へと
動機が出現し、しかもそれらのあるものは相互に連関しているので、そもそも一体どれがソナタ形式でいう「主要主題」なのか自体が判然しないという
有様なのだ。長大でかつ素材として重要な序奏の問題は第1交響曲第1楽章や第2楽章の第1楽章、そして第6交響曲のフィナーレ、第7交響曲第1楽章、
第10交響曲第1楽章などでも見られ、マーラーの楽曲構造の特徴の一つといって良いだろう。要するに序奏はソナタ形式の外部にあるのではなく、
内部にあるのだ。ただしその様相は個別の楽章で異なっている。第3交響曲の第1楽章で顕著なのは提示部の機能と再現部の機能が入れ替わって
しまっているかに聴こえるという点だろう。つまり提示部は冒頭の調性(ニ短調)の同主調であるニ長調で終わるのに対して、再現部は平行調である
ヘ長調で終わるのだ。勿論、ニ短調の部分をそっくり序奏と見做して、本来のソナタ提示部はヘ長調で開始されるのだとして、だからヘ長調で終わるのは
別に驚くことではないという意見も予想されるところではあるが、その場合には、第1交響曲第1楽章同様、第二主題に相当するものがないことはおくとしても、
提示部終結の「充足」の部分がニ長調をとる理由の説明がつかなくなる。これを瑣事と見做すのであれば一体ソナタ形式とは何なのかの方を今度は
問い返すべきだということになろう。一貫性というのは例えばこうしたレヴェルで問われているのである。
第4交響曲では一見したところ(あくまでもそれまでの作品と比較しての相対的なレベルではあるけれど)保守的なソナタ形式を採用しているように
見える第1楽章のあちこちにある仕掛けも気になるが、それよりはト長調で開始される(もっとも序奏はロ短調と見做すべきだろうが)この交響曲の
フィナーレが歌曲であり、しかも第3楽章が属調のニ長調で終わって準備しているのに対して、注文どおりト長調で始まるフィナーレが最後はホ長調で
終結することに注目すべきだろう。ちなみにホ長調は第3楽章にあるあの「突破」の部分のとる調性でもある。冒頭の鈴の動機がフィナーレにおいても、
いつも律儀にロ短調で回帰することにも注意しよう。ホ長調は確かにト長調と3度関係にあるから近親調ではあるが、異なる調性になったまま、
戻らずに終わるという聴いて感じる印象が緩和されることはない。
第5交響曲こそは発展的調性の範例として採り上げられてきた作品であり、古典的な枠組みからの逸脱の典型であるかのような扱いを
受けてきた。だが確かに嬰ハ短調で開始するとはいえ、それはいわば序奏にあたる葬送行進曲の調に過ぎず、実質的な主要楽章である
第2楽章はイ短調であることを軽視してはならないだろう。そして最後に辿り着く調性であるニ長調には、第2楽章の再現部の末尾で
一旦辿り着いているし、単独で第2部を構成する巨大なスケルツォが既にニ長調で始まり、ニ長調で終わることにも注目しよう。この曲の
「内的プログラム」と通常考えられているベートーヴェン的な図式というのは一体どこにその実体があるのだろうと疑ってみるのは不当でもなければ
無意味でもあるまい。
第6交響曲については4楽章の構成をとり、イ短調で始まり、イ短調で終わるその「古典的な」佇まいが注目される一方で、中間のアンダンテと
スケルツォの順序の問題やらフィナーレのハンマー打ちの回数が話題になることが多いようだが、それらもまた調的な配置や楽式との関連の
中で検討されるべき性質のものであるように私には思われる。中間楽章の順序の問題は簡単ではあるが別に触れたこともあり、ここでは
特にフィナーレの構造とハンマー打ちが起きる場所の関係に注目しておきたい。ハンマーの打点ではなく、タムタムが鳴らされる場所にも
同時に注目しよう。このフィナーレもまた序奏部が執拗に回帰し、聴感上は大きな構造上の句読点の役割を果たしている。その序奏部が
回帰するときの調性、ハンマーの打点の調性はこの楽曲のスキームを事実上大まかに決めてしまう。ハ短調で開始されるこの曲は、最後には
全曲の冒頭の調性であるイ短調で終止するが、最後に序奏が回帰したときにすでにそれは定まっている。だが、それはすでに遡って、主題の
再現の順序が入れ替わって、アーチ状の対称的な構造を形成し、まずは同主調で副主題が再現したあとイ短調の主要主題の再現となる
というプロセスが準備しているとも言えるのだ。こうして調的な配置のみを書けば如何にも恣意的に映りかねないが、この楽章に関してはそうした
プロセスが見事に音楽的内容と対応していて、恣意どころか或る種の必然性をすら思わせるような説得力を生み出している。
第7交響曲もまた発展的調性の例として引き合いに出されることが多いものの、この作品の場合にはとりわけ冒頭楽章の調性につきまとう
或る種の曖昧さ、一つの調性に留まらずに絶えず別の調性を示唆するような余剰を孕んだ響きが、調性の辿るプロセスを単純化して
図式化することを拒んでいる。第1楽章は結局のところずっとホ長調に辿り着こうとして曲頭の既に付加音を持つロ短調から出発して
遍歴を続ける。新ウィーン楽派を思わせるような四度の累積も常に偏差を孕んでいるかのような調的な遍歴に独特の輝きを添える。
問題視されるフィナーレのハ長調は、だが1番目の夜曲の調性でもあることに注意しよう。ただしそこでは第6交響曲のあのモットーと同じ
動きによってそれはハ短調に常に傾斜するような動きが与えられているのだが。ともあれ調的なプロセスだけ見れば、第7交響曲と第5交響曲には
冒頭の調性が終結の調性に対して導音の関係にあり、短調から長調への移行が行われるという点を除けば殆ど共通点を見出すことができない。
更に言えば、冒頭和音の付加音が既に告げているように、ここでは調性は寧ろ色彩や明暗の変化と結びついていて、そうした側面を捨象した整理は意味がないだろう。
なおフィナーレのハ長調は、その影が第9交響曲の第2楽章に伸びているように私には感じられてならない。この音楽を肯定的にとるか否かに
関わらず、これはこれで「現実」への回帰であり、「世の成り行き」の音楽なのだ。
第8交響曲では変ホ長調への固執が顕わだ。まるで全曲が1つの突破、この世の中に何かのはずみで生じた裂け目であるかのように、その音楽の
辿るプロセスは他の交響曲のような「世の成り行き」とは無縁であるかのようだ。だがそれだけでは事態の半分をしかとらえたことにならないだろう。
変ホ長調の中に出現するホ長調の領域は、更に一段と照明が変わったかのような特異点を形作る。暖色系の金色の光の中に、寒色系の青白い
光点が出現するといった具合なのである。だからこの曲を単純に全音階的であると断定するのは単純化の謗りを免れないだろう。確かにここには
例えば前の第7交響曲が持っていたような微妙な濃淡の変化、明暗の移ろいはないけれど、ここにもクロマティックな運動は存在するし、それが
聴き手に与える印象は明確なものだと私には思われる。
第9交響曲ではまず、第1楽章の調的な配置が問題になるだろう。この楽章をソナタ形式と捉えるか二重変奏と捉えるかについての論争は
夙に有名であるが、ソナタ形式と見做した場合に異様なのは、展開部の最中においても、いわゆる主要主題が回帰するたびにニ長調が回帰してしまう
という調的なプロセスである。通常のソナタ形式とは異なって、ここではニ長調は或る種のアトラクターであって、常にそこに回帰する基層を形成しているかの
ようで、そこに様々な外乱が介入することによって風景が変容していくのだが、結局のところ全ては回想の裡にあるかのようで第1楽章が終わった時の完結感は
非常に強い。それゆえ第2楽章は全く別の層、つまり「世の成り行き」を無媒介に提示することしかできない。第3楽章もまた第2楽章と層を同じくしている
(ハ長調に対してイ短調)。留意すべきは素材上は第4楽章に関連するエピソードの部分が第1楽章の調性であるニ長調をとっていることだ。素材は同じだが、
ベクトルは寧ろ第1楽章同様、過去を向いているのだ。それに対して終曲のアダージョが半音低い基音を持つ変ニ長調であることは、
それが冒頭楽章と同様に「現実」から身を引いたものであることを告げると同時に、その時間性が第1楽章とは異なることを告げているように私には思われる。
それは夜明けを待つ音楽なのだ。夜明けは(少なくとも音楽上の「私」には)やって来ないのだが、それは予感されている。
第10交響曲は未完成であるけれど、全5楽章の調的な配置をクック版によって確認する意味は小さくないだろう。この曲の冒頭のヴィオラの旋律は
ほとんど調性について語るのが無意味なものであり、新ウィーン楽派の無調に限りなく近接する。一方で主要部は嬰へ調というマーラーにおいても
比較的珍しい基音上で長調と短調の間を揺れ動く。中間楽章を経てフィナーレに到達するところではニ短調をとり、しばらくニ短調とニ長調(更にロ長調)の間を
揺れ動きながら音楽が進むが、第1楽章が回想されるときには調性もまた嬰へ調に回帰する。なおパルティチェルではこのフィナーレのコーダには調性の異なる
2つのバージョンが遺されているようだ。クックが選択しているのは嬰へ調のヴァージョンであり、その選択は全く自然なものであると思われるが、もしもう一方の
案を採用したら一体どういうことが起きたのかを考えるのは無意味ではあるまい。だが私にとって特に印象的なのは、嬰へ調による部分よりも寧ろ
フィナーレでニ長調で出てくる主題の性格の方だ。この文脈ではニ長調という調性が何とも不思議な光を持って響いてくるように私には感じられる。
ニ長調がこんなふうに響く場所、この交響曲の「ここ」がどこであるかは、未だに私には謎であり続けている。もしかしたらシェーンベルクも言っているように、
それはまだ私が聴く資格を持たないような、そんな音楽なのかも知れない。聴き始めて30年、幾度となく聴いてきた音楽であるにも関わらず、私はこうした
印象から逃れることが未だに出来ずにいるのである。
「大地の歌」については別のところで触れたので、ここでは終曲の調性であるハ長調がマーラーの他の作品で用いられる文脈(第7交響曲のフィナーレ、
第9交響曲の第2楽章、第7交響曲の第2楽章、あるいは第4交響曲第2楽章や第3交響曲第3楽章、第2交響曲第3楽章、更には第10交響曲
第4楽章といったスケルツォ楽章の途中で出現するハ長調の対比要素を想起せよ)を考えたときに、
この終曲が「この世」からの「離脱」の音楽であるという、よくなされる解釈の根拠は何なのか、それは楽曲自体に従ったコメントではなく、
それこそ聴き手の主観的な「思い込み」ではないか、楽曲を離れて文化史的な背景を動員して、マーラーの音楽を時代の風潮の中に
還元してしまうことがマーラーの場合の個別性とその音楽の持つ時代を超えた力を捉え損なっていないか疑問に感じられることのみ触れておこう。
その替わりに、ここでは最後に「嘆きの歌」と2つの連作歌曲集について一瞥しておこう。
「嘆きの歌」について言及する場合には、マーラーが後に削除することになった「森のメルヘン」を含めて考えたほうが一層興味深い。これを
改訂版で、即ち初稿の第2部から聴きはじめるのは、喩えて言えば第6交響曲のフィナーレだけを聴くようなもので、それはそれで説得力があるけれど、
調的なプロセスの観点からは、途中から聴きはじめるような感覚を拭い難い。マーラーの「悲劇の調」であるイ短調で始まり、イ短調で終わるこの作品は
だがその調的な変容のプロセスから見れば、短調と長調の頻繁な交代、それを媒介にした3度関係の近親調間の往還といったその後のマーラーの
特徴が既にみられるだけではなく、複調的な層の重ね合わせなどにも事欠かず、その後の作品よりも寧ろ大胆ですらある。ともあれマーラーが
自ら作品1と呼んだ作品がイ短調の主和音で終結するという事実は、マーラーの作品全体を眺望したときに極めて示唆的である。
「さすらう若者の歌」の調性配置もまた、破格とまでは言えなくても少なくとも独特ではある。
最初の曲はニ短調で開始し中間に変ホ長調の部分を挟むがニ短調に回帰する。ところが第2曲はニ長調からロ長調に転調して更に嬰ヘ長調に至って
終わってしまう。
3曲目は再びニ短調に始まるが、音楽的な「崩壊」の最初の事例である末尾では変ホ音で終止する。終曲はホ短調で始まり、ヘ長調に転じて、
最初に同主短調で終止してしまう。一見したところナイーブな音調を持った作品でありながら、調的な遍歴から見ればこれはかなり大胆なプロセスを
備えていて、それが作品を感傷一方の通俗性から救っているのは疑いないだろう。
一方で「子供の死の歌」は巨視的にはニ短調で開始しニ長調で
終わるというオーソドックスなスキームに基づいている。中間の3曲は両端の曲とは対照的に、ハ短調・変ホ長調とその同主短調という領域を動き回る。
ここでは「さすらう若者の歌」の遍歴はないけれど、そのかわり意識の層がはっきりと重ね合わせられていて、その間を往還する運動が見られるのである。
同じ「喪の音楽」であるにも関わらず、ここでのプロセスは「大地の歌」のそれとは異なっていて、それを比較することは非常に興味深いトピックだろう。
以上、駆け足で多楽章形式の作品について、いわば「印付け」をしてみたが、これらはそれぞれ細部にわたった検討が必要なものばかりであり、
ここではそれらに対して大急ぎで目配せをしたに過ぎない。いずれにせよ、マーラーの楽曲を調的なプロセスを切断面に調べてみることはその楽曲の内容に
近づくために不可欠であることは確かなことのように思われる。とりわけマーラーの音楽を「意識の音楽」として捉える時に、それは「意識の音楽」が
備えているべき複数の層の存在を明らかにし、更にそれらの間で生じている運動、つまりは意識の変容の過程を記述する有力なパラメータであると
思われるのである。(2009.7.26/27, 2023.1.16 第1交響曲に関して追記。)