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2026年7月14日火曜日

「意識の音楽」としてのマーラーの交響曲を再考する──「共感指差し」から落伍者に手を差し伸べる「絶対的な小説交響曲」へ

 これまで「意識の音楽」という概念を用いてマーラーの音楽を考えてきたが、その意味するところは必ずしも十分に明確ではなかった。「意識の音楽」がマーラー固有の概念なのか、それとも近代音楽一般のある傾向を指す概念なのかについても、なお整理の余地が残されていた。

しかし近年取り組んできた交響曲的主体論、とりわけ自由エネルギー原理(FEP)を参照した主体類型の検討を経ることによって、この問題に対して一つの明確な見通しが得られたように思われる。

重要なのは、「意識の音楽」とは単に近代主体を表現した音楽ではないということである。近代以降の多くの作曲家は、程度の差こそあれ、自律的主体を音楽の中に実現している。しかし、そのことだけではマーラーを特徴づけることはできない。

ここでいう「意識」とは、ダマシオの意味での延長意識、すなわち自伝的自己を備えた自己意識である。それは身体感覚や情動に基づく現在の自己だけではなく、保持された過去と予期される未来とを統合し、一つの物語として自己を構成する主体である。このような理解は、これまで検討してきた意識の階層モデル、亡霊性と情動に関する議論、「二分心崩壊以後、シンギュラリティ以前の〈意識の時代〉」論などによって既に理論的基盤が整えられている。

したがって、本稿において改めてジェインズ、フッサール、ダマシオ、スティグレール、FEPを個別に積み上げ直す必要はない。むしろ、それらを統合した意識論を前提として、「そのような意識はいかなる音楽形式として実現されるのか」という問いから出発することが適切である。

そのとき、「意識の音楽」とは、「自伝的自己を形式化した音楽」と定義することができる。しかし、この定義もなお十分ではない。自伝的自己とは本質的に物語的自己であり、物語とは他者に向かって語られることによって初めて成立するからである。

この点でアドルノのマーラー論における「ねえ、よく聞いて」という指摘は、単なる比喩ではなく、マーラーの主体形式そのものを言い当てているように思われる。マーラーの交響曲には、聴き手に対して世界を「説明する」のではなく、「ともに経験しよう」と呼びかける語りの衝動がある。

このことは、やまだようこの発達心理学における「共感指差し」の概念と深い構造的類似を示している。共感指差しとは、「これが何であるか」を教える行為ではなく、「ねえ、見て」と他者と世界を共有しようとする行為である。それは共同注意の成立であり、自伝的自己や物語主体の発生以前に存在する、他者との世界共有の原初的形式である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」は、まさに音楽における共感指差しなのである。

この視点から見れば、「絶対的な小説交響曲」というアドルノの規定も、新しい意味を帯びる。小説的であるとは、単に物語的な展開を持つということではない。そこには語る主体が存在している。そしてその主体は、出来上がった内容を語るのではなく、「語りながら次を語ろうとする衝動」の中で生成し続ける主体である。

アドルノが詩は対話であるという詩論を展開したパウル・ツェランのほぼ唯一の散文「山中の対話」への返礼として書き送った書簡で自己引用した、上記の「絶対的な小説交響曲」に関連した、第九交響曲第一楽章終結部についての「主題労作と物語性の統合」に関する記述、或いは「あたかも音楽が語りながら先へと語る衝動をはじめて受け取るように主題が湧き出てくる」というルジツカが自作のヴィオラ協奏曲の銘として引用する記述も、この観点から理解されるべきであろう。ここでは主題が変形するから物語が生じるのではなく、語ろうとする衝動そのものが主題を生成し続けている。

その意味で、マーラーに頻出する expressivo という指示も、単なる奏法上の「表情豊かに」という意味を超えている。それは旋律が、あたかも誰かに向かって語りかけようとする衝動を帯びているかのように演奏されるべきことを意味しているのではないか。

このように考えると、マーラーにおける「表現」の概念そのものも変化する。従来の表現概念は、主体の内面を音楽によって外化するものとして理解されてきた。しかしマーラーでは、表現とは世界を他者と共有する行為であり、共有可能な世界そのものを音楽の中で生成することである。

マーラー自身が「交響曲とは世界のようでなければならない」と述べたとされる言葉も、百科事典的な世界像の提示ではなく、自伝的自己が生きる世界を他者と共有可能なものとして構築するという意味に理解し直すことができる。それは世界の描写ではなく、「世界の共有」である。このような共有への志向は、アドルノがマーラー論の結びで述べる、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という特徴とも深く結びついている。それは倫理的付加価値ではなく、主体形式そのものから導かれる帰結である。マーラーの主体は、本質的に他者へ向かって開かれている。作品は自己完結した表現ではなく、他者を自己の世界へ招き入れる行為として成立している。

このような「世界の共有」という契機は、交響曲的主体の類型論から見ても重要な意味を持つ。マーラー的主体は、自由エネルギー原理(FEP)の観点から見れば、世界を予測し、その予測誤差を不断に更新し続ける主体の典型である。しかし同時に、それは動物型FEP主体が最も徹底したかたちで展開され、その内部に潜む限界が露呈する地点でもある。

従来、この主体の「裂開」は、主体内部における予測誤差の累積や自己更新の危機として理解されてきた。しかし、本稿の立場からすれば、その裂開は主体内部の出来事ではない。主体が裂開しているように見えるのは、その主体が本質的に他者との世界共有を志向しているにもかかわらず、その共有の条件そのものが近代において危機に瀕しているからである。したがって、裂開しているのは主体というよりも、主体と他者とを媒介してきた共同世界そのものである。

このことは、「ねえ、よく聞いて」というアドルノの指摘や、「絶対的な小説交響曲」という規定とも一致する。マーラーの語りの衝動は、安定した共同世界の内部で語る衝動ではなく、共有可能な世界そのものが失われつつある時代において、それでもなお他者と世界を共有しようとする衝動なのである。この意味で、マーラーの音楽における「語る」という契機は、単なる自己表現ではない。それは共同世界を再び成立させようとする実践であり、世界共有の再構築へ向けた行為なのである。

このことは、自由エネルギー原理そのものの理解にも修正を迫る。

自由エネルギー原理はしばしば、外界との境界を維持しながら自己保存を図る閉鎖的主体の理論として理解される。しかし、人間の自己は、そのような閉鎖系として理解することはできない。人間の自己は、他者との相互作用を通じて予測誤差を共有し、共生成的に自由エネルギーを最小化する方向へと開かれている。

したがって、マルコフ境界とは、自己を世界から隔てる壁ではなく、他者との触発と共鳴を可能にする膜として理解されなければならない。マーラーの交響曲が聴き手を世界へと招き入れようとする形式をもつのは、このような開かれた主体構造が音楽形式として実現されているからである。

このような主体理解は、主体の存在様式だけでなく、その主体がいかに世界を語るかという表現様式にも帰結する。 結果としてこのことは、交響曲という形式そのものの意味をも変化させる。

ここで問題となっているのは、主体はいかに成立するかという発生論でも、主体はいかなる存在様式をとるかという存在論でもない。そのような主体が、いかに世界について他者へ語るのかという表現論である。 

ロマン派音楽一般にも自己表現や世界表現は存在する。しかし、多くの場合、音楽は主体が表現する内容を担うのであって、主体の語り方そのものを形式化しているわけではない。 マーラーにおいて特異なのは、主体がいかなる存在様式において世界と関わるか、その語り方そのものが交響曲の時間構造へと転化している点である。

交響曲は、主体が世界について語るための器ではない。マーラーにおいて交響曲とは、主体の語り方そのものが音楽形式として実現したものである。作品は主体の思想や感情を表現する媒体ではなく、主体が保持・予持・回想・予測を繰り返しながら世界を他者へ語る、その時間構造そのものを形式化している。

したがって、マーラーにとって交響曲とは選択されたジャンルではない。世界を他者と共有しようとするマーラー的主体の存在様式は、必然的に交響曲という時間形式を要求したのである。

マーラーの交響曲は、自伝的自己が世界について語る音楽ではない。自伝的自己が世界と関わり、他者へ向かって世界を共有しようとする、その〈語り方=生き方〉そのものが交響曲形式として実現した音楽なのである。 

私は以前から、マーラーの音楽には、聴き手の背中をそっと押し、一歩前へ踏み出せるよう支えてくれるような性格があると感じていた。その感覚も、この主体論によって説明できるように思われる。マーラーの音楽は、単に世界を共有するだけではない。そこには、生きることそのものへの「いざない」がある。

このように考えるならば、マーラーは単に近代主体を音楽化した作曲家ではない。むしろ彼は、「意識の時代」において形成された主体が、その極限において自己の条件を問い返し始めた地点を代表している。主体は世界を予測し続ける。しかし、その予測が成立するためには、他者との共同世界が維持されていなければならない。

ところが近代において、その共同世界そのものが揺らぎ始める。マーラーの交響曲は、この危機を描写する音楽ではない。むしろ、失われつつある共同世界をなお他者と共有しようとする音楽である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」という呼びかけ、「絶対的な小説交響曲」という規定、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という評価は、いずれもこの構造を異なる角度から捉えたものと理解することができる。その意味で、「意識の音楽」とは、自伝的自己を形式化した音楽であるだけではない。それは、自伝的自己が他者と共同世界を生成しようとして語る、その語りの行為そのものを音楽形式として実現した音楽である。

マーラーは、「意識の時代」が到達した最も自己反省的な主体を代表する作曲家である。マーラーの主体は、共同世界の危機のなかでなお他者へ向かって語り続けるという存在様式をもち、その語り方そのものが交響曲という時間形式のうちに最も明瞭に実現されている。 この意味において、マーラーは「意識の時代」の極限を代表する作曲家なのであり、「意識の音楽」のプロトタイプなのである。

(2026.7.14 公開)

2020年1月4日土曜日

物語論的分析をする音楽学者と音楽を聴く「子供」とAIを巡る断想(2020.1.4改訂)

 マーラーを対象とした分析の中には、特に物語論的分析と称するものがあって、以前より手元にあったVera Micznikの論文 Music and Narrativity Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler (2000) の再読を出発点に、Micznikが参照されている論文を中心に幾つか入手できた(無料で入手できるものだけですが)ものを一通り読み終えて感じたことを備忘のために書き留めたものを公開しました。(マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ

 人間が「物語る」存在であることと、人間が「うたう」存在であることとの間には深い関連があると考えますが、文学の一ジャンルである「小説」のアナロジーから、いわば逆立ちするようにして音楽にアプローチするにあたって、前者の媒体である言語の持つ性質を、強引に音楽にごり押ししようとする記号論ベースのアプローチでは うまくいかないように感じます。それと同時に、ある時代に確立した制作のユーティリティとしての規範やら、シェンカーの図式のような、これまたある時代の作品を分析して得られた規則性を基準に、そこからの逸脱の距離の大きさで「物語性」の程度を測るというのも、如何にして「音楽」が「物語る」ことができる(かのようにみえる)のかについての説明としては適切でないように感じます。

 その不自然さを言い当てようと考えていて、ふと「子供」がマーラーに接する、 (シュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の序文で登場させた「宇宙人」でも良かったのですが、当世風には)AIがマーラーに接するという状況を考えることを手掛かりにできるのではないかというように思いました。

 Webでは英米系のものが入手しやすいのでどうしてもそっちに偏ってしまいますが、マーラーの楽曲分析について言えば、知る限り、シェンカー分析を何等か適用したものと物語論的分析が多いように感じます。 前者はもともとはコンピュータを用いた分析を進める方向性が掴めたらという思惑があって読み始めたのですが、結局ところあくまで人間が分析をするためのツール(単なるツールであるかについては、シェンカー自身の思いはまた別にあったようですが)であり、コンピュータを用いた分析への適用は難しそうに見えるのと、分析結果がかなり恣意的に見えたり(シェンカー自身の元々の意図から考えれば、結論ありきであったり)、トリヴィアル(別に難しい分析を経なくてもわかること)に思えたりで、なかなかしっくりきません。後者は領域横断的なものになりがちなので種々雑多ですが、個人的にはやはり音楽自体の構造の分析に基づくものでないと意味がないと考えているため、そういうものを期待して読むと、結局のところ音楽において「物語性」を成立させているものが具体的に何なのかについては、明確とは言い難いような印象を持ちます。

 そもそもが言語を範例とする「記号」として音楽を扱うということ自体に理論的には無理があると思うのですが(音楽が「記号」としても機能しうる点を認めるに吝かでないですが、それはまた別の話)、そこを強引な(にしか見えない、もっと言うとナンセンスに近い気さえする)アナロジーで対応づけるか、それをあっさり放棄して、音楽の「実質」を抜きに、領域横断的な話題に終始するかのいずれかであるように感じてしまい、違和感が募ることが多いのです。そもそもが規範との差分であったり、過去の楽曲、更には他のジャンルの作品との関係に基づくアプローチというのは、そうしたアプローチを提唱し、実践する当事者たる音楽学者の厖大な学識と、高度な分析能力を前提したものであり、例えば私自身がマーラーの作品を聴くときに、彼らの要求するような水準の聴取が出来ているとは到底思えないですし、マーラーに初めて出会った時の「子供」であった私の経験を、彼らの分析は少しも説明してくれない。勿論、高度な分析が、自分が気付かなかったようなマーラーの作品の秘密を明らかにしてくれることを否定するわけではなく、私のような愛好家はそうした分析の恩恵を最も被っているに違いないのですが、それでもなお違和感が残ります。そしてその由来を端的に述べれば、マーラーの音楽を聴く時には、確かに高度な記号操作が行われているには違いないのでしょうが、その背後で起きていること、音楽が人を惹きつけ、感動させ、或いは世界の見方を変えさせさえするといった側面については、そうした分析が語ることが余りに乏しいことに存するように思えます。そして私が知りたいのは、寧ろ、背後で起きていることの側であり、それが起きるメカニズムの側なのです。

 背後で起きていることは、一般には心理とか情動という言葉で語られ、そうした側面についての研究も行われていますが、それらの多くは、あえてやや戯画化した言い方をすれば、何種類かの作品を与えて、何種類かの感情なり、情動なりのタイプを事前に決めておいて、その間の対応づけを行うといったレベルに終始する限り、余りに肌理が粗すぎて、ここで私が知りたいことに対する回答はおろかヒントさえ与えてくれるようには思えません。せめてよりミクロな音楽の脈絡に応じて、聴き手の「心」の内部で起きていることに対して、例えば今日ならば脳の働き方を測定することによって探りを入れるようなものであるべきだろうと思います。勿論、そうした実験結果から言いうることと、ここで私が知りたいと思うこと間の径庭は大きいと思います。例えばデリック・クックが『音楽の言語』で試みたようなアプローチを考えてみると、今や辛うじてながら、それでも異なる文化的伝統を身体化している極東に住む我々から見れば、そこで試みられている音型と情動の結び付けは、全く恣意的ではないとはいえ、非常に多く文化的・社会的な文脈で形成されるものであることは間違いなく、他方でそうした我々が、クックが解明しようとした伝統に属する音楽を「聴く」ことができるからには、文化的・社会的決定論というのも誤りで、その結び付けが学習によって後成的に形成可能であることもまた、明らかであるように思えます。であるとするならば、その結び付けの手間で、そこに辿り着く前に音楽の構造の側でやれることはたくさんある筈です。

 批判ばかりしていないで、では具体的にどうすればいいのかについて述べるべきとは思いながら、漠然とした予想めいたものを書き留めることしかできないでいることは上記のメモ書きの末尾に記した通りですが、それでもこれまでデータ分析の準備を進めてきた中で、具体的なあてが全く見つかっていないというわけでもありません。MIDIデータから抽出したある時点なり時区間毎に鳴っている五度圏上の音名(ピッチクラス)の集合を12音各音を1ビットとする12ビットのベクトルで表現すれば、このベクトルのビットの遷移パターンの力学系を考えることができるでしょう。遷移規則も伝統的な和声学や対位法、楽式論のような既成の規範に基いて天下りに与えるのではなく(そうしてしまうと規則からの逸脱を測るといった発想から逃れることは困難です)、実際の作品が描き出す軌道から法則性を抽出するといった方法をとることができるでしょう。この枠組みだと機械学習で規則を学習させるというのも可能でしょう。ただしこのアプローチで大規模で複雑な作品をどこまで分析できるかはわかりません。伝統的には和声の遷移パターンに帰着できる側面に限定すれば、モデルは単純化できるでしょうが、何よりも「うたう」ことを念頭に置いた場合、旋律と旋律の複合としての対位法がマーラーの場合には特に重要なのは明らかで、 調的な図式を抽象した分析ばかりをやっていては取りこぼしてしまうことがあまりに多く、さりとてそれを回避すべく、いわゆるセカンダリー・パラメータと呼ばれる特徴量をきめ細かに捉えようとすると、次元は瞬く間に大きくなり分析は困難になることが容易に予想できます。

 これを裏返してみると、「子供」が音楽を聴く時どんなに複雑で精妙な情報処理が行われているかということに他なりません。そこで起きていることをコンピュータ上の分析に置き換えることを考えようとした途端、まず直ちにその事実に圧倒されてしまいます。 他方、記号処理のレベルでは、個別の分析に限れば(アドルノのような) 博識で怜悧な音楽学者の分析に負けず劣らずのレベルにAIが達する可能性だってないとはいえないかも知れませんが、「うたう」ことの基層の「共感」の次元、歌うこと、 聴くこと、創ること、分析することの基層にある衝動の次元は、生物としてのヒトの進化の(最大限に譲歩して、ピンカーのいうようにパンケーキに過ぎないとしても)副産物であり、まずこのレベルでAIには無縁のものです。勿論、人工生命のようなアプローチで進化の過程をシミュレートするアプローチは可能ですし、その意義を否定する訳ではありませんが。

 更に「物語る」ことについては、まずは獲得された言語との共進化の産物であり、これまた社会的・文化的進化の産物であるという側面を持ちます。更に加えて 「物語る」ことは、反射的な衝動ならぬ精緻な目的論的図式の獲得と密接に関わります。この水準においては、何のために歌うのか、何のために聴くのか、何のために分析するのか、そして究極には何のために創るのかを問うようなフレームをAIが自らの中に持たなければ、AIがそれらを「する」とは言えないことになります。「芸術」の領域においては、この違いを素通りしようとする研究は、「芸術」というものに取り組もうとしていないという点で不毛であると私は考えます。適用分野は異なりますが、詩歌や小説をAIに生成させる試みは古典的なテーマであり、かつ簡単なプログラムであれば作成は難しくありません。仮にそこで、ボルヘスの『伝奇集』の中の一篇、「ドン・キホーテの作者、ピエール・メナール」のように、一字一句本物とと区別がつかない作品をAIが生成したとして、工学的な意味合いでは合格するでしょうが、こと「芸術」に関してはそうではない。ピエール・メナールの場合であれば、彼自身が再創作をする衝動を持って自らそれを行ったわけですが、AIの場合には、AIのプログラムとプログラムを作った作者に分裂していると考えるべきであり、その両者を包含する「システム」全体が「芸術」に関わっていると見做さなくてはなりません。AIを研究する工学者の中にはその点を意識してかせずか、敢て無視して「AIには創作する意志などありません」といったことを言う人もいますが、これは一見否定的な表現を使って逃げ道を確保しつつ、AIに主体性を密輸して仮託させることになっていて、控え目に言ってもミス・リーディングな言い方であり、強い抵抗感を私は感じます。一方では、そうした点を正確に踏まえて、人工生命系を用意して、その中のエージェントに嗜好を与えるところから始めてボトムアップに「芸術」の生成に至ろうとする研究の方向性もあり、こちらは大いに注目すべきであると考えます。しかし仮に人工生命的なアプローチで生物学的水準のシミュレーションができたとしても、「芸術」が成立するのは更に異なる階層の話であり、確かに生命的・生物的な基盤を持つとはいえ、その進化のプロセスの果て、もしかしたら或る種の行き止まり、袋小路であるかも知れない、マーラーのそれのようなロマン派の末端に位置付けられる音楽を「聴く」ことをシミュレーションするのは、目も眩むような企てに感じられます。「作曲することは世界の構築に他ならない」というマーラーやシュニトケの発言は、この文脈においてこそ、文字通りに受け止められるべきなのです。

 というわけで、音楽を「歌う」「聴く」「分析する」「創る」ことをAIにやらせるという構成論的アプローチは端から諦めて(それは他の若くて優秀な人々に相応しい課題でしょう)、せめて音楽が「物語る」ことを可能にするメカニズムを音響態としての楽曲の分析によって探るアプローチの方をわずかでも進めることができないだろうか、そしてあわよくば、そうした(人間が分析主体の)楽曲分析と、楽曲のデータを入力としたコンピュータを利用した分析との橋渡しができないか、というようなことを考えているような次第なのです。(2019.11.6初稿を別のブログに公開、11.10一部改訂, 12.24改訂の上、本ブログ上で再公開, 1.4加筆)

2019年11月4日月曜日

マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ

 マーラーの交響曲の分析の中には、物語論(Narratology)的分析と称するグループがある。アドルノがマーラーに関するモノグラフにおいてその1章の標題を「小説」とし、マーラーの交響曲を(叙事詩との対比において)「小説」に類比したことは有名だが、ここでの物語論は、自らアドルノのアイデアの衣鉢を継ぐものであると主張するものの、道具立てとしては、文学の記号論的分析を背景とした文学理論としての物語についての理論の音楽への適用を試みるもののようだ。一口に物語論的分析と言っても、論者により立場は様々であるけれど、それらの論考に接していて、いずれの分析においても疑問に感じる点が少なくないので、自分の整理を目的とした備忘のために、以下にその疑問点を記載しておきたい。最初にお断りしておかなくてはならないのは、私が参照したのは、あくまでもマーラーの音楽への物語論的分析の適用に関する論考であって、一般的な音楽の物語論的分析についてのそれではないことだ。更に言えば、専門の研究者でもなく、組織的な研究の一環として読んだわけでもないので、マーラーに限定してもなお網羅的であるわけではない。それ故以下は、あくまでも私が接し得た範囲での私の個人的な反応の雑多なメモ書きに過ぎない。

  当然のことながら、もともとは文学についての理論である物語論を音楽に適用することの是非や適用可能性についての検討は為されていて、論者によってその立場にはかなりの多様性がある。そもそも音楽への適用以前に、文学理論の側も単一の理論がある訳ではなく、様々な論者が様々な理論を提唱しているから、その中のどのバージョンを採用するかという点について選択肢が存在することになる。そして音楽に適用するフェーズに至ると、まず一方には音楽は「物語る」ことがそもそもできないという主張があり(例えばJean-Jacques NattiezやCarolyn Abbate)、他方では言語とは異なった仕方ではあるが「物語る」ための手段があるという立場がある(こちらは枚挙に暇がないが、思いつくままに挙げれば、例えばV. Kofi Agawu, Seth Monahan, Thomas Peathe, Neal Warner, Vera Micznik)。前者については物語ることができない理由についての相違があり、更に、では、にも関わらず音楽が「物語る」ように思われる時に起きていることは何であるかについても様々な見解が存在することになる。後者について言えば、「物語る」手段の具体的な選択肢が論者により異なってくることになる。具体的な選択肢としては、音楽に内在的なものに限っても、調的構造、楽式、主題の展開、カデンツ等、更には様々なセカンダリー・パラメータ、即ちリズム的な輪郭、楽器の配置や音の厚みなどのテクスチュア、音色の選択、様々なアタックの区別やダイナミクス等々までその範囲は及ぶようだ。
  音楽は「物語る」ことがそもそもできないとする立場について語るべきことはあまりないのだが、Nattiezのように、それを語り手のNarrative Impulseに基づく単なるメタファーとするような主張は、ではその衝動がそもそも何に由来するのか、あくまでも言語表現の水準のメタファーだとして、全くの恣意というわけではなく少なくともメタファーが成立するからには、それを支えるものは何なのかを問えば、単に問題解決を放棄しているだけであることが明らかだし、Carolyn Abbateの理由づけもまた、音楽が「過去形を持たないから」というもので、これは適用元の文学の媒体である言語の構造を異なった媒体に依拠する音楽に対して不当に外挿しているに過ぎず、こちらも同様に、ではなぜ音楽が「物語る」ように感じられるのかを問われれば、自己引用(自己参照性)とか他の作品の引用(間テキスト性)のようなものに(それを音楽の構造に内在するかたちで規定すれば、「物語れる」ことになるから)曖昧な形で依拠せざるを得なくなる。
  間テキスト性に至っては、音楽作品だけではなく言語芸術や視覚芸術といった他のジャンルとの関わりを論じることになり、その先は最早、音楽の外側に議論をずらしてしまうのだが、そうした間テキスト性がジャンルを超えて、メディアの違いを超えて成立する根拠は相変わらず曖昧なままだし、そもそもこの水準の議論は、何らかの仕方で音楽が「物語れる」とする立場からも可能であり、実際にRobert Samuelsのように、ある時には音楽の構造のある側面に注目し、ある時には音楽的素材や様式(例えば特定の舞曲のジャンル)が持っている文化的コノテーションに依拠し、更にはジャンルを超えた間テキスト性を論するといった論者も存在する。間テキスト性の平面でなら、例えばあからさまに標題性に依拠したり、対象となる作品への言及を含む手紙や証言といったものさえ手掛りにされるのだが、こうなってしまえば最早、音楽の内在的な構造についての議論ではありえず、音楽自体を或る種の文化的記号の如きものとして扱っていることになる。但し、それが如何にして正当化されるかについては相変わらず不明瞭なままだが。

  マーラーの周辺においては、音楽の物語的分析が可能であるという立場ではVera Micznikの見解が比較的参照されることが多いように見えるので、Music and Narrativity Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler (2000)を参照しつつ、その見解を少し細かく見てみると、そこでも傍目には不可解としか思えないような議論がなされているようだ。思いつくままに幾つか気になる点を挙げてみると、まずおかしいのが、story/discourseという道具立てだ。前者が語られる内容で、後者が語り方ということなのだろうが、語られる時間と語りの時間の重層性という言葉にも関わらず(従ってstoryの側には語れる出来事間の時間的な順序が想定されているように見えるのにも関わらず)、実際には前者はstoryではなく、storyを構成する要素(musical event)に過ぎないことが直ちに明らかになる。
  後者については、まず奇妙なのは、(記号のシステムの階層構造ではなくて、)記号そのものの重層性(形態的・統語的・意味的レベルが論じられるにも関わらず、Roland Barhesを参照して、denotation/connotationの区別を持ちこんで、音楽はdenotationはできないが、connotationは可能であると述べると、途端にmusical eventのレベルはそっちのけとなり、いきなり舞曲のジャンル(例えばワルツ)が持つ文化的・社会的なconnotationの例を持ち出すことによってmusical ideaがrepresentないしstand forされると定義される意味論的レベルが説明されてしまう点だ。この説明で全てなら、音楽の「意味」というのはつまるところ、音楽そのものではなく、それを文化的・社会的文脈において「記号」として取り扱うことによってのみ成立することになるから、既に述べたように、音楽そのものは「物語ることができない」とする立場との違いがどこにあるのかがわからなくなる。しかもここでシニフィアンの位置に来る「ワルツ」という舞曲のジャンルが、musical eventを要素として構成されるはずの記号のシステムにおいてどのように定義されるものであるか、そもそも構成的にボトムアップに定義可能なのか、例えば、作者が「ワルツ」と標題なり発想標語として記した(勿論、言語記号によって)ことに依拠するということはないのかなど、理論的にはおよそ見通しがついているとは言い難い。
  その後のChomskyの performance/competence の区別が持ち出されるところも、それを援用する意図の方はよくわからない。前者にはsubjective, individualが、後者にはintersubjectiveが割り当てられ、affectとかcharacterとかtopicといった概念は、後者に由来するとの主張なのだが、そうであるならば、音楽への適用可能性が疑わしいChomskyに由来する概念など持ち出さずに、結局音楽においてはaffectなりcharacterなりtopicというものは音響態としての構造から文脈自由にボトムアップに規定されるものなどではなく、特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものなのだ、とだけ言えば済むことのように思われる。

  音楽の物語性の具体的内実については、古典派とロマン派における物語性の違いが取り上げられる。つまり古典派においては、主調・属調の調的枠組みの中で主題が構成素(動機)に分解されて構成素(動機)レベルでの操作が行われる一方、主題そのものは形態的に不変でその性格を変えることがないのに対し、ロマン派においては調的スキームが弛緩した中で様々な動機が主題の一部としてではなく並列的に提示され、動機群や主題は全体として回帰する一方で、回帰するごとに形態が変容を蒙るのみならず、セカンダリ・パラメータの操作などに伴われつつその性格を変えていくとされる。それぞれの範例は古典派側はベートーヴェンの第6交響曲の第1楽章、ロマン派側はマーラーの第9交響曲の第1楽章である。この指摘自体は特段問題はなく妥当なものだが、それに付随してDahlhausとSchoenbergの名前とともに呼び出される「発展的変奏」についての議論は、こと後者との関連では不思議なものである。即ちこの議論における「発展的変奏」は、上記の区分でいけば古典派における主題や動機の操作と結び付けられているようなのである。だが、ことSchoenbergの文脈では「発展的変奏」というのは寧ろ後期のマーラーにこそ典型的に当て嵌まり、彼自身の作曲法に繋がっていくものではなかったか?Schoenberg自身において「発展的変奏」というのが必ずしも一貫しておらず、場合によって恣意的に用いられるという事情はあるにせよ、それなら尚更のこと古典派・ロマン派の物語性の違いの説明のためにそれを持ち出すのは不適切ということになるのではなかろうか?
  だが物語性という点について言えば、この区別で留意されるべきは、古典派的なそれとロマン派的なそれが単に区別されるだけではなく、論文の標題にある通り、両者では物語性の「程度」(degree)に差があり、ロマン派的な枠組みの方がより高いと考えられている点に存する。例えば叙事詩と小説というジャンルの違いに応じて、物語性の具体的な性質が異なるというのではなく、古典派の交響曲よりもロマン派の交響曲の方が「物語性」の程度において、より勝っているという序列が存在するようなのだ。無論のこと、これは「物語性」の定義如何ということなるだろう。それが明示的であるわけではない点も譲れば、ここまでならロマン派の音楽の構造に内在する要因によって、「物語性」がより高くなるという説明であって、恐らくは暗黙裡にそのように想定されているように、近代的な小説が「物語性」に関する範例であるならば、アドルノの主張をより具体的な「如何にして」付きで展開したものであるということになるだろう。
  しかしながら、では「物語性」を高めることに寄与しているロマン派的な枠組みの実質は何であるかを確認していくと、必ずしもそうではないことに気付かされるのである。即ち、ロマン派的な枠組みが「物語性」を生じさせる根拠というのは、結局のところそれが古典派的な枠組みから逸脱する程度において測られるというように読めてしまうのだ。つまりここでも歴史的文脈というのが含意されているのだが、更にこれが、上でも注意を向けた音楽的「意味」の規定、即ちそれはdenotationは不可能だが、connotationは可能であるという主張、更にaffectなりcharacterなりtopicなりといったものが特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものであるという主張と重なった時、結局、「物語性」というのは歴史的・文化的な文脈によって規定されるものであって、或る種の音響態の構造が内在させている契機によるものではないのだという方向に議論が収斂していくかに見えるのである。序でに言えば、音楽の「意味」を文化的・社会的な「記号」として操作できるものとして定義することによって、ソフィスティケートされた高度な教養を要するものなのか、素朴で子供じみたものなのかの違いはあれ、それは陳腐な標題性と水準において何ら変わらないことになるだろう。アドルノのモノグラフ冒頭の、伝統的な楽曲分析とともに標題性に関する議論を批判する言葉を想起するならば、この定義に依拠する限りにおいて、出発点であった筈のアドルノの意図を裏切っているように思われる。

  私は上記のような議論に対して全面的に異を唱えるつもりはないし、それは不可能であろうと思っている。だがその一方で、音楽的「意味」なり、「物語性」なりを歴史的・文化的な文脈によって規定され尽くすものであるという主張に対しては、制限を設けたいと思っているのである。今ここで、その理由を明示的に提示することは困難なので、それに替えて、まず最初に、上記の主張の根拠となる「気分」を問わず語りに示すようなケースを提示することを手掛かりとしたい。

  マーラーの音楽の聴き手として、マーラーの音楽に対して上記のような物語的分析をすることができる存在、マーラーの音楽の同時代のみならず、それに先行する音楽史のみならず文化的・社会的背景にも通暁し、かつマーラーの音楽のディテールは勿論、マーラーの音楽に含まれる先行作品の引用や暗示に加え、そのように引用され、暗示された作品自体についても知悉しているような音楽学のプロフェッショナルではなく、つまりモノグラフを書いたアドルノその人を範例とする存在ではなく、だがそのアドルノがまさにモノグラフの中で言及する、あの「子供」、或いはよりシンプルに、作品が書かれてから100年後に、マーラーの作品の文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材となった郵便馬車のポストホルンや兵営のファンファーレも、レントラーもセレナードも、過去の遺物としてすら接する機会のない地球の反対側の異郷で、マーラーが引用したり参照したりしていると音楽学者が指摘する作品も含め、音楽史上先行する膨大な作品群を聴くより以前に、或る日初めてマーラーの音楽に接した子供のことを、まずは思い浮かべてみよう。そしてそれに続けて、マーラーの音楽に対して「聴き手」の位置に立つ「人間」以外の存在、マーラー受容の文脈で馴染みがあるところでは、シュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の序文で思い浮かべた宇宙人が、或いはより今日的な文脈ならば、AIがマーラーの聴き手になるという事態を思い浮かべてみよう。
  いや、そんな極端なケースを思い浮かべる必要はなく、専門家ならぬ単なる市井の愛好家たる私がマーラーを聴くとき、私はアドルノや件の音楽学者のようには聴いていないだろうし、彼らの要求水準を満たす日が何時か来るとも思えないのだ。それは単にお前の聴き方に問題があることを告げているだけで、マーラーをどう聴くべきかに関する規範はあくまでも件の音楽学者のような聴き方なのだ、という主張に対して私自身は抗弁する言葉を持たないけれど、それでもなお、作品が書かれてから100年後に、地球の反対側の異郷でマーラーの音楽に耳を留め、またたくうちにそれに魅了された子供たちについては擁護を試みたいと思わずにはいられないのだ。そうした子供は、単に無媒介に、民謡風のわかりやすい旋律といった特徴のみに惹かれてマーラーの音楽に魅了される訳ではない。もしかしたらそうした側面に初めから些か鼻白みつつも、マーラーの音楽において際立っている豊饒で複雑で、時として否定的なモメントや不気味さや混沌すら排除されることのなく絶えず精妙に変化して止まない世界の様相に魅了されるのではなかろうか。
  同様にして、AIにマーラーの音楽の音響に関するデータを与えて分析をさせることを考えた時、そもそも分析の入力となったデータの中に、マーラーの「音楽」の全てがあるわけではないことを認めるに吝かではなく、別のところで述べたように、仮に分析をし尽くしたAIが、マーラーの音楽そっくりの作品(そっくりどころかボルヘスの『伝奇集』に登場するピエール・メナールのように全く同一の作品かも知れない。ただしそ現実にそれが実現する確率の低さは宇宙論的スケールのものだろうが。)を出力するというような状況を想定したとき、工学的なチューリングテストのルールから見たら違反になろうとも、そのことがAIがマーラーになったということを意味する訳では些かもないと考えているのだが、それでもなおマーラーの音楽が小説に類比できるとするならば、その根拠をなす特徴のかなりの程度の部分がAIに入力するデータの分析から得られる筈である、しかもそのデータにはマーラーの作品を含める必要はあっても、上述の理論において想定されているような「伝統からの乖離」の測定を可能にするような莫大な先行作品のデータを用意する必要はないと考えたいのである。そしてそう考える理由は、上で批判的に紹介した物語論的分析を不適切であると考える理由と表裏一体の関係にあると私は考えている。そこで以下に私の目には事態がどのように映っているかを素描して、この備忘を締めくくることにしたい。

  まず音楽において語られる時間と語る時間の2つの層を想定するのは端的に誤っている。確かに音楽はdenotationを持たない限りにおいて「意味」とは無縁であって、専ら「語り方」そのものであるのだが、であれば音楽的時間とは端的に語りの時間そのものなのだ。寧ろ音楽は第一義的には、言語記号であれば随伴的と見做されるであろう感得的な質自体であり、何かを指示する記号としてではなく、外部からの働きかけに対する反応として感得的である限りにおいて聴き手に伝達され、同調を働きかけるものなのではないか。要するに言語記号とのアナロジーは、音楽自体の裡では成立しないのだ。
  ただしそのことは二次的に音楽がメタレベルの「記号」として用いられることを否定するものではない。マーラーの作品のような物語的な脈絡を備えた音楽は、その要素の一部、或いはそれ自体が文化的・社会的な記号として機能することはあり得るだろうが、それは言ってみれば外側から事後的に宛がわれたものに過ぎない(それを当の分析者自身が行っていて、そのラベルづけの是非が問われるというような不可解な状況すら発生しているかに見える)。だがそれは、第一義的には自伝的自己の統合的な世界の認識の「何を」よりも、寧ろ優れて「如何にして」についてのシミュレータであり、だからこそ音楽を作ることは仮想的に世界を構築する(恰も異なる世界の内部存在であるかの如き内部的なループを脳内のネットワーク上に産出する)ことに他ならず、それ故音楽を聴くことは仮構された世界を仮想的に(上記の「あたかも」ループを駆動することにより)経験することに他ならないのである。discourseに先立つstoryなどなく、あるのは常に編集済のものとしての「経験」なのである。
  そもそも人間の意識は知覚したものをそのまま受け取っているわけではなく、意識が受け取るものは既に編集済の結果であることは、ベンジャミン・リベットの実験を始めとする様々な研究により明らかにされている。また、発達心理学における質的研究によってやまだようこが明らかにしているように、自己の確立の過程では、共感的な「うたう」側面が認識的な「とる」側面に先行して発達し、その両者が統合されることによって自己が成立し、自己が成立すると今度はその自己は己の経験を編集して「物語化」していくことによって「自己」を維持していくのである。つまり「物語化」というのは、とりわけ高度な心性を持つ存在にとっては、特定のイデオロギーに基づく文化的・社会的な個別的な文脈よりも遥かに手前において、そもそもが意識や自己といった心的装置が成立する前提条件であり、寧ろ前了解の層に属するものなのだ。勿論、文化的・社会的な文脈はそうした前了解にも浸透していることも確かだが、それはあくまでも世界の認識の「如何にして」を先行的に規定するのであって、denotationであろうがconnotationであろうが、認識の「何を」の水準ではない。それらは発生論的に言ってセカンド・オーダーに属するものなのだ。

  ところでここでの「物語」は上で検討した物語理論の音楽への適用におけるような「物語性」における「小説」の優位を前提としない。強いて言うならば、古典派のような一定の調的スキーマの制約の存在は、口承的な叙事詩や昔話等における定型的なストーリー(ただしその内部で無数のヴァリアントが存在しうるのだが)や記憶の便宜のために定められた韻律を始めとする様々な規則と、その規則に導かれて成立した定型的な表現形式との共通性を感じさせるのに対し、マーラーの作品のそれは記憶の代補となる記憶媒体(音楽においては記譜法)の発達によって獲得された自由度を最大限に生かした散文形式、比喩としてではなく、まさしく「意識の流れ」を叙述する「小説」との共通性を感じさせはするし、繰り返しになるが、この指摘については特段の問題があるわけではない。ただしそれは叙述レベルの重層性といった人称や時制を表示する機構を備えた言語を媒体とした小説固有の構造とは一先ず無縁であって、音楽は「誰が」語っているのか、「何時の」出来事が語られているのか、それが直接経験される出来事なのか想起によって回想された内容であるのかを直接表すことはできないのだが、それでもなお語りの主体が切り替わったこと、出来事の系列が断絶したり、語りのレベルが切り替わったことを聴き手に感得させることができないわけではないのである。 ほんの一例を例示するならば、とりわけそれが調的配置のデザインを伴う場合には、多楽章形式がそうした時間的な断絶や視点の変化、叙述のモードの切り替えを告げる媒体となりうるだろう。マーラーにおいてはDika Newlinの示唆以来のテーマである発展的調性についても、それが主和音・属和音中心の調的配置が志向する主和音への「回帰」という予定調和的な目的論的図式自体を上書きして、何が終結の調性になるかについては、途中段階では複数の選択肢が存在し、それらが競合するかのような時間発展のモデルである限りにおいて、「小説」に類比される経験のシミュレーションの媒体たりうる時間性を備えることを可能にしているのである。そういう意味では、上記のような「物語論」的アプローチから見れば、単なる比喩のレベルという評価となるのかも知れないが、Donald Mitchellが、単独の楽曲のみならず連作歌曲や交響曲のような複数の楽曲の組み合わせからなるもの含めて、マーラーの作品で用いられている調性的なプロットが、楽曲自体の固有の論理と呼びうるコヒーレンスよりも心理的なプロットに対応するように選択されている点をnarrative tonalityという言葉によって指摘しているのは、ここでの発想に近いように感じられる。

  そして共感的な「うたう」能力というのを軽視してはならない。まずもって現生人類が現存する類人猿と比べて際立っている能力、そして種の存続に(少なくともかつてのその環境においては)有利であったが故に発達し、絶滅した他のヒト属の種と比して際立っていたと推定される能力こそ、相手に共感し、模倣を行う能力であったらしいのだ。そしてこれは遺伝子決定論を意味しない。その能力はエピジェネティックに解発され、学習によって強化されるものであり、それ故に置かれた環境に柔軟に適応することができる。それが博識で怜悧な音楽学者の高度な要求を十分に充たすものであるかは予断を許さないとはいえ、作品が書かれてから100年後に、文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材がもともと帰属していた文脈とはほぼ断絶した地球の反対側の異郷においてさえ、作品が提示する時間性に同調的な感受が生じ、作品を通して世界の認識の仕方を学ぶといったことが可能になるのだ。伝統からの乖離の距離に「物語性」が生じる動因を求めることは、論理的には或る種の文化的・社会的決定論を帰結することになろうが、自己形成の結果ではなく、寧ろそれを可能にする根拠として共感する能力を備え、自己が確立した後は「物語」を紡ぐことによって己を維持するようにいわば「宿命づけられた」存在である「子供」は、そうした決定論の軛をいともやすやすと乗り越えてしまう。
  そしてこの点は同時に、AIと「子供」の間に存在する乗り越え困難な差異でもあるだろう。データを分析し、特徴を抽出する能力という点ではAIは「子供」に遜色ないレベルを達成できるかも知れない(定義によっては既に達成している場合もあるだろう)。そして音楽学者が「物語性」の程度の基準とする、伝統的な書法との乖離の度合いを計算することもまた可能だろう(ここでは恐らく「子供」よりもAIが勝っており、もしかしたら音楽学者の分析能力を凌駕するかも知れない)。そして、それが文化的・社会的な「記号」として操作できる限りにおいて、音楽の「意味」を抽出することもまた可能であろう。 だがAIには「共感する」ことができない。少なくとも現在のAIの延長線上では、表面的な模倣はできても、表面的に巧みに歌うことはできても、それらを「共感をもって」行うことはできない。AIに音楽を入力し分析させることは可能だろうが、AIは音楽を分析する動機づけを欠いている。
  その意味でAIは、仮に音楽学者顔負けの分析が行えたとしても、仮にマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」を作りだせたとしても、マーラーの音楽を「子供」のように「聴く」こと、「聴いて」共感することはできないし、そこから世界の認識の仕方を学ぶこともできないのだ。更に言えば、私はマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」と言い、或いは先立っては、ボルヘスの小説を参照しつつ、マーラーの作品を寸分違わず再作曲するといった状況にも言及したが、にも関わらず、一見すると遥かに現実的で、容易にさえ思われるかも知れない第10交響曲の補筆完成版の作成には言及しなかったが、これは勿論意図的にそうしているのである。第10交響曲を既存のマーラーの作品の様式の学習結果によって作り出しても、それはマーラーその人が達成したであろうものとは決定的に異なることについては大方の同意が得られることと思う。一般に創造というのは、過去の自分を模倣することではないし、ことマーラーのように、一作毎に発展してきた作曲家の場合には優れてそうであろう。クックを始めとする補作の試みを入力にしたところで同じであって、出て来るのは様々な補作のどれにも似ないかも知れないが、単なるそれらの模倣に過ぎないものであろうし、マーラー後の音楽を入力に含めたとして、マーラーの作品とは似ても似つかない奇矯な混淆物が出力されるのが関の山だろう。要するにこれを一言で言えば、何故作曲するかの動機づけがAIには欠けているのだ。更に言えば、クックは(もしかしたら他の補作者でそのようなことを思った人間が居た可能性はあろうが)マーラーに替って作曲するなどといったことは思いつきもしなかっただろうけれど、それでも恐らくは彼の補作作業すらAIには達成できないに違いない。AIには何故補作を行うかの動機がないからで、クックの作業は、一見してそうは見えなくても、クックその人にしかできなかった際立って創造的な側面を含み持っていて、時として霊感がクックを訪れたとした思えないような瞬間があるように私には思えるのだ。

 もう改めて繰り返す必要もないだろうが、これまで「子供」やAIを登場させることによって間接的に言い当てようとしたことのトリヴィアルで後ろ向きな半面は、上で検討したようなマーラーの物語論的分析がマーラーの音楽の「意味」に到達することはないだろうということである。
 そもそもが言語を範例とする「記号」として音楽を扱うということ自体に理論的には無理があると思うのだが(音楽が「記号」としても機能しうる点を認めるに吝かでないが、それはまた別の話である)、そこを強引な(にしか見えない、もっと言うとナンセンスに近い気さえする)アナロジーで対応づけるか、それをあっさり放棄して、音楽の「実質」を抜きに、領域横断的な話題に終始するかのいずれかであるように感じてしまい、違和感が募ることが多いのである。そもそもが規範との差分であったり、過去の楽曲、更には他のジャンルの作品との関係に基づくアプローチというのは、そうしたアプローチを提唱し、実践する当事者たる音楽学者の厖大な学識と、高度な分析能力を前提したものであり、例えば私自身がマーラーの作品を聴くときに、彼らの要求するような水準の聴取が出来ているとは到底思えないし、マーラーに初めて出会った時の「子供」であった私の経験を、彼らの分析は少しも説明してくれない。勿論、高度な分析が、自分が気付かなかったようなマーラーの作品の秘密を明らかにしてくれることを否定するわけではなく、私のような愛好家はそうした分析の恩恵を最も被っているに違いないのだが、それでもなお違和感が残る。そしてその由来を端的に述べれば、マーラーの音楽を聴く時には、確かに高度な記号操作が行われているには違いないのだろうが、その背後で起きていること、音楽が人を惹きつけ、感動させ、或いは世界の見方を変えさせさえするにといった側面については、そうした分析が語ることが余りに乏しいことに存するように思える。そして私が知りたいのは、寧ろ、背後で起きていることの側であり、それが起きるメカニズムの側なのだ。
 背後で起きていることは、一般には心理とか情動という言葉で語られ、そうした側面についての研究も行われているが、それらの多くは、あえてやや戯画化した言い方をすれば、何種類かの作品を与えて、何種類かの感情なり、情動なりのタイプを事前に決めておいて、その間の対応づけを行うといったレベルに終始する限り、余りに肌理が粗すぎて、ここで私が知りたいことに対する回答はおろかヒントさえ与えてくれるようには思えない。せめてよりミクロな音楽の脈絡に応じて、聴き手の「心」の内部で起きていることに対して、例えば今日ならば脳の働き方を測定することによって探りを入れるようなものであるべきだろうと思う。勿論、そうした実験結果から言いうることと、ここで私が知りたいと思うこと間の径庭は大きいと思う。例えばデリック・クックが『音楽の言語』で試みたようなアプローチは、今や辛うじてながら、それでも異なる文化的伝統を身体化している極東に住む我々から見れば、音型と情動の結び付けは、全く恣意的ではないとはいえ、非常に多く文化的・社会的な文脈で形成されるものであることは間違いなく、他方でそうした我々が、クックが解明しようとした伝統に属する音楽を「聴く」ことができるからには、文化的・社会的決定論というのも誤りで、その結び付けは学習によって後成的に形成可能であることもまた、明らかであるように思える。であるとするならば、その結び付けの手間で、そこに辿り着く前に音楽の構造の側でやれることはたくさんある筈だ。

  だがもう半面の側、ではマーラーの音楽の音響態としての構造のどこに「物語性」を成立させる契機が含まれるのか、ひいては「意味」を見出す手掛りがあるのかというポジティブな半面についてここで私が具体的に語れることは、幾つかの漠然とした予感を除けばほとんどない。辛うじて言いうることがあるとすれば、それは自伝的自己を備えた延長意識の構造の解明とパラレルであろうということと、音楽が時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想を採り、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて音楽の構造を分析することが、トンネルを反対側から掘り進める方法として考えられるのではないかということである。そしてその限りにおいては、上で検討した「物語論的」枠組みでのマーラーの交響曲の個別的な分析の内容には参考にすべき点、傾聴すべき点が少なくないのだ。必要なのは或る種の展望の変換であり、完全に客観的なデータの分析というのは不可能であるという点は踏まえた上で、作曲のためのユーティリティに過ぎない規範、或いは先行する時代のモデルとなる作品を分析するために設定された規範(例えばシェンカーのモデルもそうしたものの一つであろう)からの逸脱の距離を測るという遠近法的倒錯をやめて、マーラーの楽曲のデータそのものから読み取れるものは何かを探るというアプローチではないかと私には思えてならない。
 批判ばかりしていないで、では具体的にどうすればいいのかについて述べるべきとは思いながら、漠然とした予想めいたものを書き留めることしかできないでいることは上記のに記した通りだが、ことマーラーに関して言えば、具体的なあてが全くないわけでもない。例えば、これも上で言及したDika Newlin以来の発展的調性を、調的なスキーマ(ドミナント優位のシェンカー的図式ではなく、 同主調とか3度関係、サブドミナント側への連鎖などの使用や、転調のプロセス、 特に媒介なしの切り替えの使用など、Dahlhausの言う「オリジナリティの原則」の周辺で、 具体的な特徴が取り出せるのではというように感じている)と関連づけ、これまたPaul Bekker以来の交響曲という多楽章からなる楽式に関する古典的な問題、即ちフィナーレの問題と結び付けて再解釈することなどが、「物語性」にアプローチする方法の一つとして考えられまいか、というようなことを考えているのだ。その一方でマーラーの場合には、いわゆるセカンダリー・パラメータの重要性というのは夙に指摘されてきており、何よりも「うたう」ことを念頭に置いた場合、旋律と旋律の複合としての対位法がマーラーの場合には特に重要なのは明らかで、 調的な図式を抽象した分析ばかりをやっていては取りこぼしてしまうことがあまりに多いのを嘆息するばかりなのだが。だがそれでも、具体的にデータを処理しようとしてぶつかる問題への対応を一つ一つ検討していくことが、既成の規範を暗黙の前提とすることなく、それをいわば現象学的還元して、寧ろそれが拠って立つ基盤を明らかにすることに繋がりはすまいか、そのようにして、規範からの逸脱としてではなく、寧ろ、異なる選択肢を都度(アドルノの言葉を借りれば)「唯名論的に」選び取って、実質的な仕方で世界を構築する仕方を拡大していったマーラーの営みを明らかにする端緒となりはすまいかということを思わずにはいられないのである。(2019.11.4-6初稿・公開,10加筆)

2018年8月5日日曜日

アドルノのモノグラフにおける「子供」について

 マーラーに関する日本語文献(海外の文献の翻訳を含む)は、マーラー・ルネサンスと呼ばれた1960年代より少し遅れて、1970年代になってようやく増え始めたかのように見える。勿論、そのピークはバブル景気の時期、1980年代後半から1990年代初頭くらいにかけてで、かなりの数の文献が出版された。そしてその後は、そうした「ブーム」の再来こそないが、すっかり大作曲家の一人として定着して、アニヴァーサリーが祝われ、文献も着実に増え続けているようだ。

 だが40年程前、私がマーラーを発見した頃の様相は全く異なっていて、丁度、ぼちぼち出版されるようになってきた文献を(子供独特の性急さと集中力で)内容を諳んじる程にまで貪り読んだものだ。時代と場所の(従って文化の・社会の)違いをものともせず、半ばは視界狭窄に助けられて、その音楽に「直接」向き合い、作曲家の人格に「直接」接したという性急な思い込みは、それが既に喪われてしまって後になって、かろうじて以下のアドルノの言葉の中に己を弁護してくれるものを見出すことになる。それはモノグラフの冒頭、「数秒の間この交響曲は、地上から天に向けられたまなざしが生涯にわたって不安げにかつ熱意を込めて求めていたものがあたかも実現したかのように夢想する。そのまなざしに対してマーラーの音楽は忠実であった。つまりは経験の変容が、彼の音楽の歴史なのである。」という記述に導かれて登場する。

「このように、十代半ばの子供は人を圧するように打ち降りてくる音を耳にして朝五時にたたき起こされるのかも知れない。その音を夢うつつにほんの一瞬耳にした者は、それがもう一度やってくるのでは、と期待するのを決して忘れはしない。その音の感覚的実体性を前にしては、形而上学的思考も色あせ、無力である。この形象の中でのあの瞬間は果して成功したのかそれとも単に意図されただけだったのか、と問いかけるだけの美学もまた同様である。あの瞬間にとって、それ固有の亀裂は本質的であり、それが成功した作品という見かけに反乱を企てるのだ。」
(アドルノ「マーラー 音楽観相学」、邦訳:龍村あや子訳、法政大学出版局, 1999, p.6) 

 これはバブルの時期に出版されたムックの一つに収められた対談か何かで、「マーラー・ファン」を自認する対談者の一人が冒頭、マーラー・ファンたるもの、自分とマーラーとの出会いを語るところからはじめなくてはならない、といったことを述べているのに面食らったものだが(とはいうものの、「からはじめる」わけではなくても、一応、受容史のドキュメントとして、私もまた「出会い」について書いた文章を書いたことはあるのだが)、それもまた、上記のアドルノの言葉の下では、少なくとも理解しがたいものではなくなるように思われたものである。そこから「はじめなくてはならない」かどうか、否、そもそもそれを「語る」(一体、誰に対して?)かどうかはおいて、マーラーの音楽が持つ、或る種の性格、私が「意識の音楽」という言葉で言い当てようと試みて、今なおそれを果たし得ていない質が、エピソード記憶を系列化することにより紡ぎ出される自伝的自己の成立に関わる機構に関わるものであり、「物語ること」への衝動に関わるものであるが故なのだろう。そしてその起源には、意識を備えた自己が成立する根拠として、「他者」の経験が、「超越」の経験が介在しているという消息を、上記のアドルノの文章は言い当ててていると思われるのである。それはマーラーの音楽の性格付けであると同時に(というのも、それは「音楽」一般が備えているわけでもなく、西洋音楽一般が備えているわけでもなく、マーラーと同時代の音楽が備えているものでもなく、更に言えば上記の文章の直後にアドルノが正確に言い当てているように、マーラーの音楽が嫌悪される原因でもあるからであるが)、他方で、自伝的自己の起源の出来事(の物語、それは常に事後的に、そのようにフィクションとして語られるしかなく、それは事実そうであったかについてよりも、どのようなものであったかについての神話的な記述であるほかないのだが)でもあるのだ。

 マーラーの音楽がそのような性格を帯びることが、歴史的事実としての社会的・文化的環境に媒介されたものであるにしても、それは勿論、統計的に平均的な典型的な事象というわけではなく、寧ろ、カオス的な挙動、カオス的遍歴の中におけるアトラクター痕跡の如きものとして記述されるのが妥当な、偶然的、例外的な出来事である一方で、一世紀後の極東の子供にも起こり得る程度には一般的な、ジュリアン・ジェインズ風に言えば、ポスト二分心のエポックの人間の構造に由来するものでもあるのだ。アドルノの記述では、勿論天から降ってくるのはマーラーの音楽ではない。だが、マーラーの音楽がそのようなものであり、そしてまさにそのようなものとしてマーラーの音楽に或る日出遭った子供は、寧ろマーラーの音楽を通して、自分が予感してはしても、はっきりと了解はしていなかった、だが実は実際にはそもそも自分というものが成り立つために必須の契機であったところの「今此処にある以上のもの」への眼差しを獲得するのではないか。いわば構造的ともいえる絶対的過去の忘却(というかそれは自己の成立に先立ち、それを可能にするという仕方でしか立ち現われないのだから、忘却することも不可能で、それゆえ想起の、再認の対象ではありえないのだが)を了解するのではなかろうか。

 上記引用箇所では厳密にはHalbwüchsiger、アドレッセントであり「子供」ではないが、文字通りKind、子供の経験に言及した件が、モノグラフの最後の章Der lange Blickに登場する、といってもそれは冒頭の「マーラーの音楽は、子供の頃の記憶の痕跡の中にユートピアをしっかり持っている。」以下の部分ではない。アドルノのここの部分の記述は、裕福なブルジョワの子弟であった彼自身の来歴もあってか、あたかも、かつては実際にそうしたユートピアがあって、そのときには気付かなかったけれども、それが喪われてからようやくそれが幸福であったことに気付いたといったように読めてしまう書き方になっているが、実際には、そんなユートピアは一度も存在したことが無く、初めからそれは喪われたものとして、寧ろ自分が存在する以前の世界を懐かしむようなものでしかないのではないか。寧ろ、自己が成立した時には既に神は「隠れたる神」でしかなく、自己が存続し続ける限りでもまた隠れたままである、という消息をこそ、マーラーの音楽は告げているように思われる。同じ章のずっと先で、再び「子供」が出現する場、だが最早、条件法的にしか出現しない場である、第9交響曲のフィナーレの終結部分についての記述で登場する「死ぬとわかっている人に対して、彼がまるで子供であるかのように、すべてはうまくいくのだと約束が語られる。」という箇所も、同様の仕方で読まなくてはなるまい。

 そういう意味合いで興味深いのは、寧ろ、少し前に戻って、最終章の冒頭でプルーストを参照する部分に後続する、以下の文章で登場する子供の形象ではなかろうか。

「作曲をしようとしてピアノのキーをあちこちたたく子供は、どのような和音にも不協和音にも意外な転換にも、無限の重要性を信じている。子供はその響きを、ほんとうはほとんど慣用的なものなのだが、あたかもそれまでまったく存在しなかったかのように「はじめてだ」という新鮮さで耳にする。あたかもそれらの音の中に、自分の頭に浮かぶもののすべてが満ちているかのように。こうした信頼はいつまでも保たれることはないし、こうした新鮮さを修復して再生させようと目指す者は、すでにその新鮮さがそうであったところの幻覚の犠牲となる。マーラーはしかしその確信を捨てることなく、「はじめてだ」という感覚をその欺瞞から救い出そうとする。」(邦訳:pp.186-7)

  ここでアドルノが言っていることは、ほとんど不可能なことのように思われるかも知れないが、マーラーの音楽を聴く者は、それがマーラーにおいてのみ可能であるかどうかはわからなくても、少なくともマーラーにおいては、可能であることを再認する。同じ作品をもう一度聴き、更にもう一度聴いてなお「はじめてだ」という感覚は喪われることなく、都度感受されることを確認するのである。

 まずもって、記憶がなく、都度新しい瞬間のみがある時、実際には「はじめてだ」という感じは起こらない。(寧ろここで思い浮かべるべきは、脳神経科学者が報告する病理的なケースであろう。)つまりこれは、まず第一には、エピソード記憶の系列からなる自伝的自己があってはじめて可能な経験なのである。

  いや、「はじめて」かどうかということの判定ということであれば、一見したところ単純なパターン・マッチングや距離計算により検出可能に思われるかも知れないし、それは流石に現実を過度に抽象化したが故の錯覚であるというのであれば、事例をひたすら貯めこんで、学習を行う機械であれば、ある事象が統計的にみて「慣用的なもの」か「例外的なもの」、稀なケースであるかどうかを判定できるのでは、という疑問が湧くかも知れない。だがそもそも、機械に対してどういうデータを与えるのかを機械を操作する人間が決めているとするならば、「新しさ」や「はじめて」を決めているのは機械ではなく、学習の環境をナヴィゲートしている人間の側であろう。結局のところ、デネットのいう理解力なき有能性は「新しさ」を感じることはない。それは統計的な規則性と、それからの逸脱を検出することはできるが、その逸脱が、単なるノイズなのか、「はじめて」経験する「新しい」何かの到来なのかを判定することはできない。結局のところ、第一にそれは事後的には「目的因」として仮構されるような或る種の方向性を、学習する系自体が持つ事なしには不可能なのだ。

 だがそれでは、「アルファ碁」およびその後継のシステムのように、囲碁という、或る意味では人間の能力を超えるほど広大な空間を持ちながら、結局のところゲームの定義と規則によって定められた、評価について閉じて完全に安定した領域であれば既に実現されたかに見える、自己ナヴィゲーション能力があれば十分かと言えば、それが閉じた空間の中での能力である限りは、ここで言われている「新しさ」や「はじめて」に到達することはやはりないであろう。この点に関して、デネットの近著『心の進化を解明する』における、アルファ碁その他の実際の「知的」システムそれぞれの達成したものと、彼のいう「理解力」との距離を測る作業に感じ取れるある種の逡巡の理由を考えることは興味深い。デネットは、いわゆる強いAIに対して否定的ではないにも関わらず、クオリアは存在しない(つまり意識はあるが、現象的特性は幻想である)と言い、哲学的ゾンビについては、我々もまたゾンビであるという立場をとる。ヘテロ現象学の提唱に見られる一人称的パースペクティブ(ひいては三人称的なそれとの対比)に関する素朴な(それこそフォーク・サイコロジックと言い返したくなる)思い込みもそうだが、彼は、本来は「存在」に対して中立であるべきところで、如何なる理由によってか定かでないが(まさかそういった方が論争上の修辞的な効果の上で優っているからということはあるまいが)、勇ましくも断定を行い、そのことによって、幻想であったり物語であったり、虚構であったり、幽霊(マーラー的には「レヴェルゲ」)であったりするものどもの存在論的地位を認めない。ここではそれを論証することはかなわないので、示唆するにとどめるが、実はそのことは、一人称的パースペクティブの成立の基盤にある「他者の経験」をデネットが等閑視していることと通じており、そしてそのことが、「知的」システムそれぞれの達成水準についての評価の基準において、デネットが決定的な点を見落とす原因でもあるのだ。

 この点について言えば、世上、誤解される場合が多いように見受けるが、哲学的ゾンビという問題設定自体をナンセンスだとするヴァレラの神経現象学的視点の方が優っているのである。一見したところ論理的には矛盾しているように見えるヴァレラのような考え方を、そちらの方こそナンセンスとして切り捨てるのは容易いが、そうする者はしばしば、己れの論理が前提とする概念規定が持つ素朴さに足をとられて、現実の奥底に隠されているメカニズムを見過ごしてしまう。もっともデネットの奇妙なスタンスに対するだけであれば、ロボット工学者で受動意識仮説を提唱している前野隆司さんのクリアな断定を持ってくれば十分であろう。消去主義者寄りの立場を自認する彼もまた「意識は幻想だ」というけれども、その先はデネットとは袂を別って「在るというには頼りない幻想のようなものだが、その幻想のようなクオリアは<私>にとって確実に第一人称的に感じられるものだ」と言い切っているのだ。この一見すると常識的と思われる見解の中の「感じられる」ということばにこそ、全てが賭けられていると言っても良いだろう。そもそもが、寧ろ説明すべきは「クオリアが確実に感じられるのは如何にしてか」の方ではなかったか?

 つまるところ、マーラーの音楽において「はじめて」の経験、「新しさ」の経験が可能であるということは、前の引用における「他者」の経験、自分の世界に穿たれた亀裂と本質的に相関しているのである。ここでは仮説の提示、素描に留める他無く、論証は後日を期さなくてはならないが、そのことはアドルノがモノグラフの末尾で述べる、社会から疎外されたものへと手を差し伸べるマーラーの音楽の性格にもまた、相関しているはずであり、そのことはマーラーの音楽を、それが産み出された時代と歴史的・社会的・文化的環境に還元して説明するのではなく、寧ろ、その音楽そのものの相貌を捉える観相学によって描き出すことによって明らかになるのであろう。その意味でアドルノのアプローチは正当であるには違いないものの、今やその後の50年の変化を踏まえた書き直しが求められているのではないかと思われてならない。一例を挙げるならば、カオス理論は、控え目に言っても、予測が可能であるということの意味合いを根本から変えてしまった。決定論的な規則に従って時間発展する系であれば、その挙動は予測可能であり、そこには新しいものはなく、それゆえ、はじめてということもないのだというのは、カオス力学系については当て嵌まらない。そしてこれは単なるアナロジーに過ぎないが、カオスが発見されたのが、天文学における三体問題であったことを思い起こしてみるならば、それぞれが世界の中に埋め込まれたエージェント間の相互作用、出会いや対話が成り立つような場を記述しようとしたときに、それは古典的な描像ではなく、寧ろカオス力学系で記述するのが適切なものであると考える方が自然ではなかろうか。そもそもが記憶のメカニズムにカオスが関わっている可能性があることが既に示唆されており、エージェントを単独の系として取り扱う際に既に、その挙動はカオス的であるかも知れないのだ。そしてそうした系については、解析的に調べることができないから、モデルを作ってシミュレーションしてみるという、工学的なアプローチが不可欠なものとなる。

 パウル・ツェランは、ある手紙の中で「真の出会いがあるとき、それは実際は再会です。(…)再会がはじめて、出会いを出会い足らしめるのです。」と語ったそうだが、それはこの詩人のシュールレアリズム仕込みの逆説か詩的な文彩の如きものとしてではなく、文字通りに受けとめるべきなのだ。そうすることによって、アドルノが示唆した子供の経験の構造を示すものであることが示されるだろう。一見秘教的(これはツェランに対してアドルノが用いた形容だが)であり、他者とのコミュニケーションを拒むかに見えるツェランの詩と、あらゆるものを自分の中に包摂しようとする肥大したロマン主義的自我であるかに受け止められるマーラーの音楽とに存在する、そうした見かけの背後にある共通した、他者との出逢いを本質的な契機として孕む、多声的な構造が浮かび上がってくることだろう。

 そしてそれを可能にするのは、具体的な理論(ないし理論に基づくモデル)構築の裏付けを持たない哲学者の貧困な論理などではなく(それが間違っているのでなくても、その操作が暗黙裡に前提としているモデルがあまりに単純すぎて―それはこの観点からいけばフォークサイコロジックなものと多くの場合には大きくは異ならないー、一見したところ直観に反するような指摘ができた場合でも、いわば必要条件を浮かび上がらせることがせいぜいで、説明能力のあるモデルを提示するには及ばないのが常であるようだ)、カオス理論のように、「新しさ」や「はじめて」についての再定義を可能にするような理論に基づいた工学的なアプローチである筈である。マーラーの音楽もまた、アドルノのモノグラフを超えて、それに相応しい分析が可能になるのは、そうしたアプローチを通してではないだろうか。そしてそれは同時に、ポスト二分心のエポックにおける(つまり現在の、そしてポスト・ヒューマンのではない)意識が成立する機構を明らかにし、そのことを通じて、その構造を実践的な仕方で掴みとることができていたマーラーの「世界を構築する」という言葉を、まさにそのまま了解し、「出会いとは再会である」というツェランの言葉を、まさにそのまま了解することを可能にするに違いないのである。

 最後にもう一言加えて、アドルノの言葉を出発点とした素描を終えることにしよう。私は哲学者のレトリックに対抗するのにロボット工学者の発言をもってし、更にカオス理論を取り上げて、それが「新しさ」「はじめて」という感じを経験することができる系のモデル構築の手掛かりとなりうることに触れ、それが工学的なシミュレーションのようなアプローチでしか(より正確には、それ抜きにはというべきだろうが)アクセスできないことに触れたが、ここでいう工学的アプローチは、必ずしも通常、工学ということでイメージされるものに留まる必要はないだろう。否、マーラーの、ツェランの創作の実践は、広い意味で(ただし決して比喩としてではなく、文字通り)工学的なアプローチではないのか?作品において「世界を構築する」こと、「はじめて」の経験を可能にすることは、まさに工学的な実践に他ならないのではないか?芸術と科学の間には厳然たる区別があるけれど、にも関わらず、その実践には少なからぬ共通点があることは夙に指摘されてきている。そしてそのことを今日的なテクノロジーやメディア論の文脈で自覚的に実践している例として私が直ちに思い当たるのは、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」なのである。勿論、マーラーについてそう述べたように、ここでも音楽が全てそういうものである必要はないし、実際にそうではないだろうが、時代と場所の隔たりを超えて、更には一見したところ共通性が全く感じられず、実際にほぼ反対側からアプローチしているにも関わらず、そこには自己の境界まで辿り着き、根拠まで降りて行こうとする衝動のベクトルにおいて共通性を見ることができるように思われる。もはや明らかだと思われるが、アドルノの子供は、三輪さんの「昇天少年」、「新しい時代」において、最後に自分の声で歌うことができた少年に他ならない。そして結局のところ、私が聴きたいと思うのはそうした「音楽」なのだ、ということになるのであろう。(2018.8.5 未定稿)

2009年5月24日日曜日

今更、どうしてマーラーなのか

今更、どうしてマーラーなのか、という問いは二重の意味で現在の風景に馴染まない、アナクロニックなものに見えるかも知れない。 一方ではマーラーの音楽はコンサート・レパートリーの重要な部分を占めているし、マーラーの同時代の音楽は勿論、それ以後の過去の音楽 (20世紀に「現代音楽」と呼ばれたジャンルも含めて)も、逆にマーラーより前の音楽も、ある意味では分け隔てなく演奏が行われ、聴取が行われている。 アーノンクールが指摘するようにそうした風景が歴史的にみて異様なものであったとしても、「今更」という問いは、そうした展望の下では最早 相応しくないかのようだ。一方で、同時代性からの展望は全く異なるだろう。1世紀のうちに生じたパースペクティヴの変容によって、マーラーの音楽は 恐竜の如く、既に過去の遺物であるかのようだ。とりわけケージの名前に象徴される音楽の定義の見直しの後の風景の中で、マーラーの音楽は はっきりと過去の制度の制約をあまりに強く受けすぎていて、最早「使いみちのない」ものに見えるかも知れない。もっとも、断絶を強調するような こうした見方は寧ろかつて20世紀のある時期まで優勢であったもので、ポスト・モダンの今日は最早「何でもあり」なのだとすれば、最初の問いはもう一度、更に 三つ目の意味合いでナンセンスだということになるのかも知れないが。もっとも、上記の2つないし3つの「理由」は、一般論として思いつきはしても、 私にとって等しく説得力を持つものではない。私が特に関心があるのは、2つ目の立場、同時代性からの展望である。「マーラーの時代が来た」という声の 一部に恐らくは意識的に、あるいはまた無意識的に含まれるであろう、マーラーの音楽は最早時代を超越しているのだ、それは普遍的なのだというような 見方は私には到底受け容れ難いし、だからといって「何でもあり」の時代だからマーラー「もまた」いいではないかと思っているわけでもない。 クラシック音楽を自明とする立場にありがちな前者の考えこそ時代錯誤も甚だしくて、そうした距離感や自分の立ち位置の意識が欠落した評論、 解説の類にはいらいらさせられるし、その一方で私は基本的には偏狭な人間なので「何でもあり」の一つとしてマーラーに接しているわけではない。 寧ろ共感でき、戸惑い無く聴ける音楽は非常に限定されているといって良い。そもそも偏狭である以前に時間の制限や能力の限界もあって、そんなに色々なものを 相手にするのは無理なのだ。

私は音楽を職業としていないので、あくまでも自分の生業とのアナロジーによる想像に過ぎないが、例えば音楽の創作の現場に自分が居たとすれば、 マーラーの音楽に対して現実に今そのように接しているように接することはありえないだろうな、という気はする。端的な言い方をすれば、自分がもし 音楽を書くとしたら、マーラーのような音楽は書かないだろうということだ。マーラーは結局のところ過去の別の文化に属する他者であって、 同じ位置に自分を置くことはできない。だから、一見矛盾しているようではあっても、同時代の営みの中で私が関心を持つのは、マーラーの音楽とは 一見して全く関係の無い、寧ろ、そこからは最も遠く隔たっているかに見えるような類の試みなのである。自分でも何となく腑に落ちないのだが、 同時代の誰かがマーラーのような音楽を書くことに対しては明確な拒絶反応があるようなのだ。ほとんどナンセンスに等しい乱暴な仮定であることを 承知で言えば、もし現代にマーラーが生きていたら、彼が書いたのはあのような音楽ではなかっただろうとも思う。こんな仮定を積み重ねることに さしたる意味はないだろうけれど、今日マーラーのような音楽を書くことは、マーラー的なメンタリティに反するとさえ言えると思う。少なくともマーラーが 持っていて、その音楽として具現している或る種の志向、私にとって、そのためにマーラーを聴き続けている何かを現代の日本で展開しようとすれば、 全く異なった相貌の音楽になったに違いない。そういう意味では、時代の制約によって音楽が身に纏う意匠というのは、実は「抜け殻」(マーラー自身が 晩年のある書簡でこういう言い方をまさにしている)に過ぎないのではという気さえする。ありていに言えば、似たようなスタイルの全く異なった実質の 音楽が山とあるのは、多分いつの時代でも同じだろう。私には後期ロマン派の音楽が好きです式の括り方ができるというのが信じられないのだ。 (もっとも、現在からの距離感というのが存在しないわけではないから、後期ロマン派以前の音楽をどう聴いたらよいのかわからない、といったことは 起きるのだが、だからといって、後期ロマン派なら何でも良いことにはならないだろう。) 同様にアルゴリズミック・コンポジションなら何でもいい、あるいは力学系やオートマトンを使っていればいいというわけでもないのは当然のことである。 その結果、今度はミニマル系が好きですとか、ノイズ系がetc.の括り方に抵抗を覚えることになる。だがだからといって、意匠がどうでもいいかといえばそんなことはない。 与えられた環境、文脈に応じて、妥当な選択というのがある筈で、それが19世紀末のウィーンと21世紀の日本で同じであるわけがないだろう。

だが、だったらもう一度、今更、どうしてマーラーなのか、という問いに立ち戻らざるを得ない。今日の創作の現場ではありえない選択肢だと言っておきながら、 1世紀の時間と文化的な隔絶といった距離感を感じつつ、それでも何故マーラーの音楽がこのように力を持っているのか。今や、始まりと終わりがあること、 組曲形式、オーケストラという媒体を用いること、コンサートホールという場での演奏を前提としていることといった、ある領域の内部では自明と見なされている事柄すら、 より広い展望の下では最早とっくに自明ではなくなっているというのに。勿論、マーラーの音楽のプロセスはそれが下敷きにしている古典的な形式のそれではないし、 組曲形式の持つ意味もすっかり変容している。あるいはまた、今やそれはコンサートホールで演奏される「音楽」であるよりも多くCDのような媒体に収められた 「録楽」であるかも知れない(少なくとも私自身については)。最後の点に関連する点で最近よく思うのは、一時期よく言われた「マーラーの時代が来た」と言われた 時代の演奏よりも、それに先立つ時期の、演奏精度や慣れといった点では見劣りがするかも知れない演奏の方が、マーラーの音楽の持つ特性を (もしかしたら半ばは無意識にであれ)掴んでいるのでは、ということだ。勿論、例によってそれを時代による演奏様式の変遷のような議論に縮退させてはならない。 歌は世につれ、ということであれば、テクスチュアに徹底的に拘った今日の高精度な演奏こそ相応しいということになるのだろうし、そうした意見にも一理あることは 確かだろう。だが私個人にとってはそうした「現代的なマーラー」は 不要とまではいわないが、少なくとも「今更マーラーを聴く理由」に照らしたときに、興味を惹くものにはなりえない。歌は世につれならば、そもそも今更マーラーを 聴く理由など無いはずではないか、というわけである。だからといって懐古趣味やら刷り込みというわけでもない。そもそも自分が生まれる前の演奏、 自分が文脈の持ち合わせのない演奏に対してノスタルジーを抱くというのは矛盾だ。「伝統」のようなものが不可欠であるわけではないのはバルビローリの演奏を 聴けばわかる。だいたい20世紀後半の日本にいる一介の音楽愛好家が、自分の立ち位置を棚に上げてマーラーの音楽の演奏の「伝統」を云々するのは、 客観的に見て滑稽ですらあるだろう。そもそも私は文化史とか社会学的な興味でマーラーに関心を持っているわけではないから、マーラーの音楽をそうした 文脈とか背景に還元することには反撥こそ覚えることはあっても、納得することはない。一方で日本での洋楽受容史みたいな視点も最近はよく見かけるが、 今度は自分がその内側の末梢に位置しているのだろうとは思っても、そこに今更マーラーを聴く理由が見つかるとは思えない。近衛秀麿の第4交響曲録音が マーラー演奏の録音史上特筆されるべきことであると言われても、貧弱な音質のその録音に今更マーラーを聴く理由を見出すことは私にはできなかった。 歴史的録音の蒐集には関心がないから、例えばメンゲルベルクの1939年の第4交響曲の演奏記録と同列に論じることなど私には思いもよらないことなのだ。

だが、それでも今更マーラーを聴くことに理由がないわけではない。このように始まり、このようなプロセスを持ち、このように終わる音楽が他にないから。 主題があり、動機がある。それはイデーを拒否した音の並びの対極にあって、単なる音響であることができない。だがその一方でそれらが辿る履歴は 独特で、因習的な仕方でなく、変容し、解体していく。だが解体してもそれはただの音にはならない。断片に過ぎなくても、それは断片であることを 主張する。引用も、自己引用もそうした前提あってのことだ。プロセスもまた、因習的な構造を極限まで押しひろげながら、それを壊してしまうことは 決してしない。自己を消去し、一旦すべてをリセットしてやり直すラディカリズムはそこにはない。寧ろ矛盾しつつ、変容しつつ、彷徨う自己の遍歴そのもの なのだ。他者の声が介入したり、自らをエミュレートしたり、眠りにおけるように忽然と消滅して、また突如として生起したり、巨視的に見ればある法則に 従っていることはわかるが、微視的には隙間や穴がたくさんあって、挙動が予測できない。垂直的にも水平的にもその組織は複雑だ。多彩なテクスチュア があり、再帰的な構造があり、中間的なユニットが存在する。それらは蠢き、くっついたり離れたり、分解したり、別のものになったりして、 決して同じでいることがないが、全体としてのコヒーレンスは辛うじて保たれている。意識の挙動について語る時、神経系の挙動のレベルとは別の水準が適切なことが 多いように、その挙動もまた、一つ一つの音のパラメータの値とその変化の方向や大きさの記述をしただけでは適切に記述したことにはならないだろう。 そしてそのプロセスは自然現象よりも意識の流れに遙かに近いように思われる。もともとは踊りのための音楽の連鎖であった組曲も、 ここでは全く別のものになりはてている。ここでもマーラーは単一楽章への圧縮による論理の徹底という方向性はとらない。 彼の音楽は複数の異なる楽章の継起でなくてはならないのだ。多元性、複数の層の 存在がマーラーの音楽には欠かせない。複数の楽章が無ければ、異なる文脈での素材の引用といったことはそもそも起きようがない。逆算したわけではなくとも、 結果的に組曲形式はパースペクティヴの複数性を可能にし、筋書きを重層化し、ストーリー・テリングを厚みのある複眼的なものにしている。そしてその音楽の 背後には常に或る種の志向が働いていて、それは複数の作品を跨いでその音楽を単なる多様式主義の混沌と化すことを拒んでいる。世界がどのような 相貌を持っているかは、主体のありようと相関的なものだ。そしてその意味において、このような音楽を私は他には知らない。

その軌道は複雑で、簡単に記述することを拒むけれど、一例を挙げれば第3交響曲の終楽章の練習番号26番におけるような、あるいは第8交響曲第2部の 練習番号156番におけるようなマーラーの音楽のあの強烈な「再現」に匹敵するものを私は他の音楽に見つけることができない。 それは単純な反復ではないのだ。あるいはまた枚挙に暇がない、マーラーの音楽における「後戻りができないポイント」の存在。そしてそうしたかけがえの ない何かは、これまた一例に過ぎないが、1952年にヴァルターの指揮のもとフェリアーが歌った「大地の歌」の終楽章のコーダの始まりのような、 自分が生まれる遙かに前の演奏記録にはっきりと刻印されていることが多いのだ。今日のコンサートホールでそれが聴き取れるないと言い切ることは できないだろうけれども、時間的にも経済的にもそれは非常に効率の悪い投資に感じられてならない。ライヴかスタジオかといったことも取るに足らないことで、 決定的な瞬間はスタジオでだって起きる時には起きるのは当然のことである。注意しなくてはならないのは、マーラーの音楽においてテクスチュア、音自体の 質が重視され、セカンダリー・パラメータの機能が重要になるからといって、徒らにそこにフォーカスした演奏解釈が「正解」であるわけではないということだ。 そうした恣意によって喪われるものは少なくないだろう。今更標題についての詮索をしたところで、マーラーの音楽の出てきた背景を明らかにすることは可能でも マーラーの音楽に辿り着くことはない一方で、「純音楽的」と呼ばれるアプローチが、マーラーの音楽そのものが持っている質の把握を保証するわけでもない。演奏解釈に おける「音楽だけが問題だ」という立場は、それはそれで結局は人間の営みである音楽に対する或る種の態度決定で、その結果として現象する「音楽そのもの」の 実質に対してそうした態度が特権的な立場にあるわけではない。マーラーはフェルドマンやクセナキスではないけれど、ベートーヴェンでもない。なんなら人間の心の 外界との相互作用を力学系で記述することにしても良いのだ。標題的・文学的解釈でなければ物理的な音響がすべて、という二者択一は論じる側の記述言語や 語彙の貧困を対象に押し付けているに過ぎない。適切な記述レベルを探すのは論ずる側の仕事のはずである。まあ、もしかしたら「適切さ」についての 基準自体が動いていて、ある価値を最大化するには、そうした単純化をした方が都合がいいのかも知れないが。

(なお、私にとってマーラーの音楽がより多く三輪眞弘さんの言う「録楽」であることにもまた、もう少し別の見方がありえるかも知れないという気がしている。 確かにマーラーは、ミュンヘンでの第8交響曲初演をその一方の典型例と考えられるように、コンサートホールで演奏され、聴取されるためにその音楽を 作曲した。だが、100年後の今日、それが日本のコンサートホールで演奏されることの意味合いは同じものである保証はない。マーラーの音楽は、 しばしばそう思われているように、未来のコンサートホールの聴衆のために書かれたのだろうか。私にはそうは思えない。そして、それがはっきりと過去の遺物である という認識が「録楽」としてマーラーの作品を聴くこととどこかで繋がっているように思えてならない。そのとき「録楽」として聴くことによって、その音楽の現代的な意義が 見えなくなっているのではという嫌疑があることは認めるが、果たして作用の向きはそちらだけだろうか。マーラーに関してはかつて、コンサートホールでの演奏にも 何度か接して、交響曲については辛うじて過半の作品の実演には接しているのだけれど、その経験を踏まえてもなお、今更マーラーの音楽を聴きに、 時間の制約がきつくてコストばかりは決して小さくないコンサートに足を運ぶ気にはなかなかなれない。しかもそこでの演奏が、私が聴きとりたいと思っている志向を 捉えてくれているという保証はないのだ。否、もはやそうして志向を現在の日本のコンサートホールで確認することは望み薄で、寧ろ積極的にマーラーは 「幽霊」であって、それゆえ「録楽」こそが相応しいのでは、という気がしてならないのだ。ちなみに同時代の音楽だけでなく、ブルックナーやショスタコーヴィチと いった作曲家についても必ずしもそうは思っていないから、これは私のクラシック音楽の受け止め方一般の徴候ではなく、相手がマーラーの場合に固有の 問題である。卵が先か、鶏が先か、あるいはすでにループの内に落ち込んでしまっているから、今更どちらかを区別するのは実際上不可能なのかも知れないが、 マーラーと私の間に広がる100年の時間と、地球半周分の距離、そしてそうした量では捉えられない文脈の隔絶には、寧ろ「録楽」と、解読を待っている投壜通信の ようなスコアこそが相応しいのではという感じがしてならないことは書き留めておきたい。仮にコンサートホールに足を運んでも、そこで聞く実演の方が寧ろ「影」に 過ぎないのでは、という感覚すら私にはあるのだ。これまた「投壜通信」の媒体に他ならないCDに収められた過去の演奏記録に接する時の方が、 所詮は過去の異郷の音楽であるマーラーに接するには相応しくはないのか。どこかで否定したいとは思いながら、そうした考えを否定することができずにいるのである。)

その一方で、マーラーの音楽のそうした特徴を適切に記述する語彙はまだ確立されてはいないように思われてならない。マーラーの音楽は人間の意識活動も 含めた活動の結果であるだけでなく、その活動自体の或る種のモデルであるように思われる。それは活動そのものの複雑さ、多層性、多様性を備えている。 私が(不正確な言い方であることはある程度は承知で)「意識の音楽」と呼んでいるのは、音楽作品自体にその音楽作品を産み出す活動の影が映りこんでいる ような類の音楽を指していて、勿論、マーラーの音楽だけがそうであるわけではないし、連続主義的な立場をとれば、どんな音楽も何らかの形で、程度の差はあれ そうだということになるかも知れないけれども、マーラーの音楽こそが典型であると思っている。その特質は、静的な楽曲分析によっては記述できない一方で、 標題のような次元を幾ら渉猟しても言い当てることが出来るはずがないものだろう。あるいはもしかしたら、マーラーの音楽に刻印されたような意識のあり方自体が もはや現代では失われつつあるのだ、ジュリアン・ジェインズの言う通り、意識のあり方そのものが変化していくのだという見方が正しいのかも知れない。 だがもしそうだとしても、マーラーの音楽に刻印された意識の様態を過去の遺物だとは思いたくないのだ。それを普遍的なものであると主張することはできないし、 そうすることに興味があるわけでもないが、マーラーの音楽のようなものを生み出すことができるような生物の活動を私は価値のある、かけがえのないものだと 思っているのである。それを精神の営みと呼ぼうが、意識の営みと呼ぼうが、あるいはそういう言い方を拒絶して、ある非常に複雑な機械の活動と見なそうと 構わない。マーラーの音楽の(動的な側面も含めた上での)構造、そうした構造を産出することができる機構に私は関心があるのだ。

要するに、それを意識の音楽と呼ぶかどうかは一旦おいても良い。いずれにしてもマーラーの音楽のような複雑さと豊かさと、ある種の志向を備えた音楽を 私は他に知らないのだ。志向において通じる試みが今日為されていないとは思わないし、その達成にも端倪すべからざるものを認めることに吝かではないが、 マーラーの音楽の替わりを見つけることはどうやらできそうにない。今日の音楽がマーラーのそれのようでないのには必然性があるし、寧ろそうでなくてはならないのだろうが、 だとしたら喪われてしまったものは、少なくとも私にとっては無しで済ませられないほど大きなものなのだ。今更ではあるけれど、マーラーの音楽がなくては 私は困るのだ。それは或る種の価値の要石であり、そうした価値なくして私は到底やっていけないだろう。いきなり卑小な話になるが、休みの日の 数時間にこうしたことを書き付けることによって、やっと精神のバランスが保てているのだ。私というシステムを維持するのにそれは必要なのである。(2009.5.24)