当然のことながら、もともとは文学についての理論である物語論を音楽に適用することの是非や適用可能性についての検討は為されていて、論者によってその立場にはかなりの多様性がある。そもそも音楽への適用以前に、文学理論の側も単一の理論がある訳ではなく、様々な論者が様々な理論を提唱しているから、その中のどのバージョンを採用するかという点について選択肢が存在することになる。そして音楽に適用するフェーズに至ると、まず一方には音楽は「物語る」ことがそもそもできないという主張があり(例えばJean-Jacques NattiezやCarolyn Abbate)、他方では言語とは異なった仕方ではあるが「物語る」ための手段があるという立場がある(こちらは枚挙に暇がないが、思いつくままに挙げれば、例えばV. Kofi Agawu, Seth Monahan, Thomas Peathe, Neal Warner, Vera Micznik)。前者については物語ることができない理由についての相違があり、更に、では、にも関わらず音楽が「物語る」ように思われる時に起きていることは何であるかについても様々な見解が存在することになる。後者について言えば、「物語る」手段の具体的な選択肢が論者により異なってくることになる。具体的な選択肢としては、音楽に内在的なものに限っても、調的構造、楽式、主題の展開、カデンツ等、更には様々なセカンダリー・パラメータ、即ちリズム的な輪郭、楽器の配置や音の厚みなどのテクスチュア、音色の選択、様々なアタックの区別やダイナミクス等々までその範囲は及ぶようだ。
音楽は「物語る」ことがそもそもできないとする立場について語るべきことはあまりないのだが、Nattiezのように、それを語り手のNarrative Impulseに基づく単なるメタファーとするような主張は、ではその衝動がそもそも何に由来するのか、あくまでも言語表現の水準のメタファーだとして、全くの恣意というわけではなく少なくともメタファーが成立するからには、それを支えるものは何なのかを問えば、単に問題解決を放棄しているだけであることが明らかだし、Carolyn Abbateの理由づけもまた、音楽が「過去形を持たないから」というもので、これは適用元の文学の媒体である言語の構造を異なった媒体に依拠する音楽に対して不当に外挿しているに過ぎず、こちらも同様に、ではなぜ音楽が「物語る」ように感じられるのかを問われれば、自己引用(自己参照性)とか他の作品の引用(間テキスト性)のようなものに(それを音楽の構造に内在するかたちで規定すれば、「物語れる」ことになるから)曖昧な形で依拠せざるを得なくなる。
間テキスト性に至っては、音楽作品だけではなく言語芸術や視覚芸術といった他のジャンルとの関わりを論じることになり、その先は最早、音楽の外側に議論をずらしてしまうのだが、そうした間テキスト性がジャンルを超えて、メディアの違いを超えて成立する根拠は相変わらず曖昧なままだし、そもそもこの水準の議論は、何らかの仕方で音楽が「物語れる」とする立場からも可能であり、実際にRobert Samuelsのように、ある時には音楽の構造のある側面に注目し、ある時には音楽的素材や様式(例えば特定の舞曲のジャンル)が持っている文化的コノテーションに依拠し、更にはジャンルを超えた間テキスト性を論するといった論者も存在する。間テキスト性の平面でなら、例えばあからさまに標題性に依拠したり、対象となる作品への言及を含む手紙や証言といったものさえ手掛りにされるのだが、こうなってしまえば最早、音楽の内在的な構造についての議論ではありえず、音楽自体を或る種の文化的記号の如きものとして扱っていることになる。但し、それが如何にして正当化されるかについては相変わらず不明瞭なままだが。
マーラーの周辺においては、音楽の物語的分析が可能であるという立場ではVera Micznikの見解が比較的参照されることが多いように見えるので、Music and Narrativity Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler (2000)を参照しつつ、その見解を少し細かく見てみると、そこでも傍目には不可解としか思えないような議論がなされているようだ。思いつくままに幾つか気になる点を挙げてみると、まずおかしいのが、story/discourseという道具立てだ。前者が語られる内容で、後者が語り方ということなのだろうが、語られる時間と語りの時間の重層性という言葉にも関わらず(従ってstoryの側には語れる出来事間の時間的な順序が想定されているように見えるのにも関わらず)、実際には前者はstoryではなく、storyを構成する要素(musical event)に過ぎないことが直ちに明らかになる。
後者については、まず奇妙なのは、(記号のシステムの階層構造ではなくて、)記号そのものの重層性(形態的・統語的・意味的レベルが論じられるにも関わらず、Roland Barhesを参照して、denotation/connotationの区別を持ちこんで、音楽はdenotationはできないが、connotationは可能であると述べると、途端にmusical eventのレベルはそっちのけとなり、いきなり舞曲のジャンル(例えばワルツ)が持つ文化的・社会的なconnotationの例を持ち出すことによってmusical ideaがrepresentないしstand forされると定義される意味論的レベルが説明されてしまう点だ。この説明で全てなら、音楽の「意味」というのはつまるところ、音楽そのものではなく、それを文化的・社会的文脈において「記号」として取り扱うことによってのみ成立することになるから、既に述べたように、音楽そのものは「物語ることができない」とする立場との違いがどこにあるのかがわからなくなる。しかもここでシニフィアンの位置に来る「ワルツ」という舞曲のジャンルが、musical eventを要素として構成されるはずの記号のシステムにおいてどのように定義されるものであるか、そもそも構成的にボトムアップに定義可能なのか、例えば、作者が「ワルツ」と標題なり発想標語として記した(勿論、言語記号によって)ことに依拠するということはないのかなど、理論的にはおよそ見通しがついているとは言い難い。
その後のChomskyの performance/competence の区別が持ち出されるところも、それを援用する意図の方はよくわからない。前者にはsubjective, individualが、後者にはintersubjectiveが割り当てられ、affectとかcharacterとかtopicといった概念は、後者に由来するとの主張なのだが、そうであるならば、音楽への適用可能性が疑わしいChomskyに由来する概念など持ち出さずに、結局音楽においてはaffectなりcharacterなりtopicというものは音響態としての構造から文脈自由にボトムアップに規定されるものなどではなく、特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものなのだ、とだけ言えば済むことのように思われる。
音楽の物語性の具体的内実については、古典派とロマン派における物語性の違いが取り上げられる。つまり古典派においては、主調・属調の調的枠組みの中で主題が構成素(動機)に分解されて構成素(動機)レベルでの操作が行われる一方、主題そのものは形態的に不変でその性格を変えることがないのに対し、ロマン派においては調的スキームが弛緩した中で様々な動機が主題の一部としてではなく並列的に提示され、動機群や主題は全体として回帰する一方で、回帰するごとに形態が変容を蒙るのみならず、セカンダリ・パラメータの操作などに伴われつつその性格を変えていくとされる。それぞれの範例は古典派側はベートーヴェンの第6交響曲の第1楽章、ロマン派側はマーラーの第9交響曲の第1楽章である。この指摘自体は特段問題はなく妥当なものだが、それに付随してDahlhausとSchoenbergの名前とともに呼び出される「発展的変奏」についての議論は、こと後者との関連では不思議なものである。即ちこの議論における「発展的変奏」は、上記の区分でいけば古典派における主題や動機の操作と結び付けられているようなのである。だが、ことSchoenbergの文脈では「発展的変奏」というのは寧ろ後期のマーラーにこそ典型的に当て嵌まり、彼自身の作曲法に繋がっていくものではなかったか?Schoenberg自身において「発展的変奏」というのが必ずしも一貫しておらず、場合によって恣意的に用いられるという事情はあるにせよ、それなら尚更のこと古典派・ロマン派の物語性の違いの説明のためにそれを持ち出すのは不適切ということになるのではなかろうか?
だが物語性という点について言えば、この区別で留意されるべきは、古典派的なそれとロマン派的なそれが単に区別されるだけではなく、論文の標題にある通り、両者では物語性の「程度」(degree)に差があり、ロマン派的な枠組みの方がより高いと考えられている点に存する。例えば叙事詩と小説というジャンルの違いに応じて、物語性の具体的な性質が異なるというのではなく、古典派の交響曲よりもロマン派の交響曲の方が「物語性」の程度において、より勝っているという序列が存在するようなのだ。無論のこと、これは「物語性」の定義如何ということなるだろう。それが明示的であるわけではない点も譲れば、ここまでならロマン派の音楽の構造に内在する要因によって、「物語性」がより高くなるという説明であって、恐らくは暗黙裡にそのように想定されているように、近代的な小説が「物語性」に関する範例であるならば、アドルノの主張をより具体的な「如何にして」付きで展開したものであるということになるだろう。
しかしながら、では「物語性」を高めることに寄与しているロマン派的な枠組みの実質は何であるかを確認していくと、必ずしもそうではないことに気付かされるのである。即ち、ロマン派的な枠組みが「物語性」を生じさせる根拠というのは、結局のところそれが古典派的な枠組みから逸脱する程度において測られるというように読めてしまうのだ。つまりここでも歴史的文脈というのが含意されているのだが、更にこれが、上でも注意を向けた音楽的「意味」の規定、即ちそれはdenotationは不可能だが、connotationは可能であるという主張、更にaffectなりcharacterなりtopicなりといったものが特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものであるという主張と重なった時、結局、「物語性」というのは歴史的・文化的な文脈によって規定されるものであって、或る種の音響態の構造が内在させている契機によるものではないのだという方向に議論が収斂していくかに見えるのである。序でに言えば、音楽の「意味」を文化的・社会的な「記号」として操作できるものとして定義することによって、ソフィスティケートされた高度な教養を要するものなのか、素朴で子供じみたものなのかの違いはあれ、それは陳腐な標題性と水準において何ら変わらないことになるだろう。アドルノのモノグラフ冒頭の、伝統的な楽曲分析とともに標題性に関する議論を批判する言葉を想起するならば、この定義に依拠する限りにおいて、出発点であった筈のアドルノの意図を裏切っているように思われる。
私は上記のような議論に対して全面的に異を唱えるつもりはないし、それは不可能であろうと思っている。だがその一方で、音楽的「意味」なり、「物語性」なりを歴史的・文化的な文脈によって規定され尽くすものであるという主張に対しては、制限を設けたいと思っているのである。今ここで、その理由を明示的に提示することは困難なので、それに替えて、まず最初に、上記の主張の根拠となる「気分」を問わず語りに示すようなケースを提示することを手掛かりとしたい。
マーラーの音楽の聴き手として、マーラーの音楽に対して上記のような物語的分析をすることができる存在、マーラーの音楽の同時代のみならず、それに先行する音楽史のみならず文化的・社会的背景にも通暁し、かつマーラーの音楽のディテールは勿論、マーラーの音楽に含まれる先行作品の引用や暗示に加え、そのように引用され、暗示された作品自体についても知悉しているような音楽学のプロフェッショナルではなく、つまりモノグラフを書いたアドルノその人を範例とする存在ではなく、だがそのアドルノがまさにモノグラフの中で言及する、あの「子供」、或いはよりシンプルに、作品が書かれてから100年後に、マーラーの作品の文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材となった郵便馬車のポストホルンや兵営のファンファーレも、レントラーもセレナードも、過去の遺物としてすら接する機会のない地球の反対側の異郷で、マーラーが引用したり参照したりしていると音楽学者が指摘する作品も含め、音楽史上先行する膨大な作品群を聴くより以前に、或る日初めてマーラーの音楽に接した子供のことを、まずは思い浮かべてみよう。そしてそれに続けて、マーラーの音楽に対して「聴き手」の位置に立つ「人間」以外の存在、マーラー受容の文脈で馴染みがあるところでは、シュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の序文で思い浮かべた宇宙人が、或いはより今日的な文脈ならば、AIがマーラーの聴き手になるという事態を思い浮かべてみよう。
いや、そんな極端なケースを思い浮かべる必要はなく、専門家ならぬ単なる市井の愛好家たる私がマーラーを聴くとき、私はアドルノや件の音楽学者のようには聴いていないだろうし、彼らの要求水準を満たす日が何時か来るとも思えないのだ。それは単にお前の聴き方に問題があることを告げているだけで、マーラーをどう聴くべきかに関する規範はあくまでも件の音楽学者のような聴き方なのだ、という主張に対して私自身は抗弁する言葉を持たないけれど、それでもなお、作品が書かれてから100年後に、地球の反対側の異郷でマーラーの音楽に耳を留め、またたくうちにそれに魅了された子供たちについては擁護を試みたいと思わずにはいられないのだ。そうした子供は、単に無媒介に、民謡風のわかりやすい旋律といった特徴のみに惹かれてマーラーの音楽に魅了される訳ではない。もしかしたらそうした側面に初めから些か鼻白みつつも、マーラーの音楽において際立っている豊饒で複雑で、時として否定的なモメントや不気味さや混沌すら排除されることのなく絶えず精妙に変化して止まない世界の様相に魅了されるのではなかろうか。
同様にして、AIにマーラーの音楽の音響に関するデータを与えて分析をさせることを考えた時、そもそも分析の入力となったデータの中に、マーラーの「音楽」の全てがあるわけではないことを認めるに吝かではなく、別のところで述べたように、仮に分析をし尽くしたAIが、マーラーの音楽そっくりの作品(そっくりどころかボルヘスの『伝奇集』に登場するピエール・メナールのように全く同一の作品かも知れない。ただしそ現実にそれが実現する確率の低さは宇宙論的スケールのものだろうが。)を出力するというような状況を想定したとき、工学的なチューリングテストのルールから見たら違反になろうとも、そのことがAIがマーラーになったということを意味する訳では些かもないと考えているのだが、それでもなおマーラーの音楽が小説に類比できるとするならば、その根拠をなす特徴のかなりの程度の部分がAIに入力するデータの分析から得られる筈である、しかもそのデータにはマーラーの作品を含める必要はあっても、上述の理論において想定されているような「伝統からの乖離」の測定を可能にするような莫大な先行作品のデータを用意する必要はないと考えたいのである。そしてそう考える理由は、上で批判的に紹介した物語論的分析を不適切であると考える理由と表裏一体の関係にあると私は考えている。そこで以下に私の目には事態がどのように映っているかを素描して、この備忘を締めくくることにしたい。
まず音楽において語られる時間と語る時間の2つの層を想定するのは端的に誤っている。確かに音楽はdenotationを持たない限りにおいて「意味」とは無縁であって、専ら「語り方」そのものであるのだが、であれば音楽的時間とは端的に語りの時間そのものなのだ。寧ろ音楽は第一義的には、言語記号であれば随伴的と見做されるであろう感得的な質自体であり、何かを指示する記号としてではなく、外部からの働きかけに対する反応として感得的である限りにおいて聴き手に伝達され、同調を働きかけるものなのではないか。要するに言語記号とのアナロジーは、音楽自体の裡では成立しないのだ。
ただしそのことは二次的に音楽がメタレベルの「記号」として用いられることを否定するものではない。マーラーの作品のような物語的な脈絡を備えた音楽は、その要素の一部、或いはそれ自体が文化的・社会的な記号として機能することはあり得るだろうが、それは言ってみれば外側から事後的に宛がわれたものに過ぎない(それを当の分析者自身が行っていて、そのラベルづけの是非が問われるというような不可解な状況すら発生しているかに見える)。だがそれは、第一義的には自伝的自己の統合的な世界の認識の「何を」よりも、寧ろ優れて「如何にして」についてのシミュレータであり、だからこそ音楽を作ることは仮想的に世界を構築する(恰も異なる世界の内部存在であるかの如き内部的なループを脳内のネットワーク上に産出する)ことに他ならず、それ故音楽を聴くことは仮構された世界を仮想的に(上記の「あたかも」ループを駆動することにより)経験することに他ならないのである。discourseに先立つstoryなどなく、あるのは常に編集済のものとしての「経験」なのである。
そもそも人間の意識は知覚したものをそのまま受け取っているわけではなく、意識が受け取るものは既に編集済の結果であることは、ベンジャミン・リベットの実験を始めとする様々な研究により明らかにされている。また、発達心理学における質的研究によってやまだようこが明らかにしているように、自己の確立の過程では、共感的な「うたう」側面が認識的な「とる」側面に先行して発達し、その両者が統合されることによって自己が成立し、自己が成立すると今度はその自己は己の経験を編集して「物語化」していくことによって「自己」を維持していくのである。つまり「物語化」というのは、とりわけ高度な心性を持つ存在にとっては、特定のイデオロギーに基づく文化的・社会的な個別的な文脈よりも遥かに手前において、そもそもが意識や自己といった心的装置が成立する前提条件であり、寧ろ前了解の層に属するものなのだ。勿論、文化的・社会的な文脈はそうした前了解にも浸透していることも確かだが、それはあくまでも世界の認識の「如何にして」を先行的に規定するのであって、denotationであろうがconnotationであろうが、認識の「何を」の水準ではない。それらは発生論的に言ってセカンド・オーダーに属するものなのだ。
ところでここでの「物語」は上で検討した物語理論の音楽への適用におけるような「物語性」における「小説」の優位を前提としない。強いて言うならば、古典派のような一定の調的スキーマの制約の存在は、口承的な叙事詩や昔話等における定型的なストーリー(ただしその内部で無数のヴァリアントが存在しうるのだが)や記憶の便宜のために定められた韻律を始めとする様々な規則と、その規則に導かれて成立した定型的な表現形式との共通性を感じさせるのに対し、マーラーの作品のそれは記憶の代補となる記憶媒体(音楽においては記譜法)の発達によって獲得された自由度を最大限に生かした散文形式、比喩としてではなく、まさしく「意識の流れ」を叙述する「小説」との共通性を感じさせはするし、繰り返しになるが、この指摘については特段の問題があるわけではない。ただしそれは叙述レベルの重層性といった人称や時制を表示する機構を備えた言語を媒体とした小説固有の構造とは一先ず無縁であって、音楽は「誰が」語っているのか、「何時の」出来事が語られているのか、それが直接経験される出来事なのか想起によって回想された内容であるのかを直接表すことはできないのだが、それでもなお語りの主体が切り替わったこと、出来事の系列が断絶したり、語りのレベルが切り替わったことを聴き手に感得させることができないわけではないのである。 ほんの一例を例示するならば、とりわけそれが調的配置のデザインを伴う場合には、多楽章形式がそうした時間的な断絶や視点の変化、叙述のモードの切り替えを告げる媒体となりうるだろう。マーラーにおいてはDika Newlinの示唆以来のテーマである発展的調性についても、それが主和音・属和音中心の調的配置が志向する主和音への「回帰」という予定調和的な目的論的図式自体を上書きして、何が終結の調性になるかについては、途中段階では複数の選択肢が存在し、それらが競合するかのような時間発展のモデルである限りにおいて、「小説」に類比される経験のシミュレーションの媒体たりうる時間性を備えることを可能にしているのである。そういう意味では、上記のような「物語論」的アプローチから見れば、単なる比喩のレベルという評価となるのかも知れないが、Donald Mitchellが、単独の楽曲のみならず連作歌曲や交響曲のような複数の楽曲の組み合わせからなるもの含めて、マーラーの作品で用いられている調性的なプロットが、楽曲自体の固有の論理と呼びうるコヒーレンスよりも心理的なプロットに対応するように選択されている点をnarrative tonalityという言葉によって指摘しているのは、ここでの発想に近いように感じられる。
そして共感的な「うたう」能力というのを軽視してはならない。まずもって現生人類が現存する類人猿と比べて際立っている能力、そして種の存続に(少なくともかつてのその環境においては)有利であったが故に発達し、絶滅した他のヒト属の種と比して際立っていたと推定される能力こそ、相手に共感し、模倣を行う能力であったらしいのだ。そしてこれは遺伝子決定論を意味しない。その能力はエピジェネティックに解発され、学習によって強化されるものであり、それ故に置かれた環境に柔軟に適応することができる。それが博識で怜悧な音楽学者の高度な要求を十分に充たすものであるかは予断を許さないとはいえ、作品が書かれてから100年後に、文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材がもともと帰属していた文脈とはほぼ断絶した地球の反対側の異郷においてさえ、作品が提示する時間性に同調的な感受が生じ、作品を通して世界の認識の仕方を学ぶといったことが可能になるのだ。伝統からの乖離の距離に「物語性」が生じる動因を求めることは、論理的には或る種の文化的・社会的決定論を帰結することになろうが、自己形成の結果ではなく、寧ろそれを可能にする根拠として共感する能力を備え、自己が確立した後は「物語」を紡ぐことによって己を維持するようにいわば「宿命づけられた」存在である「子供」は、そうした決定論の軛をいともやすやすと乗り越えてしまう。
そしてこの点は同時に、AIと「子供」の間に存在する乗り越え困難な差異でもあるだろう。データを分析し、特徴を抽出する能力という点ではAIは「子供」に遜色ないレベルを達成できるかも知れない(定義によっては既に達成している場合もあるだろう)。そして音楽学者が「物語性」の程度の基準とする、伝統的な書法との乖離の度合いを計算することもまた可能だろう(ここでは恐らく「子供」よりもAIが勝っており、もしかしたら音楽学者の分析能力を凌駕するかも知れない)。そして、それが文化的・社会的な「記号」として操作できる限りにおいて、音楽の「意味」を抽出することもまた可能であろう。 だがAIには「共感する」ことができない。少なくとも現在のAIの延長線上では、表面的な模倣はできても、表面的に巧みに歌うことはできても、それらを「共感をもって」行うことはできない。AIに音楽を入力し分析させることは可能だろうが、AIは音楽を分析する動機づけを欠いている。
その意味でAIは、仮に音楽学者顔負けの分析が行えたとしても、仮にマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」を作りだせたとしても、マーラーの音楽を「子供」のように「聴く」こと、「聴いて」共感することはできないし、そこから世界の認識の仕方を学ぶこともできないのだ。更に言えば、私はマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」と言い、或いは先立っては、ボルヘスの小説を参照しつつ、マーラーの作品を寸分違わず再作曲するといった状況にも言及したが、にも関わらず、一見すると遥かに現実的で、容易にさえ思われるかも知れない第10交響曲の補筆完成版の作成には言及しなかったが、これは勿論意図的にそうしているのである。第10交響曲を既存のマーラーの作品の様式の学習結果によって作り出しても、それはマーラーその人が達成したであろうものとは決定的に異なることについては大方の同意が得られることと思う。一般に創造というのは、過去の自分を模倣することではないし、ことマーラーのように、一作毎に発展してきた作曲家の場合には優れてそうであろう。クックを始めとする補作の試みを入力にしたところで同じであって、出て来るのは様々な補作のどれにも似ないかも知れないが、単なるそれらの模倣に過ぎないものであろうし、マーラー後の音楽を入力に含めたとして、マーラーの作品とは似ても似つかない奇矯な混淆物が出力されるのが関の山だろう。要するにこれを一言で言えば、何故作曲するかの動機づけがAIには欠けているのだ。更に言えば、クックは(もしかしたら他の補作者でそのようなことを思った人間が居た可能性はあろうが)マーラーに替って作曲するなどといったことは思いつきもしなかっただろうけれど、それでも恐らくは彼の補作作業すらAIには達成できないに違いない。AIには何故補作を行うかの動機がないからで、クックの作業は、一見してそうは見えなくても、クックその人にしかできなかった際立って創造的な側面を含み持っていて、時として霊感がクックを訪れたとした思えないような瞬間があるように私には思えるのだ。
もう改めて繰り返す必要もないだろうが、これまで「子供」やAIを登場させることによって間接的に言い当てようとしたことのトリヴィアルで後ろ向きな半面は、上で検討したようなマーラーの物語論的分析がマーラーの音楽の「意味」に到達することはないだろうということである。
そもそもが言語を範例とする「記号」として音楽を扱うということ自体に理論的には無理があると思うのだが(音楽が「記号」としても機能しうる点を認めるに吝かでないが、それはまた別の話である)、そこを強引な(にしか見えない、もっと言うとナンセンスに近い気さえする)アナロジーで対応づけるか、それをあっさり放棄して、音楽の「実質」を抜きに、領域横断的な話題に終始するかのいずれかであるように感じてしまい、違和感が募ることが多いのである。そもそもが規範との差分であったり、過去の楽曲、更には他のジャンルの作品との関係に基づくアプローチというのは、そうしたアプローチを提唱し、実践する当事者たる音楽学者の厖大な学識と、高度な分析能力を前提したものであり、例えば私自身がマーラーの作品を聴くときに、彼らの要求するような水準の聴取が出来ているとは到底思えないし、マーラーに初めて出会った時の「子供」であった私の経験を、彼らの分析は少しも説明してくれない。勿論、高度な分析が、自分が気付かなかったようなマーラーの作品の秘密を明らかにしてくれることを否定するわけではなく、私のような愛好家はそうした分析の恩恵を最も被っているに違いないのだが、それでもなお違和感が残る。そしてその由来を端的に述べれば、マーラーの音楽を聴く時には、確かに高度な記号操作が行われているには違いないのだろうが、その背後で起きていること、音楽が人を惹きつけ、感動させ、或いは世界の見方を変えさせさえするにといった側面については、そうした分析が語ることが余りに乏しいことに存するように思える。そして私が知りたいのは、寧ろ、背後で起きていることの側であり、それが起きるメカニズムの側なのだ。
背後で起きていることは、一般には心理とか情動という言葉で語られ、そうした側面についての研究も行われているが、それらの多くは、あえてやや戯画化した言い方をすれば、何種類かの作品を与えて、何種類かの感情なり、情動なりのタイプを事前に決めておいて、その間の対応づけを行うといったレベルに終始する限り、余りに肌理が粗すぎて、ここで私が知りたいことに対する回答はおろかヒントさえ与えてくれるようには思えない。せめてよりミクロな音楽の脈絡に応じて、聴き手の「心」の内部で起きていることに対して、例えば今日ならば脳の働き方を測定することによって探りを入れるようなものであるべきだろうと思う。勿論、そうした実験結果から言いうることと、ここで私が知りたいと思うこと間の径庭は大きいと思う。例えばデリック・クックが『音楽の言語』で試みたようなアプローチは、今や辛うじてながら、それでも異なる文化的伝統を身体化している極東に住む我々から見れば、音型と情動の結び付けは、全く恣意的ではないとはいえ、非常に多く文化的・社会的な文脈で形成されるものであることは間違いなく、他方でそうした我々が、クックが解明しようとした伝統に属する音楽を「聴く」ことができるからには、文化的・社会的決定論というのも誤りで、その結び付けは学習によって後成的に形成可能であることもまた、明らかであるように思える。であるとするならば、その結び付けの手間で、そこに辿り着く前に音楽の構造の側でやれることはたくさんある筈だ。
批判ばかりしていないで、では具体的にどうすればいいのかについて述べるべきとは思いながら、漠然とした予想めいたものを書き留めることしかできないでいることは上記のに記した通りだが、ことマーラーに関して言えば、具体的なあてが全くないわけでもない。例えば、これも上で言及したDika Newlin以来の発展的調性を、調的なスキーマ(ドミナント優位のシェンカー的図式ではなく、 同主調とか3度関係、サブドミナント側への連鎖などの使用や、転調のプロセス、 特に媒介なしの切り替えの使用など、Dahlhausの言う「オリジナリティの原則」の周辺で、 具体的な特徴が取り出せるのではというように感じている)と関連づけ、これまたPaul Bekker以来の交響曲という多楽章からなる楽式に関する古典的な問題、即ちフィナーレの問題と結び付けて再解釈することなどが、「物語性」にアプローチする方法の一つとして考えられまいか、というようなことを考えているのだ。その一方でマーラーの場合には、いわゆるセカンダリー・パラメータの重要性というのは夙に指摘されてきており、何よりも「うたう」ことを念頭に置いた場合、旋律と旋律の複合としての対位法がマーラーの場合には特に重要なのは明らかで、 調的な図式を抽象した分析ばかりをやっていては取りこぼしてしまうことがあまりに多いのを嘆息するばかりなのだが。だがそれでも、具体的にデータを処理しようとしてぶつかる問題への対応を一つ一つ検討していくことが、既成の規範を暗黙の前提とすることなく、それをいわば現象学的還元して、寧ろそれが拠って立つ基盤を明らかにすることに繋がりはすまいか、そのようにして、規範からの逸脱としてではなく、寧ろ、異なる選択肢を都度(アドルノの言葉を借りれば)「唯名論的に」選び取って、実質的な仕方で世界を構築する仕方を拡大していったマーラーの営みを明らかにする端緒となりはすまいかということを思わずにはいられないのである。(2019.11.4-6初稿・公開,10加筆)
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