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マーラーの内実はごく簡単に言い当てられると人は思いがちだ。絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しないという風に。彼以前のほとんどすべての音楽がお経のように繰り返してきた存在論的な神の証明を、マーラーは信じていない。すべて正しいのかもしれない、しかしその中身は失われている―彼の痙攣的な身振りはこのことに対応している。しかしながら、まさにそれ故にこそ、彼の作品を前にしたとき〔神は存在するという〕不毛のお題目は、何と惨めで、抽象的で、誤ったものに見えることか。マーラーの音楽においては、世界観的スローガンが釘付けにしようとして取り逃がすものが、個々の点しか見えていない判断などには決して明かされることのない経験の全体の中で開花し、獲得される。これがあるからこそ彼の真理内実は、人々の心情を揺さぶることが出来る。生の意味についての空疎な決まり文句が、ただ無力に生の背後に取り残されるしかないのと同様、判断もまたその背後に取り残されるしかない、そういう心情を。
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アドルノ「エピレゴメナ」より(『アドルノ音楽論集 幻想曲風に』, 岡田暁生・藤井俊之訳, 法政大学出版局, 2018 所収)
ようやくにして待望の翻訳の成った『幻想曲風に』には、マーラーに関連した文章として、従来より別の訳で読むことのできた有名なウィーン講演の他にもう一つ、「エピレゴメナ」、つまりウィーン講演の補足として書かれた文章が収められており、これをようやく正確な日本語で読むことができるようになった価値は計り知れないものがある。
勿論、『幻想曲風に』には他にも重要な論文が並んでおり、翻訳の価値の総体は、それら総体を踏まえて測られるべきであるけれど、マーラーという文脈に限って、更に「エピレゴメナ」一篇に限っても、その意義の大きさは、恐らく一読すれば明らかなことであろう。特にマーラーの作品に固有の音楽的時間の解明という観点から眺めた時、この「エピレゴメナ」には、音楽的時間の問題として扱われるべきほぼ全てが出揃っていると、そのように私には思えるのである。休止然り、逆行や回顧然り、リズムと同期の問題も登場している。小説的時間、絵画や映画との比較もまた然り。
だが一読して改めて感じる事は、問題は巨視的な、いわゆる楽式のレベルの持続(と断絶・再開)の構成にあるということにある。この翻訳では「キャラクター」と訳されているものも、そうした持続の中でのヴァリアンテとの関わりで捉えられるべきだし、それに関連して、これまたモノグラフで取り上げられ、ウィーン講演でも言及される突破や停滞・充足や解体といったカテゴリもまた然りであろう。
別のところにも書いた通り、20世紀以降の音楽が拒絶したものとして、「人間的」な時間経過、「物語的」「小説的」な時間の流れ方があり、かつまたそれは「うたうこと」の拒絶とどこかで通じているように感じられる。そして勿論そうした音楽的時間の獲得なり生成なりというのはAIには困難なこと、できないことでもあるだろう。AIによる自動作曲ではなくても、アルゴリズミック・コンポジションのような立場からしても、数理的な扱いやすさという観点から見た場合、小説的な時間というのは扱い辛いもののようである。そこではそもそも伝統的な楽式というのが極めて恣意的なものとなってしまう訳だが、一つには自然言語にもある階層的な構造を考慮しなくてはいけないということがあるにしても、それだけで問題が解決する訳では勿論なく、言語を用いた作品で行けば、文のレベルではなく、文を繋いでテキストを編んでいくための原理というのが必要なのだということになるだろう。意味が通る、文法的にも正しい文章を連ねることはできるだろうし、それなりにコヒーレンスのある文の連なりを生成することだって可能かも知れないが、それでもなお、それと小説を書くこととの間の径庭は未だ大きなものがあると言わねばなるまい。
だが一方で、そうした楽式論を規範とする通常の音楽分析が、マーラーの作品のような音楽的時間の流れをどう扱うかと言えば、それを伝統的な図式からの偏倚としてしか記述できないのは、アドルノがマーラーモノグラフの冒頭で述べている通りである。もしそれがアドルノの言うとおり「唯名論的」に実質的なものであるならば、規範からの距離としてではなく、そこに固有の力学が読み取れる筈だし、それを試みるべきなのではないかというように思われるのである。
他方において、アドルノの言っていることは斯くも「まっとう」で悉く正鵠を射ているように思えるけれど、それをボトムアップに、例えばMIDIデータの分析によって裏付けるということを考えると、途轍もない懸隔を感じてしまうのもまた事実である。一つだけ例を挙げれば、マーラーの音楽が強い「形而上学的」志向を備えているというアドルノの指摘は、感覚的には首肯できても、それでは「形而上学性」がMIDIデータの分析で「検出」できるものなのか、一体、音の並び・組み合わせのどこがどうなると、音楽が「形而上学的」になったり、ならなかったりするのかというように問題を設定してしまうと、そもそもが音楽的時間に関する実質的で内容的な分析、つまり「意味」についての分析というのは実は全く手つかずなのではないか、というようにさえ思えてならないのである。
勿論上記のような問いは、それが余りに性急な、短絡的な問いであろうことは自分でも想像できるのだが、さりとて、ではどのようにしてそのギャップを埋めることができるのかの具体的な方策について言えば、その見通しがあるわけではないことを率直に認めざるを得ない。
ただ、このように考えることはできるのではないか。些か無茶な定義であることは承知の上で、何時の日かAIがマーラーの音楽を聴いて、「エピレゴメナ」のような指摘をすることができるようになった折には、AIが音楽を(人間にとってのそれとして)「理解した」ことを認めるに吝かではないと。
既述の通り、アドルノの指摘は私には正鵠を射たものであると感じられるが、このような指摘をAIができるようになるのか?そのためにはAIに必要なものは何か?その時AIは、比喩でなく、「人間」そのものにならなくてはいけないのではないか?折も折、9月25日付朝日新聞夕刊の記事で、『幻想曲風に』の訳者の一人である岡田先生が指摘されているように、逆に人間がAIのようになっていくのであるとしたら、人間は、自分のための「音楽」を自ら手放すことになってしまうのではないか、というようにさえ思えるのである。
その一方で、AIは措くとして、MIDIデータに基づく分析に限定してみるとしても、それはつまるところ単なる音響態だけに分析の対象を限定していることになり、三輪眞弘さんが逆シミュレーション音楽の定義で明らかにした「音楽」を成り立たせている条件からすればそれは既に抽象を経たものに過ぎないのだが、それでもなお、その音響態の構造なりパターンなりから、アドルノの指摘に対応する何かが抽出できるのでは、という問題設定は有効だし、有効でなくてはならないように思う。
勿論、「絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しない」というような言葉が妥当と感じられる音響態とは?いや、百歩譲って「彼の痙攣的な身振り」とは一体音響態のどこに、どのような分析によって検出できるのか?といった問いに対して、具体的な見通しがあるわけではないのだが、それでもなお、もしアドルノの分析を真に受けて、それを引き継ごうとするならば、このような問いを避けて通るべきではないのではないかと思えてならないし、「エピレゴメナ」はそうしたアプローチのための具体的な手掛かりを与えてくれるものに思えるのである。
「エピレゴメナ」の末尾は、マーラーのあの有名なデスマスクについての言葉で終わる。
ここを読んでいて、実は私は、デスマスク(その実物に接したことは私はないが)ではなく、今年の春に乃木坂で接したロダン作の塑像のことを思い浮かべた。その時の感想は若干の付記をした上で別に公開済なのでここでは繰り返さないが、それを踏まえた上で、そしてデスマスクに関する「エピレゴメナ」末尾の記述をも踏まえた上で、私は以下のようなことを思わずにはいられなかった。
ボルヘスの短編に、ドンキホーテを「再創作」するという趣向の作品がある(『伝奇集』(Ficciones)所収の「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」(Pierre Menarrl, autor de Quijote))。そこでのボルヘスの意図は措いて、まさにピエール・メナールのようにマーラーの作品をAIが「再創作」したとしよう。その時、音響態としては同一なわけだから、チューリングテストのような問題設定では、作者の区別はつかないことになる。AIはチューリングテストにパスすることになるだろう。だが作者が人間なのかAIなのかで、音響態としては同一の作品の「意味」は変わるとしてはいけないのだろうか?勿論これは工学的には反則だろうが、こと「音楽」に対する接し方としては、実はそちらの方が正当なのではないか?
これは一見したところかなり極端な立場に見えるかも知れない。別にAIを持ち出すまでもなく、いわゆる自律主義的な美学とは相容れないのは明らかであるわけだし。だがここで主張されているのは単に、テキスト至上主義に対する作者の復権などではない。一見そう見えたとしても、作品をそれが成立した文化的・社会的文脈(作者もまたそうした「環境」の一部に過ぎず、特権的なものではないとする立場もあるだろう)に還元しようとしている訳ではない。寧ろそれは、AIがマーラーの作品の「聴き手」たりうるかという問いの変形なのだ。或いは同じことだが、AIをマーラーの作品の分析者の位置に据えた時、一体「何を目的に分析を行うのか」という問いの変形なのだ(因みにこれは、岩崎秀雄さんが『BioRealityをめぐる生命美学的遍歴』(日本ヴァーチャルリアリティ学会誌第23巻3号, 2018年9月)で提起された視点そのものである)。言い換えれば、記号論的三分法における「作者」というのは理論的な抽象に過ぎず、既に音楽記号論の不毛が示しているように、そうした抽象によって「音楽」を捉えることはできないし、音楽の「制作」を捉えることはできないのだ。
一昨年物故したアンリ・ルイ・ドラグランジュのマーラー伝の序文においてシュトックハウゼンが想定した、マーラーの音楽を通じて「人間」を理解しようとする宇宙人は、既にアントロポモルフィズムの産物ではないだろうか?(例えば久保田晃弘さんが『他者のためのデザイン』で想定する「他者」を思い浮かべてみよう。)だが、或る意味ではシュトックハウゼンは正しかったという見方もできるだろう。マーラーの音楽こそ、良きにつけ悪しきにつけ、「人間」による「人間」のための「音楽」の一つの極限であるという意味合いにおいて。それは丸山桂介さんが指摘したように「隠れたる神」の時代の「音楽」、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」以後の、自伝的自己=延長意識を備えた「人間」の、アドルノの言う「形而上学が不可能であるということが最後の形而上学」となった「人間」の「音楽」、つまりシンギュラリティ(「技術的特異点」)を前にし、シンギュラリティの向こう側に辿り着くことなき我々のための「音楽」なのだから。(2019.9.29公開, 30加筆, 10.20加筆訂正)
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