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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2025年9月8日月曜日

備忘:マーラーの作品を分析するとはどういうことか?(2025.9.8 更新)

 これまで様々な角度から、様々な手法でマーラーの作品について分析を試みてきたが、そもそも自分が何を目指して、何をしているのかについて、改めて整理をしてみることにする。予め先回りしてお断りしておくならば、それは既に実際に達成できる水準を以て測ろうというのではなく、あくまでも、実際の達成がその目標からは程遠く、千里の道程の最初の一歩に過ぎないとしても、到達すべき目標は何かを再確認することが目的である。

 分析をするきっかけをシンプルに言えば、それは対象に強く惹き付けられたからで、この場合の対象はマーラーが作曲した具体的なあれこれの作品という人工物である。端的な言い方をすれば、自分が魅了されたのは、その作品の持つどういう特徴によるのか、そして翻って、このような作品を創り出した人間とはどのような人間なのか、どのようなやり方でこのような作品を生み出したのかを知りたいと思ったというのが出発点となるだろう。

 ところで作品とは一体何だろう。それを考える上で、マーラーに関連する脈絡で2つの参照先が思い浮かぶ。一つは「作品」は「抜け殻」に過ぎないというマーラー自身の言葉。妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡で「作品」についてマーラーはこう語る。
…われわれが後世に残すものは、それがなんであれ、外皮、形骸にすぎない。『マイスタージンガー』、『第九交響曲』、『ファウスト』、これらはすべて脱ぎ捨てられた殻なのだ!根本的にはわれわれの肉体以上のものではない!もちろんそうした芸術的創造が不用な行為だというわけではない。それは人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないものだ。とくにこの歓喜こそは、健康と創造力の証(あかし)なのだ。…
(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.356, 白水社版酒田健一訳p.398)  

 「抜け殻」とは言っても、「不用な行為」ではないのは、それが「人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないもの」だから、という。マーラーが創造した作品の聴き手、受け取り手である私はつい、それを受け手の問題であると決めつけてしまうが、それが「健康と創造力の証(あかし)」であるとするならば、その歓喜は、第一義的には作り手であるマーラーその人の「創る喜び」とする方が寧ろ妥当なのかも知れない。勿論、聴き手は単にそれを受動的に受け取るだけではなく、それに触発されることで成長し、喜びを感じる…というように考えることもできるだろう。

 その一方で「抜け殻」であるというからには、それはそれを作り出した人間そのものではないにせよ、その「痕跡」であるという見方も導かれうるだろう。そこで思う浮かぶもう一つの参照先は、シュトックハウゼンが、アンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝に寄せた文章の以下のような件である。

もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはゆかないだろう。もっと幅のせまい音楽ならば――あらゆる情緒的世界において――どこででも聴くことができるだろう。たとえば雅楽、バリ島の音楽、グレゴリオ聖歌、バッハ、モーツァルト、ヴェーベルンの音楽などがそうである。こうした音楽は、《より純粋》で晴朗だといえるかもしれない。しかし地球人の特質、その情熱の――もっとも天使的なものから、もっとも獣的なものにいたるまでの――全スペクトル、地球人をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの――そうしたすべてを知ろうと思うなら、マーラーの音楽にまさる豊かな情報源はないだろう。

 この書物は、異常なまでに多くの人間的特徴をただ一個の人格のなかで統合し、そしてそれらを音楽という永遠の媒体のなかへ移植することのできたひとりの人間の生涯と音楽についての証言である。その音楽は、人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとするまえの、古い、全的な、《一個体としての》人間による最後の音楽である。マーラーの音楽は、おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっているすべての人びとにとってひとつの道標となるだろう。

(Karlheinz Stockhausen, Mahlers Biographie, ≪Musik und Bildung≫ Heft XI, Schott, 1973, 酒田健一編『マーラー頌』所収, 酒田健一訳, pp.391-2)

マーラー自身の言葉を敷衍するならば、シュトックハウゼンは、マーラーの音楽のことを「古い、全的な、《一個体としての》人間」の「抜け殻」であり、それは「ある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査」するために恰好の情報源であると言っている。更に言えば、「ある別の星に住む高等生物」ではないにしても、「人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとする」後の時代に生き、「おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっている」に違いないこの「私」にすれば、それが少なくとも、その作品を創り出した「人間」に関する情報源であり、自分自身にとっての「道標」であるということになるだろう。シュトックハウゼンが参照する他の様々な音楽との比較の妥当性、是非についてはもしかしたら異議があるにしても――ここで思い浮かぶのは、ド・ラグランジュのマーラー伝刊行後しばらくしてからの1977年に打ち上げられたボイジャー計画の探査機に収められた「ゴールデンレコード」のことで、そこにはガムランやバッハは含まれても、マーラーが取り上げられることはなかったことは書き留めておくべきだろう――、とりわけ、それが人間を「この大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの」についての情報源であるという点については躊躇なく同意したいように感じている。

 ただし、そうした人間の限界というのは人間固有のものであって、それが「ある別の星に住む高等生物」に共有されることは些かも自明なこととは言えまい。(技術的特異点(シンギュラリティ)が絵空事とは言えなくなった今日なら宇宙人の替わりに人工知能を持ってきても良いだろうが、人工知能を道具として、(かつて)「人間」(であったもの)が分析をすることはあっても、人工知能が「主体」の分析というのは、少なくとも現時点では、未だ空想の世界の話に過ぎないだろう。)他方において、シュトックハウゼンの言葉には、自分が帰属する社会の文化的遺物であるマーラーの音楽が、それ以外の社会の「人間」をも代表しうるという暗黙の了解が存在するように思われるが、実際にはそれすら凡そ自明のこととは言えないだろう。とはいえ、一世紀の時間の隔たりと、地球半周分の地理的な隔たりを通り抜けて、マーラーが遺した「抜け殻」は、極東の島の岸辺に辿り着き、そこに住む子供が或る時、ふとそれに気づいて拾い上げ、壜を開けて中に入ったメッセージに耳を傾けた結果、それに強く惹き付けられるということが起きたこともまた事実である。そこに数多の自己中心的な思い込みや誤解が介在していたとしても、その子供はそこに、自分をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか許そうとしない、同型のものを見出し、共感し、そこに自らが歩むための「道標」を見出したことは、少なくとも主観的には間違いない事実なのである。或る時マーラーは「音楽」について以下のようにナターリエ・バウアー=レヒナーに語ったようだが、それがこの私の寸法に合わせて如何に矮小化されたものであったとしても、創り手が語った通りのものを、私もまたその音楽に見出したのである。

「音楽は、常にある憧憬を含んでいなくてはならない。それは、この世界の事物を越え出ようとする憧れだ。すでに子供の頃から、音楽は僕にとって何か謎のような、僕を高みに連れていってくれるようなものだった。でも僕は当時、想像力によって、音楽の中になどまったくないような無意味なものまで、そこに押し込んだのだ。」(ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録(1984年版原書p.138, 1923年版原書p.119, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.301-2)

 そして彼がそこに見出したのは、単なる耳の娯楽、美しく快い音響の系列ではない。これまたシュトックハウゼンが指摘している通り、その音楽は極めて幅の広いスペクトルを有しており、時として醜さや耳障りな音すら敢えて避けることはなく、寧ろそれは作品を創り出した人間が認識した「世界」の複雑さ、多様性の反映なのである。更に言えばそれは、標題音楽、描写音楽の類ではなく、寧ろ、(ネルソン・グッドマン的な意味合いで)「世界制作」の方法であり、その音楽をふとした偶然で耳にして魅惑された子供は、その音楽を通じて、「世界」の認識の方法を学んだというべきなのだろう。第3交響曲作曲当時のマーラーの以下の言葉はあまりに有名だが、それは肥大した自己に溺れたロマン主義的芸術家の誇大妄想などではなく、文字通りに理解されるべきなのだ。

僕にとって交響曲とは、まさしく、使える技術すべてを手段として、ひとつの世界を築き上げることを意味している。常に新しく、変転する内容は、その形式を自ら決定する。この意味から、僕は、自分の表現手段をいつでも絶えず新たに作り出すことができなくてはならない。僕は今、自分が技法を完全に使いこなしている、と主張できると思うのだけれども、それでも事情は変わらない。(ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章(原書p.19, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, p.62)

 それは彼が認識した世界の構造を反映していると同時に、彼の認識の様態をも反映している。第3交響曲に後付けされた挙句、最後には放棄された素朴な標題が告げているように、作曲者はそこでは寧ろ世界「が語ること」に耳を傾け、自らが楽器となって世界が語ることを証言する、いわば霊媒=媒体の役割を果たすことになる。同じ時期にアンナ・フォン・ミルデンブルク宛の書簡に記した以下のマーラーの言葉は、そのことを雄弁すぎる程までに証言している。

 さていま考えてもらいたいが、そのなかではじっさい全世界を映し出すような大作なのだよ、――人は、言ってみれば、宇宙を奏でる楽器なのだ、(…)このような瞬間には僕ももはや僕のものではないのだ。(…)森羅万象がその中で声を得て、深い秘密を語るが、これは夢の中でしか予感できないようなものなのだ!君だから言うが、自分自身が空恐ろしくなってくるようなところがいくつかあって、まるでそれはまったく自分で作ったものではないような想いがする。――すべては僕が目論んだままにもうすっかり出来上がっているのを僕は受け取るばかりだったのだから。」
(1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4)

 それでは一体、そうした作品を分析するとき、私は何をそこに見出そうとしているのか?なぜ演奏を聴くだけで事足れりとはせず、楽譜を調べ、楽曲分析を参照し、或いは自作のプログラムを用意して、MIDIデータを用いたデータ分析を行うのか?

 対比のために、耳に心地よい音響の系列の分析を考えてみると、この場合の分析の目的とは、なぜそれが耳に快いのかを突きとめることになるだろうか。西欧の音楽であればバロック期の作品や古典期の作品の多くは(勿論、モーツァルトの晩年の作品のような、私にとっては例外と感じられる作品はあるけれども)、そうした捉え方の延長線上で考えることができるだろう。或いはまた蓄積された修辞法(クラングレーデ)に基づく風景や物語の描写、或いは劇的なプロットの音楽化から始まって、ロマン派以降の作品のように、情緒的な心の動きや繊細な気分の移ろいや感覚の揺らめき、雰囲気の描写を行うような音楽もあり、そうした音楽にはその特質に応じてそれぞれ固有の分析の仕方があるだろう。では上記のようにシュトックハウゼンが規定し、創り手たるマーラーその人が語るようなタイプの作品についてはどうだろうか?

 端的な言い方をすれば、所詮は音響の系列に過ぎないものが、どうしてそれを創り出し、或いは演奏し、聴取する「人間」についての情報源たりえるのか?どうしてそれが「一つの世界」の写し絵たりうるのか?「世界」の認識の仕方の反映たりうるのか?ということになるだろうか。それは(勿論、一部はそうしたものを利用することはあっても)特定の修辞法に基づく描写ではないし、主観的な情緒や印象の音楽化に終始することもない。そうした事情を以て、人はしばしばマーラーの音楽を「哲学的」と呼んだりもするが、それが漠然とした雰囲気を示すだけの形容、単なる修辞の類でなく、少しでも実質を伴ったものであるとしたならば、一体、単なる音響の系列が、どのような特徴を備えていれば「哲学的」たりうるのか?

 上記の問いは修辞的、反語的なものではない。つまり実際には「哲学的」な音楽など形容矛盾であり、端的に不可能であって、「哲学的」な何かは音楽に外部から押し付けられたものであると考えている訳ではない。それどころか、私がマーラーの音楽に魅了された子供の頃以来、その音楽には「哲学的」と形容するのが必ずしも不当とは言えないような何かが備わっていると感じて来たし、今なおその感じは変わることなく続いているのである。そしてそれを「哲学的」と形容すること是非はおいて、マーラーの音楽には、それを生み出した「人間」の心の構造を反映した、或る種の構造が備わっているのではないかと考え、そうした構造を備えている音楽を「意識の音楽」と名付けて、その具体的な実質について少しでも理解しようと努めてきたのであった。勿論、マーラーの音楽だけが「意識の音楽」ではないだろうし、マーラーの音楽の全てが同じ程度にそうであるという訳でもなかろうが、私がマーラーの音楽に惹き付けられた理由が、それがそうした構造を備えているからなのではないかという予想を抱き続けてきたのである。

*   *   *

 「意識の音楽」については、既に別のところで何度か素描を試みて来たし、その後大きな認識の進展があった訳ではないので、ここで繰り返すことはしない。その替りにここでは、従来、音楽楽的な分析や、哲学的な分析によって示されてきた知見の中で、「意識の音楽」について、謂わば「トップダウン」に語っていると思われるものを指摘するとともに、MIDIデータを用いた分析のような、謂わば「ボトムアップ」なアプローチとの間に架橋が可能であるとしたら、どのような方向性が考えられるかについて、未だ直観的な仕方でしかないが言及してみたいと思う。

 まず手始めとして取り上げたいのが、マーラーの作品の幾つか、或いはその中の或る部分が備えているということについては恐らく幅広く認められていると思われる、「イロニー」あるいは「パロディー」といった側面についてである。

 私がマーラーに出会って最初に接した評伝の一つ、マイケル・ケネディの『グスタフ・マーラー その生涯と作品』(中河原理訳, 芸術現代社, 1978)では、第2交響曲の第3楽章スケルツォに関連して、以下のように、純粋な器楽によるイロニーの表現の可能性についての懐疑が述べられていて、その後永らく自分の中に問題として沈殿続けていた。

「これは、人間のように耳は傾けるけれど態度は変えない魚たちに説教する聖アントニウスを歌った「角笛」歌曲のオーケストラ版である。この歌と詩は皮肉っぽく風刺的だが、しかし純粋な器楽で風刺と皮肉が表現できるものだろうか?耳ざわりな木管のきしみも風刺を伝えない。そういう意味ではこの楽章は失敗だと私は思う。しかし恐怖と幻滅の極めて力強い暗示をもった、まことに独創的なスケルツォとしては成功している(そしてそのことの方が重要なのである)。」(マイケル・ケネディ『グスタフ・マーラー その生涯と作品』, p.154)

その一方で「パロディー」についてケネディは、第9交響曲第3楽章に関連して以下のように述べている。

「マーラーは、対位法の技法を欠くといって自分を非難した人々への皮肉なパロディーをこめて、この楽章をひそかに「アポロにつかえる私の兄弟たちに」に捧げた。指定は「極めて反抗的に」とあり、実際そう響く。これは短い主題的細胞で組み立てられた耳ざわりで、ぎくしゃくした音楽で、最初の細胞には第5交響曲の第2,第3楽章の音形が反響している。トリオに入ると第3交響曲の第1楽章の行進曲のパロディーがある。こうしてマーラーは自分の諸作品をひとつの巨大な統一に結びつけてゆく。」(同書, pp.221-2) 

 第2交響曲第3楽章は歌曲と異なって、歌詞がある訳ではないので、器楽曲であるそれ自体はイロニーの表現にはならないと述べ、第9交響曲第3楽章についても、言葉による指示(最終的な総譜に残された訳ではないが)について皮肉を認めている一方で、器楽曲作品の主題的音形の引用によるパロディーは認めるというのがケネディの姿勢のようだ。風刺や皮肉は認めていなくても、第2交響曲第3楽章には恐怖と幻滅の極めて力強い暗示を認め、第9交響曲第3楽章についても、耳ざわりでぎくしゃくしているという性質は認めているので、皮肉は言語的なもので音楽だけでは成り立たない一方、音楽がそれ自体で或る種の気分、情態性を示すことができる(ネルソン・グッドマン的には「例示」examplifyということになろうか)と考えているようなのである。

 ここで思い浮かぶのはアドルノが『マーラー 音楽観相学』(龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999)で、マーラーの音楽の唯名論的性格について述べている中で、以下のように述べている箇所である。

彼がしばしば、主題それ自体からはどちらとも判断を許さないままに、「まったくパロディー抜きで演奏」、あるいは「パロディーで」というように指示したということは、それらの主題が言葉によって高く飛翔する緊張を示している。音楽が何かを語りたいというのではないが、作曲家は人が語るかのような音楽を作りたいのだ。哲学的用語との類比で語るならば、この態度は唯名論的と言えるだろう。音楽的概念は下から、いわば経験上の事実から動きを開始する。それは、形式の存在論によって上から作曲されるのではなく、事実を連続する統一体の中で媒介し、最後には事実を越えて燃え出すような火花を全体から発するためである。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, p.83)

 引用の最初の部分だけとれば、音楽的には同一のものが、言葉の指示によってパロディーであったりなかったりするということだから、その限りでは、音楽そのものは同一でも、それをどう名付けるかが問題だという意味で「唯名論的」という言葉を使っているように見えるが、後続の件や、別の箇所で「マーラーがいつもどのように作曲するかは、伝統の秩序の原則にではなく、その曲独自の音楽内容と全体構想に従っている。」(p.56)と述べていたり、「形式のカテゴリーをその意味から演繹する」「実質的形式論 materiale Formenlehre」(一般には素材的形式論とも)について述べるくだり(p.61)などを考え合わせると、寧ろ、個別の作品毎に各部分が担う機能に基づいて、いわばボトムアップに形式が規定されるといった側面が強調されているようにも見え、この水準は、音楽とそのメタレベルに位置する言語との関係ではなく、一般の抽象的形式カテゴリーと実質的カテゴリーとの関係が問題になっているのであって、実質的なものは抽象的カテゴリーと並行しているか、さもなくば下位に位置するものとされているのである。もし後者の立場に立つならば、ある主題がパロディーか否かというのは、音楽そのものによっては決定不可能であり、作曲者がそれにどのような指示を言葉によって与えるかで決まるという訳では必ずしもなく、寧ろ、個別の作品の音楽の脈絡に応じた、その主題の意味するものによって決まるということになるだろう。アドルノがモノグラフ冒頭で、「マーラーの交響曲の内実を明らかにするためには、作曲法上の問題にのみとらわれて作品そのものをおろそかにしてしまう単なる主題分析のような考察では不十分である」(同書, p.3)と述べているのは、こうした見方に由来しているのである。

 ケネディの言う通り、一般的には「イロニー」は、言語的なものを媒介としており、マーラーの音楽における歌曲と器楽曲の往還を考えれば、マーラーの音楽はそもそも言語的なものの侵入を受けており、それを抜きにして内実を捉えることはできないという見方ができる一方で、アドルノが指摘するような音楽内部における形式的カテゴリーと実質的カテゴリーの重層性を認めるならば、音楽そのものに内在するこうした複数の層の存在とその重なり合いがマーラーの音楽の重要な特徴の一つであると考えることができるように思われる。この点に関連してアドルノが

「マーラーの音楽は、あらゆる幻影に敵意を抱きつつ、芸術それ自体がそのようなものと成り始めた非真理から自らを癒やすために、かえって自身の、本来のものではない性格を強調し、虚構性を力説する。このようにして形式の力の場の中に、マーラーにおけるイロニーとして知覚されるものが生じている。(…)新しく作られたものの中にある既知のものの残像は、彼の場合には、どんな愚鈍な者の耳にも聞こえてくる。」(同書, p.42)

と述べていることを書き留めておきたい。そしてアドルノが言うように「マーラーがいつもどのように作曲するかは、伝来の秩序の原則にではなく、その曲独自の音楽内容と全体構想に従っている」(同書, p.56)のであれば、特に実質的カテゴリーについては、音楽が謂わば庇を借りている伝統的な楽式よりも寧ろ、個別の作品の具体的な経過を追跡することによって明らかになる各部分の機能に基づいて同定されるものであるということになりそうである。ここに伝統を蓄積のある音楽学的な楽曲分析とは別に、MIDIデータを用いた分析を行うことによって、直ちにという訳には行かなくとも、将来的にはマーラーの音楽の内実を解明することに寄与する可能性を見ることができるのではないかと考える。

 「パロディー」についても、引用の元となる文脈と、引用された文脈との間のずれが持つ意味によって決定されるということになる。上に引いた第9交響曲第3楽章の例の場合、元となる第5交響曲第2楽章なり第3交響曲第1楽章なりの部分と比較した時、それを引用したロンド・ブルレスケにおいて疑いなく感じ取れる、ケネディ言うところの「耳ざわりで、ぎくしゃくした」感じは、主題的細胞の和声づけや楽器法に加えられた変形によってもたらされる部分が多く、これは広い意味合いにおいては、アドルノの言う「ヴァリアンテ(変形)」(Variante)の技法によるものと考えることができるだろう。「小説と同様に、定式から解放された個々のものが、いかにして形式へと自らを造り上げ、自律的な連関をわがものとするか、ということが、マーラーに特有の技術上の問題となる。」(同書, p.110)のに対して、「マーラーのヴァリアンテは、常にまったく異なると同時に同じであるような叙事詩的・小説的なモメントに対する技術上の定式化である。」(同書, p.114)と「ヴァリアンテ(変形)」は位置づけられている。続けて例として取り上げられるのは「歩哨の夜の歌」における和声進行における変容なのだが、してみれば、いずれはヴァリアンテの分析に繋がるものとして、さしあたりは予備的なレベルのものであれ、和音の遷移の系列に分析することには一定の意義があるのではないかと考えたい。そして「ヴァリアンテ(変形)」の手法がソナタ形式や変奏曲形式という伝統的図式に反して、その音楽の内実に即した実質的な形式原理にまで徹底された例として挙げることができるのが、第9交響曲の第1楽章である。

「様々な技術的処理方法は、内実に合致したものとなっている。図式的な形式との葛藤は、図式に反する方向へと決せられた。ソナタの概念と同様、変奏という概念も、この作品には適当ではない。しかし、交代して現われる短調の主題は、長調の領域とのその対比は楽章全体を通じて放棄されていないのだが、その短いフレーズが第一主題とリズム的に類似していることにより、音程の違いにもかかわらず第一主題の変奏であるかのように作用する。そのこともまた非図式的である。すなわち、対照的な主題を先に出た主題から別物として構造的に際立たせるのではなく、両者の構造を互いに近寄らせ、対照性を調的性格の対比の面だけに移行させるのである。両方の主題において、ヴァリアンテの徹底化された原則に従い、音程は全く固定化されず、その書法と端に位置する一定の音だけが定まっている。両者に対して類似性と対照性とは小さいな細胞から導き出され、主題の全体性へと譲り渡される。」(同書, pp.200-201)

 ここで述べられているヴァリアンテの具体的様相をMIDIデータを分析することによって抽出することは極めて興味深い課題だが、人間が聴取する場合には難なくできることをプログラムによって機械的に実行しようとすると、たちまちあまたの技術的な困難に逢着することになる。バスの進行や和声的な進行が固定化されている変奏と異なり、ゲシュタルトとしての同一性を保ちつつ、だが絶えざる変容に伴われた音楽的経過を、マーラーが意図したように、或いは聴き手が読み取るように分析することは決して容易ではないが、ニューラルネットをベースとした人工知能技術が進展した今日であれば、これは恰好の課題と言えるかも知れない。同様に、技術的には「ヴァリアンテ(変形)」の技法に関連した時間的な構造として「(…)主要主題の構造もまた、未来完了形の中にある。それは目立たない、レシタティーヴォ風の個性のないはじめの出だしから、力強い頂点にまで導かれる。つまりその主題は自身の結果として成り立つ主題なのであり、回顧的に聞くことによってはじめて完全に明らかなものとなる。」(同書, p.203)と、これもまた第9交響曲第1楽章に関連してアドルノが指摘する「未来完了性」を挙げることができるだろう。事後的に回顧することによって了解される目的論的な時間の流れというのは、現象学的時間論の枠組みにおいては、少なくとも第二次的な把持によって可能となる。第1楽章の総体、更にはこれも因襲的な交響曲の楽章構成に必ずしも従わない全4楽章よりなる第9交響曲全体の構造――それは「小説」にも「叙事詩」にも類比されるのだが――は、更に第三次の把持の水準の時間意識の構造を前提としなくては不可能であろう。

*   *   *

 ここまで、マーラーの音楽の内実を明らかにするためのアプローチとして、言語を媒介とした高度な反省的意識の働きである「イロニー」「パロディー」を手がかりに、マーラー研究の文脈に添うかたちで、アドルノの言う伝統的な抽象的な形式カテゴリーと実質的カテゴリーの重層、更に音楽的経過に含まれる個々の要素の、いわば自己組織化的な形式化の具体的方法としての「ヴァリアンテ(変形)」の技法、それが可能にする時間論的構造としての未来完了性を取り上げてきた。ここで留意すべきと思われる点は、未来完了性のような時間的構造にせよ、アドルノが「小説」や「叙事詩」に類比するような構造にせよ、マーラーの音楽の特質と考えられるものは、高度な反省的意識を備え、自伝的自己を有する「人間」の心の構造の反映と見做すことができるということであり、総じてマーラーの音楽は、そうした意識が感受し、経験する時間の流れのシミュレータと捉えることができるのではないかということである。そしてそうした観点に立った時に、高度な反省的意識の働きの反映と見做すことができる側面として、更に幾つかの点を挙げることができるだろう。ここではその中で、高度な反省的意識を備え、自伝的自己を有する「人間」の心の構造の成立の、実は前提条件を為している、「他者」の働きに関わる特性として、調的二元論に基づく対話的構造、これも伝統的な規範からは逸脱する傾向を持つ対位法による複数の声の交錯、更にはシェーンベルクがマーラーを追悼したプラハ講演において以下のように指摘する「客観性」について目くばせするに留めたい。

 そこ(=第9交響曲:引用者注)では作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもうひとりの隠れた作曲者がいて、マーラーをたんにメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品を支えているのは、もはや一人称的音調ではありません。この作品がもたらすものは、動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。

(シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.124)

 と同時に、ここでは「動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間」にしか可能でないと指摘される「客観性」が、一方では既に触れた第3交響曲の創作についてマーラー自らが語ったとされる言葉に含まれる「…が語ることを」書き留めるという受動性に淵源を持ち、他方では「小説」的、「叙事詩的」な語りを可能にするような意識の構造に由来し、ひいてはモノグラフ末尾で「マーラーの音楽は、彼の表現として主観的なのではなく、脱走兵に音楽を語らせることにによって主観的なものとなる」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, p.214)とアドルノが指摘する点に繋がるであろうこと、マーラーの音楽の内実を明らかにしようとする企ては、「作品のイデーそのものではなく、その題材にほかならない」「芸術作品によって扱われ、表現され、意図的に意味されたイデー」(同書, p.3)にしか行きつかない標題の領域をうろつくことなく、こうした構造の連関を浮かび上がらせるものでなくてはならないということを主張しておきたい。

*   *   *

 上記のような点を仮に大筋認めた上で、だがしかし、具体的に為されたデータ分析の結果が、一体どのようにして上記のような問題系に繋がり、それを説明したり論証したりすることに関わるのか?という疑問は全くもって正当であり、率直に告白するならば、その具体的な道筋が朧げにでも予感できているといったレベルにすら程遠いというのが偽らざる現状であることは認めざるを得ない。

 そのことの困難さを端的に述べるために、問題を非常に簡単なかたちにして示してみよう。MIDIデータを用いたデータ分析について言えば、MIDIデータに含まれる音の系列に基づいて、そうした音の系列を産み出すためにはどのようなシステムが必要か、どのような規則(群)が、どのような構造が必要かという問題を解いていることになるが、それは例えば制御理論における逆問題の一種で、実現問題と呼ばれるような問題設定、系の挙動から、系の内部構造としての状態空間表現を求める問題に似たものとして捉えることができるだろう。つまり、マーラーの作曲した作品を生成するようなオートマトン、「マーラー・オートマトン」を設計する問題として捉えてみるのである。これに似た問題設定として、マーラーの作品の音の系列を与えて、似たような音の系列を生成するニューラルネットワークを学習させる機械学習の問題を考えてみるというのもある。後者についてはGoogle Magentaのようなツールを、Colaboratoryのような環境で動かすことによって比較的容易にやってみることが可能で、本ブログでも特に第3交響曲第6楽章を用いた実験を実施し、その結果を公開したことがあるが、話を単一作品(楽章)に限れば、更に試行錯誤を重ねればある程度の模倣はできそうな見通しは持てても、多様で複雑なマーラーの作品を模倣した音の系列を生成する機械を実現すること自体、容易なことではなさそうである。(これを例えばバロックや古典期の「典型的」な作品の生成と同一視することはできない。それらは寧ろ大量生産・消費される製品に近いものであり、それらと「唯名論的」に、個別の作品毎に、その内容によって実質的な形式が生成していくマーラーの作品との隔たりは小さなものではないと考えられる。同じことの言い替えになるが、機械学習にせよ、統計的な分析にせよ、マーラーの作品は、――冒頭に触れたシュトックハウゼンの指摘が或る意味で妥当であるということでもあるのだが――作品の数の少なさに比べて多様性が大きいし、その特性上、単純にデータの統計的な平均をとるようなアプローチにそぐわない面があるように感じられる。人間の聴き手、分析者は、何某かフィルターリングや変換を行った上で、抽象的な空間でデータ処理を行っているように感じられるのだが、ではどのようなフィルタリングや変換を行い、分析を行う空間をどのように定義すればいいのかについて具体的な手がかりがあるわけではない。)

 そこでいきなり「マーラー・オートマトン」を生成する問題を解くような無謀な企ては控えて、マーラーの作品の構造を分析することに専念したとして、そもそもマーラーの音楽の持つ複雑な構造そのものを、その内実に応じた十分な仕方で記述するという課題に限定してさえ前途遼遠であり、ここでの企てがそれを達成しうるかどうかについて言えば、率直に言って悲観的にならざるを得ないというのが現実である。マーラーの作品が「意識の音楽」であると仮定して、そこにどのような構造があると仮定すれば良いのかすら明らかではない。カオス的な挙動を想定した分析をすれば良いのか?(具体的には例えばリャプノフ指数を求められばいいのか?だが、カオス的な挙動そのものはごく単純な力学系ですら引き起こすことができるものであり、仮にある音楽作品にカオス的な挙動が観察されたとして、それが意味するところは何かは良くわからないが、それでもなおそれがマーラーの作品の何らかの特性に関わる可能性を考えてやってみることになるのだろうか?)、オートポイエーシスやセカンドオーダー・サイバネティクスのようなシステムを仮定して、それらが備えている(例えば自己再帰的な)構造を仮定した分析をすれば良いのか?

 だが恐らく、自己再帰的な構造というだけならば「意識」の関与について必要条件であったとしても、十分条件ではないだろう。つまり自己再帰的な構造は、自己組織化システム一般の備えている特徴であって、それが「意識」の関与の徴候であるわけではないだろう。或いはまた、それは高度な意識を備えた作曲者の「作品」であることを告げていることはあっても(例えばバッハの「フーガの技法」のような主題の拡大・縮小を含んだ高度な対位法的技術を駆使した作品を思い浮かべてみれば良い)、それはここでいう「意識の音楽」の特徴とはまた異なったものであり続けるだろう。寧ろ例えば、文学作品における普通の叙述と「意識の流れ」の手法との対比のようなものとの類比を考えるべきなのだろうか?ある叙述が「意識の流れ」であるというのは、どのようにして判定できるのだろうか?そしてここでは「音楽」が問題になっているのであれば、それは「音楽」に適用することが可能なものなのか?(これはそれ自体マーラーの作品を考える時に興味深い論点だろうが)「意識の流れ」と「夢の作業」に共通するものは何で、両者を区別するものは何か?こうした問いを重ねていくにつれ浮かび上がってくることに否応なく気づかされるのは、結局のところ「意識の音楽」の定義そのものが十分に明確ではないということである。だがその少なからぬ部分は恐らく「意識」そのものに由来するものではなかろうか?その一方で、このように考えることはできないか?すなわち、「意識の流れ」の定着は、それ自体は「意識的」に組み立てられた結果というより、無意識的なものを整序せずにそのまま定着させようとした結果なのだが、そこには高度な意識の介入があって、「無意識的なものを整序せずにそのまま定着させる」という所作自体は、高度にメタ的な「意識の運動」ではないだろうか?そうした操作の結果が音楽的に定着されたものを「意識の音楽」と呼ぶのではなかったか?

 「意識の音楽」の何らかの徴候を、MIDIデータの中に見出そうという試みが、そもそも初めからかなり無謀な企てであることは否定できない。困難は二重のものなのだ。「意識」がどのような構造がどのように作動することで成り立つかがそもそもわかっておらず、十分条件ではなく、良くて必要条件に過ぎない条件として、セカンドオーダーサイバネティクスやオートポイエーシスのような概念が提示されている、という状況がまずあり、更に直接「意識」そのものと相手にするのではなく、「意識」を持った存在が生産した作品を手がかりに、そこに「意識」を備えた生産主体の構造が反映されていることを見出そうとしているわけで、従って、仮説の上に仮説を重ねるこの企て自体、そもそも無理だとして否定されても仕方ない。そんな中で、限られた手段と資源でとにかくデータに基づく定量的な分析を行おうとすれば、「街灯の下で鍵を探す」状況に陥ることは避け難く、一般に「マクナマラの誤謬」と呼ばれる罠に陥ってしまう可能性は極めて高いだろう。けれども、だからといってデータに基づく分析を放棄してはならないし、簡単に測定できないものを重要でないとか、そもそも存在しないと考えているわけでは決してなく、そういう意味では、できることを手あたり次第やる、という弊に陥りはしても、「マクナマラの誤謬」の本体については回避できているというように認識している。

 三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」であれば、それをシュトックハウゼンの宇宙人が解読しようとしたとき、規則によって生成された音の系列そのものだけでは、それが「人間」の産み出したものであるかどうかの判定はできない。自然現象でも同じ系列が生じることは(マーラーの場合とは異なって)あり得るだろう。だけれども、残り2つの相があることで。それは「人間」が産み出したものであり、人間についての情報を与えてくれるものとなっているというように言えるのだと思う。「五芒星」の音の系列そのものからは「人間」は出てこない。でも同じ音の系列をマトリクスとして、あの3つのヴァリアントを産み出すことができるのは「人間」だけなのだと思う。

 翻ってマーラーの場合だって、或る作品の或る箇所だけ取り出せば、それを機械が模倣することは可能だ。だけれども、マーラーの作品の総体ということになると、しかも、既に存在する作品の模倣ではなく、新たにそれを産み出すということになれば、それを産み出す機械は、「人間」と呼ばれるものに限られるということになるのではないか?

 これも前途遼遠な話ではあるが、或る作品単独での特徴ではなく、例えば一連の作品を経時的に眺めた時に見られる変化であれば、それを産み出す「主体」に、所詮は程度の差であれ、もう少し近づくことができるのではないかというような当所もないことを思っている。牽強付会にしか見えないかも知れないが、その「主体」が成長し、老いる存在なのだ、ということが読み取れるならば、それには一定の意義があるのではというように思うのである。人間が成長し、老いていき、その結果「晩年様式」なるものが生じるというのは、「人間」についての水準では既に自明のなのかも知れないが、だからといってデータ分析によって経年的な変化が読み取れることを、初めから答えがわかっていることを跡付けているだけとは思わない。例えばの話、具体的にその変化が、どのような特徴量において現れるかは決して自明なことではないし、データ分析はすべからく、分析者の仮説とか思い込みとかから自由ではあり得ない。完全に中立で客観な分析というのは虚構に過ぎない。

*   *   *

 最初はマーラーの作品における調的な遷移のプロセスを可視化することを目的として、そのための入力データとしてMIDIファイルを使うことにしたのがきっかけで、その後、特に和音(実際には機能和声学でいうところの和声ではなく、ピッチクラスセットに過ぎない。以下同じ。)の出現頻度を用いてクラスタリングや主成分分析を行い、マーラーの作品に関して、幾つかの知見を得ることができた。その後和音の状態遷移パターンに注目してパターンの多様性の分析やエントロピーの計算を行い、そこでも若干の知見を得た後、直近ではリターンマップの作成をしているが、今後、どのような観点での分析を進めたら良いのかについて明確な見通しが持てているわけではない。本稿はそうした或る種の行き詰まりの中で、何か少しでも手がかりが得られればと考えて始めた振り返りの作業の一環として執筆された。ここまで執筆してきて、特段新たな発見のようなものがあった訳ではないが、従来より蓄積されてきたマーラーの作品固有の特性に関する知見と、MIDIデータを用いたデータ分析のようなボトムアップな分析とのギャップを具体的に確認することが出来ただけでも良しとせねばなるまい。

 ギャップを埋めるにはどうすればいいかについても具体的な道筋を手にしているわけではなく、特に最後に述べた具体的な楽曲の構造そのものに「老い」を見出す作業については、一体どのようなアプローチで楽曲を分析を進めていったら良いかについての見通しすら現時点では立てていないことを認めざるを得ない。だが最後に、漠としたものではあるけれども、朧気に浮かんでいるアプローチの仕方について、簡単に述べておきたい。ポイントはまず、意識が基本的に「感じ」についてのものであり、「感じ」は有機体の「ホメオスタシス」に関わるというソームズやヤーク・パンクセップ、ダマシオの立場に依拠すること、更に「ホメオスタシス」という概念に注目し、ソームズ=フリストンの意識に関する自由エネルギー理論に依拠することに存する。これはマーラーの音楽を「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」として捉えようとしているからには、ごく自然な選択であろう。いきなり作品そのものにアプローチするのではなく、一旦まず意識についての定量化可能な理論を出発点にとり、音楽作品を意識を備えた有機体に対する入力でもあり出力でもあるものとして位置づけることによって、単なる音響の連なりではない音楽に意識の様態がどのように映り込み、また音楽を聴くことで意識がどのような振舞をするのかを定量的に捉えるアプローチをしてみようということである。自由エネルギー理論のような機械論的な説明に依拠することのここでのメリットは明らかで、そうすることによって作品を「マーラー・オートマトン」の出力と見做し、オートマトンの挙動を理解するという発想が単なる比喩ではなく、具体的なモデル化や分析の道具立てが備わったものとなる可能性が開ける。

 現時点で思い描くことのできる見取り図としては、「老い」についてのシステム論的な定義においてはホメオスタシスやエントロピーの観点から「老い」が捉えられていることから、ソームズ=フリストンの「自由エネルギー原理」に基づく「意識」の説明(これもホメオスタシスやエントロピーに深く関わっていることに思い起こされたい)をベースにし、上記のアドルノやReversのカテゴリの記述を意識にとっての「感じ」という観点から捉え直し、更には自由エネルギー原理的に翻訳することによってデータ処理可能な記述に変換し、楽曲の動力学的なプロセスの中にそれらを探っていくという道筋が浮かんではいる。楽曲のプロセスに「老い」や「老いの意識」を見出す以前に、まず「老い」の自由エネルギー理論的説明が必要であり、その上で「老いの意識」についても同様の説明があってようやく、それが音楽作品の構造や過程にどのように例示(examplify)――ネルソン・グッドマンの言う意味合いで――されうるかの検討に取り掛かることができるようになるだろうし、その時ようやく「晩年様式」の実質について語ることが出来る語彙が獲得できたと言いうるだろう。そして「晩年様式」の実質を語れるのであれば、「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」としてマーラーの作品を分析する手段は既に手に入ったことになるだろう。ちなみに上記では単純化のためにホメオスタシスにのみ言及したが、フリストンの「自由エネルギー原理」の重要な帰結として、人間の脳はホメオスタシス的な動きだけではなく、アロスタシス的な振る舞いを行うことが示されている。またパンクセップによっていわゆるデフォルトモードの情動がSEEKING(探索)であることが指摘されている。ここから創造性や「憧れ」といったものについて語る可能性も開けているように思われる。だが、この道筋を具体的に展開して実際の分析にまで繋がるレベルに到達するのは前途悠遠の企てであり、その実現には程遠いというのが現状である。

 そのギャップを埋める作業は、自分自身の手に負えるようなものではなく、ここでは問題提起を行うだけで、未来の優秀な研究者に委ねられているとしても構わない。寧ろこの問題設定を引き継ぎ(実際の作業は全く違うアプローチで勿論構わないが)いずれの日にか、マーラーの音楽の内実を捉えた分析が、具体的なデータに基づいて行われることを願って本稿の結びとしたい。(2024.8.16 初稿, 8.21, 28追記, 12.19末尾に追記, 2026.9.8更新)

2025年8月22日金曜日

MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):クラムハンスルの「調的階層」を用いた調性推定と和音のラべリング(2025.8.22更新)

0.はじめに

 これまでのマーラー作品のありうべきデータ分析についての検討を踏まえ、MIDIファイルを入力とした分析の第一歩として、クラムハンスルの調的階層に基づく調性推定を行い、以前「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi2020128.htmlにて報告した和音のラべリングの結果と対比できるようにしましたので、その結果を公開します。以下では調的推定について背景およびここで採用したデータ分析の概要、および結果の見方についての説明を行います。和音のラべリングについては、上記の記事をご覧いただけますようお願いします。
 なお、この文章の末尾にも記載していますが、公開するデータは、あくまでも実験的な試みを公開するものであり結果の正しさは保証しません。実際に、検証を進めるにつれて、入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違いがファイルによってはかなり存在することがわかっています。また、他のデータを公開した時にも述べた通り、分析プログラムの仕様の制限で、MIDIファイルによっては期待される結果が得られない場合があることも判明しています。(調性推定と和音のラべリングを比較すると、その手法上の特性から、調性推定の方がデータの誤りに対して相対的にはロバストではないかと想定されます。従って特に和音のラべリングは、手法自体は単純なものでありながら、楽譜の通りの結果になっていない場合が多いことを申し上げざるを得ない状況です。)
 公開する結果が学術的な観点からは極めて信頼性の低いものと言わざるを得ないことは大変残念ですが、フリーで公開されているMIDIファイルを利用している以上、しかも、マーラーの作品が大規模で時間的にも長大で複雑であることを考慮すれば、已むを得ない部分が大きいと考えます。これも以前、マーラー作品のMIDI化状況を紹介する際に記載した通り(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2016/01/midi.html)、学術的な目的で信頼できるデータが必要とされる場合には、まず信頼のおけるデータを作成するところから始めなくてはならないと思われます。同一作品の異なるMIDIファイルのデータがどれくらい異なっているかを確認する目的で、現時点で私の保有している、Web経由で無償で入手できたマーラー作品の全MIDIファイル(231ファイル)の解析を実施済で、その結果が手元にはありますが、公開はしないことにしました。検証可能性・再現可能性という観点からは、本来は使用したMIDIファイルそのものを添付して公開することが望ましいのでしょうが、再配布についての規定が明らかでないこと、Webで無償で入手したものばかりであることから、入手元を示すことでその替りとさせて頂くことにしました。
 今のところ、そのための時間が取れないという現実的な理由からMIDIデータ自体の作成は考えていません。そのかわりにプログラム上の工夫によってカバーできる点は、プログラムの改良によって改善していきたいと考えていますが、自ずと限界もあろうかと思います。私がこのようなことをやっている間には、マーラー作品の信頼できるデジタル・ライブラリーが利用できるようなことにはならないかも知れませんが、いつの日かそういう日が来ることを願いつつ、今の時点では以上の点をご留意の上、ご覧いただけますようお願い致します。
 [2020.3.7付記] 実験結果の再現・検証を行えるようにするという目的から、分析の入力とするためにMIDIファイルを解析して、そのデータの一部を抽出してテキストファイルに出力したものを「MIDIファイルの分析:MIDIファイル解析結果(2020.2.29)」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/midimidi2020229.html)で公開することにしました。MIDIファイルに含まれるデータのうち、どの部分を分析に用いているかも明らかとなり、実験結果の再現・検証という目的からは十分であると考えます。公開しているファイルの詳細は、上記のページをご覧ください。


1.背景

 マーラーの作品の特徴の一つとして、調的設計のユニークさが挙げられると思います。一つには平均律と機能和声のシステムが確立したバロック時代や古典期に遡る「調性格論(Tonartencharakteristik)」的な視点であり、各調性に固有の性格があるとするものです。平均律化とは一見矛盾するように見えますが、典型的な平均律楽器であり、奏法上の合理性で調性が選択される傾向すらあるピアノは措くとして、マーラーが作品の媒体とした管弦楽で用いられる楽器は、弦楽器にせよ管楽器にせよ、その楽器の特性から、平均律ベースの転調に対応するように改良されてきたとはいえ、基本的には基準となる音の低次の倍音で音が出やすく、高次倍音は正しいピッチをとること自体困難になるといった特性から、調性によって響きが異なるのが現実ですから、マーラーが同時代の作曲家と比べても全音階的であると言われる側面と相俟って、調性格論が成立する基盤を欠いているわけではないと思われます。もう一つは、古典期の規範上は「逸脱」と位置付けられる(例えばシェンカーの分析は、拡張は可能でしょうが、基本的には開始と終了の調が同一であることを前提としていることを思い出してもいいでしょう)作品の開始の調性と異なった調性で作品が終わるという、いわゆる「発展的調性(progressive tonality)」的な視点です。こちらはマーラーのいわゆる「進歩的」な側面に繋がると思われます。勿論、両者は組み合わさって、アドルノによって「小説」にも喩えられた音楽的時間構造を実現しているわけですが、ここでは特に後者の側面、即ち、作品の時間的経過を通じて調性がどのように移ろっていくかにフォーカスを当てて、マーラー特有の時間性を分析するための準備をしたいと考えています。

 これまでもマーラーの個別の作品の調的プロセスの分析は行われてきましたし、特に「発展的調性」についてはDika Newlinの指摘以来、マーラーを語る際には欠かせないトピックとして議論されてきました。そしてそれらの多くは機能和声に基づく楽曲分析についての知識を備え、豊富な聴経験を持つ「規範的な聴き手」である「音楽学者」が楽譜を読み解いて、作品を特徴づける重要な要素を見抜き、抽象化する方法によって行われてきました。但し「発展的調性」に関する議論は、えてして非常にマクロな楽式レベルでの把握に基づく解説に留まりがちであり、それがミクロな調的遍歴とどう関わるのかについての実質的な分析は十分とは言えず、更には一般には機能和声の古典的な規範からの「逸脱」と看做される「発展的調性」が実際にはどのような動力学に基づくものなのかについて明らかであるとは言えないように思います。そしてこうした問題にアプローチをし、マーラーの作品の固有の力学を発見するためには、データに基づいた分析が適切なのではないかと思われます。

  ここでは上記の課題にアプローチする第一歩として、MIDIファイルを入力とし、プログラムによってマーラーの作品の調的な遷移の過程を抽出し、分析の材料を提供することを試みました。

 そもそも調性とは何か、調性を推定するというのはどういうことなのか、何を手掛かり調性の推定を行うことができるのかについては、それ自体様々な議論があり、音楽学・音楽についての認知心理学・音楽情報処理 といった分野での研究の蓄積があります。

 ここで採用したのは、クラムハンスルによる「調的階層」を用いた調性推定のアルゴリズムです。詳細は、Carol L. Krumhansl, Cognitive Foundations of Musical Pitch.  Oxford: Oxford University Press. 1990 の特に第2章 Quantifying tonal hierarchies and key distance および第4章 A key-finding algorithm based on tonal hierarchies をご覧頂くのが適当ですが、簡単に言えば、長調・短調それぞれについて12音の各音との相関を実験的に求めておき(これがクラムハンスルの「調的階層」と呼ばれるものです)、それをベースにして、個別の作品の或る区間に鳴っている音の分布と、24の調性を特徴づける分布との相関を求めるというやり方です。

 上に簡単に要約した動機やアプローチ手法の検討(クラムハンスルの調的階層を用いることが何を意味するか)などの背景の詳細については、以下をご覧頂くこととして、ここでは改めて議論は行わず、抽出結果を提供することにします。
・「マーラー作品のありうべきデータ分析についての予想:発展的調性を力学系として扱うことに向けて」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_10.html
・「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
・「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺への追記」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post_12.html

2.データ分析の概要

まず、ここでのデータ分析のやり方を説明します。

 対象となるMIDIデータは、これまで五度圏上の重心計算や和声の抽出や可視化を行ってきたマーラーの全交響曲と一部の歌曲(64ファイル)で、対象となる作品およびMIDIデータについての詳細は、重心計算の結果の紹介(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/httpsbox.html)に準じます。
 公開しているExcelファイルにはMidiFileNameというシートを含めて、解析対象のMIDIデータと作品との対応、および各ファイルの入手元がわかるようにしました。

 具体的な処理の手順は以下の通りです。

(1)マーラーの作品のMIDIファイルから、基本となる拍毎に、その拍の区間(拍の開始時刻から次の拍の開始時刻の間)で鳴っている音(ピッチクラス)およびその長さ(単位はMIDIデータで設定された基本単位)を取り出します。ピッチクラスなので音高が異なっても同じ音と看做し、同じ音が複数のパートで鳴っている場合には、音の重複は無視して、その中での最大の長さをそのピッチクラスの長さとします。その区間で鳴っている音の分布が、要素数12のベクトルで表現されることになります。

(2)(1)で求めたベクトルに対して、今度は小節毎に以下の処理を行います。
小節の頭拍では その拍のみのデータで、「調的階層」に基づく推定を行います。次の拍では、前の拍のデータとの和をとって「調的階層」に基づく推定を行います。小節の最後の拍では、その小節の区間内で鳴っている音の分布に基づいた推定が行われることになります。どの区間を対象に相関をとるのかは、調的変遷のプロセスを取り出す際の基本的な条件設定ですが、もともとは重心計算や和音の抽出同様、小節毎に行うことを考えていました。ただし重心や和音の抽出は、各小節の頭拍という断面において鳴っている音を対象としているのに対し、ここでは区間内の音の長さに基づく分布をとる点が異なります。(勿論、長さではない別の量で分布をみることも可能ですが、ここではクラムハンスルの手法に従います。また小節毎ではなく、より長い区間について分布をとることも考えられますが、ここでは一旦、他のデータに合わせて1小節を1区間としました。)従って、小節毎に計算しても良かったのですが、小節の途中での変化のプロセスを見れた方が、データとしては情報が豊富になるので、上記のようなやり方でデータを取りました。

 結果は以下にExcelのBook形式で公開しています。zip圧縮してあり、解凍するとxlsx形式のExcelファイルが3つ出てきます。experimental_E_corel.xlsx, experimental_B_corel.xlsx, experimental.xlsです。特にexperimental_E_corel.xlsxはファイルサイズが35Mbyte程度あり、3ファイル合計で56Mbyte程度と大きめですのでご注意下さい。experimental_E_corel.xlsxが拍毎の調性推定結果を全て収めたもの、experimental_B_corel.xlsxが小節毎の調性推定結果のみを収めたもの,で、調性推定結果のみに限定すれば、後者は前者のサブセットであり、小節の途中でそれまでに出てきた音を累積しつつ、調性推定をしていく過程を省いて、各小節末時点でその小節に出て来た音の持続を累計した結果に基づく調性推定結果のみを収めたものになります。また、experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxの結果に基づき、楽譜の小節との対応づけや、幾つかの文献に見られる楽章構成の情報を対比できるように追加したものです。

https://drive.google.com/file/d/18Bwr6tnFYOA3aHA3BBuNT-nNJGokXkE0/view?usp=sharing

 ところで小節毎の解析は、MIDIデータで入力された小節の区切りの情報の正確さに依存します。そしてしばしば小節の区切りの情報は正しく入れられているとは限りません。これはMIDIファイルをこのようなデータ分析の目的ではなく、「再生し」、「聴く」ことを目的とした作成する場合には、小節の区切りを楽譜に忠実に入力することが必ずしも必要でないことを思えば仕方のないことです。特にマーラーの作品の場合には、楽章の途中で拍子が変わるだけではなく、変拍子もあれば第2交響曲フィナーレのフルート・ソロや『大地の歌』の「告別」におけるそれのように、レシタティーヴォ的な箇所で小節線が自由に扱われることもありますので、そうしたことがない作品に比べると問題が発生しやすいことは予想できますし、現実に問題が発生していることを確認しています。
 
 なお拍毎のデータもまた、マーラーのように楽章の途中で拍子が切り替わり、拍の基本単位が変わる(四分音符、八分音符、更にはアラ・ブレーヴェでの二分音符)ことを考えれば、楽譜の通りの拍毎にMIDIデータが作成されることを期待すべきではないことがわかります。従って、個別のMIDIファイルにおいて、楽譜の特定の部分がどのように処理されているか、楽譜通りなのかそうではないのかは、個別にMIDIファイルの中を覗いて確認する他ありません。更には、MIDIファイルには、シーケンサーを使って手入力するやり方ではなく、MIDIキーボードでの演奏を元にしたものも存在しますが、後者の場合には、拍の位置と実際に音が鳴っている時点が一致するとは限りません。というより一般にはずれているもので、その程度のずれは人間の知覚上は問題にならないですし、それが極端なものであればテンポ・ルバートのような微妙なニュアンスとして捉えられるようなものでしょうが、機械で処理する上では致命的で、特に拍頭で鳴っている和音を抽出するようなタイプの処理の場合に、拍節の時間的な揺れを考慮した工夫が必要となります。これに簡単なプログラミングで対応するのには限界があり、本質的には寧ろAIに相応しい問題であるという見方もできるかと思います。
 以上長々とデータの信頼性(の欠如)についての釈明のようなことを書き連ねましたが、それはひとえに、公開しているデータの信頼性の制限について、正確な情報を提供することを目的としています。ご利用にあたっては予め上記のような制限にご留意頂けるよう、重ねてお願いします。

 以下、上記のファイルの収められた結果の見方を記しますが、結果を3Dグラフ表示したものを参考までに示します。重心の時と同様、RinearnGraph3Dを使用して描画しています。

最初が「私はやわらかな香りをかいだ」です。X方向が小節数、Y方向が調性で、0~11が長調(Gesからサブドミナント方向にDesまで)、13~24が短調。Z方向が相関です。色は相関の度合いを示し、青が高い正の相関を示し、黄色は負の相関を示します。概ね青い尾根をX方向に辿ると、調性の遷移の軌道の推定結果を表していることになります。

次は第8交響曲の第1部です。見方は上の例に準じます。小節数が多いためX方向はかなり圧縮されてしまっています。

 Y方向は本来は両端のGes-Desをくっつけて五度圏に対応する円周とし、X方向に伸びる円筒として表示するのがより自然でしょうが、俯瞰性という点では円を切り開いて直線として並べた上記のやり方にも一定のメリットがあると思います。

 他方、長調と短調を別々に併置するのは、同主調や並行調の近親関係を表現できていない点で問題ですが(こちらの方向ならば例えば、Krumhansl & Kessler (1982)で示された多次元尺度構成法によって求めた構造上に軌道をプロットすることなどが思いつきますが)、次元の数の制約もあり、ここでは推定された調性の軌道だけではなく、各調との相関を求めることで得られる地形を視覚化することに重きを置きました。例えば青色が濃い、高い尾根が続いているところは相関が高く、調性が明確な部分であるのに対し、濃い色がなく、薄い色の低い丘となっている箇所は調性が曖昧になっていると言えるでしょうし、時として丘が複数ある場合には、2つの調性の間で揺れ動いているような部分であるというように、調的プロセスが、単なる軌跡としてではなく、明瞭さや分裂・収斂といった様相といったものに対応した地形として表現されている点で、目的に適っていると考えています。


3.結果の見方

 結果を収めたファイルの見方について以下で説明します。結果はシート毎に分かれており、1シート1ファイル、交響曲の場合は1楽章、歌曲なら1曲が1シートです。シートのラベルは重心計算結果と同じで、入力となったMIDIファイルのファイル名本体部分です。

experimental_B_corel.xlsxのシートの一部を示すと、以下のようになっています。以下は「やわらかな香りをかいだ」です。experimental_E_corel.xlsxでは一部が異なりますが、基本的なフォーマットは概ね同じです。

縦方向が各曲の時間方向になります。1行が1拍です。1拍の定義は、入力されたMIDIファイルでの定義に従いますが、楽譜に忠実な入力の場合には、拍子記号の基本拍(4分の4拍子なら4分音符)です。マーラーの場合には変拍子や途中で拍子が変わることがごく普通ですが、ここで用いているサンプルは拍子の変更には忠実な入力となっています。ただし、基本拍に関してはその限りでなく、(おそらくは入力のしやすさなどの理由から)3拍子の小節を6分割する、或いはその逆といった場合もありますが、ここでは上述の通り、基本的には小節単位に相関を見るのが目的なので、大きな支障とはなりません。
 なお1行目は空行、2行目はヘッダなので3行目がMIDIファイルにおける曲の最初の拍ですが、ご注意頂きたいのは、3行目=楽譜上の最初の拍ではないことです。これはMIDIファイルの特性上、冒頭の空き部分に様々なパラメータ設定の情報を収めるコンベンションとなっているためで、ファイルの冒頭数拍は無音の区間になっていることが一般的です(勿論例外もありますが)。
 また小節の区切りは利用したMIDIデータのものに依拠しますので、概ね小節の区切りが楽譜通りとなっており、小節数がほぼ等しいデータを用いていますが、 完全に楽譜通りかどうかは保証の限りではありません。ここでの分析の意味合いから考えると、小節の頭拍というのは、区間の区切りに過ぎません。勿論区切り方によっては区間内で調的変化が起きていしまって変化が明瞭に表れない可能性はありますが、小節の途中での計算結果である程度のことは把握できるのと、マーラーのみならず、必ずしも頭拍が和声的な変化の切れ目と一致しない場合もあるので、あくまでも目安に過ぎないと考えるべきかと思います。それを踏まえれば、概ね楽譜の小節の区切りに従った計算ができていれば、所期の目的は概ね達成できると考えていいように思います。

以下、列方向の意味を記載します。

A~L列:長調の各調性との相関。変ト長調~変二長調まで、 五度圏をサブドミナント方向に読んだときの音名の並び順になっています。文字色と背景色の意味は以下の通りです。
  • 背景色がピンク色(ColorIndex = 38)で文字色が赤の箇所:相関が最大でかつ相関が0.5以上の調
  • 背景色がサンゴ色(ColorIndex = 40)の箇所:相関が最大以外で0.5以上の調
  • 背景色なしで文字色が赤の箇所:相関が0.5未満だが最大の調
 つまり文字色が赤の列を行方向に辿れば、最も相関が高いと推定された調性の時系列変化を辿ることができます。A~L列に文字色が赤の列がない場合には、最も相関の高い調は短調側(N列~Y列)に移動しています。なお、ここでは相関を取っているので、音の出現頻度が全て同じ値の場合は標準偏差が0となり、計算対象外となります。(ゲネラルパウゼ=音が全くなっていない場合は別にすると、12音で同じ頻度ということは該当区間では調性感が無いことになりますが、実際にはこの実験の範囲内では第2交響曲の第1楽章で複数回発生しただけでした。)なお、上の説明の通り、experimental_E_corel.xlsxでは小節内の頭拍以外は小節末尾まで 、それまでに小節内で鳴った音の長さの累計値での相関となっています。1拍目は1拍目のみ、2拍目は1拍目と2拍目の累計…といった具合です。各拍毎の音の出現頻度の値のみによる相関ではありませんのでご注意下さい。またexperimental_B_corel.xlsxは小節内で生起した音の持続の累計に基づく調的推定の結果を記録したもので、定義により、experimental_E_corel.xlsxでの小節内の最後の拍の結果に一致します。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。ただし楽譜の小節との対応付けをしていることから、曲の末尾の最後の小節より後の情報は取り除いてあります。

M列: experimental_E_corel.xlsxでは小節頭は小節数を表し、それ以外は0を埋めてあります。既述の通り、MIDIデータの最初には無音区間が含まれることが一般的なため、0オリジンで付番していますが、楽譜上の小節数とは必ずしも一致しませんのでご注意ください。experimental_B_corel.xlsxでは相関を出力した拍の位置を表します。即ち、その拍までのMIDIデータについての相関を出力したことを意味します。上記の「私はやわらかな香りをかいだ」の例では、1行目は8ですが、これはその行が先頭から8拍目までのデータに基づく相関であることを表します。2行目は14ですので、その行が9拍目から14拍目までのデータに基づく相関であることを表します。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。

N列~Y列:短調の各調性との相関。A~L列の長調における説明に準じます。文字色と背景色の意味は以下の通りです。
  • 背景色が山吹色(ColorIndex =  44)で文字色が赤の箇所:相関が最大でかつ相関が0.5以上の調
  • 背景色が薄黄色(ColorIndex = 36)の箇所:相関が最大以外で0.5以上の調
  • 背景色なしで文字色が赤の箇所:相関が0.5未満だが最大の調
つまり文字色が赤の列を行方向に辿れば、最も相関が高いと推定された調性の時系列変化を辿ることができます。N列~Y列に文字色が赤の列がない場合には、最も相関の高い調は長調側(A列~L列)に移動しています。

Z列:experimental_E_corel.xlsxの場合は拍の通し番号を、experimental_B_corel.xlsxの場合は小節番号を表します。ただし、いずれもMIDIファイル内における1オリジンの付番であり、MIDIファイルの最初にダミーの拍・小節がある場合、楽譜上のそれらとは一致しません。

AA列からAD列までは、調性推定の結果ではなく、調性推定の結果との比較の目的で、「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi.html)にて報告した、区間の先頭、即ち experimental_E_corel.xlsx の場合は各拍の頭、 experimental_B_corel.xlsx の場合は各小節の頭で鳴っている音についての情報を出力したものです。調性推定に用いた情報が拍ないし小節内で鳴っている全ての音の持続時間であるのに対し、こちらは拍ないし小節の頭で鳴っている単音ないし和音をラベルづけしたものであり、対象データが異なる点にご留意ください。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。

AA列:区間先頭で鳴っている和音をビット列で表現したものを10進数化したものです。
AB列:区間先頭で鳴っている音のうちMIDIノートで最も小さい値=最も低い音の音名。
AC列:区間先頭で鳴っている音のうちMIDIノートで最も大きい値=最も高い音の音名。

AA列ではDesが最下位ビット、Fis=Gesが最上位ビットとしてビット列を定義しているので、数字と音名との対応は以下のようになります。鳴っている音が1、鳴っていない音が0です。例えば、Cを根音としてC-E-Gが区間先頭で鳴っているとすると、AA列は32(C)+512(E)+64(G)=608、AB列はc(=32)、AC列はg(=64)が表示されることになります。

Des  1
Aes 2
Es 4
B 8
F 16
C 32
G 64
D 128
A 256
E 512
H 1024
Fis 2048

AD列:AA列とAB列を用いて、その区間の先頭で鳴っている和音のうち、典型的なもののみ判定した結果を示しています。なお単音、2音の場合には、鳴っている音の音名を併せて表示しています。定義に基づき、1音の場合にはAB列・AC列・AD列は同じになります。一方2音の場合には必ずしもAB列・AC列とAD列は同じにはなりません(バスとソプラノでオクターブ異なる音が鳴っていて、内声でそれとは異なる音が鳴っている場合には、AB列・AC列の音名は同一ですが、AD列では、AB列・AC列の音名と内声の音名の2音が鳴っていると表示されます)。

背景色は以下を表します。

灰色  休符
ピンク 長三和音
山吹色 短三和音
なし  上記以外の単音・音程・和音

長三和音、単三和音については、AO列の最低音の音名から、各和音の基本形か第1転回形(6の和音)か第3転回形(4-6の和音)かを以下の文字色で表現しています。

黒=基本形
緑=第1転回形
赤=第2転回形

文字はその音名を主音とする長三和音、短三和音に相当する音の組み合わせがその小節の頭拍で選ばれていることを表す形式的なものであり、和声の機能を分析した結果得られた主音を意味している訳ではありません。つまり例えば、機能和声ではハ長調のドミナントと分析される和音について、ここではト長調の主三和音と表示されることになります。なお、長調は大文字、短調は小文字としています。

背景色が無い箇所の文字の意味は以下の通りです。以下は各行毎にラベルと意味のペアを表しています。

音名 単音
5:音名-音名 五度
2:音名-音名 長二度
-3:音名-音名 短三度
3:音名-音名 長三度
-2:音名-音名 短二度
aug4:音名-音名 増四度
dom7 属七和音
dom9 属九和音
add6 付加六
aug6it イタリアの増六
dim3 減三和音
aug3 増三和音
Maj7 長七和音
tristan トリスタン和音
aug6fr フランスの増六
dim7 減三和音+減七度
dm7 減三和音+短七度
aug+7 増三和音+長七度
min+7 短三和音+長七度

以下の情報は、experimental.xlsのみに固有の情報です。AG,AH列は現時点では予約しているだけで未使用ですが、今後、利便性を高めるために情報を追加していく予定です(この作業はデータ処理の結果とは独立で、ユーティリティ的なものであるため、予告なく更新することがあります)。また、AI列~AL列は交響曲のみの情報です。比較的網羅的なものは既に掲出済なので、今後は個別の曲毎の追加になると想定していますが、更に列を増やして他の分析結果を追加することも予定しています。

AF列:楽譜の小節番号
AG列(予約:未使用):楽譜の練習番号(リハーサルマーク)
AH列(予約:未使用):発想表示等の補助情報
AI列:Graeme Alexsander Downes, "An Axial System of Tonality Applied to Progressive Tonality in the Works of Gustav Mahler and Nineteenth-Century Antecedents", 1994 所収の分析表に基づく区切り
AJ列:Henri Louis de La Grange, Mahler I~III, Fayard 所収の分析表に基づく区切り
AK列:長木誠司『グスタフ・マーラー全作品解説事典』立風書房, 1994 所収の分析表に基づく区切り
AL列:現時点では音楽之友社版ポケットスコアの序文にある分析表に基づく区切り(第1交響曲と第4交響曲のみ)

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。(2019.12.15公開)

[2019.12.25]小節毎の調性推定結果のみを収めたexperimental_B_corel.xlsxを追加公開しました。
[2019.12.27]結果の3Dグラフ表示例を追加しました。
[2019.12.28]ファイルの画像を追加しました。
[2020.1.2]experimental_B_corel.xlsxのN列以降の相関の出力において、データによっては最初の行にゴミが出力されてしまうこと場合があるというプログラムの不具合を修正し、公開ファイルを差し替えるとともに、画像ファイルを差し替えました。またexperimental_B_corel.xlsxのZ列の説明が不正確であったため、訂正しました。
[2020.1.4]N~Y列およびAA列~AL列の色付けの定義を変更したバージョンに差し替えました。
[2020.1.6]experimental_B_corel.xlsxで、音の鳴っている最終区間の推定結果が出力されない場合がある不具合を修正しました。また併せて、区間内が無音(曲頭の余白か、曲中ではいわゆるゲネラルパウゼの箇所)の出力をスキップせずに、0を出力するようにして、基本的には小節単位の結果となるように仕様変更しました。更に、その一部を「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」で報告した、和音遷移を示す列を追加しました。
[2020.1.12]和音遷移を示す列でラべリングされる和声の種類を増やし、単音、2音の箇所については鳴っている音がわかるようにしました。また、従来表示していたバスの音に加えソプラノの音も表示するよう変更しました。更にexperimental_B_corel.xlsxで小節番号を表示するようにしました。
[2020.1.13]A~L列に表示していた相関計算の元となる音の出現頻度(長さ)および小節頭かどうかを表すM列を削除し、計算結果のみの表示としました。
[2020.1.16]experimental_B_corel.xlsxを元に、楽譜の小節との対応付けを行ったファイルを追加しました。
[2020.1.17]冒頭にデータの信頼性についての制限について追記。
[2020.1.18]現在保有している全ファイルの解析結果を公開。各ファイルに解析対象のMIDIファイル名と作品との対応、および各ファイルの入手元を記載したシートを追加。
[2020.1.28]全ファイルの解析結果の公開を中止。公開データを改訂版に差し替え。
[2020.2.1]冒頭の注記を改訂。
[2025.8.22]改題



2025年8月20日水曜日

MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 これまでの作業の時系列に沿った概観(2018~2022)(2025.8.20改訂)

これまでこのブログにおいてはMIDIファイルを入力としてマーラーの作品の分析を行う試みについて断続的に報告してきたが、ここではその開始から概ね2022年までの作業の経過を時系列に沿って振り返り、その成果を振り返ってみることにする。まず、「A.これまでの作業の時系列に沿った概観」でこれまでの作業を時系列に振り返った後、「B.マーラー作品の分析にMIDIファイルを用いることの可能性」で、作業を通して、MIDIファイルを使った分析によってマーラーの作品を分析することによって、楽曲の分析や理解に対して独自に寄与できることがあるかどうか、あるとすればどのようなものかについて思ったことをまとめておくことにしたい。

なお、巻末に、[参考]これまでの作業結果の公開経過 として、「A.これまでの作業の時系列に沿った概観」の内容に対応した記事の一覧と、成果の一部である図表の画像を添付した。


A.これまでの作業の時系列に沿った概観

2015年頃にマーラーの作品のMIDIファイルのWeb上での公開状況について調査し、データ収集に着手し、その結果を2016年初頭に記事として公開した。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「1.調査報告・資料:分析の入力となるMIDIファイルの状況について」を参照)

その後、MIDIシーケンサーなどの調査と並行して、MIDIファイルを解析した結果を集計・加工する環境をExcelマクロとC言語のプログラムでWindows上に構築し、更に統計分析用の言語であるR言語およびそのプラットフォームであるR StudioやRinean Graph 3Dといった作図ツールによるデータ分析環境を整備して、データ分析を行うとともに、その結果の一部については断続的にWeb上で公開してきた。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「2.データ公開:基本データとその解析結果について」を参照)

一方、データ分析を行う当初の動機が、マーラー作品の調的な遷移のプロセスを可視化することであったので、最初に行ったのは、各拍あるいは各小節頭拍の和音の重心を五度圏上に定義し、その軌道の遷移の様子を可視化することであった。予備作業的なものではあるものの、MIDIデータ分析ならではのオリジナルな方法で、従来の楽曲分析とは異なった仕方で楽曲の経過を可視化することができ(各画像は、当該作品のある特徴に基づくアイコンと見做すことができる)、一定の評価を頂くことができた。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過::3.五度圏上の重心計算について」を参照)

その結果に基づき、続いて各拍あるいは各小節頭拍に出現する主要な和音の分類とパターンの可視化を試みた。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「4.和音の分類とパターンの可視化」を参照)更に並行して行った先行研究の文献調査などを踏まえて、予備作業として和音の自動ラベリングと調的遷移の推定および可視化を行った。クラムハンスルの調性推定の手法に基づいて行ったこの作業の結果は、採用した手法の妥当性に関して、特に音楽学的な専門的見地から批判を頂いたが、認知心理学的な手法に基づいた或る種の地形図を作成することによって、マーラー作品の調的な遷移のプロセスを可視化するという目的に対して一定の成果を得ることができたと考える。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「6.和音の分析への準備」参照)その後、一旦は動的な遷移プロセスではなく、和音の出現頻度という特徴量に基づく分析を進めながらマーラーの作品のデータ分析のあり方を検討し、その検討の経過を備忘を兼ねてWeb上に公開して、一旦、作業を終えた。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「5.考察:マーラー作品のありうべきデータ分析について」)作業が一段落したのは、丁度新型コロナウィルス感染症の蔓延による影響が様々な活動に出始めつつある時期であった。

その後、繰り返される新型コロナウィルス感染症の流行の波の中で、一旦終了した作業について結果をWeb公開することにして、当初、小節頭拍のみを対象としていた分析を、全拍対象に拡大しながら、それら分析の成果をWebに公開する作業を進め(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:7.和音の出現頻度から見たマーラー作品」を参照)、2020年7月にその作業を完了した。動的な遷移プロセスではなく、出現頻度という統計量のみによる分析ではあったが、作品の或る種のテクスチュアを捉えたものという評価を頂き、その限りにおいて他の作曲家の作品との比較におけるマーラーの作品の特徴やマーラーの作品間の差異、特に創作年代順に見た場合の一定の方向性を持った変化を、従来の音楽学的な楽曲分析の手法ではなく、MIDIデータに含まれる情報に基づいて、謂わばボトムアップに捉えることに成功し、一定の成果を得ることができた。この結果は、本稿と対を成す報告和声の出現頻度の分析のまとめとして後日、公開されることになる。

それから1年程経過し、一旦日本国内での新型コロナウィルス感染症の流行が概ね収束に近づいた(実際にはその後新たな流行の波に曝されることになったが)2021年後半になり、Google Magentaを用いた機械学習の実験データとしてMIDIファイルを活用すべく予備的な調査や実験を行っていく中で、和声の出現頻度の分析結果を見直していくうちに、基本的には同じ手法を用いながら、若干分析の条件を変化・拡大させ、かつ集計・分析結果の表示手段として幾つか従来とは異なったツールを利用した再分析を実施することになった(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「8.再分析」を参照)。またそれと並行して、当初よりの課題であった時間方向の動的な遷移のプロセスの分析に向けての準備作業として、まずは長三和音と短三和音のみに注目して、その交替の頻度に対象を限定した分析を実施(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「9.長短三和音の交替から見たマーラーの交響曲」を参照)し、再分析の結果とともに記事として公開した。

2021年の年末に、厚意により私的な場ではあるが有識者に対してzoomで報告をする機会を設けて頂き、これまでの作業のうち、和声の出現頻度の分析を中心に、五度圏上の重心計算にも触れる形で報告させて頂けたことから、そこでの報告のために整理した内容に基づき、これまでの作業の時系列に沿った概観(本稿)と、和声の出現頻度の分析のまとめを2021年の年末に行って2022年の年初に公開した。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「10.これまでの作業の時系列に沿った概観」を参照。)

その後、報告において今後の課題として掲げた点の中で、未分析の和音の解消について取り上げるとともに、それまでのデータ分析では用いてこなかったMIDIファイルを含めた分析用データを作成・公開するとともに、特に歌曲のMIDIファイルで多く見られ、拍頭ないし小節頭で鳴っている和音を分析するというここでの分析にとっては妨げとなっていた拍頭の音のずれを、MIDIファイルから抽出したデータに対して後処理として補正した上で、歌曲について分析データを作成した結果を報告している。(巻末の [参考] これまでの作業結果の公開経過:「11.補遺:未分析和音の解消と同一曲の別データとの比較、歌曲の分析」を参照。)


B.マーラー作品の分析にMIDIファイルを用いることの可能性

まずもって音楽の総体の中から、MIDIファイルのフォーマットで表現されている対象とする範囲を限定して分析をすることが、音楽の中でも、その作品の構造的な側面に関心を限定したものであることは言うまでもない。更にここでは、複雑な音楽作品の構造の中から基本的ではあっても極めて限定された特徴量だけを抽出して分析しているに過ぎないことから、分析を通してわかることには自ずと制限があるのは明らかなことだろう。また使用した分析手法の種類も一般的なもの数種に限られており、結果として多くは期待できず、ほとんどの場合、データ分析のようなアプローチを経ずとも明らかなことを追認するに過ぎないだろうが、それでもなお、多くの場合、マーラーの作品の構造についての言説が多くの場合、データ分析のようなアプローチによる裏付けを経ずに、優れた分析家の直観に基づいて行われていることを思えば、データ分析を行うことで裏付けが得られることそのものにも一定の意味があるのではないかと考える。

ことマーラーの作品に関して言えば、その作品規模の大きさ・複雑さを勘案すれば、他の作曲家に比べても比較的MIDIデータの整備が進んでいるようには見受けられても網羅的とは到底言えないし(マーラーに限って言えば、目下のところ最大の欠落は「嘆きの歌」だろう)、これまでのところその蓄積は主として個人のDTMの活動の中で、いわばボランティアとして打ち込まれたものに拠るもので、それも一時期に比べると寧ろ近年は退潮気味にすら感じられ。更にはこの5年間のうちに幾つかのWebページが閉鎖され、以前は公開されていたMIDIファイルが既にWeb上での入手が不可能になっているようであることを踏まえれば、当初はそのような意図はなかったのだが、放置すれば情報ネットワークのエコシステムの中で忘れ去られていきかねない状況の中で、蒐集して手元に保管しているMIDIファイル自体は著作権などの問題もあり簡単には行かなくとも、それを利用した分析を行って、たとえささやかなものであってもその結果を公開すること自体に意味があるようにも思えるのである。

と当時に、これまで個人のDTMベースでWeb上で公開されてきたMIDIファイルをデータ分析に用いることの限界についても指摘しておきたい。最大の問題は、分析目的での利用を行おうとした場合のデータとしての正確さ・精度にある。MIDIファイルの作成のされ方としては大きく、(1)MIDIキーボードでの人間の演奏を保存するか、(2)MIDIシーケンサーソフト等を用いて入力していくかのいずれかと思われるが、特に前者の場合には、演奏上のミスタッチの発生や、楽譜上の小節の区切りや拍と記録されたサンプルの対応づけの困難さがあって、今回の分析のように小節頭拍や各拍における和音をサンプリングを行おうとした場合、現実の演奏におけるずれやゆらぎのせいで、譜面上「正しい」和音が認識できない場合が多い。後者の場合には、現実の演奏のずれやゆらぎのレベルの問題は起こらないが、その一方で、しばしば誤入力が見られるし、マーラーではごく普通の変拍子に忠実な小節の設定をするのは煩瑣な作業となることが避け難い。この点は既述のMIDIファイルの作成過程を考えれば無理のない側面もあって、(1)におけるアコースティック楽器の録音の代替であったり、(2)における実際の楽器を用いた演奏の代補として用いられる限りにおいては、分析の場合に必要となる正確さは必ずしも必要とされないであろうから、それをデータ分析という別の目的で利用とした時に限界があるという指摘は、或る種の無い物ねだりに他ならないのである。信頼性の高い本格的な分析を行おうとするならば、そのための条件を満たしたMIDIファイルを整備していく必要があり、これまでは専ら楽譜というフォーマット上でのみ行われてきた校訂が、MIDIファイルという媒体においても行われるようにならないだろうか、というのが実際にWebから入手したMIDIファイルを分析に利用するために調査を行っての、偽らざる実感である。

上記のような問題はあるにせよ、MIDIファイルの活用の可能性は狭義のDTMの領域を超えて広がっており、その存在価値は増えこそすれ減ることはないように思われる。Google Magentaについては既に触れたが、そこでは深層学習のための時系列ネットワーク(LSTM)への入力として主としてMIDIファイルが用いられている、ここで振り返る各種の集計・分析に利用したことがあるMIDIファイルから比較的簡単に実験用のサンプルデータを作成することが可能であった。未だ試行段階ではあるものの、既にGoogle Magentaで用意された幾つかのモデルを用いた検証には着手している。ここで振り返ったデータ分析同様、今後、その結果に基づいた方針検討を行った上で多少なりとも実験を実施し、結果が得られた折にはこちらも同様に記事として公開することを目指しているが、このような形で活用の成果を公表することが、MIDIファイルを利用させてもらう立場として可能な「応答」の一つの方法ではないかと考えている。

上述のような様々な制約はあるものの、それでは分析しても意味のある結果が得られなかったかと言えば、必ずしもそうとは考えない。(もし、本当にそのように判断したのなら、公開は控えることにしたであろう。)繰り返しになるが、これまでマーラーの作品について指摘されてきた特徴が、データ分析の結果と整合的であることが確認できれば、それだけでもデータ分析を実施した意義は充分にあると考えるし、非常に限定され、単純化された特徴量からさえ、そうした手がかりのようなものが確認できたことに寧ろ驚きを感じた程であった。

実際に和音の出現頻度にしても、長短三和音の交替にしても、マーラーの音楽が持つ複雑で重層的な構造のほんの一断面に過ぎない。和音については(実際には、基本データとしては推測を行った結果が存在するのだが)、解離・密集の区別も、転回形の区別もないし、機能和声において基本中の基本である筈のドミナントとトニックの区別すら行っていない。ごく基本的なこととして、和音の機能を特定するためには主音がわかっている必要があるが、現象論的にアプローチする限り主音の決定の方が和音のパターンの遷移から浮かび上がってくるものであるという循環があるのに対して、ここでは後者のアプローチを採用しているためである。勿論、分析する人間が外から主音が何であるか、調性が何であるかを与えることは可能だが、ここでの関心は、そうした知識なしでデータから何が導き出されるかの方にある。専門の音楽学者の指摘は、非常に高度な前提知識の上に成り立っているから、その指摘をそのままデータ分析によって検証するのは困難であるので、遥かに肌理の粗い特徴量を通して、そうした指摘と矛盾せず、寧ろその傍証となるような傾向が発見できればここでの目的は達成されたことになると考える。

一方において、これまで指摘されたことのないような結果が得られた場合に、それをどのように解釈するかというのも問題含みであり、それが意味のない偶然なのか、それとも一見したところでは気付かれないような隠れた特徴を捉えたものであるのかの判断もまた難しく、結果的に私にできることと言えば、とにかくも、ある条件下で集計・分析を行ったら、しかじかの結果が得られたという事実を記録して公開することに留まらざるを得ない。ここでは分析結果について、分析の入力となったデータとともにR Studioを用いた分析のログを含めているが、それは私個人では判断できず、他者の判断を仰がざるを得ないものについて、他者による検証ができるように分析の具体的な内容をアーカイブすることが私のなしうる最善であるという認識によっている。既にどこかで高度な分析が行われていて、単に私がそれにアクセスできないだけかも知れないが、現実問題として知る限り、ここで行っているような報告に接する機会はないのであれば、結局私にできることは、将来そのような分析がマーラーの作品に対して行われるまでの間の繋ぎとして、自分が確認した内容を報告することの他ないのである。あわよくば将来行われるであろうより高度な分析の呼び水となれば、ここでの報告はその役割を十二分に果たしたことになると考える次第である。

(2021.12.19-20記, 2025.8.20改訂)


[参考]これまでの作業成果の公開経過

1.調査報告・資料:分析の入力となるMIDIファイルの状況について(2016.1)



2.データ公開:基本データとその解析結果について(2019.9/2020.2)

3.五度圏上の重心計算について(2019.9)



4.和音の分類とパターンの可視化(2019.11)

5.考察:マーラー作品のありうべきデータ分析について(2019.11~2020.1)
6.和音の分析への準備(2020.1)



7.和音の出現頻度から見たマーラー作品
7.1.その1~3:小節頭拍対象(2020.2~3)



7.2.その4~6:全拍対象(2020.7)




8.2.その8:他の作曲家との比較の再分析(2021.11~12)

9.長短三和音の交替から見たマーラーの交響曲(2021.12)
11.補遺:未分析和音の解消と同一曲の別データとの比較、歌曲の分析

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。  

(2021.12.19公開, 2022,5,20その後の経過を追記, 2025.8.20改題・改訂)


2025年6月14日土曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(18):Gemini Deep Researchによる第9交響曲第1楽章の分析

 本稿ではGemini Deep Research with 2.5 Proが生成した第9交響曲第1楽章のレポートを紹介します。Gemini Deep Research は Geminiが2.0から2.5にアップデートされたのに伴い、無料版においても利用可能になった機能で、無料版で利用できるデフォルトのLLMである2.5 Flashではなく、「深い推論」(従来の生成AIのように過去のデータからパターンを再現するだけではなく、複雑な問題を解決するために、段階的な思考と論理的な推理を用いたプロセスに従来の生成AI技術を融合した技術)に特化した2.5 Proを用いて、課題解決のためのプラン(「リサーチ計画」)を作成し、段階的にWeb検索・分析を繰り返すことによってレポートを生成することができるもので、既にこれまでの検証で、マーラーの「後期様式」についてのレポート作成において他の生成AIと比べて高品質の回答を生成できていることを確認しています。

 一方第9交響曲第1楽章の分析は、今を遡る3か月前に本企画「マーラーについて生成AIに聞いてみた」を開始した直後に設定した検証用課題の一つであり、その後も検証対象のLLMのバージョンアップに伴う再検証においても例題として使用してきたものです。但し、その結果は思わしくなく、特に、当時はリアルタイムWeb検索を使用していなかったChatGPTの出力は全くの出鱈目であり、生成AIが事実と異なる出力を行う「幻覚(Hallucination)」と呼ばれる現象の典型例となってしまいました。検証対象である商用AI(ChatGPT, Gemini, Claude)の無料版の標準LLMいずれについてもその後、LLMのバージョンアップが為されたり、リアルタイムWeb検索を併用するようになったりしたため、再検証を行ったところ、少なからぬ改善は見られるものの、細部においてはおかしなところが散見され、他のプロンプトのように簡単に〇×の評価をすることが難しい状況が続いていたため評価対象外として、その結果をご紹介するに留めていました。これらについては検証結果を収めたpdfファイルのリンクを当該検証を報告した記事で示していますので、ご興味のある方は当該記事にて実際の回答を確認して頂くことができます。

 Geminiについては、3月の検証時点での2.0 Flashの回答では、楽曲の具体的な内容に立ち入ることなく、総説的な説明に留め、解釈について補足するといった構成で、楽曲自体についての記述は、当たり障りのない、だけれども明確な誤りは見受けられない内容になっていたのに対し、その後追加検証を行った際には、楽曲についてより具体的に主題や調性についての言及を行うようになった分、明確な誤りもあれば内容が曖昧で何を指しているのか判断に苦しむ箇所もありということで、「幻覚(Hallucination)」という観点からは、、寧ろより悪い結果となっていました。この傾向は4月下旬に実施した2.0 Flashの再検証で確認でき、5月下旬に実施した2.5 Flashの再検証でも、若干改善が見られるものの、基本的には同様でした。

 一方でそれとは別に、Deep Researchの機能を評価するために、マーラーの「後期様式」をテーマとしたレポートの作成指示をしたところ、稍々おかしな部分があるものの、それなりの品質のレポートが得られたことは本記事の直前の記事でご紹介している通りです。冒頭述べたように、Deep Researchでは無料版の標準LLM(Geminiの場合、現時点では2.5 Flash)ではなく、複雑な調査やレポート生成に適しているとされる「深い推論」に特化したLLM(Geminiの場合は2.5 Pro)を使用しますので、第9交響曲第1楽章の分析についても異なる結果になることが予想されること、「深い推論」に特化したLLMこそ現時点での生成AIがその性能向上に最も力を入れている部分であり、かつその成果について喧伝されている部分でもあることから、現時点での到達点と限界を確認するという意味合いもあり、今回の検証を実施することにしました。

 実験は2025年5月22日に実施しました。これは順序としては、2.5 Flashを用いた再検証、およびマーラーの「後期様式」のレポート作成の後になります。近年の生成AIは過去の履歴を利用した処理を行うため、そうしたコンテキストが回答に影響している可能性があるため、付記しておきます。

 与えたプロンプトは従来、標準モデルに与えていたものと同じで、以下の通りです。

プロンプト: マーラーの第9交響曲の第1楽章を分析してください。

これに対してDeep Researchが返してきた「リサーチ計画」は以下の通りです。

 マーラー第九交響曲第一楽章分析

ウェブサイトをリサーチ
(1) 第1楽章の全体的な楽曲構造と形式(例:ソナタ形式、変形ソナタ形式)を特定し、その特徴を記述します。
 (2) 楽章内の主要な主題(テーマ)と動機(モチーフ)を特定し、それらがどのように提示され、展開され、変容していくかを分析します。
 (3) 和声進行、調性の変化、不協和音の扱い、そして全体的な和声言語が楽章の感情的・構造的側面にどのように寄与しているかを考察します。 
(4) オーケストレーション(楽器編成と用法)に注目し、各楽器群の役割、音色の変化、テクスチャの多様性が楽章の表現にどのように影響しているかを評価します。
 (5) テンポ、ダイナミクス(強弱)、リズムの要素が、楽章の劇的な展開、感情的な起伏、そして全体的な流れにどのように貢献しているかを分析します。
 (6) 楽章が伝えようとしている感情、ムード、または潜在的なプログラム的要素について探求し、マーラーの人生や当時の時代背景との関連性を考察します。
 (7) 対位法、主題変容、コラージュ的手法など、この楽章で顕著に見られるマーラー独自の作曲技法を特定し、その効果を説明します。 
(8) この楽章に関する主要な音楽学者の分析や、発表以来の批評的な受容、そしてその歴史的意義について調査します。
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 ここでは検証が目的なので、極力介入を避けるべく、上記リサーチ計画をそのまま承認します。数分後に帰って来た結果は「マーラー交響曲第9番第1楽章「アンダンテ・コモド」の深層分析」というタイトルのレポートです。17000字強とかなりの分量になりますので、この記事中での紹介は控え、Google Documentにエクスポートしたものをpdf化したファイルを以下に公開しましたので、ご確認頂ければと思います。またレポート作成プロセスのログである「思考プロセス」も同様にpdf化し、併せて公開しています。

 出力されたレポートは以下のような構成を持ちます。比較をすると明らかなように、これは概ね「リサーチ計画」に沿ったもので、各章タイトルに内容に因んだ副題を付けるなど、かなり凝ったものとなっています。個人的にはこのような修辞には抵抗感があり、自分で書く時にはこうしたことはやらないと思いますが、こうしたレトリックを生成できること自体、驚くべきことだとは思います。
I. 序章:世界への告別
II. 形式構造:変容するソナタ形式
III. 主題と動機のタペストリー:生と死の糸
IV. 和声と調性の風景:不協和音と解決の航行
V. 管弦楽法と音色の表現:色彩の交響曲
VI. 感情的・プログラム的物語:死の予感
VII. 作曲技法における革新:境界を押し広げる
VIII. 批評的受容と演奏の遺産
IX. 結論:不朽の傑作
  引用文献はWikipediaを始めとし、youtubeも含めた多様な媒体を含み、言語も英語・日本語の両方に渉り、その数は37にも及ぶもので、Web検索技術との高度な融合を強みとするGeminiの面目躍如といったところでしょう。

 その内容も、細部には突っ込みどころはあるでしょうが、これまでの生成AIの出力からすれば格段に充実したものと言え、その程度はGemini Deep Researchが先行して生成したマーラーの「後期様式」論と比べても勝ったものと感じられます。その原因は、マーラーの「後期様式」論で与えたプロンプトが具体的で議論の組み立てを含み、生成AIにはその議論をサポートするような情報を検索し、肉付けをすることが求められていたのに対して、ここでのプロンプトは内容上の制約を含まず、楽曲の個別楽章についての様々な視点について幅広く情報収集し、それを網羅的に並べていくことができるという、与えられた問題の性質の違いに依る部分が大きいように思います。要するに今回の問題の方がより生成AI向きの課題であったという面が認められるように感じます。

 とはいうものの、調査された文献の数とその結果を文章にまとめあげる能力は際立ったものであり、最終的に出力された文章も概ね自然なもので、大きな違和感はありません。これがものの数分で生成できるのであれば、それを自分の文書作成プロセスに取り入れようと試みる人が出て来るのも当然のように思います。

 しかも人間に同様の調査を指示したときのことを考えた時、そもそも最初に示した「リサーチ計画」を適切に立案すること自体が決して「当たり前」のことではないことに気づきます。この計画が出来てしまえば、後はWeb検索を行い、結果を取捨選択して整理をするという生成AIが従来より得意とするプロセスですから、或る程度の品質のものが出て来ることは想定できますが、「リサーチ計画」の作成の方はその限りではありません。勿論、この点こそが「深い推論」への対応の要でもある訳で、聞くところによれば、プログラムの自動生成技術の応用のようですが、その結果は、ことによれば人間が自分でリサーチを行う際の参考にしたり、人間のリサーチの指導の素材に使えるのではないかと思わせるものです。勿論、専門の研究者はリサーチの達人であり、「リサーチ計画」をほぼ無意識的に、瞬時に組み上げることも造作ないのだろうと思いますが、それを機械にやらせるとなれば話は別で、これができるようになったことは画期的な事だと思います。

 かれこれ半世紀以上前にまで遡る、かつての人工知能技術を知る者にとっては、汎用問題解決器(General Problem Solver:昔はGPSと言えばこちらのことだったのですが…(笑))と呼ばれる推論技術(1957年にアラン・ニューウェルとハーバート・A・サイモンが開発)の事を思い起こさざるを得ません。「深い推論」は、論理的思考の模倣を目的としたかつての技術が、大規模言語モデルを支える自然言語ベースの機械学習技術と融合する形で改めてインプリメントされたものと捉えることが出来、かつての人工知能ブームを知るものにとっては強い既視感のあるものですが、そうであってみれば、半世紀以上に亘る人工知能研究の蓄積が、ようやく実用的なレベルをもたらしたという見方も出来、感慨深いものがあります。

 更に驚くべきは、内容の精度が飛躍的に上がっていることで、特にそれが従来とは異なって、記述の詳細度や具体性と両立していることです。具体的には II. 形式構造において「楽曲形式と小節番号」について、III. 主題と動機のタペストリーにおいて「主要動機とその意義」について、更にV. 管弦楽法と音色の表現においては「管弦楽法の特筆すべき点と効果」についてそれぞれ表形式でまとめられているのですが、その内容は具体的であると同時に、作品のどこについて述べているかについて曖昧さがなく、かつその内容の是非には仮に議論があるにせよ、少なくとも明らかなフェイクは見当たりません。特に小節番号と主要動機は或る種鬼門と言って良く、従来の回答で明らかなフェイクであったり、検索結果に出てきた単語を並べただけと思しき、何を指しているかが不明瞭なものが散見されたのとは明らかに一線を画していると思います。

 小節番号については、以前のWeb検索なしのChatGPTの生成結果が全くの出鱈目であったことは極めて印象的でしたし、最新版においても、これはこれまでに報告していませんでしたので、以下でご紹介しますが、Claude Sonnet 4が生成した第9交響曲第1楽章の分析レポートが、またしても出鱈目であるなど、実際の作品そのものを調べることなく、「言説の空間」における作品についての二次的な情報、謂わば「うわさ話」を継ぎ接ぎしただけの生成AIの限界を感じさせる部分でしたが、驚くべきことに今回のGemini Deep Researchのレポートにおける小節番号の記述には間違いがなく、(提示された説に全面的に同意するかは別として)その楽式の把握は少なくとも検討に堪えるレベルの妥当性を備えていると言えると思います。

 作品の具体的な記述の正確さについてのもう一つの試金石として、調性に関する記述がありますが、従来のものだと第9交響曲全体についてのニ長調→変ニ長調の下降という、所謂「発展的調性」に関する記述が誤って紛れ込んだり、第10交響曲の記述と思しきもの(嬰ヘ長調)さえ出て来たりと極めて問題が多い点でした。ところがこれについても主要動機に関する部分や、和声と調性に関する部分におけるニ長調と二短調の交替、ニ長調と変ロ長調という三度関係が枠組みとなっているという点が指摘されており、その内容は(既に知られたものであり、新規性はないものの)概ね妥当ではないかと思います。

 更に様々な引用、参照もフェイクが起こりがちなポイントですが、今回のレポートの内容を確認すると、感情的・プログラム的物語についての部分におけるベルク、バーンスタイン、メンゲルベルク等への参照、作曲技法における引用についての記述での、ベートーヴェンの「告別ソナタ」、ヨハン・シュトラウスの「人生を楽しめ」、および自己の先行作品の引用の指摘、更には代表的な録音についての言及など、取捨選択そのものに異論はあり得るにせよ、参照、引用されている内容にはフェイクの混入は見られず、従来の回答とは一線を画するものになっています。

 全体として、今回のGemini Deep Researchのレポートは、最新の生成AIの性能向上を強く印象付けるものであったように感じます。勿論、細部を検討していけば瑕疵を指摘することはできるでしょうが、従来の検証結果と比較した時にその質の高さは際立っているように感じ、率直に言ってここまでのレベルのものが出て来るとは想像していなかったこともあって、驚きを禁じ得ませんでした。

*     *     *

 今回のGemini Deep Researchによる第9交響曲第1楽章の分析のレベルをより具体的に把握するための参照点として、ここでは Claude Sonnet 4に同一内容をレポートを生成させた結果を以下に示します。
 Claudeでは、Geminiにおける2.5 Pro、ChatGPTにおけるo3といった「深い推論」に特化したモデルとしてOpus 4 が既にリリースされており、その文書生成能力についての世評は極めて高いようですが、残念ながら無料版では利用できません。それでも無料版で利用できる標準LLMであるSonnet 4もプロンプトで明示的に指示すればレポートを作成できますし、Sonnet 4ではリアルタイムWeb検索を併用するようになっていること、先行するRAGプロンプトを与える検証では、インラインモードでの回答で、簡潔で当たり障りのないものですが、それもあってかフェイクのない回答を返している点で際立っていたためレポートを作成させてみたものです。
     如何にもClaudeらしい、洒落たタイトルを持つレポートが生成されましたが、残念ながらその内容は、かつてのChatGPT 4oのWeb検索なしのモードでの回答を彷彿とさせるようなフェイクの多いもので、実はこれ自体は紹介の価値がないと考えたため、単独での報告の対象からは除外していたものです。Claudeの現時点での実力を測るのであれば Opus 4 の結果との比較でなければ公平を欠くとは思いますが、今回のGemini Deep Researchの出力の質が際立っていることは確認できるのではないかと思いますし、それだけではなく比較によって、今回のGemini Deep Researchのレポートの質を支えているものが何であるかを窺い知ることもできるのではないかと思い、ここで取り上げることにしました。

     Gemini Deep Researchの特徴としては、リアルタイムWeb検索が強力であり「深い推論」プロセスとの統合度が高いことが挙げられます。人間がWeb検索を行う時も、最終目的に照らして、一旦仮に目的を設定しWeb検索をして、その結果が意図に適ったものであるかどうかを判断し、必要に応じてキーワードを変更したり、検索結果をどこまで見るかを変えたりすることを繰り返しながら目的の情報に辿り着き、更にそうして得られた情報に基づいて次の情報検索を行うプロセスを段階的に行うことによって最終的に必要とされる一連の情報を取得するといったステップを踏みますが、Deep Researchの「思考プロセス」はまさにそれを模したものと言えます。

     一方「幻覚(Hallucination)」の原因の最大のものは学習データに必要な情報が不足していることです。生成AIは基本的には事前学習結果に基づき最も確からしい文字列を確率的に生成しますが、情報が或る程度以上存在すればそれらの隙間を補完するように妥当な推定をすることもある反面、情報が不足していれば誤った推定が行われることになります。最新の生成AIの基盤となっている大規模言語モデルはバージョンが上がるたびに飛躍的に性能を向上させており、そのことは本検証においても同一サービスの前のバージョンと最新のバージョンの回答を比較することで確認してきました。しかしながらそれ単独では、事前学習した結果が全てとなります。それを補うのがリアルタイムWeb検索です。リアルタイム検索をすれば事前学習結果における情報の不足を補うことができることから「幻覚(Hallucination)」を抑制することが期待できますが、標準のモデルではWeb検索は一度だけ(但し、適切な結果が得られないと判断されば場合には、検索のし直しを行うことはあるようですが)で、その後直ちに回答の生成に進むのに対して、Deep Researchでは、思考プロセスの進展に応じて新たな検索を繰り返し行うことで、より精度の高い情報を取得することが可能になっていると考えられます。
     
     リアルタイムWeb検索の併用により、事前学習結果における情報の不足に一定のレベルで対応できることは、例えば以前はWeb検索を行っていなかったChatGPTがフェイクを連発していたのが、Web検索を併用するようになって、見違えるように回答の精度が向上したことを本企画のこれまでの検証で確認しています。しかしながらレポート作成のような幅広い情報と、内容の整理、文章の組み立てが必要な課題の場合、一度だけのWeb検索・回答生成では精度に限界があります。このことは同一課題に対する最新版のリアルタイムWeb検索を併用した標準モデルの回答とDepp Researchの結果の比較によって明らかになります。既にマーラーの「後期様式」についてのレポートでも比較対照として標準モデルの検証を行い、その結果をDeep Researchの結果と比較することでその違いを確認してきていますが、特に今回の第9交響曲第1楽章の分析は、本企画の初期段階から繰り返し検証の題材として用いている課題であり、また文書生成を特に得意をするとされるClaudeの最新版標準モデルの結果との比較を行うことで、Deep Researchとの違いを改めて確認できたと考えます。

     その上で改めてGemini Deep Researchのレポートを評価した時に感じるのは、それが現在の生成AIの基本的な仕組みに由来する制約、即ち、「言説の空間」のみを対象とし、「音楽」そのものにアクセスすることなく、Web上に存在する「言説」を整合的に編集してレポートを作成するという前提の下では既にかなりの水準に達していることで、同一の条件で同一の地平で人間が行った場合と比較しても、人間のそれに迫るレベルのものとなっていることに改めて驚かされます。それが人間には及びもつかない短時間で、人間には困難と思われる程の大量の情報を収集により実現したことを思えば、或る意味では人間を既に凌駕している面もあると認めざるを得ないと思います。

    *     *     *
     
     しかしその一方で、Web上の「言説の空間」のみを対象とし、或る研究にとっては「一次文献」にあたるものも含め、Web上には現時点では存在しない膨大な書籍へのアクセスができず、二次文献についても膨大な先行研究の蓄積へのアクセスは行えないといった点に由来する限界も感じずにはいられません。特にそのことは、前回報告したマーラーの「後期様式」に関するレポートと、今回の第9交響曲第1楽章の分析を比べた時に強く感じられます。既に上でも触れましたが、両者を比較した時、今回の第9交響曲第1楽章の分析の方が分量も多く、話題も豊富であり、充実しているのは明らかです。その理由はこれも既述の通り、前者に比べて後者の方が課題が一般的であり、その分多様な情報を盛り込む余地が多く、Webでより多くの多様な情報を取得できる可能性が高いからであると考えられます。

     一方マーラーの「後期様式」論は、マーラーの作品についての或る特定の視点に立った分析・論考を求めるもの(そもそもどの作品が対象となるか自体について判断が求められる)であり、幅が狭い分、深く掘り下げることを要求されるものです。実際、Gemini Deep Research の出力したレポートも、ジンメルやアドルノの議論のサーベイについてはかなりしっかりと行っており、結果として精度の高い内容となっていると思います。しかしながらあくまでもその内容はWebで得られる情報に限られるため、例えばいずれもWeb上で公開されていないジンメルのゲーテ論やアドルノのマーラー論そのものには当然アクセスできず、そうした「一次文献」に対する独自の読解に基づく独自の視点の提示というのは現状のWeb上のリソースの状況に基づく限り、原理的にあり得ません。

     更に「音楽」そのものに接地しておらず、「言説の空間」の中を動き回ることしかできないこと、別の見方をすれば、自分で音楽を聴いて感じることができないことの限界もまた見えてきます。第9交響曲第1楽章の分析のように、(その質はともかく量的には)Web上に分析結果のサンプルが豊富にあり、それらを組み合わせることが出来る場合には比較的問題が目立ちませんが、マーラーの「後期様式」を作品の内容に即して詳細に分析したものの方は圧倒的に数が少なく、あっても部分的、断片的な指摘に留まります。それゆえマーラーの「後期様式論」は、後期様式についてのジンメルやアドルノの見解を要約するといった内容の部分についてはそれなりの内容を生成できても、実際の作品への適用になると、途端にその内容は貧弱なものにならざるを得ません。今後、マルチモーダル化が進んで、音響データ、MIDIデータ、楽譜にアクセスし、それを解析できるようになる可能性はあるでしょうが、現時点に限れば、自分で音楽作品を聴きオリジナルの指摘を行うといった達する可能性が原理的に閉ざされているため、「言説の空間」における二次的な情報の少なさがそのままレポートの貧しさに直結してしまうのです。これは人間の場合には寧ろ他人が手を付けていない領域においてこそオリジナリティを発揮でき、充実した論考を自在に存分に行うことができるのと対照的に思われます。

     翻って今回の第9交響曲第1楽章の分析を改めて冷静に見直すならば、そもそも「マーラー交響曲第9番第1楽章「アンダンテ・コモド」の深層分析」というタイトル自体、看板に偽りありで、あたかも深層分析を生成AI自身が行っているかのような言い方は本当はミスリードなのではないかということに思い当たります。なぜなら、実際に「深層分析」を行っているのは生成AI自身ではなく、生成AIは単にWebから「深層分析」なるものを拾い集めて来て集約したに過ぎないからです。従って寧ろタイトルは「深層分析についての調査レポート」と題するべきであり、生成AIの生成するレポートのタイトルには、常に「についての調査レポート」が略されていると考えるべきなのです。

     更に楽曲の詳細で具体的な内容が妥当であるのは、そうした情報にWeb検索技術を駆使して行き着くことができたからに過ぎません。新規でオリジナルな指摘というのは見当たりませんが、生成AIがやっていることを考えれば当然のことであり、それは寧ろ無いものねだりであることに気づきます。優秀な人間の研究者であれば、情報のギャップがある部分においてこそオリジナリティを発揮して、大胆で新規性のある仮説を構築し、披露するところですが、現状の生成AIはそのギャップを克服することができず、標準的なモデルにおいては「幻覚(Hallucination)」を惹き起こすことをこれまで何度となく確認してきましたし、Deep Researchではいたずらに或るステップで堂々巡りを行った挙句、リサーチのプロセスを途中で打ち切ってしまうという結果になることを、前回報告のマーラーの「後期様式」論のレポートの第2稿作成の実験において確認しました。「音楽」を対象としている場合は勿論ですが、実際には「音楽」以外でも事情は同じであり、自分がアクセス可能な「言説の空間」の外部の情報、ひいては事象そのものに向き合えないため、オリジナルな分析が可能なところでデッドロックやフェイクに陥ることになってしまわざるを得ないのです。

     要するに生成AIのレポートは結局、対象そのもののレポートではなく、対象について既に誰かがWebのどこかで言っていること(言ってみれば「他人の噂」)のパッチワークであり、Deep Researchの本質は調査レポートであって、対象についてのオリジナルな分析ではないのです。(但しこれは、プログラム生成とかデータ分析のような課題について生成AIを適用した場合には必ずしも当て嵌まりません。それらについては別途考察が必要となると考えます。)勿論、調査レポートのニーズというのも世の中にはある(というより、量的にはそちらの方が多いのかも知れません)ので、そうした用途に限れば現行の生成AIは既に十分な性能に達しているのかも知れませんが、AIが想像力やオリジナリティを持つようになったといった類の主張について言えば、本検証の結果はそれに同意するものではなく、寧ろ現時点での技術においては原理的に困難であることを示唆するものですらあるということを確認して、本検証の報告を終えたく思います。

    (2025.6.14,15)

    2025年5月20日火曜日

    マーラー作品のMIDI化状況について(2025.5.20更新)

    既に別のところでも何度か記していることであるが、専門の研究者ならぬマーラー愛好家にとって、近年のインターネット環境におけるコンテンツの充実は目覚しいものがある。権利が切れた出版譜が`PDF化されて自由に閲覧可能になったり、歴史的録音がmp3のフォーマットで無償で入手できるようになったかと思えば、いよいよ自筆譜についても、その一部については既にスキャンされた画像が公開されるようになってきており、同様にpdf等のフォーマットで入手できるようになってきている歴史的研究文献ともども、これまではアクセスが困難であった情報に容易にアクセスできるようになってきている。

    ところで、そうしたトレンドと並行して、マーラーの作品をMIDIのフォーマットで入力して、MIDI音源で再生できるようにしようという試みが為されてきている。アコースティックなオーケストラがコンサートホールで演奏することを想定したマーラーの音楽を電子的に再生するという姿勢の是非について議論はあるかも知れないが、広く別の媒体での演奏というようにとってみても、それまではせいぜいが、ピアノ・リダクション(2手、4手連弾、2台ピアノなど、これまた色々な形態の編曲がされてきているが)や室内楽編曲が行われたくらい、しかもレコード、CDといった録音・再生技術やテレビ・ラジオといった放送技術の発達前で実演以外だとピアノや室内楽で自ら弾くしか作品に接する手段がなかった時代でこそ需要があったが、その後は寧ろそうした編曲版は半ば忘れられた存在となり、逆に近年になって、受容の多様化の現われとして、通常のオーケストラ版では飽き足らなくなった層向けに室内楽版やピアノ・リダクション版のCDの録音・販売がされるようになったり、あるいはピアノ編曲版がいわゆる「オリジナル」に比べて価値的に一段下に置かれるといった価値基準からは自由な立場から、ピアノ・リダクション版のツィクルスが行われるようになってきた(一つだけ実例を挙げれば、残念ながら私は聴く機会を得ないままだが、大井浩明さんが近年継続的に取り組まれている)ような状況だが、受容の多様化の一貫として、しかもマーラーの時代には全く存在しなかった新たな受容のあり方として、MIDIファイルへの入力の試みというのは大変に興味深いものがある。

    私見では、MIDIデータというのは、楽譜の情報を変換したデータ、しかもそれを自由に分析、編集、加工することが可能な汎用のフォーマットとして非常に大きな価値があると思われる。マーラー自身もその伝統のうちにある西欧の音楽の伝統が築き上げてきた記譜法のシステムは、人間が読み取るためにはそれなりに合理的なものだが、その情報を加工したり、編集したり分析しようとしても簡単にはできないからだ。

    寧ろ今後、コンピュータによる大量のデータの処理がますます一般的になるとともに、MIDIのデータの価値はますます増大していくのではないかと思われる。もしかしたら狭義のDTMの範囲を超えて、今後はMIDIデータが、様々な音楽情報処理の基盤としての意味を持ってくるようなこともあるのではなかろうか。(実は、私自身、今回MIDIファイルを調べてみようと思い立った理由というのが、マーラーの作品のある側面をコンピュータにより分析してみたかったからに他ならない。それならMIDIファイルを使うと良いというアドバイスを頂いて調べてみると、ことマーラーに限って言えば、正直に言ってここまで充実しているとは想像していなかった程に状況が進んでいることを確認して、大いに不明を恥じることになったような次第である。)

    現実には電子的なメディアの常で、MIDI規格においても機種依存性の問題があるようで、仕方ない側面もあるとはいえやはり色々と弊害があって悩ましいことのようだし、実際に分析に使おうとしてみると、例えば、「音を鳴らす」観点からいけば不要な、付帯情報に過ぎない拍子や調号の情報は、必ずしも「楽譜通り」に入力されているわけではないようで、小節数にしても、必ずしも楽譜と一致するとは限らないようだ。多くの場合には恐らくは入力の便宜上、音価を倍にしたり半分にしたりということは行われているものと思われるし、稀にはシーケンサソフトの制限で、1ファイル1000小節という制限を回避するために小節数を調整する必要が生じたりということも実際に起きていると聞く。マーラーの交響曲楽章で1000小節を超えるのは、第8交響曲第2部だけなので、最後のケースが問題なのは1つだけのはずだが、別の作成者が第3番1楽章、第5番3楽章、第6番4楽章のような大規模な楽章についてはファイルを分けているケースもあり、類似した別の制限が理由なのかも知れない。(媒体もパラメータも異なるが、LPレコードにおいて、こちらは演奏時間に制約されるのだが、例えば第3番1楽章、第8番2楽章あたりは必ず片面には収まらないことから、途中で分割されていたのをふと思い出してしまった。)

    小節数の制限についてのみ言えば、分析目的からすれば、寧ろ、分割して、楽譜通りに入れることが望ましいということになるが、本来DTMで「鳴らす」為に入力しているわけで、そうであれば、楽章の途中で切れるのは如何にも興醒めであり、そうした目的の違いを考えれば分析にとっては多少の制限がつくのは仕方ない側面もある。

    音高や持続のような情報だけが分析の目的であれば問題にならないが、音色の次元を考えれば、今度はチャンネル数の制限がネックとなり、第8番のような作品を「正しい」音色で入れるのには困難が伴うのは容易に想像がつく。人間の奏者の持ち替えよろしく、同一チャンネルで音色を切り替える工夫等はごく普通に行われているだろうが、特殊楽器の利用、クラリネットなどの移調楽器の場合における、管による音色の違い、更には(弦のみならず管でも)ソロ・ユニゾンの差異が音色の効果狙いである場合(アドルノの言う、第4交響曲第1楽章の「夢のオカリナ」を思い浮かべよ)、弦楽器における線(弦)の指定、ミュートに留まらない特殊奏法の指定(フラジオレット、コル・レーニョ、バルトーク・ピチカート、、、)等々に忠実に従おうとすれば、音色のパラメータの方は切りがなさそうだ。更に加えてマーラーの場合、空間的な指定、ベルアップやら起立せよといった奏者への指示もある。これらは音響の変化としてよりも、膨大な発想表示、指揮者への注などと同様、コメントのような形で入れることになるのだろうか。

    しかしながら、ことマーラーに関してMDI化にあたっての最大のネックは、「声」ではなかろうか。今日であらば初音ミクのようなヴォーカロイドに歌わせることは当然、技術的には可能なのであろうが、調べた範囲では、歌詞を歌わせたMIDIファイルは一つもなく、いずれも歌詞パートをある音色をあてて鳴らしているだけに留まっている。この状況は日本だけではなく 外国語の歌詞に対する距離感が違う筈の海外においても同じなのだが、主として技術的制約故であることを思えば、当然のことかも知れない。もっとも、網羅的に調べたわけではないので、どこかでヴォーカロイドに歌わせた例がある可能性は十分にある。しかし総じて言えば、「鳴らして聴く」目的のMIDI化にしても、マーラーが優れて人間の声の、歌の作曲家であるが故に、まだ途上にあると言うべきなのかも知れない。

    [追記]ヴォーカロイドによるマーラーの歌曲の歌唱の例としてニコニコ動画のものについて本ブログコメント(以下のコメント欄を参照)にてご教示頂きました。情報の提供につき御礼申し上げます。取り上げられている作品は、「大地の歌」、「子供の魔法の角笛」の中の幾つか(「原光」「天国の生活」を含む)、リュッケルト歌曲集が中心で、最初期の「思い出」はある一方で、「さすらう若者の歌」からは「朝の野辺を歩けば」のみ、「子供の死の歌」はないようです。他方で第2交響曲の「復活」の合唱や第8交響曲第1部が取り上げられています。

    以上のように少し考えただけでも、いろいろと制限はありそうだが、作品情報の「機械可読」な形式として、MIDIファイルのメリットはそうした制限を上回るものがあるのは確かなことであろう。

    というわけで、マーラーの作品のMIDIファイルの状況がどうなっているのかを調べてみると、それはそれで非常に興味深い状況が見て取れたので、簡単に気づいた点を記しておきたい。

    まず、マーラーの音楽はDTMの対象として、比較的ポピュラーなものと言って良さそうであるということ。作品の長大さ、編成の大きさを考えると入力の手間は大きいものと思われるが、にも関わらず、専らマーラーの作品のMIDI音源を紹介したページというのが幾つか存在する。

    更に加えて、ことマーラーに関しては、寧ろ日本国内の方が入力が盛んにすら見えること。それを最も端的に物語っていると思われるのが、世界でも唯一のMIDIによるマーラー交響曲全集(「柳太朗」こと加藤隆太郎さんによる)の存在で、これを達成したのが日本人であることはおおいに喧伝されて良いことのように思われる。

    以下、私が気づいた範囲でマーラーの作品のMIDIファイルがある程度まとまって公開されているサイトを紹介しておくことにする。ご覧いただけるとわかる通り、マーラーの作品の主要な部分のほとんどが既にMIDI化されており、大規模作品では「嘆きの歌」、歌曲では子供の魔法の角笛の数曲を除けば初期のピアノ伴奏歌曲を欠くくらいであって、その充実ぶりには驚かされる。他の作曲家の作品の日本における状況との比較などから、日本におけるマーラー受容のユニークな特質が浮かび上がってくるのではとさえ感じられる。

    なお、より網羅的なMIDIデータの所在の情報については、別途、以下のページで画像ファイルとして参照・ダウンロードできるようにしているので、必要に応じてそちらも参照されたい。

    https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/midi.html

    [2024.6.16付記] その後、思い立った時に以下に紹介したサイトが利用可能かについて確認を行っていますが、閲覧できない、或いは実質的に利用できなくなってしまったサイトが増えてきています(最新の状態で閲覧・利用不能なサイトには†を付けるようにしました)。マーラーの作品自体の著作権は失効していますし、マーラーの作品の楽譜のうち最近出版されたものではないものには著作権が失効したものが存在しますが、それらに基づいて作成された場合であっても、MIDIファイルそのものについては作成者の著作権は有効です。ここで対象としているMIDIファイルは無償でのダウンロードができるものに限られているので、ダウンロードしたファイルをダウンロードした個人が自分で利用する分には問題ありませんが、それを再配布(二次配布)ができるかどうかは作成者の判断次第であり、厳密には別途許諾が必要と考えられます。とは言え、許諾を得るために連絡を取れるものはそもそもご本人のサイトからダウンロード可能であるわけで再配布の必要性はなく、閲覧・利用不可能になったケースは、作成者と連絡の取りようがないため、実質的に再配布は断念せざるを得ません。以下でも確認できる通り、海外で作成されたMIDIファイルでは同一ファイルが複数のリポジトリサイトで公開されている場合がありますが、それも再配布を許諾した結果と見做すことは厳密にはできません。公共的な価値を考えれば、手元にあるMIDIファイルをダウンロードできるようにすることの意義は小さくないと思いますが、そうした事情から本サイトではMIDIファイルから本ブログの作成者独自のプログラムによって抽出した情報については公開しても、元となったMIIDファイル自体の公開は控えていますので、ご了承の程、よろしくお願いします。

    [2025.5.20] 本ページを最初に作成・公開してから9年が経過して、その間のMIDIファイル公開・共有を巡る環境の変化に一抹の感慨を覚えずにはいられません。国内のWebページは1つを除いてアクセスができなくなり、海外のサイトについても公開は続いていても、新たにMIDIファイルが追加されることは稀になったように思わます。この10年弱のうちに、Webの在り方自体が変わって来て、かつての、手作りのhtmlページからDTMの成果を発信するという「文化」はすっかり衰退して、もはや風前の灯になっているかの観さえあります。マーラー以外の作曲家の作品についてはフォローしていないので、確実なことは言えないものの、仮に現時点で、これからコンピュータを活用した分析の入力としてMIDIファイルを利用しようと思い立ったとしても、かつて可能であったような、マーラーの主要作品を網羅した分析というのは最早不可能になってしまっているように見えます。近年はWeb検索が生成AIへの問い合わせにとって代わられようとしていますが、ことMIDI形式のデータについては、Webで利用可能なリソースが減っているのですから、生成AIの能力が如何に高度化したとしても、そもそも入力が存在しないという状況に陥っているのです。勿論、現在機械学習分野で利用されるデータセットとしてはGiant MIDI Pianoのような巨大なものがあり、目的によってはそれだけで充分なのかも知れませんが、マーラーという個別的なものに拘っている限りにおいては、ロングテイルの裾野が広がるどころか、大幅な縮退が起きているというのが現実のように見えます。結果としてこのページも、現時点で利用可能なリソースの情報を共有するという当初の機能は最早果たせなくなり、寧ろ、過去の状況を証言するアーカイブの如きものになってしまっているようにも思えますが、それはそれで価値があることと考え、敢えて公開を続けることにします。


    (A)日本国内のサイト

    †(1)Deracinated Flower
    マーラー 交響曲全集
    (旧サイト)http://www.geocities.jp/masuokun_2004/
    (現サイト)http://kakuritsu.sitemix.jp/asobi/midi2/index.html

    交響曲第1番~第9番と大地の歌の総てがMIDI化されている世界でも唯一のサイト。
    ※2020年1月現在では、ホームページ閉鎖のため閲覧不能。Wayback machineのアーカイブは残っていることを確認。第8交響曲第2部では、使用していたシーケンサの制限(最大1000小節)を回避するために、小節数の情報が楽譜に忠実ではない。その他のケースでは、一部例外はあるものの、小節の情報についてはほぼ楽譜通りのようである。一方で残念ながら曲によっては入力が不正確な部分が散見され、分析に利用するには注意が必要であることも確認している。

    [2022.8.8の追記]作者よりコメントにてご連絡頂き、移転先のURLをご教示頂いたので、情報を更新しました。

    [2023.7.12の追記] 移転先のURLも閲覧できなくなっているようです。
    [2024.6.16の追記] 移転先URLで閲覧できない状態が続いています。エラーコードはDNS_PROBE_FINISHED_NXDOMAINですが、DNSキャッシュをクリアしても状態が改善されないため、サイトが移動ないし削除されたものと思われます。


    †(2)The World of Tachan Orchestra
    マーラーの部屋
    http://midi-orchestra.xii.jp/

    交響曲第5,6,7,9番全曲と第3番第1楽章、大地の歌第6楽章をMIDI化。第3交響曲第1楽章、第5交響曲第3楽章は2つのファイルに、第6交響曲第4楽章は3つのファイルに分割されている。

    ※2020年1月現在、第1交響曲が追加されていることを確認。なお曲によっては拍や小節の情報が楽譜と一致しないため、或る種の分析での利用にあたっては制限があることも確認している。

    ※2023年11月20日時点では閲覧不能でしたが、2024年6月時点では再び閲覧できるようになっていることを確認済。

    ※2025年3月4日時点で閲覧不能であることを確認。

    †(3)PSPのおっちゃんなブログ・・・。
    ピアノ演奏MIDI集
    http://www.geocities.jp/uncle_of_psp/music.html

    ピアノ演奏版ということで、交響曲第1,2,5,8番を公開。
    ※2020年1月現在、ホームページ閉鎖のため閲覧不能。

    †(4)お抹茶いつかし
    デジタル音楽館~パソコンが奏でるシンフォニー~
    http://www004.upp.so-net.ne.jp/itsukashi/digital_symphony/index.html

    交響曲第5番全曲と第2番第4楽章(原光)を公開。

    ※2023年7月現在、閲覧不能。新しい作品はyoutubeで公開されているようです。

    (5)Andante comodo - 音の住む館 -
    幻想曲(ファンタジー)
    その他のMIDI
    http://www5d.biglobe.ne.jp/~mabushis/fantasy_etc.html

    リュッケルト歌曲集(5曲)と子供の魔法の角笛より3曲の歌曲をMIDI化している貴重なサイト。

    ※2020年1月現在、『大地の歌』第3楽章が追加されていることを確認。

    ※2025.3.5 閲覧可能であることを確認。本記事で紹介している国内サイトでは存続している唯一のものとなってしまいました。


    (B)海外のサイト

    (1)GustavMahler.com
    http://gustavmahler.com/

    交響曲第1番(2種)、第2,3,4,5,9番および第10番(クック版)のMIDIファイルが公開されている。色々な作者のファイルをまとめて公開しているサイトであり、日本のサイトが個人のものであるのと対照的である。

    (2)ClassicalArchives
    http://www.classicalarchives.com/

    マーラーだけでないクラシック音楽全般のMIDIファイルを公開しているサイト。
    マーラーは、交響曲第1番、第9番の全曲(これらは(1)と同一音源)、第1番第3楽章、第3番第5楽章、第4番第1楽章(2種)、第4番第2楽章、第5番第4楽章(3種)、第5番第5楽章、第6番第1楽章、第7番第1楽章、第9番第4楽章、第10番第3,4,5楽章が公開されている。

    (3)Kunst der Fuge
    http://www.kunstderfuge.com/

    (2)同様に、マーラーだけでないクラシック音楽全般のMIDIファイルを公開しているサイト。
    マーラーは、(1)と同一の音源であり、交響曲第1番(2種)、第3,4,5,9番および第10番(クック版)が公開されている。

    (4) Classical Midi Page

    https://www.classicalmidi.co.uk/mahler.htm

    (1)(2)同様に、マーラーだけでないクラシック音楽全般のMIDIファイルを公開しているサイト。特にマーラーの作品のMIDIファイルがたくさん公開されている訳ではなく、かつ多くが楽章単位の公開であり、更には作者不明のものが多いなどの理由から、これまでこのページでの紹介を行ってこなかったが、2025年5月時点でアクセス可能であるのみならず、新しいデータの追加が確認できるという点で今や貴重な存在となってしまったこともあり、追加で紹介することにした。[2025.5.20追加]

    †(5)KARAOKE
     Lieder, Arien, Ensembles, Chöre  aus dem klassischen Repertoire
    http://www.impresario.ch/karaoke/

    マーラーだけでないクラシック音楽の歌曲・アリア・アンサンブルや合唱曲などのMIDIファイルを公開しているサイト。

    マーラーは、子供の死の歌(5曲)、さすらう若者の歌(4曲)、リュッケルト歌曲集(5曲)、子供の魔法の角笛のうち11曲の計25曲に達する。

    いずれもピアノ伴奏のみ(「カラオケ」)と歌唱パート旋律つきの2種類が公開されている。

    恐らくMIDIキーボードでの演奏をMIDIファイル化したものと想定され、音が拍節とずれているために、(プログラムの工夫によりある程度の回避は可能だが)分析には適さないことを確認している。更にピアノ伴奏版固有の問題として、声域に応じた移調がされている場合があることで、詳細は割愛するが、原調と異なる調で作成されたMIDIデータが多数存在することを確認しており、仮に小節線や拍節とのずれが問題にならないような分析を行う場合でも、この点についての考慮が別途必要となる。

    ※2024年6月現在、メイン画面で検索した結果がブラウザに表示されなくなってしまい、実質的に利用できない状態になっていることを確認。(phpを使って書かれているサイトのようです。検索結果が単にない場合にはその旨メッセージが出ますし、検索結果があると思われる場合には、単に検索結果が表示されないで検索画面が再表示されるだけで、エラーが返ってくるわけではないので、サーバーサイドで実行されたqueryの結果が何かの理由でブラウザで表示できなくなってしまっていると思われますが、原因の調査はしていません。なお、確認したブラウザは2024年6月時点で最新のchromeとEdgeだけです。)


    (2016.1.3:公開)
    (2020.1.18:最新の情報を追記)
    (2022.8.8:Deracinated Flowerサイトの「マーラー 交響曲全集」の移動後のURLを追記)
    (2023.7.12:リンク切れにつき更新。ヴォーカロイドによる歌唱の試みについて本文中に追記。)
    (2023.11.20):リンク切れにつき更新。
    (2024.6.16):KARAOKEサイトで検索結果が表示されず、利用できない状態になったため更新。また当該サイトのデータが移調されたものを数多く含むことを付記。The World of Tachan Orchestraサイトが再び閲覧・利用可能になっていることを追記。
    (2025.3.4):The World of Tachan Orchestraサイトが閲覧不能になっていることを確認・追記。
    (2025.3.5:編集・更新)
    (2025.5.20:Classical Midi Pageを追加。コメント追記の上更新。)

    2025年5月6日火曜日

    備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (16):ここまでの振り返りと補足 (最終更新2025.5.6)

     まず、マーラーの生涯に関するクロノロジカルな資料の確認と検討。

    • 「一からやり直す」:ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書378番, p.410。1979年版のマルトナーによる英語版では375番, p.324)
    • 老後への準備・死後への準備としての退職一時金・年金:1907年夏のマーラーより宮内卿モンテヌオーヴォ侯への書簡と、それに対する返信である1907年8月10日ゼメリング発の宮内卿モンテヌオーヴォ侯よりマーラーへの書簡
    • 後期ベートーヴェンへの評価:アルマの回想録の中の「結婚と共同生活 1902年」の章の末尾のベートーヴェンを巡ってのシュトラウスとの対話→アドルノ「ベートーヴェンの晩年様式」へ
    • 「老グストル」:アルマの回想の「出会い(1901年)」の章および書簡 

     ついで、公開済の自己の過去の記事で関連したものを確認(第9や第10についての過去の記事については再確認必要)。

    *  *  *

     幾つかの個別作品に関するモノグラフ。

    • 「大地の歌」
      • Hefling, Stephan E., Mahler : Das Lied von der Erde, Cambridge University Press, 2000
      • Danuser, Hermann,Meisterwerke der Musik : Gustav Mahler, Das Lied von der Erde, Wilhelm Fink, 1986
    • 第9交響曲
      • Holbrook, David, Gustav Mahler and the courage to be, Vision Press, 1975
      • Andraschke, Peter, Gustav Mahlers IX. Symphonie, Kompositionsprozess und Analyse, Franz Steiner, 1976
      • Lewis, Christopher Orlo, Tonal Coherence in Mahler's Ninth Symphony, UMI Research Press, 1983
      • Pensa, Martin, ≫Ich sehe alles in einem so neuen Lichte≪ Gustav Mahlers Neunte Sinfonie, edition text+kritik, 2021
      • Wreford, Kathleen Elizabeth, A critical examination of expressive content in Mahler's ninth symphony, MaxMaster University, 1992:この論文では分析として、Diether, Holbrook, Lewis, Greene, Micznikのものが取り上げられているようだ。
    • 第10交響曲
      • Rothkamm, Jörg, Gustav Mahlers Zehnte Symphonie : Entstehung, Analyse, Rezeption, Peter Lang, 2003
    モノグラフではないが、例えば以下の中に含まれる後期作品についての章も確認しておくべきだろうか。
    • Newlin, Dika, Bruckner Mahler Schoenberg, 1947, revised edition, W. W. Norton, 1978:「大地の歌」、第9交響曲。第10はアダージョのみ。
    • Greene, David B., Mahler, Consciousness and Temporality, Gordon and Breach Science Publishers, 1984:第9交響曲
    • Downes, Graeme Alexander , An Axial System of Tonality Applied to Progressive Tonality in the Works of Gustav Mahler and Nineteenth-Century Antecedents , University of Otago, Dunedin, New Zealand, 1994:主として第9交響曲だが、「大地の歌」、第10交響曲も。
    • Micznik, Vera, Music and Narrative Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler, in Journal of the Royal Musical Association, 126, 2001 :第9交響曲第1楽章
    • Pinto, Angelo, Mahler's Search for Lost Time : a "Genetic" Perspective on Musical Narrativity, Gli spazi musica, vol.6 n.2, 2017:第10交響曲
    • Pinto, Angelo, On this side of the compositing hut. Narrativity and compositional process in the fifth movement of Mahler’s Tenth Symphony, De Musica, 2019 – XXIII (1):第10交響曲第5楽章

    *     *     *

     既に一度振り返ってみたがもう一度、2008年より前に遡る、だが日付は最早確定できなくなってしまっている以下の「後期」に関する備忘の元の意図と志向とを確認しなおすべきかも知れない。結局、今、ここで問おうとしていることは、そこでの疑問のヴァリアンテに過ぎない。

    後期様式
    眼差しのあり様。「現象から身を引き離す」というのがことマーラーの場合に限れば最も適切。しかし、人により「後期」は様々だ(cf.ショスタコーヴィチ)。
    ヴェーベルンの晩年とマーラーの晩年のアドルノの評価の違い。いずれも「現象から身をひく」仕方の一つではないのか? こちら(マーラー)では顕揚されるそれと、あちら(ヴェーベルン)の晩年にどういう違いがあるのか?

    作曲年代の確認
    「大地の歌」1907~?1908~?:実は異説があるようだ。
    「大地の歌」第1楽章については、かつては違和があった。今のほうがよくわかる。こうした感情の存在することが。そういう(多分にnegative―そうだろう?)な意味でこれは成年の、否、後期の(晩年、ではないにしても)音楽なのだ。

    マーラーに関するシェーンベルクの誤り
    いわゆる「第9神話」にとらわれたこと。マイケル・ケネディの方が正しい。第10、第11交響曲を考える方が正しい。
    マーラーは本当に発展的な作曲家だった。
    だから第9交響曲は行き止まり等ではない。
    確かに第10交響曲は「向こう側」の音楽かも知れない(これを第9交響曲より現世的と考える方向には与しない。) けれどもマーラーは途中で倒れたのだ。マーラーの死は突然だったから本当に途中で死んでしまったことになる。

    マーラーの第10交響曲こそが最も近しく感じられる。
    この不思議なトポス、だけれども、これは存在する、そうした場所はあるのだ。少なくとも残された者の裡においては。それ自体、何れ喪われるものであっても、それは存在する。全くのおしまい、無というわけではない。
    それは「喪」そのものかも知れないが、喪のプロセスは残された者の裡には存在する。
    マーラーがこの曲を、特に第1楽章以降を書いたのは、不思議だ。彼は確かに危機にはあったし、己の死を意識してはいただろうが、でも死に接していたわけではない。

    この曲の、少なくともAdagioに、早くから惹きつけられた。
    14歳になるかならぬかの折、最初に私がマーラーについて書いた中で引用したのは、まさにこの曲だった。他ならぬこの曲だった。
    それを子供時代に聴くというのはどういう事だったのか?
    否、「現象から身を引き離す」ことは、いつだって可能だ。ただし有限性の意識はあっても、クオリアは異なる。かつての宇宙論的な絶望と、今の生物学的な絶望との間には深い淵が存在する。

    回想という位相。(かつての)新しさの経験。異化の運命。後期様式による乗り越え。
    風景の在り処。現実感は希薄。回想裡にある。かつて現実だった?「だったはずの」?

    確かにマーラーは何か違う。
    consolationなのか、カタルシスなのか。Courage to Be(ホルブルック)という言い方に相応しい。それを「神を信じている」という一言で済ませるのは何の説明にもなっていない。その「肯定性」―それはショスタコーヴィチとも異なるし、例えばペッティションとも異なる― について明らかにすべきだ。
    救済は第8交響曲にのみしかない訳ではないだろう。マーラーは規範や理論に従って「約束で」長調の終結を選んだわけではない。強いられたわけでもない。
    とりわけ第10交響曲の終結がそれを強烈に証言する。
    一体何故、このような肯定が可能なのか―ハンス・マイヤーの言うとおり、これは「狭義」の信仰の問題ではない筈だ。
    懐疑と肯定と。

    アドルノのベートーヴェンの後期様式についてのコメントをマーラーの後期様式と対比させること。案に相違してベートーヴェンの閉塞と解体に対して、マーラーは異なった可能性を示したのかも知れない。アドルノのことばは、その消息についてははっきりと語らない。
    一見したところ、両者の身振りは極めて近いものがある。だが、並行は最後まで続くのか?
    寧ろ一見したところ厭世的に受け取られることの多いマーラーの方が「他者のいない」ベートーヴェンよりも、 異なった可能性に対して開かれていたのでは、という想定は成り立つ。(これは同じくベートーヴェンとマーラーについてのモノグラフを持つGreeneの立場とも対比できるだろう。)

    アドルノのles moments musicauxの邦訳のうち、ベートーヴェンの後期様式やミサ・ソレムニスについてマーラーの「大地の歌」, 第9交響曲, 第10交響曲そして第8交響曲と対照させつつ検討する。

    ホルブルックのCourage to Be(第9交響曲)と大谷の「喪の仕事」(「大地の歌」に関して)を組み合わせて考える。
    「個人的な「大地の歌」―第9交響曲における普遍化」というのは成立するのだろうか?

    ところで、ホルブルックの「結論」(p.213)はどうか?
    多分正しいのだろうか―これは私の求めている答ではない。 では答はどこにあるのか? そもそもマーラーにあるのか? 勝手読みは(ハンス・マイヤーの心配とは別に)必ず無理が来る 「感じ」が抵抗し、裏切るのだ。 頭で作り上げた「説明」は、どこかで対象からそれてゆく。 一見、ディレッタンティズムに見える―衝動に支えられた―探求の方が、より対象に踏み込めるに違いない。
    あるいは、「実感」が追いつかない―忘れてしまった―否、そんなことはない。 まだ「わかっていない」だけかも知れない。 ここに「何かがある」のは確かなことだ。 自分が求めているものとぴったり同じではない可能性も否定できないにせよ自分にとって限りなく 重要な何かあがあるのは確かだ。
    *     *     *

     だが、それよりもマーラーの(作品ではなく本人の)「晩年」を規定することは、既に以前、マーラーの生涯についての覚書を認めた時に試みていた。以下にその晩年についての記述を、当時の認識を確認するために再掲しておく。

    晩年
    マーラーの晩年は、歌劇場監督を辞任しウィーンを去る頃より始まると考えて良いだろう。 長女の猩紅熱とジフテリアの合併症による死、自分自身に対する心臓病の診断という、 アルマの回想録で語られて以来、第6交響曲のハンマー打撃とのアナロジーで「3点セット」で 語られてきた出来事は、それを創作された音楽に単純に重ね合わせる類の素朴な 伝記主義からはじまって、これも幾つものバージョンが存在する生涯と作品との関係をひとまずおいて、 専ら生涯の側から眺めれば、確かに人生の転機となる出来事だったと言えるだろう。 これを理解するのには別に特別な能力や技術どいらない。各人が自分の人生行路と重ね合わせ、 自分の場合にそれに対応するような類の出来事が起きたら、自分にとってどういう重みを持つものか、 あるいはマーラーの生涯を眺めて、マーラーの立場に想像上立ってみて、上記の出来事の重みを 想像してみさえすれば良いのだ。それが音楽家でなくても、後世に名を残す人物ではなくてもいいのである。 逆にこうした接点がなければ、私のような凡人がマーラーの人と音楽のどこに接点を見出し、どのように 共感すれば良いのかわからなくなる。

    だが、その一方で、マーラーがそれを転機と捉えていたのは確かにせよ、己が「晩年」に 差し掛かったという認識を抱いていたかについては、後から振り返る者は自分の持っている 情報による視点のずれに注意する必要はあるだろう。マーラー自身、自分の将来に控える 地平線をはっきりと認識したのは間違いないが、それがどの程度先の話なのか、それが あんなにもすぐに到来すると考えていたのかについては慎重であるべきで、この最後の 設問に関しては、答は「否」であったかも知れないのである。もしマーラーがその後4年を 経ずして没することがなかったら、という問いをたてても仕方ないのだが、もしそうした 想定を認めてしまえば、今日の認識では「晩年」の始まりであったものが、深刻なものでは あっても、乗り越えられた危機、転機の一つになったかもしれないのである。丁度30歳を 前にしたマーラーが経験したそれのように。だとしたら現実は、そうした転機の危機的状況から 抜け出さんとする途上にマーラーはあったと考えるのが妥当ではないかという気がする。

    要するに、ここで「晩年」として扱う時期は、その全体がブダペスト時代や、ウィーンの前期のような移行期、「相転移」の時代であったかもしれず、この時期を過ぎれば新しいフェーズが 待ち受けていたかも知れないのだ。だが、実際には次のフェーズはマーラーには用意されて おらず、移行の只中で、それを完了することなくマーラーは生涯を終えてしまったように 私には感じられる。第1交響曲(当時は5楽章の交響詩)、第5交響曲がそれぞれ 移行の、相転移の終わりを告げる作品であったように、第10交響曲がその終わりを告げる 作品であったかも知れないが、第10交響曲は遂に完成されることはなかった。

    この最後の部分の第10交響曲についての見解は、再検討するに値する。というのも、もし次のフェーズが準備されていたものが、偶発事によって断ち切られてしまったという認識に立つならば、アドルノが述べるところの「後期・晩年様式」やシェーンベルクの「プラハ講演」での第9交響曲や第10交響曲についての了解は、少なくとも作曲者側の「老年・晩年」とは別のものであり、事によったら、そこに「後期・晩年様式」を見いだしたり、乗り越え難い一線を見いだすのは後知恵の産物であるということにもなりかねないからである。(ただし、上でのアドルノの「後期・晩年様式」とシェーンベルクの「プラハ講演」での第9交響曲や第10交響曲へのコメントの並置はアドルノの側から拒絶されるかも知れない。というのも、マーラー・モノグラフの第2章「音調」におけるシェーンベルクへの言及(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.40~41 参照)を確認する限り、アドルノはシェーンベルクの「プラハ講演」での第9交響曲についてのコメントを、「後期・晩年様式」の作品としての第9交響曲についてのものとは考えていなかったように受け取れるからである。だがそうしたアドルノの姿勢はそれとして、ではシェーンベルクの側はどうであったかを確認すると、こちらはこちらで、文脈からしてもシェーンベルクはそれをマーラーの作品一般に成り立つこととして述べたというよりは第9交響曲の特徴として述べたように見えるし、それがマーラーが晩年に到達した境地であると考えていたと捉えるのが自然であると私には感じられる。この点に限って言えばアドルノのくだんの参照の仕方はやや我田引水の観無きにしもあらずで、従って、アドルノの姿勢を確認した上でなお、敢えて上記の併置を撤回することはしない。尤も、シェーンベルクが第9交響曲について指摘するような事態を可能にするような構造がマーラーの作品一般に備わっているという点についてはアドルノの見解に対して異論があるわけではないことも、併せて記しておくことにする。 

    *  *  *

     以下の、様々な文献の参照のうち、「老い」一般ではなく、マーラーという個別のケースに関わるもののうち、「晩年」という規定が事後的なものに過ぎず、実際には「相転移」の只中にいたという見解と矛盾することなく両立しうるものは、唯一マイケル・ケネディの見解であるということになろうか。

    • ジャンケレヴィッチ『死』における『大地の歌』についての言及、「別れ」について
    • ゲーテ=ジンメルにおける「老年」:ジンメル『ゲーテ』
    • アドルノにおける「後期様式」
    • マイケル・ケネディのマーラーは創造力の絶頂で没したという見方
    • 吉田秀和のマーラーの後期作品、特に「大地の歌」に対するコメント
    • アドルノのカテゴリにおける「崩壊」「解離」からReversの言う「溶解」へ:Revers Gustav Mahler Untersuchungen zu den spaeten Sinfonien はタイトルが示す通り、枠組みとして「後期」にフォーカスしている点で特に注目される。対象は『大地の歌』、第9交響曲、第10交響曲。
     更に旋法性に関するピッチクラスセットの拍頭における出現頻度の分析。アドルノ、柴田南雄、バーフォードを参照しつつ、付加六から五音音階へ、更に全音音階へ:五音音階性の優位は少なくとも中期から顕著になり、おおまかな傾向としては時期を追う毎に強まる傾向にあって、マーラーの様式の推移を測る手がかりたりえている。更に全音音階性は後期作品に見られる固有の特徴と言って良い。勿論、それが全てではないのは当然のことながら、全音階性から、五音音階へ、更に全音音階へということで、マーラーの様式変遷を跡付けることは可能だろう。

    *  *  *

     結局のところ、残された作品について言えば、「大地の歌」や第9交響曲に間違えようなく存在する、この世からの「別れ」の思い、自己の生命の有限性に対する、可能性としての理性的な認識とは異なる、現実にじきに訪れるものとしての了解を否定することはできまい。その生涯についても、アルマの回想が自己正当化を目的とした歪みに満ちたものであるとして、書簡に残されたマーラーの姿は、医学的水準では「誤診」であったという事実をもってその「診断」がマーラーその人の意識に与えた不可逆でかつ痛ましい影響を無かったことにすることの行き過ぎを咎めているようにしか思えない。我々にとってマーラーの「晩年」が事後的なものに見えたとしても、マーラー本人にとって「晩年」は疑いなく存在していたと言うべきではないのか?

     これはほんの一例だが、マーラー同様、フレンケルが治療に当たったからという訳でもないのだが、例えばシベリウスが第4交響曲を作曲していた時期を比較対象として思い浮かべてみたらどうなるか?だがこの比較は不完全なものにならざるを得ない。シベリウスの第4交響曲は、病から癒えた後に構想され、着手された作品だからだ。それではショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番はどうだろうか?この作品が自らの墓碑銘として書かれたのは事実であり、ことによったら本当にその後自殺をしたかも知れないとしたら?だが、マーラーの場合とは異なってここでは「老い」は問題にならないし、それに応じて「別れ」の持つ意味も違ったものとならざるを得ない。ショスタコーヴィチならば寧ろ(交響曲第14番ではなく)、交響曲第15番、ミケランジェロ組曲、弦楽四重奏曲第15番、或いはヴィオラ・ソナタを思い浮かべるべきだろう。

    *  *  *

     こうして見ると、個人的にはそうした見方には与しないものの、「芸術が人生を先取りする」といった類の言葉がマーラーについて語られるのは、それなりに理由がない訳ではないことの方は認めざるを得ないような気持ちにさえ囚われてしまうことを避け難く感じる。そこに「死」を見い出すことの方は確かに後知恵かも知れなくとも、そこに「老い」と「別れ」を見い出すことは寧ろ避け難いのではないか?そうだとしたら、もう一度、アドルノの「後期様式」の指摘は、第9交響曲に関する「死が私に語ること」に対する拒絶ともども正当であるということになるだろう。

     だが、それでもなお、剰余が存在する。アドルノが拒絶した、5楽章の構成を持つものとしての第10交響曲の問題が残る。あのフィナーレの音調をどう受け止めるべきかの問題が。否、それはアドルノの立場では、端的に「存在しない」のだろう。だが「存在しない」ものについて語っても仕方ないということになるのだろうか?だが、最大限譲歩しても、スケッチは完全な形で遺された。アルマに破棄を命じたかどうかはともかく、シベリウスが第8交響曲に対して行ったアウト・ダ・フェは、マーラーの第10交響曲には生じなかったが故に、我々はそれがどんなものであり得たかについて知ることができる。そしてその限りにおいて、「大地の歌」と第9交響曲に対して、第10交響曲とそれらとの間には断絶が存在したのだろうか?ここで、こちらについては存在「しえたか?」ではなく存在「したか?」であることに注意。だがそれを判断しようとした時、アドルノが拒絶した理由が回帰することを認めざるを得ない。それが水平的にも垂直的にも未確定であるとしたら、その状態での分析の結果には一体どのような意味があるのだろうか?ましてやクックによる補作に基づく分析にどのような意味があるのだろうか?以下の補足では、マーラーが作品を「抜け殻」であると述べたことについて言及するが、それを先取りして、だが第10交響曲に関しては別の問題があることに留意しておくべきだろう。第10交響曲は「抜け殻」なのか?未完成の「抜け殻」とは一体どういうものなのか?

     とはいえ実際には、そうした問いに一旦頬被りを決め込んで、クック版に基づいた分析を私は既に行い、公開さえしている。そしてその結果は、「大地の歌」、第9交響曲との或る種の連続性を示しているように思われる。しかもそれはアドルノの指摘に導かれてデザインされた分析の結果なのだが…その時、マーラーの生涯の動力学的把握において、「晩年」が総体として、移行期、「相転移」の時代であったかもしれず、この時期を過ぎれば新しいフェーズが待ち受けていたかも知れないのに対応して、第10交響曲は、交響詩「巨人」や第5交響曲がそれぞれ移行の、相転移の終わりを告げる作品であったように、「相転移」の終わりを告げる作品であったかも知れないが、遂に完成されることはなかったと認識されたことが思い浮かぶ。それが「晩年様式」であるかどうかは措いて、第10交響曲は、もし次があったとするならば、いわゆる折り返し点、過渡的な作品であったように見えるということだ。15年も前の、データ分析の着手からさえも遥かに先行する時期の直観に過ぎないが、現時点でもその直観は基本的に正しいと私は考えているし、現時点でのデータ分析の結果は、少なくともそれと矛盾はしていないようだ。もしそうであるならば、具体的な生涯における「老い」や「晩年」との関係さえ一旦括弧入れした上で、「大地の歌」と第9、第10交響曲に見られる特徴を抽出する作業を進めるべきなのかも知れない。
     
    (2023.6.9公開、6.10-13,16,23,25, 7.6加筆, 2025.5.6 前半を分離し、改題の上再公開)