2008年5月27日火曜日

身辺雑記(2)

I.

... , wo der Obstbaum blühend darüber steht
  Und Duft an wilden Hecken weilet,
   Wo die verborgenen Veilchen sprossen;

Gewässer aber rieseln herab, und sanft
 Ist hörbar dort ein Rauschen den ganzen Tag;
  Die Orte aber in der Gegend
   Ruhen und schweigen den Nachmittag durch.

aus : Friedrich Hölderlin, Wenn aus dem Himmel

「・・・果物の樹は花咲きながらその上をおおい
 甘いかおりが野生のまがきのほとりに漂う、
  ひそやかな菫の花が咲き出でる、

 だが、水はしずかに流れくだり
  ひねもすおだやかにせせらぎが聞こえる、
   しかし、あたりの村々は
    安らかに憩い、午後の時を黙し続ける。」(ヘルダリン「天から」野村一郎訳)

だが、例えばHölderlinの詩集を手にして、「それでもこうして、200年前の人間の遺したものを私は手にしている。」 と思うとき、寧ろ感じるのは、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」という思いだ。 自分にはそれだけの価値がないから、跡を残すべきではない、という感覚に近い。 これはかなり絶望的な認識だ。何も成し遂げていない。理由とか経緯は一番最初に消えてなくなる。結果が全て。 そしてその結果は、いかなる観点からも(勿論「残す価値」という基準に照らしてだが)無に等しい。

中間点というのは数学的な意味での点ではない。それ自体がエポックなのだ。そもそも、中間点を過ぎたのか、まだその中にいるのかすら定かでない。

小鳥たちの死について。 永遠性に関する感じ方が変わったように思える。小鳥たちは聖書に書かれているように、何も遺さなかった。 けれども、彼らの存在は無ではない。もし残るべき何かがあるとすれば、それは私の生の行路の足跡などではなく、 小鳥たちが存在したことではないか、という思いに抗うことはできない。 その一方で、小鳥たちが何も遺さずに逝ってしまったことが、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」 という感覚を抱くようになった契機になっているのだろう。

*       *       *

自分の世界が拡がることは、価値の相対化を生み出す。 今やレヴィナスを、ホワイトヘッドを尊重する人間も、ヘルダーリンを尊重する人間も、カラマーゾフの兄弟を尊重する人間も、周囲にはいない。 自分が「永遠性」に値すると考えているものも、所詮は相対的なものに過ぎない。 それは事実として認めるに吝かではないが、しかし、では生の価値は、何に見出せば良いのか。それとも、随分と希薄になったとはいえ、まだ執拗に残っている厄介な観念的な性向の残滓として、こうした問い自体を消去するようにすべきなのか。

哲学は不毛だと感じられる。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、その理由は全く誤っていないと感じられる。 モードとしての哲学、生活する手段としての哲学を私は見てきた。 私のかつての研究分野の脇で、モードとしての哲学が(正当にも)断罪されるのを見たし、ゴーレムXIVの哲学者への軽蔑もまた、正当であると感じられる。 人工知能への通路が、人間の営みの有限性に最も強く拘束された不毛な方法論を持つ現象学であったことは皮肉だ。 それにしても、この点については、私は哲学を断念するという行為を延々続けていくようにも感じられる。

時間がない、限られている。 にも関わらず何という関心の拡散。飽き易い、というのは何かを成し遂げる為には致命的な欠陥だ。 変な言い方だが、オブセッションに頼るほかない。それが病的なものであるかどうかなど分析しても始まらない。 とにかく自分のオブセッションに従うしかない。自分の中の他者の声。ジェインズの二院制の心。 それは(日常的な性質なものであっても)窮地に陥った時に聞こえているあの「声」と同じものなのだろうか? 超自我やエスといった精神分析的概念もジェインズの二院制の心と同じものを探っているのだろうか? 内なる「神」との対話、内なる「神」からの語りかけも、自分(要するに私=意識)を背後から動かす力もまだ健在なようだ。 オブセッションもまた。

多分器用過ぎて、かつ飽きっぽくて同じことを愚直に続けることができないのだ。 適応過剰でそれなりに状況にあわせてこなしていけるけど、その結果は純粋な消耗で、何かかたちあるものは残せない。 そのくせ自己批判ばかりは一人前で、気分が弱っているときには過去の自分のしたことに自信が持てなくなり、破棄してしまう。 あとで破棄したことを後悔するということの繰り返し。 そうやって時間を浪費していって、結局何も残さずに終わるのだろうか?

死を、有限性を怖れているのではなく、寧ろ、己の生が充実して意味のあるものでないことに対する絶望。 何も成し遂げずに無になることへの絶望だ。 その一方で、意味あるものでなければ、無に帰してもよい、寧ろ無に帰するべきだという考え。 神の衣は永遠性を獲得すべきだが、それを織れないなら、痕跡も何もなく、無に帰したほうが良い。 有限性の意識とは、無意識に無頓着にやっていても、何事か成し遂げうるだろう、という楽観の否定だ。 実際には、自分はそんなに大層な能力はなく、せいぜい、何をするか良く考えて、寄り道を避けなければ何も成し遂げられないだろう。 あるいは、それでも足りないかもしれないのだ、ということに突然気がつくことだ。

そこで、かつてはあんなに拘ったハエッケイタス、ジャンケレヴィッチの事実性は、ほとんど何の慰めにもならない。 かつて拾い読みしかしなかったときにはそれなりに価値をおいていたものが、ようやく通読できたときには慰めにならないというのは皮肉なことだが。 単なる事実性では、(傲慢なことにも)不足なのだ。 単なる事実性が永遠なのは寧ろ困る。 無価値なものまで、それが存在したという事実性が存続するから。無価値なら、事実性は不要。 価値があれば事実性では不足なのではないか。 そう、「実存もせず、実質もないものの永遠を拒否する」側に私はいるのだ。 「どのような生涯を生きてきたかとは無関係」な価値など、私に言わせれば価値ではない。 事実性を重視するのはレトリックでなければ、哲学者のおめでたさがなせるわざではないのか。

*       *       *

自分の能力を測ることの困難さについて。 生活の糧を得るための仕事は自分にとってなんであるか? それ以外のものに、それに勝る価値が見出せないのであれば、結局文句を言うべきではないのか。 このような仕事に、最終的な価値など認めることはできない。ある人は、それを己の成果として誇りもするだろうが、私は最終的な署名は拒絶するだろう。 それが自分の成果であるのは、糧を得るためのCVの裡でしかない。 それが自分なら、それしか自分の遺物がないのなら、私は何も遺さずに、忘れ去られてしまってよい。そんなものに意味はない。 少なくとも、この数年で、この世界がどんなに不完全で、理想というのがどんなに視点依存のもので相対的なものであるか、よくわかった。 そして別に私の周りだけがそうなのではない。 いつもいつも、世界とはこういうものなのだ。 マーラーですらそうだった。 彼の成し遂げたことの価値の大きさたるや、全く明らかなことであるように思われるにも関わらず。 彼がウィーン宮廷歌劇場監督を辞任するときに残したメッセージがどのような目にあったか。

人間の不完全さに対する苛立ち。 大人の世界は、かつて子供の自分にそうと半ば信じ込まされていたようには完全ではなかった。 寧ろ絶望的なほどに不完全なのだ。 人間たちが集まって何かをする、たとえば企業というのはなんと不可思議な組織か。 この数年で見たことは、この絶望に、そして絶望しながらも逃れ得ない現実として受け入れざるを得ないという諦念に繋がっている。 (子供の頃の、集団に対する反応。学級委員の思い出。 だが、別に大人の世界が、子供の世界以上に立派であることは、ついになかった。 レベルは変わらない。かつても今も、結局同じではないか。)

しかし、自分の能力もまた、大したものではなさそうだ、という予感。 もうここまで来てしまった。何も成し遂げずに来てしまったということへの焦燥。 きちんとした訓練すらしてこなかったが故に、これから何をしようとしても、成し遂げるのはもはや絶望的ではないのか? わからない。我儘になるべきなのか?

かつては私は人間を基本的に信頼しようとしていた。人間の世界は基本的に「良い」ものであると思おうとしていた。 その思い込みがどんなに観念的なものであったとしても。 でも実際には、人間はどうやらそんなに立派な存在ではないようだ。 ここ数年で、いやというほどそれを思い知らされた。 ある価値の尺度からしたら、私が未だに抱えている価値観など笑止の沙汰であろう。 「誰が私をここに連れてきたのだ」というマーラーの言葉は、比較するのも馬鹿馬鹿しいほど卑小な私のものでもある。 私がまだ捨てきれずにいる価値観は、今や場違いなものなのだろう。 物差し自体が限りなくあって、己の物差しの優位性を暢気に信じることはできない。 物差し自体が、或る種のミームとして生存競争を繰り広げていると考えるべきなのだ。 要するに、自分が正しいと思ったもの、自分にとってかけがえのないものは、 他者にとってはそうではなく、そしてそれに腹を立てるのは筋違いで不当なことですらあるのだ。 (ところで、レヴィナスの言う他者は、まさにそうしたものであるはずではなかったのか。)

まあ、簡単に言って、誰しも自分に一分でも理があると思っていなければ、到底生き抜くことはできないだろう。 だからといって、自分の物差しの優位を声高に主張することに何の意味があるだろうか? 混乱した論旨もそっちのけで、他人の論を曲解して批判し、それを踏み台にして自分の論の独創性を叫ぶことに、何の意味があるだろう。 でも多分そちらの方が正しい。 ミームの競争であれば、「声が大きい者が勝つ」のだ。 彼らは勿論、自分の物差しが正しいと思っている。 相対性を感じ、自分の物差しの正当性を懐疑したりはしない。 そんなことをするのは、彼等の物差しからすれば、間違いなのだ。 おまけにこうしたことは別に特別に例外的な光景でもなんでもない。 実にありふれた日常的な風景なのだ。

価値は多様であり、誰からも批判されない人間はいない。 マーラーでさえ。ヴェーベルンでさえ。 あるいは、ある価値にのっとってではなく、批判のための批判だってありうる。だから、他人の評価を気にするべきではない。 Marcus Aurelius?ストア派か?

苦い認識の記述。 愚行の記録。 漠然とした運命への、だけでなく、「人間」に対する。 他者は暴力を与えるものかも知れない。 それを前提しない倫理は「ほとんど」無力だ。 そこにいる弱者を救うことは出来ない。 どこかにある高貴さは、そこにはないかも知れない。 けれども「私のモラル」は残る。愚かさを愚かさと呼び、不完全であるという認識は、ある価値に基づく。 つまり、進化論と唯物論に包囲されても尚、何か、それに抗するものを持ち続けたいのだ。 それ自体がナンセンスに思えようとも、人間の認識の限界を超えられなくても。

才能がある人間なら、唐の詩人のようにそれを嘆く詩を詠み、あるいはショスタコーヴィチのように引き出しの中の作品で憂さ晴らしをすることができただろう。 才能のある人間は、それを嘆く「権利」があるのだ。 ヴェーベルンの嘆きと憤りは、その才能によって正当化される。 マーラーがあちらこちらの歌劇場で成し遂げたことは、彼の能力と、成果によって、十二分に正当化される。 でも、それがない人間は? 自分に対する自信のなさ、自分のした事の価値に対する懐疑というのは、結局才能の欠如の表れではないだろうか? 相対主義は何かを為そうとするにあたっては危険だ。 自分のやることの価値を始めから切り下げてしまい、成し遂げることへの執着を喪わせてしまう。 何かをするには、愚かである必要がある。少なくとも価値についてその場のみであっても<括弧入れ>判断停止が起こる 必要がある。自己批判からは何も生じない。自己への傲慢までの自信が必要なのだ。

何故分業が嫌いなのか? それが進化論的に「正しい」から。 「個」の「私」の地位が危ういから。

けれども、嫌であっても、それは正しく、有効であって、天才ならぬ個に抵抗の術はない。 アドルノの主観―客観図式にはもう関心があまりない。「自然」の優位、圧倒的な優位からくるニヒリズムが問題なのだ。

あまりの自己過信、選択の誤り? 否、選択は誤っていない。もし誤りがあれば、もっと前、自分が世界と拮抗しうるとの思い込みと、 諦念との間の振幅のうちにあった。いずれにしても途はなく、もっと愚直であるべきだった。 どちらにしても、傲慢であったのだ。 頭で決め付けたことには変わりはない。 気付いてみれば、神の衣を織る術はない。 自分が「何によって」「いかにして」神の衣を織れるのかわからない。

*       *       *

祝福と呪い、ではない。どちらも無意味であることこそ、耐え難いことなのだ。 寧ろ一貫性の方が稀である。不器用、奇人とみられたかも知れない一貫性によって、生き延びたのかも知れない。 大抵の営みには一貫性などない。

我が王国はこの世のものならず。 自分の中にあるものを破壊すべきではない。 折り合いをつけるという点では、自分の中にあるものも、例外ではない。

奇妙なあり方、呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか? けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。

思いのほか変わらない、という見方もある。 かつてだってそうだった、、、孤立、外から来る知らせ、、、

自分の内側に何もない、遺すべきものはない、と感じられれば為すべきことはない。 もし、何かを表出する、刻みつける衝動を感じたら、それに素直に従うことだ、その価値を云々しても仕方ない。

そして、やすやすと成し遂げることができる人たちへの羨望。 自分の状況への苛立ち。仮に自分に能力がなく、我儘が単なる我儘であったとしたら、そのときは? 一体、何のために生きるのか?神の衣は?私には手が届かないのか?

自分の作品が匿名であることを望むことができる高貴さ、強靭さへの驚き。 何ということだろう。 確かに、自分にも、無に帰するという認識はある。 それは己の痕跡を消し去りたいという欲求と結びつく。 だが、それは何も遺さないということで、遺したものが無名のものになって欲しいというのとは同じでない。 何という寛容さだろう。 私は、そうであれば痕跡を、「私」のそれを残したいか、さもなくば無でありたいと願っているのに。 この件に関しては、私は寧ろ、苛立ちを感じる人間の心情の方がよくわかる。そこにある種の謙虚さのポーズを、 (無意識のものかも知れないが)欺瞞を感じ取ることだってできる。

我を離れた態度というべきか。 神の衣を織ることとは、そういうことかも知れない。 神の衣を織れぬ者は、ただ消え去るしかないのか?

ジッドの狭き門。多分読み方は異なっている。 そして、アリサの心持ちに多分に曲解に近い共感を覚える。 「私は年老いたのだ。」というアリサのことばの重み(これはその場を取り繕ったことばではない、と今では思える)があまりに直裁に胸をつく。 書棚を整理し、キリストにならいてを読む、という心情にも、ずっと身近なものを感じる。 書棚を、CDを、楽譜を処分して、一旦自分の周りに気づき上げた世界を崩して、その価値を自明のものとは見做さない姿勢をとること。 アリサがパスカルの偉大さに対して感じる苛立ちが、今の私には我がことのように思えてならない。 マーラーの音楽の偉大さは、今や私を苛立たせるのだ。

こうして他が何も残らない、廃墟のような状態だとよくわかる。 「神ならぬ者は、、、」

多分、神の衣を探しても見つかりはしない。 それは事後的にしかわからないのだ。 手に出来るかどうかは、わからない。 どこにあるかもわからない。 それはわかっているのだが、、、


私は結局立ち尽くしてしまう。 何も生み出すことができない自分に愕然として。 あの「知性」とやらは、対して役に立たなかったようだ。 神の衣を織るためには用いられず、取るに足らない営みに浪費されていく。 そこで多少うまくいっても、誰かの金ぴかの自己像の補強に役立つのが関の山のようだ。 またしても「私の生涯は紙くず同然だった。それは盗まれていた」というマーラーの抗議が身近に響く。 勿論彼のようにそれを言う権利は私にはないのだが。

一体、生きていることに何の意味があるのか? 彼らのとの価値観の競争など、私はしたくない。 邪魔をしてくれなければそれでいい。 目障りだから、どこか他所で自分の好きなようにやってくれれば最も良い。 でも、私自身には一体何の価値がある? 私の価値観には一体どういう意義があるのだ? 何かを生み出すことの無い人間が読んだ本、聴いた音楽は、どんなに立派な反応をその個体の内部でしていたと言い張ろうと、 その個体が消滅すれば、何の痕跡も無く消えてしまう。本をそろえ、CDを集めることになど意味は無い。 何が残せるかがすべてなのだ。 復讐のためにも、何かを残すことが必要だ。

だが今や己の歌の円熟に如何程の意味があるのか? 「歌」の領分はいよいよ狭まり、そして「歌」の価値を最早自らが信じられないでいる。 遺された本、楽譜が一体何を意味するか? それはとても不完全な仕方で、とても間接的に、ある人間の生を、その主観の眺めた星座を描き出す。 そこにはほとんど事実性以上の意味などありはしない。 そして事実性はJankelevitchがそう思ったほどには価値のあるものではない。 もしそうであれば、それは「記憶の人フネス」の認識したような世界の裡でであろう。 だが、そのようなことは現実にはない。 自分で抽象すること、自分で語ることが必要なのだろう。その抽象が個性なのだ。事実性は個性を救えない。事実性はすべてを平等に救うかに見えて、 まさにそれゆえに、何も救い出さない。Jankelevitchは間違っている。そして、自分のやっていることだって、事実性にすべてを委ねることからは程遠い。 あの際限の無いおしゃべり。物事を整理し、論理を通すことを蔑むペダントリー。折角の思惟を台無しにしてしまう。 それでいて、モラルについて諄々と説くわけだ、、、

まだ、諦められない。 そうして私は、神に問いかける。 問いかけることをやめることは少なくともまだできそうにない。 私は神に祈らずにいられない。 私を導き、何かを生み出す力を、あなたの衣を織ることに寄与することをお許しください。 私の生を不滅性に寄与することのできる、意義あるものにしてください。

私はまだ諦めることができないのだ。 歳をとり体力も気力も衰え、ますます時間の余裕はなくなり、不毛な時間の経過が早くなっていて、 絶望的になったりすることはあっても、完全に諦めることはできない。

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