2008年5月24日土曜日

私のマーラー受容:第4交響曲 (2021.9.19更新)

この曲は何回かすれ違いを経験している。 最初に友人の家でFMでこの曲をやっている時間に無理にお願いして聞かせてもらったことがあるが、 勿論そういう状況ではじっくりと曲に没入することはできなかった。 次は、ある年のクリスマスに迷った挙句に買ったショルティのLP。これを自宅の貧弱な再生装置で 再生すると音とびがしてしまうため、買ったお店に相談して、返品させてもらってかわりにショルティの あの第8交響曲の名盤を購入することになったという思い出がある。勿論差額は払ったのだが、 音とびの原因の少なくとも半分は私の持っていた貧弱なプレイヤーとかなり劣化していた 針のせいであったに違いないことを思えば、対応してくださった店員さんの寛容さには今尚、頭が下がる。 シベリウスやマーラーのLP(今ならCDだが)をなけなしの小遣いをはたいて買っていく中学生の数は 今も昔も、恐らくそんなに少なくはないと思うが、当時の私が住んでいた地方都市では、 きっと同情を買う程度には珍しかったのだろう。

そんなこんなで聴けずにいた作品だが、最初のレコードは、そのレコード屋にあったスワロフスキー・ チェコフィルの廉価盤だった。この曲はなぜかFMでも実演でも接する機会がなく、私が良く聴いたのはその後買った アバド・ウィーンフィルのLPである。一方で、この曲の終楽章はマーラーがピアノロールに残していて、寧ろ それを聴いて親しんだ感じがある。その後の歴史的な経緯もあってヒストリカルな録音に恵まれた曲であるが ゆえに、例えばメンゲルベルクの戦前の演奏や、近衛の演奏などさえ耳にする機会があったにも関わらず、 この曲については結局、楽譜を入手するまでは疎遠な音楽であり続けたように記憶している。 ただし、世界初という事実以上のものを聴き取ることのできない近衛の録音と生前のマーラーの信頼厚く、 マーラーと演奏解釈や楽器法についてのやりとりも頻繁にあったメンゲルベルクの演奏を同列に置くことはできないだろう。 メンゲルベルクの演奏は確かに時代がかった様式のものだが、実はその解釈は情緒的というよりは、際立って明晰な 形式的把握に基づくもので、寧ろ曲の構造の理解においては、細部拘泥の傾向のある近年の演奏よりも 遙かに説得力が感じられると私は思っている。

そして他の曲とは些か異なって、この曲は寧ろ現時点の方が遥かに親近感を持って聴ける 数少ないマーラーの交響曲である。(例えば第5交響曲はかつても疎遠だったが、その後、いくつもの 優れた演奏に出会ったにも関わらず、現在に至るまで距離感が埋まったわけではない。) 第4交響曲については、マーラー自身のピアノ・ロールによる「天上の生活」とメンゲルベルクの1939年の録音という ヒストリカルな記録を除けば、インバルとバルビローリの演奏がそれぞれ秀逸であると思う。 それぞれやり方は違うのだが、この曲のちょっと捻った、醒めた側面と、にも関わらず根底には 信じがたいほどの(にわかには信じられなくて、謀られていると感じた人間の顰蹙を買うほどの、 と言い換えても良い)素朴で純粋な感情の奇妙な共存を浮かび上がらせることに成功しているように 思える。

実演でも結局聴く機会がないままなのだが、そういうわけで現時点ではかつてよりも興味が増している曲 なので、一度実演で聴いてみたいように思っていて、もし今後マーラーを実演で聴くことになるとすれば 最有力の候補の一つである。

[追記]その後、以下の公演において実演にようやく接することができた(演奏会記録はこちら)。
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ 第10回定期演奏会、マーラー第4交響曲、指揮:井上喜惟, ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ 、ソプラノ:蔵野蘭子,  2013年7月13日,  ミューザ川崎シンフォニーホール 

0 件のコメント:

コメントを投稿