歌曲はLPレコードではなくカセットテープで聴いていたものが多いのだが、この曲集もその例に漏れず、 子供の死の歌と併録されたフィッシャー・ディースカウ、ベームのものをずっと聴いていた。 カセットはレコードに比べて遙かに手軽なこともあり、レコードよりはFMをエアチェックした交響曲と並んで、 カセットで入手した歌曲集を聴く頻度の方が高かったように思える。ただしこの曲集は、いわゆるフィルアップの 事情でアバド・シカゴ交響楽団の第5交響曲のフィルアップに収められたシュヴァルツの歌唱のものを 持っていて、このLPについては第5交響曲より、この歌曲集を聴くことの方がはるかに多かった。
だが、これも他の歌曲と共通しているが、この曲集もまた、そうした録音よりも楽譜を弾いて見つけた作品と いった感覚が強い。さすがに交響曲を連弾で弾くというのは、そもそも楽譜も入手できなかったことも あってやらなかったけれど、ピアノ伴奏版のある歌曲集は、こちらは録音の入手の困難さ(地方都市のレコード屋 にはそもそも歌曲集のレコードなどほとんど置いていなかったのだ)に比べれば楽譜の入手は遙かに容易で、 それゆえ歌曲限定ではあるけれど、ブラウコップフが言う、楽譜からマーラーを知るような受容のあり方についても、 実感として理解できる部分があるのである。その薄く線的な書法、そしてこの曲集に特に顕著な繊細な和声の 移ろいをピアノで自分で弾いて確かめるのは、実に魅惑的な作業だった。
というわけで今も昔も親しみのある曲集で、親密さという点ではもしかしたら一番かも知れない程である。 非常に強い情緒的なインパクトを持つ他の曲集や交響曲と異なり、この曲集の作品はマーラーの作品の中でも その繊細な感覚が最も強く出たものだし、それは決して小品とは言い難い「真夜中に」や「私はこの世に忘れられ」に おいても基本的には言えるだろう。連作歌曲集ですらないことから、気軽に1曲、2曲と取り出して聴けるのも 身近さを増すのに貢献しているに違いない。
その顕著な例は「私はこの世に忘れられ」であり、この曲はウィーン宮廷歌劇場でマーラーの下で歌い、ミュンヘンでの「大地の歌」の初演を歌ったシャルル=カイエ、1936年のワルター・ウィーンフィルの「大地の歌」のアルトであったトールボリ、 1952年のワルター・ウィーンフィルの「大地の歌」のアルトであるフェリアー、そしてバルビローリのバックで歌うベイカーと、 忘れ難い演奏を残した歌手による演奏を聴くことができる。こうしたことは他の曲では起きないことだし、この曲の マーラーの作品中における位置づけというのを良く物語っていると私には感じられる。
[追記]その後、以下の公演で実演に接している。
マーラー祝祭オーケストラ 第23回定期演奏会:プフィッツナー 音楽的伝説『パレストリーナ』第1幕への前奏曲、マーラー リュッケルト歌曲集(私の歌をのぞき見しないで, 私はやわらかな香りをかいだ, 真夜中に, 美しさゆえに愛するなら, 私はこの世に忘れられ)、マーラー 第10交響曲 指揮:井上喜惟、アルト: 蔵野蘭子、マーラー祝祭オーケストラ、2024年5月26日、ミューザ川崎シンフォニーホール
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