お詫びとお断り

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2008年5月27日火曜日

身辺雑記(3)

II.

Vorbei.

何かが壊れてしまう?止めることはできない。壊れてしまったものは修復できない。逆らってはいけない。区切りというものはある。 立ち止まってみる、という事なのか、但し、後ろを振り返ることなく、、、 私はどこへ行くのか?何をすれば良いのか?何をすべきかは、待ってみるべきなのか?自分で選ぼうとはせずに。

たくさんの文章、公開されているたくさんの文章。 何故公開できるのか?確信を己に抱けるもののみが遺すことができる、のだ。

無理をして背伸びをするのは少し控えるべきかもしれない。 周囲の動きの中で、気配を消すように、努めるべきかも知れない。 もう5年もやっているのだ。区切りというのはあるだろう。 現象から身をひくこと。我が王国はこの世のものならず。 世の成り行きに接していた面がひとつひとつはがれてゆく。 5年間の企ては結果的に貧乏くじをひくことにしかならなかった。 そして、それ以外の面でも、自分が作ったものの一つがその役割を終え、小鳥達、父、そして自分に価値を見出してくれた人たちの何人かが逝った。 だとしたら、ここで一息つくのもいいかも知れない。 まだしばらくは生き続けなくてはならない。 「知の人」の装いのもとに。そのためにも、一旦、休むべきかも知れない。

盗むものは盗むが良い。あるいは使えるものがあれば使うが良い。 それは、私のものではない、あなた方のものだ。 私は何も持たずに、何も残さずに、立ち去るだろう。

たくさんの誤解と無理解によって「歴史」は塗り固められてゆく。 Webernの傷は「歴史」によっては購われない。それどころか想像力の欠如した音楽学者達が批評をする材料にされてしまっている。 結局、「誰か」の視点しかない。そして声が大きい者が勝つのだ。言葉でなくても、音でも画布でも、何でも。 そして素材(媒体)と格闘しない純粋な思惟というのは、あり得ないのだ。あるいは素材の、道具の、記号の往還の無い思惟というのは。 多くの人が、一体記憶はどこに行ってしまうのか、と問う。 しかしそれは、脳が活動を停止してしまえばなくなってしまうのだ。 記憶もまた、他のものと同じく、物理的な基盤上に成立している。 H/Wの故障により、その上のファイルに格納された情報が読み出せなくなることと、ほとんど変わることはない。 記憶だけを神秘的に考えるのはおかしい。

つまるところ、外化して残さなければ如何に偉大な思想も無に等しい。価値は流通によってしか生じない。 価値は他者が与えるものだ。産み出すこと。 何を考えていたのか、書き残されたもの、遺された書物の示す緩やかで曖昧な布置以外に知る術がない。

お前がその脳の中にたっぷりと詰め込んでいるものがあるのなら、それらを吐き出して書き付けることだ。 お前が死ぬのを待つことなく、おまえ自身、その思考へのアクセスを喪ってしまうかも知れないのだ。

かつてある人に、(そのときの文脈は、むしろ言語の「不完全性」だったかも知れない)自分の頭の中にある思惟をそのまま伝えることができるなら、 言語等という不完全な手段に頼ることはない、と語ったことがある。 けれども言葉にして伝えなければ、脳の中の思惟は消え去ってしまう。

*       *       *

また一つ「世の成り行き」との接点が喪われる。 けれども歴史には勝者と敗者しかいない。敗者は忘れ去られる。細部は喪われる。脈絡も背景も前提も忘れ去られ、評価のみが残る。 全てを喪ってしまったこの5年間はただ、盗み取られ、己を喪うためにのみ在ったかのようだ。 まるで何かを残すことを禁じられたかのように、そこはお前の場所ではないとでも言われているかのように。

こうやって日々、楽観と悲観を彷徨う。あまりにあてどがなさ過ぎて、どこかに辿り着くかも定かでない。しかし、道は歩んだ跡にしかできない。 決定的な何かはその瞬間にそうと知られることはない。必ず、後からそうであったと追検証されるものなのだ。 だから自分のやることについて、思い煩うのは程度の問題だ。自己批判を欠くと言われようが、破棄されたものは残らない。 想念のうちに抹消してしまい、形にしなければ何も残らない。 批判の対象にすらなりえない。一方で、残すとなれば、恥をさらすことを覚悟せねばならない。 残らないことを懼れるでもなく、残ることに恥らうでもなく。ある種の愚かさ、愚鈍さが必要なのだろう。 すべてを相対化して価値を見失う聡明さよりも、己を恃む融通の利かない、尊大、傲慢と受け取られかねない頑固さの方が、まだまし、というわけか。 もう一つ。他人と接すること、外に対して開かれることが多分必要だ。少なくともある時期に、誰と接したかは、決定的に重要なのだ。 隠棲なり象牙の塔なりはその後なのだ。誰かの友人であったり、弟子であったりすることがどんなにか重要なことか。

~について考えること、は、それを眺めること、それをある形式の裡に結晶させることとは異なる。 大抵の場合、無意識の備給の方が価値を帯びていて、「~について」という意識的な部分については価値はない。つまり反省は邪魔なのだ。 ~について考えること、分析し、組み立てること、内なる声に耳を澄まして書きとるのではなく、作り上げること、それは作品を生み出すことではない。 知の人、頭の良さ、というのは実際には役になどたたない。もっともそうしたイメージとは異なって、自分はさほど論理的に物事を捉えてはいない。 知的な印象、冷たさは仕方ない。だが実際にはもっと感覚的、そして直感的だ。 そうした例というのは、例えばWebernやXenakisの場合がそうだが、無い訳ではない。だが、彼らはどうなのか? ノモスを探求しようという態度、それは役に立たないのか?

自分から多分最も遠い音楽、Mahlerの様な音楽(私はそういうものを作ることだけは出来ないだろう。 Mahlerの最良の部分は私に無い部分なのだ。それが今の私には良く分かる)は、一体何を提示しているのか?その魅力の源泉は何なのか? 私が書くものは、全て、主観的なものだ。その魅力とは、私にとってのそれだ。それを書くためには、どこから前提を記述すれば足りるだろう。

何が幸いするかはわからない。抽象的に考えることが出来るのか、出来ないのか?論理的に考えることができるのか? 大きな見地に立って考えることが出来るのか? だが、どのようにparameterを設定してみても、何かを産み出せるかどうかを計算することはできない。 それは神か、あるいは統計的な事象なのだ。 ただし、どのような媒体によってか、というのは多分、重要なことだ。 なぜなら、やはり技術的な次元は存在して、だから、何かに習熟すること、というのはどうしても必要だからだ。 何かを続けること、ある対象に没頭し、熟知すること、はどうしても必要なのだ。 それよりも必要なのは、過剰な適応から距離をおいて、自分が本当に何をしたいのかを見極めることだ。 探す必要があるなら探すしかない。自分の身の丈に合った対象を見つけるか、身の丈が合うのを待つか。 あせっても仕方ない。すべての時間をそのことに向けられるほど合理的に無駄なくはできていないのだ。 休むことも、時には必要かも知れない。無駄な寄り道よりは何もしない方がいいのかも知れない。 寄り道が無駄かどうかすら、知る術はないのだが、、、

これで終わりなのかどうかは、神のみぞ知る。仮にこの鬱状態が一時的なものであるとしたら、しばらくすればまた何かを始めるだろう。 だが一体、いつから始まったと考えるべきなのか?かつても、いわゆる収縮し、縮小することで自分を維持しようとすることはあった。 但し30より前では、否、つい5年前も、それは「変わる」、つまり別に何かに「なる」ということを目がけていた。 今回のそれは違う―違うかどうかはわからないが―いずれにせよ、「変わる」ために抑圧したものをもう一度評価しなおして、ある意味では中性化してしまった。 勿論、過去の自分に戻ることはできない。過去を振り返る自分は過去の向こう見ずな自分ではそもそも無い。 過去に評価したものが全て復活した訳でもない。けれども「変わること」に疲れたのかもしれないとは思う。

いずれにせよ、これでおしまいなのかどうかは神のみぞ知る。 今はじっとしているしかないのかも知れない。色々なものを、結果を出すことをあまり考えずに蓄積させるタイミングなのかも知れない。 多分、まだ、多少は力が残っている。結局まだ、諦め切れていない。 だが、何をすればよいのか、拡散し、散らばってしまった、どれも中途半端な断片のどれを拾い上げて、どれを捨ててしまっていいのかがわからない。 もう時間が無く、残されたリソースを考えれば、選択は必要だ。だが、自分で選ぶことはできない。選ぼうとして動き回れば、ますます混乱してしまうようだ。 自分にとって必要なもの、欠かせぬものを見極めること、この年齢(「不惑」も近いというのに)になって、何たること! けれども仕方が無い。あちらこちら道草をした報いというべきか。 いずれにせよ、これが続く―最後まで続く―のか、いつか終わりが来るのかはわからないが、しばらくは沈黙するしかない。

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志向的対象の有無、感情と気分(Stimmung)気分は人間と世界の合一(ボルノー)cf.レヴィナスの享受 そして気分と雰囲気―後者の非人称性 感情―気分―雰囲気 Adornoにも「雰囲気」というのは出現していたことに注意。

詩もまたある認識の様態を伝達する。ジャム、ツェラン、そしてヘルダーリン。 とりわけジャムの詩の風景や感受の様式は、多分、かつての自分を強く捉えたものだった。 けれどもヘルダーリンの詩同様、ジャムの詩の世界もまた、随分と遠ざかってしまったようだ。 ある種の純粋さ、それを保つのは難しい。しかもその輝きは私の存在とは関係がない。 そして私はと言えば、信仰も持てず、神の衣を織る事あたわず、友もなく、沈黙するのみ。 信仰なき沈黙とは何か?それは日常だ。だが、それも仕方あるまい。

Jammes的な光景、風景への懐疑?光の調子、それは現実なのか? 否、現実とは、享受の様態により決まる。Jammesの輝きはWebernの後期作品等と同じものかも知れない。 或る種のdetachement。 それは幻影ではないかという思いと、それを否定しきれない気持ち。 一つには信仰の問題がある。現実の認識の変容。けれどもそれは自分の態度が変わったからだ。それは確実にいえる。どのようなスタンスをとるかによって、立ち現れる現実の様相はある程度変わる。

ではかつての態度の方が良かったというのか? ―恐らく、ある意味では。お前の「強さ」は、今や喪われてしまったかも知れない。 だが、かつての態度は「非現実的」―或る種の超然的な独我論ではないか? ―そうだ。それを批判するのは必ずしも誤りではない。だが、それにも価値はある。 今でも何かに没入したらお前はそうなるだろう。要は選択の問題なのだ。 かつても断念はあった。否、断念と妥協の繰り返しではなかったか。

かつての私には「他者」がいなかったのだ。強い観念的な世界の中で他者を見ていた。 実践的な働きかけの対象ではなかった。私は私の独我論の世界に居た。 祖母も、祖母の死後後を追うようにして息を引きとった犬も―それは大いに悔やむべきことだ。

音楽のなかった時代、光景のみが残っている。記憶のうちに。 これらは現実にはもう存在しない。街は変わり、風景は変わる。 私の見たもの、あの確かであった筈の現実は、今や私の脳の中に、不完全な記憶としてしか残っていない。

本を読み、音楽を聴く。 それは構わない。だが脳に蓄えられた写像は死んでしまえば喪われてしまう。 喪われることを拒むのであれば、更に変換を行うことで別の媒体に残すことだ。 いくら読む本を選び、聴く音楽を選んでも、死がその秩序を散逸させる。 形を与えることだ。それが残るかどうか、存続するかどうかは神様に委ねれば良い。 翻訳であっても良いかもしれない。或いは紹介記事であっても。いずれにせよ、己の外に出すこと、表現すること。

外への働きかけ、他者への働きかけ。行為の次元。「~のために」というLévinas的には倫理的な次元。 Lévinasの他者論を読んでいたときには、そうした事に心から納得しなかったことは皮肉だ。 しばしば論理的な一貫性というのは、何かを見えなくしてしまう。 とりわけ、哲学的な問題は、良く定義されている訳ではないから、論理的に一貫していると見えることが、単なる短絡に過ぎない、ということが良く起こるのだろう。

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