クーベリック・バイエルン放送交響楽団のLPが最初のレコード。その後アバド・ウィーンフィルのLPを入手した。 後者は勿論精度も申し分なく、磨きぬかれた素晴らしい演奏だが、決して平均的な演奏ではなく、 特に中間楽章ではアバド独特の管弦楽のバランスが顕著で、些か作り物めいた感触のある演奏。 (アバドはこうしたバランス感覚を、例えばショスタコーヴィチにも適用する。その結果は、予想もしないような 意外な音響によるリアリゼーションで、これに抵抗感を示す人は恐らく多いに違いないのだが、実際には マーラーにおいてもあまり違いはない。マーラーの場合には様式的に違和感が少ないだけである。)
FMで聴いた演奏では、ツェンダー・ベルリン放送交響楽団、ベルティーニ・ウィーン交響楽団(1982.6.5)、 そしてハイティンク・アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団のものが記憶に残っている。特に 1981年8月21日にNHK FM で放送されたツェンダーの演奏(自由ベルリン放送大スダジオでの1980年10月6日 の演奏とのこと。アルトはキルブルー、合唱は聖ヘドヴィヒ教会の聖歌隊)は95分17秒という演奏時間から予想されるように、 特に第1楽章のテンポ設定が独特で、場所によってはカオティックにすら聞こえる、超現実主義的な「夢の論理」を強く感じさせる 圧倒的な演奏だったと記憶している。
実演は1度だけでベルティーニ・NHK交響楽団(*1)。すでにFMで素晴らしい演奏を 何度か聴いていたベルティーニの指揮ということでとても期待して行ったのだが、 NHKホールの席が悪かったせいか、遠くで鳴っている音を呆然と聴く100分で、 その後NHKホールには行っていないし、今後も恐らく行かないだろう。 場所によるのかも知れない(もっともそんなに安い席ではなかった筈だ)が、 こんなホールでクラシックのコンサートをやるというのに些か呆れてしまった記憶がある。 NHK交響楽団も最近はさすがにその後はより音響の良い他所のホールでも定期公演を するようになったが、未だにこのホールを中心に公演も続けているようで、これが放送受信料を 徴収している公共放送のオーケストラ、日本を代表するオーケストラであることを思い合わせると 全くもって感心する他ない。まあ、クラシック音楽なぞ所詮は他所事に過ぎないからどうでも いいのかも知れないし、私には直接は関係ないからどうでもいいのだが。 勿論、この経験はコンサートから足を遠のかせる大きな動機の一つになった。
(*1)NHK交響楽団第1014回定期演奏会:マーラー第3交響曲、指揮:ガリ・ベルティーニ、NHK交響楽団、アルト:伊原直子 合唱:国立音楽大学 国立音楽大学付属小学校、1987年2月12日、NHKホール
この曲についてはスタジオ録音が残されていないバルビローリに優れた演奏録音があることを、ケネディの著作によって 早くから知っていたのだが、それを聴けるようになったのはごく最近のことである。だが現時点では バルビローリ・ハレ管弦楽団の一種独特の感触をもった演奏を最も良く聴く。ちょっと聴くと アンサンブルの精度が悪く、はらはらするばかりで落ち着いて聴けないのではと思われるかも知れないが、 マーラーにおける「対位法」というのがどれだけ伝統的なそれと懸け離れたものであったか(伝統的な 技法の熟達という視点では恐らくシュトラウスの方がよほど上手だろうし、シェーンベルクもまた マーラーより遥かに秀でていて、こうした面ではシェーンベルクとマーラーの音楽の間にはほとんど関連を 見出すことはできないだろう)を考えてみると、寧ろこの演奏こそ、マーラー的ポリフォニーの理想的な 実現ではないか、という気さえする。バルビローリの意図がオーケストラに浸透しているという点でも ベルリン・フィルの演奏と比較しても遥かに勝っているように私には聞こえる。デリック・クックの評価は 私には留保なしに同意できるものだと感じている。
この曲は現時点では一般的に非常に評価の高い作品で演奏頻度も、録音頻度も決して低くないようだが、 私は寧ろ昔のほうが良く聴いた。とりわけ終楽章の主題が最後に再現される部分では自分の時間意識が ある種の変容を起こしているように思えて、一体そこで起きているのは何なのか、なぜそのようなことが可能なのか、 どうしてもそれなりに納得の行く説明が欲しくてあれこれ考えていた。勿論それは現時点でも課題であり続けている。 一方で、この曲に関して必ず問題になる世界観の表明などの標題に纏わる問題が私にはひどく 煩わしいものに思えて、それもあってこの曲に対する距離感が生じているのかも知れない。 例えばこの曲に「円環的」な構造を見出そうとする意見があって、それを支持する日本人によるコメントを 読んだことがあるが、具体的にどこに「円環的」な構造を見出しているのかをあたってみれば絶句してしまう。 ソナタの再現部、舞曲のような3部形式、第6楽章における第1楽章の素材の侵入などをもって「円環的」と 呼べるのであれば、それは第3交響曲固有の特徴ではないだろう。少なくとも構想の時点では言語的な 形態をとっていたこの音楽の標題から出発して、ある種の世界観がこの音楽の構造にも反映していると 言いたげであるが、その根拠が上述のもの程度では少なくとも私には何の説得力も感じられない。 かえってそのような「言いがかり」に近い議論によって、第3交響曲をある種の世界観のある仕方での 反映とする、それ自体は別段誤りというわけではない見解自体を、そうした説を吹聴する人間同様 胡散臭いものと感じさせかねないのではなかろうか。きっとあるに違いない内容と形式の密接な 連関を見出そうという努力が、そのような皮相な観察が書物のかたちで流布することで大手をふって 撒き散らされることによって妨げられることを懸念すべきではないかとさえ思われる。
[追記]この作品については、新型コロナウィルス感染症の蔓延が原因で、1年延期の上実施されたマーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第18回定期演奏会(2021年5月9日)に接する機会があったのだが、諸般の事情から、コンサートホールを訪れるのを自粛せざるを得ず、実演に接する機会を得られらずにいる。
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