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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2024年8月12日月曜日

ヴァルターの「マーラー」における「エンテレケイア」についての言及

ヴァルターの「マーラー」における「エンテレケイア」についての言及(原書Noetzel Taschenbuch版pp.104-105,邦訳 『マーラー 人と芸術』,村田武雄訳, 音楽之友社, 1960, p.191)

Als in seiner Gegenwart einmal davon die Rede war, daß aus einem durchschnittenen Regenwurm zwei würden, indem die hintere Hälfte sich einen neuen Kopf zulege und selbständig weiterexistiere, rief Mahler sofort aus: »Dies wäre ein Beweis gegen die Entelechien-Lehre des Aristoteles.« Er war viel zu einsichtig und siener mangelhaften sachlichen Ausrüstung bewußt, um der wissenschaftlichen Bedeutung solcher Bemerkungen sicher zu sein; doch interessierten ihn Gedanken dieser Art zu heftig, als daß er sich mit der einfachen Aufnahme des Wissensstoffes beruhigt hätte; seine Denkenergie konnte nicht anders, als durch fachlich fundierte Widerlegungen zu tieferer Einsicht zu gelangen. Immer aber erregte die großartige Intuition, die aus seinen Bemerkungen in der Diskussion sprach, die Bewunderung seiner Freunde aus dem Gebiet der Wissenschaft.
又誰かがかれの面前でみみずを二つに裂き、二つの標本をつくって、後部が新しい頭を生やし、独立に生存しつづけるのを明示したとき、かれはたちまち、それはアリストテレスの質料の円現(エンテレケイア)の学理に対する証拠であると叫んだことがある。
かれはかれの科学的準備の欠陥に対してよく気がつき又感づいていたので独断に走ることはなかったが、この種の科学的な問題について単に正確な知識だけで満足することはできなかった。かれの旺盛な思考活動は、かれをして問題に深く没頭せしめた。それだけに、これらの学理の基底を究明発見して、より進んだ理解力を得たとかれが確信したときの幸福さは、まったく説明のしようがなかった。
論争中に、かれの所説に示されるすばらしい直観力は、かれの科学の友だちを感服せしめずにはおかなかった。

マーラーの自然哲学・自然科学への関心については別のところでも触れているが、このヴァルターの証言は、極めて具体的な例を挙げているという点で 鮮明な印象を残すものであろう。引用された部分の直前には、物理学における例も挙げられているが、ここでは生物学史における「生気論」と「機械論」の 対立の一齣の証言でもある、アリストテレスのエンテレケイアの理論についてのマーラーのアイデアに注目することにする。エンテレケイアの理論がアリストテレスに 端を発するということは言うまでもないことだが、マーラーの同時代においては、何といってもドリーシュのウニの胚の分割の実験結果に基づくいわゆる「新生気論」に おける胚発生の等結果性に対する説明原理としてのエンテレキーのことであったと思われる。もっとも、エンテレケイアについてはゲーテも述べており、ゲーテの 文学作品や対話記録のみならず、自然科学的な著作にも通じていたらしいマーラーはゲーテの説を思い浮かべていたのかも知れない。
マーラーが指摘している事象の方についていえば、これがミミズの中でも一部の種に見られる分裂による生殖を指すのか、トカゲの尻尾と同様の再生のことを 指すのか、両方の可能性もあるだろう。ワルターの記述をその通りに読めば前者であろう(なぜなら後者の場合には、プラナリアのような場合とは異なって、 分断された2つの部分のうち頭部の方には尾部が再生するが、尾部の方には再生が見られないからである)が、いずれにしても、最終の典型的生物体を 目的として予想しつつ現象を補正していく要因としてのエンテレキーの考え方を踏まえたコメントをマーラーはしていると思われる。
ところで私のドリーシュの主張に対する知識は、ドリーシュの著作そのものに拠るのではなく、フォン・ベルタランフィの"Das biologische Weltbild I , Die Stellung des Lebens in Natur und Wissenschaft", 1949、邦訳:「生命 有機体論の考察」, 長野敬・飯島衛共訳, みすす書房, 1954によるのだが、 フォン・ベルタランフィは1901年にウィーンの近郊に生まれているから、勿論直接的な関係はないにせよ接点のようなものはあるわけで、何より、「生命」という 著作が、ドリーシュのエンテレキーの理論から始まり、ゲーテの「ファウスト」の一節でしめくくられるということからも同じ文化的な世界に属しているというように 私には感じられる。
フォン・ベルタランフィも明確に述べているように、ドリーシュの「新生気論」そのものには(そうしたことを企てる動きもあるだろうが)今日に おいては最早過去の遺物、理論的には(フロギストンやエーテルがそうであったように)端的に「誤り」であるというのが適当だろうが、フォン・ベルタランフィ自身が 述べるように、その発想は有機体論に受け継がれているというように考えることもできるだろう。「誤り」という点においては当時の機械論もまた同様に誤りで あったと言うべきだろうし、今日では「情報」と呼ばれているものを極めて不正確ではあれ、予感していたのだという見方もできるかも知れないのである。 ただしそれはあくまでも「予感」に過ぎず、説明としては全く不充分なものであった。例えばゲーテの形態論には、ジョフロワ・サンティレールとともに、 「器官の平衡」のような考えがあるが、それはフォン・ベルタランフィが見出したような動的な平衡ないし定常状態として、開放系動力学に基づいた 定量的な法則を備えた形態形成理論によってようやく十全な説明が行われるものの現象論的な観察に過ぎない。科学史的な関心は別の意義が あるだろうが、今日においてそうした過去の理論をそのままなぞることは不毛な結果、いわゆる「知の欺瞞」にしかならない。これまたフォン・ベルタランフィが言うとおり、 単なる「相似性」による許しがたい偽りの類比やそこから生じる誤った判断は、論理的な相同性に基づくシステム論的な方法論により締め出されるべきなのである。
翻ってマーラーの音楽について述べられていることを顧みれば、ここでは生命ではなく、文化的な創造の産物が対象なのではあるが、機械論と生気論の 対立にも似た状況があるように思われる(これ自体が偽りの類比ではないということを証明することはここではできないが、そうではないと私は考えている。) マーラーの音楽のような複雑な対象の説明のための語彙は未だに十分には整備されていない一方で、粗雑で検証に耐えないような比喩や類比、 音楽そのものに辿り着かない別の平面をなぞるだけに終始している標題に関する議論が跋扈している。実際にマーラーの音楽を演奏し、聴取する時に 起きていること、演奏する主体の、聴取する主体の行為を説明するための理論が欠けていて、とりわけても優れた演奏が掴んでいる何か、そこで生じている 出来事の構造の記述があまりに不完全な仕方でしかできていないというように私には感じられる。
勿論、作曲家の側がそれを「神秘」と見做し、説明を拒絶する場合もあるだろう。マーラー自身、自作の分析や解説の類に懐疑的であったという証言が 多数あるのだが、私見ではマーラーの場合には、その説明の手段の貧困と、その直接的な帰結である結果の貧困、許しがたい歪みや誤りを拒絶したのだ。 そして、今日マーラーの音楽を受け止める時に、そうしたマーラーの態度を楯にとってマーラーと同時代と同じレベルの記述・説明に終始するのは、 マーラー自身の志向に反しているのではというように私には思われてならない。勿論、その一方で、既に半世紀以上も前に書かれたフォン・ベルタランフィの 著作を梃子に、せいぜいが四半世紀前までに提唱された理論(一般システム理論、情報理論、サイバネティクス、人工知能、脳神経科学、精神の生態学、 オートポイエーシス、いわゆる「複雑性」についての様々な理論はどれも皆、全てそうである)の中に未だにいて、なおかつ何よりも一世紀前のマーラーの音楽への 拘りを捨てられない私のあり方自体のアナクロニズムについては認めざるを得ないのだが、、、(2013.1.20 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)

パウル・シュテファン編の生誕50年記念論集中のブルノ・ヴァルターの寄稿より

パウル・シュテファン編の生誕50年記念論集中のブルノ・ヴァルターの寄稿より(Gustav Mahler : ein Bild seiner Persönlichkeit in Widmungen (1910) p.88, 邦訳:酒田編「マーラー頌」p.94)
(...)
Zum Schluß bitte ich um dir Erlaubnis, die Freundschaft so weit zu mißbrauchen, daß ich Ihnen einen Traum erzählen darf, den ich vor einigen Jahren träumte: Ich ging spazieren und sah Sie hoch über mir den steilen Pfad eines hohen Berges hinanklimmen; nach einiger Zeit mußte ich, vom Licht geblendet, die Augen schließen. Als ich sie wieder öffnete, fand ich Sie nach längerem Suchen auf einer ganz anderen Stelle des Berges, einen noch höher gelegenen Pfad ersteigend. Wieder schloß ich die Augen, wieder öffnete, ich sie, fand Sie nicht und erblickte Sie wieder an einer ganz anderen Seite aufstrebend. Das wiederholte sich immer wieder. Ich habe diesen Traum wirklich geträumt und ich glaube, wer Sie versteht, wird seine Symbolik anerkennen und sagen, es war ein Wahrtraum.
(...)

(…)
終わりに、いささか友情に甘えて、私が数年前に見た夢の話をさせていただきます。私が散歩していると、私の頭上はるかに、あなたがある高い山のけわしい小道をよじのぼってゆくのが見えました。しばらくして私はまぶしい陽光にくらんで目を閉じねばなりませんでした。ふたたび目を開いた私は、しばし探しあぐねたすえに、山のまったく別の一角の最前よりもずっと高いところにある小道を登ってゆくあなたの姿を見つけました。私はまた目を閉じ、また開きました。あなたの姿はなく、またしてもあなたはまったく別の斜面を登ってゆくのでした。こういうことがなんども繰り返されました。私はこの夢をほんとうに見たのです。そして私は、いやしくもあなたを理解している者ならばこの夢の象徴的な意味を認め、こう言うだろうと信じています――それは正夢だったのだと。
(…) 

マーラーの音楽は隔たった時代と場所を超えて届くものの一つだけれども、その音楽の力がそうした距離感をものともしないがゆえに、ある意味では逆説的なことに、 その距離を有無を言わさずに身をもって証言するものは数少ない。時代の隔たりは同じ場所であればより容易に測れるかもしれないし、場所の隔たりは例えば戦前や 戦争直後の日本の方がより端的に感じ取れたに違いない。私の場合には、ふとした偶然により私の手元にあるマーラーの生前に出版された1冊の本が、それが 今ここにあるという偶然をもって時間と場所との隔たりを最も強く感じさせる存在であろうか。マーラーの没後すぐ、あるいは戦前に出版されたものであれば 他にもいくつかあるものの、マーラーの生前まで遡るものは手元にある資料では、これ一点のみである。
上掲のブルノ・ヴァルターの言葉を含むこの記念論集は、パウル・シュテファンの編集、マーラーの生誕50年の1910年に第8交響曲の初演にあわせて編まれ、 第8交響曲初演の地であるミュンヘンのPiper社より出版されたものだ。しっかりとした装丁と上質の紙を使い、数多くの今なお著名な「マーラー派」の人びとの 寄稿とともに、巻頭にはロダンのマーラー像の写真が、巻末近くにはクリムトのベートーヴェン・フリースの騎士の部分のモノクロの写真が、 挿入されたパラフィン紙に保護されて収録されていて、巻頭のパラフィン紙にはロダンのサインと思しき筆跡が確認できる。
ここには掲げなかったが、このヴァルターの書簡調の寄稿は長大なもので、上掲の部分は末尾近くであり、 これに先立ってヴァルターはマーラーの作品について述べているけれど、それも上述の出版の経緯を考えれば当然のことながら第8交響曲までである。 実際には既に大地の歌と第9交響曲は一応の完成を見ており、ヴァルター自身、この年の4月にニューヨークからのマーラーの手紙によりそれを知らされている筈である。 (もっともヴァルターがこの文章を書いた日付は詳らかでないため、知っていて書かなかったのか、執筆時期が先行するのかは私には判断できない。) その後ヨーロッパに戻ったマーラーは第8交響曲の初演の準備に奔走するが、それと並行して夏には第10交響曲の作曲も開始され、8月末には相談のために ライデンにフロイトを訪ね、というように第8交響曲の初演に至るまでには、今日の私たちに良く知られた様々なことが起きている。自分の手元にある一冊の本が そうした一連の出来事に直接連なっていたと思うと、否でも不思議な感慨に囚われてしまう。
さて、だが上記のヴァルターの文章をここで紹介したのは、そうした経緯を紹介したいがためではない。そうではなくて、マーラーの創作の過程をある抽象的な 相空間における軌道としてイメージしてみたらどうだろうと考えた時に、ヴァルターが見た夢のイメージが鮮烈に蘇ったからである。ヴァルターはマーラーを間近に見て 上記のような印象をその心の中に定着させたのだろうが、時代と場所を隔てて私が抱くマーラーの創作の軌跡の特徴も、それに近いのだろうと思う。 自分から見て遙かな高みをさらによじ登っていくという相対的な位置関係や運動の方向、ポワンカレ断面のような切り口で見たときの離れ離れの軌道のイメージ、 アトラクターを遍歴するイメージ、カタストロフィックな分岐現象による相転移といったイメージである。マーラーは繰り返し繰り返し交響曲を書き続けた。 一つ一つの交響曲がマイケル・ケネディの言ったように「実験」であり、互いに異なっており、そのパワー・スペクトルは(あえて連続で近似すれば)ホワイトノイズとも、 1/fノイズとも異なるだろう。そしてマーラーの創作の過程同様、マーラーの音楽の内側もまた、同じようなカオスの縁のような複雑さと豊饒さを持つ空間なのであろう。 (創作の過程と創作の結果としての作品が備える過程の両者に入れ子構造のような自己言及的な関係があること自体、決してどの音楽にも起きることではなく、マーラーの音楽の特徴の一つとしてあげるべきだろう。)
我々はというのは言いすぎかも知れないけれど、少なくとも私はマーラーの音楽創作の軌跡についても、遺された音楽自体が描く軌道についても、その豊かさや 複雑さに十分に見合った記述をするための語彙なり、形式なりを持てていない。一方では印象を後から粗雑に分類したり、歪みと伴った類推によって構造の 粗雑な近似をするのが関の山である自然言語による印象や構造の記述があり、他方ではこれも観察の結果としての抽象に過ぎなかったり、創作に先行する 拘束条件として機能したとしても、特にマーラーの場合には昇ったら捨ててしまう梯子の役割しかしない、これまた非常に単純で、しばしば形式的な厳密さの点で 疑わしい音楽理論に基づく分析がある。音楽自体については何も明らかにしない標題としての世界観やら何やらについての得意げな祖述は論外としてもである。 いずれにせよ、マーラーの創作活動についても、遺されたマーラーの音楽についても、それらでは極めて不完全な記述しかできない。 だがだからといってそれに替わる新しい形式的語彙(おそらくは自然言語だけでは不十分だろう)が明らかなわけではない。他の音楽はいざ知らず、マーラーの場合に 限って言えば、それを「意識の音楽」と捉える限りにおいては今のところ裏付けとなる具体的な記述の枠組みを、現象論のレベルですら欠いているのだ。
だが多分、いずれの日にか意識自体のメカニズムが解明され、それに応じて「意識の音楽」についても具体的な記述を行うための準備ができるだろう。 まだ端緒についたばかりの意識研究やら、カオス力学系など、記述の枠組みやら語彙を提供してくれそうな研究分野が意識の問題に肉薄できるように なるにはまだしばらくの時間が必要だろう。それは100年先になるのかも知れない。従って今のところは100年前にヴァルターが(というかヴァルターの脳のメカニズムが)、 それ自体マーラーの交響曲の論理と恐らくは通じる仕方で「夢の論理」によって抽象し、変換して上掲のように書き残したものの方が 寧ろある側面の把握については「正確」でさえあるだろうけれども。 それは人間の意識・無意識の活動の産物であり、それの(ホワイトヘッド的な意味での)「享受」は、やはり人間の意識・無意識の活動なのだから、 その複雑で豊かな拡がりと深さを捉えるには、(これまた当時の自然科学や心理学に対して旺盛な関心を示したマーラー自身が恐らくは気づいていたように) 文化史的な定位や社会学的な機能(だが、それぞれ、いつ、どこにおいてのなのだろう?)、素材からマーラーが作り出したものをそっちのけに、ひたすら素材や 文脈をしか明らかにしない歴史的な探索、あるいはまた詩的であったり文学的であったりする修辞といったやり方だけでは不足していることを、 このヴァルターの夢は証しているように私には感じられる。
それにしてもマーラーの創作のエネルギーの巨大さ、振幅の激しさ、そのアウトプットの膨大さは驚くべきものだ。しかも彼の創作が軌道にのったのは40代になってからで、 その後僅かに10年間しか彼は生きていない。上記の記念論集の書かれた時期はもうその終わりにあるのだ。もっとも、愛娘を喪い、ウィーンを去り、 心臓に病を抱えていることは知っていたであろうが、まさか彼があと1年と生きられないとは彼自身は勿論、論集を寄稿した面々も思わなかっただろうが、、、
確かに40代というのは円熟の時期ではある。だが、彼は同時に指揮者としてのキャリアの頂点にあった。凡人の能くするところではないとはいえ、単純な 仕事の量だけから考えても、改めてどうしてこんなことが可能であったのかと呆然とするばかりである。しばしば不当な美化、神格化として近年では 疑いの念をもって見られることが多いようだが、「マーラー派」の面々が皆そろってそのように感じたように、確かにやはり彼は聖者であったに違いない。
そうして私のような平凡な市井の愛好家はよくよく注意しなくてはなるまい。まず、そのように感じた「マーラー派」の面々が、普通に考えれば本人達だって人並み 優れて有能な人達だったことを決して忘れてはならない。その一方で、偶像を破壊しようとする人達は彼ら自身がマーラーその人に直接会っているわけではないし、 彼らが「天才神話」を捏造したという嫌疑をかけている「マーラー派」の人びとが、マーラーが遺したものを護るべく(時と場合によっては文字通り生命を 賭して)闘って勝ち取った、まさにその余禄を食みつつそうしているのだということに。面白いことに彼らもまたほとんど一様に流行現象としてのマーラー受容に 眉を顰め、自分を別の場所に置きたがっているようだ。それがどこか私には正確に測ることができない一方で、それをする時間と労力を払う気にも私はなれないのだけれど。 では一体、彼らはマーラーの生の軌跡に、マーラーの遺した作品に何を見ているのだろう?しかもこうした構図はマーラーに限らず、どこでも繰り返されるもののようで、 それはミームの伝播過程に起きるかなり一般性の高い現象なのかも知れないのだが。
結局のところ私としては、自分がまだ子供の頃に出会った印象からも、今改めて壮年期の彼の年齢に近づきつつある我が身の無能と不毛を振り返っての 反省からも、どちらかと言えば「マーラー派」の印象の方に与したいという思いがますます強まっている。ヴァルターのような人にすら 上掲のような夢を見させる人、鋼鉄の意志と禁欲的なまでの勤勉さと無比の性格の強さを備えた人。多くの有能な人びとを 擁護のために立ち上がらせるだけの力を持った人格と作品の持ち主。そしてもう一度最初に戻って、隔たった時代と場所を超え、100年の歳月と地球半周の 距離という四次元量が惹き起こす座標の変換を経て、まずは事実としてこの私に届いた音楽を残した人。更にそうした四次元空間での距離をものともせず、 寧ろしばしばそれを忘れさせてしまうような力を備えた音楽を遺した人。そう、私にとって、それがマーラーなのだ。(2009.5.2 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)

2024年8月7日水曜日

ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書378番, p.410。1979年版のマルトナーによる英語版では375番, p.324, 1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では396番, p.360)
... Aber zu mir selbst zu kommen und meiner mir bewußt zu werden, könnte ich nur hier in der Einsamkeit. -- Denn seit jenem panischen Schrecken, dem ich damals verfiel, habe ich nichts anderes gesucht, als wegzusehen und wegzuhören. -- Sollte ich wieder zu meinem Selbst den Weg finden, so muß ich mich den Schrecknissen der Einsamkeit überliefern. Aber in Grunde genommen spreche ich doch nur in Rätseln, denn was in mir vorging und vorgeht, wissen Sie nicht; keinesfalls aber ist es jene hypochondrische Furcht von dem Tode, wie Sie vermuten. Daß ich sterben muß, habe ich schon vorher auch gewußt. -- Aber ohne daß ich Ihnen hier etwas zu erklären oder zu schildern versuche, wofür es vielleicht überhaupt keine Worte gibt, will ich Ihnen nur sagen, daß ich einfach mit einem Schlage alles an Klarheit und Beruhigung verloren habe, was ich mir je errungen; und daß ich vis-à-vis de rien stand und nun am Ende eines Lebens als Anfänger wieder gehen und stehen lernen muß. ...

(…)でも自分自身に立ち戻り、自分自身を意識すること、それは当地の孤独の中でしかかなわないことなのです。――というのも、当時陥ったあのパニック状態以来、私はひたすら目をそむけ、耳を塞ぐしかなかったのです。――ふたたび自分自身へ戻る道を見つけなければならないとすれば、孤独の恐ろしさに身を委ねるほかはないのです。しかし一体全体、私はまったくのところ謎めいた話し方ばかりしていますね。だって君は私の身に何が起こったのか、ご存じないのですから。想像しておられるような死に対するヒポコンデリー的な畏怖などでは、よもやありませんでした。自分が死ななければならないことなど、最初からわかっていることでしたから。――ともあれ、君にここで何か説明したり、語って聞かせたりするよりは、だってそんなことはいかなる言葉をもってしてもできっこないことだから、ただ一言こう申し上げておきたい、つまり私はただの一瞬にしてこれまでに戦い獲ってきたあらゆる明察と平静とを失ってしまったのです。そして私は無に直面して(ヴィ・ア・ヴィ・ド・リアン(訳文ルビママ))立ち、人生の終わりになっていまからふたたび初心者として歩行や起立を学ばねばならなくなったのです。(…) 

(引用者注: vis-à-vis de rienはフランス語。「ヴィザヴィドゥリヤン」とリエゾンをするのが普通だと思うが、上記引用は訳文のルビに従った。) 

丁度マーラーが「大地の歌」に取り組んでいる時期に、ヴァルターに宛てて書いた手紙の一部だが、これもまた、ヴァルターの「マーラー」伝を始めとして色々な ところで引用されてきた有名な部分であろう。この文章には、まさに「大地の歌」に結晶する「受容」の過程が、その傷の深さとともにはっきりと刻印されている。 「そんなことはとっくの前にわかっていたことだ」という言葉は、若き日のマーラーを思えばいつわりは微塵も含まれていないが、にも関わらず、その言い方には 逆説的にマーラーの蒙った傷の深さを窺い知ることができるように感じられて痛ましい。ウィーンの宮廷歌劇場に40歳にならずして君臨し、すでに第8交響曲までの 作品を書き上げた天才が、一からやり直さなければならない、と書いているのを見るのは信じ難くさえ思える。
と同時に、この手紙を読めば「大地の歌」が何を語っているのかについての手がかりを得ることができるのではないか。それは「受容」の過程の結晶なのだ。 「とっくの前にわかっていたこと」のために一からやり直さなければならないという状況を受容して、再び仕事を続けられるようになる過程の反映なのだと思う。
勿論、ある人の生と作品とは別のものだ。けれども、マーラーの場合に限って言えば、そして特に「大地の歌」に限って言えば、その区別を殊更に 強調するような主張には私は抵抗を感じる。私はやはり、「大地の歌」を聴けば、マーラーのこの手紙のような心のありようとその音楽がほとんど 不可分なまでに結びついているのを感ぜずにはいられない。どうしてそんな結びつきが可能なのか?それこそが、彼が天才であるゆえんなのだろう。 いずれにせよ、その結びつきの切実さと誠実さこそその音楽の魅力の不可欠な要因だと思うし、私の様な平凡な―だが、傷つくことに関してだけは 彼と変わることのない―人間にとって、それを聴くことが、ある時にはほとんど不可欠にさえ思えるような力を持っているのは確かなことなのだ。
それを「普遍性」といえば語の厳密な意味では正しくないことになるだろう。だが、もういいではないか、という気がしてならない。100年も後の、 こんなに離れたところに生きている、気質も能力も異なる人間に対してその音楽の持つ力は、「普遍的」とか「永遠の」とかいう形容詞を 色褪せさせる。そんな天空のどこかで真偽が確証されるような概念は、少なくとも彼の音楽を聴く私にとっては不要である。 まさに「大地の歌」はそうしたものへの告別ではなかろうか。(2007.6.9, 2024.8.7 訳文を追加。)

ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書381番, p.414。1979年版のマルトナーによる英語版では382番, p.329, 1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では404番, p.368)
... Ich durchlebe jetzt so unendlich viel (seit anderthalb Jahren), kann kaum darüber sprechen. Wie sollte ich die Darstellung einer solchen ungeheuren Krise versuchen! Ich sehe alles in einem so neuen Lichte -- bin so in Bewegung; ich würde mich manchmal gar nicht wundern, wenn ich plötzlich einen neuen Körper an mir bemerken würde. (Wie Faust in der letzten Szene.) Ich bin lebensdurstiger als je und finde die "Gewohnheit des Daseins" süßer als je. ...

(…)目下のところそれほど無限に多忙を極めているから(ここ一年半以来)、それについて話をする暇がとれません。このとてつもない危機的状況をなんと言い表したらいいか?一切がかくも新しい光の中にみえてきて――私はかくも活動のさなかにあるから、突如新たな肉体を得たと気づいてもなんら不思議に思わないかもしれません(さながら最終場面でのファウストのように)。今までになく生きることに飢え、「この世に生きているという当たり前のこと」が、かつてなく甘美なものに思われてきます。(…) 

一つ前の手紙の半年後にニューヨークから書かれた手紙。「大地の歌」と第9交響曲の間の時期に相当する。実は「大地の歌」の創作の時期については 異説があって意見の一致を見ていないようだ。もっとも一つ前の手紙が書かれていた1908年の時期がその只中であるのは確実のようではあるのだが。
この手紙の文中の1年半というのは、勿論、1907年夏の娘の死と、自分の病の宣告という出来事以来の期間を指している。 ここでは第8交響曲のファウストへの言及が印象的で、マーラーが「死の影の谷」を抜けたことを告げているように感じられる。 「大地の歌」の創作は、まさにその「受容」と「回復」の過程そのものだったに違いない。そして更に半年後には、マーラーは第9交響曲に向かうのである。 第9交響曲の第1楽章についてベルクの言った感動的な言葉と響きあうものが、引用した文章に感じ取れるように私には思えてならない。
それゆえ、例えば村井さんがその著書でこの手紙を引用する部分で、「「人生」と「芸術」との関係など、しょせんこの程度なのだ。」と述べているのを 読んだときには、全く驚いてしまった。なぜなら私は、まさにこの手紙にこそ、とりわけ晩年のマーラーならではの「人生」と「芸術」との密接な関係を 見出していたのだから。ベルクも言っているように、第9交響曲の第1楽章は、この手紙で告げられている「回復」の、生きることへの意志の表現でなくて なんだというのだろう。村井説のように、音楽が表現しているものの方を「通説」(「死が私に語ること」式の死のイメージの表現なり、「死との対決」という プログラム)に縛り付けたままにしておきながら、それを利用して「人生」と「芸術」との分離の方を強調してしまうのには、私は強い違和感を感じずには いられない。音楽とそれによって表現されるものの関係を単純化してしまうから、分離が結論されてしまうのではなかろうか。
私は精神分析の専門家でも、文学や音楽の専門家でもないので間違っているかも知れないが、まずもって「死の受容」のようなプロセスが、 そんなに一直線の単純なものであるとは限らないように感じられてならない。個人差もあるだろうが、ニューヨークで指揮をしている時には このように書いても、半年後に再び孤独に戻った時に、再度、そのプロセスを―ただし、今度は、もはや「回復」した人間がとりうる距離感を 保ちつつ―反芻するようなことはありえないのだろうか? そしてもう一度、第9交響曲はそうしたマーラーの心理的な状態と無関係ではなく、 例えば、自分が「かつて」経験したことを、まるで他人事のように客観的に「芸術作品」の内容として「表現」するといったような、他の作曲家であれば もしかしたらあり得たかも知れないような(無)関係ではなく、もう少し微妙な繋がりを持っているように感じられてならないのである。
単純な伝記主義は、「人生」における外面的な事件に「芸術」を還元してしまいがちで、これはあまりにも粗雑だろう。また例えば職業的な作曲家、 しかもずっと昔の、音楽の機能がマーラーの時代とは異なっていた時代の職業的作曲家であれば、「人生」と「芸術」とを分離すべきなのは もっともだ。だがマーラーの場合には「標題」の問題を見直す必要があるのと同様、「人生」と「芸術」との関係もまた見直す必要があるとはいえ、それでもなお、 その音楽はマーラーその人の「心」と深く個性的な結びつきをもっていて、それゆえ聴き手の「心」に強く訴えるのだと私は思う。勿論、 作品ごとにその結びつきの具体的なありさまは微妙に異なるだろう。「大地の歌」と第9交響曲を一緒に扱うことはできないだろう。だが、 「大地の歌」に比べて第9交響曲がより個人的でない、などということは言えないと思う。寧ろ、(この点では村井さんの言い方に同感なのだが) 「個人的であるがゆえに超個人的な、普遍的な作品」なのだろう。もっとも、この言い方は正鵠を射ているとは思うが、このままでは些か レトリカルで、どうしてそのようなことが可能なのかについての説明こそが必要なのではないかという気がするし、他の部分での 「人生」と「芸術」との関係の説明と、矛盾こそしないが、説得力のある仕方では噛み合っていないように感じられるが。
私個人のことを言えば、第9交響曲の第1楽章のあるタイプの演奏を聴くと、まるでマーラーが周囲に広がる風景を享受するその様態そのものが、 自分の心の中に沁み込んで来るように思われることがある。風景ではなく、風景を味わう意識の状態が感じ取れるように思えるのだ。 「感受の伝達」の直接性において、音楽ははるかに言葉にまさっている。だが、それだけではない。音楽は生の経験の不完全な、色褪せた コピーには留まらない。マーラーはこの曲を書くことを通して、風景を享受する仕方を産み出したのだ。(勿論、音楽だけではなく、言葉もまた そうした産出に、別の仕方ではあるが関わることができるだろうが。)それは彼の経験に根ざしているけれど、 同時にその経験を超えてもいる。「人生」と「芸術」との関係は、やはり(他の場合はいざ知らず、マーラーの場合には)もっとずっと 微妙なものに思えてならない。
勿論、単なる思い込みだと言われてしまえばそれまでではあるが、でも私にとってマーラーの音楽は、そういう類の音楽なのだ。(2007.6.11, 2024.8.7 邦訳を追加。)

2024年8月4日日曜日

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの指揮者としての仕事ぶりについての回想

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの指揮者としての仕事ぶりについての回想(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.23, 邦訳pp.27,28)
(...) Beweßte Belehrung erteilte er mir also fast niemals - aber was ich durch das Erlebnis dieses Wesens, das sich absichtlos, aus innerer Überfülle, in Wort und Musik ergoß, an tiefer Belehrung und Erziehung gewann, ist unmeßbar. Aus der impulsiv ausbrechenden Art Mahlers erklärt sich vielleicht die Erregung, die ich bei fast allen Menschen, die mit ihm zu tun hatten, einschließlich der ihm Nächsten, besonders natürlich bei Sängern und Orchestermusikern, im Verkehr mit ihm beobachten konnte. (...) Haß und Erbitterung auf der Seite mancher schwächer Begabten oder Anmaßenden, die sich von dem Unerbittlichen mißhandelt fühlten, gab es auch aber wollend oder widerstrebend fügten sich alle seinem Willen.

 (…)かれは私に意識的教訓こそ与えたことはなかったが、私がかれの個性から、又かれの経験から把握した教訓は、考えようとしなくても、言葉や音楽のうちにおのずから現れていて、それはまったく量り知れぬほどである。マーラーが一時的衝動にかられて、感情を爆発させたことは、すこしでもかれと接触をもった人、それはかれの近親の者はもちろんのこと、特に歌手や管弦楽員が多かったが、そのだれしも認めるところである。(…)この厳格な教師から虐待されたと感じた、いわゆる才能なきうぬぼれの強い人間からは馬頭され、嫌悪された。しかし、かれに好意をもつ者ももたぬ者も、結局はかれの意志力に服従せざるを得なかったのである。

マーラーの指揮者としての仕事ぶりについてはさまざまな証言が残っているが、その中には一緒に仕事をする人間に対する厳格で、時折過酷ですら ある態度に関するものも数多く含まれる。上記のヴァルターによる証言は、マーラーを擁護する立場から書かれているから、マーラーの態度を不当である と糾弾しているわけではないが、マーラーに関して好意的に思わない人間が幾らでもいそうなことは、この文章からでも容易に読み取れるだろう。 勿論時代的なファクターもあって、今日では通用しないようなやり方もマーラーの時代にはごくありふれた風景であったかも知れないし、マーラーの場合には とりわけユダヤ人であることに起因するバイアスがあることもまた確実だ。だがそれでもなお、マーラーが時としてかなり問題のあるやり方をしたらしいことは、 様々な証言が伝えている通りである。
マーラーが歌劇場の監督として、指揮者として達成したものの評価については概ね高い評価が為されているが、そのことを勘案してもなお、その達成の 背後にある「職場」での人間的な軋轢、葛藤の類が帳消しにされることはない。それを「一将功成りて万骨枯る」式に否定的に受け止める見方だって あるだろうし、逆にそれが達成したものの価値の否定に繋がれば、それには違和感を感じはしても、基本的に共同作業である歌劇の上演やコンサートでの 演奏がマーラー一人で達成されたわけではないのは当然のことであって、事実としてその達成を支えた人の全てが記憶されているわけではないからには、 「一将功成りて万骨枯る」にも一定の正当性があると言わざるを得ないだろう。この点については今日の、もっとありふれた別の種類の組織でも風景は 変わることがないに違いない。マーラーみたいなタイプは程度の差はあれ、いつでも、どこにでもいて、毀誉褒貶が半ばすることもまた同じなのだ。 何かを達成することが要求されている組織にとっては必要悪だという言い方もできるかも知れない。
マーラーは欠点が多い人間であったというべきだろうし、少なくとも円満でバランスの取れた人間ではなかったのは確かなようだ。そしてその欠点が 時として致命的なまでに対人関係を損ない、組織としての成果の達成の妨げになったことだってあるだろう。勝率10割は、どんな領域においても 不可能だし、あげつらおうと思えば、どんな達成に対してだって瑕疵を見つけて批判することは可能だろう。その点でマーラーは恐らく、その巨大な才能に 見合う程度には支持者、擁護者にも恵まれていた。例えば別のところ(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.111, 邦訳p.203)でヴァルターが 以下のように述べているのは印象的である。見た目は控えめな擁護だが、自分の力量と価値をきちんと把握していたに違いない、にも関わらず、 時折自分の感情や振舞いをコントロールできなかった、有能でありながら欠陥ある職業人であったマーラーにとって、このように後世に伝えてもらえることは この上ない、恐らく最大の賛辞に匹敵するのではなかろうか。(2008.11.16, 2024.8.4 邦訳を追加)
 
(...) der im Herzen Gütige konnte hart und beißend, heftig und jähzornig, kalt und abweisend sein; aufrichtig war er jedenfalls immer. (...)

(…)かれの心は温情にみちあふれていたが、かれは厳しく、鋭く、非妥協的で短気、冷たくて不愛想であることができた。しかしつねに誠意は失わなかった。(…)


ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想(原書1981年Noetzel Taschenbuch版pp.17,18, 邦訳pp.14,15)
(...) Und da stand er nun in Person in der Theaterkanzlei, als ich von meinem Antrittsbesuch bei Pollini heraustrat: bleich, mager, klein von Gestalt, länglichen Gesichts, die steile Stirn von tiefschwarzem Haar umrahmt, bedeutende Augen hinter Brillengläsern, Furchen des Leides und des Humors im Antlitz, das, während er mit einem anderen sprach, den erstaunlichsten Wechsel des Ausdrucks zeigte, eine gerade so interessente, dämonische, einschüchternde Inkarnation des Kapellmeisters Kreisler, wie sie sich der jugendliche Leser E. Th. A. Hoffmannscher Phantasien nur vorstellen konnte; er fragte mich freundlich-gütig nach meinen musikalischen Fähigkeiten und Kenntnissen - was ich zu seiner sichtlichen Befriedigung mit einer Mischung von Schüchternheit und Selbstgefühl erwiderte - und ließ mich in einer Art Betäubung und Erschütterung zurück. Denn meine bischerigen, im bürgerlichen Milieu entstandenen Erfahrungen hatten mich gelehrt, daß man dem Genie nur in Büchern und Noten, im Genuß der Musik und des Schauspiels, in den Kunstschättern sei. (...)

(…)私が、はじめてポリニイを訪問して、かれの私室を去ろうとしたとき、マーラーは、劇場の事務室にいた。やせ青ざめ、やや長面の小柄なからだつき、濃い黒髪で縁どられた切れあがった額、眼鏡の奥に輝く特徴あるまなざし、人と語る場合にいちじるしい表情の変化をみせる顔に表われた懐しさとユーモアの線――それはホフマンの幻想的な物語を愛読する若い読者なら想像に浮かぶ、興味深い、超人的で、威圧的な人物である、あの、劇場主クライスラーに生き写しであった。マーラーは、快く、また親切に、私の楽才や音楽上の知識に関して尋ねてくれた。――それに対して、私は、かれが満足の意を表するまで、羞恥心と自負心との入り混じった気持ちで答えた。――その間、私は、一種の恍惚と深い感動にひたっていた。というのは、私がせまい家庭なかで得た経験では、天才は、書物の中で、音楽の文献の中で、また音楽や劇の鑑賞の中で、また博物館の芸術品の中でのみ発見しうるものであって(…)

この文章の特に冒頭部分、即ち、ヴァルターがマーラーその人と初めて知己を得た際の印象は様々な文献に引かれていて著名なものであろう。 別のところでも述べたとおり、ヴァルターの「マーラー」がマーラーを直接知る自身もまた高名な指揮者の証言として大きな影響力を持っているのは疑いない。 そしてその結果、流布するマーラー像の形成に良かれ悪しかれ寄与するところの大きいことも否定できないだろう。同様なことは、事実関係に関して 不正確であることで評判の悪いアルマの回想にも、シェーンベルクのマーラーに関する発言にも言えることで、彼らがマーラーを「殉教者」「聖人」に仕立てたように、 ヴァルターもマーラーを「天才」と呼んで、「伝説」の構築に寄与したのだ、という見方もあるだろう。アルマの回想についてその後為された事実関係の検証が ヴァルターの回想に対して為されているのかは寡聞にして知らないが、事実は闇の中で「定説」のみが跋扈するということになっていないかどうかについて 疑いを持つ人がいてもおかしくはない。更に言えば証言者同士も全く没交渉であるわけではなく、マーラーの場合でも例えばヴァルターとアルマとの関係が、 それぞれの相手についての記述に微妙な陰影を投げかけているのは間違いがないことだろう。ヴァルターとクレンペラーの関係しかり、アルマとシュトラウス夫妻、 あるいはアルマとアンナ・フォン・ミルデンブルクやナターリエ・バウアー=レヒナーとの関係しかりである。
だが、だからといってマーラーは聖人ではないし、天才ではない、マーラーの歌劇場指揮者としての功績はマーラーが一人で達成したのではないし、 マーラーの遺した作品の価値は限定的なものだ、天才の作品も環境の産物に過ぎないといった主張、一見したところ非の打ち所のなさそうな 冷静なコメントに対して、留保も躊躇もなく賛成できるかということになると、私個人は必ずしもそうではないのである。現時点での私は、マーラーの人間に 対しても音楽に対しても、恐らくマーラーにぞっこんであった若き日のヴァルターほどの思い入れはない。寧ろ否定し難い矛盾に当惑し、あるいは もっと言えば、どうしてこんな人間、こんな音楽に熱中してしまったのか、「他ならぬ」この人と音楽で他ではありえなかったのか、という(これは専ら私個人の) 疑問を解こうとしているに近い。天才、英雄、聖人、ヒーロー、その他何でも結構だが、どんな人間でも矛盾はあるし、欠点もあるだろう。否、もっと正確に 言えば、ある状況下では稀有な資質と見えるものが、別の状況では致命的な欠陥になることだってありうるだろう。勿論、気が合う、合わないのレベルについては 言を俟たない。
それでは、ヴァルターがマーラーに会った時に感じた「これが天才なのだ」という感じ方は、主観的なものであるとして否定されるべきなのか?それは「事実」 ではないのか?実はヴァルター自身はこの点については極めて自覚的で、序文においてきちんと予防線をはっていて、自分が本文で書く主題の持つ限界や 制限について目配せを怠っていない。無論のこと「事実」は大切で、あったことをなかったことにするような詭弁としての歴史修正主義は論外であろう。 意図しない勘違いや書き間違いについては、「事実」を問題にする限り質されるべきであろう。私は歴史学者でもなければ、伝記作者でもない。 世上、ノン・フィクション作家と呼ばれるような(あるいはそのように自己規定される)方々の立場とも接点はないが、そんな私でも、 上記の如き際立って主観的で私的な疑問を解決するために、「事実」を欲するのである。その音楽を繰り返し聴き、楽譜を読み、 あるいは様々な文献にあたって色々な時代の色々な人たちがマーラーについて語り、書いたものを(所詮は自分に与えられた限定された時間で 可能な範囲でに過ぎないが)渉猟するのは、「事実」が知りたいからなのだろう。だが、そうした渉猟の結果は、逆説的にも展望の多様性の認識であり、 そして自分にとって親和的であるようなある展望にたったとき、やはりマーラーは「天才」だったし、 「聖人」「殉教者」「英雄」「ヒーロー」等々と呼ぶに相応しいといわざるを得ない、ということだった。もはやアイドルではないにしても、そしてそうした規定を 否定する意見の存在と正当性を認めた上で、私個人としては、そうしたマーラーの捉え方を否定したいとは思わないのである。
世上、ノンフィクション作家と呼ばれ、あるいは自己規定する方々には、虚像を剥ぎ、偶像破壊をする(と自ら考えている)ことに熱心な方がいらっしゃるようで、 自ら「事実」と呼ぶものをもって他人の立場を断罪するようなことが行われることもあるらしい、というのを最近、マーラーとは全く別の 出来事を調べている時に知った。マーラーとは直接関係のない話でもあり、ここではこれ以上は書かないが、そうした文章を目にして思ったのが、 「天才作曲家」「大指揮者」「名監督」マーラーについても、きっと同じことを言う人はいるのだろうな、ということだったのだ。
そう、マーラーに関しても事情は変わるところはない。私はヴァルターがマーラーから受けた印象を(たとえ事実関係に多少の瑕疵があったことがわかった場合でも) 「真実」を含むものとして捉えたいと思うし、ヴァルターがマーラーについての回想を(自分自身の回想とは別に)書こうと考えた動機に、やはり書かずにいられない 衝動があったのだと考えたい。(勿論、幾らでも「不純な動機」を推測することは可能だろうが、この場合、それは文字通り「下衆の勘繰り」だと私には感じられる。 余技として回想を書いているヴァルターとノン・フィクション作家を生業とし、「真実」を語り、偶像破壊をすることによって糧を得ている場合と比較してみれば 良いだろうし、何よりもヴァルターが書いた文章を読んで、それが「何が言いたくて書かれたものなのか」がわからないということは、私個人にはなかった。) 否、例えばマーラーがいなければ当時の歌劇場の上演水準はどのようなものになっていたか、 マーラーがいなければ昨今のシンフォニーコンサートのプログラムやCD,DVDなどの商品企画がどうなっていたかといった 側面に限定しても、風景が随分と異なったものになったに違いないことは容易に想像がつく。勿論仮に、そうした側面を超えた価値を問題にしたとしたところで、 それがマーラーが歌劇場やオーケストラのプローべでやった 批難さるべき行為を帳消しにすることはないし、マーラーの持っていた欠点、マーラーが周囲の人間に与えた傷を無にすることもないが、だからといって、 逆にそのことをもってマーラーが成し遂げたこと、彼がいなければ成し遂げられなかったものを否定するのもまた、控えめに言っても同程度には不当なことだろう。
要するに、英雄やヒーローが虚構されたものであるという言い方には一定の真実が含まれているのは確かであっても、だからといって、ある人がその地位や 立場にあって成し遂げたことを「一将功成りて万骨枯る」式の言辞によって否定するのも極端であるように思われるのだ。確かにマーラーが歌劇場で達成した 業績はマーラーだけの力で達成できたわけではない。だが、一方でマーラーが自己の能力と気質によって達成したことを毀貶するのは、私には耐え難いことに 感じられる。それを当事者でもない人間が「一将功成りて万骨枯る」として一刀両断にするなど、私には絶対にできない。ましてや様々な資料から、マーラーが 容易くその成功を掴めたわけないことを知り、そして最後には敗残者のように去らなくてはならなかったことを知り、別のところで紹介した職場への告別の辞を マーラーが遺したことを知り、その告別の辞が辿った運命を知っていれば尚更のことである。 クリムトが1907年12月はじめにウィーンを去るマーラーを見送った後に言ったとされるVorbeiという言葉は、マーラーをある時代の象徴、ある価値の 体現者と見做す姿勢から発せられたと受け止められているようだが、その真偽はおいて(そう、もしお望みなら疑ってみても結構である。この場合には 「言った」というのが「定説」だろうが、所詮は伝聞なのだから厳密には真相は闇の中に違いない)、それが偶像視なのか?それが虚像だというのだろうか?ある時は マーラーをもて囃し、褒めちぎり、別の時には手のひらを返したように攻撃したジャーナリズムの世界の人間たちに対してならば、自身も論陣を張った カール・クラウスに従って、「英雄」「偉人」の捏造の廉で告発することも不当ではなかろう。だが、クリムトの言葉の背後にある衝動と、カール・クラウスが批判する 類の新聞記事の背後にある衝動とを同一視することはできまい。
「ヒーローなどいない」「英雄は不要だ」という言い方はそれ自体大変に口当たりが良い ものだが、揚げ足取りになるかも知れなくとも、実際にはヒーロー、英雄は、ある価値観の展望下では間違いなく存在するのだ。「自分はヒーローなどではない」、 「自分は英雄ではない」「ヒーローは別にいる」という当事者の発言は尊重されるべきだし、自身が事実関係を明らかにする証人になることも ありえるだろう。仮にそうでなくても、そうした発言は発言者の価値観の発露であり、さらには発言した当事者の品位を証することはあるだろうが、 一方で、出来事に大したコミットもしていない人間が「ヒーローなどいない」「英雄は不要だ」といった発言をすることは、それはそれで「真実」からの背馳を 齎さないか、私には疑問に感じられてならない。ある人間を「聖人」や「天才」として描き出すことが、事実との乖離を招く危険があることは否定しないが、 だが少なくともそこには書くものの対象に対する敬意と、自分の経験に対する誠実さが存在する。それは書き手自身が持っている価値に対する信頼の 表明でもあるだろう。ヴァルターがマーラーを描くケースはまさにそうだと私には感じられる。あるいはブラウコップフの評伝にしても、ラ・グランジュの膨大な伝記に しても、否、あれほど問題があるといわれているアルマの回想にしても、私には書き遺すことへの衝動と、マーラーの価値に対する揺ぎ無い信頼を感じる。 でなければ、それに一生を費やすことなどできようか。勿論のこと、「真実」と「虚偽」の境を曖昧にすることは厳に慎むべきだが、その上でなお、視点の、 展望の多様性、相違はあるだろう。もし読み手がそれを知りたければ、様々な証言を突き合わせる作業を自分でやれば良いのだ。 それは最早どれが「真実」かを断じるための営みではない。対象がマーラーであれば、マーラーという人間の多様な側面に触れ、価値の多様性の中に、 そのようなマーラーに拘り続ける自分の価値を位置づけるための営みではなかろうか。
では、マーラーが自分の価値と共存し得ない存在であったときにはどうすればいいのか、という問いは論理的には可能かも知れないが、現実には極端な状況で なければ立てる必要のない問いだろう。私が知りうることが世界の多様性からすれば取るに足らない断片に過ぎないのは、始めから明らかなことだ。 フレーム問題にぶつかったロボットではないのだから、自分にとって大した価値を持ちそうにない対象と取り上げては「これは気に入らない」という作業を繰り返す 必要などありはしない。肯定的抱握が生じて、ある永遠的客体が進入することは、それ以外に対する否定であるというのは論理的には正しいかも知れないが、 それでも否定的抱握が生じているわけではない。私には偶像破壊や虚像の剥ぎ取りなどをやっている時間は遺されていないようだ。だから私としては ロラン・バルトの、Il ne nie jamais rien : « Je détournerai mon regard, ce sera désormais ma seule négation. »という言葉に共感を覚えるのである。(2008.7.19, 2024.8.4 邦訳を追記。)

2024年7月12日金曜日

ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書383番, p.419。1979年版のマルトナーによる英語版では407番, p.346。1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では429番, pp.390-1)
... Ich brachte vorgestern hier meine Erste ! Wie es scheint, ohne besondere Resonanz. Dagegen war ich mit diesem Jugendwurf recht zufrieden. Sonderbar geht es mir mit allen diesen Werken, wenn ich sie dirigiere. Es kristallisiert sich eine brennend schmerzliche Empfindung : Was ist das für eine Welt, welche solche Klänge und Gestalten als Wiederbild auswirft ! So was wie der Trauermarsch und der darauf ausbrechende Sturm scheint mir wie eine brennende Anklage an den Schöpfer. Und in jedem neuen Werk von mir (wenigstens bis zu einer gewissen Periode) erhebt sich dieser Ruf von neuem : "Daß du ihr Vater nicht, daß du ihr Zar"

…おとといはここで私の《第一》をやりました。みたところ、さしたる反応なし。それにひきかえ私はこの若書きに心から満足しました。こうした作品はどれも、指揮するといつでも、妙な気分になる。燃えるような痛切な感情を結晶化している。すなわち、こんな響きと形姿を鏡像として投げかけるとは、これはいったいなんという世界なのか。葬送行進曲とそにつづいて勃発する嵐のようなものが、私には、あたかも造物主への嘆願のような立ち現れてくるのです。そして私が新作を作るたびごとに(少なくともある時期までは)この嘆願の叫びが毎回沸き起こるのです――「汝は彼らの父に非ず、汝は彼らの暴君なり!」  

この一節は、最後のミッキェヴィチの「葬礼」のリーピナーによる独訳の引用により有名かもしれない。 言うまでも無くリーピナーはマーラーの友人であり、とりわけアルマと結婚する以前のマーラーへの影響は大きかったと言われている。 「葬礼」は最終的に第2交響曲第1楽章となった交響曲ハ短調の第1楽章が一時とった形態である交響詩のタイトルである。 従って、この文章は第2交響曲の「葬礼」が第1交響曲のフィナーレで倒れた英雄の葬礼であるという標題的な解釈の裏づけとして意味を持つわけである。 (ちなみに、あれほどリーピナーを嫌っていたアルマが、この引用についてはちゃんと注をつけているのは興味深い。もっとも「回想と手紙」でも、 この翻訳だけはその価値を認めていたようなので、首尾一貫した評価なのだろうが。 ―邦訳では「慰霊祭」(酒田訳, p.37)「祖先の祭」(石井訳, p.51)となっているので注意。)
だが、それよりも私はこの文章を読んだ時に寧ろ、晩年のマーラーが自分の若き日の作品を改めて指揮した際に、 その若き日の衝動をなおも我が事として見出すことが出来たことや、この不遇な作品―少なくともマーラーその人は、 自ら指揮したその演奏がまたしても聴衆に理解されなかったと感じていることは、文章から読み取れる―に対する愛着に感動したことを覚えている。 当たり前の事だと思われるだろうか? 私にはそうは思えない。20年も前の作品なのだ。 この書簡が書かれた日付を見るに、この時分にマーラーが取り組んでいたのは第9交響曲なのである。 感じ方は人それぞれとは思うが、いずれにせよ「あれは若書きで」などとは言わないところが如何にもマーラーであると私は思う。 (そういう弁解が必要な作品は、彼は公開しなかったのだが。)いずれにせよ第1交響曲がマーラーにとってどんなに大事な作品であったか、 そしてあのフィナーレを聴く者が受け止めなくてはならないものの重みを感じずにはいられない。 個人的な経験になるが、私がバルビローリの第1交響曲の録音を聴いたときに、ふとこの書簡の言葉を思い出したのをはっきりと記憶している。
ちなみに、この後に続く文章は、芸術と実生活の関係について書かれていて、これはこれで興味深いものがあるが、 別に扱うだけの内容があると思われるので、別項を立てて扱うことにしたい。(2007.5.15, 2024.7.10 邦訳を追加。)

2024年5月12日日曜日

備忘:変形(ヴァリアンテ)の技法とゲーテの「原植物」とを巡る語録と証言について

 マーラーの「再現」の恐ろしさは、それが聴き手にもたらす、時としてそれ自体がトラウマになりそうな程強い情緒的なバイアスに由来する。「決定的な瞬間」においては、相転移が生じ、最早、それは単なる繰り返しとしての再現ではないこと、寧ろ、もはや元のようではない、音楽がもう引き返せないところまで来てしまったということを告げているが故にそうした強烈な情緒的な負荷が生じるのではなかろうか。

 こうしたメカニズムを支えている技術的な要素として、アドルノが指摘する「ヴァリアンテ(変形)」の技法が挙げられる。変形の技法によって、モティーフ、素材の持つ意味、引用の意義は変わる。それはライトモティーフではないし、同じモティーフの単なる反復でもない。アドルノはヴァリアンテの技法と時間性との関わりについて、以下のように述べている。
「彼のヴァリアンテは、時間を静止させるのではなく、時間によって生成し、さらにまた二度と同じ流れに乗ることはできないということの結果として、時間を生産するのだ。マーラーの持続は力動的である。彼の時間の展開のまったく異質なところは、物まねの同一性に仮面をかぶせるのではなく、伝統的な主観的力動性の中になお一種の物的なもの、つまりは以前に措定されたものとそこから生じたものとの間にある硬化した対照性を感じ取ることによって、時間に内側から身を任せることにある。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.128)
 彼の「再現」が文字通りの「反復」ではなく、「ヴァリアンテ」がもたらす対照性の効果によって、それが二度と戻ることのない過去に「かつてあった」ことがあり、今やそこから遥かに時間が経過したという決定的な感じを与えることで聴き手を震撼させ、戦慄させ、軽い恐慌状態にすら至らしめるということは言えるのではないか。

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 子供の頃の私が生態学の中でも特に植物生態学に惹かれた(住んでいた地方都市の書店で入手することのできた『オダム生態学』(水野寿彦訳, 築地書館)とオダムの『生態学の基礎(上・下)』(三島次郎訳, 培風館)はその頃の私のバイブルだった)原因の一つは、当時の私にとってのアイドルであったマーラーやヴェーベルンに影響を与えたゲーテの植物論だった。特に彼の「原植物」という発想の影響は明瞭で、彼らの作曲技法にもその反映が見られる。

 そのことに関連して、藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス, 2022)に、ベンヤミンのVarianteへの言及が含まれることを書き留めておくべきだろう。登場するのはブロースフェルトの『芸術の原形』を取り上げた第4章の、「ベンヤミンの評価」と題された節(同書, p.85以降)。ヴァリアンテに対する言及は更にその中で、ベンヤミンが1929年に書いた書評「花についての新刊」の内容を紹介する中で、書評の一部を引用するところ。 
藤原辰史『植物考』,生きのびるブックス, 2022, p.87
(…)つまり、植物の拡大写真は、「創造的なものの最も深い、最も究めがたい形のひとつ」に触れる。この場合、「形」というのは、さまざまなものが変形する以前のプロトタイプのようなものだ。ベンヤミンはこんなことを言っている。
この形を、大胆な推測をもって、女性的で植物的な生原理それ自身、と呼ぶことが許されてほしいものだ。この異形は、譲歩であり、賛同であり、しなかやなものであり、終わりを知らぬものであり、利口なものであり、偏在するものである。
 この場合、異形とはVariateで、原形をずらしたり、改変したり、変形したりしたもののことである。自然のものとしてこの世に存在する植物の形に、人間の作ったトーテムポールや、建築物の柱や、踊り子の動きを見ることができるのは、植物の「創造」の原理が、超越者の「発明」ではなく、なんらかの真似や譲歩や賛同を通じて「変化」していくという中心なき移ろいのようなものだからである、とベンヤミンは考えているようだ。
 上記のような『植物考』での指摘を踏まえれば、アドルノがマーラーについてのモノグラフで指摘している作曲技法としてのVarianteの手法は、ベンヤミンのそれと概念的にも明らかな共通点があり、無関係ではないのだろうと思う。私はベンヤミンは不勉強で、自分の興味があるテーマについて書かれた論考を摘まみ食いしているだけで全く疎いで、この点を実証的に裏付けることは手に負えかねるのだが。と同時に、このベンヤミンの「異形=ヴァリアンテ」という捉え方には、『植物考』においても当然参照されているゲーテの「原植物」との発想上のアナロジーを感じずにはいられない。(但し『植物考』でゲーテが参照されるのは、第7章 葉についてであり、これはゲーテが植物の原型を葉であると考えたことに基づいている。)

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 藤原辰史『植物考』の上で参照した部分を読んで、マーラーが、反復の忌避に関連させてゲーテの「原植物」について、シェーンベルクとその弟子達に語っているという証言をどこかで読んだように記憶しているのを思い出した。だが、どこで読んだのかが思い出せないため、マーラーが反復の忌避について語っている箇所、およびゲーテの「原植物」について言及している箇所を手元にある資料の上で跡付けてみることにした。

 当然そこにあるだろうと思って、まず最初にアルマの『回想と手紙』にあたったのが、豈図らんや、回想部分のエピソードにも書簡にもそれらしい記述を見出すことができなかったので、シェーンベルクとその弟子達に語った言葉だという前提なら、それが扱っている時期の点から対象外になるのだが、記憶が混乱している可能性も考慮して、マーラー自身の言葉の記録という点では最も充実し、信頼もおけるものである(それ故に「マーラーのエッカーマン」と言われているというゲーテ繋がりからという訳でもないが)ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想を参照すると、以下のような言葉が記録されている。
ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』(高野茂訳, 音楽之友社, 1988)
p.162 : 純粋な書法
(…)植物の場合に、一人前の木として花を咲かせ、枝を幾重にも伸ばした木が、たった一枚だけの葉からなる原形から成長していくように、また人間の頭がひとつの脊椎骨にほかならないように、声楽の純粋な旋律性を支配している法則は、豊潤なオーケストラ曲の錯綜した声部組織にいたるまで、保持されなくてはならない。(…)
p.350:シューベルトについて 1900年7月13日
(…)あらゆる繰り返しというものは、もうそれだけで嘘なのだ!芸術作品は、生命と同じように、常に発展していかなくてはいけない。そうでないと、そこから虚偽と見せかけがはじまる。(…)
p.431第五交響曲に関するマーラーの話
(…)とくに、一度でも何かを繰り返してはならず、すべてが自発的に発展しなくてはならない、という僕の原理(…)

上記では、最初の「純粋な書法」の節が、ゲーテの「原植物」を最も強く示唆するだろうが(ゲーテの名前こそ明記されていないが、葉を原型であるという考えは、既述の通りまさにゲーテのそれであることに留意されたい)、そこでの話題は反復の忌避ではなく、他方で反復の忌避について語られた部分の方は「原植物」への言及を欠いている。そうは言っても反復の忌避と「原植物」とのいずれもが、後年、シェーンベルクのサークルとの交流があった時期から遥かに遡って、若き日よりマーラーが一貫して抱き続けてきた考え方であることは確認することができるだろう。

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 ついで、ヴァルターの回想をあたってみる。こちらはアリストテレスのエンテレケイアに関しての言及はあっても、或いはマーラーの読書の対象となった科学の哲学的研究の例として、フェヒナーの『ナナー植物の精神生活』への言及はあっても、そしてマーラーの「知的世界に輝いていた太陽」(ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)p.192)としてのゲーテへの言及はあり、「ゲーテから驚くほど広汎な知識を汲みとり、つねに引用し、実に際限なき強健な記憶力を示した」(ibid.)という証言はあっても、「原植物」についての個別的な言及は見いだせないようだが、その替りにヴァリアンテについては以下のような言及が見いだせる。冒頭述べたマーラーの「再現」の持つ力との繋がりに関しては、ヴァルターの証言は、それの結果を「美しさ」としている点に微妙なずれはあるにせよ、その存在を支持するものと言えるだろう。
ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)
p.148
しかし、マーラーの心を強くひいたのは、与えられた主題の変形と拡大、すなわち変奏曲の基底となる「種々の変形(ヴァリアンテ)」が展開の重要な要素であった。そして、この変奏技術は、その後のかれの交響曲にいっそ立派な形式となって表現されて、かれの再現部と終結部とに美しさを加えたのである。

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 上記以外では、マーラーの音楽の思想的な背景を渉猟した研究文献として、フローロスのモノグラフの第1巻、Gustav Mahler I , Die geistige Welt Gustav Mahlers in Systematischer Darstellung, Breitkopf & Härtel, 1977 が真っ先に思い浮かぶ。だが、一瞥した限りでは「原植物」そのものに関する言及には行き当らなかった。また新しい文献にもあたって書かれており、現時点において日本語で書かれたマーラーに関する評伝として最も浩瀚なものであり、膨大な情報量を持つ田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』(春秋社, 2009)の仔細を極めた索引においても、ゲーテの項目は立っていても、「原植物」を始めとするゲーテの自然科学的・自然哲学的著作そのものについての言及は見当たらない。
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 ということで、ここまでのところマーラーの側からの探索が手詰まりの状況なので、シェーンベルクとその弟子の側からのアプローチに切り替えることにする。とはいうものの、私がシェーンベルクのサークルのメンバーでその作品に網羅的に触れ、かつ多少なりとも文献に当たったことがあるのは唯一ヴェーベルンに限られるので、自ずとヴェーベルン関連の資料を当たることになる。ヴェーベルン自身のゲーテの「原植物」への言及としては、晩年、カンタータ第2番を作曲している時期に、ヴィリ・ライヒに宛てた書簡(1941年8月23日付)が有名だろう。これは竹内豊治編訳『アントン・ウェーベルン その音楽を享受するために』(法政大学出版局, 初版1974, 増補版1986、私が学生時代に入手して架蔵しているのは増補版の方)にも収められており、アドルノのヴェーベルン論やヴェーベルンの講演とともに読むことができるのだが、ここで問題にしているマーラーの言葉に関する限り、そのいずれにも「証言」にあたる記述は見つけることができない。

 結局、私が記憶していたのは、モルデンハウアーのヴェーベルン伝に収録されたヴェーベルンの日記の一部のようである。以下は、岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)に、著者自身による翻訳により引用された、その日記の該当箇所である(Moldenhauer, Anton von Webern: A Chronicle of his Life and Work, London, 1978 のpp.75-76)。見ての通り、第一義的には対位法に関する文脈であり、ヴァリアンテについてではないことに注意すべきだろう。だが、変奏に主題が移り、「展開」の仕方が問題となっているわけなのであるから、結論部分は結局、そういう話になるようにも読める。もっとも、マーラー自身は、「主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには」、旋律そのものの美しさが重要であると言っていて、ヴァリアンテの技法を持ち出しているわけではないが。
岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)
p.67 
シェーンベルクが、対位法の奥義を理解しているのはドイツ人だけだ、と述べたのがきっかけで、話は対位法へと向かった。マーラーは、ラモーなど、フランス・バロックの作曲家の存在を指摘し、一方、ドイツ圏では、バッハ、ブラームス、ヴァーグナーの名前を挙げるに留まった。「この問題に関しては、我々にとっての規範となるのは、自然だ。自然界においては、宇宙全体が、原始的細胞から、植物、動物、人間、そして、超越的な存在である神へと発展して行く。同様に、音楽においても、大きな構造は、これから生まれるべきもの全ての胚芽を包含する単一のモティーフから発展すべきだ。」ベートーヴェンにおいては、ほとんどいつでも、展開部において、新たなモティーフが現れる、と彼は言った。しかしながら、展開部全体は、単一のモティーフにより構成されるべきである。したがって、この点から言えば、ベートーヴェンは対位法の名手とは言い難い。さらに、変奏は、音楽作品において、最も重要な要素であるとも彼は述べた。主題は、シューベルトにおいて見い出されるように、真に特別な美しさを持つものでなければならない。主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには、それが必要なのだ。彼にとっては、モーツァルトの弦楽四重奏曲は、提示部の二重線で終わりだ、という。現代の創造的音楽家の使命は、バッハの対位法の技術とハイドンやモーツァルトの旋律性を一体化させることなのだ。
だが、それよりも重要な点は、ヴェーベルンの証言するマーラーの言葉には、ゲーテの「原植物」についての直接の言及がないことだろう。寧ろそこで語られるのは、マーラーが第3交響曲を構想した時に念頭に置いたことが、その標題のプランから強く示唆される、当時流行した自然哲学的な進化論的なイメージであったようだ。そして上記のマーラーの言葉を、ヴェーベルンの「原植物」(以下の引用文では「根源植物」)と結び付けているのは、実際には著者の岡部さんなのであった。
一方、再度、マーラーについての日記への記述に目を向ける時、今一つ、我々の目を引くのは、この大音楽家の「宇宙は単一の原始的細胞から発展し、構築される」という発言にヴェーベルンが強く魅かれていたと考えられることが。これは、後年、ヴェーベルンが繰り返し言及したゲーテの「根源植物」の概念をも想起させるものではあるまいか。(同書, p.68)
*     *     *

 ところでマーラーが愛読し、影響を受けたと思われる植物に関する研究や考察としては、ゲーテだけではなく、フェヒナーの名を挙げなければ片手落ちの誹りを免れまい。しかも上で確認できたヴェーベルンが証言するマーラーの言葉に出てくるた自然哲学的な進化論的なイメージは、アルマやヴァルターの証言でマーラーが愛読していたことが知られているフェヒナーの思想に由来する可能性が高いようだ。実は、上では触れなかったが、フローロスのモノグラフの第1巻でもフェヒナーについては大きく取り上げられているし、田代櫂さんの評伝でも、ヴァルターが言及するゲーテの「モナド不滅説」を媒介にして、「指揮台の哲学者」という一節(p.153以降)において、マーラーが愛読した、フェヒナーを始めとする「自然科学的観念論者」についての紹介がある。であってみれば、ここでフェヒナーとマーラーとの関わりについてお浚いをすべきところであろうが、これは質・量ともに別に稿を立てて論じるべきテーマであろうし、今日の植物学の視点からマーラーの「ヴァリアンテ」を捉えなおそうとするならば、『植物考』でも参照されているマンクーゾのような立場の先駆としてフェヒナーを位置づけるといった作業が基礎工事として必要となるだろう。実際、マンクーゾとヴィオラの共著『植物は<知性>をもっている』(久保耕司訳, NHK出版, 2015)では、植物が「一般に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信している科学者」(同書, p.14)の一人として、ダーウィンの名前とともにフェヒナーの名前が挙げられているし、「どんな時代にも天才といわれる人々のなかには、植物に知性があるという説を支持する者がいた」(同書, p.20)例として再びフェヒナーの名前が挙げられているのを確認することができる。一方でマンクーゾが参照する文脈においては「知性」が問題になっているから、形態学的・発生学的なゲーテの「原植物」とは視点が異なり、それゆえゲーテの名前は登場しないのだろう。ここではマーラー自身が言及したゲーテの「原植物」と、ベンヤミンの「ヴァリアント」を介したアドルノの「変形の技法」の繋がりの指摘に留め、マーラーとフェヒナーとの関わりについては後日を期することとして、一旦この稿を閉じたい。

(2024.5.11初稿、12加筆・改題, 13加筆)

2023年7月2日日曜日

ヴァルターの「マーラー」より:その「作品」についての回想

ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.85, 邦訳pp.149-150):その「作品」についての回想
Es ist also ein Opus von musikalischer Geschlossenheit, das in Mahlers Schaffen vorliegt, und dem prüfenden Blick wird sich keine Lücke in der musikalisch-logischen Kontinuität, im formalen Bau zeigen. Trotzdem kann eine absolut musikalische Wertung seinem Werke nicht gerecht werden, das zugleich die Geschichte seines inneren Lebens ist. Erst wenn wir sein Schaffen als die Äußerung einer großen Seele in Musik betrachten, werden wir den rechten Standpunkt gewonnen haben. Maßstäbe der Menschlichkeit müssen zu denen der Kunst hinzukommen, wollen Bedeutung würdigen. --

 マーラーの作品には、ひとつとして、かれの個性と音楽の緊密していないものは無い。いくら詮索好きな人でも、かれの音楽の論理的連鎖とその外形的構成との間に間隙を発見することはできないであろう。だが、また純粋に音楽的評価だけでは彼の作品を正しく判断することはできないのである。それは、かれの作品が同時にかれの内部生活の歴史だからである。われわれはかれの作品がかれの内面の音楽的表現であるとみなすことによってのみ、正しい観点に立つことができるのである。ゆえにマーラーの創造の重要性を十分に明らかにするためには、種々の人間性、かれの人間的価値と美的価値とを加えなければならないし附与されなければならないのである。 

In welcher Beziehung Erlebnis, Gedanke, poetische Vision, religiöses Gefühl zu seiner Musik stehen, will ich versuchen, in der Besprechung der einzelnen Symphonien anzudeuten, da in jeder von ihnen dir Beziehung eine andere ist. Nur eines sei vorausgeschickt: » Programmusik «, das heißt die musikalische Schilderung eines außermusikalischen Vorgangs hat er nie geschrieben.

ここでのヴァルターの言葉の説得力もまた、その作品は勿論のこと、マーラーその人を非常に良く知っていて、その人と音楽との関係をまさに 目の当りにした経験に根差しているのであろう。音楽一般がどうかとか、当時のヨーロッパの音楽の傾向がどうだとかいうのは、登ったら外す梯子の はずであって、最後はマーラーの個別の場合が問題なのだ。そしてマーラーの音楽に虚心坦懐に体を浸せば、このヴァルターの発言が的確であることは まさに身をもって感じられるのではないかと思う。(少なくとも私はそうだ。)


 ところで、この部分の邦訳は好意的に見てもかなりの意訳になっている。最後の文章に至っては、ちょっと読むと全く違った意味に取りかねないように 思われるので注意が必要であるから、参考まで以下に邦訳を掲げておく。
 私はつぎにかれの交響曲のおのおのを解説することによって、かれの音楽と、かれの経験や思想や詩的幻想やまた宗教的感情との関係を明らかにしたいと思う。実際これらの関係は交響曲の場合に最も顕著に現れているからである。しかし、あらかじめ断っておかねばならないのは、かれは決して「標題楽」を書かなかったこと、つまりある特殊な音楽的問題を音楽によって説明したことは無いことである。(ブルーノ・ワルター, マーラー 人と芸術, 村田武雄訳, 音楽之友社, 1960, p.150)

 おわかりの通り、ワルターが「標題楽」をどう捉えているかについて、これでは全く異なる理解をしてしまうだろう。 素直に訳せば「音楽外のプロセスの音楽的表現」だろうし、これで十分だと思われるのに、どうして上記のような訳となったのか杳として知れない。

 一般にこの邦訳は基本的に戦前から戦争直後のもの(最初は「音楽評論」という雑誌に連載されたらしい)のようであり、 当時のマーラーに関する情報の量を考えれば、具体的な部分について知っていさえすれば間違えないような誤訳があるのは止むを得ないのかも知れないが、 そうしたものとは違って、こうした抽象的な部分での間違いはそれとはすぐにわからないことも多いから厄介である。もっとも最後の文章については、 前後の文脈からして、何かおかしいということはわかるとは思うが。それゆえ1960年の再版にあたっても、そうした誤りについて全くそのままなのは 些か遺憾に思われる。(訳者がこだわっているらしい文体については、私の語学力では判断しようがないが、それとは別のレベルの問題である。)
 
 比較のために、手元にあるJames Galstonの英訳の最後のパラグラフを参照すると、以下の通りである。
I shall endeavor to indicate the relationship of experience, thought, poetic vision, and religious feeling to his music by commenting individually upon his symphonies, his relationship to each one of them being a different one. Let me say this beforehand, however: He has never writtten "program music" -- this is to say, the musiacal description of an extramusical event.(Bruno Walter, Gustav Mahler, translated by James Galston, with a biographical essay by Ernst Krenek, Vienna House, 1973)
こちらは邦訳に比べれば少なくとも意味をとる上では忠実なようだが、それでもやはり 翻訳全体としてみた場合には全く間違いがないわけではないようだ。ともあれ、特に邦訳は非常に貴重なものであり、かつ個人的にはこの部分はこの回想の中でも印象的な部分と感じているので、残念なことである。(2007.6.23初稿, 2023.7.2邦訳、英訳を比較対象のために参照しつつ補記. 2024.7.28 引用前半の邦訳を追加。)

2015年5月9日土曜日

ある市井のマーラー愛好家の専門家宛の手紙より

(…)

宿題になっていた、「神の存在をどう思うか」というご質問に対するお答をしなくてはなりません。 この質問に答えることは大変厄介であると感じていますが、それは一つには、神ということで何を 指し示すかについての了解自体がとりわけ現在の日本では形成し難いということに由来するように 感じています。一つだけ例を挙げれば、「無神論」という言葉の含意が西欧と日本ではかなり異なる のは比較的知られていることと思います。その日本でも嘗ては「神仏をも懼れぬ仕業」といった 言い回しが意味を持っていたわけですが、現在ではこの表現を実生活で聞くことはほとんどないのでは ないかと思います。それでもなお、初詣には行き、墓参りをすることは未だ多くの日本人にとって 自然なことでしょう。他方で「存在する」ということについての了解の方も実際には自明とは 云い難い。フッサール現象学やハイデガーの(中絶しましたが)基礎存在論の企ては、その困難を 物語って余りあります。しかし、ここは予備的な分析する場ではありませんので、 誤解を怖れずに、結論から述べてしまいたいと思います。

端的に言えば、既成の個別の宗教における神を信じるかと問われれば否です。だけれども、 神的なものを否定するかと言えば、これは明確に否ということになるでしょう。 「神の存在」に対する答えからすると、少々遠回りに感じられるかも知れませんが、 先賢の顰に倣って、日常の具体的なところから始めることをお許しください。 恐らくそうすることによってのみご理解いただけることがあろうかと思います。

私はしばしば「祈り」ます。何に対して祈っているのかを突き詰めることを常にしているわけではなく、 けれども「祈り」という行為は私にとって自然な行為です。実家に戻れば仏壇の前で手を合わせるし、 墓参りはするし、初詣もします。のみならず例えば散歩をしている最中に神社や祠を見かければ、 立ち寄って賽銭を投げて祈ることも珍しくはありません。と同時に、そういう場での行為としてではなく、 より私的で内的な行為として、何かをするにあたって、あるいは何かを終えたときに、私は 何者かに対して祈ります。祈りは(内的独語であれ)言葉による語りかけのかたちをしばしばとります。 けれども、祈りの対象を人格を持つ存在として捉えているかといえば、どうもそうではない。 そもそもその対象がどんな姿をしているかを考えたことはありません。言葉が通じると思っているわけでもなく、 寧ろ言葉は自分の思いを固定するために、寧ろ自分向けに用いている道具なのです。何を祈るのかを 自分が確認するために言葉を使っていて、それは「祈り」にとっては入口のインタフェースに過ぎず、 それがその先でどのように変換して、対象に伝達されるかについてはどうやら無頓着で、何故か 通じるものと考えているようなのです。

祈りの対象はどこに存在するでしょうか?そもそもどこかに存在するのでしょうか?私が物理的・ 生物学的に其の中に住んでいる世界の時空の具体的な座標をそれが占めているというようには 考えていないようです。そういう意味では、それは「存在」しません。けれども仮想的なもの、 観念的・理念的なものも含めた現象学的な世界ということであればどうでしょう? 恐らく、語りかけの入口は穿たれている。けれども現象学的な地平の「彼方」にそれは存在するのではないかと 思います。そういう意味合いで、それは超越的な存在であり、端的には非存在だということになるのでは ないかと思います。ではその入口はどこに穿たれているのか、どうやらそれは、自分の心の奥に 穿たれていると考えるのが自然に思えます。例えば神社仏閣のように、一見したところ祈る対象が 物理的に目前にあるように思えるときでさえ、私の祈りは一旦は心の奥に向かい、その上で(もし届くのであれば) 対象に届くと感じているように思えます。路傍で見つけた眼前にある石仏自体は只の石像に過ぎないですが、 その前で祈るとき、それでもなおその石像を或る種の媒介として、祈りはこの世界では端的に不在な なにものかに対して届くと考えているように思います。

私が自分の祈りの構造の良い近似になっていると感じているのは、ジュリアン・ジェインズという心理学者が 提唱した「二院制の心」(bicameral mind)という説です。意識というのが歴史的な産物であり、 その形態は過去においても異なっていて、変化してきたという認識を推し進めると、今度は レイ・カーツワイルのような特異点論者が予測するように、未来にはまた、意識は異なる形態をとる可能性が あるだろうと思います。その時には、祈る対象の方も恐らくは今とは異なった「現れ」方をするのだろうと 思います。けれども差し当たり、技術的特異点の手間で寿命が尽きてしまうであろう世代の人間である私にとっては、 将来生じるであろう意識の変容は、興味深いものであっても、所詮は自分には関係のないものです。

そういう意味では私はマーラーと同じエポックに属する人間であり、自己の存在の有限性を前提として 色々なことを考えざるを得ないと思っています。そしてその音楽を聴くにつけ、超越的なものに対する フィーリングのようなものにおいて、マーラーは自己の同類であると感じています。 もっとも子供の頃に出会ってからこの方、寧ろマーラーの音楽が孕んでいる世界観の方に私の方が 影響されつつ自己形成してきたという見方もでき、そうであれば同類であるのは何か稀有な、 誇るべきものなどではなく、寧ろ当然の結果であることになります。

彼は死後の世界を信じていたでしょうか?第2交響曲フィナーレのプログラムについてのエピソードは、 そのプログラムがそのまま、いつかこの世で生起するとまでは彼が考えていなかったこと示しているように 私には思えます。勿論彼は、精神的なものが物質的なものとは独立に存在し、それが自分の生物的な死を 超えて存続することを信じていたと思いますが、それは例えば、音楽作品というのが、実現にあたって 物理的な音響というかたちで現象するものであったとしても、(もの凄く単純化してしまえば、 )ある音の継起と組合せのパターンの情報をデジタル化して、何度でも再現できるように固定したものであり、 物理的なスコアという手段を通して、だけれどもそれ自体は抽象的な存在として、世代を超えて継承される こと、そしてそうした継承を通して、マーラーの「精神」なるものも継承されていくものであり、それが 仮に進化の偶然の賜物であったとしても(現実には私は、ほぼ間違いなくそうであろうと思っていますが)、 意識を持つことになった人間の精神的な領域における営みは(理念的なものである)無限(への漸近)を 目指すものであるという、今日でも恐らくは十分常識的な見解と接続することが十分に可能なものであったと 私は考えています。マーラーが唯物論者でなかったのと同じ程度に、1世紀後の私も精神的な領域の 自律性を確信していると思います。言い方を替えると、1世紀後の日本にもしマーラーが居れば、 彼の考え方は、私のそれをさほど重大な齟齬を来たすことはないだろうと感じているということです。 (繰り返しになりますが、それは寧ろ彼の遺した音楽を通じて、彼の影響のもとに私が成立していると したら、当然のことではないでしょうか?)

ファウスト第二部終幕の解釈に関連したアルマへの書簡ではっきりとそう書いていたと思いますが、 彼はそれを「比喩」として捉えるだけの批判的な知性を持っていましたし、キリスト教的な伝統に ついても、十分批判的な見方をしていましたが(一部はユダヤ人として、そういう見方をすることを 強いられた部分があるのでしょうが)、その一方で、Veni Creator, spritusを彼なりの捉え方で 音楽化し、「ところでそれが来なければ」という悪意に対しては、断固として、そうした超越的な ものの彼方からの到来が現実に起きること、そしてそれは決して無ではないことに対して、 擁護の論陣を張ったであろうと思いますし、私としては、1世紀後の日本においてなお、 第8交響曲の「理念」は異国の文化史の研究の対象でしかない1世紀前の西欧の世紀末の文化遺産などではなく、 今、此処で擁護可能なものだし、擁護しなくてはならない、そうでなければ、博物館の文化財の陳列を眺めるように、 マーラーの交響曲をコンサートホールで「鑑賞」することになど、意味はないと考えています。

同様に、第8交響曲と「大地の歌」の間にも、両者の世界観や神の存在についての認識に、 分裂や矛盾など無いと考えています。マーラーは意識を備えた人間の精神の飛翔が無限を目がけるもので あることを正しく把握し、音楽化したし、その一方で個体としての、個としての自分が過ぎ行くもの、 仮初めのものの側に属していて、そのままでは永遠に与りえないことも正しく把握していて、それをも 音楽化したのだと私は考えています。

もう一度、最初の問いである「神の存在」に戻りましょう。マーラーの音楽は超越的なものへの志向を 備えているという点で際立ったものですが、それは別に既に解決済みの過去の問題であるわけではなく、 寧ろカーツワイルの言う技術的特異点に達するまでのエポックは、マーラーの音楽の「今」であり 「此処」であると考えるべきであり、マーラーにおける「神の存在」の問題の基本的構造は、 そのまま我々のものであり続けているのだと思います。(繰り返しになりますが、ジェインズの意識の考古学は、 その範囲を最も広くとった場合の「我々にとってもそうである」ことに対する説得力ある説明であると思います。)

否、我々を広くとることは止めてもいいでしょう。我々を、マーラーの音楽を聴く事で「目を覚ます」ことを 余儀なくされた者の集団というように限定してもいいでしょう。(私はここで、アドルノのウィーン講演の 結びの部分を思い浮かべています。)これも今や歴史的文献、過去の世代の証言に属するものとなり、 読み返す人も多くないのかも知れませんが、ワルターの以下の言葉こそが、そうした「幽霊達」、即ち マーラーの音楽にコミットする者達の「神の存在」に対する共通認識ではなかろうかと私には思われるのです。

否、更にそうですらなく、これは私だけの孤立した、例外的な認識なのでしょうか?ワルターすら、マーラーに ついてこのように言うものの、自分は別の世界に生きていたのでしょうか?恐らくそんなことはないと思います。 そうでなければ、彼が殊更にマーラーを選び、傾倒する必要などないのですから。
「私は、かれが宗教的精神をもち、ときにその高揚があったとはいえ、かれを敬虔な信仰者と呼ぶことはできない。 かれの感動の高揚は、かれを信仰の高みに登らせはしたが、信仰の確固たる安息の保証はえられなかった。 かれの心はあまりに痛ましく、生きるものの苦悩を感じた。動物相互の殺戮、人間同志の悪徳、疾病に対する 肉体の敏感性、間断なき脅威、それらすべてが、いくたびとなくかれの信仰の基底をゆるがせ、そして、 この世の悲哀と悪徳とをいかにして神の親愛と全能との調和せるむるか、それがかれの自覚し、又かれの 一生涯にわたってますます強くなった問題であった。」(ワルター, 『マーラー 人と芸術』,村田武雄訳, 音楽之友社, 1960, pp.186-7
マーラーは「神を探していた」という評言こそが適切で、彼にとって神は丸山桂介が言う通り 「隠れたる神」であったのだと思います。しかし、それは1世紀後の極東に生きる我々に とってもそうではないかと思うし、少なくとも私にとってはそうなのです。 「隠れたる神」は非存在です。だけれども存在しないものはただちに無であるわけではなく、 仮想的なもの、想像的なものにして創造的なもの、理念的なもの、かつて存在して今はないという形でその記憶が存続しているもの、 言ってみれば「幽霊的なもの」の領域が「在る」のです。勿論、そうした構造を無意識的に、そうとは 気付かずに生きることと、それを意識しつつ生きることは同じことではありません。そしてマーラーは 明らかに後者のタイプに属しているのだと思います。(ちなみに、マーラーの同時代の日本で、この 構造に気づいた先駆者こそ、北村透谷であると私は考えています(彼は文学者であり、ジャンルは異なりますが)。 良く知られているように、その後の日本文学は、透谷の持つ普遍性と超越への志向を引き継ぎませんでした。 そして1世紀の隔たりにも関わらず、時代の意匠を取り払えば、透谷の認識からそれほど遠くに来たとは到底思えません。 彼の見出した問題、とりわけても「信仰なき者の祈り」の問題はそのまま残っていると私には感じられます。 そして、今日のテクノロジーやメディアの環境の文脈の中で、全く別の方法論によってその問いの答えを探求しているのが、 作曲家でメディア・アーティストの三輪眞弘さんであると思います。)

音楽もまた、総じて仮象に過ぎません。時間の経過とともにそれは過ぎ去り、消えてしまう。 だけれども、そうであるが故に作品の演奏は、その都度、一回性の「出来事」なのですし、 その効果は有限の生命を持つ人間の脳の中の「魂」と呼ばれるものにしか働きかけることができなくとも 決して無ではないし、物理的な音響が消えた後も、その「何か」は存続するし、その価値にコミットする のであれば、その存続に自ら与らなくてはならない、しかも自らの有限性の限界を超えた存続に 与らなくてはならないのだと思います。

恐らく「神」というのはそうした存在と非在の間の領域、精神=聖霊=精霊=亡霊(Geist)の領域の理念的な極限、 超越的な「存在の彼方」の名前なのではないでしょうか?プラトン以来、「存在の彼方」とは善や美といった、 価値に関わる領域を指し示していることを思い起こしてみるべきかも知れません。ともあれ、 それはヒトが現在のような意識の構造を持ってから発見した領域であり、かつ、未だその領域を覗き見た程度であって、 人間が現在の形態である限りは、つまり技術的特異点の手前にいる限りは、それがどれほどの拡がりを 持っているのかを知ることはできず、それゆえ差し当たりは超越的な「存在の彼方」として把握されるほか ないのかも知れません。(カントの言うところの「理性」の宿命は、従ってある意識構造のエポックの 内部でのそれに過ぎないのかも知れません。)個人的にそれをあえて今尚、「神」と呼ぶのが適切かどうかに ついては疑問の余地なしとはしないのですが、一方で、自分が手前に留まる存在であることを前提とするのであれば、 そうした未知の領域のことを従来通り「神」と呼ぶ方が寧ろ一貫するという見方もできるでしょう。 結局のところ、そういうものとして、私は「神の存在」を捉えている、というのがご質問の回答になるかと思います。

漠然としたことを延々と書き連ねてしまい申し訳ありません。しかしながら、私にとってお問い合わせの内容は 簡単な断定で済ませられるようなものではありません。結論が出ているわけでもありません。しかし、 こうした問題に対して、結論めいたことを言うことがそもそも構造的に可能なのかどうか。 聊か言い訳めきますが、そうした点をご考慮いただき、ご勘弁いただけますようお願い申し上げます。

(…)

(2015.5.9)

2011年4月29日金曜日

「生きるという甘美な習慣」(süßer Gewohnheiten des Daseins)

マーラー生誕150年のアニヴァーサリーの昨年に引き続き、今度は没後100年のアニヴァーサリーの今年は、だが日本の歴史上では、史上最大級の地震に 見舞われた年として記憶されることになるだろう。昨年に引き続き、アニヴァーサリーを意識してか、マーラーに関連する雑誌の特集やら書籍の出版は 行われており、マーラーに因んだ映画の公開も予定されているようだが、その一方で3月11日の震災以降、いわゆる「芸術」活動への影響も決して小さくはなく、 私がコミットしていて、かつマーラーに関連する例を一つだけ挙げれば、会場として予定されていたコンサートホール、ミューザ川崎の被災により、 ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの第9交響曲の演奏会が1年延期になっている。その一方で、己の内部になる音楽が変わってしまったり、 あるいは音楽を聴いても感動できなくなったりすることもありえるだろうし、心の中に鳴り響く音楽がその人を支えることもありえるだろう。そうした最中にあって 音楽が娯楽だから自粛する、あるいは心を癒すから自粛すべきでないという議論は音楽がなお可能であるということを疑ってみることもせずに暗黙の 前提とした論理を備えていることがあからさまであり、音楽が必要とされなくなる、必要なのに音楽を演奏したり享受したりすることができないといった 状況からずれたものに感じられてならず、あるいはまた恰も自分が論じている作品や作曲家の価値が自明であり、自説や自分の解釈を開陳することに 終始するかに見えるマーラーを巡る状況にも強い違和感を覚えずにはいられない。

2011年3月11日の地震の日、私は自宅に帰らずに都心にある勤務先のオフィスに留まり、翌3/12の朝、復旧した電車に乗って帰宅した。 週明けの3月14日には今度は「計画停電」と称する突然の電力供給制限の実施のせいで運休を余儀なくされた交通機関の麻痺により、 出勤ができなくなった。それから1ヶ月が経過し、幸いにして私の周辺ではようやく日常が戻りつつあるものの、一旦損なわれた生活は恐らくは 完全に元に戻りはしないだろうし、この状態に明確な終りなどなく、最初は異常と感じられた様々な事象にも何時しか馴化してしまい、 日常の風景に溶け込んでしまうこともあろう。マーラーの音楽はそうした中で、だが確実に自分の内側で響いていた。例えば早朝の通勤の途上、 人影のまだほとんどない都心を歩いている最中、心のうちには第9交響曲の第1楽章が鳴り響き、そこから湧き出してくるものに導かれるように、 後押しされるような感覚に囚われることが幾度となくあった。そうした中、Webページの更新も別段自粛していたわけではなく、 仕事の関係もあって間接的ではあるけれど震災復興に従事する方々のお手伝いをしていたがため時間が全く取れずに断念してきたのだが、 ようやく一段落した時にふと思い浮かんだのが、この文章のタイトルとして掲げたマーラーの言葉であった。

この言葉は1909年の初めにニューヨークからヴァルター宛に書かれた日付のない書簡中に出てくる(1996年版書簡集では404番)のだが、書簡の方は 名宛人であったヴァルター自身がマーラーについてのモノグラフの中で言及して以来、この時期のマーラーの心境を告げる文章として 繰り返し引用されてきた非常に有名なものであり、私自身、以前に「語録」の項で取り上げたことがあるので、そこで書いたことは繰り返さない。

特に取り上げる上記の言葉は原文では ( in allen ) » süßer Gewohnheiten des Daseins « であり、だから括弧は私が付加したのではなく、 マーラー自身がつけたものである。色々なところで引用される際の日本語訳を調べてみるとかなりばらつきがあることがわかり、それはそれで興味 深いがここで逐一取り上げることはせず、私がここで示した訳は、そうした様々な訳と比べれば、いわゆる直訳と言われるタイプに属するであろうと いう点の指摘に留めることにしよう。マーラーが括弧をつけたのは、何かの引用であることを示している可能性はあるだろうが、原典について 言及した記述は管見では見当たらなかった。簡単に調べた限りでは、恐らくマーラーの愛読書であったE.T.A.Hoffmannの Lebensansichten des Katers Murr(「牡猫ムルの人生観」)のErster Band, Erster Abschnitt "Gefühle des Daseins. Die Monate der Jugend."の冒頭、 Es ist doch etwas Schönes, Herrliches, Erhabenes um das Leben! – »O du süße Gewohnheit des Daseins!« ruft jener niederländische Held in der Tragödie aus." がその出典に違いない。ここで言及されている「悲劇の主人公」とは、これまたマーラーの愛読書であったゲーテの「エグモント」であるが、対応する第5幕2場では やや違った形で出てくる。"Süßes Leben! schöne freundliche Gewohnheit des Daseins und Wirkens!")

だが出典が何であれ、括弧つきで繰り返し用いられているこの言葉は、第9交響曲に浸透している 情調と如何にも親和的に感じられ、また、震災とその後の混乱を経た後の私自身の思いと強く響きあうものを感じずにはいられない。 "Mich selbst finde ich jeden Tag unwichitiger, kann es aber oft nicht begreifen, daß nab im täglichen Leben doch seinen alten gewohnten Trott weitergeht - in allen » süßer Gewohnheiten des Daseins. «" というマーラーの述懐は、それ自体は平凡な私のような人間にもわかるもので ありながら、その背後に響く音楽によって比類ない仕方でもってその認識に伴う「感じ」の記憶を定着させ、ふとそれに耳を澄ます時代も場所も 隔たった他者の裡に再現するのだ。

更にもう一点、同じ書簡の少し先で(これまたヴァルターが引用している部分だが)、Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? と問いかけていることにも触れずにはいられない。第3交響曲のタイトルよろしくここでもマーラーは自分を主体の位置に置かず、自分の内なる 何者かを主体の位置においているが、それは上記の Gewohnheit という単語と勿論対応しているに違いない。否、そのようにGewohnheitを 捉える視点こそが、第9交響曲のあの音調を可能にしているのだ。それゆえシェーンベルクが後にプラハ講演で第9交響曲に関して指摘する、 "In ihr spricht der Autor kaum mehr als Subjekt. Fast sieht es aus, als ob es für dieses Werk noch einen verborgenen Autor gebe, der Mahler bloß als Sprachrohr benützt hat."という消息にこの言葉は繋がっていく。

己の内なる他者の声に耳を澄ます姿勢はマーラーにあって(どこまでそれについて意識的であったかについてはおくとして、その姿勢そのものは) 一貫したものであったと私には思える。だが» süßer Gewohnheiten des Daseins «という認識自体は、マーラーが人生の危機、 それまでに経験したどれよりも大きな危機を経て獲得したものであり、危機を克服した後にそうした認識を芸術に定着させることができたことに 私は畏敬の念を覚えずにはいられない。客観的にはどうであれ、マーラー自身にとってそれは大きな危機だったに 違いないし、その経験を過ぎ越すことによってマーラーが獲得した認識の主観的な質や重みを、神話の解体や偶像破壊よろしく軽んじるような論調に 与することはできない。確かにマーラーはその時に自分の余命がいくばくもないとは考えていなかっただろうが、だからといってマーラーが己の有限性に ついてそれ以前とは質的に異なった認識に達しなかったことにはならないし、彼が獲得した認識がどんなものであるかは、その後の彼の音楽を 聴けば明らかなことではなかろうか。それはまたアルバン・ベルクが後に妻となるヘレーネに宛てた手紙に第9交響曲第1楽章について記した言葉とも 共鳴する。勿論、書簡でヴァルターへの語りかけに仮託しつつマーラー自身が自問しているように「生きるという甘美な習慣」は両義的なものだが、 そうした両義性に対する意識こそ、第9交響曲のあの不思議な、これ一度限りの(アドルノの言葉を借りれば「唯名論的」な)楽章配置の 構想に対応している。中間楽章でハ長調・イ短調という調性は、»Gewohnheiten des Daseins «の「世の成り行き」としての側面を、アクセントを 変えて提示するし、それらを囲繞する両端楽章のうち第1楽章のニ長調の色彩と光の調子は、きっとどこかで第10交響曲フィナーレのあの、最早どこで 鳴っているのか言い当てることができないようなユートピア的なニ長調に繋がっているし、半音下がった変ニ長調のフィナーレは茜色に染まって 漂ったまま静寂と薄明の中に溶け込んでしまい、決して元には戻らない。この音楽を順応的に感受する(ホワイトヘッド的な意味合いで)ことに よって聴き手が自分の中に形成するものの重みは、文化史的な背景への還元など受け付けないし、陳腐な標題についての議論やら 「人生」と「芸術」の単純化された関係図式の中をうろつきまわるだけの論争とも無縁のものだ。作品から自分が受け取ったものを作品の作者に 押し付けることも、そうして形成された「神話」の虚構性を告発し、事実をもって否定するかの身振りも、「作品」や「作者」の存在論的身分に ついて些かの疑いを抱くこともなく自らこそが「真理」に辿り着く特権を有しているのだという思い込みの下、所詮は同じ土俵の上で自分の観点の 押し売りをしているに過ぎないように思えてならない。

というわけで、2年続きのアニヴァーサリーの最中、それに因んで編まれた雑誌の特集に目を通しても、映画のリブレットを読んでみても、 何か奇妙に視界がずれているようにしか感じられない。そして震災とその後の時期を経て改めて感じたのはそうした違和感が 寧ろ深まったことだった。同じ対象を相手にしている筈でありながら認識を共有できないこと自体は日常的に色々な場面で多少なりとも 起きていることで、それ自体は驚くに足らないのかも知れない。だが「生きるという甘美な習慣」という言葉を書簡に書き付けた人間とその人間の書いた音楽の 場所と、それらについて解釈し、語っている筈の場所が全く重なり合わず、しかも後者こそが今・ここの近傍である筈なのに接点を見出すことが できなさそうに感じられるのは一種異様な感覚である。神話の解体や偶像破壊の名の下に一体そこで断罪されようとしているものは実際には何者で、 厄払いの後に残るものは一体何なのか。そこで救い出され、あるいは見出されたと主張されるものについてはどうか、少なくとも私にはわからない。 幽霊を追放し、抹殺する(だが、そもそも幽霊に対してそれは可能なのだろうか)ことにより顕わになる実体が本当にあるのだろうか。あるいはまた、 フィクションを隠れ蓑にして幽霊の代理を演じさせ、それを撮影して撒き散らすことがもたらす結果についての責任はどうなのか。先立つかつての アニヴァーサリーの折にあった類似の事象に対してはそれなりの正当な異議申し立てが為されたものであったが、このたびは時効により免責というわけか。 アニヴァーサリーが刻みつける時間の隔たりを介し、その隔たりそのものに他ならない地平の変容、技術がもたらした時空の遠近法のドラスティックな変化の影響下で、 まるでそんな変容には無頓着に、だがその実そうした変容のもたらした結果に最大限依存しつつ、幽霊の幽霊性を都合良く忘却し隠蔽すること、 自分の用意したフィクションに取り込んでしまうことによって幽霊を厄払いし、隔離して閉じ込めることは、だが、しかしそうした営みが自閉する地平の外には 出ることはないだろう。そのようにしたところで幽霊と会話することを学ぶことなどできないのだから。

それゆえそうした歪んだ遠近感の支配する空間の中で、だがそんな歪みなどお構い無しに、自分が会ったこともない過去の異郷の音楽家の 「生きるという甘美な習慣」という言葉の背後にある認識が、その認識と隣り合わせに書かれた音楽によって形成された地形に沿って自分の心に実感を伴って届く。 まるで幽霊に憑依されるかのように。そしてそれは取り憑いた者に対し、己の内なる他者の声に耳を澄ますように促すかのようだ。 Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? という問いかけへの答を求められた者は、「生きるという甘美な習慣」の裡に (厄払いではなく)喪の作業に誘われるのだ。まさに能の舞台でしばしば起きるように。かつて別の文脈で、ある他者によって言われたように、 可能なのは幽霊に対して言葉をかけること、幽霊からの語りかけに言葉を返すこと、そうしつつ生きることを学ぶことでしかないのだ。 だがそもそも、マーラーという幽霊がその作品を通して私たちに語るのもまた、まさにそのことそのものではなかったか。(2011.4.29/30初稿・公開, 5.2/8加筆・修正)

2010年7月10日土曜日

ヴァルターの「マーラー」のマーラーの頭痛についてのコメント

ヴァルターの「マーラー」のマーラーの頭痛についてのコメント(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.27--28, 邦訳pp.36--37)
Und wie schlecht hätte es dabei gehen können! Mahler litt ab und zu an einer Migräne, deren Heftigkeit ganz der Vehemenz seiner Natur entsprach und die alle seine Kräfte paralysierte; heirbei gab es für ihn nichts anderes als ein ohnmachtsähnliches Daliegen. Im Jahr 1900, kurz von einem Konzert mit den Wiener Philharmonikern in Pariser Trocadero, lag er wirklich so lange in solcher Ohnmacht, daß das Konzert um eine halbe Stunde später beginnen mußte und von ihm mir mit Mühe zu Ende geführt werden konnte. Hier in Berlin nun hatte er im Grunde sein künftiges Schicksal als Komponist unter schweren Opfern auf eine Karte gezetzt, und da lag er mit einer der schwersten Migränen seines Lebens am Nachmittag vor dem Konzert, unfähig, sich zu rühren oder etwas zu sich zu nehmen. Noch sehe ich ihn darnach vor mir auf der viel zu hoch aufgebauten unsicheren Dirigentenplattform, totenbleich, mit übermenschlichem Willensaufwand sein Leiden, Mitwirkende und Hörer bezwingend. (...)

 だが、なんと物事は不幸に展開するのであろう。マーラーはおりおり激しい頭痛に悩まされ、その激しさは彼の情熱と正比例していた。一度頭痛が起ると全く麻痺したようになって、何もできなくなってしまうのである。ただ卒倒したように静かに横になっているよりほか手のつくしようがなかった。一九〇〇年、パリのトロカデロで行われた、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会の直前にも、この昏睡状態が起って、演奏を三十分延期して、やっと最後まで続けたようなことがあったが、かれがすべてを犠牲にして、作曲家としての活動に全生命を賭けたベルリンにおける演奏会前の午後に、かれの生涯中で最もひどい頭痛の発作に襲われてしまった。かれは身動きひとつできなかったが、やっとのことで、やや高過ぎる不安定な指揮台に立って、死人のように青ざめた姿で、超人的な意志力をもって苦痛をおさえながら、楽員や歌手や聴衆を引きずって行ったマーラーを、今日でもなおきのうのことのようにはっきりと眼前に描くことができる。(…)

マーラーが多忙な指揮者だったことを思えば、マーラーが激務に耐える程度の体力を維持し、体調管理に気を遣い、己の職責を全うしようとしたことは、私のような平凡な勤め人からすれば いわば自明のことであって、だからマーラーが病気に悩まされたことも、そうした前提あっての話を受け止めるのは当然なのだが、マーラーの健康を巡る議論は、時折、そうした前提を忘れてしまったかの 様相を呈することがあり、私などはそこに寧ろ、そうした議論をしている人間の生活がマーラーのそれと如何に遊離したものであるかを見るような思いすらする程である。マーラーの多忙が 自分のそれの比ではないことは承知の上で、だが、彼我の能力の差を思えば、自我がばらばらに断片化してしまったような感覚を共有している点において主観的に同じような境遇にあって、 だから私にはマーラーのそうした側面が他人事とは思えない。
だがそれだけに一層、職責を果たす上で体調が思わしくない折のマーラーの苦衷を見るにつけ、到底他人事とは思えず同情を禁じえない。私は幸い偏頭痛持ちではないので、偏頭痛が 起きたときの凄まじさを本当に知っているわけではないけれど、そのかわりマーラーに出会った子供の頃からの慢性の強い緊張性頭痛といわば30年近く付き合ってきたし、それが折悪しく、 仕事の山とぶつかったときの辛さを思い起こせば、マーラーの心境を推し量るに、さぞや惨めな、悔しい思いをしたことであろうと思う。痛みは純粋に主観的な質であって、他人が感じることはできない。 いくら同情したところで、本当のところはわかりはしないのだ。それでも同情は、全くの無ではない。上記のような文章を後世に伝えたヴァルターのような人間の存在は、マーラーにとってさぞや慰めに なったに違いない。そして何より上記の文章はマーラーの死後も、ヴァルターの死後もなお、このようにしてマーラーを擁護し続けているではないか。
主観的な苦痛などお構いなしに仕事は降ってくるし、言い訳無用、それで成果を上げられなければそれで無能の烙印を押される訳だ。 そしてこれもまたしばしば私にも起き、マーラーに起きたことのようだが、どこが限界なのかがわからず、その手前で留まるべき一線を超えた挙句、身体が精神に追随できなくなってカタストロフが 生じるのも、「自己管理能力の欠如」と見做されるのである。マーラーの周辺の人間がどう思おうと、病のために療養を余儀なくされ指揮台に立てなくなった指揮者を解任して何が悪いかと言われれば、 返す言葉はないのだし、周囲の人間よりも寧ろマーラー自身が、有能な管理職として一番それをよく自覚していたのではなかろうか。「こんなに頑張って、倒れました」と言ったところで誰も同情などしない。 自分の限界をわきまえない方が悪いのだ。「何故もっと早くに言わないんだ。早めに言えと言っただろう。」というわけだ。
そして勿論、それは仕方ないことなのだ。なぜなら成果を上げること、仕事を止めないことはやはり必要なことであって、立場が変われば、マーラーも私も、自分の部下には同じような要求を、 その人間の心理状態や体調を慮りつつ、それでもなおせざるを得ないだろうから。要するにお互い様というわけだ。だからマーラーだって、気心が知れた人には愚痴の一つも言っただろうが、 職場で面と向かっては文句は言わなかっただろう。本当に無能で出来ないのも、身体が悲鳴を挙げてダウンするのも、成果が上がらないという結果だけ見れば同じなのだ、 ということをマーラーだって知悉していただろう。しかもマーラーは稼がなくても困らない身分の出自ではなかったから、「さっさと降りる」ことなど怖くてできなかっただろう。 そうした行動の様式は、そんなに簡単には変わらない。かくして「いつだめになるか」と自分でもはらはらしつつ、へとへとになって「もうだめだ」と思いながらも、だが「行進し続けなくてはならない」。 「起床合図」の兵卒のように。
そしてまた「世の成り行き」の裡で、その規範に従って生きる人、有能に事を成し遂げる人たちの価値は、それが己のそれとは決して交わらず、収斂することがなかったとしても、 蔑んだり、否定したりすべきではない。己の価値の体系の優位をア・プリオリに主張することなどどうして出来ようか。もし論争するとすれば寧ろ立証責任はこちらにあることを忘れて、 あたかも自分が世俗を離れた高みにいると錯視するのは滑稽なことだ。そしてそうした「上品な趣味」からは蔑まれるマーラー自身は、そうした滑稽さを見抜くだけの批判的な知性の 持ち主であったことは、遺された証言が、何よりもその音楽が語っている。そして断固として私はマーラーの側につきたいと思う。
だがそれでも、強烈な吐き気を催すような頭痛をごまかしつつ、一週間通して一日のほとんどを職責を果たすべく費やすのは何ともいえない気分ではある。「世の成り行き」という言葉の実質、 第9交響曲のロンド・ブルレスケや第10交響曲の煉獄、第5交響曲の第1部や第6交響曲の行進曲が、歌曲「起床合図」のあの絶望が、大地の歌の冒頭楽章の自棄がまさに自分のこととして 思われてならない。マーラーの音楽では、あろうことか、主観的で伝達不可能な筈の痛みとか苦しみ、身を引き裂かれるような悲しみの伝達が可能であるかのようなのだ。勿論、それが 錯覚に等しい、ほとんど無に近いものであることだってわかっている。「大地の歌」の第6楽章の歌詞のように倦み疲れ果てて家路につき、マーラーの遺した音楽を聴くときにちっぽけな 私の脳内に起きることなど、これっぽっちの意義などないのはわかっている。だがそれでも私にはそれが必要なのだ。意識の、主観性の擁護をしてくれる同伴者が。
芸術を自分が抱えたストレスを紛らわす道具をして用いるなんて何と低級な聴取のあり方よ、と謗られても仕方ない。マーラーの音楽には希望が、今ここには端的に 存在しないものとして、自分が体験できないものとして、仮象として存在する。そうしたものを甘く退嬰的なものとして否定することは、だが私にはできない。まずもってこんな私にとって、 そうしたものが無ければ、到底やっていけないから。そうしたもの無しでやっていける程私はタフではない。意識は目覚めている。だが意識が存続するために眠りは必要なのだし、 「世の成り行き」とは別の何かの幻影が必要なのだ。そしてそれらは二つながら自分の心の奥底の別の部屋(ここで私はまたしても、ジェインズの二院制の心を思い浮かべている)に 繋がっているに違いない。覚醒し続け、外の暴力に抗い続け、告発を続けること、現実を見つめるシビアな姿勢は顕揚さるべきだろうが、それはまずもって自ら「世の成り行き」と 化すことに繋がりはしないかという懸念もあれば、それ以上に、意識の賢しらさが嘲笑される瞬間にふと垣間見える深淵、意識の手前にある領域の存在を私は知っているゆえ、 そうした「別の部屋」への通路を持たない音楽は、それが非人間的で超越的な秩序の反映だろうが、人間の愚行と野蛮の歴史の告発であろうが、結局のところ、自分の外で 響くものでしかない。
そして勿論、マーラーが職場でそんなことはおくびにも出さなかったように、私も職場ではそんなことを漏らしたりはしない。「世の成り行き」に唾を吐き掛けたって仕方ないのだ。 私の精神の圏、領域はそことは交わらない、どこか別の次元に開けている。私にはマーラーが自分の人生は紙切れだった、と言った気持ちが私なりにわかるような気がする。 私のような人間だってそう言ってみたい気分に囚われるのだから、マーラーがそう言ったことを咎めることなど到底できないだろう。けれどもその一方で、マーラーの音楽を聴くとき、 「世の成り行き」に優る何かが存在していること、私の脳内の頼りない幻影ではなく、世代を超えるミームとして存続し、そのようにして永遠性へと漸近しうることを確認する。 アドルノが言うとおり、マーラーの音楽は私のようなものにも手を差し伸べてくれる。私もマーラーの音楽ともに行進する「目覚めたもの=幽霊」の一人なのだ。(2010.7.10 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追記。)

2009年5月31日日曜日

戦前のマーラー演奏の記録を聴く

マーラーの音楽が今日かくも普及することについてLPレコードやCDといった録音媒体の発達の寄与があったという主張が、とりわけ音楽社会学といった 研究領域の研究者からよく聞かれるのは周知のことであろう。だがマーラーその人は1911年に没しているため自作自演といえば、ピアノロールに遺された 歌曲3曲(うち1曲は第4交響曲のフィナーレである「天上の生活」)と第5交響曲の第1楽章のピアノ演奏しかない。否、時代を代表する指揮者でありながら、 自作自演のみならず、一般に指揮者としての演奏記録は残されていないようだ。

その一方で生前のマーラーを知る人による演奏記録は少なからず遺されている。その代表は恐らくヴァルターとクレンペラーということになるのだろうが、 それは第二次世界大戦後、録音技術が飛躍的に向上して以降も彼等が演奏活動を続け、今日でも特に「歴史的録音」としてでなく、多くの選択肢の中の 一つとして彼等の演奏が聞かれ続けていることに拠る部分が大きいだろう。その一方で、マーラーの生前からマーラーの作品を取り上げ、程度の差はあれ マーラー自身からも評価されていたメンゲルベルクやフリートの方は、理由こそ違え第二次世界大戦後は活動しなかったから、その記録は限定されてしまう。 フリートであれば、世界初のマーラーの交響曲の録音となった1924年の第2交響曲の演奏が、メンゲルベルクであれば1939年9月の第4交響曲の演奏が 記録として残っていて現在でも聞くことができる。それらは録音技術の制約もあって今日の録音と同等の聴き方はできないだろうが、その一方で、「時代の記録」と いった資料体、晩年にニューヨークに住むアルマを訪れたインタビューや、ニューヨーク時代のマーラーについての楽員の思い出を録音した記録などと同様の ドキュメントであると考えれば、また少し違った聞き方が可能だろう。そしてそうした立場に立てば、ヴァルターにしても1936年5月の「大地の歌」、 1939年の「第9交響曲」の録音は、ドキュメントとしての価値は計り知れないものがある。

否、そうした交響曲の著名な録音に限らなければ、そうしたドキュメントのリストはまだ続けられるし、もう少し遡ることすら可能なようだ。レーケンパーが ホーレンシュタインの伴奏で歌った「子供の死の歌」の1928年の演奏はあまりに有名だが、それ以外にもやはり時代を画する歌手であったシュルスヌスの 「ラインの伝説」「少年鼓手」の1931年の録音があるし、ソプラノのシュテュックゴルトの歌唱には少なくとも1921年迄遡るものがある。(もしNaxos盤記載の通り、 15年頃まで遡るとしたら、これは大戦間ですらなく、第1次世界大戦前、マーラーが没してからもまだ数年という時期のものということになるが、彼女の キャリアなどを考えると1915年説には疑いがあるようだ。)また時期は1930年とやや下り、年齢的にも最盛期は過ぎた時期の録音で、 演奏そのものに対する世評は一般には高くないものの、シャルル=カイエが歌った 「原光」「私はこの世に忘れられ」は、彼女が1907年にマーラー自身によってウィーン宮廷歌劇場に招かれ、短期間ではあるがマーラーの下で歌った ことや、1911年11月20日のミュンヘンでの大地の歌初演をワルターの下で歌ったことを思えば、その記録の意義は計り知れないものがあろう。 ワルターのピアノ伴奏での歌曲やワルター指揮のニューヨーク・フィルとの第4交響曲の歌唱の録音があるデジ・ハルバンが、これまたマーラーが宮廷歌劇場に 呼び寄せたあのゼルマ・クルツの娘であることも付記すべきだろうか。

だが、それらの録音を聴くと、音質の制約の壁を超えてこちらに届くものが確かにあることに否応無く気づかされる。否、もっと端的に、それらの記録の幾つかを 聴くことによって得られる感動は、ドキュメントとしてのそれを超えたものがあることを認めざるを得なくなる。例えば「私はこの世に忘れられ」を、「大地の歌」の 初演者であるシャルル=カイエの1930年の歌唱、1936年にワルターの下で歌ったトールボリ、そして1952年にやはりワルターの下で歌ったフェリアーと聴いていくと、 それぞれの歌唱の素晴らしさに圧倒されてしまう。その感動の深さは、ずっと自分の生きている時代に近い他の録音に劣らないばかりか、もしかしたら それに優るのではとさえ思えてくるほどなのだ。

とはいえ、トールボリの歌唱を含め、ワルターのアンシュルス間際の演奏は、戦前の日本にも輸入されたSPレコードによって知られており、レーケンパーの「子供の死の歌」も またそうであったようだから、それらを知っていた人にとっては格別の思い入れがあるに違いなくとも、私にはそうした思い入れは持ちようがない。1980年代の マーラーブームの頃には、戦前・戦中の日本におけるマーラー受容の様子が知られるようになったり、近衛秀麿の第4交響曲の録音が復刻されたりしたが、 自分がその末梢に位置することは否定しようのない事実であったとしても、だからといってそうした過去と自分が、マーラーを経験することにおいて繋がっている とは思えなかったし、今でもそうは思っていない。日本マーラー協会の会員だったのだからそうしようと思えばもう少しそうしたルーツ探しだってできた筈なのだろうが、 当時の私は全くそうしたことに興味がもてなかった。近衛秀麿の演奏に世界初という記録以上のものを聴き取ることはできなかったし、あるいは例えば戦前・戦中の マーラー演奏と接点のあった日本マーラー協会会長の山田一雄さんの演奏を聴くこともなかった。現在私の手元には1938年3月と1941年1月、 それぞれローゼンシュトック指揮による第3交響曲と「大地の歌」の定期演奏会の時の新交響楽団の会報「フィルハーモニー」があるが、 それらが資料として持つ意味合いを超えるものは何ひとつとしてなく、懐古趣味の対象になどなりようがない。そこに自分が 連なる伝統を見出すことなど、少なくとも私にはできない。そう、寧ろ端的に、それは私が聴いた、私が今聴いているマーラーではないと言いたい気がする。 しかも2つの異なった意味合いで。一つには、現在私がいる時点からの時間的な隔たりにおいて。もう一つには、当時の日本におけるマーラー受容のあり方に対する 奇妙な違和感、つまりそちらの方には逆向きの(つまりもっと自分に近い時点との比較において)デジャ・ヴュが伴うように思えるという点において。要するに同時代性が 文化的な距離を無効にすることはなく、寧ろその点では時代による変化というのがあまりないように感じられるという点において。

だがその一方で、あるいはそうであるだけに、例えばレーケンパーの「子供の死の歌」から受け取ることができるものは、私にとって時代の隔たりを超えて 伝わってくるものなのだ。ワルターの戦前の演奏、特に「第9交響曲」のそれについては当時の時代の危機的状況の記録といった側面が強調されることが多いが、 寧ろ私が思うのは、その時の演奏者の中にはマーラーの指揮の下で演奏した経験のある人が少なからず含まれたに違いないし、その録音から辛うじて聴き取れると 私が感じるものには(あるいはそれは勘違いや思い込みだと言われるかもしれないが)、マーラーの作品が産み出された時代と地続きであるが故の、半ばは演奏様式と いった形で伝統として定着した、だが残りは蓄積された記憶に基づいたほとんど無意識的な親和性があるように思えてならないのである。それは現在の私とはとりあえず全く 隔たった時代と場所の記憶であり、私にとってはマーラーが如何に自分から遠い存在かを否応無く確認させられることになる。演奏技術は向上し、録音の技術も 向上したかも知れないが、「マーラーの時代が来た」などといったキャッチフレーズが如何にお目出度い遠近法的倒錯に基づくものであるかを私は感じずには いられない。寧ろマーラーの時代はとっくに過ぎているというべきなのではないのか。

その点に関連して、もう一つ思い当たったことがある。ワルターの第9交響曲やフェリアーの「私はこの世に忘れられ」を聴いて、私は何となく、バルビローリが ベルリンフィルを指揮した1964年の第9交響曲やベイカーがバルビローリの伴奏で歌った「私はこの世に忘れられ」(これには1967年のハレ管弦楽団のものと、 1969年のニュー・フィルハーモニア管弦楽団のものがあるが)を思い浮かべたのだ。バルビローリは1899年生まれといいながら、イギリスの指揮者であり、 大陸のマーラー演奏の伝統とは直接関係がない。強いて言えばフルトヴェングラーのいわば代役のような形で引き受けたニューヨーク・フィルハーモニックとの関係に 寧ろ接点があるかも知れないくらいなのだが、それではそのバルビローリの指揮で第9交響曲を演奏したときに当時のベルリン・フィルの奏者をあれほどまでに感動させたものは 何だったのか。当時のベルリンには聴き手のうちにも奏者のうちにも戦前の記憶をもつ人がいた筈であり、1960年代にもなって、しかもドーバー海峡の向こうから やってきたイタリア系の指揮者が、そうした記憶に繋がるような演奏をしたことに驚いたといった側面が必ずやあったに違いないと私は思う。勿論、バルビローリと ベルリン・フィルの演奏を戦前の伝統なり記憶なりの継承であるということはできないだろうが、しかし更に半世紀近く後の現在から眺めれば、バルビローリの 演奏もまた過去のものとなってしまったという感覚は拭い難い。結局のところマーラーと現在との距離はちっとも縮まっていかない。寧ろ、ある時期にマーラーの 受容が一気に進んだことによって、逆説的に今度こそマーラーは決定的に過去の存在になってしまったとさえ言いうる気がしてならない。

そしてそうした展望において、三輪眞弘さんの言う「録楽」としてのマーラーの演奏記録を聴くことに、或る種の逆転が生じているように私には感じられる。 戦前の演奏を「録楽」で聴いたからそこに「幽霊」を見出したのではないかという論理の筋道はここでも正しいのだが、その一方でそれは私にとって 予め「幽霊」でしかありえないものなのだ。現代の演奏を遙かに優れた録音・再生技術によって「録楽」として享受するのと、そうした経験の間には 無視できない差があるように思えてならない。権利問題としては確かにそれもまた「代補」なのだが、事実問題としては「代補」としてしか最早存在し得ない。 そして時代の隔たりを感じつつ、にも関わらず、その隔たりを超えてやってくるものは、今日のコンサートホールで繰り広げられる技術的精度においては遙かに優れた 演奏では、或いは今日の遙かに進んだテクノロジーに支えられた録音で聴ける演奏では替わりが利かないもののようなのだ。やってくるものが或る意味で時代を 超えているのだとしたら、一体どちらを「幽霊」と呼ぶのが相応しいのだろう。勿論私は「歴史的録音以外には価値が無い」とは思っていない。作品を把握するには 歴史的録音では限界があるのははっきりしている。歴史的録音の裡にのみ本物があるといった言い方を私は断固として拒絶する。私が言いたいのはそういうことでは ないのだ。そうではなくて、マーラーのような過去の音楽の場合、しかもその音楽が産み出された時代やその時代に陸続きの時代の「録楽」が遺されているような 場合には、それらを現代における「録楽」と同じように聴くことがとても難しいことになるということが言いたいに過ぎない。

それは一般論としてはマーラーだけの問題ではないかも知れない。だが、私個人について言えば、恐らくそれはマーラー固有の側面が非常に色濃いのではないかと 思っている。勿論私がマーラーその人に興味があるのは、このような音楽を遺したからで、そこには逆転はない。だが私は結局のところ、そうした作品を産み出した マーラーその人を探しているのだと思う。作品はマーラーその人の「抜け殻」、それもまた「幽霊」ではないのか。だからといって書簡をはじめとするドキュメントの 方にこそ「本物」がいるとも思っていないし、やはり「本物」は「作品」を通してしか出会えないと思うのだが。 (2009.5.31/9.26)

2007年6月23日土曜日

ヴァルターの「マーラー」より:その「人」についての回想

ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.113, 邦訳p.207):その「人」についての回想
Es erscheint mir als die große moralische Leistung seines Lebens, daß er sich niemals über die Qualen der Kreatur und die seelischen Leiden der Menschheit mit dem achselzuckenden Ignorabimus des Philosophen beruhigte, um den Blick ungestört dem Schönen und Beglückenden des Weltbildes zuwenden zu können. » Daß du ihr Vater nicht, daß du ihr Zar «, diese Worte aus der Totenfeier des Mickiewicz konnte er in düsteren Momenten auch zu Gott sagen. Aber dann fühlte er wieder, daß hier ein Mißverständnis walten müsse, und blieb der Aufgabe, die ihn gewählt hatte, treu: zu leiden und einen göttlichen Sinn darin zu suchen.

 かれが生きるものの苦悩に黙従せず、また「われわれはそれを決して知らざるならん」と、肩をすくめる哲学者の態度で、人間の精神苦を受け流すこともしなかったことこそ、かれの人生の偉大な道義的完成であったと思う。かつそれならばこそ、かれは、この世の全領域における美しきもの、幸いなるものを熟視しつつけることができたのである。「君は人類の父であるばかりではなく、また皇帝!」とのミッキェヴィッツの詩「葬儀」の中の言葉は、また、かれが、暗鬱なときに、神に対していうことのできたことばであった。しかし、その発作は短時間であった。かれはどこかに解けきれぬ誤りがあるように感じて、かれに与えられた問題に真剣にとり組んで、そのなかに、神慮を求めんと苦しんだのであった。 

ヴァルターはここで晩年のマーラーが彼宛に送った書簡を思い浮かべながら、マーラーの「態度」について非常に説得力のある説明をしていると私には思われる。 この文章には、長年に亙ってマーラーと親しく接した人ならではの、決して一時の印象に引きずられない視線が感じられる。(もとの書簡も「語録」の方で 紹介しているので興味のある方は参照されたい。)
こう言ってしまえば身も蓋も無いかも知れないが、人間は矛盾に満ちた存在で、その歩みは決して論理的に整合的なわけではない。ある経験を介して、 一方の極から他方の極へと飛躍することだって、無くはないし、それを責めることは(少なくとも我が身を振り返れば)できない。 ヴァルターはそうしたマーラーの歩みに見られる不変項を取り出しているのであろう。 そしてこうした印象が決して個人的なものではなく、例えば、決して親密とはいえなかったヴァルターとアルマの両方から 聞けるというのは、それが必ずしも主観的な偏見の産物とは言えないことを示しているだろう。アルマもそうだが、ヴァルターにしても決してマーラーの「欠点」に 対して盲目だったわけではないのは、この回想を通読すればはっきりと窺えることでもあるし。
だが、これはマーラーの「人」に対してのコメントであって、その音楽はまた別のものだ、という意見に対しては、ヴァルター自身のマーラーの「作品」についての言葉が 反論することになる。(2007.6.23, 2024.7.26 邦訳を追加。2024.7.28 修正。)

2007年5月20日日曜日

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの言葉

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの言葉(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.100, 邦訳『マーラー 人と芸術』, 村田武雄訳, 音楽之友社, 1960, p.181)
» Auf welchem dunklen Untergrunde ruht doch unser Leben«, sagte er einmal erschüttert zu mir, während sein verstörter Blick noch von dem seelischen Krampf zeugte, aus dem er sich gerade gelöst hatte; und er fuhr dann fort, von der tragischen Problematik der menschlichen Existenz stockend zu reden : » Von wo kommen wir? Wohin führt unser Weg? Habe ich wirklich, wie Schopenhauer meint, dies Leben gewollt, bevor ich noch gezeugt war? Warum glaube ich frei zu sein und bin doch in meinen Charakter gezwängt wie in ein Gafängnis? Was ist der Zweck der Mühe und des Leides? Wie verstehe ich die Grausamkeit und Bosheit in der Schöpfung eines gütigen Gottes? Wird der Sinn des Lebens durch den Tod endlich enthüllt werden? «

かれはかつて深い感動をもって、「われわれの人生は、なんと憂鬱で暗い土台をもっているのであろうか」、と語ったが、そのときのかれの苦悩にみちた表情は、かれが激しい精神の動きから、やっと解放されたばかりであったことを示していた。それからためらいがちに、かれは人間生存の問題について言葉をつづけてこう語った。「われわれはどこからやって来て、どこへつれてゆかれるのであろうか。私は、ショペンアウア云ったように、私が生まれる前にこの人生を本当に望んでいたか。なぜ私が自分の性格のなかで、まるで獄屋にいるごとく束縛されているのに、自由だなぞと感じるようにさせられるのであろうか。労苦と受難の目的はなんだろう。慈悲深い神の創造物のなかに、残虐と悪徳の存在することをどう解すべきだろう。人生の意味は、結局死によって解明されるのであろうか。」 

これらの言葉もまた、あちらこちらで引かれている有名なものであろう。あんまり当たり前になっていて、ショーペンハウアーを引用するくだりなどは、 かえってマーラー自身が言ったのかどうかがあやふやになっていたくらいだ。
勿論、こうした問いを発したことは、とりあえず彼があのような音楽を残したこととは別のことだ。要するに、このような問いを発したからといって、 その問いがあのような作品の成立を担保するわけではない。職業的な音楽家として、あえてこのような個人的な問いを、己が作る作品に 明示的には持ち込まないことを旨とする姿勢があって良いし、むしろそちらの方が高潔であるとすらいえるかも知れない。こうした姿勢に関して マーラーの音楽に向けられる批判は、実は的を射ている部分があるのだと思う。
だが逆に、このような問いなしにあのような音楽が可能であったかを考えると、それは不可能であっただろうと思われる。良きにつけ悪しきにつけ、 それがマーラーの音楽なのだ。その「意図」や「内的なプログラム」に関する謎解きが、その作品の理解「そのもの」であるという立場に立たなくても、 ある場合には歌詞として持ち込まれる言葉が、またある場合には、記号的とも、イコン的とも、あるいはジェスチャー(身振り)というように 表現されるようなその音楽自体のあり方が、こうした問いに対する「営み」であることを理解させる。これはヴァルターのようにそうした文化の内側に いる人には自明のことかも知れないが、実際にはそんなに自明のことではない。どうして音楽が、快・不快とか喜怒哀楽以上の何かを表現したり、 聴き手に喚起したりすることが可能なのか。だが、結果的には、それは確かにマーラーの場合には可能になっていると感じられる。
そして、あるタイプの人間がマーラーの音楽にかけがえのないものを見出すのは、他の人にとっては鬱陶しく、或いはいかがわしくさえ感じられる こうした事情に拠る部分が大きいのではなかろうか。少なくとも私は、こうしたマーラーの姿勢とその音楽を切り離して考えることは 難しいし、それがマーラーが自分にとって「問題」であり続けている理由でもあるのだ。つまり、人と音楽との関わり方の様相は基本的には個別的な ものだが、このマーラーの「場合」の特殊性が自分を惹きつけて止まないのだと感じている。
このヴァルターの文章には、マーラーと直接交流のあった、それだけではなく、あのつらい時期に自己の心底を打ち明けることができるほどに マーラーが信頼していた人ならではの意味深い言葉がたくさんある。それについては、「証言」の項でとりあげていきたい。(2007.5.20, 2024.7.10 邦訳を追加。)