2024年8月4日日曜日

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想(原書1981年Noetzel Taschenbuch版pp.17,18, 邦訳pp.14,15)
(...) Und da stand er nun in Person in der Theaterkanzlei, als ich von meinem Antrittsbesuch bei Pollini heraustrat: bleich, mager, klein von Gestalt, länglichen Gesichts, die steile Stirn von tiefschwarzem Haar umrahmt, bedeutende Augen hinter Brillengläsern, Furchen des Leides und des Humors im Antlitz, das, während er mit einem anderen sprach, den erstaunlichsten Wechsel des Ausdrucks zeigte, eine gerade so interessente, dämonische, einschüchternde Inkarnation des Kapellmeisters Kreisler, wie sie sich der jugendliche Leser E. Th. A. Hoffmannscher Phantasien nur vorstellen konnte; er fragte mich freundlich-gütig nach meinen musikalischen Fähigkeiten und Kenntnissen - was ich zu seiner sichtlichen Befriedigung mit einer Mischung von Schüchternheit und Selbstgefühl erwiderte - und ließ mich in einer Art Betäubung und Erschütterung zurück. Denn meine bischerigen, im bürgerlichen Milieu entstandenen Erfahrungen hatten mich gelehrt, daß man dem Genie nur in Büchern und Noten, im Genuß der Musik und des Schauspiels, in den Kunstschättern sei. (...)

(…)私が、はじめてポリニイを訪問して、かれの私室を去ろうとしたとき、マーラーは、劇場の事務室にいた。やせ青ざめ、やや長面の小柄なからだつき、濃い黒髪で縁どられた切れあがった額、眼鏡の奥に輝く特徴あるまなざし、人と語る場合にいちじるしい表情の変化をみせる顔に表われた懐しさとユーモアの線――それはホフマンの幻想的な物語を愛読する若い読者なら想像に浮かぶ、興味深い、超人的で、威圧的な人物である、あの、劇場主クライスラーに生き写しであった。マーラーは、快く、また親切に、私の楽才や音楽上の知識に関して尋ねてくれた。――それに対して、私は、かれが満足の意を表するまで、羞恥心と自負心との入り混じった気持ちで答えた。――その間、私は、一種の恍惚と深い感動にひたっていた。というのは、私がせまい家庭なかで得た経験では、天才は、書物の中で、音楽の文献の中で、また音楽や劇の鑑賞の中で、また博物館の芸術品の中でのみ発見しうるものであって(…)

この文章の特に冒頭部分、即ち、ヴァルターがマーラーその人と初めて知己を得た際の印象は様々な文献に引かれていて著名なものであろう。 別のところでも述べたとおり、ヴァルターの「マーラー」がマーラーを直接知る自身もまた高名な指揮者の証言として大きな影響力を持っているのは疑いない。 そしてその結果、流布するマーラー像の形成に良かれ悪しかれ寄与するところの大きいことも否定できないだろう。同様なことは、事実関係に関して 不正確であることで評判の悪いアルマの回想にも、シェーンベルクのマーラーに関する発言にも言えることで、彼らがマーラーを「殉教者」「聖人」に仕立てたように、 ヴァルターもマーラーを「天才」と呼んで、「伝説」の構築に寄与したのだ、という見方もあるだろう。アルマの回想についてその後為された事実関係の検証が ヴァルターの回想に対して為されているのかは寡聞にして知らないが、事実は闇の中で「定説」のみが跋扈するということになっていないかどうかについて 疑いを持つ人がいてもおかしくはない。更に言えば証言者同士も全く没交渉であるわけではなく、マーラーの場合でも例えばヴァルターとアルマとの関係が、 それぞれの相手についての記述に微妙な陰影を投げかけているのは間違いがないことだろう。ヴァルターとクレンペラーの関係しかり、アルマとシュトラウス夫妻、 あるいはアルマとアンナ・フォン・ミルデンブルクやナターリエ・バウアー=レヒナーとの関係しかりである。
だが、だからといってマーラーは聖人ではないし、天才ではない、マーラーの歌劇場指揮者としての功績はマーラーが一人で達成したのではないし、 マーラーの遺した作品の価値は限定的なものだ、天才の作品も環境の産物に過ぎないといった主張、一見したところ非の打ち所のなさそうな 冷静なコメントに対して、留保も躊躇もなく賛成できるかということになると、私個人は必ずしもそうではないのである。現時点での私は、マーラーの人間に 対しても音楽に対しても、恐らくマーラーにぞっこんであった若き日のヴァルターほどの思い入れはない。寧ろ否定し難い矛盾に当惑し、あるいは もっと言えば、どうしてこんな人間、こんな音楽に熱中してしまったのか、「他ならぬ」この人と音楽で他ではありえなかったのか、という(これは専ら私個人の) 疑問を解こうとしているに近い。天才、英雄、聖人、ヒーロー、その他何でも結構だが、どんな人間でも矛盾はあるし、欠点もあるだろう。否、もっと正確に 言えば、ある状況下では稀有な資質と見えるものが、別の状況では致命的な欠陥になることだってありうるだろう。勿論、気が合う、合わないのレベルについては 言を俟たない。
それでは、ヴァルターがマーラーに会った時に感じた「これが天才なのだ」という感じ方は、主観的なものであるとして否定されるべきなのか?それは「事実」 ではないのか?実はヴァルター自身はこの点については極めて自覚的で、序文においてきちんと予防線をはっていて、自分が本文で書く主題の持つ限界や 制限について目配せを怠っていない。無論のこと「事実」は大切で、あったことをなかったことにするような詭弁としての歴史修正主義は論外であろう。 意図しない勘違いや書き間違いについては、「事実」を問題にする限り質されるべきであろう。私は歴史学者でもなければ、伝記作者でもない。 世上、ノン・フィクション作家と呼ばれるような(あるいはそのように自己規定される)方々の立場とも接点はないが、そんな私でも、 上記の如き際立って主観的で私的な疑問を解決するために、「事実」を欲するのである。その音楽を繰り返し聴き、楽譜を読み、 あるいは様々な文献にあたって色々な時代の色々な人たちがマーラーについて語り、書いたものを(所詮は自分に与えられた限定された時間で 可能な範囲でに過ぎないが)渉猟するのは、「事実」が知りたいからなのだろう。だが、そうした渉猟の結果は、逆説的にも展望の多様性の認識であり、 そして自分にとって親和的であるようなある展望にたったとき、やはりマーラーは「天才」だったし、 「聖人」「殉教者」「英雄」「ヒーロー」等々と呼ぶに相応しいといわざるを得ない、ということだった。もはやアイドルではないにしても、そしてそうした規定を 否定する意見の存在と正当性を認めた上で、私個人としては、そうしたマーラーの捉え方を否定したいとは思わないのである。
世上、ノンフィクション作家と呼ばれ、あるいは自己規定する方々には、虚像を剥ぎ、偶像破壊をする(と自ら考えている)ことに熱心な方がいらっしゃるようで、 自ら「事実」と呼ぶものをもって他人の立場を断罪するようなことが行われることもあるらしい、というのを最近、マーラーとは全く別の 出来事を調べている時に知った。マーラーとは直接関係のない話でもあり、ここではこれ以上は書かないが、そうした文章を目にして思ったのが、 「天才作曲家」「大指揮者」「名監督」マーラーについても、きっと同じことを言う人はいるのだろうな、ということだったのだ。
そう、マーラーに関しても事情は変わるところはない。私はヴァルターがマーラーから受けた印象を(たとえ事実関係に多少の瑕疵があったことがわかった場合でも) 「真実」を含むものとして捉えたいと思うし、ヴァルターがマーラーについての回想を(自分自身の回想とは別に)書こうと考えた動機に、やはり書かずにいられない 衝動があったのだと考えたい。(勿論、幾らでも「不純な動機」を推測することは可能だろうが、この場合、それは文字通り「下衆の勘繰り」だと私には感じられる。 余技として回想を書いているヴァルターとノン・フィクション作家を生業とし、「真実」を語り、偶像破壊をすることによって糧を得ている場合と比較してみれば 良いだろうし、何よりもヴァルターが書いた文章を読んで、それが「何が言いたくて書かれたものなのか」がわからないということは、私個人にはなかった。) 否、例えばマーラーがいなければ当時の歌劇場の上演水準はどのようなものになっていたか、 マーラーがいなければ昨今のシンフォニーコンサートのプログラムやCD,DVDなどの商品企画がどうなっていたかといった 側面に限定しても、風景が随分と異なったものになったに違いないことは容易に想像がつく。勿論仮に、そうした側面を超えた価値を問題にしたとしたところで、 それがマーラーが歌劇場やオーケストラのプローべでやった 批難さるべき行為を帳消しにすることはないし、マーラーの持っていた欠点、マーラーが周囲の人間に与えた傷を無にすることもないが、だからといって、 逆にそのことをもってマーラーが成し遂げたこと、彼がいなければ成し遂げられなかったものを否定するのもまた、控えめに言っても同程度には不当なことだろう。
要するに、英雄やヒーローが虚構されたものであるという言い方には一定の真実が含まれているのは確かであっても、だからといって、ある人がその地位や 立場にあって成し遂げたことを「一将功成りて万骨枯る」式の言辞によって否定するのも極端であるように思われるのだ。確かにマーラーが歌劇場で達成した 業績はマーラーだけの力で達成できたわけではない。だが、一方でマーラーが自己の能力と気質によって達成したことを毀貶するのは、私には耐え難いことに 感じられる。それを当事者でもない人間が「一将功成りて万骨枯る」として一刀両断にするなど、私には絶対にできない。ましてや様々な資料から、マーラーが 容易くその成功を掴めたわけないことを知り、そして最後には敗残者のように去らなくてはならなかったことを知り、別のところで紹介した職場への告別の辞を マーラーが遺したことを知り、その告別の辞が辿った運命を知っていれば尚更のことである。 クリムトが1907年12月はじめにウィーンを去るマーラーを見送った後に言ったとされるVorbeiという言葉は、マーラーをある時代の象徴、ある価値の 体現者と見做す姿勢から発せられたと受け止められているようだが、その真偽はおいて(そう、もしお望みなら疑ってみても結構である。この場合には 「言った」というのが「定説」だろうが、所詮は伝聞なのだから厳密には真相は闇の中に違いない)、それが偶像視なのか?それが虚像だというのだろうか?ある時は マーラーをもて囃し、褒めちぎり、別の時には手のひらを返したように攻撃したジャーナリズムの世界の人間たちに対してならば、自身も論陣を張った カール・クラウスに従って、「英雄」「偉人」の捏造の廉で告発することも不当ではなかろう。だが、クリムトの言葉の背後にある衝動と、カール・クラウスが批判する 類の新聞記事の背後にある衝動とを同一視することはできまい。
「ヒーローなどいない」「英雄は不要だ」という言い方はそれ自体大変に口当たりが良い ものだが、揚げ足取りになるかも知れなくとも、実際にはヒーロー、英雄は、ある価値観の展望下では間違いなく存在するのだ。「自分はヒーローなどではない」、 「自分は英雄ではない」「ヒーローは別にいる」という当事者の発言は尊重されるべきだし、自身が事実関係を明らかにする証人になることも ありえるだろう。仮にそうでなくても、そうした発言は発言者の価値観の発露であり、さらには発言した当事者の品位を証することはあるだろうが、 一方で、出来事に大したコミットもしていない人間が「ヒーローなどいない」「英雄は不要だ」といった発言をすることは、それはそれで「真実」からの背馳を 齎さないか、私には疑問に感じられてならない。ある人間を「聖人」や「天才」として描き出すことが、事実との乖離を招く危険があることは否定しないが、 だが少なくともそこには書くものの対象に対する敬意と、自分の経験に対する誠実さが存在する。それは書き手自身が持っている価値に対する信頼の 表明でもあるだろう。ヴァルターがマーラーを描くケースはまさにそうだと私には感じられる。あるいはブラウコップフの評伝にしても、ラ・グランジュの膨大な伝記に しても、否、あれほど問題があるといわれているアルマの回想にしても、私には書き遺すことへの衝動と、マーラーの価値に対する揺ぎ無い信頼を感じる。 でなければ、それに一生を費やすことなどできようか。勿論のこと、「真実」と「虚偽」の境を曖昧にすることは厳に慎むべきだが、その上でなお、視点の、 展望の多様性、相違はあるだろう。もし読み手がそれを知りたければ、様々な証言を突き合わせる作業を自分でやれば良いのだ。 それは最早どれが「真実」かを断じるための営みではない。対象がマーラーであれば、マーラーという人間の多様な側面に触れ、価値の多様性の中に、 そのようなマーラーに拘り続ける自分の価値を位置づけるための営みではなかろうか。
では、マーラーが自分の価値と共存し得ない存在であったときにはどうすればいいのか、という問いは論理的には可能かも知れないが、現実には極端な状況で なければ立てる必要のない問いだろう。私が知りうることが世界の多様性からすれば取るに足らない断片に過ぎないのは、始めから明らかなことだ。 フレーム問題にぶつかったロボットではないのだから、自分にとって大した価値を持ちそうにない対象と取り上げては「これは気に入らない」という作業を繰り返す 必要などありはしない。肯定的抱握が生じて、ある永遠的客体が進入することは、それ以外に対する否定であるというのは論理的には正しいかも知れないが、 それでも否定的抱握が生じているわけではない。私には偶像破壊や虚像の剥ぎ取りなどをやっている時間は遺されていないようだ。だから私としては ロラン・バルトの、Il ne nie jamais rien : « Je détournerai mon regard, ce sera désormais ma seule négation. »という言葉に共感を覚えるのである。(2008.7.19, 2024.8.4 邦訳を追記。)

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