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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2025年9月3日水曜日

身辺雑記 I.

I.

... , wo der Obstbaum blühend darüber steht
  Und Duft an wilden Hecken weilet,
   Wo die verborgenen Veilchen sprossen;

Gewässer aber rieseln herab, und sanft
 Ist hörbar dort ein Rauschen den ganzen Tag;
  Die Orte aber in der Gegend
   Ruhen und schweigen den Nachmittag durch.

aus : Friedrich Hölderlin, Wenn aus dem Himmel

「・・・果物の樹は花咲きながらその上をおおい
 甘いかおりが野生のまがきのほとりに漂う、
  ひそやかな菫の花が咲き出でる、

 だが、水はしずかに流れくだり
  ひねもすおだやかにせせらぎが聞こえる、
   しかし、あたりの村々は
    安らかに憩い、午後の時を黙し続ける。」

(ヘルダリン「天から」野村一郎訳)

だが、例えばヘルダーリンの詩集を手にして、「それでもこうして、200年前の人間の遺したものを私は手にしている。」 と思うとき、寧ろ感じるのは、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」という思いだ。 自分にはそれだけの価値がないから、跡を残すべきではない、という感覚に近い。 これはかなり絶望的な認識だ。何も成し遂げていない。理由とか経緯は一番最初に消えてなくなる。結果が全て。 そしてその結果は、いかなる観点からも(勿論「残す価値」という基準に照らしてだが)無に等しい。

中間点というのは数学的な意味での点ではない。それ自体がエポックなのだ。そもそも、中間点を過ぎたのか、まだその中にいるのかすら定かでない。

小鳥たちの死について。 永遠性に関する感じ方が変わったように思える。小鳥たちは聖書に書かれているように、何も遺さなかった。 けれども、彼らの存在は無ではない。もし残るべき何かがあるとすれば、それは私の生の行路の足跡などではなく、 小鳥たちが存在したことではないか、という思いに抗うことはできない。 その一方で、小鳥たちが何も遺さずに逝ってしまったことが、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」 という感覚を抱くようになった契機になっているのだろう。

*       *       *

自分の世界が拡がることは、価値の相対化を生み出す。 今やレヴィナスを、ホワイトヘッドを尊重する人間も、ヘルダーリンを尊重する人間も、カラマーゾフの兄弟を尊重する人間も、周囲にはいない。 自分が「永遠性」に値すると考えているものも、所詮は相対的なものに過ぎない。 それは事実として認めるに吝かではないが、しかし、では生の価値は、何に見出せば良いのか。それとも、随分と希薄になったとはいえ、まだ執拗に残っている厄介な観念的な性向の残滓として、こうした問い自体を消去するようにすべきなのか。

哲学は不毛だと感じられる。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、その理由は全く誤っていないと感じられる。 モードとしての哲学、生活する手段としての哲学を私は見てきた。 私のかつての研究分野の脇で、モードとしての哲学が(正当にも)断罪されるのを見たし、ゴーレムXIVの哲学者への軽蔑もまた、正当であると感じられる。 人工知能への通路が、人間の営みの有限性に最も強く拘束された不毛な方法論を持つ現象学であったことは皮肉だ。 それにしても、この点については、私は哲学を断念するという行為を延々続けていくようにも感じられる。

時間がない、限られている。 にも関わらず何という関心の拡散。飽き易い、というのは何かを成し遂げる為には致命的な欠陥だ。 変な言い方だが、オブセッションに頼るほかない。それが病的なものであるかどうかなど分析しても始まらない。 とにかく自分のオブセッションに従うしかない。自分の中の他者の声。ジェインズの二院制の心。 それは(日常的な性質なものであっても)窮地に陥った時に聞こえているあの「声」と同じものなのだろうか? 超自我やエスといった精神分析的概念もジェインズの二院制の心と同じものを探っているのだろうか? 内なる「神」との対話、内なる「神」からの語りかけも、自分(要するに私=意識)を背後から動かす力もまだ健在なようだ。 オブセッションもまた。

多分器用過ぎて、かつ飽きっぽくて同じことを愚直に続けることができないのだ。 適応過剰でそれなりに状況にあわせてこなしていけるけど、その結果は純粋な消耗で、何かかたちあるものは残せない。 そのくせ自己批判ばかりは一人前で、気分が弱っているときには過去の自分のしたことに自信が持てなくなり、破棄してしまう。 あとで破棄したことを後悔するということの繰り返し。 そうやって時間を浪費していって、結局何も残さずに終わるのだろうか?

死を、有限性を怖れているのではなく、寧ろ、己の生が充実して意味のあるものでないことに対する絶望。 何も成し遂げずに無になることへの絶望だ。 その一方で、意味あるものでなければ、無に帰してもよい、寧ろ無に帰するべきだという考え。 神の衣は永遠性を獲得すべきだが、それを織れないなら、痕跡も何もなく、無に帰したほうが良い。 有限性の意識とは、無意識に無頓着にやっていても、何事か成し遂げうるだろう、という楽観の否定だ。 実際には、自分はそんなに大層な能力はなく、せいぜい、何をするか良く考えて、寄り道を避けなければ何も成し遂げられないだろう。 あるいは、それでも足りないかもしれないのだ、ということに突然気がつくことだ。

そこで、かつてはあんなに拘ったハエッケイタス、ジャンケレヴィッチの事実性は、ほとんど何の慰めにもならない。 かつて拾い読みしかしなかったときにはそれなりに価値をおいていたものが、ようやく通読できたときには慰めにならないというのは皮肉なことだが。 単なる事実性では、(傲慢なことにも)不足なのだ。 単なる事実性が永遠なのは寧ろ困る。 無価値なものまで、それが存在したという事実性が存続するから。無価値なら、事実性は不要。 価値があれば事実性では不足なのではないか。 そう、「実存もせず、実質もないものの永遠を拒否する」側に私はいるのだ。 「どのような生涯を生きてきたかとは無関係」な価値など、私に言わせれば価値ではない。 事実性を重視するのはレトリックでなければ、哲学者のおめでたさがなせるわざではないのか。

*       *       *

自分の能力を測ることの困難さについて。 生活の糧を得るための仕事は自分にとってなんであるか? それ以外のものに、それに勝る価値が見出せないのであれば、結局文句を言うべきではないのか。 このような仕事に、最終的な価値など認めることはできない。ある人は、それを己の成果として誇りもするだろうが、私は最終的な署名は拒絶するだろう。 それが自分の成果であるのは、糧を得るためのCVの裡でしかない。 それが自分なら、それしか自分の遺物がないのなら、私は何も遺さずに、忘れ去られてしまってよい。そんなものに意味はない。 少なくとも、この数年で、この世界がどんなに不完全で、理想というのがどんなに視点依存のもので相対的なものであるか、よくわかった。 そして別に私の周りだけがそうなのではない。 いつもいつも、世界とはこういうものなのだ。 マーラーですらそうだった。 彼の成し遂げたことの価値の大きさたるや、全く明らかなことであるように思われるにも関わらず。 彼がウィーン宮廷歌劇場監督を辞任するときに残したメッセージがどのような目にあったか。

人間の不完全さに対する苛立ち。 大人の世界は、かつて子供の自分にそうと半ば信じ込まされていたようには完全ではなかった。 寧ろ絶望的なほどに不完全なのだ。 人間たちが集まって何かをする、たとえば企業というのはなんと不可思議な組織か。 この数年で見たことは、この絶望に、そして絶望しながらも逃れ得ない現実として受け入れざるを得ないという諦念に繋がっている。 (子供の頃の、集団に対する反応。学級委員の思い出。 だが、別に大人の世界が、子供の世界以上に立派であることは、ついになかった。 レベルは変わらない。かつても今も、結局同じではないか。)

しかし、自分の能力もまた、大したものではなさそうだ、という予感。 もうここまで来てしまった。何も成し遂げずに来てしまったということへの焦燥。 きちんとした訓練すらしてこなかったが故に、これから何をしようとしても、成し遂げるのはもはや絶望的ではないのか? わからない。我儘になるべきなのか?

かつては私は人間を基本的に信頼しようとしていた。人間の世界は基本的に「良い」ものであると思おうとしていた。 その思い込みがどんなに観念的なものであったとしても。 でも実際には、人間はどうやらそんなに立派な存在ではないようだ。 ここ数年で、いやというほどそれを思い知らされた。 ある価値の尺度からしたら、私が未だに抱えている価値観など笑止の沙汰であろう。 「誰が私をここに連れてきたのだ」というマーラーの言葉は、比較するのも馬鹿馬鹿しいほど卑小な私のものでもある。 私がまだ捨てきれずにいる価値観は、今や場違いなものなのだろう。 物差し自体が限りなくあって、己の物差しの優位性を暢気に信じることはできない。 物差し自体が、或る種のミームとして生存競争を繰り広げていると考えるべきなのだ。 要するに、自分が正しいと思ったもの、自分にとってかけがえのないものは、 他者にとってはそうではなく、そしてそれに腹を立てるのは筋違いで不当なことですらあるのだ。 (ところで、レヴィナスの言う他者は、まさにそうしたものであるはずではなかったのか。)

まあ、簡単に言って、誰しも自分に一分でも理があると思っていなければ、到底生き抜くことはできないだろう。 だからといって、自分の物差しの優位を声高に主張することに何の意味があるだろうか? 混乱した論旨もそっちのけで、他人の論を曲解して批判し、それを踏み台にして自分の論の独創性を叫ぶことに、何の意味があるだろう。 でも多分そちらの方が正しい。 ミームの競争であれば、「声が大きい者が勝つ」のだ。 彼らは勿論、自分の物差しが正しいと思っている。 相対性を感じ、自分の物差しの正当性を懐疑したりはしない。 そんなことをするのは、彼等の物差しからすれば、間違いなのだ。 おまけにこうしたことは別に特別に例外的な光景でもなんでもない。 実にありふれた日常的な風景なのだ。

価値は多様であり、誰からも批判されない人間はいない。 マーラーでさえ。ヴェーベルンでさえ。 あるいは、ある価値にのっとってではなく、批判のための批判だってありうる。だから、他人の評価を気にするべきではない。マルクス・アウレリウス?ストア派か?

苦い認識の記述。 愚行の記録。 漠然とした運命への、だけでなく、「人間」に対する。 他者は暴力を与えるものかも知れない。 それを前提しない倫理は「ほとんど」無力だ。 そこにいる弱者を救うことは出来ない。 どこかにある高貴さは、そこにはないかも知れない。 けれども「私のモラル」は残る。愚かさを愚かさと呼び、不完全であるという認識は、ある価値に基づく。 つまり、進化論と唯物論に包囲されても尚、何か、それに抗するものを持ち続けたいのだ。 それ自体がナンセンスに思えようとも、人間の認識の限界を超えられなくても。

才能がある人間なら、唐の詩人のようにそれを嘆く詩を詠み、あるいはショスタコーヴィチのように引き出しの中の作品で憂さ晴らしをすることができただろう。 才能のある人間は、それを嘆く「権利」があるのだ。 ヴェーベルンの嘆きと憤りは、その才能によって正当化される。 マーラーがあちらこちらの歌劇場で成し遂げたことは、彼の能力と、成果によって、十二分に正当化される。 でも、それがない人間は? 自分に対する自信のなさ、自分のした事の価値に対する懐疑というのは、結局才能の欠如の表れではないだろうか? 相対主義は何かを為そうとするにあたっては危険だ。 自分のやることの価値を始めから切り下げてしまい、成し遂げることへの執着を喪わせてしまう。 何かをするには、愚かである必要がある。少なくとも価値についてその場のみであっても<括弧入れ>判断停止が起こる 必要がある。自己批判からは何も生じない。自己への傲慢までの自信が必要なのだ。

何故分業が嫌いなのか? それが進化論的に「正しい」から。 「個」の「私」の地位が危ういから。

けれども、嫌であっても、それは正しく、有効であって、天才ならぬ個に抵抗の術はない。 アドルノの主観―客観図式にはもう関心があまりない。「自然」の優位、圧倒的な優位からくるニヒリズムが問題なのだ。

あまりの自己過信、選択の誤り? 否、選択は誤っていない。もし誤りがあれば、もっと前、自分が世界と拮抗しうるとの思い込みと、 諦念との間の振幅のうちにあった。いずれにしても途はなく、もっと愚直であるべきだった。 どちらにしても、傲慢であったのだ。 頭で決め付けたことには変わりはない。 気付いてみれば、神の衣を織る術はない。 自分が「何によって」「いかにして」神の衣を織れるのかわからない。

*       *       *

祝福と呪い、ではない。どちらも無意味であることこそ、耐え難いことなのだ。 寧ろ一貫性の方が稀である。不器用、奇人とみられたかも知れない一貫性によって、生き延びたのかも知れない。 大抵の営みには一貫性などない。

我が王国はこの世のものならず。 自分の中にあるものを破壊すべきではない。 折り合いをつけるという点では、自分の中にあるものも、例外ではない。

奇妙なあり方、呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか? けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。

思いのほか変わらない、という見方もある。 かつてだってそうだった、、、孤立、外から来る知らせ、、、

自分の内側に何もない、遺すべきものはない、と感じられれば為すべきことはない。 もし、何かを表出する、刻みつける衝動を感じたら、それに素直に従うことだ、その価値を云々しても仕方ない。

そして、やすやすと成し遂げることができる人たちへの羨望。 自分の状況への苛立ち。仮に自分に能力がなく、我儘が単なる我儘であったとしたら、そのときは? 一体、何のために生きるのか?神の衣は?私には手が届かないのか?

自分の作品が匿名であることを望むことができる高貴さ、強靭さへの驚き。 何ということだろう。 確かに、自分にも、無に帰するという認識はある。 それは己の痕跡を消し去りたいという欲求と結びつく。 だが、それは何も遺さないということで、遺したものが無名のものになって欲しいというのとは同じでない。 何という寛容さだろう。 私は、そうであれば痕跡を、「私」のそれを残したいか、さもなくば無でありたいと願っているのに。 この件に関しては、私は寧ろ、苛立ちを感じる人間の心情の方がよくわかる。そこにある種の謙虚さのポーズを、 (無意識のものかも知れないが)欺瞞を感じ取ることだってできる。

我を離れた態度というべきか。 神の衣を織ることとは、そういうことかも知れない。 神の衣を織れぬ者は、ただ消え去るしかないのか?

ジッドの狭き門。多分読み方は異なっている。 そして、アリサの心持ちに多分に曲解に近い共感を覚える。 「私は年老いたのだ。」というアリサのことばの重み(これはその場を取り繕ったことばではない、と今では思える)があまりに直裁に胸をつく。 書棚を整理し、キリストにならいてを読む、という心情にも、ずっと身近なものを感じる。 書棚を、CDを、楽譜を処分して、一旦自分の周りに気づき上げた世界を崩して、その価値を自明のものとは見做さない姿勢をとること。 アリサがパスカルの偉大さに対して感じる苛立ちが、今の私には我がことのように思えてならない。 マーラーの音楽の偉大さは、今や私を苛立たせるのだ。

こうして他が何も残らない、廃墟のような状態だとよくわかる。 「神ならぬ者は、、、」

多分、神の衣を探しても見つかりはしない。 それは事後的にしかわからないのだ。 手に出来るかどうかは、わからない。 どこにあるかもわからない。 それはわかっているのだが、、、

*       *       *

私は結局立ち尽くしてしまう。 何も生み出すことができない自分に愕然として。 あの「知性」とやらは、対して役に立たなかったようだ。 神の衣を織るためには用いられず、取るに足らない営みに浪費されていく。 そこで多少うまくいっても、誰かの金ぴかの自己像の補強に役立つのが関の山のようだ。 またしても「私の生涯は紙くず同然だった。それは盗まれていた」というマーラーの抗議が身近に響く。 勿論彼のようにそれを言う権利は私にはないのだが。

一体、生きていることに何の意味があるのか? 彼らのとの価値観の競争など、私はしたくない。 邪魔をしてくれなければそれでいい。 目障りだから、どこか他所で自分の好きなようにやってくれれば最も良い。 でも、私自身には一体何の価値がある? 私の価値観には一体どういう意義があるのだ? 何かを生み出すことの無い人間が読んだ本、聴いた音楽は、どんなに立派な反応をその個体の内部でしていたと言い張ろうと、 その個体が消滅すれば、何の痕跡も無く消えてしまう。本をそろえ、CDを集めることになど意味は無い。 何が残せるかがすべてなのだ。 復讐のためにも、何かを残すことが必要だ。

だが今や己の歌の円熟に如何程の意味があるのか? 「歌」の領分はいよいよ狭まり、そして「歌」の価値を最早自らが信じられないでいる。 遺された本、楽譜が一体何を意味するか? それはとても不完全な仕方で、とても間接的に、ある人間の生を、その主観の眺めた星座を描き出す。 そこにはほとんど事実性以上の意味などありはしない。 そして事実性はジャンケレヴィッチがそう思ったほどには価値のあるものではない。 もしそうであれば、それはボルヘスの「記憶の人フネス」の認識したような世界の裡でであろう。 だが、そのようなことは現実にはない。 自分で抽象すること、自分で語ることが必要なのだろう。その抽象が個性なのだ。事実性は個性を救えない。事実性はすべてを平等に救うかに見えて、 まさにそれゆえに、何も救い出さない。ジャンケレヴィッチは間違っている。そして、自分のやっていることだって、事実性にすべてを委ねることからは程遠い。 あの際限の無いおしゃべり。物事を整理し、論理を通すことを蔑むペダントリー。折角の思惟を台無しにしてしまう。 それでいて、モラルについて諄々と説くわけだ、、、

まだ、諦められない。 そうして私は、神に問いかける。 問いかけることをやめることは少なくともまだできそうにない。 私は神に祈らずにいられない。 私を導き、何かを生み出す力を、あなたの衣を織ることに寄与することをお許しください。 私の生を不滅性に寄与することのできる、意義あるものにしてください。

私はまだ諦めることができないのだ。 歳をとり体力も気力も衰え、ますます時間の余裕はなくなり、不毛な時間の経過が早くなっていて、 絶望的になったりすることはあっても、完全に諦めることはできない。

(2002執筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)


2025年5月4日日曜日

備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (7・補遺)

  ジャンケレヴィッチの『死』の中の「老化」についての章(ジャンケレヴィッチ『死』, 仲澤紀雄訳, みすず書房, 1978, 第1部 死のこちら側の死, 第4章 老化)について読解を試みた結果については、既に備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業(7)にて報告しています。そこでは章のタイトルにも関わらず、だが死を扱った本の一部であることを考えれば仕方ないことながら、「死」とは異なった「老い」の固有性についてはきちんと扱われていない印象がありました。

 しかしながら、上記はあくまでも「老化」についての章に範囲を限定してのものであって、実際には――ジャンケレヴィッチの叙述スタイルからすればありがちなことですが――「老化」について語られているのは「老化」の章だけではありません。もともとが『死』という著作における「老化」の扱いを検討することを目的としていた訳ではなかったため、他にどれくらい「老化」について語られ、どのように語られているかを逐一検証することはしませんでしたし、ここでそれを行うつもりもありませんが、ふとしたきっかけで「老化」について、その「固有性」を捉えた記述が為されている箇所があることを確認したので、補遺としてその個所を報告するとともに、些かの覚えを記すことにします。

*     *     *

 まずは端的に、「老化」(vieillissement) についての言及を含む該当の箇所を示します。それは、第3部 死のむこう側の死 , 第3章 虚無化の不条理さ, 2 連続の当然さと停止の非道さ に含まれていました。邦訳では445ページです。該当箇所を含め、少し広い範囲を引用します。

「ところが、死すべき存在の停止が連続の当然さに皮肉なことにも――説明のつかないことだが――挑戦するのは、一つの事実だ。限りなく延ばすことができ、本質的には避けることができる停止の偶発的性格についてわれわれは語った。なぜ他の瞬間ではなくて、ある瞬間におこるというのだろう。状況と偶然がこれを決定する。だが、連続はいわばその体質をなくしている一種の欠陥と呪いとを蒙っていなかったならば、状況のほしいままにはならないことだろう。持続の作用のもとに、連続は質の悪化、老化と呼ばれる衰頽をこうむる。生きた存在にとって、存在するとは、変わらずに時の外で存在し続けることではない。存在するとは変化することだ。その根源的なもろさが連続を傷つけやすく、脆弱なものとし、連続を数多くの危険にさらして、それらの危険がたえず生きた存在を狙い、生きた存在を僥倖に依存せしめる。ある状況のもとでの連続とは、つまり、脅かされている連続だ。連続に課せられ、その未来を危うくする根源的欠陥、先験的ハンディキャップをただ単に有限性と呼ぼう。こうして、あらゆる連続にとって、有限性とは停止の可能性を表象する。存在の連続は当然のことだが、身体の生存は(というのは、実際には測れないことが問題なのだから)射幸的連続だ。」

 文脈としては、節のタイトルに示されている通り、そして前後の部分でも述べられている通り、「連続の当然さ」というのが生きた存在については成り立たない由縁を述べるところで、変化していく生きた存在においては、「老化」によって連続の「当然さ」が成り立たず、傷つきやすく、脆弱なものであって、常に停止の可能性に脅かされていることを述べているのが確認できます。そしてここでの「老化」の定義は、「老化」の章の読解においても参照した、以下のような「老化」のシステム論的定義と極めて親和性が高く、「死」とは(勿論、密接に関わっていはしますが)区別される「老化」の固有性を捉えたものとなっていることに留意しておきたく思います。

「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.230)

 従って「老化」の章に限れば、「死」を論じるにあたっての補助線のようなものとして触れられているに留まっているとはいえ、著作全体を通してみれば「老化」の定義として妥当と思われる記述が含まれていることに触れなければ公平を欠くことになるため、ここで補遺として報告することにした次第です。

 但し注意すべきは、「老化」について述べた後の部分で更にジャンケレヴィッチが「連続に課せられ、その未来を危うくする根源的欠陥、先験的ハンディキャップ」を「有限性」としているのは、これは文字通り「生きた存在」は有限な存在であり、だから常に停止する可能性を孕んだ存在であるということですが、有限性そのものは、それが「死」と密接に結びつくものである一方で、「老い」とは独立に論じうるという点です。それは「停止」たる「死」が、必ずしも「老化」を介さずにも(例えば突発的な事故とか、病気とかによって)起きうることを考えれば明らかでしょう。

 更に一つ手前に戻って、「根源的なもろさが連続を傷つけやすく、脆弱なものとする」点においても、それが存在することが変化することであるということに由来する限りにおいて、その由来を「老い」のみに限定することはできないことにも注意すべきでしょうか。変化もまた、「老化」がそれであるとされる衰頽、質の悪化という方向性のみに限られるわけではありません。勿論「根源的なもろさ」や「傷つきやすさ」という言葉で書き手が想定していたのは、第一義的には「老化」の持つベクトルなのかも知れませんが、ジャンケレヴィッチの思惑はそれとして、ここでもまた何らかの怪我とか病気による変化を思い浮かべれば、「もろさ」「傷つきやすさ」に繋がる変化には、ベクトルの向きは同じ方向を向いているとはいえ、必ずしも「老化」には由来しないものが含まれうることに容易に思い当たるでしょう。逆に「根源的なもろさ」や「傷つきやすさ」をあまりに安易に「老化」に結びつけてしまうと、比喩としては有効であったとしても、「老化」の固有性を見誤るだけではなく、「老化」以外の側面が見えなくなってしまう危険があるのではないでしょうか。

*     *     *

 実は、上で引用した記述があることに気づいたのは、特に後期レヴィナスにおいて「老い」についての言及が存在することを思い出し、レヴィナスの著作を読み返しながら、レヴィナスの思想における「老い」を扱った研究がないかとWebを検索して行き当った、古怒田望人さんの論文「 老化の時間的構造 : レヴィナスの老いの現象学の解明を通して」を通してでした(当該論文は、浜渦辰二編『傷つきやすさの現象学』に第6章として所収)。この論文はタイトルが示す通り、まさにレヴィナスの思想における「老い」を論じたものですが、その中で、「『死』(1966)においてジャンケレヴィッチは老化を「傷つきやすさ」の経験とみなして」いる」(同書, p.114)として、上に引用した箇所が参照されているのです。そしてこの指摘をいわば補助線として、この論文では、それ以降、思想史的な影響関係を踏まえた上で、レヴィナスの著作における「老化」についての記述をジャンケレヴィッチにおける老化を通じて解明していきます。その道筋を私なりに要約するならば、概ね以下のようになります。

 まず、私もまた『死』の「老化」の章の読解で参照した

「老化は漸進的なものだが、老化の意識はそうではない。」(ジャンケレヴィッチ, 『死』,,仲澤紀雄訳,みすず書房,  p.231)

に言及し、

「通常は潜在的である「時間」が、身体(「人体」)の断続的な変化を通して意識させられる現象が、老化なのである。」(古怒田望人「 老化の時間的構造 : レヴィナスの老いの現象学の解明を通して」,  浜渦辰二編『傷つきやすさの現象学』所収, p.115)

という指摘を行った上で、だがその後は専ら、そうした「老化」の意識ではなく、「老化が関わる「時間」の本質」(同書、同頁)の側が分析されていきます。私が限定的に些事拘泥的に読解を試みた『死』の「老化」の章は勿論のこと、『死』以外のジャンケレヴィッチの様々な著作やジャンケレヴィッチに関する研究文献が縦横無尽に参照され、まず時間の本質として「不可逆性」が取り出され、ついで「過去の実在そのもの、「過去全体」、つまりその「事実=コト(fait)」は時間の不可逆性において反復不可能であるがゆえに、唯一かつ永遠のものとなる」(同書, p.117)という現象を通じて「コト性(quoddité)」が取り出され、「老化の時間性」について以下のように分析されることになります。

「老化の時間性、ひいては時間の本質である不可逆的時間性は、抗いがたく消えゆく存在者の有限性の悲劇であると同時に、その構造において、死によって消し去られない過去の実在そのものの唯一性と消失不可能性を当の存在者に残す時間性なのである。有限的な時間は、老化という不可逆的時間性として現実化することで、その有限性に抗した肯定的な過去の水準を残すものとなるのだ。 」(同書, p.119)

 そして上記のような分析に基づき、「後期レヴィナスはジャンケレヴィッチの老化の解釈を経由することで、老化の不可逆性の過去の意義を見出すことができたのだ。」(同書, pp.119-120)と結論づけられるのです。

 この論文は、――タイトルからは予想しづらいのですが――そもそもの構想として、レヴィナスの著作における「老化」についての記述を、思想史的な影響関係を踏まえた上で、ジャンケレヴィッチにおける老化を通じて解明するという仕立てのものですから、特にレヴィナスに対するジャンケレヴィッチの影響の事実関係について教えられる点は多いですし、ジャンケレヴィッチの時間論については、様々な著作やジャンケレヴィッチに関する研究文献が縦横無尽に参照された周到なもので、勿論その当否について、専門の哲学研究者ならぬ私が判断することなど出来ないですが、そうした私にもわかりやすく説得力のあるものに感じられます。

 しかしその一方で、ジャンケレヴィッチの思想の紹介としては要を得た、申し分ないものであったとしても、それが実際にレヴィナスの思想の組み立ての細部にわたってそのまま適用できるかどうかについては、直ちに幾つかの疑問が思い浮かびますし、レヴィナスがどう言っているのかという点の是非は、これもまた専門の哲学研究者の領分であって、素人が異議を挿し挟むものではなく、素朴な疑問を提示する以上のことは控えるべきとしても、「老化」という事象そのものの分析としてみた場合、自分が実生活で経験し、直面することを余儀なくされた事柄に即した時にも、直ちに幾つかの違和感が湧き上がってくることを禁じ得ません。

 その疑問点、違和感の由来を突きとめることは、マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業という本稿にとって密接な関わりを持つものとは思うものの、哲学の専門的な文献を扱うだけの資格も時間も今の私にはなく、ここでは備忘として、極めてシンプルな仕方で疑問点、違和感を列挙した覚えをしたためるに留める他ありません。そこで以下では、ラフでインフォーマルなかたちではありますが、疑問点・違和感を記しておくことにします。

*     *     *

1.ジャンケレヴィッチの老化の時間論において、「傷つきやすさ」というのは結局どのような位置づけを持つのでしょうか?

 まず最初は、事柄そのものに即したというよりは、議論の組み立てに関わる点なのですが、何よりも一読者として当惑させられるのは、(こちらの読み落としがないとして、)「「傷つきやすさ」から事象の記述を試みた後期レヴィナスと呼応する」(同書, p.114)ものとして、『死』の邦訳p.445(上に引用した、第3部 死のむこう側の死 , 第3章 虚無化の不条理さ, 2 連続の当然さと停止の非道さ の中の記述)を指摘しつつも、その後のジャンケレヴィッチの議論の紹介・分析において、ついに「傷つきやすさ」について言及されることがないという点です。

 上にも述べた通り、「老化」の章の読解を通して、ジャンケレヴィッチが「死」との関わりにおいてしか「老化」を扱っていないと感じた私にとっては、寧ろ、指摘の箇所こそが「老化」の固有性を捉え得たものと感じられたのでしたが、論文ではその後、指摘箇所の記述に触れられることはありません。専門的な見地からは、そもそもが当該箇所の「傷つきやすさ」が、確かに単語としては同じであるとしても、レヴィナスの思想における「可傷性=傷つきやすさ」と単純に同一視できるものなのかと言う点についての議論もあるでしょう(素人目には、ことこの点に限っては、寧ろジャンケレヴィッチの方が「老化」固有の相を捉えており、レヴィナスの「可傷性」は、必ずしも「老化」に限定されない幅広い含意を持つものに思われます)し、それとは別に、事柄に即して考えた場合に、「傷つきやすさ」を専ら「老化」という点から捉えたものと見做すことについては既に留保を記した通りでありますが、「老化」が「傷つきやすさ」と関わるという点については何ら異存はなく、繰り返しになりますが、寧ろジャンケレヴィッチの当該箇所はその点を極めて的確な仕方で指摘したものに思われただけに、はぐらかされた感じが否めないというのが率直な感想です。逆にジャンケレヴィッチの「老化」に関する「傷づきやすさ」への言及が当該箇所に留まり、概念的な広がりを持たないものだとするならば、今度は、それを梃にしてジャンケレヴィッチを通してレヴィナスを読み込むことの妥当性の方が問われるようにも思えます。

 その一方で、レヴィナスの側の文脈からすれば、「老化」の時間論的構造としてまず思い浮かぶのは「隔時性」と呼ばれる構造です。但し、「隔時性」は「老化」固有の構造という訳ではなく、寧ろ「隔時性」の構造を持つ一例として「老化」が例示されています。そこで思い浮かぶのは、隔時性」の特徴である自己に遅れるという時間論的構造が、『実存から実存者』におけるような初期のレヴィナスにおいては専ら「疲労」や「怠惰」といった事象を通じて分析されていたということです。そして「疲労」と言えば、ジャンケレヴィッチも「老化」を論じるにあたり、「疲労」を比較の材料として取り上げていましたし、近年の「老化」研究においては「炎症」を介して「疲労」と「老化」の関係が問われていたりもします。そして「炎症」は、当然「傷つきやすさ」と密接に関わりを持ちます。こうした事情を踏まえるのであれば、(なぜ後期に至って「疲労」や「怠惰」に代わって「老化」が取り上げらるようになったのか、という思想史的な興味は一先ず措くとして、)「隔時性」と「傷つきやすさ」との関係がどうなっているのかについても気になるところではありますが、その点についても論じられることはありません。「隔時性」についても、専ら倫理的次元への通路として言及されるだけで、その時間論的構造の面、特に「老化」固有のものを取り出そうと考えれば当然問題になるであろう、「疲労」「怠惰」等との違いについて論じられることもまたありません。勿論、この点について古怒田さんの論文に答えを求めるのは無いものねだりで筋違いであるとしても、「老化」の時間性の解明という問題一般としては依然として疑問のまま残されているように思います。この点は実は、そもそもレヴィナスが「老化」固有の時間性の分析を行っているのか?という疑問にも繋がっていくのですが、本稿で扱うには大きすぎる問題ですので、ここでは問題の提起に留め、最後の点についての私なりの見通しのみ、後で再度簡単に触れたいと思います。

2.「コト性」「事実性」へ依拠して、「老化」に「人間性を確保する」ような側面を見出そうとするのは「老化」の固有性を損なうことにならないでしょうか(2a)。また「老化」との関わりとは独立に、「コト性」「事実性」へ依拠して「人間性を確保する」ことはレヴィナスの思想の枠組みの中において妥当なのでしょうか(2b)。 更に、レヴィナスがどう言っているかとも独立に、事象そのものの分析としてどうでしょうか(2c)。

 こちらの問いは厳密にはa,b,cの3つの異なった問に分けられ、それぞれを区別して論じるべきでしょうが、ここでは厳密な議論による論証は意図しておらず、単なる疑問の提示に留まることから、3つの問いの絡み合いを示すという意味合いでも、敢えて一体のものとして述べることにします。

 「コト性」「事実性」への依拠というのは、『死』という著作においてもジャンケレヴィッチの「結論」であり、ジャンケレヴィッチの思想の重要なポイントなのだとは思いますが、「何性」と区別される限りでの「コト性」として「事実性」を捉えて、そこに価値を見出すというのは、私には哲学者ならではの極めて抽象的な発想のように感じられ、実際に生きている人間の経験や実感とはずれているように感じられます。仮にその点は譲ったとしても、それは「死」に対する態度の拠り所とはなりえたとして、「老化」に結びつけるのには飛躍があるように感じます。

 この論文は、その結論部分において「老化」というのは否定的なものであるけれど、その構造には「人間性を確保する」ような側面があるのだとして、それを人が生きてきた過去「全体」、生きてきたという事実の「こと性」そのものに基づけようとしています。そして死を目の前にした臨床現場の分析を通した村上靖彦さんの以下のような議論を引用しています。

「死が近づくなかで自己を支えるのが、過去を思い出して肯定することなのである。過去の対人関係が、かすかに残っている現在の自分を支える。目の前の世界が身体の衰弱によって縮小していったとしても、過去の地平は縮小することがないからだろうか。あるいは行為が不可能になったときに、対人関係こそが自己性の核であることが浮かび上がるからであろうか。」(村上靖彦,『摘便とお花見: 看護の語りの現象学』, 医学書院, p.233)

「「死が近づくなかで自己を支えるのが、過去を思い出して肯定すること」「過去の対人関係が、かすかに残っている現在の自分を支える」というのは、分析というよりは臨床的な次元での事実に属することなのだと思いますし、特に「対人関係こそが自己性の核である」という点については全くその通りで、それまで身体の衰えとともに交流範囲が狭まって、孤独感が強まり、更に独力でできていた身の回りのことができなくなっていって、独居が困難となり施設に入居するようになると、その結果として、それでもそれまで維持されていた交流関係さえも断たれてしまうことが避け難く、それまで自明であった自己性の維持が困難となるというのは私の経験に即しても事実だと思います。

 しかしまずそれが「過去全体」の「こと性」への依拠であるという点には疑問を感じます。生きてきたことそのものを肯定する、というのは頭の良い哲学者が思いつく抽象で、多くの人はそんな風には考えないし、寧ろ支えとなるのは豊かな情動に彩られた具体的な対人関係の記憶なのではないでしょうか。だからこそ具体的な個々の対人関係の断絶に苦しむのであって、それはその後、施設の中で構築される対人関係である程度補われるものであるにしても、決して代替が効くものではありません。いや、事実性とはまさにその代替不可能性なのだ、ということなのかも知れませんが、それでも「過去全体」、「事実性」そのものへの依拠ではなく、あくまでも個々の事実が持つ情動的な側面こそが支えになっているのでは、というのが私の素朴な感覚です。勿論これは感じ方の問題かも知れず、であれば論証によりどちらが正しいという次元のものではないので、あくまでも違和感を述べているだけであって、誤りの指摘ではないことは強調しておきたく思います。

(この点に関連してもう一言付け加えるならば、村上さんの引用における「過去の地平は縮小することがない」という言い方を理解するにあたっては、幾つかの留保が必要ではないかと思います。特にここで言う「過去の地平」というのが「過去全体」の「コト性」を指しているのかどうかについては議論があるのではないでしょうか。少なくともここでの「地平」概念は、通常の現象学におけるそれとは異質のものであって、2004年に現象学年報に掲載された村上さんの論文「方法としてのレヴィナス―情動性の現象学における自己の地平構造―」で素描されたそれを踏まえたものでしょうし、この論文でも確かに「事実性」という用語は出て来ますが、寧ろ極限値として、空虚な空想として作動しているものとされる「事実性」が果たしてベルクソン=ジャンケレヴィッチ的な「過去全体」と同じものなのかについては、疑念の余地なしとはしません。しかしながら、村上さんの上記論文の重要性については疑う余地がなく、自分なりに理解できた限りにおいて、その主張に賛同するが故に、その理路を明らかにしたいものと思いつつも、この点を論証するのは(遥か昔にごく短期間、期限付きで哲学研究に携わったことはあっても、事情あってその後継続すること能わず、何十年の歳月の隔たりを経て今や素人に過ぎない)現在の私の手に余ることなので、この点についてもここでは疑問の提示に留めざるを得ません。また同時に、レヴィナスのいう絶対的過去というのが、形而上の抽象ではない事実の次元においては生理学的基盤を持つ記憶に関わらざるを得ない想起可能な過去に対応しうるのかもまた確認が必要なことに思えます。「地平」の定義次第の感じはありますが、寧ろそれは現象学における一般的な「地平」すら形成することのない「地平」の向こう側、だけれどもそれによって主体が形成された根拠(そうした領域があることは何か神秘のようなものでは全くなく、ごく普通に、意識主体が経験できる領域の外側(ここでは手前)で起きた出来事のうち、主体の形成に関与したものということに過ぎません)であると考えるのが普通の受け止め方ではないでしょうか。一方では一般には個人の前史に関わるものと了解されるフロイト的な「エス」「超自我」や、前意識、無意識的な水準との関わり、他方ではフッサールであれば『幾何学の起源』等で問われているような個人を超えた共同体的な地平も含め、一般に潜在性というのをどこまで認めるかについて、村上さんの論文で提起されている情動性の現象学における「地平」や「事実性」は極めて広大な問題領域を覆うものであることが素人目にも容易に想像され、私の手には余るので、これについても指摘に留めざるを得ませんが。)

 しかしここでの議論においてより本質的なのは、「過去全体」の「こと性」というのが、果たして「老い」固有のものなのかという点に対する疑念です。論文の結論では、「老化は、その時間的構造においてはそのような消滅に抗う意味、そして倫理すらも基づける現象なのである。」(同書, p.123)と述べられるのですが、そこには重大な錯誤、でなければすり替えがあるのではないでしょうか。

 レヴィナスが言う「老い」の時間論的構造が、倫理的なものに通じるという点は、実際にレヴィナスがそう言っているので間違いはありませんが、 それは「消滅に抗う意味」ではないと私は考えます。寧ろ意味の手前にあって、主体が能動的に意味付けできないもの、寧ろそれこそが主体を意味づける当のものとしての倫理的なものである筈ではなかったでしょうか。主体は他者との関わりによってしか確立されません。予め返すことのできない負債を負っているようなもので、レヴィナスが言っているのは、そうした主体の生成に纏わる構造のことではないでしょうか。そしてそれが「老化」とか「疲労」とか「怠惰」のような主体にとって受動的、自分自身に対する「遅れ」を伴うような事象を通して垣間見られるということが述べられているに過ぎないのではないでしょうか。

 ここで詳細に述べることはできませんが、私見では時間論的構造としては、「老化」の時間性は、全き受動として、寧ろ意味の「消滅」であると端的に言うべきでしょう。それは構造的に主体が受動的でしかない点において「疲労」とか「怠惰」と類比可能ですが、だからといって「老化」は「疲労」でも「怠惰」でもありません。寧ろ「老化」固有の時間性は、実はレヴィナスの分析によっても汲み尽くせていないと言うべきではないか、具体的に如何なる点で「老化」が他の受動的な事象と区別されるかについては述べられていないのではないかと思います。(それはレヴィナスが「他者」や「倫理」を語るゆきずりに「老化」について語っているのであって、「老化」を主題として語っているのではないことを思えば仕方ないことで、無いものねだりなのだと思いますが。)

 いわば、ここで問題にされている抽象的な構造は、それが「老化」にも当て嵌まるとしても、必要条件であるだけで十分条件ではないのです。「老化」のある面が「疲労」や「怠惰」と同型の時間的構造をもたらしているだけで、「老化」固有の時間性は別の次元にあるのだと思います。村上さんの文章にある「目の前の世界が身体の衰弱によって縮小していったとしても、過去の地平は縮小することがない」というのは、それ自体の適否については措いたとしても、こと「老化」には直接関わらないものではないでしょうか。「死」に向かう際の拠り所となる筈の記憶さえ喪われ、認知的に過去の地平もまた縮小していくのが、「老化」の現実ではないでしょうか?だからその意味では「老化」は「死」に立ち向かうことそのものを困難に、否、もっと言えば無意味なものにしていくという点で、人間性を確保しようとする立場にとって限りなく苛酷なものなのではないでしょうか。「人間的」な「主体」が本質的に社会的な存在で、他者との関わりにおいてしか維持できないものだとしたら、「老化」によって「私ができる」の範囲が縮小していくだけでなく、他者との関わりもまた、身体的にも認知的にも限定されていくことによって、「人間性が確保」できなくなるというのが寧ろ「老化」の実質ではないでしょうか。(記憶が損なわれ、地平が損なわれるのは、病の結果であり「老い」とは区別されるべきだ、という見解もあるかもしれませんが、記憶の障害の原因の判別は現実には困難で、従って認知症は事実上、原因に基づくものではなく、症状に基づくものであることを踏まえれば、様々な認知的な障碍に見舞われて、過去へのアクセスが困難になるというのは「老い」という事象に関わるものと見なすのが妥当だという立場を私は採りたく思います。)仮に、「老化」が過去へのアクセスを困難にすると同時に、にも関わらず、その過去を価値あるものにする当のものなのだというパラドクスが言いたいのだとして、現実に「老化」によって、「老化」が価値を担保している筈の過去へのアクセスが困難になってしまうのだとしたら、そのパラドクスは一体誰にとってどのような意味を持つのでしょうか?理論上はどうであれ、事実としては「老化」は自らが担保している価値すら破壊してしまうような厄介なものであると寧ろ言うべきなのではないでしょうか?

 更に言えば、「老化という不可逆的時間性として現実化すること」により確保され、「死によって消し去られない過去の実在そのものの唯一性と消失不可能性」により担保されるものとされる「その有限性に抗した肯定的な過去の水準」は本当にその有限性を乗り越えられるのだろうか、という疑問も浮かびます。形而上学的な「過去全体」ならぬ、有限性に限定づけられた生きた存在の「過去の全体」は、本当に「死によって消し去られない」のでしょうか?素朴に考えれば、その個体が死んでしまえば、唯一のものであり取り換えの効かない、その個体の「過去の全体」は、寧ろその唯一性故に消滅するのではないでしょうか?そして普通の人間の感覚では、まさにそのことこそが危惧されているのではないでしょうか?そしてもしそれが個体の有限性を超えて存続しうるとしたら、それはまさにその個体にとっては「他者」である「私」に対してその事実を語り、それを受け止めた「私」がその個体が生きたことを証言することによる他ないのではないでしょうか?「過去全体」の事実性の存続は、それ自体によって可能になるのではなく、寧ろ「証言」こそが存続の、ひいては「人間性の確保」の必須の要件であり、「証言」はその構造上、「他者」を必須のものとして必要としている、従って寧ろ(その場にいるかどうかは措いて、可能性としてであれ)「他者」こそが事実性の条件であるということはないのでしょうか?ツェランが述べたように、時間を乗り越えることなどできない、時間を通って、他者のもとに届くことによって、他者がそれを拾い上げて解読することによってしか可能ではないように私には思えてなりません。更に「老い」の現場に即して言うならば、当の「過去」を生きた本人は、記憶も損なわれ、認知機能が損なわれ、最早「語る」ことができない状況におかれているとしたらどうでしょうか?その「過去」は、「他者」である「私」が証言しないことには永久に、決定的に喪われてしまう。事実性はそれ自体の構造により保証された自足的なものなどではなく、常に「他者」の支えを必要としているのではないでしょうか?逆にだからこそ多くの「私」が「証言」を残す止み難い衝動に駆られて言葉を綴るのではないでしょうか?

 話を「老化」に関わる論点に戻しましょう。まぜっかえすようですが、仮に「過去の全体」の「コト性」に価値があるのなら、哲学的な抽象の水準(そこでは権利上、アプリオリに保障されるので、実際にある個別の人間の「過去の全体」がどうであるかは問題にならない)ではなく、実際の生の経験の場面においては、それが喪われず、もしかしたら更に増大していくことに価値があることになるのであって、その価値の最大化は、寧ろ「不老不死」によって実現することになってしまわないでしょうか?「老人の智慧」が長く生きたことの累積によって生じるものだとすれば、端的に長く生きることに価値の淵源があるのであって、「老化」にあるのではありません。同様に、「事実性」は不可逆性、反復不可能性に基づくものであるという時、実は不可逆性も、反復不可能性も、生きられた時間の様態ではあっても、「老化」そのものとは一先ず別であることに気づきます。勿論、「老化」の過程が持つ「衰頽」のベクトル性が巨視的に見て不可逆なものであることは(少なくとも今生きている人間に関しては)確かですが、不可逆性、反復不可能性自体は「老化」ではなく、例えば「誕生」の、或いは「成長」の相についても同様に当て嵌まる筈ではないでしょうか。従って、生きられた時間一般についての議論としては妥当でも、「老化」という事象の分析としては不適切なのではないか、「老化」固有の時間性を特徴づけるものは、もっと他の側面に存するのではないか、というのが素人なりの素朴な反応ということになるでしょうか。

 最後に今一度「老化」とは離れて、「何性」を持たない純粋な「コト性」を単なる抽象的な思弁の産物としてではなく、具体的な経験として、なおかつレヴィナスの思想の文脈に位置づけてみたらどうなるかについて、素人なりに考えたことを記しておきます。私が思いつくのは寧ろ初期レヴィナスにおいて重要な位置づけを占める「ある(il y a)」です。この点については、例えば斎藤慶典さんの『レヴィナス 無起源からの思考』の第1章 糧と享受の第1節 端的な存在―空 における記述が興味深く、かつ私の捉え方に親和的であるように思われます。更に同書第2節 存在に走る亀裂-ー無 の節においては、「何性」をもたらすものは「空」とは区別される「無」であるとされます(これはレヴィナスの文脈では「位相転換」(hypostase)と呼ばれる相に相当するのではないかと思います)。それを踏まえて言うならば、ジャンケレヴィッチの文脈においてどうかは措いて、レヴィナスの思想の枠組みにおいては、倫理的な次元というのは、斎藤さんの記述における「空」(=レヴィナスにおける「ある(il y a)」)ではなく「無」に、起源の向こう側にある無起源に由来するものではないかと私には思えるのです。(「他者」はその「無」をもたらすもので、時間論的には主体が辿り着くことが原理的に不可能な「絶対的な過去」なのだと思います。そしてそれは「過去全体」とは異なるもの、寧ろ次元を異にするものなのではないかと思います。)斎藤さんは「何かが無い」という可能性の開けが「意識」の成立であると述べています(同書, p.52)が、私もその捉え方には全面的に同意しますし、「意識」の覚醒を錯誤の可能性に見る点も、それを言い替えて「幽霊を見てしまう可能性が「意識」の覚醒なのだ」(同書, p.53)というのも全くその通りだと思います。(「幽霊」と「意識」の関わりについては、『配信芸術論』に寄稿した論考でも触れたことがありますが、そこで述べた事柄とここでの斎藤さんの議論とは共鳴関係にあると感じます。)そして更に言えば、村上さんが「方法としてのレヴィナス」で取り出した地平構造は、寧ろこちらの文脈に置くのが適切と感じられたが故に、上に記したような違和感が生じたのではないかと思うのです。「事実性」が地平を形成するのだとして、それが他ならぬ情動的な意味を持つ根拠を問うならば、それは「こと性」に帰着するのではなく、寧ろ自己の(自己にとっては存在せず、遡行不可能な)手前に「別の仕方で」遡行することになるのではないでしょうか?情動は、「感じ」は、「他者」(ただし私個人としては、これを「人間」に限定したくはなく、この点では恐らくレヴィナスの思想から逸脱していくことになるのですが)の触発によって、そしてそれによってのみ主体に到来するのではないでしょうか?直接的には「老い」についての議論からは外れますし、論証抜きの素人の印象ですが、この点は恐らく議論の要点に繋がるもののように感じられることもあり、追記しておくことにします。

 以上、思いつくままに記しましたが、それでもなお、厳密には区別されるべき3つの問い、即ち、(a)「コト性」「事実性」へ依拠して、「老化」に「人間性を確保する」ような側面を見出そうとするのは「老化」の固有性を損なうことにならないか。(b)「老化」との関わりとは独立に、「コト性」「事実性」へ依拠して「人間性を確保する」ことはレヴィナスの思想の枠組みの中において妥当か。 (c)レヴィナスがどう言っているかとも独立に、事象そのものの分析としてどうか。のそれぞれについて、私が疑問に感じている点を示すことはできたと思います。

*     *     *

 以上、インフォーマルな仕方ではありますが、率直な仕方で疑問や違和感を書き綴ってみました。これらが哲学的な議論に資することはなくても、本稿で課題としている、マーラーの音楽における「老い」の時間性について考える上では決して回り道ではなかったというのがここ迄辿り着いての感想です。「老い」の時間性とは、時間性一般の持つ特徴の一つではないし、一般的構造から直接導かれるものではなく、より実質的・具体的なベクトル性を備えたものであり、寧ろそれは従来、マーラーの音楽の構造を捉えるべく用意されたカテゴリに近いものであるのではないでしょうか。但し、既に提出された具体的なカテゴリにぴったり該当するものがあるという訳ではなく、寧ろこれからそうしたカテゴリを構成しなくてはならないように思います。例えばアドルノが否定的充足のカテゴリとして挙げる「崩壊(Einsturz / Zerfall)」、或いは形式原理として取り出される「崩壊(Zerfall)」(Sponhauer)や「融解(Liquidation)」(Revers)のような概念はその候補になりうるように見えるかも知れませんが、実際にはそれは「老い」と接点はあっても、別のもので、単なる物理的な「融解」「崩壊」とは異なる、「老い」固有の性格づけが如何にして可能かを検討すべきなのだと思います。従って取り組むべきは、そうしたカテゴリを分類のための「ラベル」の如きものとして扱うのではなく、そのカテゴリの時間論的構造をより具体的に記述することにあり、それについてのヒントが今回の検討を通じて幾つか得られたように感じます。

 その一方で、ゲーテ=ジンメル=アドルノの「現象からの退去」としての「老い」についても、例えばレヴィナスの「隔時性」を手がかりにして、だが「老い」の固有性を踏まえつつ、(準)現象学的時間論的な記述を試みたらどうかというようにも思います。「後期様式」というのは、そうした時間性が作品に反映されたものとして、カテゴリを取り出すことができるのではないでしょうか?或いはまた、トルンスタムの「老年的超越」の時間性について同様な問いを立てることもできそうです。時間論的な構造を比較することで、「後期様式」を可能にする「現象からの退去」と「老年的超越」との関係についての示唆が得られることも期待できそうです。「現象からの退去」にしても、「老年的超越」にしても、それが単なる時間経過の蓄積としての「加齢」と関わるものではないのは自明なことであり、「老化」の進行が人により異なるのに対し、「現象からの退去」や「老年的超越」は「加齢」に伴って必ず生じるものではないけれど、だが「老化」と完全に独立のものと捉えられているわけでもなく、「老化」の時間性の或る側面がその基盤となっている、「老い」の時間性のうちの或るタイプとして考えるのが自然であるように思われます。そしてそうした時間性の反映を音楽作品の時間論的構造に見出すことができれば、それがすなわち「後期様式」に固有のカテゴリということになるのではないでしょうか?

 ここまでの検討で既に明らかなこととして予想されるのは、そうした時間性は、生理的な「老化」そのものの時間性ではなく、それを意識することを含めた「老い」の意識の時間性であり、複合的なものであるということです。それは「幽霊を見る能力」としての「意識」を必要条件として要求するのみならず、自伝的自己を備えた高度な意識に固有の構造であり、言ってみれば「時間性に関する意識の時間性」とでも言うような複合的で重層的なものということになるように思われます。一体、そのような複合的・重層的な時間論的構造が、音楽作品の持つ時間論的構造に反映しうるものかという疑問が生じる向きもあるでしょうが、私見では、水平的にも垂直的にも極めて複雑で、複合的・重層的な構造を備えたマーラーの音楽には、そうした時間性を容れる余地があるものと私は考えます。例えば第9交響曲の多楽章の複合体全体は勿論、第1楽章の内部構造に限定してさえ、そこには「意識の音楽」と呼ぶに相応しい、極めて複雑で精妙な時間の流れがあることが感じ取れるように私には思えます。そしたその第1楽章と後続の3楽章の関係、一見したところアンバランスに感じられる全体の構成もまた、どこかで「老い」の意識の重層的で複合的な性格と、その構造が変容していくプロセスの反映であったり、或いはまた、(準)現象学的な「地平」構造に基づく、別の角度からの捉え直しであったりを作品として定着させてものであり、マーラーが「交響曲」という多楽章形式を必要とし続けたのも、そうした構造の複雑さとそれがもたらすプロセスの精妙さに応じたものであったのだと考えたいように思うのです。そしてこうしてみた時、「崩壊」なり「融解」なりのカテゴリを単独で取り出して論じることが、「老い」の時間性を捉える上では不十分であることもまた明らかになるのではないかと考えます。それは(レヴェルの違いはありますが)本稿前半の議論において、「老い」の意識を捨象して、意識の対象となる時間論的構造のみを取り上げることの抽象性や、「隔時性」のみをもって「老い」の時間論的構造を捉えようとすることが困難であることに通じるものがあるのではないでしょうか?

 こうしてプログラムの輪郭を書き出しただけで、その解明の困難さは容易に想像でき、それは私の能力では及ばないものにも思えてきますが、どこまで到達できるについて問うことは一旦止めて、とにかくこうしたことが今後の課題であることを確認して、一旦ここで本稿を閉じたいと思います。

(2025.5.2-4)


2025年2月2日日曜日

備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業(7)(2025.2.2 更新)

 以前、通常ならそこにマーラーの名前を見出すことを人が期待することがなさそうな2つの重要な著作、即ちジャンケレヴィッチ『死』とドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の中に、マーラーの名前が見出され、更にそのいずれもが『大地の歌』への参照を持つことに気づき、備忘として書き留めたことがある。ここで取り上げるジャンケレヴィッチの『死』の方は、高校生の時から知っていたこともあって以前より手元にはあって通読したこともあり、実は『大地の歌』への言及があることも当然認識はしていたのだが、これも別の雑記めいた文章に書き留めたことがあるけれど、その終わり近くに結論めいた形で語られる事実性に依拠するような発想に対して、最初こそ期待できる拠点として検討をしたものの、検討を経るに従って次第に反撥を覚えるようになったという経緯を持つ。更に言えばまずその文体に耐え難さを感じてしまうこともあって、それ自体を主題として論じうるような読解ができず、上述の備忘を記すのが精一杯なのが正直なところであるし、辛うじて読み取れた範囲でも、その見解については直ちに幾つもの疑問が浮かんでしまうような対象ではあるとはいえ、マーラーについて流布する言説の多くが前提としている或る点に対する留保を感じているような場合には、その論点について考える上で貴重な参照点となりうるため、上記指摘に留まらず、もう少し詳細な検討をしたいと考えてきた。 

 マーラーの後期作品を「老い」という観点から理解するというここでの企図の着眼点は、マーラーの長くはないけれどそれでももう1世紀を超える受容史の中にあって、マーラーの後期作品が常に「死」との関りにおいて論じられてきたのに対し、「死」ではなく「老い」との関りにおいて論じるのがより適切であるという仮説に集約される。従って従来のマーラーに関する言説においては周縁的な位置づけを持ち、だが『大地の歌』への言及を含み、かつ「死」について扱った著作であるジャンケレヴィッチの『死』は恰好の出発点といえるのではなかろうか。実際、ジャンケレヴィッチの『死』は死そのものと同様、その手前と向こう側についても延々と語っており、その中で勿論「老い」についても「死の手前」の中の一つとして論じている(ジャンケレヴィッチ『死』, 仲澤紀雄訳, みすず書房, 1978, 第1部 死のこちら側の死, 第4章 老化)。

 だが結論から言えば、あくまでもそこでは「死」が主題であることを思えば無い物ねだりとは言い乍ら、やはり「老い」そのものについて論じているとは言い難く、勿論こうした次元での「老い」は直接には「現象から身を退く」ことをその定義とする「後期様式」とは無関係であるということになろうし、こうした次元の「老い」と切り離してそれらを論じることは、こちらはこちらでもともとのゲーテの言葉を軽んじていることになりかねない。従ってそれは自ずと、ジャンケレヴィッチの「死」についての思索に基づき、それを踏まえ、継承・展開するかたちでマーラーと「老い」について考えるということにはなり得ず、ジャンケレヴィッチの言明に対する異議申し立てを含まざるを得ないから、寧ろそれを反面教師として、マーラーと「老い」の関係についての視座を獲得することを目的としたものにならざるを得ない。ここで企図しうるおとは、あくまでもジャンケレヴィッチに対する批判ではなく、ジャンケレヴィッチの『死』における「老化」に関する叙述を細かく検討することを通じて、マーラーの後期作品、アドルノがジンメルを参照しつつ、ゲーテの箴言にある「現象から身を退く」という言葉によって定義づける作品(その中には、『死』で言及される『大地の歌』も含まれるわけだが)について適切な視座を得る手がかりとすることであろう。

 実際後述の通り、ジャンケレヴィッチの『死』の中には「老い」についての章さえ存在するのだが、「別れ」というテーマに関する部分での『大地の歌』への参照とは一見して無関係であるように見え、その限りでは寧ろこれまでの「死」と結び付けて捉える発想の一例として扱うことさえできるかも知れない。「別れ」というテーマに関する部分でのみ『大地の歌』が参照されていることは決して偶然などではなく、「老い」ではなく「死」に関連づけて捉えるという発想との必然的な連関の中で捉えられうるに違いのであれば、マーラーの後期作品が常に「死」との関りにおいてのみ論じられ、「別れ」のモチーフも専ら「死」に関連づけられてきたことに対する批判を、ジャンケレヴィッチの著作の批判的読解を通して試みることが可能であろう。

 そこでここでのアプロ―チとして、一旦『大地の歌』への言及がある箇所から離れ、まず「老い」についてのジャンケレヴィッチの扱い方、特に「老化」をこの著作全体の主題である「死」にどう関係づけるかの具体的様相について、些か些事拘泥的と受け止められるかも知れないような祖述的な(だが同時に批判的な)読解を試みる。多分に主観的に私の場合にはそうせざるを得ないという面を否定する気はないが、彼のトレードマークであり、人によってはそれに魅了されることもあるらしく、「交響曲」に喩えられることすらあるらしい、その華麗なレトリックと重厚な論述のスタイルについては、敢えてそれに逆らった読解を行って、その修辞に埋もれがちな「老い」の扱い方を最大限批判的に整理し、その確認結果を踏まえて、『大地の歌』への言及の部分の理解を試みるというやり方を取ることにする。

*  *  *

「老化の中に死すべき運命の徴候と死そのものの前駆症を読み取ろうという誘惑に人は駆られる。」(ジャンケレヴィッチ, 『死』, 仲澤紀夫訳, みすず書房, 1978, p.202)

 とジャンケレヴィッチは「老化」の章を始める。この「老化」の章は彼の「死」についての浩瀚な著作の中で、第1部 死のこちら側の死 の末尾に当たる第4章に位置している。そして直ちに「老化は、一種の稀薄にされた死、引き延され、間隙の次元にまで拡大された瞬間ではなかろうか。」(同)と言い替えて見せる。例によってジャンケレヴィッチのこの問いは多分に修辞的なものであり、従って直ちに矛盾なるものが指摘され、結局は否定されることになるのだが、そこで指摘される矛盾とは、半分はレトリカルで「ためにする」もの、つまり逆説を提示してみせようとする身振りそのものが生み出したものに過ぎないように見える。従って当然、ジャンケレヴィッチ自身はそれを逆説と言い、矛盾と言うのを止めようとはしないのだが、実際にはそれは矛盾などではなく、生の時間の把握におけるミクロとマクロのレベル、より正確には論理のオーダーの差に拠るものと考える方が事象に即した捉え方なのではなかろうかという疑問が直ちに湧いてくる。

「(…)各瞬間ごとにわれわれを実現するものは、各瞬間ごとにわれわれをすこし死に近づける。それは衰頽が人生の第一の段階に続く第二段階として生長に続くからではない。可能性が現存と化することが、すでにそれ自体において、一つの衰頽というべき到来なのだ。」(同)

 従ってそのレトリックは措いて結論だけとれば、そして更にここでは「老化」でなく「死」こそが主題なのであって、その限りで「老化」の側について過大な要求することが無い物ねだりであるという点を一旦措いてしまえば、「老化」と「死」とが区別され、異なったものとして捉えられるという点自体に問題があるわけではない。

 とはいえオーダーの問題は取るに足らないというわけではなく、既に述べたとおり、「老化」が(「死」がどうであるかについての吟味は一先ず措いて)セカンドオーダーの、複合的・雑種的な側面をもった事象である点を踏まえるのは重要で、ジャンケレヴィッチの記述を文字通りに受け取るならば、

「衰えの眼には見えない前駆症、ごく遠い先の老衰に前駆する予兆は、原則として、ごく初期の幼年時代においてさえ読み取れるものであろう。」(ジャンケレヴィッチ, 『死』, 邦訳, p.203)

というコメントは、一旦は区別した筈のオーダーの違いを自ら無視してしまっていることになっていて読み手の困惑を誘う。ジャンケレヴィッチの記述を文字通りに受け取るならば、例えばホワイトヘッド的なプロセス時間論の文脈での以下の指摘に対応するような水準での検討が必要となる筈ではないか?レトリックのレベルとは別に、ジャンケレヴィッチの議論はしばしば形而上学的な水準の議論と、具体的な生物学的・生理学的水準の議論との間を余りに融通無碍に行き来する感じを否めない。

「(…)われわれは実体・対・属性という永遠的客体に関わる論理を事象の論理と混同し、ここにおいて対象の生成を考えてはならない。常識が陥りやすいかかる考想は、確定的な部分事象の連なりの中で生成を考えることになるから、一事象の生成の時間をとらえることはできない。事象連鎖を通じての生成は、いわば事象の生成にもとづく生成であり、これについての問は論理学的に第二次(セカンドオーダー)の問いなのである。」(遠藤弘, 「時の逆流について(『フィロソフィア』72 所収)」,早稲田大学哲学会, 1984 )

それは「老化」に関する以下の説明からも読み取れる。

「老化した組織が損失を償うのがしだいしだいに難しくなり、損傷を補うのがますます遅くなるように、同様に、(…)」(ジャンケレヴィッチ, 『死』, 邦訳, p.204)

そもそもここでは転倒が起きていて、にも関わらずその転倒した状態で論理を組み立てようとするからこのようになるのであって、本来ない問題を作って、そこにアポリアがあり、パラドクスがあるかの如き議論をしようとしているように感じられてしまうのではないか。

実際には「老化」は、例えばシステム論な立場からは、以下に見るように「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」と定義されるのである。

「(…)以上のように、老化という現象には、「階層構造」と「時間」のファクターが組み合わさり、時間軸方向には決定論的にふるまうが、ある時間の断面では確率論的である、という複雑な性質があります。このような複雑な現象を示すシステムとして生物をみた場合に、老化の本質はいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。(…)システムの特徴の一つに、「ロバストネス」(頑健性)」という工学用語で表されるものがあります。生物学的な用語でいえば「ホメオスタシス(恒常性)」となるでしょう。(…)システム全体に負荷がかかった場合でも、それを元の状態に戻そうとする能力、それが「ロバストネス」なのです。(…)こうした議論をとおして北野所長とたどり着いた考えは、「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.229-30)

 後に見るように、ラプソディックなジャンケレヴィッチの言明を辿っていくと、実際には彼もこれに近い考え方をしているのではと思わせる箇所にも行き当たるのだが、それを踏まえればここで「…のように」の部分で持ち出された事柄の方が定義の本体なのであって、その点の履き違えを元にレトリックを弄しているだけという感覚を否み難く持つことになる。(勿論、ジャンケレヴィッチに与する人は、それは立場の違いに基づくもので、言いがかりの類であるとして退けるのであろうが。)

 だが恐らくはシステム論的な理解とは別の了解に基づいているらしいジャンケレヴィッチはこのようにコメントする。

「生物学上の疲労と生命の躍動の衰頽だけでは、これを説明するのにかならずしも十分ではない。」(ジャンケレヴィッチ, 『死』, 邦訳, p.206)

「かならずしも十分ではない」のは文字通りにはその通りであり、別に間違っているわけではない。しかしことこの文脈に即した限りでは、それはそもそも倦怠の経験と「老い」をジャンケレヴィッチが不適切な仕方で結びつけたからに過ぎない。更に

「生物学上の若返りの秘密が発見されたとしても、わたしはなお老化することだろう。諸器官の老化が抑制されあるいは遅らされても、年月と記憶の重さはわれわれをいっそう老化することだろう。」(同)

というのはいただけない。ここでは永遠的客体と事象のオーダーの差ではなくても、「疲労」とか「倦怠」の分析が適用可能な時間性のレベルと、「老い」を論じることが適切な時間性のレベルの不当な混同がまずある。確かに、個々の器官の水準と、全体としての個体の水準のレベルの違うというのはあって、疲労が主として前者の水準で論じるのが適切なのはその通りだろう。だがだからといって個体の老化が諸器官の老化と独立のものであろうはずがない。一体ジャンケレヴィッチは「われわれ」がどんな基盤の上に立っていると思っているのかを問いたくなってしまう。レベルが違えばそこには断絶があって無関係であるという論理の独り歩きが自ら問題を正しく捉える途を閉ざしてしまうのだ。(もう一つ言えば、この言及は、主観的で一人称的な体験を含むはずの「疲労」の経験を、客観的、科学的な水準の話にすり替えているのでなければ、いつの間にか横滑りしている点でもいただけない。これがジャンケレヴィッチのオリジナリティであるレトリックに由来するものだと言い募るであれば、そのオリジナリティは議論をまともに行えなくする原因であるとして、その価値に留保を付けざるを得なくなるのではなかろうか?)

 結局のところジャンケレヴィッチは「死」のみならず「老化」についても形而上学的に取り扱おうとする。それは以下のテーゼにおいて明瞭となる。

「われわれを老化させるのは、純粋状態の”時”だからだ。」(同)

 私は「時」は常に具体的な相を持つものであり、純粋状態というのは抽象だという立場なので、そもそもこのテーゼとは相容れないが、ジャンケレヴィッチがそのような手つきで「老化」に見ようとしているものを可能な限り救い出すように努めてみよう。では「純粋な時」の内実は何か?

「純粋の時、つまり漸進的な感覚の荒廃、あらゆる面での新鮮さの枯渇、あらゆる躍動、情熱、確信の鈍化、純潔さの消耗だ。」(同)

ということで、一般的ではあるけれど、寧ろ極めて具体的な意識の状態が列挙されている。そしてそれを是認するように

「なるほど、意識の経験は、一つの恒常的な経験だ。」(同)

だがその続きは「たそがれ」と「秋」とが「憂愁にたえず素材を供給更新する。」となって「恒常性」というのは(意識の存続の期間をその中に含んでしまうような長期に亙る)絶えざる反復であるとされる。そしてその果てには(さっきはそれで尽くされることはないと言ったばかりなのに)再び「疲労」が参照される。

「疲労の曲線には上昇下降の間に最高潮があるが、器官の老衰の図式あるいは縮図もそのようなものではないだろうか。」(同)

 だが(またしても、だが結論だけ見れば正当に思われることに)結局、この繰り返し・反復への依拠もまた放棄される。結局「老年」は一回切りの経験とされるのである。これが「われわれを老化させるのは、純粋状態の”時”だからだ。」というテーゼとどういうふうに接続されるのかが気になるところではあるが、それは一旦措いて更に彼の論理を追ってみよう。

「自然における衰頽は、悲しいかな、まことに真剣で、まったく詩情に欠けている。この衰頽は、ただ単に逆行不可能なだけではなく、その上決定的なものであり、とくに一回限りのものだ。」(同書, p.207)

要するに「疲労からは回復するが、老いからの回復はない」と一言言ってしまえば済む話なのだ。だがここにもスケールの、レベルの混同がある。「漸進的な感覚の荒廃、あらゆる面での新鮮さの枯渇、あらゆる躍動、情熱、確信の鈍化」という意識の経験の水準では、一時的にそれが中断し、或いは恢復することすらあり得るだろう。老いが一回性で、不可逆であるとするならば、そうした認識は別のスケールで行われているというべきなのだ。従ってジャンケレヴィッチの議論は、その指摘のある部分の妥当性にも関わらず、論理的には破綻していると言わざるを得ないだろう。

 繰り返しになるが、ジャンケレヴィッチの「老年」に関する主張そのものは、実際にはシステム論的な定義に対立するものではないし、それは器官レベルとは異なるレベルで把握されるものであるというのも間違いではないし、一回切りというのも間違っているわけではない。だがそれは器官レベルと無関係ではなく、寧ろそれに基づくものでなくてはならないし、また「意識の経験」なるものをそれと独立のものとして特別扱いするのはおかしい。「意識の経験」は実際には、それがダマシオの言う中核意識ー中核自己、現象学的な第i一次把持に関わるレベルであれば、器官レベルと同じ水準で捉えられるようなものであり、寧ろ「老化」はそれを超えたダマシオの延長意識ー自伝的自己、現象学的には想起と予期の水準である第二次把持、更にはスティグレール(およびユク・ホイ)の言う第三次把持が関わるような、技術的・文化的・社会的に規定される水準に関わるのである。そして「一回性」というのは、このレベルで言いうるものであって、そのレベルが、生物学的システム論的には、器官のレベルとは異なるレベルでの「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」に対応する筈なのである。私の立場からは、実際には「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」という捉え方の方が、一回性という意識の経験、意識にとっての見えを生じさせる根拠であって、「純粋な時」など不要だし「意識の経験」を根拠におくのは、(勿論、それを「意識」することができるのは、少なくとも延長意識を備えた生物に限られるという点はあるにせよ、あくまでも「意識の経験」は結果であって)遠近法的倒錯の産物に過ぎない。

 一方で「老化」の不可逆性について(実は厳密に言えば、その不可逆性は確率的なものであって、一時的な回復だって一定の確率で起こりうる筈なのだが)の具体的な例示については問題はない。だが「疲労」と「老化」の違いを述べながら「疲労というちいさな老年」「老年という大きな疲労」というようなレトリックを振り回すのに何の益があるのかは判然としない。「老化は時間性の病」という定義も直ちに「正常であると同時に病的なものだ」というほとんど空虚な言明に引き継がれ、「死が健康な人びとの病気であるのと同じ意味で」という比較もそうした比較に何の意味があるのか杳として知れないまま第1節は閉じられる。

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 そして第2節が始まると「老化はわれわれにすこしずつ死をあかすというのだろうか。」と述べられているのを見て、多くの人は絶句するのではなかろうか。一体第1節のゆきつもどりつの議論は何だったのだろう?ただしこの著作は、老化についてではなく、「死」についてのものであることを思えば、老化はそれ自体が議論の対象というよりも、それを「死」に引き寄せて見たり、対比させてみたりといった気儘な操作の対象に過ぎないのかも知れないが。かくしてこの冒頭から窺えるように、第2節はほとんど「老化」に関して言えば無意味な節ということになってしまう。唯一末尾近くの

「時の展開は、存在と事物に毀損作用を働くのだから。時は分解の次元とも言えよう。」(同書, p.212)

という箇所のみが意味ある発言であるように見える。但しこれはエントロピーの増大が時間の向きであるという言明に過ぎないのだが。だがジャンケレヴィッチはこれを彼が「おおざっぱな隠喩」と呼ぶ「骸骨が老人の痩せた肉の下にしだいに見えるようになる」という表象に結びつけてしまう。そんな隠喩に勝手に結びつけるのがいけないのであって、そんな隠喩よりも「時は分解の次元」の方がよほど「老い」に関しては実質的な言明であるのだから、ここでも論理の向きが本来とは逆になっているのだ。

 だがそんなことはお構いなく、ジャンケレヴィッチはくだんの隠喩に拘って、それを延々引き摺り回した挙句、末尾の

「老化がしだいしだいに老衰する組織の中に死をますます明白なものとはしないだろう。」(同)

と、その隠喩の不適切さを論じて節を結ぶ。自分から隠喩を持ち出しておいてそれを不適切だと断じるのであれば、初めからそんな隠喩を引き摺り回す必要などないのだ。老化は、生物という物理システムの定常状態の変移と崩壊を指すのだから、死はその変移の帰着点に過ぎず、単に彼が引き摺り回す言明の言い回しが事象に即した時に不正確なだけであろう。

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 ところが、第3節の冒頭でもまた、その不正確な言い回しを引っ張り出して批判をして見せる。そこから彼の言葉によれば「弁証法的」で「非一義的」ということになるらしい、正しい定義にようやく取り掛かる。まずは「老化は死にわれわれを近づける。」これは定常状態の変移の向きが最後に崩壊に至るものであることの言い換えに過ぎない。

「組織と血管の硬化、骨の漸進的脆弱化、心臓の疲労、そして老眼は(…)無気力の侵入の前駆兆候だ。」(同書, p.213)

 違う。それらは前駆兆候ではなくて、無気力をもたらす原因だろう。

「生命の機能が徐行し始める。」(同)

 これは定常状態の変化の向きを述べているのだとすれば彼のお好みであるらしい「隠喩」としては妥当だろう。

「細胞が老化し、動脈が老化して、毒素や毒性が長い間に毎日すこしずつ体液の科学的構成をそこねる。」(同)

一体、ここでいう毒素・毒性というのは具体的には何なのか?実は「老化」の機序は現時点でも明らかになったとは言い難く、解明が困難な問題であり続けている。それを前提にすれば、一見おおまかな把握としては妥当そうに見えるが、この「毒素」の説明が妥当だとするならばフロギストンによる燃焼の説明だって妥当だということになる。否、実際にはそんな毒素などなく、毒素が増えて行った結果死に至るという事実は確認されていないようだし(勿論、間接的に死に至る症状を引き起こす原因となりうる変化はあるし、その変化を引き起こす化学物質は幾つも知られているが、それは死の直接的な原因ではない、一義的に老化を引き起こす遺伝子というのは存在せず、個別には関与する遺伝子が突き止められているものもある様々な促進作用と阻害作用の合力の結果なのだ)、今後そのような毒素が発見される可能性も限りなく低そうだから、寧ろこの説明は端的に出鱈目だと言うべきか、百歩譲っても現時点では不要な程にまで不正確だと言うべきなのだろう。

この辺りのジャンケレヴィッチの言い回しのことごとくが、そうした歪みを持った文学的修辞に過ぎず、要するに、ジャンケレヴィッチの関心事は、老化自体ではなく、老化に纏わるレトリックの方に専ら存するのではないかという疑いが生じてくるのは避け難い。

「あたかも死の向地性とでもいうものがすでに墓へと引き寄せるかのように、あたかも自分自身の重みでもう冥界へ、大地の奥深くへと傾いてゆくように、身体自身が曲がってくる。」(同)

老化で腰が曲がり、背骨が曲がるのは、死の向地性のような文学的表現とは関係がない。それなら直立歩行に至る前のホモ属は、より死に近かったとでも言うのか?このような、読んでいて当惑を感じる他ないような記述を延々読まされると、思わずソーカルとブリクモンによる『知の欺瞞』において、判読可能な文章は一握りで、あるものは陳腐で、あるものは間違いと断定されてしまっているドゥルーズの無限小解析についての長大な記述(ソーカル、ブリクモン『知の欺瞞』, 田崎晴明, 大野克嗣, 堀茂樹訳, 岩波書店, 2000, 岩波現代文庫版, 2012, p.239~247参照)を思い起こし、それに付き合わされるのと同様に時間の無駄でしかないように感じられてしまう。勿論こちらは科学の濫用ではないけれども、その華麗な修辞に埋もれた論理を追うことがしばしば困難である点では共通性があるように感じられる。文学的な比喩表現を不要視する訳でも、否定する訳でもなく、それが適切な場面もあるだろうが、「死」との関りにおいて「老化」を把握するのに文学的な表現を幾ら尽くしても、「老化」が主観的な経験のみで尽くせる訳ではなく、客観的な事実を無視することができないことは勿論、主観的な経験にしても現象学的な水準での記述や分析の対象であって、純粋に論理的な操作や形而上学的な直観のみで扱う対象ではない以上、それによって何かが明らかになることはあるまい。言葉の上でだけ、見せかけの対立を作り出して逆説を弄び、概念を厳密に操作する替わりに横滑りさせることを繰り返したところで、それは「老い」そのものとも、「老いの経験」とも無関係な戯れに過ぎず、そこから何かが得られることはない。「死」が彼のお気に入りのテーマであり、更には彼の修辞にとって恰好の題材であるのとは対照的に、「老い」は散文的で現実的に過ぎて、「何だかわからないもの」や「ほとんど無」の、或いは「筆舌に尽くしがたいもの」についての哲学者であるジャンケレヴィッチ好みの高尚な形而上学的な直観の対象にはふさわしくないのかも知れない。

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 そして「老化」についてのジャンケレヴィッチの議論の行き着く先は、章題にも関わらず(だが、案の定と言うべきか)「老化」についての分析ではないようだ。最終節である第4節が、「死刑囚」についての議論で開始されることがそれを端的に物語っている。「死刑囚」は勿論「老い」とは何の関係もない。そして「死刑囚」について論じることは、「老い」固有の問題ではなく、寧ろ端的に「死」について論じることにならざるを得ない。であってみれば、それを「老い」の章の最中で、しかもその末尾の節の冒頭に据えるのであれば、そもそもジャンケレヴィッチは「老い」についてなど議論する気がないのだろうと考えざるを得ない。但しここで、死刑囚が獲得する「二重の視点」「共観的」「回顧的」「第三人称的」な視点が問題であって、それを可能にする意識の構造が「老い」の認識に関わるということに限れば、これは主張として問題ないが、もしそうであるとしても「老化」とは無関係な「死刑囚」をわざわざ持ち出す必要などない筈である。だがその点は一先ずおいて先に進もう。

「老化は、限られた可能性の貯えが徐々に消耗していくことに還元されよう。」(同書, p.220)

この観点を取ることを可能にするものをジャンケレヴィッチは「超意識」(同)と呼ぶが、その定義の「生成の全体を俯瞰する」(同)というのも曖昧さに満ちた言い方で、「生成の全体」なるものが何であるかを考えれば不正確でさえあるだろう。ここでも問題はマクロとミクロのレベルの違いなのだが、「継続する出来事の後を追って地上をはい回る」(同)だけであれば、意識の中断を挟んだ過去の想起と未来の予期を可能とする第二次把持のメカニズムすらいらない。そしてここでいう「生成の全体」の生成は、例えばプロセス哲学的にファーストオーダーである無時間的「生成」でなく、事象の論理のレベルであることは、「生涯」といった言葉が論述に紛れ込んでいることからも明らかだろう。そればかりか(システム論的に定義可能な「老いそのもの」ではなく)「老い」の意識は、自伝的自己の持つ延長意識を俟って初めて可能なのだ。だがジャンケレヴィッチは結局、老年というのは生命の「色調」とやらの「質」の違いということにしてしまう。

「老年は生命力の衰頽の一つの形だが、この衰頽した生命力はそれでも一つの生きている生命力だ。そこで、老人の生命力はその量的な濃厚さ、つまり、存在の質と重さでは成人の生命力と変わらない。ただ、質が、生命の色調の特徴が異なるのだ。」(同書, p.224)

これを隠喩であると言わず、かつ「色調」がどのように定義され、計測されるかが示されることなく、「青春と老年とは、生命の色調の変形であり、質を異にする実存の様態」(p.225)と繰り返されても読み手は困惑させられるばかりである。ここで「質」を持ち出すについてはジャンケレヴィッチの独創というわけではなく、彼が依拠するベルクソンのそれに従ったものであるらしいが、結局のところ言われるのは、実際には「老化そのもの」と「老いの意識」の区別に過ぎず、ボーヴォワールなら、外から見た老いと内側から見た老いと区別するところを以下のような言い回しで述べているに過ぎない。

「老年について語るとき、客観的な系列と生きた系列を混同することは避けねばならない。前者は、たとえば癒着の時間あるいは反応の時間の延長、条件反射の緩慢化のように、数あるいは量で表されるいくつかの原因の尺度上の進展によって特徴づけられ、後者は、生きた経験の質の変化に存する。」(同書, p.225)

確かにある尺度によって測定される生体の生理的な状態と、意識によって経験されるものは異なるが、だからといって両者は無関係ではないだろう。後者は前者の影響を逃れることができない一方で、確かに後者が(つまり或る種の思い込みが)前者に影響する(体調を悪くする)ということも起きうるであろうが、老化というのは、その両方に亘る事象、複合的な出来事と寧ろ言うべきであって、ジャンケレヴィッチの区別への拘りは単なる不毛にしか通じないように感じられる。

「≪変質≫は、意識が”他者”—であって少なくではないーとなる過程だ。」(同)

というのは、他性についての定義を欠いている以上、それ固有の歪みを持った比喩に過ぎない。更に言えば、まさか老いることが文字通りに「他者になる」ことであろう筈はなく、寧ろ意識の中断を挟んだ自己同一性があること、自伝的自己を備えていることが老いの経験にとっては不可欠なのだから、ジャンケレヴィッチの比喩は寧ろ不適切な歪みを持ち込む弊害の方が大きいのではないか?

 だがそうしたことに目を瞑って、ジャンケレヴィッチの言わんとすることを捉えようとするならば、結局、彼にとって「老いとは老いの経験のことだ」ということに尽きていて、それを言うために延々と繰り言を述べているに過ぎないように見える。

 例えばシェーラーが、「年齢と戸籍とは無関係な一種の≪形而上学的≫老化」(同書, p.226)を信じていたというようなことを傍証として持ち出すが、これは老いの体験というのが、個体により、或いは同一の個体であってもその折々の心的な状態に応じてさまざまであって、前者であれば、これは老年学という社会学の分野においては「老い」の進行は確率的な事象であって、年齢に正確に対応した事象ではなく、その発現と進展には統計的な揺らぎがあるということを酷く曖昧な仕方で述べているに過ぎないと一方では思われるし、更に別の話として、生理的な老いとそれについての意識の経験とは別に、自伝的自己が持つ老いについての認識(だからそれは老いに纏わる様々な身体的・心理的事象の経験とも別のものである)というものがあって、それは年齢を問わないということであるとするならば、こちらはこちらで、これまでジャンケレヴィッチがさんざんそうしてきたように、本来区別されるべき事柄について不当に混同をすることによって可能になったレトリックに過ぎず、言葉の上のことに過ぎない。

 そしてそうした自己のレトリックに起因する混乱を脇に置いて

「老年はいつも死の逼迫接近によって測られるわけではない。近接と距離とは空間上の映像であり、社会の概念ではないだろうか。」(同)

といって、それを社会に押し付けるのは不当に思われるし、そのことを

「老年は暦の上の一つの日付にも道路の距離にも還元されないのだ。」(同)

と結論づけるのも筋違いにしか感じられない。勿論、複合的な事象である「老い」には社会的な側面が存在するのは確かなことであり、だからジャンケレヴィッチがそれを「社会的」測定から引き離そうとするのはそもそも無理筋というものだ。確かに「老い」が暦という人間の生理的なリズムとは異なった、天文学的な基準によって定義された尺度と無関係なのもそれ自体は正しいし、更に言えば、そうした暦が社会的なものであるということもまた正しく、その限りでは妥当であるが、だからといって、そのことから「老年」が社会的なものでないということは導かれない。ここの言明の間を結びつける論理については、ジャンケレヴィッチのそれは曖昧なレトリックに凭れ掛かった言葉の上だけの遊びであって、事象に即して言えば出鱈目であり、ナンセンスであり、全く間違っているという他ない。恐らくここで言いたいのは、要するに「老いの経験」は主観的な経験なんだから、外からは測定できないのだという、如何にも亜流ベルクソン的な発想に基づく主張なのだろうが、これだけ贅言を尽くしてなお、それで結局「老い」とは何に基づく経験であって、結局のところこの浩瀚な著作の主題である「死」とどのような関係にあるのかについての議論は、さっぱり深まっていないように思われるのは錯覚なのだろうか?

 実際には彼の、およそ適切とは思えない用語法では「超意識」と呼ばれるもの、現象学的には第一次把持に相当するダマシオの言う「中核自己」のレベルを超え、「自伝的自己」による俯瞰を可能にするのは、一方で彼が「共観的」「第三者的」という言い方をしていることから窺えるように、まさにそちらの方が社会的であり、現象学的には第二次把持のみならず、スティグレールやユク・ホイが言う、第三次把持がテクノロジーに基礎づけられているという事実、或いはアンディ・クラークが言うように、今日の人間は生まれながらのサイボーグであって、言語も含めた技術的補綴によって成り立っているという事実に基づいているのだし、そうしたテクノロジーの侵入を措いたとしても、「超意識」はそれ自体の発生において、そもそも社会的に基礎づけられたものなのだから、ジャンケレヴィッチの主張は支離滅裂にしか映らない。それは自分の背中を見ることができず、自己が成立する以前の、自己が如何にして成立したかの機序について「知りえない」とする(スティグレールやユク・ホイ、クラークの名誉のために付け加えれば「かつての」)哲学者の野郎自大が齎した歪みが露呈しているに過ぎないのだ。

 だがなおも「老いの意識的経験」に拘るジャンケレヴィッチは「動物は衰頽するが、自分自身の衰頽には立ち会わない。」(同書, p.229)といった主張をしてみたりもするが、これは事実の問題として、動物学の領域では今や人間の側の傲慢さに基づく先入観に侵された不当な断定として問いに付される主張だろう。動物の方はあくまでも話の枕で、人間が「超意識」を持っていて、その「超意識」が老いにとって重要だというのなら、それは別に構わないのだが、だからと言って、今度はその意識について

「老いるという意識は、したがって、厳密に言えば、直接の経験にも推論にも由来するものではない。」(同書, p.230)

などと主張されると、一見当たり前の事を言っているように見えるこの主張の真意を測りかねるということになる。実際にここで言われているのは、老いの徴候とされる、様々な観察・観測の結果は、それが老いの徴候であるという解釈が先行的にあって、観察結果について判断し解釈する主体(老人自身であれ、医師であれ、或いは介護レベルの認定をおこなう行政の担当者であれ)があってのものであるという、ごく常識的なこと以上のものではなさそうにしか見えない。そして一般的にはそうした水準で、推論に基づいて要介護度の認定が行われ、認知症の診断が行われているのである。私はその場に立ち会った当事者の一人だから、その経験に基づいて言えば、勿論、主体に対するインタビューも欠かさず行われていて、主体の証言も記録はされるが、それを文字通りに受け取ることが、主体の内側で起きていることを正しく判断することに繋がらないこともまた、現場では常識レベルのことであって、結局のところ解釈や推論抜きで「主体」についての真実を見出しうるというのは、本質的に関主観的で対話的な存在である筈の主体自身にとっても幻想に過ぎないのだ。にもかかわらずジャンケレヴィッチが以下のように言うとき

「(…)居眠りが繰り返されることや、固有名詞の忘却、視力の減退、階段を昇るさいの困難の増加などを老化の徴候と解釈する主体を無視した推論については、象徴にもとづいて意味を結論するそのような抽象的推論は、それだけではわれわれを説得にするのには十分ではない。」(同)

彼は「われわれ」の中に自分自身以外の誰を含めて想定しているのだろうか?権利上、それが自分が理性的存在者の代表であり、理性的存在者は皆自分のように考えるという哲学者のお目出たい傲慢さでないとしたら、彼の恣意で決定できるような誰かが彼以外に他にいるのだろうか?この言明は、「いや、私にとっては十分に説得的ですよ。」という反論にどう答えようとしているのか?いや、これは哲学であって実証的な科学ではないから、事実水準の話ではなく、権利水準の話をしているというなら、それならそれでつまるところ、この言明によってジャンケレヴィッチは何を表明したいのか?

 だがここでは「老い」を取り上げるのが最終目的であって、ジャンケレヴィッチの著作を吟味すること自体が最終目的であるわけではないから、その点について目くじらを立てるのは程々にしよう。

「衰頽は誠実な直接の経験というよりは、むしろ一つの解釈であり、一つの判断なのだ。」(同)

と、この言明自体は全く問題ない。そう、繰り返し述べているように、「老い」というのは複合的で雑種的な事象なので、それを直接測定できる指標が存在するようなものではないから、その限りで解釈や判断の結果であるという主張自体には特に問題はない。そして恐らくその点において「老い」は「死」とはやや性格を異にするのであろう。勿論、生死の判定に纏わる様々な困難は、それらもまた「老い」のように解釈や判断に委ねられる側面を持つことを示唆しているけれども、だからといって「老い」がそうであるのと同様にそうであるとは言い難い。「老い」の厄介さは、そのシステム論的定義を改めて確認し直せばわかることだが、それが非常に複雑なシステムの「定常状態」の変移という非常に巨視的な仕方でしか定義できないという点にあり、なおかつ、その変移について、系自体が崩壊する方向に向けての変化という仕方で定義されるのであって、崩壊そのものの程度(こちらは「老い」でなく「死」への接近の度合いという意味合いを持つだろうが)で測られるものではないことに存する。なおかつその過程は現実の個々の事例について言えば確率的な揺らぎの中にあって、必ずしも単調な変化ではなく、複雑な軌道を持ちつつも、最終的には系自体が崩壊するに至るように方向づけられた過程なのである。

 ジャンケレヴィッチも勿論そうした複合を無視しているわけではないから、「老い」を複合的な原因を持つものとして捉える言明と解釈できそうな言明が登場しはする。

「正常な状態では分離されているこのような経験とこのような観点とが互いに干渉し合う時、老いるという意識が生ずる。」(同)

ここで「このような」とは、「客観的観点は生きるべき期間の有限性を認めることができるが、その有限性をただ他人にとってのみ有効な真実とみなしたがる。生きた経験は、自分にとって有効だが、死を受け入れない。」(同)という観点と経験の謂いである。

 だがこれもまたごく平凡に、既述の老いの定義に纏わる厄介さについての言明の言い換えの類に過ぎない。生とは散逸系である生物学的なシステムが存続する「定常状態」のことであり、動的不均衡の中で、準安定的な状態というのが維持されているわけだが、ここでいう客観的観点の側は、その安定状態が、軌道を描いて変化しつつ、最後は崩壊する過程の外部からの観測であり、ここでいう生きた経験の方は、そうした系自体の内部からの観測のことを言っているのだから、結局この言明も構造的には何ら新しいことを言っている訳ではなく、「生理的な老いの過程」と「老いの経験」の複合が「老いの意識」を生み出すと言っているのであって、その限りでは構図は問題ないが、だがジャンケレヴィッチの文脈におけるその実質は、またしても疑わしい。外部からの観測と内部からの観測における差異が問題であるとしてなぜそれが「生の有限性」についてでなくてはならないのか?確かに老いの認識は生の有限性の認識でもあろうが、それだけではないし、寧ろ生の有限性という「死」に関わる側面以外の部分こそが「老い」固有のものなのではないのか?だとしたら、そこにはここででっち上げられたような観点と経験の干渉などありはしない。寧ろ単純に両者が相俟って「老いの意識」が生じるというだけで十分ではないか。

 実際にはその後しばらくのジャンケレヴィッチの叙述はようやく「まともな」ものになるかに見える。まずはベルクソンを参照し、

「感覚の質の変化が刺激の増大の尺度に度合いも進展度もすこしも反映しない」(同書, p.231)

点を述べる。これは特に問題ないし、

「記憶は大脳におおまかに依存するが、回想は大脳皮質のそれぞれの場所に文字どおり位置づけられているということはなく」(同)

というのも、或るタイプの記憶の想起を支える機構の説明として問題ない。(なぜそれが併置されるのかの論理、或る種の記憶と想起のメカニズムの非局在性が、この際どういう関係があって言及されているのかについては目を瞑ってしまえば。それはベルクソンの元々の言明とも関係なければ、老いとも関係ないから、これは奇妙にしか映らないのだが…)そして、

「人の質的老化が毎日詳細にわたって人生途上の進展をそのま訳出しているというのも真実ではない。詳細にわたってというのは真実ではないが、おおまかに、間接的にというのは真実だ。」(同)

というのも問題ないだろう。老いという定常状態の軌道は(数学的な意味で)単調に崩壊に向かうわけではなく、揺らぎをもって、確率的に動いていて、その軌道というのは粗視的に見た時に浮かび上がってくるものなのだから。

 一方で、「老い」の自覚は、そうした連続的な過程の非連続的な感受に基づくものであるというのもまた、それ自体は正しいだろう。それゆえ、ボーヴォワールの『老い』においても印象的な仕方で繰り返し語られるように、「老い」とは或る日突然に自覚されるものでありうるわけだ。

「身体の連続的変貌は時を隔てて、つまり、間歇的、不規則に意識に現われる。老化は漸進的なものだが、老化の意識はそうではない。」(同)

その通り。但し、老化自体が確率的な過程であることと、老いの自覚が突然に生じることは、厳密には区別されるべきだろう。前者によれば、若返りの自覚というのも時として可能ということが帰結し、実際にしばしばそのような経験は生じるであろう。寧ろ逆に、揺らぎを孕みつつ、エントロピーの増大という熱力学的過程に従うかのように巨視的には崩壊に向いた過程であるということが、間歇的・不規則な内部観測における老いの自覚に繋がっているのだから、ここにも避けるべきレベルの混同の嫌疑が生じるような書き方に眉を顰めざるを得ない。とはいえ、言明自体はここについては適切である。

 だがもう良いだろう。ジャンケレヴィッチの「老化」の章の結論部分においては、「感得」がキーワードであり、その点について確認することでジャンケレヴィッチの議論の要点を確認することができるだろう。そしてまた、この「感得」こそが、ジャンケレヴィッチにおいて死と老化を関連付けて論じることを可能にするポイントでもあるだろう。

「”真に受けること”にほかならないこの自意識、男も女もはじめて時の消滅に気づく老化の意識をわれわれは≪感得≫と呼んだ。感得は生きた時と鳥瞰した時の最初の出会いだ。」(同書, p.233)

ということは、基本的には内部観測の結果と、外部観測の結果の突合こそが老化だということで、これは数ページ前に述べられていたことの繰り返しに≪感得≫というラベルを付けたということになる。そして≪感得≫についての3つの相というのが再び確認される。ところがここでの言い回しからわかるように≪感得≫はもともと「老化」について導入されたのではなく、まさに本題である「死」について導入されたのだ。それを事も無げに、断りもなく「老化」に適用してしまって構わないのだろうか?

 その是非を措けば、そうした挙措はジャンケレヴィッチが「死」と「老化」の関係をどのように捉えているかを問わず語りに告げているということになるのだろう。そして実際、そこでは「老いてゆく人間」が主語の場合でも、「老い」ではなく「死」との関係が論じられてしまう。曰く、

「老いてゆく人間は、感得することによって、予告と自分自身の死の結びつきを把えないならば…」(同書, p.234)

或いは、 

「年老いてゆくものが、自分自身の死の日(時計上の時・分、暦上の何日)を文字どおり知るのではなく、死の近いことを強烈に経験するのだ。」(同)

従って

「≪感得≫のこれらの三つの相は、老化の経験においては、もちろん互いに切り離すことができない。」(同)

という言明の当否に依らず、ここでは「老い」そのものではなく、「老い」における「死」が問題になっていて、最早「老化」そのものについての議論は終わっているということに読者は気付かされることになるのだ。この言明以降、この節の末尾まで、ということは「老化」と題された章の末尾まで、ということでもあるのだが、とうとう「老い」という言葉は全く出て来なくなり、ひたすら「死」の≪感得≫について語られるばかりである。だが、その末尾までの言明を見て、一体それが「老化」とどう関わるのか、訝しく思う人がいても不思議はない。そこに書かれているのは、この節の冒頭の「死刑囚」の話がそうであったのと同様に、「老いてゆく人間」にのみ専ら関わることでもなく、「老い」と独立に論じることができることなのである。振り返ってみれば、「老い」についての議論の末尾で客観的な知識なり認識なりと、生きられた経験の相互干渉が「老いの意識」を生み出すとされたのであったが、結局のところそうした知識を一人称的に”真に受けること”が「死」についてと同様「老い」についても重要なのだということがジャンケレヴィッチの謂わんとすることなのかも知れない。

 だがもし仮にそうであったとして、「死」とは異なった「老い」の経験自体、「死」に対する「老いてゆく人間」ではなく「老いてゆく人間」が「老い」そのものにどう対するのか、「老い」固有の悲劇性がそこにあるのではないかという疑問についてジャンケレヴィッチが答えてくれることは期待すべきでないだろう。それは自ら引き受けて、自ら答えていくべき問題なのだろう。ボーヴォワールの『老い』は例外的に老いそのものに正面から立ち向かった試みであるが、その中でアンガージュマンの人らしくボーヴォワールが告発するように西洋の文化や社会は「老い」について正面から取り組むことを避けてきたのではないか?「死」についてはあれほど饒舌で、「死」についての著作なら古今を問わず汗牛充棟の状態であるのに対して、「死」そのものでもなく、「死」の前駆でもなく、直面することを強いられる「老い」そのものについて語られることが何と少なく、「老い」の議論がいとも容易に「死」についての議論にすり替えられてしまうことか…そしてそのすり替えの、まさに典型的な例をジャンケレヴィッチのこの著作に見出したような気がする。

*  *  *

 ここからは急ぎ足で、これまでの「老化」についてのジャンケレヴィッチの記述の追跡の結果を踏まえて、改めて『大地の歌』への参照箇所についての検討を行ってみたい。『大地の歌』への参照は、第2部 死の瞬間における死 の第3章 逆行できないもの の掉尾を飾る第9節 訣別。そして短い出会いについて で行われる。ここで直ちに気になる点は、第2部がその看板が示す通り、死の瞬間のみについて語るのだとすれば、逆行できないものというのはそもそもナンセンスということになることである。実際、それは先行する第2章で、ほとんど無 について語る時、既に、厳密な意味合いで瞬間に属さないものが密輸されているところから破綻していて、第3章は更に大胆に、実質的には再び「老い」について語り直しているようなものだ。

 そもそも「老い」について語った時、老いこそが一回性で、不可逆であると言っていたのではなかったか?だとすれば、その構成上の位置づけにも関わらず、『大地の歌』への参照は、実際には「死」そのものよりも寧ろ「老い」について語る文脈において行われているとさえ言い得るのではなかろうか?そして実際、第9節 訣別。そして短い出会いについて は冒頭でいきなり

「だが、この償われない喪失が人を慰められないままに残すとしても、老いてゆく人間がまったく補償に欠けているというのではない。」(同書, p.351)

と、老いにおける「補償」について語りだすのを見ると、それは確信に近いものになる。

「別離という数多くのちいさな死が、死という大きな別離の楕円を形作っているからだ。」(同書, p.352)

というレトリックも既視感のあるものだ。果たして老化について語っていた時には「疲労というちいさな老年」「老年という大きな疲労」というようなレトリックを振り回していたのである。しかもここでの「告別」は、火星探査を引き合いに出して語られるのである。この点は決して取るに足らないことではない。アドルノが宇宙飛行士の見る「地球」についてまさに『大地の歌』に関連して述べていたことを思い起こし、火星への植民をビジネスにしようというイーロン・マスクが使い捨てのロケットではなく、帰還して再利用ができるロケットの開発をしていることを思い起こしてみるがいい。ここでのジャンケレヴィッチの主張のポイントは、「死」は一回性のもの、不可逆なもので、死の瞬間の近傍のトポロジーは、彼自身の著作の構成を裏切っていて、死のこちら側と死の向こう側は対称ではなく、(そういう言い方をするならば)「死出の旅」は片道であることが「告別」の持つ意味合いを、一時的な別れとは全く異なるものにするという点に存する筈である。寧ろ、死のこちら側というのは、死の「手前」というのが適切であって、かつそのトポロジーを決めているのが「老化」である筈なのだ。当然だが、「告別」は死の手前で為される。であるからには、一回性の、一度限りのそれは寧ろ「老い」に固有のもの、寧ろ「老い」に帰属させるのが妥当なものではなかろうか。

 そして悲劇性についても、ここでは「不在に先行した別離は悲劇性そのもの」(同書, p.353)と言われているが、「老化」に関しては、

「≪悲劇的なもの≫とは、人を突然≪老化した≫状態に置く一連の状況の名だ。」(同書, p.217)

と言われていたことを思い起こすべきだろうか。ジャンケレヴィッチお得意のレトリックを剥がしてしまえば、これはボーヴォワールが『老い』の第2部 世界内存在 で扱う、老いの認識に関わるのであり、老化を突然自覚することに関わる筈である。勿論、老いの自覚は「告別」によってもたらされるとは限らない。というより寧ろ、「老い」の自覚に導かれて人は「告別」をするのではなかろうか。「告別」が人を「老化」させるのではないが、「告別」は老化の自覚なしにはありえない。老いの自覚は、「自己」というある種の「定常状態」の行き着く先が「自己」の崩壊であるということの自覚、自分が下り坂、梯子の降りる側にいるということの自覚なのであって、その不可逆な過程の先にあるものこそ「死」なのであり、それゆえに「告別」は悲劇的なものになるのだという常識的な見方の方が、告別の悲劇性の拠って来るところを正しく捉えているのではなかろうか?

*  *  *

 おまけとして、当該の節のタイトルの末尾に付加された「短い出会い」についてはどうか?『大地の歌』の「告別」について言えば、確かにそこでの告別は、短い出会いにおいて為されているように見える。一緒にいるわけではない友人に別れを告げるために、わざわざ出会いが設定されるという構図は、だから『大地の歌』でも成立していることになる。だが、その内実はここでジャンケレヴィッチの言う通りだろうか?「告別」のテキストが、マーラー自身が2つの詩を継ぎ合わせたものであることにまず注意しよう。ベトゲの元の詩のみならず、さらにベトゲのNachdichtungの典拠である王維と孟浩然の詩もまた、「告別」の設定そのものでなくて、なおかつそちらであればそれぞれにジャンケレヴィッチ風の「短い出会い」が適用できたかも知れない。だが、マーラーの作品のテキスト自体はどうか?ここで思い浮かぶのは、友人に関するドゥルーズ=ガタリの奇妙なコメントだろう。寧ろドゥルーズ=ガタリの方が、マーラーが「告別」の楽章に施した錯綜とした操作の帰結を捉えている可能性すらあるだろう。更に言えば、元々の孟浩然の詩、王維の詩の「別れ」は「死別」なのだろうか?「別れ」のための「短い出会い」については認めたとして、それはジャンケレヴィッチがこの節で述べているような「死」を前にしたものだったのだろうか?そしてそれとは別に、ベトゥゲのNachdichtungを素材に更に編集を施したマーラーの歌詞においてはどうなのか?

 勿論、そこに死の影を見ず、それをマーラーの受けた診断は誤診だったし、マーラー自身も健康そのものであったということを論拠に通説を批難する近年の論調は、ジャンケレヴィッチ風には、マーラー自身の第一人称的な≪感得≫を蔑ろにしていて、それが「客観的」に「事実」に基づいていることを認めたとして、マーラーその人とその作品について語る時にそのことがどこまで意味を持つかについては甚だ疑問だろう。何しろマーラーは『大地の歌』を聴いた人間が自殺をするのでは、とさえ言ったらしいではないか?それともこのアネクドットにしても、弟子が「神話」を創作するために脚色したフィクションであるという証拠でもあるのだろうか?そもそも第一人称的な死を仮に措いたとして、幼少期から兄弟の早逝に繰り返し直面し、その後も兄弟や友人の自殺にも遭遇しているし、余りに有名な長女の死についてのアルマの証言に偽りが含まれているとして、それがマーラー本人にとって耐え難い経験であったことは想像に難くない。所謂「誤診」以前にも、まさにそのキャリアのピークにおいて痔による大量出血が原因で瀕死の状態を経験していて、別にそれを題材とした標題音楽を作曲しなかったからといって、そのことがその後の彼の人と作品に影響していないとか、大した影響はなかったという論拠にはなり得まい。それゆえ私が通説に疑問を感じるのは、異論のための異論の如きものが依拠するものとは全く無関係な理由によるのであって、このような異論ならば、通説との「あれかこれか」で私が迷うことはなく、通説の方が余程「真実」の近くを射貫ていると考える。だがそれもまた程度の問題で、比較をした結果に過ぎず、だからといって通説が的を射ているとは考えていないのである。 

*  *  *

 ここでこの読解の当初の目的を再確認しよう。この読解は、ジャンケレヴィッチの『死』の「老化」の章と「別れ」の節の読解を通して、必ずしもジャンケレヴィッチの思索を継承・展開するかたちではなく、寧ろ反面教師としてであれ、マーラーと「老い」の関係についての視座を獲得することを目的としていた。そして実際に、大著の別々の箇所(「老化」は「死のこちら側」、「別れ」は「死の瞬間」に位置づけられていた)に存在する両者の読解を通して確認できたこととして、以下の点が挙げられるように思う。

 一見したところ「老化」についての考察は、「別れ」に関する部分での『大地の歌』への参照とは一見して無関係であるように見えるし、「老化」と「死」との区別を指摘していることから、『大地の歌』の参照に関して言えば。従来の「死」と結び付けて捉える通説と共通した発想(アドルノが批判した、第9交響曲の解説における「死が私を語ること」という後付けの標題の類のそれ)の一例として扱うことさえできるかも知れない。一方で、「老化」についての叙述は、一方では「死」についてのものとされる叙述と入り混じってしばしば区別ができず、寧ろそれは端的に「老化」についてのものとして区別するのが妥当に思われる箇所を含み、他方では「老化」が主題である筈の箇所で≪感得≫について語る時、実際には「老化」固有のそれではなく、「死」について語ったことを繰り返すことしかしていないといった箇所もあり、総じて「老化」を「死」から引き離そうとしつつも、その試みは不十分にしか達成されていない一方で、「死」についての叙述の中には、本来「老化」についてのものでしかないものが密輸されているように見える。「死」について斯くも饒舌たろうとし、実際に饒舌である一方で、この著作が『死』についてのものであるという前提を踏まえてなお、西洋の思考は「老化」について、それを正面から取り上げることを避けるというボーヴォワールの批判は当たっていると言わざるを得ないように感じられたというのは偽らざる感想である。

 翻って『大地の歌』の「別れ」について言えば、それが「死」の観点からのみ論じられるのは適切でないとしても、それでは「老い」の観点から論じるのは妥当なのかは独立の問題であろう。「死」でも「老い」でもなく、端的に「別れ」そのものであって何故いけないのか?歌詞は素材に過ぎず、作者の心理の投影を安直に作品に対してするべきでないとしたら、「老い」を持ち込むこともまた、人と作品に関する既成の発想に捉われたものではないのかという問いには、別に答える必要があるだろう。だが、ここでは一旦論証抜きで見通しだけ述べれば、「老い」を持ち込むのは心理学的な作者ー作品観に基づく密輸などではない。歌詞は素材だろうが、作品の一部であるには違いなく、あたかも歌詞など存在しないかの如く『大地の歌』を受容するのは(そうした姿勢を全面的に拒否しないまでも)妥当とは言えないとするならば、そして標題的・描写的な形態ではないにせよ、歌詞内容に触発されて作品が生成したのであれば、そこには「生の有限性」の認識があり、「疲労」の感受があり、「老い」の認識があることは明らかなことではなかろうか。「疲労」は「眠り」を誘うのだが、ここでの「疲労」は、ではそれによって「疲労」からの恢復が達成されるような類のものなのか?若き日の回想を呼び起こすようなその「疲労」は寧ろ、生体のロバストネスの変移としてのホメオスタシスの定常位置の変化としての「老い」の感受そのものなのではないか?ジャンケレヴィッチの「老い」の捉え方も、ダマシオの言う中核意識ー中核自己のレベルではなく、従って現象学的には単なる意識の中断を乗り越えた想起や予期が可能な第二次把持のレベルを前提とはしても、それに留まるレベルではなく、スティグレールやユク・ホイの第三次把持のレベルに対応する延長意識ー自伝的自己のレベルに関わるとする把握に通じており、システム論的な「ロバストネスの変移と崩壊」に通じている側面を見出すことができたし、「老い」を外側から観察できる事象としてのみ捉えるのではなく、主観的な認識を必須とする立場は正当なものであるが、そうした点を踏まえた時、『大地の歌』の「別れ」は「老い」の認識に立ったそれであるという把握には一定の妥当性があると主張しうるという見通しは、ここでの読解・検討を通じて確保できたのではないかと考える。

(2023.1.30初稿公開, 2.3更新, 2024.12.18 備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業の一部として再編集。改題の上再公開。2025.1.31, 2.2 誤記修正・表現の調整を行い更新。)


2025年1月13日月曜日

儚い意識の擁護としてのマーラーの音楽―埋葬の後で―(2025.1.13再公開)

喪の文章。喪についてではなく、喪の行為として文章を書くこと。追悼の文章を書くこと。まずは自分のために。 けれどもあわよくば、喪われた命、恐らくは、このようにして書き留めなければ生成の絶えざる過程の流砂の中に埋没し、忘れ去られてしまう ハエッケイタスの擁護のために。そうした擁護もまた無力で、それ自体が流砂の中に埋没してしまうことはわかっている。客観的には愚行、 無意味な行為であることが明らかであるのに、それを止めることはできない。

死は他者である、ということは、かつてレヴィナスを研究していた時には明らかなことに思えた。ところが死の他者性は、他者性ゆえに 備えることができない剰余を必ず持っている。というよりその剰余こそが他者性なのだ。そうやって、嵐が来てみて、またしてもその嵐の最中で その都度不意に生命が喪われるのに直面する。常にその瞬間は不意打ちだ。そうやって今までそこに在った意識が不意に消滅する。 私を見つめていたまなざしは永遠に喪われる。永遠に、永遠に。残るのは活動を停止した生命維持のメカニズムの残骸。停止した自動機械だ。 意識はその自動機械のユーティリティの如きものに過ぎなかったのだ。

能にはいわゆる霊がごく自然に、当たり前のように出てくる。それは後には「怪談」という枠組みの中で恐怖の、排除の対象となるのだが、 能ではそうではない。彼らは大抵は己が成仏できない理由を述べ、僧形のワキに供養を請い、読経の功徳によって成仏する。彼らは肉体を 喪ってはいるが、別に不気味な存在というわけではない。これをチャーマーズのゾンビと比較するのはお笑い種だろう。ゾンビとは逆に、ここでは 意識のみがあり、身体は存在しない。ゾンビはまるで意識があるかのように身体のみが動くが、霊ではまるで身体があるかのように意識のみが動く。 そして更に考えてみれば、ここでの霊というのは意識の存在の制約条件を見事に裏返したものになっている。それは生物学的な制約を離れて存在したいという 無いものねだりの極限、意識自身の虚像なのだ。瞑想は言ってみれば感覚を遮断して意識のみを切り離す訓練だが、ソマティックな感覚まで 無くすことは困難だ。そこでは身体すら外部なのだ。ゾンビとゴーレムの西欧はいざ知らず、日本には意識なきロボットを擬人化する志向的スタンスがある一方で、 意識をその存在の物理的な制約から分離したものとして見做す志向もまた存在するということなのだろうが、それは多分ごく自然なことなのだろう。 能の多くが夢幻能で、それが繰り返し繰り返し、洗練を重ねつつ演じられ続けてきた理由の一端が実感できるように思える。だが、さしあたっては それは願望に過ぎない。意識は生命維持機構が発達させてきたユーティリティに過ぎず、それはある条件さえ整えば、生命の維持に必須なわけではない。 否、意識を持たない生物はいくらでもいるだろう。だが、私にとってはそのユーティリティがかけがえのないものなのだ。そして私自身もまた、 そうしたユーティリティに過ぎない。そして私は、他の意識の消滅を経験し、それが生じることを認識し、更にはそれがいつか自分に起きることを 色々な知識や経験によって知っている。けれども、知識としては持っているにも関わらず、自分自身の存在を脅かすのと同型の出来事が、自分がともに生きてきた 同型の存在に起きることによって自分の中におきる反応にいつまでたっても慣れることができない。それもまたそのように事前にプログラミングされている のかも知れないが。(もしそうだとしたら、「それは自分にもいつか起きる」という認識を持つことは、私にとってではなく、そのプログラミングを行った主にとって 一体どのような効用があるのであろう。)

そして今度もまた、マーラーがそう感じ、ワルターへの手紙に書いたように、私もまた「一からやり直さなければならない。」 マーラーは何故、そうした時に音楽を書いたのだろう?逃避のため、自己治療のため、などなどといった説明が色々あるのは 知っているし、それはそれぞれ正しいのだろう。それは喪の行為そのものだったに違いない。だが、それが作品として定着され、 ミームとして存続するのはどうだろうか。マーラーは自分の作品を精神的な「子供」と見做していたのだ。そして確かに、生命の連鎖とは 別の仕方で、その「子供」はマーラーの死後も命脈を保っているように見える。マーラーは、作品を創ることを、無意識の裡の反逆として 捉えていたのではないだろうか、と私には思えてならない。「原光」の歌詞が物語るあの葛藤は、素朴な装いではあるけれど、反逆の 一形態に感じられる。愚かなファウストの行いにもそうした「反逆」の影が見える。それは一方で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』においてイヴァンが大審問官の物語を語る際に述べた「反逆」に通じ、と同時に、どこかでダマシオが『自己が心にやってくる』で語る、延長意識を備え、自伝的自己を持つようになった主体の「反逆」に通じているに違いない。

マーラーの知性は、ファウストの終幕自体が或る種の「比喩」、ある文化の拘束下での表現形態の一つに過ぎないという認識に到達していたようだ。 丁度、ある人が確かに見たという神や天使といった超越的な存在の幻視が、その人の想像力に拘束されて、ひいてはその人が埋め込まれた文化を 色濃く反映しているのと同様に、人間は自分の認識の檻の外には出られないというのを彼ははっきりと認識していた。自分がすべて移りゆくものの、 比喩の側にしかいないという認識が彼にはあった。だからこそ、例えば第2交響曲のフィナーレのプログラムを真に受け取って、質問をしてきた女性の態度に 彼は当惑したのだ。どんな得意の絶頂にあってさえも、彼は自分が創るものがまがいもの、フィクションに過ぎないこと、その仮象性、 虚構性をはっきりと自覚していたに違いない。にも関わらず彼が創作をしたのは、それが結局のところフィクションに過ぎなくても、 そうせずにはいられなかったからなのだろう。 それは不可能事への挑戦、マーラーが親しんでいたカントであれば純粋理性が突き当たるべく宿命付けられているとされるあのアンチノミーに他ならない。 マーラーがカントをどのように読んでいたかは詳らかにしないが、恐らく、そうした自分の能力を超えた問いを立ててしまう人間の性のようなものをカントが 自分なりの仕方で見出した点に共感していたのではないかと想像せずにはいられない。 彼の作曲は、彼なりのそうした不可能事への挑戦、私なりに言い換えれば、ある種の「反逆」の実践ではなかったろうか。

私=この意識は、それによって自分が偶然に生じたに過ぎない進化の盲目の巧緻を賞賛できない。寧ろショーペンハウアー的な盲目の意志にしか 感じられない。私はおまけに過ぎない。そのかわりレヴィナスのいう多産性が用意されていると言うかも知れない。だが、それは私=この意識のためのものではない。 多産性は遺伝子が自分の存続のために仕組んだメカニズムで、個体の生命維持機構の上にほとんど随伴的にしか存在しえない私には 関係がないことだ。勿論ハエッケイタスはクオリア同様虚構で、ついでにお前という意識も虚構だ、と消去主義者は言うだろう。 確かにある視点からはそれは正しい。けれども、私にとって私は存在する。お荷物だろうが、私は無くなるまでは自分に付き合っていかざるを えないし、つい数十時間前まで私を見つめていたまなざし、確かに存在していた他者の意識をなかったことになどしたくないのだ。 私は私なりの仕方で「反逆」を企てたいのだ。勿論、天才ならぬ私には、マーラーのようにはできないのはわかっているけれど、そして、 多くの意識たちが、聖書の鳥のように、播かず、刈らず、倉に納めず、それでいながら、私の記憶の外では喪われてしまう無償の優しさを 与えてくれながら、無から無へとひっそりと還っていくその慎ましさに、自分もまた同じように全てを消去して、姿を消すべきなのではという懐疑に捉われつつも、 一方でそれらの意識たちの存在の慎ましさ、寡黙さゆえに(彼らは黙っていれば自分からは主張したりはしないだろうから)、己の非力を顧みない愚挙であっても、 あるいは彼らにとってはとんだ「おせっかい」かも知れなくても、自分なりの「反逆」を企てたいのだ。

否、私にはできなくても、マーラーの遺した音楽は、そうした私の心のベクトル性を汲み取ってくれるように感じられる。それが勘違いであっても、 私はそれを(主観的な音楽ではなく、)意識の音楽、儚い意識の擁護の、主観性の擁護の音楽として聴き取る。その音楽はあまりに個人的であるという廉で批判され、 蔑まれてきたし、今後も毀誉褒貶が相半ばすることだろうが、それでもミームとしてのその力は明らかなように思われる。そしてその音楽が、喪の行為であること、逆説的にも 肯定的な瞬間においてすらそうであること(第8交響曲)は、私には明らかに感じられる。喪の行為が私=意識にとって必要であり続ける 限りは、マーラーの音楽は私のかけがえのない伴侶、しかも私よりも遙かに長寿の、「神の衣」の一部となることが許された同伴者なのだ。 マーラーの音楽がすっぽり含まれるであろうロマン主義的な音楽観は、音楽史においては、あるいは今日の作曲の現場では もう命脈が尽きたことになっているのかもしれない。だが、それは私にはどうでもいいことだ。私にとって大切なのはロマン主義的な音楽観自体ではなく、 それが産み出した(というのは認めたとして)マーラーの音楽という個別の場合の様相だ。肥大した自我?こんなに醒めて、己(と己の同類)の 有限性に意識的なのに?情緒過多で感傷的?確かにそうかも知れないが、ここに自己陶酔があるとは私には思えない。こんなに外部が、死が、 他者の影が露わな音楽はない。それは時折、自分を飲み込む「世の成り行き」のミメーシスに転化さえするではないか。

ある意識が「存在した、生きた、愛した」という事実性そのものを顕揚し、あたかも擁護しているようにみせかけ、 そこに慰めを見出すように諭す哲学者の姿勢には、好意的に言っても無意識の詐術が潜んでいる。事実性は、 (悪意ある言い方をすれば)最悪の場合でもそうした哲学者の行為によって、ようやくはじめて意味を持つのではないか。 「事実性が滅びることはない」のは、如何にしてなのかといえば、「事実性が滅びることはない」と幾つもの意識が連帯しつつ、反目しつつ、 あるいは互いに無関係に言い続けることによってでしかありえないのではないか。「生きた自然の超自然性」などといったお得意の、 しかし変わり映えのしないレトリックを最後に至っても手放さず、そうしたレトリックによって何かが達成できたかの如く振舞う饒舌なジャンケレヴィッチの姿は 私には欺瞞にさえ見える。もし、自分で気づいていないなら、それはそれで哲学者らしからぬ(でも、現実には哲学者におきがちな、自分だけは 安全なところにいて、超然とした視点を確保できているという勘違い、ないし、そのようなふりをする詐欺と同様の)、度し難いお目出度さだ。 それでもなお、彼(の=という意識)が「死」というタイトルを持つ数百ページにも及ぶ大著を残したことは事実だし、その内容が持つ効果は全くの無ではない。

そうした哲学者の賢しらさに比べれば、マーラーの音楽はずっと素朴に見える。(彼はまた、そのナイーブさによっても蔑まれて きたのだった。)あるいは音楽はそんな目的のためにあるのではなく、もっと高邁な目的のためにあるのだとして、彼の音楽を安っぽく、低俗なものと 見做す立場もあるだろう。一方で、マーラーの音楽を精神安定剤の如く利用するとは何事か、結局マーラーの音楽をムーディに消費している だけではないかという批判もあるかも知れない。そしてこうした聴き方は、本来あるべき姿に違いないコンサートホールでの実演ではなく、 専ら自宅で、生活の糧を得るのに追われる合間に、しばしば断片的に、貧弱な再生装置で録音を貪るような受容のあり方に固有の非本来的なもの、 コンサートホールのマナーには全く相応しからぬ、品のない姿勢として蔑まれるかも知れない。 結構、きっとそうした批判は皆、多分正しいのだろう、どこかに輝いている真理の星の輝きの下においては。 だが生憎、地面に這いつくばって生きているに等しい私には、そんな真理の星は無縁だし、 マーラーをそんな真理に照らして聴き、理解しないといけないのであれば、私には30年前のはじめからマーラーを聴く資格などなかったし、 今でも勿論ないのだろう。

それでも多分、私はマーラーを聴き続けるし、マーラーについて書き続けるだろう。無言のまま永久に閉ざされた瞳の向こうに、 ほんの少し前まで確かに存在した小さくて純真なあの意識をしのび、せめて自分が存続している間には、この出来の悪い 神経回路網に決して忘れないように記憶し続けるために、そしてそういう自分もいつの日か、跡形もなく消えうせるという事実を確認し、 銘記するために。こうした書いた文章とて、永遠とは程遠い。紙に書かれたものは風化し、電子化したものは環境の違いで そもそも無意味な数値の羅列になりうるし、そうでなくてもディスクが壊れて喪われてしまうかも知れない。けれども、私は、自分が 記憶している「良きもの」が、自分の死とともに永久に喪われるのに耐えられない。少しはましで充分。その少しの程度の違いのために、 私はもうしばらくは書き続けるのだと思っている。

(2008.6.4、埋葬の後で, 2025.1.13 改題・追記の上、再公開)

2023年5月21日日曜日

付加六は旋法性の現われか?:MIDIデータを入力とした分析続報:主和音形とその転回形・属七・属九・付加六の出現頻度分析(最終更新2023.5.21)

1.これまでの経緯と分析の背景

 マーラーの音楽の特徴について語る一つの方法として、Webで公開されているマーラーの作品のMIDIファイルのデータを入力とした分析をこれまで断続的に行ってきました。その経緯については、記事「データから見たマーラーの作品:これまでの作業の時系列に沿った概観」にまとめた通りです。もともとの動機は音楽の調的なプロセスを可視化することで、五度圏上にプロットする作業を手でやり始めたところ、MIDIデータを用いて自動化してはどうかという示唆を作曲家・メディアアーティストの三輪眞弘先生に頂いたのがきっかけでした。まずMIDIデータを解析するプログラムをC言語で自作し、抽出したデータを公開することから始め、次いで当初の目的であった調的な変化のプロセスを可視化する試みを行いました。その後は特に和音(より正確にはピッチクラスの集合)の出現頻度に的を絞り、マーラーの交響曲を対象に、作品間の比較や他の作曲家の作品との比較をすることでその特徴を実証的に明らかにすることを目的とした初歩的な統計分析を行いました。分析で得られた結果とそこから導いた仮説については、記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ」に記載してある通りです。私的な場ではありますが、やってきたことを要約して報告する場を設けて頂いたことで一区切りついたことから、その後は長短の主和音の交替にフォーカスした分析を試行したり、これもまたMIDIファイルを入力としたGoogle Magentaを用いた機械学習の予備実験を行ったりしていましたが、改めて分析を再開するにあたり、報告のレジュメを読み返して、これまでにわかったこと、及び報告の際に指摘頂いた点や今度の課題となった点を改めて整理しなおすと、概ね以下のようになると思います。

  • 他の作曲家の作品との比較におけるマーラーの特徴づけとしては、古典派的なドミナントシステムに対して付加六の使用を中心とした別のシステムが存在することを窺わせる一方で、古典的なシステムが機能しなくなったわけではなく、機能和声で用いられる三和音・四和音が依然として用いられている点では古典派と共通しており、その点でより新しい時代の後続の作曲家の作品とは区別可能に見えること。
  • マーラーの作品創作の展開のプロセスは、第1交響曲を出発点として、一旦、角笛交響曲(第2~第4交響曲で)長・短調のコントラストの原理に基づいた後、長・短調のコントラストとは別の原理が登場して拮抗するようになった後、後者が優位に立つという傾向を備えている。古典派の作品の、長調中心・ドミナント優位な原理ではなく、それとは異なる長・短調のコントラストの原理がマーラーにおいて優越している点は夙に指摘されてきたことでもあり、また聴いていても感じ取れることだが、更にそれとは別の原理が存在し、後期になるについて優位に立つこと。但しその代替となるシステムの解明は今後の課題となっていた。
  • 分析手法の観点での今後の課題としてはまず、(1)機能和声で用いられる、所謂「名前のついて和音」だけを対象とするのではなく、特に後期作品に行くほど増加する未分析の和音を集計・分析対象とすること。と同時に(こちらは三輪眞弘先生に指摘して頂いた点なのですが)(2)和音の転回の区別を意識することで、和音の持っている機能的側面を反映した分析が可能となる可能性があるため、最低限でも主三和音形(機能としての主和音ではなく主和音の形)については転回形を区別した分析をすること。

 報告レジュメやまとめ記事を改めて読み返してみると、我ながら、実際に行った分析の内容からすれば些か勇み足の感を否めないというのが正直な印象です。和音の頻度分析は、音楽にとって最も基本的な水平方向の次元を無視し、時間方向の和音の並び方を捨象したものであり、報告の折に岡田暁生先生からご指摘頂いた通り、せいぜいが音楽作品に接して感じ取ることができる表層的なテクスチュア、聴感に相当するものを分析しているに過ぎないという点は強調し過ぎてもし過ぎということはありません。分析でわかったことは、直接的にはあくまでも和音(しかも従来の分析では厳密に言えばピッチクラスの集合に過ぎない)の出現頻度の分布の傾向であり、或る和音と別の和音の出現の仕方に相関が見られたり、出現頻度の偏り方によって作品が分類でき、その分類に基づいて作曲家間の類似性や差異を述べることができるというに過ぎません。これは必ずしも適切な類比ではないかも知れませんが、或る和音の出現頻度から作品の背後に存在する原理を探ろうとする試みに付き纏う困難には、特定の形質に関わる遺伝子を突き止める作業に伴う困難に通じるものがあるように感じます(なお私は後者についての情報を、主としてゲアリー・マーカス『心を生み出す遺伝子』から得ていますが、同書で紹介されている事例には、アナロジーを感じさせるものが多々ありました)。データ分析によって浮かび上がるのはあくまでも相関関係であり、直接的な因果関係が直ちに導かれるわけではないのですが、それでもなお、一連の分析で見出された特定の和音の頻度の作曲家毎の偏りの傾向や特定の複数の和音の出現に見られる相関には明確といって良いものも含まれており、その背後に何らかのシステムが存在し、機能していることを強く示唆しているという結論については、これまでの分析の結果について訂正の必要は感じません。

 その一方で、そこで示唆されているものをより明確なものにしていくためには、更に追加の分析が必要であることも間違いありません。上記の分析手法の観点での今後の課題のうち前者は、前回の分析において、その存在が強く示唆されつつも、それ以上の解明ができなかった代替原理に関して、機能和声において登場する「名前のついた」和音ではない、「名前のない」未分析の和音の中で比較的高い頻度で出現するものに注目することで解明が期待できるのではないかという発想に基づくのに対し、後者は逆にこれまでの分析を出発点として、機能の観点でより和音をよりきめ細かく見ていくこと、謂わば解像度を上げることで解明を図るという発想と捉えることができるでしょう。

 更に付け加えるならば、他の作曲家との比較においてマーラーの音楽を特徴づけるものが、マーラーの音楽の内部における創作展開のプロセスを特徴づけるものとどのような関係にあるのかについての検討が行われていない点も気になります。この点についても、解像度を上げるアプローチで、しかも他の作曲家との比較とマーラーの作品間の比較の両方において共通の特徴量を使った分析を行うことで手がかりを得ることができるかも知れません。

 そこでここではまず手始めとして、解像度を上げる方針に基づいた簡単な追加の分析を行ったので、その結果を報告することにします。

2.分析方針の決定

 まず分析対象とする和音の中で長短の主和音形については転回形を区別して頻度データを取り直す一方で、分析対象とする和音についてはこれまでの分析結果とそこから導き出した仮説に基づいて絞り込むアプローチを採りました。

 これまでの分析で示唆された、付加六の使用により特徴づけられる、ドミナントシステムとは異質のシステムに関係しそうな論点を考えてみると、マーラーの場合には何よりもまず「大地の歌」のコーダが思い浮かびます。全曲の出だしの調性であり、マーラーにおける調性格論では「悲劇の調性」とされるイ短調と、作品の半分の長さを占める長大な終楽章の曲頭の調性であるハ短調の同主長調であるハ長調とは平行調の関係にあるわけですが、それらが謂わば「宙吊り」にされた形が付加六であり、言うなれば、短調・長調の対立の原理が止揚されたと考えることができます。そしてそれと同時に思い浮かぶのは、ハンス・ベトゥゲによる漢詩の追創作を歌詞に持つ「大地の歌」では、それに対応するように「東洋的な」五音音階が用いられているという点です。そうした特徴は「大地の歌」に限られる訳ではなく、思いつくままに挙げても、リュッケルト歌曲集や第8交響曲でも「大地の歌」を予見させるような要素が見らますし、更により一般的に旋法の使用、旋法的な節回しということであれば、柴田南雄さんが『グスタフ・マーラーー現代音楽への道ー』(岩波新書. 1984)で分析している第3交響曲第1楽章のようなケースも思い浮かびます。その冒頭のホルン8本により斉奏される旋律は、ブラームスの大学祝典序曲の素材でもある学生歌の引用であり、マーラーが学生時代の所属したサークルの記憶によるとする解釈もあるようですが、柴田さんはそれをマーラーの「幼児体験の反芻」と捉えています。

 「(…)これは、完全に作曲者の幼児体験の反芻と捉えることが出来る。つまり、金管楽器による行進曲調は彼が子供の頃に住んでいたモラヴィアの町イラーヴァ(ドイツ名イーグラウ)での、オーストリア軍の兵営から聞えてくる軍楽の響きである。(…)また、ソの音にシャープがないこと、つまりこの旋律が半音の上行導音を欠く自然短音階であることは、その町で歌われていたボヘミアの民謡か、あるいはユダヤ教のシナゴーグで聞いた礼拝の歌のエコーであろう。(…)」(柴田南雄『グスタフ・マーラー』, pp.70~71)

 そして当該旋律の詳細な分析が繰り広げられ、その分析の末尾の節(p.78)でまとめられるような広大な音楽文化圏の様々な音楽的伝統が参照されていくわけですが、ここでの論点から興味深いのは、それが平行調の関係にある長調・短調の交替が「ウィーン古典派=ロマン派の音感ではな」(p.75)く、「スラブの民俗音楽の特徴」(ibid.)とされ、「一つの音組織に二つの中心音が存在する」と捉えられている点と、上記引用にある上行導音の欠如と対応した下降導音の存在が、教会旋法(フリギア旋法)的であるという指摘でしょう(最後の点で『大地の歌』の第1楽章のリフレインへの反映が指摘されていることも付記すべきでしょうか)。第3交響曲の第1楽章はヘ長調で終結するわけですが、ニ短調ーヘ長調という平行調のフレームはドミナントと上行導音に基づく個展的なシステムや長調・短調の対比のシステムよりも基層の民俗的起源に基づくものであり、ドミナントシステムからの逸脱、短調・長調の二元論対立の稀薄化の傾向を持っていることが指摘されています。柴田さんの指摘に拠れば、ドミナントシステムからの逸脱、短調・長調の二元論対立の稀薄化は、マーラーがチェコ出身で、ボヘミアとモラヴィアの境界地域に生まれ育ったという出自を思わせずにはおかないものということになりますが、ここからチェコの音楽との比較対照を行うことが考えられます。具体的な比較の対象としては、これまでしばしば比較の対象として取り上げられてきたスメタナのようなボヘミアの音楽もそうですが、寧ろモラヴィアの民俗音楽に根差したヤナーチェクとの比較の方が一層興味深そうに感じられます。

 その一方で「旋法性」という観点から比較対象としてきたマーラー以外の作曲家を改めて振り返ってみた時、付加六の和音の出現頻度の高さに関してマーラーと類似の傾向を示した作曲家としてラヴェルとシベリウスが挙げられていたことが思い浮かびます。ラヴェルは所謂「印象主義」の作曲家として一般には了解されており、その語法上の特徴として(それが教会旋法に由来するものなのか、ボロディンのようなスラブ音楽からの影響なのかは一先ず措くとして)旋法性が挙げられ、長調・短調の対立が曖昧になっている点が指摘されることが思い起こされます(例えば、ジャンケレヴィッチ『ラヴェル』の「創作の技術」の章の中の「音階」の節。白水社から出版された邦訳ではp.139以降を参照。なおジャンケレヴィッチは、「音階の至聖なる二元論に対するラヴェルの不満」(p.141)や導音の不在についても指摘しています(ibid.))。シベリウスについては、何よりもその「北欧的」な響きを成り立たせている要素の一つに旋法性を挙げることができるでしょう。最もあからさまな例として直ちに思い浮かぶのは第6交響曲がドリア旋法で書かれていることですが、それ以外の作品でも旋法的な要素は至る所にあって指摘には事欠かないでしょう。勿論、ラヴェルとシベリウスの間には大きな様式的な隔たりがありますし、そのいずれか一方とですら、マーラーとの類似を論じるのは無謀な企てかも知れません。しかしながら付加六が高頻度で出現することは何某か「旋法性」と関わっていて、旋法の使用がドミナントシステムとは異質の原理に関わっているという点に限って言えば、その具体的な細部の違いを措いてしまえば、そこに共通性を見出すことはできるのではないでしょうか?

 最後に、これは単なる個人的な嗜好の話になりますが、私は先にシベリウスの交響曲、それも特に後期の交響曲に親しんでからマーラーの音楽を聴いて熱中するようになったのですが、数多くの相違点にも関わらず、両者の間には類似点があると感じていて、当時読むことができたマーラーに関するほぼ唯一のムックであった青土社の『音楽の手帖 マーラー』に収められた竹西寛子さんの「根の気分」と題された文章の以下のくだりを読んで共感を覚えたことを思い出します。結局のところ私がMIDIデータを入力としたデータ分析によって突き止めようとしているのは、岡田暁生先生の指摘する音楽の表層的なテクスチュアから感受できる「根の気分」の由来なのかも知れません。

「マーラーのいくつかの作品は、私の根の気分にかかわる。そのかかわり方に独自の粘着力をもっているように思われる。むろん、根の気分をたてにとるなら、ここにかかわるのはマーラーだけの作品ではないけれども、陰気になり過ぎもせず、しかし決して陽気にはなりようのないきわどい一線を守らせるのが私のマーラーである。(…)もし、この気分の醸成に限って言うなら、目下のところ、私のマーラーのもっとも近くにいるのはシベリウスということになるのかもしれない。」(竹西寛子「根の気分」, 『音楽の手帖 マーラー』, 青土社, 1980 所収,  pp.16~17)

 ラヴェルの音楽を聴くようになったのはずっと後になってからで、最初からラヴェルの音楽に対しては或る種の距離感をもった接し方にならざるを得なかったのですが、それでもなお、他ならぬラヴェルの音楽に惹き付けられたのは、そうした「根の気分」に関わる共通性を感じ取ったからではないかと思うのです。三者三様、全く異なる個性を持ち、それぞれにその背景は異なるし、この三人に必ずしも限定されるわけではないのですが、その後私が「意識の音楽」と名付けた「感受のシミュレータ」としての音楽の在り方と、それを可能にする構造について言えば、そこに共通性があるように思うのです。けれども直接論証のできない発言はここまでとして、以下ではMIDIデータを入力とした分析により示すことのできる側面に話を限定することにします。

3.分析条件

 上記のような検討から、ここではこれまでの分析で浮かび上がってきた付加六の和音の出現頻度の高さが、旋法性の現われであり、それが西洋音楽の伝統的なドミナントシステムとは異なった原理の存在と関わっているのではないかという想定に基づき、追加の分析を以下のようにレイアウトすることにしました。

対象とする和音:長短主和音形の基本形(maj, min)、六の和音(maj6, min6)、四六の和音(maj46, min46)を区別する一方、属七、属九は属和音形(dom)としてまとめ、更に付加六(add6)を加えた8種類の和音パターンが各拍の頭で出現する頻度(100拍あたり)を特徴量としました。

[重要な注記]:ここでいう「主和音形」・「属和音形」は、機能和声の理論での主和音・属和音とは一致しません。既に触れた通り、従来の分析について厳密な言い方をすれば「同時に鳴っているピッチクラスの集合」を対象としていたするのが正確でしょう。「主和音形」・「属和音形」というのはそうしたピッチクラスの集合に対して、伝統的な音楽理論での呼び名への連想に基づいて付与された名前に過ぎません。それに対し今回は、長三和音、短三和音に相当するピッチクラスの集合についてのみ、最低音がどのピッチクラスであるかによって区別をすることによって転回形の区別に相当する分類をすることにしたということです。一方で機能和声での主和音・属和音は主音・属音の定義を前提としており、ある時点の主音が何であるかは文脈依存であり、同じピッチクラスの集合が文脈に応じて主和音であったり属和音であったりします。本稿を含む一連の分析ではー少なくとも現時点まではー文脈を意識した分析は行っていないので、ここでいう「主和音形」には機能的に見た場合には、主和音も三和音の属和音も(更に言えば重複を持つ四和音以上も)含まれます。従って「主和音形」の出現頻度として本分析で集計されるものには機能的には三和音の属和音も含めてカウントされており、「属和音形」としては属七・属九という四和音・五和音だけが含まれていることをお断りしておきます。岡田暁生先生が機能を無視したテクスチュアの分析と指摘されたのは、まさにこの根本的な部分に関わるものと私は理解しています。

分析手法:前回同様の、各種のクラスタ分析(階層的な手法3種:complete法、average法、ward法、非階層的な手法1種:kmeans法)と主成分分析を行うこととしました。主成分分析にあたり、当然に予想される和音形間の出現頻度の偏りに対して標準化を行うかどうかについて言えば、100拍あたりの和音形の出現頻度という同一次元量であることから必須ではありませんが、各和音形の出現頻度の違いを反映するために標準化を行うべきではないという立場と、特定の作品における和音形間の出現頻度の偏りを取り除き、各和音形毎の作品間・作曲家間での出現頻度の偏りに注目すべきという立場の両方が考えられることから、標準化を行う場合と行わない場合の両方の分析を行うことにしました。

分析対象のデータ:マーラーの交響曲は従来と同じデータセットを用いました。従来の分析では、各拍毎の和音(同時に鳴っている音の集まり)を抽出したA系列と、各小節毎に先頭の拍の和音(同時に鳴っている音の集まり)を抽出したB系列という2種類のデータのいずれかを用いた分析を行ってきましたが、本分析は和音の出現頻度の統計ということで、サンプルの多いA系列のデータを用いた分析を行いました。比較対象の他の作曲家の作品の選択については、既述の方針に基づき以下の通りとしました。(括弧内は以下に示す分析結果におけるラベルを表します。)分析は曲を単位として行い、多楽章形式の作品については各和音形について全曲の出現回数を累計し100拍あたりの出現頻度を求めました。

  • マーラー(mahler):第1~10交響曲、大地の歌(mahler1~10, mahlerErde)
  • ブラームス(brahms):第1,2,3,4交響曲(brahms1,2,3,4)
  • ブルックナー(bruckner):第5,7,8,9交響曲、第9交響曲フィナーレ(bruckner5,7,8,9,9f)
  • スメタナ(smetana):我が祖国(smetanaMaVlast)
  • ドヴォルザーク(dvorak):第7,8,9交響曲(dvorak7,8,9)
  • ヤナーチェク(janacek):シンフォニエッタ(janacekSym)
  • フランク(franck):交響的変奏曲、交響曲)(franckVar,  franckSym)
  • ラヴェル(ravel):ダフニスとクロエ第2組曲、優雅で感傷的な円舞曲、左手のための協奏曲、ピアノ協奏曲ト調(ravelDaphnis, ravelValNS, ravelLeftPC, ravelPC)
  • シベリウス(sibelius):第2,7交響曲、タピオラ(sibelius2,7,sibeliusTapiola)
  • タクタキシヴィリ(taktakishvili):ピアノ協奏曲第1番(taktakPC1) 

[重要な注記] 本分析が従来の分析の続きであり、前提を共有していることから、本稿のみからでは本分析の重要な制限について読み取れないことに気付いたので、特に以下の点についての追記をさせて頂きます。

本稿の分析では、ある作品のMIDIデータに含まれる和音(=ある時点で同時に鳴っている音)の全てを対象としているわけではありません。上に追記した通り、従来より一連の分析では、各拍毎の和音(同時に鳴っている音の集まり)を抽出したA系列と、各小節毎に先頭の拍の和音(同時に鳴っている音の集まり)を抽出したB系列という2種類のデータを抽出して分析の入力としてきました。

MIDIデータからデータを抽出することを前提とした時に、このやり方でまず問題になるのは、MIDIデータで小節や拍について楽譜通りの設定になっているかどうかでした。というのもMIDIファイルは、楽譜を見てMIDIシーケンサ―ソフトを使って打ち込む場合もあれば、MIDIキーボードで演奏したものを記録するやり方で作られる場合もあって、後者の場合には、現実の演奏はテンポに微細な揺らぎがあるため、小節や拍の情報は、もしそれがあったとしても、データ抽出で使う目的には適さないと考えるべきです。ちなみに後者はピアノ曲のケースでは良くあります。マーラーの場合だとピアノ伴奏歌曲の場合が該当しますが、交響曲については前者のやり方で制作されることが多いようなので、マーラーの交響曲の分析では幸いにしてこの点に限っては問題となることはありません。しかしながら前者の場合でも、拍子などの小節の区切りの情報は必須ではないため、必ずしも分析に使えるとは限らないのです。

しかしそれよりもより本質的な問題として、例えば(典型的にはアルベルティ・バスのように)和音が分散して現れたときに抽出できる音の集合を考えると、拍頭で鳴っている音は和音の構成音の全てではなく、そのうちの一部であり、分析される和音自体は抽出できず、その部分が各拍毎に抽出されるに過ぎない点が考えられます。本分析のやり方では、あくまでも拍の頭・小節の頭で同時になっている音の集合を抽出するので、単音や重音が抽出され、それらを組み合わせて得られる「本来の」和音は抽出されません。拍の間に鳴る音が全て和声の構成音であれば、それらを併合して一つの和音として捉うようにやり方を変更すればいいのですが、拍の間に鳴る音としては、経過音、刺繍音その他の非和声音が幾らでも存在し得るため、無条件で併合すれば意図しない結果になってしまいます。

この例から窺えるように、楽曲分析は、必ずしも鳴っているだけ音を対象としているのではなく、その楽曲分析が背景としている理論における「正解」がわかっている必要があります。和声音・非和声音の区別もそうですし、和音の「完全形」からの「根音」を始めとする構成音の「省略」も然り、複雑な(名前を持たない)和音を基本的な(名前のある)和音の一部の音が「変位」したものとして捉えるやり方も然りですし、何より「主音」が何であるかの知識なしには或る同じ形が主和音なのか属和音なのかの判定すらできません。

そして本稿の分析は、どの理論に準拠するにせよ、特定の理論に基づいた楽曲分析プログラムを書くことが目的ではなく、そのような理論に基づく「知識」なしで、ある時点で現れた音を抽出した結果だけを手掛かりに行っています。(今時だと、高度な楽曲分析を行うAIというのもどこかで開発されていることでしょうし、楽曲分析を自動化することを目的とするならば、もっと別のアプローチの選択すべきでしょう。)従って、本稿および本稿に至るまでに実施してきた分析は、特定の音楽理論に基づいた楽曲分析とは前提が大幅に異なり、それ故そうした分析を基準とした場合には、様々な(立場によっては致命的と見なされる可能性すらある)制限が存在することをお断りしておきます。立場によっては、ここでの分析には全く価値を認めないという判断すらあり得るでしょう。

或る意味では、私自身が訓練された耳を持っていないので、そういう聴き手がどう聴くかという設定での分析は考え得るのでしょうが、これに対しては、気付いていないだけで理論に沿った聴き方をしている部分が確実にあって、要するに聴き手の学習の程度次第ということになるでしょうし、作曲者の側はエキスパートであって、基本的には伝統的な楽曲分析と共通の発想で書かれているというのは動かしがたい事実でしょうから、それらを踏まえれば、訓練された耳にどう聞こえるかを論じることの方が筋道として正しいのかも知れません。

このように考えていくと、ここでの報告にお付き合い頂くには、相当に寛容な立場に立って頂く必要がありそうですが、ここでお断りするような様々な制限つきであっても、実際に鳴っている音に関するデータに基づいて、これくらいのことは言えるのだ、というように受け止めて頂ければ幸いです。


4.分析結果

A.階層クラスタ分析

 まずクラスタリングの結果から確認してみます。最初は3種類の階層クラスタ分析の結果です。





 3種の手法の結果の間に存在する細かい違いは、必ずしも分類が安定していない部分の存在を示していると捉えることができますが、その一方で大まかな分類には共通点も確認できます。またマーラーの作品と距離が近い枝に含まれる他の作曲家の作品と、マーラーの作品からは離れた枝に含まれる作品の間の区別は3種の分析で共通していて、分類上安定しているように見えます。つまりブラームスとブルックナーの第7,8、ドヴォルザークの第8,9、スメタナからなるグループ、フランク、シベリウス、ドヴォルザークの第7からなるグループの2つがマーラーの作品からは隔たったグループであり、ラヴェル、ヤナーチェク、タクタキシヴィリとブルックナーの第5,9がマーラーの作品に近いグループということになるようです。一方でマーラーの作品は「大地の歌」、第9,10という後期作品に第5を加えたグループとそれ以外の2つのグループに分かれ、前者と近いのがラヴェルの2つの協奏曲とブルックナーの第9の完成部分、後者に近いのがヤナーチェクとタクタキシヴィリであるという点は共通しているようです。そしてその分類は大筋においては以下の非階層クラスタ分析でも確認できますので、分類上相対的に安定した部分と言えそうです。

B.非階層クラスタ分析

 それでは非階層クラスタ分析の結果を見てみます。




 非階層クラスタ分析ではクラスタ数を与える必要があるため、シミュレーションによるギャップ統計量に基づき、階層クラスタ分析の結果を参考にしつつ、相対的に安定していて、かつ分類として意味がありそうな4に設定しましたが、必ずしも安定しているわけではなく、何度か実行すると上に示す2種類のクラスタが交替して出現することが確認できました。前者(kmeans4)はマーラーが1つのクラスタに全て含まれ、それ以外に3つのクラスタができるもの、後者(kmeans4-alt)はマーラーが前期・後期の2つのクラスタに分かれ、それ以外にブラームス他のクラスタとフランク他のクラスタの2つができるものです。前者ではマーラーと同じグループに属しているのはブルックナーの第5交響曲と第9交響曲のフィナーレ、ヤナーチェクのシンフォニエッタとラヴェルの2曲のピアノ協奏曲、タクタキシヴィリのピアノ協奏曲です。この分類は階層クラスタ分析の結果とほぼ一致しています。

  kmeans4
  クラスタ番号   1 2 3 4
  brahms          0 4 0 0
  bruckner        2 1 1 1
  dvorak           0 0 2 1
  franck            0 0 0 2
  janacek          1 0 0 0
  mahler-early   4 0 0 0
  mahler-late     4 0 0 0
  mahler-middle 3 0 0 0
  ravel               2 0 0 2
  sibelius           0 0 0 3
  smetana         0 0 1 0
  taktakishvili     1 0 0 0

        mahler1         mahler2         mahler3         mahler4 
              1               1               1               1 
        mahler5         mahler6         mahler7         mahler8 
              1               1               1               1 
     mahlerErde         mahler9        mahler10       bruckner5 
              1               1               1               1 
      bruckner7       bruckner8       bruckner9      bruckner9f 
              2               3               4               1 
        dvorak9         dvorak8         dvorak7  smetanaMaVlast 
              3               3               4               3 
     janacekSym       sibelius7 sibeliusTapiola       sibelius2 
              1               4               4               4 
      franckVar       franckSym         brahms1         brahms2 
              4               4               2               2 
        brahms3         brahms4      ravelValNS    ravelDaphnis 
              2               2               4               4 
    ravelLeftPC         ravelPC       taktakPC1 
              1               1               1 

 一方後者では、マーラーの後期作品(「大地の歌」、第9,10交響曲)と同じグループに属するのはブルックナーの第9交響曲の完成した3楽章分にラヴェルの曲全て、それ以外のマーラー作品と同じグループに含まれるのはブルックナーの第5交響曲と第9交響曲のフィナーレ、ヤナーチェクのシンフォニエッタとタクタキシヴィリのピアノ協奏曲であり、これはkmeans4と共通していますから、マーラーの後期作品との距離が近いグループが分離したと捉えることができそうです。その替わりに、大まかにはブラームスが含まれるグループとドヴォルザークの第8、第9交響曲とスメタナが含まれるグループが併合して一つになっています。ブルックナーの第9の完成部分とラヴェルの作品のうち2曲のコンチェルトについては階層クラスタ分析の結果とも一致していますが、ラヴェルの他の2曲とブルックナーの第9のフィナーレは階層クラスタ分析では所蔵する枝について手法によって揺れが生じていて、分類が安定していなさそうに見えます。特にラヴェルの他の2曲については、クラスタ数が増えれば独立のクラスタを形成しそうです。

  kmeans4-alt
  クラスタ番号   1 2 3 4
   brahms         4 0 0 0
  bruckner        2 2 1 0
  dvorak           2 0 0 1
  franck            0 0 0 2
  janacek          0 1 0 0
  mahler-early   0 4 0 0
  mahler-late     0 1 3 0
  mahler-middle 0 3 0 0
  ravel               0 0 4 0
  sibelius           0 0 0 3
  smetana         1 0 0 0
  taktakishvili    0 1 0 0

        mahler1         mahler2         mahler3         mahler4 
              2               2               2               2 
        mahler5         mahler6         mahler7         mahler8 
              2               2               2               2 
     mahlerErde         mahler9        mahler10       bruckner5 
              3               3               3               2 
      bruckner7       bruckner8       bruckner9      bruckner9f 
              1               1               3               2 
        dvorak9         dvorak8         dvorak7  smetanaMaVlast 
              1               1               4               1 
     janacekSym       sibelius7 sibeliusTapiola       sibelius2 
              2               4               4               4 
      franckVar       franckSym         brahms1         brahms2 
              4               4               1               1 
        brahms3         brahms4      ravelValNS    ravelDaphnis 
              1               1               3               3 
    ravelLeftPC         ravelPC       taktakPC1 
              3               3               2 

C.主成分分析

 ついで主成分分析の結果の確認に進みます。既述の通り、主成分分析は、標準化を行わずに分析対象の和音形の100拍あたりの出現頻度の割合をそのまま反映した分析と、標準化を行って特定の曲における和音形間の出現割合の違いは無視して、各和音形についての作品間での出現割合の分布の違いにのみ注目した場合の両方で分析をしましたが、結果としては主成分得点や成分への各和音形の寄与率には違いがあるものの、大まかな傾向としては共通したものが得られました。([付記]なお、標準化なしの分析の第2主成分は標準化ありの場合と比べ、正負が反転していることがわかったため、以下の説明、ダウンロード可能な結果ファイルのいずれにおいても、第2主成分軸を反転させてグラフ表示をしています。また説明上は標準化ありの第2主成分の向きに合わせた説明をしていることをお断りしておきます。)

(A)標準化ありの場合

 まず標準化ありの結果を見てみます。




 マーラーの作品は第1主成分(横軸)方向には中央右寄りに固まって、かつ作品の時代区分に概ね沿った広がりを示しているのに対して、第2主成分(縦軸)方向には上側に集中しているのが見て取れます。他の作曲家については第1主成分(横軸)左側に明確に拠っているのがブラームス、ドヴォルザーク、左右に広がっているのがブルックナー、シベリウスであり、ラヴェルはマーラーよりも更に右端にプロットされていることが確認でき、第2主成分方向にはやや下よりに固まっているブラームス、ブルックナー、ラヴェルに対して、シベリウスが下側に向けて広がっているのに対し、ドヴォルザークが上側に向けて広がっている様子が見て取れます。それでは第1,第2主成分の得点と、特徴量の寄与を確認してみます。



 上に見るように、第1主成分は主和音形・属和音形(属七・属九)/付加六の対立(負の相関)を示しているのに対し、後述する第2主成分は主和音基本形・六の和音と付加六/四六の和音と属和音形(属七・属九)の対立(負の相関)が示されたものとなっています。属和音形(属七・属九)/付加六の対立(負の相関)は両者に共通しており、第1主成分を横軸、第2主成分を縦軸にとったプロットをした時に、付加六(add6)は上向き、属七・属九の属和音形2種(dom)は下向きの互いに180度逆向きのベクトルで表示されるのはそのためであることがわかります。主和音形6種は第1主成分で全てマイナスの寄与であるため、プロット上は付加六(add6)、属和音形(dom)とはほぼ直交して左向きにベクトル表示されますが、第2主成分では基本形(maj,min)と六の和音(maj6,min6)と付加六(add6)がいずれもプラス、四六の和音(maj46,min46)と属和音形(dom)がいずれもマイナスであるため、結果的にプロット上、四六の和音(maj46,min46)は左斜め下に傾いて、属和音形(dom)寄りのベクトルとなっていることも確認できます。また基本形(maj,min)・六の和音(maj6,min6)・四六の和音(maj46,min46)の矢印の向きはいずれもほぼ重なっていて、本分析の結果においては長調・短調の区別がないことにも気づきます。

 第1主成分に関して得点が高く、主和音形および属和音形(属七・属九)が少なく、付加六が多い傾向にあるのがマーラーとラヴェルであり、特にラヴェルはその傾向が4曲全てに見られるのに対し、マーラーは第1交響曲を除くと概ね時代区分に沿って後期になる程その傾向が強くなっていることがわかります。ブラームス、ドヴォルザークはスメタナと並んで点数が低い(ベクトルの起点である中心より左側に偏っている)のに対して、シベリウスやブルックナーは作品によって傾向が異なること(結果として、左右両側に広がっていること)が確認できます。

 一方で第2主成分について見ると、マーラーは概ね得点が高いのに対しラヴェルは低い傾向にあって、第2主成分までの組み合わせでマーラーとラヴェルを区別することができそうなことがわかります。それ以外ではタクタキシヴィリとドヴォルザークの第9の得点が高いのが目立つ一方で、他のドヴォルザークの交響曲とスメタナはほぼ中立であるのに対してブラームス、フランク、シベリウスなどの他の作曲家は全ての作品でマイナスの得点となっており、付加六と属和音形(属七・属九)のどちらが優位かについてマーラーとは明確な違いがあることがわかります。



(2)標準化なしの場合

 既述の通り大まかな傾向は同じですが、参考までに標準化なしの結果についても確認してみます。

 まず長調の主和音基本形と属和音形(属七・属九)の頻度の高さは、プロット上のmaj,domベクトルの長さで示されていることが確認できます。興味深いのは、標準化した場合と得点の正負が逆転しているケースがある点で、例えばヤナーチェク(得点の棒グラフでは紫色で示されています)が該当します。これは和音間の出現頻度の割合が大きく異なることに起因しており、寄与の正負が逆向きの特徴量が打ち消し合う際に、標準化の有無による頻度の偏りの効果でどちらの特徴量が勝つかが変わるためです。実際、ヤナーチェクのシンフォニエッタの入力データを確認すると、属七・属九の出現頻度がかなり低い(100拍あたり3程度)ことが確認できます。その一方で付加六の頻度の方もまた非常に低い(100拍あたり2弱)のです。既述の通り、今回の分析ではブラームスをはじめとする属和音形の出現頻度が高いグループ(100拍あたり10程度)が存在するために、標準化を行わないと属和音形の出現率の低さが強調される結果となり、それが特に属和音形の負の寄与率が著しく大きい第2主成分の得点の極端な違いの原因となるだけでなく、第1主成分においては得点の正負の逆転をもたらしているようなのです。つまり今回の分析の場合、属和音形と付加六の出現頻度は強い負の相関関係を持っており、その結果として付加六の頻度の高さではなく、属和音形の出現頻度の低さによっても主成分得点が上がる構造になっていることに注意する必要があります。ヤナーチェクはアンチ・ドミナントではありますが、付加六の出現頻度が高いわけではなく、この点でマーラーやラヴェルとは異なった傾向を持っています。他方、標準化を行わない分析の結果におけるラヴェルの第1主成分得点の高さは、こちらは主和音基本形の出現頻度が極端に低いことに起因していることも確認できます(特に「ダフニスとクロエ」と「優雅で感傷的な円舞曲」は100拍あたり1.5程度と対象作品中最小なのに対して付加六が100拍あたり6~7でかなり大きめなので非常に大きな第1主成分得点になります。)








5.分析結果についての考察

 本稿では、転回形を区別した長短主和音形と属和音形(属七・属九)、および付加六の和音形の出現頻度のみを特徴量として用いた分析を行いましたが、結果について考察してみます。

 まずクラスタリングの結果ですが、分析手法によって若干の揺れはあるものの、今回設定した他の作曲家の作品の中でマーラーの作品を位置づけることには成功していると思います。マーラーに距離が近いのはラヴェルやヤナーチェク、タクタキシヴィリで、シベリウスはフランクと同じグループを形成し、ブラームスやスメタナが含まれるグループとマーラーが含まれるグループの間の中間的な位置を占める結果となりました。ブルックナーやドヴォルザークの作品は作品によって和音の出現傾向にばらつきがあり、複数グループに跨って分布するのに対し、マーラーはブラームス程ではないにしても比較的ばらつきが小さく、一纏まりになる傾向がありますが、「大地の歌」以降の後期作品とそれ以外は傾向をやや違えており、2つのクラスタに分裂した結果も得られました。

 次に主成分分析の結果ですが、主成分分析は、標準化をする/しないの両方の条件で行ったので、まず、出現頻度の高い和音の寄与を頻度に応じて重みづけしており、より聴感に即していると考えられる標準化なしの分析の分析結果について検討してみます。

 第1主成分は長調の基本形主和音(maj)の出現頻度の寄与が著しく大きく、寧ろ長調の基本形主和音にどれくらい頻繁に立ち戻るかという観点で軸が形成されているように見えます。同様に第2主成分も属七・属九(dom)の出現頻度の寄与が著しく大きく、こちらはドミナントシステムの優越の度合いを示すものと見做せます。しかし今回特に注目した付加六の和音については、第1主成分・第2主成分のいずれに対しても、その寄与の大きさが際立っているわけではなくプライマリの要因とは考えられません。従って付加六の寄与を測るためには、標準化をした分析の方を確認すべきと思われます。その一方でクラスタ分析結果ではマーラーに距離的に近いグループに分類されたラヴェルとヤナーチェクについて、ラヴェルは主和音形の出現頻度の低さによって特徴づけられるため第1主成分得点が高く、ヤナーチェクは属七・属九の出現頻度の低さによって特徴づけられるため第2主成分得点が高くなるといった点が確認でき、いずれもマーラーの作品とは傾向を違えており(強いていえばヤナーチェクはマーラー初期寄り、ラヴェルは後期寄りと言えるでしょう)、かつ両者の間でも区別が可能であることがわかりました。

 標準化ありの分析は、和音間の出現頻度の偏りに依らず、対象となった和音の出現頻度の作品間での偏りを同じ重みで扱います。その一方であくまでも対象となっている作品を全体とした時の比較であり、対象の作品の集合を変えればそれに応じて結果も変わる点には留意が必要です。(標準化なしの分析でも同じことは言えるものの、こちらは絶対的な出現頻度という対象作品の集合に依存しない値に基づく分析である点で、完全に相対的な標準化ありの分析とは異なります。)

 まず第1主成分への各和音の寄与(負荷)を見ると、前回までの分析で転回形を区別せずに概ね同じ傾向が確認できた理由が確認できるように思います。既に述べたように第1主成分は、転回形によらず全ての主和音形と属和音形(属七・属九)の頻度が優越するか、付加六の頻度が優越するかという対比で軸が形成されますので、この成分だけに限れば、主和音形の転回を区別するかどうかには影響を受けません。一方で第2主成分については四六の和音と属七・属九からなるグループと基本形と六の和音と付加六の和音からなるグループのどちらが優越するかという対比で軸が形成されており、転回形を区別することで現れたものだと言えます。強いてネーミングを試みるならば、第1主成分はアンチ・トニックの軸、第2主成分はアンチ・ドミナントの軸と言えるでしょうか。

[重要な注記] 繰り返しになりますが、誤解の無いように補足させて頂くと、ここでいう「主和音形」には、機能和声的には、主和音も三和音の属和音も含まれていること、一方「属和音形」には属七・属九のみが含まれていることをお断りしておきます。それを踏まえれば、第1主成分側は、これまで行ってきた、様々な次元を捨象して得られた「ピッチクラスの集合」の分析で得られた結果と等価ですから、文脈を無視した和音の音の組み合わせという、いわば表層的なテクスチュアのみに関わり、第2主成分は四六の和音と属七・属九の相関が取り出させたということでいわばテクスチュアの表層から機能を覗き見ているといえるように感じます。

 マーラー作品内部の時代区分に沿った変化にフォーカスして見た場合でも、大まかな傾向としては前回と同様なのですが、前回はほぼ完全に時系列に沿った変化が抽出できたのに対し、今回は第一交響曲が例外となる結果が得られました。この理由を調べて見ると、前回の分析で用いた特徴量の中には単音や二音の出現頻度が含まれており、単音と三度、特に長三度の寄与が大きかったのに対して、今回は単音と重音を分析対象から外したことが影響しているようです。第1交響曲は第1楽章冒頭の長大なAの単音の持続を背景とする序奏の領域がその後も回帰し、結果として単音の占める割合が大きいのですが、その影響で主三和音形の出現頻度が見かけ上低下するのに加えて、その原因となった単音が分析対象から除外されたことによって、偶々後期作品に近い主三和音形の出現頻度となったために、時代区分に沿った変化の例外のような結果が得られたようです。前回、時代区分に沿った変化が現れたのは第2主成分であり、前回の分析の第1主成分は単音や重音が多いのか、三和音以上の和音が多いのかといった音の厚みに関わるものであったことを思い起こせば、そうしたテクスチュア上の差異の影響を取り除いて、マーラーの作品の創作時代区分に沿った変化を、より機能的な側面に基づいて浮かび上がらせることに今回の分析は成功したという見方ができるのかも知れません。

 更に言えば、前回の分析では作品単位での出現頻度計算にあたり、楽章毎に100拍あたりの和音出現頻度を求めて、曲単位で平均化するやり方(平均和音出現頻度)と、和音出現回数の曲毎の累計から100拍あたりの頻度を計算するやり方(累計和音出現頻度)の2通りについて分析を行っていますが、今回は後者の方法での集計結果に基づく分析のみを行っています。考え方としては楽章という単位を意識せず曲全体での出現頻度を対象とするのか、楽章単位に独立し完結したものとして出現頻度を計算し、曲全体としてはその平均値を用いるかの違いですが、後者では楽章毎の長さ(ここでは拍数)が無視され、30分かかる楽章と5分しかかからない楽章について同じ割合で寄与していると見做していることになります。言い替えれば、短くて和音の出現頻度上偏りの大きな楽章が存在すると、その楽章の和音の出現分布が強調して反映されることになります。マーラーの場合では、第3交響曲の第5楽章や第2交響曲の第4楽章などが該当することがわかっていますが、この点の影響の程度を把握するためには、平均和音出現頻度に基づいて今回と同じ条件での分析を行って結果の比較をしてみる必要があるでしょう。

6.まとめ

 クラスタ分析の結果と主成分分析の結果を照合すると、今回の分析対象となった作曲家について概ね以下のような傾向を持つと言えるのではないかと思います。

(A1)第1主成分(アンチ・トニック):-/第2主成分(アンチ・ドミナント):-
  biplotグラフの第3象限。
  ブラームスの交響曲がプロトタイプ。
  古典的なドミナントシステムと明確な調性感。
(A2)第1主成分(アンチ・トニック):-/第2主成分(アンチ・ドミナント):+
  biplotグラフの第2象限。
  ドヴォルザークの第9交響曲がプロトタイプ。
  旋法性を持ちつつ、調性感は明確。
(B1)第1主成分(アンチ・トニック):+/第2主成分(アンチ・ドミナント):-
  biplotグラフの第4象限。
  該当なし。強いて言えばシベリウスの第2交響曲が近い。
  調性感稀薄だがドミナント優位であり旋法性も稀薄。
(B2)第1主成分(アンチ・トニック):+/第2主成分(アンチ・ドミナント):+
  biplotグラフの第1象限。
  ラヴェルがプロトタイプ。
  旋法性と曖昧な調性感。

 あくまでも上記はプロトタイプであり、中間的なタイプの作品も存在すれば、同じ作曲家の作品が複数のプロトタイプにわたり広範囲に広がっている場合もあります。ブルックナーやドヴォルザーク、シベリウスがそれらに該当します。マーラーはブラームスと並んで、比較的作品間のコヒーレンスが高い傾向にあると言えます。基本的には(B2)に属しますが、創作の時代区分に沿ってドヴォルザークの第9交響曲のいる(A2)とラヴェルのいる(B2)の中間点のヤナーチェクやタクタキシヴィリの近傍から(B2)の極へ近づいていった(がそこまでは辿り着かなった)と捉えることができそうです。つまり第2主成分については+(アンチ・ドミナント)である点では一貫していますが、第1主成分軸は、作品創作の展開につれて中立から+(アンチ・トニック)へと推移していったと捉えることができそうです。これが他の作曲家との比較においてマーラーの音楽を特徴づけるものが、マーラーの音楽の内部における創作展開のプロセスを特徴づけるものとどのような関係にあるのかに関する本分析での回答ということになると思います。

 なお、今回の分析の設定に纏わる制約として、分析対象の単位が作品であるため、多楽章形式の作品の場合作品中に含まれる異なる性質をもった楽章の特徴が平均化されてしまう点が挙げられます。交響曲で両端の楽章は古典的で調性的にも明確だが、中間楽章は旋法に基づいて書かれていて、主和音ないし属和音があまり出現しないというようなケースを想定すると限界は明らかだと思います。とはいえこれは全くの架空の話というわけではなく、実はドヴォルザークの第9交響曲がまさしくこれに近い頻度分布となっていて、結果的に曲全体として(A2)のプロトタイプとなっていますし、前の節でも述べたように、マーラーの第3交響曲の場合は旋法性の強い冒頭楽章に対して、属七・属九和音(dom)が全く出現しない第4楽章(但し付加六も100拍あたり1.8で低く、既述のヤナーチェクのシンフォニエッタのケースに類似しています)、鐘の音の模倣を繰り返すせいで主和音基本形(maj)の比率が3割にも達する特異な頻度分布を持つ第5楽章や、属七・属九和音(dom)が100拍あたり7とマーラーの交響曲の全楽章中でも際立って高頻度である終曲のアダージョもあって、長さがまちまちなだけでなく、異なる性質を持った楽章が組み合わされていることが確認できますが、そうした多様性は今回の分析では捨象され、平均化されてしまっていることは制約として確認しておくべきと考えます。

 最後に、それではこの分析の導きの糸となった「付加六は旋法性の現われ」という捉え方についてはどうでしょうか?分析結果から読み取れる限り、妥当なケースがあるということは言えそうですが、そうとは言えないケースも確認できました。ヤナーチェクは一見したところ(B2)に該当しそうで、初期のマーラーの近傍にプロットされますが、既に述べた通り、付加六の和音の頻度は高くなく、属七・属九の頻度が極度に低いために、結果として近くにプロットされたに過ぎません(マーラーの中にも第3交響曲第4楽章のような類似のケースもあるのですが)。属和音形の頻度が低いのだからアンチ・ドミナントというラベル自体は寧ろヤナーチェクにこそ相応しいとさえ言えますし、付加六の頻度によらず旋法性が高いのは聴けば明らかでしょう。従って付加六の和音が高頻度で現れるのには、旋法性だけではなく更に追加の条件が必要なのではないかと思われます。ここからは分析の結果からは離れますが、想定できることとして、長調・短調の対比の枠を持たない単一の旋法に基づく作品の場合、調性感を稀薄にするといった操作はそもそも不可能です。付加六は長調・短調の対比の枠の中で調性感を稀薄にする時(更に具体的に特定するならば、長調・短調の対比の枠組みの中でも、2つの基本音が併存する、平行調関係に基づいた場合) に結果的に出現する、いわば随伴的なものなのではないでしょうか?従って「付加六は旋法性の現われか?」という問いに対して、現時点で回答を試みるならば、付加六は旋法性の現われ「でも」ありうるが、直接的関係がある因果的なものではなく、長調・短調の対比の枠の中に旋法的な要素が入り込んだ時に現われる随伴的なものに過ぎない。従って、問いへの答えは「はい」でも「いいえ」でもある、ということになるように思います。

 ところで、第1主成分について主和音形(特に長調の基本形、但し繰り返していうようにここには機能和声でいう三和音の属和音も含まれます)の頻度が相対的に低いことをもって「アンチ・トニック」と命名し、聴感上は「調性感が稀薄」とし、第2主成分については四六の和音と属和音形(この分析では属七と属九の形のこと)の頻度が相対的に低いことをもって、「アンチ・ドミナント」と命名し、こちらに「旋法性」を割り振りましたが、もし上記のような制限がつくならば、この割り振りは恣意的ではないかということになるかも知れません。しかし、そもそも「調性感」はどのように定義されるものでしょうか?同様に「旋法性」という言葉にも曖昧さが付き纏います。ラベルの割り当てを逆にすべきだという人がいても不思議はないくらいに感じます。

 とはいうものの、繰り返しになりますが、第1主成分は転回の有無を無視しても成り立つもので、この分析の前に既に明らかになっていたものの再認であるのに対し、第2主成分は転回を区別することによって初めて検出できたものであり、かつ四六の和音と属七・属九の頻度に正の相関があるという内容を踏まえれば、こちらは和音のシステムの機能に関わるものということが言えると思います。今回の分析で現れた第1主成分も第2主成分もいずれも付加六の和音の頻度に関わりますが、「聴感」のレベルに関わる第1主成分と比較して、第2主成分の方はより「機能的」な性格を持っている。そして「調性感」という言葉を「聴感」のレベルでの或る種の古典的・保守的な感じというニュアンスで使っているの対し、「旋法性」という言葉は、単なる旋法の使用を意味するのではなく、或いはまた特定の旋法の使用を含意するものでもなく、寧ろ古典的なドミナントシステムとは異なった別のシステムが機能しているというニュアンスを込めて採用していることを付言した上で、一旦は上記のラベリングは撤回せずにそのままにしておきたく思います。(2023.5.5, 5.6重要な注記を追加, 5.7 ラベルの左手のための協奏曲のデータに誤りがあったためデータを差替え、第二主成分軸の反転についての注記を追加。なお本文の説明には上記データの誤りは影響ありませんでした。5.7-8 用語法に関する指摘を頂いて、重要な注記の追記に留めずに「主和音形」「属和音形」という表現を適用して、機能和声での主和音・属和音との混同が起きにくくなるように修正しました。ご指摘に感謝します。5.10加筆、5.19重要な追記をさらに追加。5.21ピッチクラスへの言及を追加。)

[付録]ダウンロード可能なアーカイブ 主和音転回形分析.zip の中には以下のファイルが含まれます。

(1)入力データ
 gm_control_cat_add6.csv:分析対象の和音形(長短主三和音基本形・六の和音・四六の和音、属和音形(属七・属九)・付加六の和音形)の分析対象作品毎の出現割合
 gm_control_cat_col.csv:対象作品の作曲家に対応した色(主成分得点グラフで使用)
 gm_control_cat_label.csv:対象作品の作曲家名ラベル(非階層クラスタ分析で使用)

(2)主成分分析系
 eigen.jpeg:固有ベクトルのグラフ

 prcomp_F.jpeg:主成分分析(scale=F)結果のbiplotグラフ
 ggbiplot_12F.jpeg:主成分分析結果(第1,第2成分)のggbiplotグラフ
 ggbiplot_23F.jpeg:主成分分析結果(第2,第3成分)のggbiplotグラフ
 pr_score-[1-3]F.jpeg:主成分得点のbarplotグラフ
 prcomp_PC[1-3]F.jpeg:主成分負荷量のbarplotグラフ

 prcomp_T.jpeg:主成分分析(scale=T)結果のbiplotグラフ
 ggbiplot_12.jpeg:主成分分析結果(第1,第2成分)のggbiplotグラフ
 ggbiplot_23.jpeg:主成分分析結果(第2,第3成分)のggbiplotグラフ
 ggbiplot_34.jpeg:主成分分析結果(第3,第4成分)のggbiplotグラフ
 pr_score-[1-4].jpeg:主成分得点のbarplotグラフ
 prcomp_PC[1-4].jpeg:主成分負荷量のbarplotグラフ

(3)階層クラスタ分析系:
 hclust_complete.jpeg:complete法での分類結果
 hclust_average.jpeg:average法での分類結果
 hclust_wardD2.jpeg:ward法での分類結果

(4)非階層クラスタ分析系:
 clusGap.jpeg:ギャップ統計量のシミュレーション結果サンプル
 kmeans4.csv:kmeans法(クラスタ数=4)での分類結果
   kmaens4-alt.csv:kmeans法(クラスタ数=4)での分類結果別解
 kmeans4.jpeg:kmeans法(クラスタ数=4)での分類結果のclusplotグラフ
   kmaens4-alt.jpeg:kmeans法(クラスタ数=4)での分類結果別解のclusplotグラフ
 
(5)分析履歴
 hist.txt:R言語を用いた分析履歴(Windows版R言語 ver.4.1.0をR studio上で実行)。
 固有ベクトル、ギャップ統計量シミュレーション結果サンプル、
 非階層クラスタ分析結果(2種)、主成分分析結果サマリ(2種)を含む。

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。