お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
ラベル ジョン・バルビローリ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ジョン・バルビローリ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年8月13日水曜日

バルビローリのマーラー:略年表(2025.8.13改訂)

1899年12月2日 ロンドンのホルボーンにて誕生。洗礼名ジョバンニ・バッティスタ。 父のロレンツォはイタリア人。母ルイーズ・マリーはフランス人でピレネー山脈に 近いアルカションの生まれ。父と祖父のアントニオはミラノ・スカラ座管弦楽団のメンバーであり、「オテロ」の初演を演奏している。
1916年 ヘンリー・ウッド率いるクイーンズ・ホール管弦楽団の最年少のチェロ奏者となる。
1917年 最初のソロ・リサイタル(ロンドン)。
1921年 エルガーのチェロ協奏曲のソロを弾く。
1924年 弦楽四重奏団のチェリストとして活動。
1925年 室内管弦楽団を組織。指揮者として活動を開始。指揮者としての最初の録音はこの室内管弦楽団とのパーセルとディーリアス。
1926年 BNOC(ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー)の指揮者。 最初に指揮したのは、グノー「ロメオとジュリエット」、プッチーニ「蝶々夫人」、ヴェルディ「アイーダ」。(1926年9月)
1926年12月 ビーチャムの代役でロンドン交響楽団を指揮。曲目はエルガーの第2交響曲とハイドンのチェロ協奏曲(ソロはカザルス)。
1926年~1932年 BNOCおよびコヴェント・ガーデンのオペラを指揮。
1927年 HMVのクライスラー、ルビンシュタインなどの協奏曲演奏録音の伴奏指揮をこのころより始める。
1930年4月 オスカー・フリートの指揮するマーラーの第4交響曲のリハーサルに出席。その時の印象を友人に書き送った書簡が残っているが、"I was extremely disappointed…"というように極めて否定的なものだった。
1931年1月29日 ロイヤル・フィルハーモニーのコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、エレーナ・ゲルハルトの歌唱。記録の残っているバルビローリの最初のマーラー演奏。
1933年 スコティッシュ管弦楽団の指揮者。
1936年~1943年 トスカニーニの後任、フルトヴェングラーの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者。
1939年10月26,27日, 12月16,17日 カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第5交響曲第4楽章(アダージェット)を演奏。
1942年 イギリスに帰国。
1943年6月2日 ハレ管弦楽団の指揮者としてマンチェスターに着任。
1943年7月5日 ハレ管弦楽団を指揮しての最初の演奏会(ブラッドフォード)。
1943年~1958年 ハレ管弦楽団の常任指揮者。
1945年 マーラーの「大地の歌」を指揮。

1948年10月13日

 マンチェスターのアルバート・ホールでのハレ管弦楽団のコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、アルト・ソロはキャスリーン・フェリア―。(BBCがライブ放送。)
1952年 ネヴィル・カーダスにマーラーを指揮するように薦められる。
1953年 ヴォーン・ウィリアムズ「第7交響曲」初演を指揮。
1952年4月2日 ハレ管弦楽団とのマーラーの「大地の歌」がラジオ放送される。テノールはリチャード・ルイス、アルトはキャスリーン・フェリア―。(ラジオ放送の録音が残っている。)
1954年2月 マンチェスターでハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を初めて演奏。バルビローリによるマーラーの交響曲の最初の演奏(「大地の歌」、第5番の「アダージェット」のみの抜粋演奏は除く)。その後、第9交響曲は次のシーズンのハレで再度取り上げられ、エディンバラ、ブラッドフォード、シェフィールド、リーズ、ヒューストン、シカゴと各地でのコンサートのプログラムで取り上げられることになる。
1955年11月 マーラーの第1交響曲を初めて指揮。
1956年5月2日 献呈を受けたヴォーン・ウィリアムズ「第8交響曲」初演を指揮。(同6月録音。CDSJB1021)
1957年6月 マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第1交響曲をPyeに録音。
1958年5月 ミラノのスカラ座でマーラーの第2交響曲を初めて指揮。
1958年~1968年 ハレ管弦楽団の主席指揮者。
1959年1月8,9,10,11日 カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第1交響曲を演奏。(1月10日の演奏会の記録あり。)

1959年3月12日

 マンチェスターの自由貿易ホールでハレ管弦楽団、ハレ合唱団とマーラーの第2交響曲を演奏。メゾ・ソプラノ:エウゲニア・ザレスカ、ソプラノ:ヴィクトリア・エリオット。(BBCが放送。)
1960年 はじめてベルリン・フィルハーモニーを指揮。
1960年 トリノ・イタリア放送管弦楽団と恐らく放送用にマーラーの第9交響曲を演奏。
1960年5月24日 プラハのスメタナ・ホールでの「プラハの春」音楽祭にてマーラーの第1交響曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と演奏。
1960年10月 マンチェスターでBBCノーザン交響楽団・ハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第7交響曲を演奏。
1961年~1967年 ヒューストン交響楽団の主席指揮者。
1961年11月 マーラーの第10交響曲の第1,3楽章を指揮。
1962年12月6,7,8,9日 フィルハーモニック・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を演奏。(12月8日の演奏会の記録あり。)
1963年4月 マーラーの第4交響曲を初めて指揮。
1964年1月 ベルリンのイエス・キリスト教会でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とマーラーの第9交響曲をEMIに録音。
1965年 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第2交響曲を3回演奏。ソプラノはマリア・スチューダー、アルトはジャネット・ベイカー。(そのうち6月3日の録音の録音が残っている。)
1965年1月 マーラーの第6交響曲を初めて指揮。
1966年1月13日 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第6交響曲を演奏。
1966年3月24日 ニューヨークのカーネギーホールでヒューストン交響楽団とマーラーの第5交響曲を演奏。(マーラーの第5交響曲を初めて指揮。)
1967年1月3日 プラハでBBC交響楽団を指揮してマーラーの第4交響曲を演奏。ソプラノはヘザー・ハーバ―。
1967年 ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲をEMIに録音。
1967年8月16日 ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのヘンリー・ウッド・プロムスでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲を演奏。
1967年4月 マーラーの第3交響曲を初めて指揮。
1968年~1970年 ハレ管弦楽団の終身桂冠指揮者。
1969年 ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第5交響曲をEMIに録音。
1969年3月8日 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第3交響曲を演奏。アルトはルクレチア・ウェスト。
1969年5月3日 マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第3交響曲を放送用に演奏。アルトはキャスリーン・フェリア―。
1970年4月5日 シュトゥットガルトのリーダーハレでシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮してマーラーの第2交響曲を演奏。ソプラノはヘレン・ドナート。メゾ・ソプラノはブリギット・フィンニレ。
1970年7月 EMIに最後の録音。曲目はディーリアスの「アパラチア」「ブリッグの定期市」。オーケストラはハレ管弦楽団。
1970年7月24日 最後のライブ録音となったキングズ・リン・フェスティバルでのハレ管弦楽団との演奏会。エルガー「序奏とアレグロ」「第1交響曲」(BBCL4106-2)。
1970年7月25日 キングズ・リン・フェスティバルで最後の演奏会。最後の曲はベートーヴェン「第7交響曲」。
1970年7月27日 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との日本公演のためのリハーサル初日。マーラー「さすらう若人の歌」「亡き子を偲ぶ歌」。ソロはジャネット・ベーカー。
1970年7月28日 日本公演のためのリハーサル第2日。ブリテン「シンフォニア・ダ・レクィエム」、ベートーヴェン「第3交響曲」。
1970年7月29日 心臓発作にてロンドンで死去。
(2002.4 公開, 2025.8.13改訂)

2014年9月6日土曜日

ヴェーベルンからみたマーラー

ウェーベルンのことを考える上で無視することができない存在といえば、何よりも まずマーラーだろう。勿論、師であるシェーンベルク、友人のベルク、晩年の ウェーベルンの声楽曲に歌詞を提供したヨーネなどもいるが、マーラーはウェーベルンが 自分の生き方のモデルと見なしていたように見える点で、特殊な位置を占めているように 思える。

ちなみに、私はウェーベルンの物の感じ方とか見方に親近感を覚えているけれど、 マーラーを尊敬していたというのも、不思議でも何でもない、とてもよくわかる気が するのである。少なくとも世上言われるほど意外な組み合わせでは決してないと思う。

それにしても、この音楽は法外だと感じる。これほどの大管弦楽を用いて、しかも 1時間半にわたって表出される内容の私的な性質は、ある種の美学からすれば到底 許すことができない放恣として映るだろう。けれども、だからといってこの音楽の 私性を中和してしまうのは誤りだと思う。この音楽の巨大さはイワン・カラマーゾフが 大審問官を語る前にアリョーシャに語った「叛逆」に通じるのではないか?

マーラーはウィーンを去った後、「私の人生は盗まれた」と語ったという。 これを独りよがりと採る人には、同時にこの音楽も独りよがりの最たるものであろう。 けれども私は、彼がそのように語るのを不当だと断罪する気にはなれない。 才能も、能力もはるかに劣る人間でさえ、そうした、成し遂げようとすることに 対する感情的な妨害(それは大抵、別の理想との対決といったものではない、 単なる無意味な、妨害のための妨害に過ぎない)や、成し遂げたことに対する 狡猾な強奪(途を切り開くことは困難だが、その後をついて歩いて拾った落穂を 我が物顔で自慢するのは容易なことだ)に遭えば悄然とするであろう。彼は 疑いなく能力があったし、理想の実現のために膝を屈し、妥協をする実際的な 判断力もあった。けれども、自分の来た途をあるとき振り返って、そうした 犠牲の対価として得たもの、自分の努力の最終的な報いを改めて確認したときに、 「私の人生は盗まれた」という述懐をするのを誰が禁じることができるだろう。 「神の衣を織る」ことに価値をおき、そしてそうすることができた人間のセルフ・ ポートレートに対して、私は到底否定的にはなれない。

バルビローリの演奏は、同じように「成し遂げることが」できる人間、そのために 努力を惜しまない(そう、能力のある人間ほど努力もするものなのだ)もう一人の 指揮者による共感に満ち溢れているように思える。その度合いを超えて 個人的にはこの演奏以外で聴いてみたかったのは、本人を除けばウェーベルンの 指揮した演奏くらいのものだ。

かつてはシューマンがそうであったように、そして初演時のマーラー自身が (あれほどのプロフェッショナルであった彼としては例外的なことに)そうで あったように、ウェーベルンもその資質から、この音楽の実質に打ちのめされ 溺れてしまって、(しばしば実際にそうであったと伝えられるように)この 曲の指揮を冷静にし遂げることができたかが心配になるが、けれどもそうした 音楽の内実に対する深い共感が、バルビローリが成し遂げたようなぎりぎりの 均衡を達成できた時には、類稀な感動的な演奏になっただろうと想像される。ベルクが夕食を忘れるほど熱狂したあのウェーベルン指揮のマーラーの 第3交響曲の演奏が恐らくそうであったように。(2002.4)

2009年5月31日日曜日

戦前のマーラー演奏の記録を聴く

マーラーの音楽が今日かくも普及することについてLPレコードやCDといった録音媒体の発達の寄与があったという主張が、とりわけ音楽社会学といった 研究領域の研究者からよく聞かれるのは周知のことであろう。だがマーラーその人は1911年に没しているため自作自演といえば、ピアノロールに遺された 歌曲3曲(うち1曲は第4交響曲のフィナーレである「天上の生活」)と第5交響曲の第1楽章のピアノ演奏しかない。否、時代を代表する指揮者でありながら、 自作自演のみならず、一般に指揮者としての演奏記録は残されていないようだ。

その一方で生前のマーラーを知る人による演奏記録は少なからず遺されている。その代表は恐らくヴァルターとクレンペラーということになるのだろうが、 それは第二次世界大戦後、録音技術が飛躍的に向上して以降も彼等が演奏活動を続け、今日でも特に「歴史的録音」としてでなく、多くの選択肢の中の 一つとして彼等の演奏が聞かれ続けていることに拠る部分が大きいだろう。その一方で、マーラーの生前からマーラーの作品を取り上げ、程度の差はあれ マーラー自身からも評価されていたメンゲルベルクやフリートの方は、理由こそ違え第二次世界大戦後は活動しなかったから、その記録は限定されてしまう。 フリートであれば、世界初のマーラーの交響曲の録音となった1924年の第2交響曲の演奏が、メンゲルベルクであれば1939年9月の第4交響曲の演奏が 記録として残っていて現在でも聞くことができる。それらは録音技術の制約もあって今日の録音と同等の聴き方はできないだろうが、その一方で、「時代の記録」と いった資料体、晩年にニューヨークに住むアルマを訪れたインタビューや、ニューヨーク時代のマーラーについての楽員の思い出を録音した記録などと同様の ドキュメントであると考えれば、また少し違った聞き方が可能だろう。そしてそうした立場に立てば、ヴァルターにしても1936年5月の「大地の歌」、 1939年の「第9交響曲」の録音は、ドキュメントとしての価値は計り知れないものがある。

否、そうした交響曲の著名な録音に限らなければ、そうしたドキュメントのリストはまだ続けられるし、もう少し遡ることすら可能なようだ。レーケンパーが ホーレンシュタインの伴奏で歌った「子供の死の歌」の1928年の演奏はあまりに有名だが、それ以外にもやはり時代を画する歌手であったシュルスヌスの 「ラインの伝説」「少年鼓手」の1931年の録音があるし、ソプラノのシュテュックゴルトの歌唱には少なくとも1921年迄遡るものがある。(もしNaxos盤記載の通り、 15年頃まで遡るとしたら、これは大戦間ですらなく、第1次世界大戦前、マーラーが没してからもまだ数年という時期のものということになるが、彼女の キャリアなどを考えると1915年説には疑いがあるようだ。)また時期は1930年とやや下り、年齢的にも最盛期は過ぎた時期の録音で、 演奏そのものに対する世評は一般には高くないものの、シャルル=カイエが歌った 「原光」「私はこの世に忘れられ」は、彼女が1907年にマーラー自身によってウィーン宮廷歌劇場に招かれ、短期間ではあるがマーラーの下で歌った ことや、1911年11月20日のミュンヘンでの大地の歌初演をワルターの下で歌ったことを思えば、その記録の意義は計り知れないものがあろう。 ワルターのピアノ伴奏での歌曲やワルター指揮のニューヨーク・フィルとの第4交響曲の歌唱の録音があるデジ・ハルバンが、これまたマーラーが宮廷歌劇場に 呼び寄せたあのゼルマ・クルツの娘であることも付記すべきだろうか。

だが、それらの録音を聴くと、音質の制約の壁を超えてこちらに届くものが確かにあることに否応無く気づかされる。否、もっと端的に、それらの記録の幾つかを 聴くことによって得られる感動は、ドキュメントとしてのそれを超えたものがあることを認めざるを得なくなる。例えば「私はこの世に忘れられ」を、「大地の歌」の 初演者であるシャルル=カイエの1930年の歌唱、1936年にワルターの下で歌ったトールボリ、そして1952年にやはりワルターの下で歌ったフェリアーと聴いていくと、 それぞれの歌唱の素晴らしさに圧倒されてしまう。その感動の深さは、ずっと自分の生きている時代に近い他の録音に劣らないばかりか、もしかしたら それに優るのではとさえ思えてくるほどなのだ。

とはいえ、トールボリの歌唱を含め、ワルターのアンシュルス間際の演奏は、戦前の日本にも輸入されたSPレコードによって知られており、レーケンパーの「子供の死の歌」も またそうであったようだから、それらを知っていた人にとっては格別の思い入れがあるに違いなくとも、私にはそうした思い入れは持ちようがない。1980年代の マーラーブームの頃には、戦前・戦中の日本におけるマーラー受容の様子が知られるようになったり、近衛秀麿の第4交響曲の録音が復刻されたりしたが、 自分がその末梢に位置することは否定しようのない事実であったとしても、だからといってそうした過去と自分が、マーラーを経験することにおいて繋がっている とは思えなかったし、今でもそうは思っていない。日本マーラー協会の会員だったのだからそうしようと思えばもう少しそうしたルーツ探しだってできた筈なのだろうが、 当時の私は全くそうしたことに興味がもてなかった。近衛秀麿の演奏に世界初という記録以上のものを聴き取ることはできなかったし、あるいは例えば戦前・戦中の マーラー演奏と接点のあった日本マーラー協会会長の山田一雄さんの演奏を聴くこともなかった。現在私の手元には1938年3月と1941年1月、 それぞれローゼンシュトック指揮による第3交響曲と「大地の歌」の定期演奏会の時の新交響楽団の会報「フィルハーモニー」があるが、 それらが資料として持つ意味合いを超えるものは何ひとつとしてなく、懐古趣味の対象になどなりようがない。そこに自分が 連なる伝統を見出すことなど、少なくとも私にはできない。そう、寧ろ端的に、それは私が聴いた、私が今聴いているマーラーではないと言いたい気がする。 しかも2つの異なった意味合いで。一つには、現在私がいる時点からの時間的な隔たりにおいて。もう一つには、当時の日本におけるマーラー受容のあり方に対する 奇妙な違和感、つまりそちらの方には逆向きの(つまりもっと自分に近い時点との比較において)デジャ・ヴュが伴うように思えるという点において。要するに同時代性が 文化的な距離を無効にすることはなく、寧ろその点では時代による変化というのがあまりないように感じられるという点において。

だがその一方で、あるいはそうであるだけに、例えばレーケンパーの「子供の死の歌」から受け取ることができるものは、私にとって時代の隔たりを超えて 伝わってくるものなのだ。ワルターの戦前の演奏、特に「第9交響曲」のそれについては当時の時代の危機的状況の記録といった側面が強調されることが多いが、 寧ろ私が思うのは、その時の演奏者の中にはマーラーの指揮の下で演奏した経験のある人が少なからず含まれたに違いないし、その録音から辛うじて聴き取れると 私が感じるものには(あるいはそれは勘違いや思い込みだと言われるかもしれないが)、マーラーの作品が産み出された時代と地続きであるが故の、半ばは演奏様式と いった形で伝統として定着した、だが残りは蓄積された記憶に基づいたほとんど無意識的な親和性があるように思えてならないのである。それは現在の私とはとりあえず全く 隔たった時代と場所の記憶であり、私にとってはマーラーが如何に自分から遠い存在かを否応無く確認させられることになる。演奏技術は向上し、録音の技術も 向上したかも知れないが、「マーラーの時代が来た」などといったキャッチフレーズが如何にお目出度い遠近法的倒錯に基づくものであるかを私は感じずには いられない。寧ろマーラーの時代はとっくに過ぎているというべきなのではないのか。

その点に関連して、もう一つ思い当たったことがある。ワルターの第9交響曲やフェリアーの「私はこの世に忘れられ」を聴いて、私は何となく、バルビローリが ベルリンフィルを指揮した1964年の第9交響曲やベイカーがバルビローリの伴奏で歌った「私はこの世に忘れられ」(これには1967年のハレ管弦楽団のものと、 1969年のニュー・フィルハーモニア管弦楽団のものがあるが)を思い浮かべたのだ。バルビローリは1899年生まれといいながら、イギリスの指揮者であり、 大陸のマーラー演奏の伝統とは直接関係がない。強いて言えばフルトヴェングラーのいわば代役のような形で引き受けたニューヨーク・フィルハーモニックとの関係に 寧ろ接点があるかも知れないくらいなのだが、それではそのバルビローリの指揮で第9交響曲を演奏したときに当時のベルリン・フィルの奏者をあれほどまでに感動させたものは 何だったのか。当時のベルリンには聴き手のうちにも奏者のうちにも戦前の記憶をもつ人がいた筈であり、1960年代にもなって、しかもドーバー海峡の向こうから やってきたイタリア系の指揮者が、そうした記憶に繋がるような演奏をしたことに驚いたといった側面が必ずやあったに違いないと私は思う。勿論、バルビローリと ベルリン・フィルの演奏を戦前の伝統なり記憶なりの継承であるということはできないだろうが、しかし更に半世紀近く後の現在から眺めれば、バルビローリの 演奏もまた過去のものとなってしまったという感覚は拭い難い。結局のところマーラーと現在との距離はちっとも縮まっていかない。寧ろ、ある時期にマーラーの 受容が一気に進んだことによって、逆説的に今度こそマーラーは決定的に過去の存在になってしまったとさえ言いうる気がしてならない。

そしてそうした展望において、三輪眞弘さんの言う「録楽」としてのマーラーの演奏記録を聴くことに、或る種の逆転が生じているように私には感じられる。 戦前の演奏を「録楽」で聴いたからそこに「幽霊」を見出したのではないかという論理の筋道はここでも正しいのだが、その一方でそれは私にとって 予め「幽霊」でしかありえないものなのだ。現代の演奏を遙かに優れた録音・再生技術によって「録楽」として享受するのと、そうした経験の間には 無視できない差があるように思えてならない。権利問題としては確かにそれもまた「代補」なのだが、事実問題としては「代補」としてしか最早存在し得ない。 そして時代の隔たりを感じつつ、にも関わらず、その隔たりを超えてやってくるものは、今日のコンサートホールで繰り広げられる技術的精度においては遙かに優れた 演奏では、或いは今日の遙かに進んだテクノロジーに支えられた録音で聴ける演奏では替わりが利かないもののようなのだ。やってくるものが或る意味で時代を 超えているのだとしたら、一体どちらを「幽霊」と呼ぶのが相応しいのだろう。勿論私は「歴史的録音以外には価値が無い」とは思っていない。作品を把握するには 歴史的録音では限界があるのははっきりしている。歴史的録音の裡にのみ本物があるといった言い方を私は断固として拒絶する。私が言いたいのはそういうことでは ないのだ。そうではなくて、マーラーのような過去の音楽の場合、しかもその音楽が産み出された時代やその時代に陸続きの時代の「録楽」が遺されているような 場合には、それらを現代における「録楽」と同じように聴くことがとても難しいことになるということが言いたいに過ぎない。

それは一般論としてはマーラーだけの問題ではないかも知れない。だが、私個人について言えば、恐らくそれはマーラー固有の側面が非常に色濃いのではないかと 思っている。勿論私がマーラーその人に興味があるのは、このような音楽を遺したからで、そこには逆転はない。だが私は結局のところ、そうした作品を産み出した マーラーその人を探しているのだと思う。作品はマーラーその人の「抜け殻」、それもまた「幽霊」ではないのか。だからといって書簡をはじめとするドキュメントの 方にこそ「本物」がいるとも思っていないし、やはり「本物」は「作品」を通してしか出会えないと思うのだが。 (2009.5.31/9.26)

2009年4月12日日曜日

第7交響曲の内的プログラムは破綻しているか?

本当に久しぶりに出来た「使い途の決まっていない時間」に、ふとしたきっかけでバルビローリが指揮したマーラーの第7交響曲の録音を聴き始める。 1960年10月20日だから私が生まれる前に、マンチェスターで行われた演奏会のライブ録音である。客席のざわめき、咳の音も生々しいし、 このコンサートのために編成されたのであろう、BBCノーザン交響楽団とハレ管弦楽団の混成オーケストラの一期一会の演奏の緊張感も きっちりと伝わってくる。1960年といえばマーラー生誕100年のアニヴァーサリーの年だ。今日ではすっかり古典となっているアドルノの音楽観相学を 名乗るマーラーに関するモノグラフの出版もこの年だ。オーケストラにとってこの曲は今日のように馴染みのある作品ではなかったろう。今日の 演奏でなら起こりえないような事故もあって、演奏には傷は多いが、解釈は隅々まで行き届いているし、管弦楽のための協奏曲のようなこの作品に あって欠かすことのできない各声部の「歌」がこの演奏にはぎっしりと詰まっている。実は第7交響曲にはそれぞれ個性的な名演が数多あって、 その数は他の交響曲に決してひけを取らない。そのことのみをもってさえ、この曲を失敗作と見なすことの不当さは明らかだと若い頃の私は 憤慨交じりに思っていたものだが、私見ではその中に数えいれることに些かの躊躇も感じない。バルビローリは10年後の1970年に没しているが、 もう1年彼に時間があれば、後世の我々の手元にはベルリン・フィルとの演奏の記録が残った筈であったらしい。だが、気心の知れたマンチェスターの オーケストラを率いてのこの演奏には、第3交響曲のデリック・クックの場合と同様、マイケル・ケネディにあれほどまでに確信に満ちた文章を書かせる だけの、あるいはこの曲に対して懐疑的であったデリック・クックをすら納得させるだけの圧倒的な説得力が備わっているのだから、 この演奏が2000年にBBCからCDとしてリリースされたことに感謝すべきなのだろう。

「問題作」であるらしい第7交響曲に関しては、上で触れたアドルノのモノグラフを筆頭に多くのことが語られてきたし、恐らくは今後もそうだろう。 そうした発言に触れてみて私が感じるのは、自分は恐らくその最も外縁にいるに違いない、いわゆる「伝統」というものの影だ。嵐のような天候の ある日の夜、電波状態の悪い中、しかも放送が始まって少ししてからFM放送でこの曲を聴き始めたのがこの曲との最初の出会いであった 中学生の子供にとって、その「伝統」は、極めて皮相なかたちでしか自分の中に根付いていなかったのだろう。勿論、第1楽章の4度の堆積が もたらす独特の沸騰するような緊張は、彼にとってはそれまでに聴いた音楽にはない新鮮で魅惑的なものであり、そうした印象は彼が少ないなりに それまで持っていた音楽経験の文脈あってのことだったろうが、彼は愚かにも、識者の言うような「パロディ的」「メタ音楽的」な側面に全く気づくことは なかった。同じ人間が30年後、バルビローリが半世紀前に遺した演奏を聴いて感じるのは、自分がこの曲に対して抱いてきた印象が、 強められることこそあれ、決して弱まったり、疑いが生じることはないということだ。内的プログラムの破綻を証する惨澹たる失敗作であるらしい、 茶番の内部告発であり、不可能性の証明であることによってこそ価値があるのだとされる第5楽章のフィナーレを聴いて、ちっともそのようには響かないことを 再び確認するだけである。

この演奏の終演後の拍手はほとんど熱狂的といっていいものだが、それはこの曲の、言われるところの「前衛性」、脱構築的な あり方を聴衆が理解できた故のものなのか。多分そうではないだろう。では彼らは「勘違い」していたのか。もしそうだとしたら、私もまた、そうした 「勘違い」組の一員なのだろう。否、私は積極的にその一員たろうとするだろう。デリック・クックがこの演奏に見出したものは、彼の作品への懐疑を 覆すものだったようだが、それは今日の識者のような理解に達したからだということではない筈だ。何よりも彼は、コヒーレンスという言葉を使っているのである。 そう、この曲は伝統が命じる「内的プログラム」とやらとは別の水準でコヒーレンスを備えているし、第5楽章はそのまま受け止めていいのだと私には 感じられてならない。確かにそれは「伝統」の中でこの作品を聴いた人達の顰蹙を買いはしただろうが、(20世紀の前衛によくあった本末転倒よろしく) 顰蹙を買うことが「目的」でも「意図」でもなかったのではないか。「目的」や「意図」とは無関係に、作品が持つ社会的な機能がそうなのだ、と 言われれば、それはそうなのかも知れないが、その社会とは、いつの時代のどの社会のことを指すのか、はっきりさせて欲しいものだと思うし、実の ところ、そんな社会的な機能など、私にとってはどうでもいいことなのだと白状せざるを得ない。識者にすれば、控え目に言っても憐みを買う、嘲笑される ような言い草なのだろうが、私にはそういう「伝統」がないのだから仕方がない。

それを言えば、後に第1交響曲となる2部5楽章の交響詩を身銭を切って演奏したマーラーは、その作品が顰蹙を買ったことに戸惑い、傷ついたようだ。 私見では、マーラーには他意はなく、彼はごく素直に自分の中に響いている音楽を書きとっただけなのだと思う。それは第4交響曲のときもそうだったし、 この第7交響曲の場合もそうだったのだと思う。アドルノはシェーンベルクがこの第7交響曲に対してとった態度を、些かの驚きをもって記しているが、そういうアドルノの 評言よりも、アルマの回想に続く書簡集に含まれるシェーンベルクの第7交響曲に対するコメントの方が私にとっては自分の感じたままに遙かに近い。 当時の子供だった私にもそうだったし、現在の私にもそのように感じられるのだ。勿論、ありのままの聴取というのは虚構であって、あるのは異なった文脈の中での 様々な聴取だけなのだろう。だが、もしそうだとしたら、その「文脈」は音楽の伝統やら、啓蒙のプログラムやらといった範囲を超えて広がっているのだと思う。 私に言わせれば、第7交響曲が破綻しているとすれば、それは作品の内部とか、作品の文脈の側にあるのではない。破綻は聴いている私の側にある。 恐らくそれと同じように、マーラーその人にもその破綻はあったのだろうと思う。だが、彼はそれを作品の中に持ち込んだわけでもないし、窓のないモナドよろしく、 その作品がマーラーの破綻を映しているとも思わない。第7交響曲のフィナーレを文字通りに受け取れないのは、受け取れない側の責任で、音楽の責任ではない、失敗の原因を音楽に押し付けるのは責任転嫁ではないかと私は思っているのだ。それは第8交響曲を滅多に聴けないのと本質的には同じだと思っている。

破綻は私の側にある、とはこういうことだ。私はいつでも第7交響曲のフィナーレの肯定性をそのまま受け取れるわけでは決してない。だがその原因は、専ら 私の側にあるのだ。破綻しているのは私の生の方であり、だからこそ私にとってマーラーの音楽は必要なものなのだ。マーラーの作品群が、あるいは個別の 作品がその中に持つ大きな振幅こそ、自分にとっては自然に感じられる。もう一度シェーンベルクの言葉を引けば、彼がマーラーの第3交響曲に見て取った 「幻影を追い求める戦い」「幻想を打ち砕かれた人間の苦悩」「内面の調和を求めて努力する姿」を、私もまたマーラーの音楽に感じることができる。 勿論、それは音楽の「内容」そのものではない。シェーンベルクにとっては第3交響曲の標題などどうでもいいことだったようだが、それも含めて私はシェーンベルクの 感じ方に共感を覚える。マーラーの音楽に「肯定」の要素があること、少なくとも「肯定」への探求があることは、私がマーラーを聴く理由の根底にあるのだと思う。 かつての子供もそうであったし、(ちっとも成長も成熟もしないという批判は甘受することとして)今の私もまたそうなのだ。そうした私にとって、 「第7交響曲の内的プログラムは破綻している」といったような言い方は、単なる詭弁にしか感じられない。

確かに第7交響曲には、苦悩から歓喜へというような内的プログラムなどない。だが、それはそうであろうとして破綻したわけではなく、 きっとそんなものは始めからなかったのだ。第2、第4楽章から先に着想され、 1年後の休暇も終わりになった頃、ボートの一漕ぎで第1楽章の着想を得てようやく全曲の構想が定まったという経緯を持つこの音楽には、もっと遠心的で 万華鏡のような構造が存在する。フィナーレは何かのリニアな過程の結論なのだろうか。そうではあるまい。外部から恣意的に尺度を押し付けて、その尺度からの 背馳をもって測られたものが語るのは、測られる作品ではなく、測る人間のありようではないと言い切れるだろうか。一体それは何の観相学なのだ。 第3交響曲に「円環的」構造を見出しうるという、あきれるほど粗雑な議論同様、第7交響曲に単純な図式を当てがうことは、その作品の持つ豊かさ、 非常に入り組んで、見えにくくはなっていても、このバルビローリの演奏のような説得力のある解釈においては的確に把握されている巨視的な秩序を 損なうだけのように思えてならない。「基本法則は単純だが、世界は退屈ではない」とは物性論における超伝導とのアナロジーによって、質量の起源たる 対称性の破れが自発的に生じる動力学を提示した南部陽一郎博士の言だが、顰蹙を買うことはあっても決して退屈することはないと揶揄交じりに 言われたこともあるマーラーの音楽の持つ多様性、豊かさは、粗雑な文学的な修辞で飾り立てることではなく、マーラーの音楽そのものの構造を 記述し、説明しようとする試みによってより良く理解できるに違いない。優れた演奏解釈は、言語化することなくそうした勘所を押さえているのだろうが、 だとしたらある解釈の卓越を証することについてもまた、同様のことが言いうるのだろう。実はアドルノは、一方ではそのための手がかりをもまた 遺しているのだ。例えば「音調」の章における調的配置についての言及や、「ヴァリアンテ」の章に見られる超-長調についての言及や、マーラーにおける 「唯名論」についてなどによって、同じアドルノがフィナーレに下した判断に疑念を挟むことが可能ではないだろうか。

否、私のような単なる享受者、音楽学者でも哲学者でもない一介の非専門家に過ぎない聴衆にしてみれば、自分が音楽から受け取ったものを反故にしたくないだけなのだ。教養ある知的な聴き手にとっては嘲笑の対象となるのかも知れないが、それでもなお、例えばこのバルビローリの演奏から 受け取ることのできる或る種の質について、擁護したいだけなのだ。それなくしては音楽を聴くことそのものが意義を喪ってしまい、その音楽について書くことの動機そのものが喪失するようなものが、バルビローリの演奏には間違いなく備わっている。私にとって第7交響曲が持っている或る種の質を 擁護することは、実のところ30年前からのテーマだった。

だがそれを職業とすることなく、音楽を聴くことを単なる消費としないでおくことは、時折非常に困難となる。まずもって物理的に時間がないのだ。 遺された時間で何を聴き、何について書くのか。自分に許された容量を考えれば選択と集中は避け難いが、時期によってはその限定された範囲すら 自分にとっては手が届かない領域にさえ思えてくる。膨大なCDのコレクションや文献を所有することは私にとっては意味がない。手持ちの貧弱な 蒐集ですら、最早己の容量を超えているように感じられることも一再ならずある。そうやってまた文献を処分し、CDを処分し、計画を縮小し、 という退却のプロセスを辿っていくのだ。

逆説的なことだが、私にとってマーラーの音楽は、それ自身がそうした縮小均衡への歯止めになっているようだ。マーラーが神の衣を織るという自覚を もって、歌劇場の監督の激務の合間を縫って遺した作品たちは、かつて初めて遭った時にすでにそう感じたように、それ自体が価値の源泉であり、 私のような貧しい人間にすら、何事かをすべきなのだといざなう力を持っていたし、その力は30年の歳月を経て、まだ辛うじて残っているらしい。 傍から見れば強迫観念に取り憑かれているだけの無意味な営みであったとしても、それは私に沈黙することを許さない。それは「応答」を要求するのだ。 お前に時間ができたなら、お前は受け取ったものに応じて、何かを返さなくてはならない。それが無益なものであっても「応答」せよ、、、

シェーンベルクにとってマーラーは同時代の人間だった。だから書簡に記された言葉は、自分が会って話ができる、その人に向けてのものだった。 幸運なことに、私にも同時代にそうした「応答」ができる貴重な対象が存在するけれど、マーラーはその中には勿論、含まれようがない。 1世紀後の異郷に居る私の場合、シェーンベルクとは状況が全く異なるのだ。なのに私は愚かにも、シェーンベルクが聴いたようにしか その音楽を聴けないと感じ、それに加えてあろうことか、そうした態度を正当化したいのだ。マーラーその人が音楽を介して、今そこに居るかのように、、、

だが、私は頬かむりをしてこう言いたい。それは仕方ないのだ。マーラーの音楽がそれを命じているのだから、と。その音楽を聴く時、私はマーラーその人を 身近に感じずには居られない。私は彼の見た同じ風景を見ることはできないけれど、彼の音楽を通して、風景の見方を自分のものとすることができる。 私なりに卑小化されたものであっても、彼の問題意識や或る種の「姿勢」を自分のものとすることができる。できる以前に、それは最早私の一部と なっていて、今更無かったことにするわけにはいかない。彼の音楽とは関係のない、生活の脈絡の中で、だけれども私は、そうとは自覚せずに彼から 受け取ったものに従って価値判断をし、行動しているのだ。極端だろうか?そうかも知れないが、だが私には(シェーンベルクがまたしてもそのように 語っているように)そのようにしかマーラーの音楽を聴くことはできなかったし、今でもできない。そういう聴き方をしないのであれば、この音楽を 聴くべきではないのだ。そのかわり、「ただで」それを受け取ってはならない。己の貧困を自覚しつつも、何かを返さなくてはならない。そうでなければ この音楽を聴くのを私は止めなくてはならないだろう。かつて一度はそうしようと思ったように。だが、こうして聴き続けている間は、何かを返すべく努めなくてはならないのだ。

私のような人間さえ、時折はそのフィナーレを聴き、その肯定性を自ら引き受けることができるような瞬間が、その生の成り行きに含まれることは、 私にとってかけがえのないことなのだ。生の成り行きのある断片の中であれ、肯定することなしにやっていくことなどできないだろう。音楽にとってそれが終わった 後の時間が、外部が存在するのと同様、そうした断片は断片でしかなく、新たな世の成り行きの中でそれは色褪せていくことになろうとも、 時折はこうして第7交響曲を聴くことができることは、翻ってそもそもこの音楽に出会えたことは、こうした音楽を書いた人間がかつていたということと同様に、 私にとってかけがえなく、貴重なことなのである。(2009.4.12)

2008年5月24日土曜日

私のマーラー受容:マーラーとの出会い

マーラーを初めて聴いた時のことは比較的はっきり覚えている。何を聴いたかだけではなく、聴いたときの状況や、 視覚的な情景まではっきりと記憶している。 中学生になった最初の夏の夏休みの恐らくは午後、確か、夏休みの宿題であった火災予防か何かのポスターを 作っている最中に、たまたまポータブルのラジカセをつけたら流れてきたFM放送で第1交響曲を聴いたのが最初であった。 その時に放送されたのは、小澤征爾指揮のボストン交響楽団の録音で通常の4楽章形態であった。
当時の私は既にフランクの晩年の作品を聴いて強くひきつけられ、更には何枚かのLPレコードでシベリウスの 音楽には親しんでいたものの、マーラーの音楽は全く未知の存在だった。音楽の教科書や、学校の音楽室の音楽史の年表の 上では、まだマーラーというのは「省略」されていたのだ。いわゆる「国民楽派」の作曲家としての シベリウスの方が「有名」な存在で、音楽の「現場」ではすでにマーラー・ルネサンスが始まっていた とはいえ、極東の地の地方都市においては、マーラーは今日のようなポピュラリティを獲得する前だったのだ。
フランクは父のテープ・ライブラリに交響曲、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ五重奏曲の3曲が含まれていたのを聴いていたが、グリーグは あってもシベリウスは確かなかったから、シベリウスが自分でLPレコードを買って発見した最初の作曲家ということになる。同様に バルトークやヤナーチェク、ストラヴィンスキーはあってもマーラーはなかったし、父がマーラーについて積極的に語ることはなかったから、 マーラーは本当に一から発見したことになる。
その頃音楽を聴く安上がりな方法は、FM放送を聴くことだったが、そのようにしてマーラーの音楽を 次々と聴くことになる。第1交響曲の次は、第7交響曲。クーベリックとバイエルン放送交響楽団の録音を FMで聴いたのだと思う。途中からの録音。天気が悪くて、ノイズがひどかった。 その後も特に第1楽章は、台風などの荒天、嵐のイメージと結びつきを持つ。 特にその第1楽章の響きの鋭さ、4度進行の累積がもたらす緊張感、音楽が「沸騰する」ような感じに強く魅せられた。 その音楽はそれまでに聴いたどの音楽よりも「前衛的」で、少し遅れて接した第10交響曲ともども、 その後新ウィーン楽派やアイヴズ、そしてクセナキスのような現代音楽を抵抗無く聴くことの準備になったと思う。
最初に買ったレコードは、大地の歌。ヨッフムが指揮するコンセルトヘボウ管弦楽団の演奏、ヘフリガーとメリマンのソロ。 理由は単純で、それが一番安かったからだろうと思う。聴き始めの時期に比較的まとめて聴いたのはクーベリックと バイエルン放送交響楽団の演奏で、LPで第3番、第6番、第10番のアダージョ、そして既に述べたFMで聴いた 第7番の4曲を聴いていた。
FMで印象に残る演奏は多くて、第6番ならインバル・フランクフルト放送交響楽団、ギーレン・ベルリン放送交響楽団、 コンドラシン・南西ドイツ放送交響楽団、第7番ならベルティーニ・ベルリンフィル、第9番ならバーンスタイン・ベルリンフィル、 第3番ならツェンダー・ベルリン放送交響楽団といったところを聴くことができたのは今思えばなんとも贅沢な 経験だった。ポータブルのラジカセで、カセットテープに録音しながらという音響的には貧しいものでは あったけれど。テープレコーダーといえば、マーラーの交響曲は長大なのでカセットテープの片面には収まらない。 演奏時間を調べて適当な長さのカセットテープを用意し、楽章間の切れ目でテープを急いで入れ替えながら聴いたのを良く覚えている。 レコードの録音をFMで聴く機会もあって、上述のクーベリック・バイエルン放送交響楽団の第7交響曲や、 レヴァイン・フィラデルフィア管弦楽団の第10交響曲のクック版などが特に印象深い。これらの曲はレコードの 入手が遅れたこともあり、私にとってはFM放送を録音した音質的には極めて貧弱なカセットテープが長いこと唯一の音源だったのだ。 その結果、概ねFMで聴くことができた曲(第6番、第7番、第3番、第10番など)は早くから馴染むことが出来た一方で、 そのチャンスがなかった作品は自分でレコードを早い時期に買った大地の歌などを除くと、親しむのが遅れた。 またクーベリックを除けば、レコードの全集盤を完成させていた指揮者(バーンスタイン・ショルティあるいはハイティンクなど)よりも、 インバル、ギーレン、ベルティーニ、ツェンダー、コンドラシンといった指揮者の方が私には馴染みが深い。
FMで聴いたものとしてはマーラー自身の演奏を記録したピアノロールもまた忘れることができない。 これも擦り切れるほど聴いたと思う。第5交響曲については何故かFMでも聴く機会がなかなかなく、 LPレコードを買うのも遅かったため、第1楽章についてはマーラーのピアノでの演奏が最も馴染み深い 解釈であった時期があったほどである。
地方都市で、自分のお小遣いを貯めて買うせいで廉価盤を買うことが多かったこともあるし、 またそもそも選択可能なレコードの種類が限られていて、結果として 今思えばかなりレアな演奏のレコードを聴いていたりする(第1番のラインスドルフ・ロイヤルフィルとか、第4番のスワロフスキー・チェコフィル、 もしかしたら、上述のヨッフム・コンセルトヘボウ管の「大地の歌」の演奏もそれに含まれるかも知れない)。 その後、アバドの演奏のLPを途中からはリリースされた順に6,2,4,1,5,3と聴いているうちに、CDの時代になって、 結局第7番以降は買わなかった。 LPレコードからCDへの媒体の変化の結果、結局、いわゆる全集として聴いたのはインバル・フランクフルト 放送交響楽団のものが最初で最後となった。その後、レコードの時代には全く接することのできなかった バルビローリの演奏を聴くようになるが、それまではアバドやインバルなどのすっきりとした造形の、しかも マーラー演奏に馴染んだオーケストラによる緻密で高精度の演奏を聴いてきた耳には、その演奏の良さと いうのはすぐにはわからなかった。名盤として知られているベルリン・フィルとの第9交響曲の録音すら、 最初は明確な印象を持つに至らなかったのである。勿論現時点では異なる見方をしているし、 こうして再びマーラーを聴くようになったのには、バルビローリの演奏を受容していく過程が非常に重要だったのだが。
クルト・ブラウコップフがそのマーラー評伝でマーラーの音楽の普及におけるLPレコードというメディアの重要性を述べているが、 その一方でそれ以前の世代―そこにはブラウコップフ自身も含まれる―のマーラー受容のあり方、限られた 実演を聴くチャンスを除けば、主として楽譜を通しての受容の仕方の独自の意義についても語っている。 我が身を振り返ってみると、地方都市の子供ゆえ実演に接する機会は全くなかったこともあって上述のようにLPや FM放送による受容が中心であったとはいえ、自分の場合に関して言えば楽譜の持つ意義は決して小さくなかったように 思われる。特にそれはLPやFMで接する機会が相対的には制限され、その一方でピアノ伴奏の形態が 存在する歌曲においては決定的であったように思える。つまり歌曲はピアノ伴奏版の楽譜で知っていった側面が強いのである。 特に子供の死の歌、リュッケルト歌曲集などは寧ろ、ピアノ伴奏版の楽譜を弾くことによってまず親しんで、 その後管弦楽伴奏版の演奏を聴く順序であったと思う。 一方、交響曲についてはどうかといえば、実はマーラーの交響曲にはピアノ連弾版があるのだが、 それらの存在を知らなかったこともあり、こちらは専らレコードとFM放送が中心だった。
交響曲の楽譜は全音から出ていたもののうち何故か第2番だけ、Universal版の第8番の赤い表紙のスコア、そして Philharmonia版の大地の歌のポケットスコアは時期的に早く持っていた。それらはやはり住んでいた地方都市の 楽器屋に偶々あったものを入手したのだった。マーラーの場合には楽譜を読むことでわかることが非常に多く、 有名な詳細を極める演奏指示もそうだが、それよりも、例えば拍子の変化の多さや、デリケートな音色の 変化を追及した管弦楽法、線的な書法(その結果、いわゆる「譜面づら」が大変に複雑なものになる。) を視覚的に確認できたことは、演奏を聴く時の聴き方に確実に影響を与えたと思う。
そのうち、いわゆるブームの到来と前後して音楽之友社から協会全集版を含むポケットスコアが出て、 それで持っていないものを補っていった。特に熱心に読んだのは第9交響曲、第6交響曲そして第7交響曲 であったと思う。とりわけ第9交響曲の第1楽章や第6交響曲の第4楽章、第7交響曲の第1楽章などの 譜面を読むのはそれ自体が魅惑的な経験だった。また、早い時期にクック版を聴いていたこともあり、 第10交響曲はクック版のスコアを持っていた。その一方で全集版のアダージョの楽譜には縁がなく、 結局現在に至るまで見たことがないままである。(その後入手して今は手元にある。)
私のマーラー受容はその音楽とともにマーラーという人間への関心を伴っていたので、早くから 評伝の類については読んでいた。とはいっても実際にはこれまた街の書店の棚に偶々あるものとの 出会いから始まる。当時のマーラーの知名度からすれば高校ならともかく中学の図書室に マーラーの伝記を期待するのは無理だったのだ。とはいっても、ブームの前に出版されていた マーラーの文献は限定されていたし、そのうちの先駆的なものは戦後間もなくの出版であったから、 逆に当時は手に入らなかった。というわけで書店の店頭に私が見つけたのは、折りよく出版された ばかりであったマイケル・ケネディのものの邦訳、アルマ・マーラーの回想と手紙、そして青土社の音楽の手帖の マーラーの巻だったと思う。それらは勿論、愛読書となり、文字通り擦り切れるまで読んだ。 そのせいもあってケネディの評伝はほとんど内容を覚えてしまったし、アルマの回想の主要な エピソードについてもほとんど記憶してしまったくらいである。
それ以外のものは買わずに、本屋で立ち読みした。ヴィニャルの評伝、クシェネクの伝記とレートリヒの 解説などが該当する。ブラウコップフの著作とアドルノのマーラー論はなぜかずっと目にするチャンスがなく、大学の図書館で ようやく見ることができた。ワルターの回想はこれも大学に入学してから古書店で入手したように記憶している。 その後もマーラーに関連する書籍を目にするたびに極力目を通すようにしていた。もともと私は自分が興味を持った音楽が あれば、それを書いた人がどんな人で、どんな背景があるのか、その音楽がどのような力を持ち、どのように私に働きかけるのかを 詮索しないではいられない性質で、マーラーに関してはそれはまさにお誂え向けのものだったと言って良いのであろう。 一方で、マーラーと出会うことでマーラーの聴取にとっては自然な聴き方が自分の中では標準になってしまい、 他の作品でも同じような聴き方をするようになったという側面はあるかも知れない。聞こえてくる音自体ではなく、 音楽そのもの(だが、それを境界づけることは本当にできるだろうか)だけではなく、音楽を取り囲むさまざまな事象に 拘る私の聴き方はしばしば奇異の眼で見られ、あるいは半ば呆れられていたのだが、未だにそうした聴き方を脱することが できずに居る。その結果が所蔵CDの枚数より多い所蔵文献の数で、そういう点では私のマーラーの受容の仕方は あまり変わっていない。(所蔵文献とCDのそれぞれの絶対数と両者の割合、そして所蔵楽譜と所蔵CDによる その作曲家の作品の被覆率を組み合わせれば、その作曲家の音楽に対する接し方の傾向のようなものが測れるかも知れない。)
まともなコンサートホールのない地方都市では有名なオーケストラの地方公演の機会もなく、ましてやマーラーの実演に接する機会は 皆無だったが、大学が都心にあったこともあって、ようやく大学時代になって実演に接するようになった。 とはいっても片道2時間をかけて4年間通学したので、大学時代に聴けた演奏はほとんどなく、ほとんどは就職後になるのだが。 就職後も自由にコンサートに通えるような環境にはなく、その後実演を聴くのを止めてしまうまでに接した実演の回数は10回にも 満たない。事前に買ったチケットをふいにすることもあったし、体調が思わしくなくて音楽に没入できないこともあり、コンサートは 当時の私には全く割に合わないものだった。その一方でマーラー演奏はいわゆるブームになってしまい、いわゆるマーラー・ツィクルスが 幾つも行われるような状況となって、かえってコンサートから足が遠のく結果になった。
実演を聴くのを止めてしまったのは時間が自由にならないせいも勿論あったのだが、実演で感動できたのが寧ろ少なかったことが 大きい。実演で説得されたのは記憶している限りではわずかに2回、曲目は6番と8番だった。6番は2度聴く機会があった唯一の曲だが、 2度目に聴いた、基本的には自分の嗜好からは遠いスタイルのメータ・イスラエルフィルでもそれなりに感動した。 コンサートという場は私にとっては幾つも厄介な側面を備えている。もともとコンサートホールで聴くために作曲された音楽であるにも関わらず、 こうした反応が出てくるのは、LPレコードによってマーラーを受容した世代ならではの「倒錯」と考えるべきなのだろうが、 とにかく実際問題として、感情のコントロールの難しさや「独りで」聴くことができないことや、終演後の拍手、特にブームの時期の マーラーのコンサートゆえに一層耐え難いものに感じられたのかも知れないが、時折居たたまれない気分になる演奏会場の雰囲気など、 コンサートの公共性との背馳があまりに大きく、未だにコンサートに行くには非常な決断が必要なのだ。
マーラーブームという言い方が適切かどうかはわからないが、1990年前後の期間に、マーラーの交響曲のツィクルスが幾つも行われ、 テレビのCMにマーラーの音楽が使用され、それに応じてマーラーに関連する書籍やCDが急激に増えたことは確かだろう。 コンサートの盛況に関しては、当時はいわゆるバブルの最盛期でコンサートホールの新設ラッシュが相次ぎ、また海外のオーケストラの 来日も大掛かりなものになっていたという背景があるのだろう。だが私にとっては、流行は疎ましく感じられたし、その理由などどうでも いいことで、とにかく自分にとっては今なお思い出すのも忌まわしい時期だった。
実際には1974年に製作されたケン・ラッセルのマーラーに関する映画が日本で上映されたのもその時期、1987年のことだったらしい。 私も一度は見たものの、もともと映画にほとんど関心がないこともあり、これまた一度だけ見て辟易したヴィスコンティの「ヴェニスに死す」 同様、ラッセルの作品に対しても強い違和感と拒絶反応しか覚えなかった。もっとも私は、マーラーにちなむ作品(思いつくままに挙げれば、 上記映画やドキュメンタリー、ベジャールのバレー、ベリオのシンフォニア、ルジツカの幾つかの作品など、、、)には関心もないし、 感銘を受けたこともないのだが。私にとってはそうしたあからさまな主題化、引用よりも、例えばヴェーベルンの作品6の方が、あるいは ショスタコーヴィチの作品のうちの幾つかの方が、遙かにマーラーその人の精神との連続性が感じられ、好ましいものに思えてならない。
ブームを目の敵にする態度は、自分のマーラー受容に とってそれなりに重要な意味を持つ経験、つまりインバルのCDによる交響曲全集と若杉・東京都交響楽団のツィクルスがその当時の ものであることを思えば、自分が受益者たることを忘れたお目出度い態度であるとの糾弾を免れないかも知れない。だが、今なお 聴き続けているインバルの演奏はともかく、若杉・東京都交響楽団のツィクルスは、一方で自分が聴いたマーラーの実演のうち 最高のもの(第6交響曲)が含まれているけれど、他方では、自分がコンサートという場で得られるものが如何に少ないか、 コンサートにチケットを買うことが自分にとって如何に非効率なことであるかを確認する機会でもあった。全く鳴らないオーケストラに 驚いた第1交響曲のハンブルク稿初演の後、第2交響曲の第1楽章として演奏された交響詩「葬礼」の日本初演を最後に この企画に足を運ぶことも止めた。第2交響曲の第2楽章が始まる前にサントリーホールの客席を後にした私は、だからその後の 演奏がマーラーの指示の通り5分間の休憩の後に開始されたのかどうかも知らないのである。現在の私にとっては、これも素晴らしい 演奏だったシェーンベルクの5つの管弦楽曲を聴けたことや、期待したヴェーベルンの作品6の演奏が、マーラー同様、失望しか もたらさなかった苦い思い出、そして今でこそ始めから疎遠であったベルクと同様の距離感を感じる作曲家になってしまったものの、 実演に接した経験では間違いなく卓越した技術を持った作曲家であるツェムリンスキーの人魚姫や詩篇23番の日本初演に 立ち会うことができたということの方が印象に残っているくらいである。
その当時のことを窺う格好の資料として、丁度その頃あいついで出版された桜井健二さんの著作がある。桜井健二さんは、当時の 私にとってはまず、短期間ではあるけれど自分も会員であった日本マーラー協会の事務局長だった。私が会員であったのは ほんの数年のことに過ぎず、しかも会員証も会報もその後すべて処分してしまったため、手元には何も残っていないのだが、 それでも、その後間もなく会長であった山田一雄さんが亡くなられ、桜井さんが事務局長を辞められ(これらの前後関係は 詳らかではないし、現在の私には確認する手段すらない)、あっというまに協会の活動が麻痺してしまったのを記憶している。 地方都市に住み、会費と引き換えに会員証を受け取り、時折届く会報を読むのが会員としての全活動であった私には、 どのような経緯があったのかなど知る由もなく、一度、会費の納入を忘れたことを詫びた手紙を事務局に送ったところ、 その返信で協会の活動が実質的に休止していることを知ったのは印象に残っている。桜井さんの著作のうち最初のものの後書きには 日本マーラー協会の活動が誇らしげに書かれているのに対し、3冊目の後書きには後から読めば事務局長辞任の予告と取れる ような文章を見出すことができるのを確認するたびに、当時の状況が思い出され、複雑な感慨に捉われる。 もっとも、私は桜井さんにお会いしたこともなければ、山田一雄さんの演奏を聴いたことがあるわけでもない。山田一雄さんに ついては、その若い時分のことをつぶさに知っている知人からさんざんアネクドットの類を聞かされてできあがった先入観に 災いされてか、書かれた文章を読んでも、桜井さんの著作に含まれる対談を読んでも、共感のようなものは感じない。 想像するに桜井さんが日本マーラー協会を「再興」して、私のようなものまでが会員になるまでにするには、とてつもない 熱意と実行力、そして時間が必要だったに違いないし、そうしたことは桜井さんの著作を通しても読み取れるのだが、 にも関わらず、会員として積極的に活動にコミットしたわけでもない私は、その著作を寧ろ時代の証言のようなものとしてしか 読むことができない。そしてその時代の空気を思い出すことは私にとって快い作業ではないのである。
だが、私がマーラーを聴かなくなったのは勿論、直接にはブームのせいではない。寧ろその頃の私にとってはマーラーは、かつての アイドルの位置から転落して、寧ろ謎めいて疎遠な存在に感じられるようになったのが一番の理由である。基本的には その謎は今でも未解決で、だからこそこうして文章を書き続けているのだが、当時の私は、その謎が自分にとってオブセッションで あるということに気づいてか気づかずか、一旦マーラーから遠ざかることにしたのだった。手持ちの全ての音源、楽譜、マーラーに 関する書籍、日本マーラー協会関連の資料などを処分して、マーラーなしの生活をすることにしたのである。 このあたりの経緯については別に雑文を草したことがあるので繰り返さない。マーラーを聴かない間、音楽を聴かなくなったわけではなく、 マーラーと同時代から現代に至るまでの、概ね決して著名とはいえない色々な作曲家の作品を渉猟していた、 というのが最も端的な要約になろうか。最初から親近感を抱いていたヴェーベルンや、その頃既に自分にとって重要な作曲家であった ショスタコーヴィチは並行して聴き続けていて、それは今日まで続いている。私はいわゆる現代音楽に全く抵抗がないが、その接し方は 原則的に、完全に同時代の、しかも文脈の共有部分の非常に大きな活動としてコミットしている三輪眞弘の場合も含め、 いわゆるクラシック音楽に対するそれと区別がない。三輪眞弘やラッヘンマンの音楽は「現代音楽」であり、クラシックではないだろうという 見方もあろうが、そういう言い方をすれば、寧ろ私は「クラシック」としてマーラーやらヴェーベルンやらを聴いていないのだ。 シベリウス、ショスタコーヴィチにしてもそうで、どこかその音楽は自分と精神的な地図の上で地続きであると感じられる限りにおいて 現在でも聴きつづけているのである。
マーラーを並行して、あるいはマーラーの替わりに聴いてきた作曲家のうち、特に集中して聴き、かつその音楽について 書くべき何かを自分の中に持つことになった何人かについては、雑記帳や過去の記事に記したが、それ以外にも、現在は時間の 制約があったり、そもそも関心の外になったりしたが、関心を抱いて聞いた作曲家は何人もいる。そうした作曲家達の音楽も勿論、 マーラーを聴くための地平を構成しているのであって、その影響は決して今でもなくなっているわけではないだろう。
そうした私がマーラーを再び聴き始める契機の一つとしては、バルビローリのマーラーとの出会いがある。私が読んだ最初のマーラー伝の 著者マイケル・ケネディはバルビローリやデリック・クックと親しく、それゆえ、バルビローリのマーラー演奏が優れたものであること、 スタジオ録音は一部しかないが、それ以外の曲にも優れたライブ演奏記録があることを早くから知識としては持っていたにも 関わらず、バルビローリのマーラーはなぜか聴く機会がなかったから、それは再会ではない。最初に聴いたのはあの有名な ベルリン・フィルとの第9交響曲なのだが、丁度バルビローリの生誕100年を迎えるというタイミングの不思議な巡りあわせもあって、 その後間もなくしてBBCを中心にバルビローリのライブ演奏が次々とCD化され、それらを耳にすることができるようになっていった。 バルビローリの演奏は私がマーラーに熱中していた頃に聴いた演奏よりも 前のもので、オーケストラはマーラーを弾きなれていないこともあって技術的には最高のものとは言えないが、そのかわり近年の演奏には ない、確かな手応え、独特の質を備えているように思われる。バルビローリだけがそれを具現しているとは言わないし、それ以外にも ケーゲルやコンドラシンといった指揮者の演奏や、戦前・戦後すぐの歴史的録音は今でも聴くのだが、それでもバルビローリの演奏から聴き取れる マーラーは、現時点での私のマーラーに対する姿勢からすると、非常に自然で、かつ核心を突いたものに感じられる。 (未定稿:2008.5.24,27, 2009.10.29, 12.20, 2010.10.3)

2005年7月31日日曜日

マーラーと永遠性についてのメモ

永遠を欲するのは、作品自体でもある。マーラーの時代、録音・録画の技術はまだその黎明期にあったから、 彼の指揮者としての営みは、エフェメールなものであるという宿命を帯びていた。恐らくマーラー自身、そのことに自覚的だっただろう。
では作曲はどうなのか?

マーラー自身は自身の担体としての有限性に自覚的であったし、それだけになお一層、自分を介して生まれてくる作品が、 自分の死後も残ることに拘っていたように思える。そして、実際、永遠を欲するのは人間だけではない。 ミームとしての作品もまた、なんら変わることはないのではないか?

マーラーは、自ら何かを語りたくて作曲をしたのではない。勿論、語るべき何かが己の裡に存在していることへの自覚はあった。 だが、それは「私が語ること」ではない。マーラーが不完全な直観から捻り出した陳腐な標題すら「何かが私に語ること」なのだ。 マーラーその人は、ある種の媒体に過ぎないことをはっきりと自覚している発言も残されている。そしてまたシェーンベルクの第9交響曲に関する コメント、即ちそれが非人称的で、主体はそこでは「メガホン」でしかない、と言っている言葉は比喩などではなく、「文字通り」に受け取られるべきなのだ。

微妙なのは、こうした姿勢が、マーラーが職業的な作曲家でなかったことと無関係ではなさそうなことだ。 職業的な作曲家なら、もしかしたら語るべき何かが己の裡になくても、委嘱を受ければ、あるいは生活の糧を得るために、曲を書くだろう。 勿論、「集団的主観」の方は、そういう作曲においても健在であって、同じように観相学が成立すると言ってよいのかも知れない。 けれども、主観的な契機や衝動を欠いた作品は、それを経由する個人が希薄であるが故に、そしてそれが何かの社会的な目的や機会を意識している割合が大きいゆえに、逆説的にそうした「何か」の声を、つまり「集団的主観」の語りかけに関して貧弱である可能性が高いということにはならないだろうか? マーラーは無意識にその危険を感じていたのかも知れない。耳を澄ます自由を得るために、マーラーは職業として作曲を行わない。

いつでも歴史は敗者のものではなく、勝者のものであるがゆえに、文化のドキュメントは同時に野蛮のドキュメントである、というような考え方は、ベンヤミンに由来するものであったか、それともアドルノに由来するものであったか?(レヴィナスもまた、作品と歴史に関して類比して検討することが可能なことを語っている。)

マーラーの不思議は、ユダヤ人であることの疎外はあったかも知れないものの、彼が生涯を通して、ほぼ一貫して勝者であったにも関わらず、敗者のための音楽を書いたように思われるという、逆説的な状況にある。 一方で、マーラーの音楽をはしたない、みっともないものとして拒絶する態度が存在する。マーラーその人にもどうやらあったらしい自己劇化、「私の声」を大管弦楽を用いて表出することに無節操を感じる人がいるのは別段不思議でもなんでもない。 けれども、決して「立派」とはいえないその内容の語り手が、ウィーンの宮廷歌劇場に君臨した監督その人であることの落差の方が私にとっては大きい。

要するに、歴史に残ったからマーラーが勝者である、という以前に、すでに生前のマーラーは勝者の側にいた、というのが客観的な事実ではないか。 歴史の審判が劇的な逆転を演出し、生前不遇であった天才を一躍、勝者に仕立てたというストーリーは、マーラーの場合には全くあてはまらない。 確かに指揮者としての成功に比べて、作曲家としての成功は全面的とまでは言いがたいだろうが、少なくとも第2交響曲、第3交響曲、そして何より第8交響曲は掛け値なしの成功を収めている。こういう言い方は、これはこれで公平を欠くし、不謹慎の謗りを免れないだろうが、マーラーの生涯の悲劇と呼ばれているものだって、一歩距離をおいてみれば別段、異常なものではない。彼の生きた時代が、例えばその直後のヴェーベルンや、さらにその後のショスタコーヴィチに比べて、遥かに平和な時代であったことは否定しがたいだろうし、幼年の兄弟の早逝、長女の死、妻の不倫、自分の病(誤診であったというのが通説になりつつあるようだが)の自覚、それらは勿論、経験したものにとっては悲劇に他ならないとはいえ、あえて言えば、特に異様で常軌を逸した出来事とは言えないだろう。

もっとも、マーラーの音楽は決して個人の悲劇についての音楽ではない。
マーラーの音楽に固着しているといって良い、悲劇と厭世のイメージはさすがに最近は色褪せてきたとはいえ、なかなか根強いものがあるようだが、例えば第6交響曲を聞いて感じるのは、寧ろ強烈な活力の方で、人によっては、その力の氾濫に閉口するのではないかと思えるくらいだ。悲劇と同じくらい、個人の方も適切でないのは、例えば角笛歌曲集を聴けば明らかだ。否、交響曲においても、語り手と登場人物の分離は明らかであって、これを体験記のように受け止めるのは無理があるだろう。 だから問題は、勝者であるマーラーが何故、弱者を主人公とする小説のような交響曲を、あるいは歌曲を書いたのか、という構造をとるというのが正しいだろう。

だが、多分実際にはそうした観点はそもそも全くの見当違いなのだろう。
世間的にみて勝者であることと、個人の心象は別のものであるし、その経験が(他の人間でもしばしば経験することであるという点で)ありふれたものであるというのなら、それは個人的な経験への沈潜が普遍的なものに転化する契機を形作っているというように考えるべきなのであろう。 私は、マーラーの音楽が歴史上の重要な出来事を予言したといったような捉え方には全く共鳴できないし、一方でマーラーの音楽が扱っている経験があまりに卑小であるが故に、それを大管弦楽を用いて音楽に形作ることをはしたないことだとも思わない。 そもそも、オペラにせよ、歌曲の詩にしろ、あるいは標題音楽のプログラムにしろ、そんなに高尚で立派なことを扱っているとも私には思えない。 問題なのは勿論、素材ではなく、形作られた音楽の方なのだ。

けれども、何故マーラーがこのような音楽を、という謎がそれで解けたことにはならない。歴史のドキュメントは野蛮のドキュメントであるとしたら、歴史の審判を生き延びた(ように少なくとも今のところは思われる)マーラーの音楽における野蛮とは何なのか、に対する答も出ていない。 マーラーの音楽は弱者の音楽「だから」、決して野蛮なわけではない、という論法も、あまり説得力があるようには感じられない。 (野蛮を暴力と読み替えれば、これはレヴィナスにも通じるテーマだ。どっちみち暴力なしには済まないのか?だとしたら「ましな」暴力というのがあるのか、などなど、、、)

マーラーの音楽には、慰めがある。結局生きる勇気を与える音楽なのだ。
聴き手を癒し、生きる力を取り戻させる音楽。 そして、どこかでこの音楽は永遠を信じている。 こどもたちはちょっと出かけただけだ、、、この音楽が永遠を信じる仕方はちょうど、そういうような具合なのだ。そのように、単純で素朴な仕方であたかも忘れ去られていたけれども、気付いてみたらまるで当たり前のことであるかのような自然さ。 それは勿論、幸福が仮象に過ぎず、生は結局有限に過ぎないという意識に裏打ちされている。そういう意味では、この音楽は信仰の産物ではない。 一見して矛盾しているようではあっても、生の有限性と、永遠を信じることとは両立するのだ。

作品自体が投壜通信のごときものだからなのだろうか? この世の成り行きの愚かしさ、情け容赦無さに対するあんなにシビアな認識にも関わらず、あの辛辣極まりないイロニーにも関わらず、何故か、子供のように単純な永遠性への確信は損なわれていないようなのだ。

その懐疑の深さと、現実認識の透徹と、永遠性へのほとんど確信めいた憧憬。その共存は私には、あるときには耐え難い矛盾に感じられるし、 別の時には、その両極端に引き裂かれた意識のありように深い共感を感じずに居られない。

100年が経ち、意識を、生命を、永遠性を巡っての風景はかなり変わってしまった。
進化論は洗練され、人間の存在は盲目的なシステムの試行錯誤の産物に過ぎず、生存のための戦略として取りうる選択肢の一つに過ぎないことが 明らかになった。目的論的なパースペクティヴの遠近法的な錯誤が明らかになり、人間は己が進化の力学系の中の単なる通過点に過ぎないことを 自覚することになった。

一方で心や意識は、行動主義的な括弧入れを経て、いよいよ御伽噺の対象ではなく、科学的な検討の対象に なった。神経科学的な知見は意識が如何に頼りない生物学的基盤に依った儚い存在であるかを明らかにしたし、人工知能研究によって、知性や意識に ついての意識の自己認識は一層深まった。

現代ではマーラーの「世界観」は時代錯誤な骨董でしかない。それに気づかずに、それによって生じるギャップを我が事として引き受けずに、まるで 自分が時代も社会的文化的環境も超越したかのようにその音楽を聴くことができる人も恐らくは居るだろう。否、それどころか、音楽を評論する場では 寧ろそうした姿勢の方が優勢であるかのようだ。そうした距離感がないまま、マーラーを同時代人のベッカーが論じたような「世界観音楽」として捉えられると する立場がどうしたら可能なのか、私には見当がつかないのだけれども。

けれどもだからといって、マーラーの音楽の一見したところ力を喪ったかに見える側面、すでに50年も前にアドルノが懐疑の眼差しを向けたあの 肯定的なものが、全くの意義を喪ったと断言することもまた、私にはできない。ショスタコーヴィチの晩年の認識の方が遙かに自分にとって違和感のない ものであるとは感じつつ、マーラーの音楽の反動的なまでに素朴な、だけれども堅固で決して損なわれることのないようにみえる心の動きが、 冷静に考えれば、あるいは客観的にはそれが「思い込み」に過ぎないものであるとしても、私にとって「不要なもの」とは言い切れないのだ。

風景の変化に無関心であることはできない。だけれども、意識が己の有限性を意識した時に一体何を為しうるのかという問いは、既にマーラーのものであったし、 その問題が解決されることはない。なぜならそれは社会的なものである以上に、生物学的なものだからだ。マーラーの音楽はそうした意識の自己反省の 産物であり、その作品はそれ自体、世界観の表明である以前に、かつまたそうである以上に、そうした自己参照的な系なのだ。私はそこに社会が 映り込む様を見たいとは思わない。そこにマーラーが生きた社会が反映していること自体は間違いではないだろうが、私が関心があるのは結局のところ そうした映りこみを可能にした、と同時にそうした映りこみによってもたらされた主体の側の様態の特殊性にあるからだ。

クオリアに拘り、主体の様態に拘ること、マーラーの音楽を「意識の音楽」「主体性の擁護」として捉えることは、かの「主体の死」の、主体概念の解体の 後に如何にして可能なのかという問いには、確かに傾聴すべきものがある。風景の変化に無関心であることはできない、というのは、そうした主体性への 懐疑の過程と結果を、まるでなかったかのようにマーラーを聴くことはできない、ということなのだ。だけれども、そうした主体概念の問い直しの後に、この私に、 儚くちっぽけな意識に一体どのような展望がありうるのかを問うことは可能だし、少なくとも私はせずには居られない。そして実際のところマーラーこそ、 そうした「主体の死」を引き受けて、その上で何を為しうるかを示した先駆ではなかったか。意識は擁護されねばならない。なぜならそれは取るに足らない、 あまりに儚いものだからだ。

例えばバルビローリの第9交響曲の演奏から聴き取ることができるのは、そうした認識であるように思える。この演奏に対して、 今日の演奏技術の高さや、マーラー演奏の経験の蓄積をもって、あるいはまた、録音技術の進歩をもって、かつて持ちえた価値は既に喪われていると 評価するような意見は、音楽の、そして演奏のもつ個別性をどのように考えているのだろう。否、他人のことはどうでもいい。少なくとも私はこの演奏にこそ、 意識自身による己れの儚さと有限性に対する認識と、それゆえ一層切実でかつ説得力に満ちた擁護を見出すのだ。 ここにはマーラーが書いた音楽の実質と、バルビローリの解釈の志向のほとんど奇跡と呼びたくなるような一致がある。 バルビローリとベルリン・フィルのこのかけがえのない記録の特質は、音楽への主観的な没入ではなく、冷静な認識に媒介された深い共感の質の例外性 にあるように思われるだ。そしてそれゆえ、この演奏を聴くにあたって必要なのもまた同じ、瞬間の音響に埋没することない、音楽の構造についての把握と、 まさにそれによって可能になる、音楽が提示する或る種の「姿勢」に対する同調なのではないか。

そのような「感受の伝達」の連鎖は可能だし、それなくして音楽を聴くことに如何程の意味があるとも思えない。ここでは音楽は娯楽ではないし、 演奏を聴き比べて、巧拙を論じ、評価の序列付けを行う批評的な聴き方は、私がこの演奏に接する際には最も疎遠なものだ。 ここでは音楽を聴くことは、まさに自分の(無)起源を認識する行為に他ならないのだと思われる。(2005.7/2007.12)

2002年4月30日火曜日

バルビローリのマーラー:大地の歌・ルイス(Tn)、フェリアー(A)、ハレ管弦楽団

1952年4月2日のラジオ放送のエアチェックのCD化。放送音源のCD化ではない。また第1楽章冒頭の 7小節ばかりを欠く。「買ったばかりのテープデッキを試してみようと偶々エアチェックしたのが この放送であった」という「いわく」もあって、CDのリリース時には大変に話題になったようである。
私は歴史的な記録としての価値によりCDを収集しているわけではないので、そうした経緯から 当然の事として推測される音質への不安と、何より冒頭の欠如のため、記録以上の価値はない ものとして聴くのを永らく控えていた。しかし実際にはバルビローリ協会編集の生誕100年CDが その原則を既に破ってしまっている(その証拠にこのCDを聴くことはない)し、この曲目と 演奏者の組み合わせであれば、記録としてであれ持っている価値があるものと考え、入手して 聴いてみることにしたのである。
結果的には、それは私にとっては「単なる記録」を超えるものであった。確かにノイズもあれば 音とびと思われる箇所もあり、音質的には内容を判断するのに慎重にならざるを得ない程度の ものだろうし、とりわけ極端に狭められたダイナミックスは、本来演奏が持っていたであろう ニュアンスを大きく損なっている。 しかし、演奏は「子供の死の歌」に続く連作歌曲集としてのアプローチでは 際立って説得力のあるものであるに違いないと想像させるだけのものがある。バルビローリ・ ベイカー(バルビローリの「夢」におけるフェリアーの後継者である)による後年の 「子供の死の歌」から受ける感触に極めて近い、というのが私の印象である。(勿論、 この「近さ」は例えば歌唱の質について言われているのではない。音楽に対する姿勢や、 聴こえてくる音の成り立ちに、構造的な同型性のようなものを感じる、といった程度の意味である。)
ここでは東洋趣味は影を潜め、楽音はきっちりとした実質を備えていて、感傷からは程遠く、かつまた 陶磁器のような人工的な儚さとは無縁である。また、多くこの曲に期待される世界観や人生観 「というもの」、恐らく西欧のフィロゾフィーの訳語としてではない語義で日本語でしばしば 「哲学」とか「思想」とか呼ばれるものを読み取ることもできない。従ってこの音楽に、ユーゲント シュティル的な異国趣味といった時代的な要素を欲したり、あるいはまた、自己耽溺的な主観の哀傷の ドラマや、ある種の世界観の表明を読み取ることを望むなら、この演奏はその期待にはそぐわない だろう。

ここにあるのは、過ぎ去ったもの、あるいはかつて起こり得たかもしれないものに対する眼差しで あり、それが過ぎ去ったものであり、今や(子供の死の歌についでまたもや)「もはやかつての ようではない」という認識の感受なのだ。最終曲の管弦楽の間奏はその断絶の意識そのもの であるかのようだ。そして、断定は控えたいが、この演奏の終結部は、感覚的に聴き手を どこか余所の場所に連れて行かないように感じられる。どこかに還りつくこともない。 (もう一度第9交響曲においてそうであるように)もう自分が何処にいるかもわからず、 でも最後まで主観は「ここ」にあって、もともと永遠であるはずのないもの、はかなく、とるに 足らないもの、かつて確かに見た、もの言わぬきらきら輝く眼差しに対して、そのもう戻らない 経験に対して、それでもなお永遠たれ、と願うのではなかろうか。

バルビローリのマーラー:歌曲集・ベイカー(MS)、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団・ハレ管弦楽団

エルガーでも海の絵がそうであるように、否、それ以上にマーラー演奏における歌曲集の 価値は大きいだろう。他のどんな演奏にもまして、親密で気持ちの隅々まで行き届いた この演奏は、マーラーの細密画のような管弦楽伴奏歌曲集に相応しい。
「子供の死の歌」「リュッケルト歌曲集」「さすらう若者の歌」という収録された音楽に 通底するのは孤独感だろう。その孤独の持つ質は驚くほど多様なのだが、その多様性もひっくるめて その孤独感をここまでくっきりと表現した演奏を私は他に知らない。勿論これらの名曲に他の名演が あることを知らないではないのだが、その表現の深さと純度、演奏の徹底ぶりにおいて、この演奏は 群を抜いていると思われる。
とりわけ「私はこの世に忘れられ」を含む中期のリュッケルト歌曲集の響きは細やかさと濃密さとを 兼ね備えた驚異的なもので、こんなに雰囲気のある演奏を他に知らない。

リュッケルト歌曲集のうちのある曲を聴くと、そのありようがバルビローリにとって 憧憬の対象だったに違いないディーリアスの演奏を思わせるようなものであることを感じる。 バルビローリの管弦楽伴奏の特徴は、むせ返るような、耽美的なまでの美しさだ。 バルビローリのマーラーの録音は、その晩年に集中しているが、同じマーラーの交響曲や、 例えばエルガーに見られるような表現主義的ともいえるような緊張感は、 この演奏にはない。意識の音楽という基本はここでも変わることはないが、 ここでの主観は、自分の外へ降り立たんばかりに世界の表情の感受に耽っているようだ。 こうした直接性はバルビローリにおいても例外的ではなかろうか。至福に満ちているのは そうした主観の在り様そのものであって、決して描出される対象ではない。そして ここには交響曲演奏では垣間見ることができた永遠はなく、刹那的といってもよいような 現在があるばかりだ。勿論そうした様態は、時間の経過の中で結局は移ろい行き、 主観はいずれは目覚めるには違いない。そうした有限性の意識があればこその憧憬 なのであって、それゆえバルビローリのリュッケルト歌曲集の演奏は、単なる音画であることが できない。そうした感受を特別なものとして味わいつくそうとする負荷こそが バルビローリの演奏のまごうかたなき徴であって、それを鬱陶しいと感じるかどうかで、 この演奏の評価は分かれるのではないかと思われる。個人的には勿論、そうした負荷が ないマーラーには何か物足らないものを感じているので、結果的にはバルビローリの演奏が もっとも納得の行く演奏ということになっているのである。

より透明で痛々しいまでに繊細な初期の「さすらう若者の歌」においても、室内管弦楽的な書法を 扱うその手つきはこれ以上望むべくもない、徹底したものだ。とはいえ、それはしばしば 今日のマーラー演奏が陥る、解剖さながらの顕微鏡的な精密さの持つ露悪趣味の対極にある。 多分それには音楽と演奏者の距離感のようなものが影響しているのではないかと思う。
第1交響曲がそうであるように、「さすらう若者の歌」のあまりのナイーブさは、そのむき出しの 凶暴さもろとも、ここでは些かも損なわれることなく表現されている。些かの人工臭もなく、 今、その場で生まれたかのように生き生きとした表情を持った音楽は、しかし実際には 極めて知的でよく抑制されたベイカーの歌唱と、いつものように極めて周到な事前のプランに 基づくバルビローリの徹底した解釈により成し遂げられているのだ。 最初の一音符から最後の音が鳴り終えるまで、聴き手は息をこらして聴き入るしかない。 まさに時の経つのを忘れて、「この世に忘れられ」て音楽に聴き入るしかない。

バルビローリの管弦楽伴奏による連作歌曲集はおかしな喩だが、浄瑠璃に似ていて、音楽が澱みなく 流れていくうちに語り手の心情と、いわゆる「模様」とが描き出されていくように思う。 風景が語り手の中に入り込み、そして心理状態によって風景が変容するのが、 余すところなく実現されている。魔法のような春の野辺がそこに出現する。 空気のもつほどよい湿度、ときおりそよぐ、ややもすると肌寒さを感じるような爽やかな風、 透明な光のなかの風景が音楽によって描き出されていくのだ。
勿論、これは描写音楽ではない。 それは例えば能の囃子や謡が風景と心情とを何もない舞台に表出してみせるのに似ていると思う。 幸か不幸か、この録音には映像が残されていないので、丁度素浄瑠璃を聴くような感じで 物語を追うことになる。バルビローリの演奏では 優れた名人の浄瑠璃や謡を聴くのと同じように、ただ聴き入りさえすれば、そこに心象と風景が 立ち現れ、それを眺めているうちに一気に全曲を聴いてしまうことになる。風景といっても、 ここで外付けで映像をつけることなど考えられない(そもそもが音楽のもともとの文脈に忠実であること など眼中にないヴィスコンティはともかく、ラッセルのあの醜く、音楽に対して不当というほかない 惨憺たる映画、あるいはこれまた音楽を裏切ることにしかなっていないように見えるバレエの振り付け などの例を思い浮かべても良い。)そうではなくて、演奏会の、あるいは録音セッションの模様を伝える 画像つきのメディアも最近は珍しくないが、バルビローリを聴くのであれば、 そしてベイカーの歌唱を聴くのであれば、音だけの方が良いかもしれないくらいだ。
ベイカーの声の質も、バルビローリの紡ぎ出す音楽の持つ雰囲気とあっており、過度の官能性や 感情表現のくどさからは程遠い。その知的で温かみのある歌唱は、逆説的に作品の背後にある むき出しの傷を浮かび上がらせるゆえに、その歌を聴くのが逆につらくなりもするだろう。
能や浄瑠璃でもしばしばそうであるように、歌詞の陳腐さは取るに足りない。演奏がそれを 真正なものにしてしまうからだ。思弁をさそうような含意も、語り手の心理を分析してみせる 怜悧さも、フィクションを対象化する醒めた視線によって描き出される官能性もここにはない。 一つ一つの音が耐え難いまでの緊張と溢れんばかりの感情の負荷を帯びて、音楽は劇的な頂点で 荒々しいまでの力で聴き手の息を奪い、突き抜けて行く。

「子供の死の歌」について語ることは私にとっては不可能だ。これは聴いてみてくださいと 言う他ない。そこに込められた感情の深さが、かえって中心にある空虚を剥き出しにしてしまう、 ほとんど残酷と形容したくなるような凄みがこの演奏にはある。丁寧で気品に満ちた歌唱なのに、 優しく温かみのある血の通った管弦楽伴奏なのに、あるいは、それゆえに。
例えば「こんな嵐に」は嵐の激しさをそのまま写しとりはしない。その嵐の前に立ち尽くす人間、 嵐の中でなす術もなく、かけがえのないものを喪ってしまう経験こそが表現されるのだ。 終曲、第1曲でも響いたグロッケンシュピールの響きとともに音楽が静まっていき、ついに音楽が ニ長調に転じて始まる子守歌の部分では、音楽はそこで鳴っているのに、ずっと遠くから聴こえるように思われる。
私の主観的な見方かも知れないが、この曲の悲しみは、実にこの子守歌で頂点に達するのだ。 この子守歌には、喪失の受容と諦観が伴っている。意識は天国にはない。 意識は地上にあって、いなくなってしまった子供が神様に守られている天国のことを思うのだ。 安らぎはここにはない。喪ったものはもう、元には戻らないから。 嵐が過ぎた後というのは、その前と同じではない。もはや全てが前とは異なっているのだ。
演奏時間にしてたった30分足らずの5曲よりなる歌曲集だが、この演奏を聴き終えると何かが すっかり変わってしまったような気持ちになる。

(些か恥ずかしい話だが、個人的には、とりわけ「子供の死の歌」をこの演奏で聴いて涙を堪えるのは 非常な難事で、だからこの曲をコンサート会場で聴くのはちょっと怖くてできないと 思っているほどである。能や文楽のようなものであれば演奏会場で涙を流しても咎める人は いないだろうが、そういう意味では、是非はともかくとして、事実として、私はマーラーの音楽をほとんど、 能や文楽のように聴いているのだという事になるのだろう。勿論クラシック音楽であっても、メンゲルベルクの あの「マタイ受難曲」ライブのようなケースもあるけれど、今の日本のコンサートホールの在り様を 考えると、やはり些かの違和感を感じずにはいられない。これは「子供の死の歌」に限ったことではなく、 マーラーの音楽全体に言えることで、ある時期以降、マーラーを聴くためにコンサートホールに足を 向けるのを躊躇っているのは、そうした要因が大きい。最後に聴いたマーラーは、もう15年以上前の 第6交響曲だが、このときもまた自分の情緒的な反応をコントロールするのにひどく苦労した、 否、完全にはコントロールできなかったのを覚えている。第6交響曲もまた、私にとってそういう意味で 「確実」な、外れのない音楽なのだ。「はしたない」「上品でない」と批難されるかも知れないが、 私はマーラーをそのようにしか聴けない。そしてバルビローリのマーラーはそうした私の聴き方を 咎めるようなタイプの演奏ではないように感じている。)

バルビローリのマーラー:第4交響曲・BBC交響楽団(1967)

BBCがリリースした、1967年のプラハでのライヴ録音。
1970年の第2交響曲とは異なって、ここではバルビローリの演奏の持つ考え抜かれた緻密さを 窺い知ることができる。第4楽章に置かれた歌曲のために前に3幅対の絵を備えたような構成を 持つこの作品は、意図的に軽く設定された管弦楽編成もあって、室内管弦楽的な書法が目立つ。 そのためもあってかフレージングや音色の重なりや交代にバルビローリの繊細な配慮を感じ させるものになっている。
この曲はその(あくまで相対的に、だが)簡素な見かけと異なって、謎めいた部分の多い曲で、 どうやら一筋縄ではいかないようだ。第3交響曲のフィナーレが拡大され独立したものであると いう構想上の経緯は有名だが、確かに、叙事的な広がりを志向してきたそれまでの曲と異なり、 丁度象嵌細工のように、その一部に嵌め込まれてしまうような自らを外に対して限定しようと する動きと、そのかわりにその内側に重層的な構造を持たせて、驚くほどの奥行きを示す 動きとが相まって、思いのほか複雑な様相を呈しているせいか、なかなか説得力のある演奏に いきあたらない。勿論、凝ろうと思えば幾らでも凝れるし、ごく素直にあっさりやることだって できるのだが、いずれにしても音楽と演奏の間に不思議な距離感のようなものが生じてしまう ことが多いように思える。
バルビローリの演奏は、その個性的な演奏様式のせいで、ここでもスタンダードとは言いがたい かもしれないが、この曲の不思議な曖昧さを、分析して提示して聴き手に理解させるのではなく、 「感じ」として経験させてしまうという点では水際立った演奏だと思う。 一言で言って、この音楽の持つ陰影をはっきりと浮び上がらせた演奏と感じられる。 第2楽章がアイロニーに陥らない代償であるかのように、第4楽章のコーダは、ここでは隈なく 晴れ上がった天空の下にはないかのようだ。この音楽は、一体「どこで」鳴っているのだろうか。
日本人の私はついつい忘れてしまいがちなのだが、バルビローリの音楽は、マージナルなものに 対する豊かなキャパシティがある代わりに、無国籍的で根無し草的な側面も併せ持っているように 思える。その奇妙にニュートラルな「所在無さ」が、例えばブルックナーの場合とは異なって、 音楽の実質と一致し、ここでは違和感の無さに寄与しているのかも知れない。

バルビローリのマーラー:第3交響曲・ハレ管弦楽団(1969.5.3)

この演奏もまた、第7交響曲の演奏と並んで大変な名演としてその存在を知られていながら ようやく最近になってBBCによりリリースされたもの。EMIがベルリン・フィルとの同曲の ライブの販売を検討したため、このハレ管弦楽団との演奏が日の目を見る機会を喪った というエピソードがリーフレットに記されている。実際にはベルリン・フィルとの 演奏もお蔵入りになり、結局はハレ管弦楽団とのこの演奏に些か遅れてCDになった ようであるが。
この曲はその異形ともいえる構成にも関わらず(もしかしたらそれゆえにか) 今日的な名演に恵まれた名曲ということになっている。 (ただし、数少ない実演を聴いた経験からすると、第2や第7もそうだが、こういう 「風呂敷を広げたような」曲の場合、実演で説得されるのはなかなか難しい。 マーラーなら第9ですら難しく、一番間違いのないのは第6交響曲ではないか。)
実際に聴いてみると、名演の噂というのは偽りでないことがすぐにわかる。
第1楽章は「マーラー的な」ポリフォニーの実現という点では、これまでに聴いた どの演奏にも勝る。技巧的にはよほど確実で危なげない整然とした今日の名演の数々と 比べて、自由に歌う各パートがぎっしりとひしめく様は些か異様ですらあるが、 その肌触りの確かさは格別のものだ。ここではバルビローリの運びの巧さは際立っていて、 もはや弁証法的な展開とは隔たって、かわるがわる立ち現れる音楽達が形作る緩やかな布置が これほど自然に、有機的に立ち現れる演奏を他に知らない。
中間楽章においても、その音楽の今そこで生まれたばかりのような瑞々しさと、 模様の移り変わりの巧みさが際立っている。個々の楽章の性格的な描き分けや、 微細な細部のバランスとかにおいて、今日の名演がより勝っているという見方もあるだろうが、 その響きの手応えという点で、これだけ実質的な演奏を思い浮かべるのは難しい。 どういうべきか、一つ一つの音の持つ次元が遥かに豊かな感じがするのだ。演奏の精度や 場面の描写の克明さにおいては一歩譲ることがあっても、ある種の経験の質の把握において 勝っているように思えるのである。
第5楽章においては、中間部の照明の変化が鮮やかである。解釈が同じベルリンでの ライブでもそうだが、単にテンポが変動するのはない。寧ろ、突然口をあけて広がる 深淵のような暗礁を目前にして、歌い方から響きの質まで変わってしまう、その変化の 図式の逸脱をものともしない鋭さは、よりクリアだったり、シャープだったりする 近年の演奏では、なかなか出会うことができない質を備えていると思う。
第6楽章のアダージョについても同じことが言えるだろう。感覚的な美しさにおいて 今日より優れた演奏は幾らでもあるし、アダージョという楽章の性格を踏まえてもっと ゆったりと、時間が停止してしまうように演奏をするのが普通であろう。 バルビローリの常で、決して停滞しない、しかも頻繁に変わるテンポは、しかし決して 「平安に満ちて、感動的に」というマーラーの指示を裏切らない。足早やなコーダの 歩みも平安と感動に満ちたものである。この演奏は、音楽の実質が決して感覚的な 平面「にのみとどまる」ものではないという、多分今やアナクロニックと呼ばれるで あろう「内面性」への確固とした信頼に満ちている。

バルビローリのマーラー:第3交響曲・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1969.3.8)

上述のハレ管の演奏と同じ年の約2ヶ月前のベルリンでのライヴ。これはステレオ録音で あり、第2番、第6番のライブと音響上の印象はやや異なる。
興味深いのは、ハレ管弦楽団との録音に比べてこちらの方がテンポがゆったりとしていることだ。 それでいて全体の印象としてはハレ管との演奏の方が「ゆらぎ」が大きい印象がある。 ただしこの曲についてはベルリン・フィルの演奏でもはっきりとわかる事故は起きているし、 私の印象ではハレ管の方が少なくともバルビローリの様式の表現という点では勝っている ように思われる。
けれどもそれと演奏から聴き手が受け取る感動はまた別の次元の問題だ。感動の度合いは ハレ管の演奏と甲乙つけ難いものがある。特に第6楽章において第1楽章が回想される「深淵」の部分を 過ぎた後、練習番号25番から始まる最終部分、とりわけ練習番号28のImmer breiter以降の ベルリン・フィルならではの豊かな響きとゆったりとしたテンポ設定が相俟った音楽の 高潮は圧倒的なもので、オーケストラが「入った」状態になるのが録音を通してすら 手にとるようにわかる。聴いていて、いわゆる「ぞっと身震いが起きる」瞬間だ。
例によって足早な、けれども確信に満ちたコーダは真に「感動的な」もので、その感動は 恐らく指揮をしているバルビローリも含めた奏者も、会場の聴き手も共有したものに 違いない。会場の深い感動までありありと伝わる貴重な記録である。その感動を35年も 経った後に、遠く隔たった地で共有するのは考えてみれば不思議な経験である。
決して演奏の精度は高くないし、録音の状態も良いとは言えず、加えて様式的には 個性的過ぎて、受け入れ難い向きもあるかとは思うが、感動の深さにおいてはバルビローリの ライブの演奏記録の中でも屈指のものではないかと思う。

バルビローリのマーラー:第2交響曲・シュトゥットガルト放送交響楽団(1970)

1970年4月のライブを南西ドイツ放送局が録音したものが最近CDになってリリースされたもの。 バルビローリはいわゆるスタジオ録音ではこの曲を残していないので、この曲に関しては 貴重な音源だ。オーケストラがシュトゥットガルト放送交響楽団というのも珍しい。 特に晩年のバルビローリはベルリン・フィルやウィーン・フィルだけでなく大陸の 色々なオーケストラに客演しているようで、最近、そのライブ録音がリリースされる ようになった。
この演奏はライブ特有の演奏上の疵が聴く人によっては許容範囲をはっきりと超える程 大きく、CDでの観賞の妨げになる場合もあるのではと思う。私はあまりそういう疵に 頓着しない方だが、流石にこの演奏は些か気になってしまった。
これまた最近リリースされたコンセルトヘボウ客演の記録も、疵というか、意思疎通の 限界のようなものが感じられるように感じられ、気になったのだが、バルビローリの ような本来、入念な準備によって緻密で、幾分個性的な解釈を与えていくタイプの指揮者の 場合、客演での演奏は必ずしも常にバルビローリの意図を徹底するに至らない場合もあるのでは なかろうか。必ずしもライブがだめで、(かつては可能であった)スタジオでの入念な 作業なしでは真価が発揮できないというわけではないのは、BBCからリリースされている他の ライブ録音で聴かれる見事な演奏が証している。例えばハレ管弦楽団のような、バルビローリの 個人的な様式に馴染んだオーケストラが、バルビローリとともに弾き込んだレパートリーを やれば、スタジオ録音を上回るような充実した演奏が可能なのだ。
それではこの演奏は全く価値がないのかと言われると、それは決してそうではない。 勿論バルビローリの演奏スタイルが無上の説得力を生み出す瞬間がそこかしこにあって、 演奏会場にいて聴いたら、確実に圧倒されたに違いない。些か大仰で下手をすると 空虚にさえ響きかねないフィナーレ(私はさる実演でしらけてしまうという、信じがたい 経験をしたことがある。)は、ここでは確かな手ごたえを持っている。
かつてマーラー自身がこの曲を振った時にも、本人の頭痛のせいもあって演奏の制御が十分で なかったにも関わらず、奏者も聴衆も圧倒されたというエピソードがあったと記憶しているが、 それを思い起こさせるような、大変な力に満ちた演奏である。

バルビローリのマーラー:第2交響曲・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1965)

1970年のライブに続いて今度は1965年のベルリンフィルとの演奏がCDでリリースされた。 こちらはモノラル録音だが聴くのに大きな支障は感じない。ただしこのような大規模な 作品の場合、特にフィナーレの頂点の部分のダイナミクスや音響のバランスが損なわれて しまうのは致し方ないこととはいえ、残念なことではある。
演奏自体についていえば、単純に「事故」が少ないだけであったとしても、録音されたものを 繰り返し聴くということになればそれなりの価値を持つことになるのだろうが、それだけで なく、合奏の精度の面からも、バルビローリの意図の実現という面からも、 1970年の録音に比べて全体としてこちらの方が成功していると感じられる。
解釈の基本線に大きな隔たりはない。ただしオーケストラの体質のせいもあってか、 バルビローリの持っている資質のうち、念入りな歌いまわしよりは、わかりやすく ストレートと言っても良い、率直な曲の運びの方が前面に出た演奏に思える。 表現も叙情的である以上にある種の鋭さを備えていて、聴き手の心に突き刺さるかの ようだ。フィナーレの音楽の高潮は真正なもので、実演ですら一度ならず「取り残された」 経験のある私は(些か大げさだが)救われたような思いで聴いた。
私はこの演奏を聴いてみて、バルビローリの特にマーラー演奏におけるオーケストラの 資質の寄与の大きさに改めて気付かされた。恐らく第3交響曲や第6交響曲では、 前者のハレ管弦楽団、後者の(スタジオでの)フィルハーモニア管弦楽団と、 ベルリンフィルとの比較によって、それがよりはっきりするのだろうが、 そうしてみると第9交響曲がベルリン・フィルとの演奏のみで残っていることが 個人的には残念な気もする。スタジオ録音にはレコード会社のラインナップ上の 制約が働くので仕方ない部分もあるのだが、ハレ管弦楽団とではなくても、 例えばフィルハーモニア管弦楽団との第9交響曲はどんなものになっただろうか、 という思いを禁じることができない。これはベルリンフィルとの演奏に不満があると いうことではなく、フィルハーモニア管弦楽団のようなイギリスのオーケストラとの 演奏であれば、ベルリンフィルとの演奏では前面に出なかった、バルビローリの 持つ別の側面、例えばあの素晴らしい第5交響曲に現れていた資質がはっきりと 現れた演奏になったのではないかと思うのである。

バルビローリのマーラー:第1交響曲・ニューヨーク・フィルハーモニック(1959.1.10)

バルビローリの指揮した第1交響曲の演奏の記録としては、スタジオ録音の他に、1959年1月10日に「古巣」であるニューヨークフィルハーモニックに客演した際の カーネギーホールでのライブ録音が残っている。 (ニューヨークフィルハーモニックによるマーラーの歴史的演奏の記録のセット中に収められている。) バルビローリの解釈が事前に非常に緻密に練られたものであるがゆえに、これに先立つハレ管弦楽団との スタジオ録音と大きな解釈の変化はないが、ニューヨークフィルハーモニックという、マーラー自身が晩年にまさにこの作品を 指揮をしたこともあるオーケストラによる演奏でもあり、その一方で、常任指揮者としての在任中は1939年10月26,27日と12月16,17日の2回、 第5交響曲のアダージェットのみしかマーラーを取り上げなかったバルビローリが、戦後になって1952年にカーダスに薦められて以来、マーラーに 本格的に取り組むようになってから初めて「古巣」でマーラーを取り上げたという意味でも大変に興味深い記録である。 (バルビローリは1962年12月6,7,8,9日に再び、今度はフィルハーモニック・ホールでニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して第9交響曲の 演奏をしており、12月8日の記録が残っているので、これは別に取り上げたい。)

更に加えて、こちらの演奏には非常に印象的なエピソードが残っている。戦後アメリカに定住した アルマが、この1959年の客演時のリハーサルとコンサートを聴いているのである。演奏後バルビローリに 会った彼女は、バルビローリに「私の偉大な夫を再び見、そしてその演奏を再び聴いたような思いがした」 「まるでマーラー自身が指揮をしているかのようだった」と語ったと伝えられている。 (ケネディによる伝記ではp.266、バルビローリ夫人による回想録ではp.152を参照)。

無論、これはいわゆるアネクドットの類を超えるものではないかも知れないし、 アルマの評価というのも随分と気まぐれな部分もあったようだが、それでもなお、 50年前に同じオーケストラで作曲者である自分の夫自身が指揮した演奏を彼女は 確かに聴いていたことを思えば、バルビローリの演奏のどこかに、マーラーその人と通じるテンペラメントを 彼女が見出したのだ、と想像することはあながち不当なこととは言えないように思える。 1957年のスタジオ録音でも、その同じテンペラメントは聴き取ることができるに違いない、と私には思われただけに、 非常な期待を持っていたのだが、実際にその記録に接した印象は、事前の期待を裏切らない、素晴らしいものであった。

演奏会自体は1月8,9,10,11日の4回行われ、そのうちの3回目の10日の演奏会の模様が放送用に収録されたものが 記録として残っており、モノラルではあるが状態は比較的良く、それほど聞きにくくはない。会場のノイズも拾われていて、 臨場感には事欠かないし、終演後の客席と感動を共有できるのは、それが録音を通じてであれ、半世紀の時と場所の隔たりを越えての ことと思えば感慨深いものがある。その客席にはアルマもまた居た筈であり、こうやって録音を介して記憶の継承に与れるのはやはり素晴らしいことであると 思わずにはいられない。

終演後の客席の熱狂も含め、これはエピソードが伝えられて当然の素晴らしい演奏であり、マーラーが晩年の1909年12月16, 17日に 同じカーネギー・ホールでニューヨーク・フィルを指揮して若書きのこの曲を自ら取り上げたとき(これはこの作品のアメリカ初演でもあった)の印象をワルター宛の書簡 (1996年版書簡集429、これはアルマの回想の付けられた書簡選でも採られていて、ミッキェヴィッチの「葬送」の引用を含むことで有名な書簡である)にて述懐しているが、 その印象を彷彿とさせるような圧倒的な力を感じずにはいられない。弦楽器のフレージングやポルタメント奏法の徹底などにいつものバルビローリの入念な準備が 窺えるが、随所に見られる大きなテンポの変化やルバートが自然に処理されているのは、このときは客演とはいうものの、かつてバルビローリがフルトヴェングラーの代役をかって、 短期間であれこのオーケストラの常任であったことにもよるだろうし、マーラー・オーケストラであり、2度の戦争を挟みながらマーラーを演奏し続けてきたオーケストラがマーラーの 音楽を十二分に消化しているということにもよるのだろう。

印象に残る部分は枚挙に暇がないが、特に第4楽章の2度ある突破のうちの最初の激発が収まったあと、第1楽章冒頭を回想する箇所の回想の時間性の眩暈を起こさせるような深み、 全く異なる時間の流れにふと落ち込んだような対比の鋭さはバルビローリの解釈の真骨頂を示すものだろう。第1楽章展開部後半を再現した2度目の突破からコーダに至るまでの音楽は、 まさにマーラーが書簡で語った「造物主への嘆願」であると感じられるし、アルマが50年近い時を隔ててこの演奏にマーラーその人を聴き取ったとしても不思議はない、 勿論、我々はマーラー自身の演奏がどうであったかを知る術はないけれど、確かにそれに迫る何かを備えていることを確信させる演奏の記録だと思う。

一方1959年のニューヨークでのコンサートは、今日ではDover版などで確認できる古い版にほぼ従った演奏のようであるが、興味深いことに、 ここにおいても2年前のスタジオ録音と同じく第4楽章冒頭の主題提示の開始部分でトランペットによる補強がはっきりと聴き取れる。一方で練習番号44番前後の シンバル打ちについては1906年版にしたがっているようだ。この点で特に印象的なのは、相対的にゆっくりと、踏みしめるように無骨に演奏される第2楽章レントラーの 再現部分の練習番号29番の4小節後からティンパニが主題のリズムをフォルテで強打する部分で、この作品の成立史を知る者にとっては交響詩「巨人」のフラッシュバックであるかの ような印象を覚え、はっとさせられる。第1楽章の序奏の練習番号2番の4小節前のTempo I に対して、その直前にクラリネットが奏するカッコーの音型の 最後の繰り返しを、楽譜の指示(これは1906年版で既に確認できる)に従わずにTempo I に従うことや第1楽章の提示部反復を省略したりするなどは1957年の ステレオ録音と共通するものであるが、随所で聞かれる違いについてはニューヨーク・フィルハーモニックが所有しているであろう楽譜に基づくものである可能性が 高いように思われる。ニューヨーク・フィルハーモニックは2度の大戦を挟んで、一旦ヨーロッパでは中断しかかったマーラー演奏の伝統を継承してきたオーケストラだし、 マーラー自身が晩年、この作品を指揮した際に使用した楽譜がライブラリに保管されているようなので、この演奏にもそれが反映されている可能性は充分に あるわけである。ちなみにニューヨーク・フィルハーモニックのライブラリ所蔵の楽譜は1899年のヴァインベルガーのもののようだが、恐らくマーラー自身が演奏したとなれば 1906年版に反映された変更も含め、その後の改訂の結果が反映されていると考えるのが自然であろう。この演奏のどの部分がそうした伝統に属しており、あるいは バルビローリ独自のものであるのかも含め、事実関係については現在の私には確認の手段がないのでこれ以上のコメントは控えるが、いずれにしてもそうした様々な 歴史的な脈絡の交錯の中で実現した稀有の記録の一つであることは疑いを容れないと考える。

バルビローリのマーラー:第5交響曲・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1969)

第5交響曲は、かつてのいわゆる「マーラー・ルネサンス」において頻繁に取り上げられ、 今や代表曲の一つとして定着した感じがあり、演奏の数も録音の数も大変に多く、 すっかり「現代的な」演奏の型のようなものができあがった観のある曲であり、 それゆえこの演奏を最初に聴いた時には、ある意味ではあまりに「危なっかしい」 テンポの揺れ、とことん各声部が歌いきろうとするあまりにともすれば曖昧になる 縦の線に驚いたのだった。
しかし結論から言えば、この演奏はこの曲の最高の演奏、決定盤だと思う。 実際のところ、他の曲は他の演奏スタイルもありうるかと思わないでもないのだが、 この曲は(そして恐らく第1交響曲もだが)他の演奏を聴く必要がないと感じさせるような 説得力がある。バルビローリの演奏は、この曲の解釈の中では最も叙情的なタイプに 属するのであろうが、そもそもこの曲が構造的には借用しているベートーヴェン的な 構想がその実質においても実現されうると考える立場には私が懐疑的なこともあり、 音楽の実質に見合っているという意味でこれに勝る演奏はないように感じている。 (この曲は作曲技法の観点は措くとして、その実質においては寧ろ後ろ 向きで回顧的な色合いが強いように私は考えている。マーラー作品中のある種の折り 返し点、停泊地のような作品ではないだろうか。例えばブラームスやブルックナーと 比べるまでもなく、マーラーは精神的にはベートーヴェンの後継者でありえたかも知れないが しかし、実際にはその音楽の実質はあまりに脆いものだ。そしてその脆さは寧ろ晩年の シューベルトに通じているように思える。)そしてそれゆえ印象的な部分にも 事欠かない。例えば、第2楽章の終わりにまるでブロッケンのように浮かび上がっては 霞んでいくコラールの朧な輝き、描写音楽ではないかと思うほど強烈な雰囲気を 持つスケルツォのホルンパート、そして、バルビローリの常で決して停滞しない アダージェットの静まり返る瞬間に広がる空間。第5楽章冒頭の(多くの場合 アダージェットからのテンポの変化で片付けられてしまう)空気の変化の鮮やかさ、 そしてこれ見よがしに合奏能力を誇示することなく、寧ろ、冒頭の木管の音色の 変奏であるかのようなその後の経過など、枚挙に暇が無いほどだ。
勿論、この演奏の特に終楽章の解釈は今日的な、オーケストラの合奏能力を最大限に 発揮させるタイプのものとは全く異なるが故に、受け入れ難い向きも多いだろう。 一方で、他の演奏で何となく第5交響曲に違和感を感じたり、説得力の欠如を感じる のであれば、この演奏がその回答になる可能性があるように思える。

バルビローリのマーラー:第1交響曲・ハレ管弦楽団(1957)

LPでのリリースが知られていながらCD化されていなかったものをバルビローリ協会が 復刻したもの。1957年6月11,12日にハレ管弦楽団の本拠地であるマンチェスターの 自由貿易ホールで録音され、Pye Recordsからリリースされたものである。

この曲は、マーラー演奏が「普通」になる以前でも相対的に演奏・録音の機会が多 かったのだが、今日ではかえって取り上げられる頻度が減少している感すらある。 恐らくその音楽があまりにナイーブに過ぎて、耳がすっかり肥えてしまい、 マーラーに対してソフィスティケートされたスタンスで対することができる現代の 聴き手には些か気恥ずかしくも鬱陶しくも感じられるのがその理由ではないかと想像される。 或る意味では正当なことだと思うが、もはやこの曲が例えば第6交響曲や第9交響曲と 同列に論じられることはないかのようだ。

こうしてようやくCDで聴けるようになったバルビローリの演奏も、さながら時代遅れの 演奏の典型のように扱われるかも知れない。端的に言えば、マーラーがスコアに指示して いるブラス奏者の起立が違和感無く行われるタイプの演奏だ。ここでもバルビローリは、 マーラーの交響曲の小説的な脈絡を、心理的な流れを重視した演奏を行っている。 第1楽章提示部の反復もまた、バルビローリの常の流儀で採用されていない。

私はこの演奏を聴いて、昔聴いたアバド・シカゴ交響楽団の演奏のことを思い浮かべた。 これは大変に優れた演奏であったが、奏者の起立のような「スタンドプレイ」は凡そ 似つかわしくない、造形的で引き締まった解釈だった。勿論、第1楽章提示部の反復も きちんと行われていた。シカゴ交響楽団の演奏の精度は瞠目するものがあって、 有名な第1楽章再現部のあのアドルノのいう「突破」の部分の 音響的な鮮明さは特に印象的であったのを思い出したのである。 皮肉なことに、20年以上前の演奏を20年後に聴くことになったわけだが、 バルビローリの演奏のその「突破」の部分は(当然ながら)随分と異なっているようだ。 それは場面の転換・視界の変容というよりは、ある種の眩暈のような、より身体的な 事象のように感じられる。

けれども、バルビローリの演奏の頂点は明らかにフィナーレの、あの「突破」の再現と それに続くコーダにある。演奏の精度や録音技術の限界を超えて、むき出しで飼い馴ら されていない力を感じさせるその音楽は、恐らく、晩年にニューヨークでこの若書きの 自作を指揮した作曲者自身が聴き取ったそれに通じるものがあったに違いないと 思わせるものを持っている。第9交響曲のようなエピソードに彩られているわけでも ないし、第6交響曲のように目立った特長もない、そして楽曲のあまりの素朴さの代償に 色々と施されるかもしれない細工もない演奏ではあるが、にもかかわらずこの演奏は ある種の極限であって、必ずしも出来の良いとは言えないこの作品の理想的な解釈で あるように思える。もうこの曲を頻繁に聴くこともないのだが、この曲に関しては この演奏があれば充分、他の演奏を敢えて聴こうとは思わない。

なおこのバルビローリの演奏で興味深いのは、1957年の録音にも関わらず第4楽章冒頭の主題提示の 開始部分でトランペットによる補強が確認できることである。これは全集版での演奏が定着した 現在では当然のことのように思われるかも知れないが、1906年版では存在しないし、従って全集版 以前の演奏では木管とホルンだけで演奏される場合も珍しくないのである。
同じことは練習番号56番からのホルンの旋律の補強が全集版によっているように聞こえることからもいえるだろう。 バルビローリの演奏でもう1点興味深いのは1906年版にない練習番号44のシンバルの一撃が採られているだけでなく、 その3小節前の頭拍にもシンバルが打たれているのが確認できることで、これが使用楽譜によるのか、 「現場の判断」によるのかはわからない。いずれにせよそうしたところにもバルビローリの準備の入念さと 解釈の徹底が窺えるし、それは実現された演奏の比類ない質に貢献しているに違いないのである。

バルビローリのマーラー:第6交響曲・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967, プロムスライヴ)

録音記録があることは良く知られており、正規のリリースが待望されていた1967年8月16日のロンドン、ロイヤル・アルバートホールでの 演奏をBBCが収録したライブ録音である。スタジオ録音とほぼ時期を同じくして行なわれたコンサートでの演奏だが、テンポの設定や解釈は寧ろ 前年のベルリンでのライヴに近い。勿論、オーケストラの持つ特性に応じて、相対的にはスタジオ録音により近いということはできるだろうが。 楽章順も含め、いわゆる第3版に基づく点はスタジオ録音と同じで、ラッツ校訂の協会全集版は採用されていない。また第1楽章のソナタ 提示部反復を行なわないのは、いつもと同じである。
録音の状態は決して良いとはいえないだろうが、演奏は(第3交響曲のハレ管弦楽団の時もそうだったように)、バルビローリの解釈の リアリゼーションの徹底という点で、ベルリンの演奏を上回っていると感じられる。いわゆるライブつきものの事故が少ないだけでも 随分と安心して聴けることは確かだが、スタジオ録音では(どの程度意図的かはおくとして)どうしても曖昧になってしまう楽章間の流れの 一貫性、説得力は圧倒的で、最も理想的なこの曲の演奏の一つであることは間違いない。
楽章順の問題はリーフレットにかなり細かく記載されている。バルビローリとしてはスタジオ録音がレコードとして出る際に中間楽章を 「入れ換え」られたのはやはり不本意であったようだが、私見ではそのバルビローリの楽章排列が彼の解釈と如何に密接に結びついているかを 感じ取れるのは、ライヴ演奏の方、とりわけこのニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのライヴだと思う。
第2楽章150小節のFliessendの指示の後、練習番号62番以降190小節のallmählich wieder zurückhaltend、192小節のZeit lassen!の 指示までの音楽の流れを生み出すバルビローリの読みのユニークさは、とりわけてもこの演奏では圧倒的であるとともにある種の自然さを 備えているように感じられるし、フィナーレの練習番号150番直前のルフトパウゼが生み出す音楽の推進力、そしてその結果もたらされる 練習番号153番でテンポを戻しての主要主題再現の凄みなど、バルビローリの音楽のマクロな流れの読みの深さがライブならではの ドライヴと相俟って強烈な印象を聴き手に残す、素晴らしい演奏だと思う。
勿論、録音状態の制限もあるし、演奏精度だけを単純に 比較すればもっと「巧い」演奏は近年幾らでもあるに違いない。だが例えば、バルビローリの演奏が「不揃い」に聴こえるのは、技術的な限界や 弾きなれていないことだけに由来するわけではないと私には思える。各パートが自分のフレーズを歌いきろうとしたとき、しかも夥しい素材断片の 固有の性格を、垂直的には同時に重ね合わせて実現しようとした場合、管弦楽が単一の呼吸でぴったり揃うことと両立しえないのではないか。 マーラーの交響曲が一つの世界である、というのを比喩として捉えてはならない。そこでの「世界」というのは、例えばハイデガーの「世界内存在」に おける世界であり、それゆえマーラーの音楽は決して孤立した主観のモノローグなどではない。調的配置は依然として決定的に重要だが、 その機能は全く変わってしまっていて、アドルノ的な意味で「唯名論的」にその都度、具体的な楽曲において規定される。そうした在り様を 最も良く聴き取ることができる演奏の一つとして、私はバルビローリの演奏を挙げることができると思うし、その意味でこの演奏の録音は、 そうしたバルビローリの特性が最高のかたちで実現された記録であると思う。

バルビローリのマーラー:第6交響曲・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1966)

1966年1月13日の演奏のライブ録音がCD化されたもの。モノラルであるが、既出の第2交響曲と 比較しても遥かに聴きやすく、私は気にならなかった。
この曲にはニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音があるが、それに比べて 推進力に勝った演奏だ。バルビローリは一般には粘液質の歌い方がトレードマークのように 思われているが、一方で音楽の進行については思いのほかストレートで、剛毅といってもいい ような側面を持っている。この演奏は、その後者がよく現れているというべきか。 ただし、これはバルビローリの解釈の違いではなく、オーケストラの特性の違いに由来する ものだと思う。勿論指揮者は、オーケストラの固有の響きを己の解釈を乗せる媒体として 最大限利用するわけで、バルビローリの解釈というのもその限りでは相対的というか、 流動的な部分が存在するが、この演奏はそうした幅のようなものをはっきりと感じさせる。
演奏は素晴らしい。大きなテンポの変化(マーラーの場合には特に顕著で、それに加えて管弦楽の 編成が大きいので合奏の精度はどうしても犠牲になる。でもこれは選択の問題で、 バルビローリは実演においても「安全運転」を取らなかったということなのだ。)、徹底したフレージング、 一つ一つの音に込められたニュアンスの深さ、どれをとってもバルビローリならではの特性の良く 現れた際立って優れた演奏だと思う。(とはいえ、繰り返し聴くには些かつらい事故もおきている。 例えば第1楽章、練習番号35から36にかけて―特にSostenuto, a tempoの変化とその後の フレーズの頂点でのten.指示によるルバートが繰り返しかかる361小節にかけての部分などは、 アンサンブルが崩壊してしまっている。恐らく、テンポの変化に応じて振り方を変える可能性のあるところで、 客演ゆえにリハーサル時間が限られる限界が現れてしまったのではなかろうか。同様の、 テンポが変わる部分で振り方の変化の有無の判断に混乱が生じたとおぼしきケースは、 同じベルリン・フィルの第3交響曲のフィナーレなども聴かれる。それゆえ、こうした事故が気になって 観賞の妨げに感じられる人には、バルビローリの客演でのライブ録音はお勧めできない。)
第1楽章の展開部後半に置かれた、アドルノ言うところのSuspensionの表現は、これまで 聴いたどの実演にもまして際立っていて、音楽の持つ多層性というのを捉えていると思う。 テンポだけが変わるのではない。ひっくるめて「視界」が、照明が変わるのに応じて、 意識の流れが不連続に切り替わるのである。それは、形式原理からいけば、ある種の逸脱かも 知れないが、ここで音楽が求めているものに忠実ではないかと感じられる。 音楽がそうした逸脱を、不連続に断絶する経過を要求しているのだと思う。
第2楽章におかれたアンダンテは、例によって停滞しない。それは寧ろ自由に漂っている。 均質な意識の状態というのはなく、動機断片毎に固有の速度があるかのように、テンポは揺れる。 終曲間際、音楽は滑り出し、一気に流れてゆく、そして舞い上がったフレーズが旋回を繰り返しながら 着地する頃になって、流れもまたふと緩んで、静けさが戻る。その変化は壮絶な効果を持っている。 その後、第3楽章にイ短調のスケルツォが踏みつけるように進入してくるのもまた、そうした アンダンテの道のりがあってこそ、一層戦慄的なのだ。
尚、第6交響曲については特にアンダンテとスケルツォの順序の問題について触れておくべきだろう。 どちらがマーラーの決定稿かという問題はおくとして、バルビローリの演奏における順序は 今日の標準とは異なり、スタジオ録音も含め、第2楽章アンダンテ、第3楽章スケルツォである。 (スタジオ録音はリリースによってはこの順序を入れ換えた排列に編集しなおしたものが 存在するが、これは少なくともバルビローリの少なくともコンサートにおける解釈において 前提されている順序ではないのは確かなことのようだ。) この順序の選択は、少なくともそのきっかけは、偶々バルビローリが参照した楽譜の エディションがそうであったからという消極的なものかも知れないが、この楽章排列による 演奏は、逆の順序による演奏とその印象において大きな違いがある。(全集版で採用されている 打楽器パートの改変や、1907年1月7日にメンゲルベルクに書き送ったという第4楽章 407~414小節の弦パートの8va指示などにも従っていないことから、ここではバルビローリが 全集版を参照していない、という仮定にたって記述をした。ちなみにハンマーについても、 3度目を打たせているのがはっきりと確認できる。ただしエルヴィン・ラッツ校訂による マーラー協会全集版の刊行は1963年であり、クロノロジカルには、バルビローリが全集版も 参照した上であえて第2楽章アンダンテの排列を選択した可能性もないとは言えない。 管弦楽法の修正の方は、パート譜の準備の問題もあるので、こちらはぐっと現実的な 判断をせざるを得なかっただろうと想像するのが自然に思えるが。 もしそうだとしたら、近年、マーラー協会がラッツの校訂をいわば「修正」し、楽章排列も 元に戻したことと考え合わせると、バルビローリがどのような理由により判断を下したか、 興味深いものがある。)
もともとの古典派交響曲の排列はアンダンテが先行するわけで、マーラー自身の構想の 方には、もしかしたらこの点についての意識が働いたのではと私は憶測しているが、 少なくともバルビローリの演奏においては、その事情はあまり関係がないように思える。 例えば、第1交響曲でもそうであるように、第6交響曲においてもまた、バルビローリはソナタ形式に 従って書かれた第1楽章の提示部反復を行っていない。もっともこれはマーラーに限った ことではなく、より古典的な作品においても事情は同じであって、従ってそこには時代的な 傾向も与っているかも知れないが、いずれにせよ小説的な流れ、劇的な脈絡を 重視したバルビローリの解釈と提示部反復の省略は矛盾していないように感じられる。
それゆえ中間楽章の排列に関しても、寧ろ、心理的な流れとして、長調の第2主題素材により 終結する第1楽章の後に、遠隔調だが長調のアンダンテが続き、再びイ短調のスケルツォの後に、 アンダンテの並行短調のフィナーレ導入が来て、主部でイ短調に戻る、という調性配置の効果が 大きいように感じられる。通常排列のイ短調(コーダは長調)→イ短調→変ホ長調→ハ短調の 導入・イ短調の主部とは流れが全く異なることは明らかだろう。こちらの排列は、ラッツの校訂に 沿ってアドルノが賞賛した配置であり、こちらの「座りの良さ」を評価する意見も故なしとは しないが、バルビローリの演奏は、ここでもまた、一見何時になく厳格な枠として存在しているかに 見えるソナタ形式からの逸脱を重視し、寧ろ枠がしっかりしているが故の断層に加わった力の大きさの 方により忠実なのだと思われる。
また、アンダンテ楽章のテンポ設定にも、楽章排列の違いが現れるに違いない。 それを心理的なものと考えるにせよ、様式的な把握の問題と見做すにせよ、 第2楽章におかれた場合の方が「軽く」、第3楽章におかれた場合の方が 「重く」演奏されることになる。(これは両方の排列いずれにおいても優れた演奏記録が存在し、 比較が可能なマーラー指揮者―例えば、クラウディオ・アバドの場合など―では明確に 確認できることだろう。) バルビローリのテンポ設定は、明らかに第2楽章アンダンテの配置が前提となっている。
バルビローリのこの演奏は演奏会のライブであり、そうした調的な配置やテンポ設定による 流れはスタジオ録音に比べて一層はっきりしている。それゆえ第3楽章スケルツォの冒頭は、 ぞっとするような衝撃を持っている。その動機素材が第1楽章の冒頭と共通するだけに、 アンダンテ楽章を挟んで再開される効果には一段のものがある。 そしてスケルツォ楽章が不機嫌に沈黙した後、ハ短調でフィナーレが始まるのを聴くのは、 通常の排列でこの曲を聴くのとは全く異種の経験である。 スタジオ録音を自分で編集しなおして聴けばいいという意見もあるだろうが、 私個人としては、バルビローリの解釈というのはこの楽章排列が「前提に」なっている ように感じられ、従って、その流れを自然に追うことができるこのライブ録音の価値は 極めて高いものがあると感じている。

バルビローリのマーラー:第6交響曲・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967)

どうやら巷ではこの演奏はテンポの遅さと粘着質の表現が特徴ということに なっているようだが、しかし、私が聴いた印象では、今日風にデジタルにクリアな 演奏ではないというだけで、バルビローリの狙いは、悲劇的なドラマの拡大鏡的な 再現ではなく、音楽の叙情性をぎりぎりまで追い詰めることにあったように 思えてならない。例えば、第1楽章の有名なモットーの鳴らし方も、強弱の対比 よりも音色のコントラストの方にウェイトがあるように思われ、悲劇によって 喪われるものよりも、その後に残るものに関心があるということを窺わせる。
あるいはまた、バルビローリの演奏についてしばしば言われる、「フィナーレの弱さ」なるものも、 ある規範の下での判断としては一理あるのかも知れないが、バルビローリがこの音楽に 何を読み取ったのかを思えば無条件で首肯しがたいものがあるように感じられる。 否、心理的、内容的な側面を捨象した平面においてすら、ラッツ=アドルノの― ということは、近年までのこの曲の恐らくは大半の解釈が前提としていた―「フィナーレ交響曲」の 構想が、中間楽章の配置に対する前提の変更によって、更により本質的にはそれに伴って 生じる調性配置の構想の再考によって一体どのような変化を受けるのかを検討することなく 第3楽章アンダンテ型の演奏と性急に比較することに、私は疑問を感じる。 (同じことは、例えばレークナーの演奏にも言える可能性はあるが、レークナーの演奏に ついては、私は判断ができるほど聴いているわけではないので断定は控えたい。)
もっとも、バルビローリは恐らく、このスタジオ録音に関してはラッツの校訂版を少なくとも 参考にはしているようだ。というのもベルリン・フィルとのコンサートでの演奏とフィルハーモニア管弦楽団との スタジオ録音には、多少の違いが聴かれるからである。 それが最も顕著なのは、ベルリン・フィルとのライブでは打たせている3度目のハンマーが フィルハーモニア管弦楽団の演奏では削除され、改訂版のチェレスタが聴かれること だろう。一方で終楽章の407小節以降の8vaについては採用されておらず、 従って、ラッツの校訂版を使用しているとも言い難いのである。 実はこのスタジオ録音がLPでリリースされた折のレコードでの収録順序は、バルビローリの慣習に反して、 第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテであったらしい。この点に関するバルビローリの 考えは詳らかにしないが、スタジオ録音の場合、コンサートでの 演奏とは異なって、録音セッションの順序は必ずしも楽章の排列の通りではないし、場合によっては 部分的な取り直しをしたりする可能性もあるだろうから、 ここで論じてきたような流れが相対的に希薄になることは考えられ、従って、 スタジオ録音であれば、どちらの順序をも許容するような側面があるということは いえるだろう。(更に言えば、こうした順序の任意性自体をマーラーの音楽の特徴として 検討してみることもできるかも知れない。恐らくマーラーの交響曲をポプリと見做す 皮相な態度にさえ、全く根拠がないものとは言えないかも知れないのだ。)
だが少なくとも基本的にはバルビローリは第2楽章アンダンテ・第3楽章スケルツォの配置を前提に 解釈を組み立てているのだし、それによって生じる調性配置がもたらす音の地形の 眺望は、並行短調で開始されるフィナーレとの対照のために、アンダンテ楽章が しばしばアダージョ的にたっぷりと演奏される時のそれと異なっているのは明らかだろう。 だが、そもそもマーラーの指示はあくまでアンダンテ・モデラートなのだし、バルビローリの 場合には、アンダンテが、動機的に大変に似ている第1楽章とスケルツォを隔てる 間奏曲のような位置づけになっているわけで、その時にハ短調で開始される― アンダンテの並行調であることを考えれば、こちらもまた、ある意味で「再開」される と言ってもいいのではと私には感じられる―フィナーレの序奏部分―アレグロ・モデラートで イ短調が確保されるまでのブロックがどのように扱われるべきか、 繰り返し再現する序奏の扱いをどうするのか、とりわけ、ショスタコーヴィチに恐らく影響を 与えたに違いない、再現部でのブリッジ型の主題排列―序奏再現に続いて先に 第2主題が再現される―をどのように扱うかについて、そうした脈絡を無視した 判断をすることが妥当とは思えないのである。ごく図式的な言い方をすれば、 ラッツの読み取った構想に比較して、こちらは複数の「層」の交代、形式に亀裂を 入れる流れの不連続性が前面に出たものになるに違いないのである。 勿論、私はバルビローリの解釈は―ラッツ校訂の協会版を参照して、代替案との 比較検討を行ったとしても、あるいはそうでなかったとしても、―そうした全体構想に従って、 説得力ある仕方で組み立てられていると思うし、 単に意図の水準に留まらず、このスタジオ録音においても、ベルリン・フィルとのライブにおいても、 その意図は十分に実現されていると感じている。
実際、演奏様式はバルビローリ晩年のエルガーと同様のもので、縦の線がきっちりと 揃わないのを意に介さないほどまでに、個々のパートを歌わせようとするスタイルも 共通のものだ。つまるところこの音楽はとことん意識の音楽で、最期まで主観は 没落することなく、目覚めているのだ。音楽はついに世界のものになりきることなく、 主観を苛む悪意ある攻撃性に転化してしまうこともない。その点を看過してこの 演奏をいわゆる今日的な演奏と比較するのはあまり意味があることとは思えない。
一方、こうした演奏が今日可能なのかどうかと問うことは、勿論意味のあることだろう。 いわゆる熱演とよばれる演奏が、バルビローリにおいてそうであったような主観性の 擁護ではなく、一見似ていながらそれとは裏腹に、主観を責め苛む悪意ある暴力との 同一化を惹き起こしていないかと考えてみるのは必要かもしれない。そうした行き方に 対してはバルビローリのこの演奏は距離をおいたままであり続けるだろうと思われる。

バルビローリのマーラー:第7交響曲・BBCノーザン交響楽団・ハレ管弦楽団(1960)

この演奏の存在は実はもう20年も前から知っていたのだが、マーラーをほとんど 聴かなくなってから、ようやくBBCのLEGENDシリーズの一部としてリリースされた ものを聴くことができるようになった。
この曲の説得力のある演奏はほとんどないように思える。特に厄介な第5楽章に ついては、意図してか、そうでないかは問わず、聴いていてうんざりするような 演奏が多い。しかもそれは合奏の精度や、音響的なバランスの良し悪しとは あまり関係がないように思われる。ましてや、交響曲全体の一貫性を感じ取れる ような演奏はほとんどない。場合によっては、そうした一貫性ははじめからない ものとして、分裂した状態で音楽を放置することを正当化したり、あるいは 第5楽章をあからさまなパロディとして、不愉快さがあたかも予期されたもので あるかのような解釈が良しとされることもあるようだ。
しかしバルビローリの演奏は、一貫性に欠けることもないし、第5楽章が 見かけの壮大さを裏切って空虚に響くこともない。それは真正なフィナーレで あり、しかも音楽の経過の上で、第1楽章のほの暗い序奏から出発する過程の 説得力ある帰結となりえていると感じられる。この第5楽章は決して紛い物の 書割の下で演じられているのはない。マイケル・ケネディがその著書で何故、 あんなに力強くこの作品の頂点がロンド・フィナーレにあると断言できたのか、 私はこの演奏に接してよくわかったし、勿論、彼の主張は正しいと思う。 実演を幸運にも経験できた会場の感動は明らかで、50年も前、自分が生まれる 以前の異郷の地の感動をこうして共有できるのは、大変に素晴らしい経験だ。
録音のバランスも必ずしも良くなさそうだし、演奏そのものもライブ故、 かなり傷があるのだが、そうした点はこういった説得力を奪ってしまうような ものではないように思える。勿論、細部の正確さ、楽譜に書かれている音が どれだけ聞えるかという情報量の問題、そしてパートのバランスの問題 (録音による部分も含めて)など、音響面が気になる人や、演奏の完成度を 問題にする人は、この演奏を聴く必要はないかもしれない。いまやこの 曲の演奏の録音も数多く存在し、そうした点において勝っている演奏は 幾らでもあるからだ。それでも混成オーケストラによる一発取りという条件や、 当時この曲がどの程度オーケストラのレパートリーとして定着していたかを 思えば、バルビローリの解釈の実現という点では驚異的といっても良いほどの 演奏だと感じられる(単純な比較はできないが、ベルリン・フィルのライブに劣ることは ないと断言できる)。徹底したフレージング、そしてとりわけこの演奏でも頻繁に 起きるテンポの交代への反応をとっても、この演奏が如何に徹底した準備の上で 為されているかがはっきりと伺える。何よりもこの演奏では、解釈上の巨視的な設計の 巧みさが際立っていて、この曲にあっては例外的な一貫性の達成を強い説得力を もって感じ取ることができるわけで、それのみをもってしても、この曲の屈指の名演と 言えると私は思う。