| 1899年12月2日 | ロンドンのホルボーンにて誕生。洗礼名ジョバンニ・バッティスタ。 父のロレンツォはイタリア人。母ルイーズ・マリーはフランス人でピレネー山脈に 近いアルカションの生まれ。父と祖父のアントニオはミラノ・スカラ座管弦楽団のメンバーであり、「オテロ」の初演を演奏している。 |
| 1916年 | ヘンリー・ウッド率いるクイーンズ・ホール管弦楽団の最年少のチェロ奏者となる。 |
| 1917年 | 最初のソロ・リサイタル(ロンドン)。 |
| 1921年 | エルガーのチェロ協奏曲のソロを弾く。 |
| 1924年 | 弦楽四重奏団のチェリストとして活動。 |
| 1925年 | 室内管弦楽団を組織。指揮者として活動を開始。指揮者としての最初の録音はこの室内管弦楽団とのパーセルとディーリアス。 |
| 1926年 | BNOC(ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー)の指揮者。 最初に指揮したのは、グノー「ロメオとジュリエット」、プッチーニ「蝶々夫人」、ヴェルディ「アイーダ」。(1926年9月) |
| 1926年12月 | ビーチャムの代役でロンドン交響楽団を指揮。曲目はエルガーの第2交響曲とハイドンのチェロ協奏曲(ソロはカザルス)。 |
| 1926年~1932年 | BNOCおよびコヴェント・ガーデンのオペラを指揮。 |
| 1927年 | HMVのクライスラー、ルビンシュタインなどの協奏曲演奏録音の伴奏指揮をこのころより始める。 |
| 1930年4月 | オスカー・フリートの指揮するマーラーの第4交響曲のリハーサルに出席。その時の印象を友人に書き送った書簡が残っているが、"I was extremely disappointed…"というように極めて否定的なものだった。 |
| 1931年1月29日 | ロイヤル・フィルハーモニーのコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、エレーナ・ゲルハルトの歌唱。記録の残っているバルビローリの最初のマーラー演奏。 |
| 1933年 | スコティッシュ管弦楽団の指揮者。 |
| 1936年~1943年 | トスカニーニの後任、フルトヴェングラーの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者。 |
| 1939年10月26,27日, 12月16,17日 | カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第5交響曲第4楽章(アダージェット)を演奏。 |
| 1942年 | イギリスに帰国。 |
| 1943年6月2日 | ハレ管弦楽団の指揮者としてマンチェスターに着任。 |
| 1943年7月5日 | ハレ管弦楽団を指揮しての最初の演奏会(ブラッドフォード)。 |
| 1943年~1958年 | ハレ管弦楽団の常任指揮者。 |
| 1945年 | マーラーの「大地の歌」を指揮。 |
1948年10月13日 | マンチェスターのアルバート・ホールでのハレ管弦楽団のコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、アルト・ソロはキャスリーン・フェリア―。(BBCがライブ放送。) |
| 1952年 | ネヴィル・カーダスにマーラーを指揮するように薦められる。 |
| 1953年 | ヴォーン・ウィリアムズ「第7交響曲」初演を指揮。 |
| 1952年4月2日 | ハレ管弦楽団とのマーラーの「大地の歌」がラジオ放送される。テノールはリチャード・ルイス、アルトはキャスリーン・フェリア―。(ラジオ放送の録音が残っている。) |
| 1954年2月 | マンチェスターでハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を初めて演奏。バルビローリによるマーラーの交響曲の最初の演奏(「大地の歌」、第5番の「アダージェット」のみの抜粋演奏は除く)。その後、第9交響曲は次のシーズンのハレで再度取り上げられ、エディンバラ、ブラッドフォード、シェフィールド、リーズ、ヒューストン、シカゴと各地でのコンサートのプログラムで取り上げられることになる。 |
| 1955年11月 | マーラーの第1交響曲を初めて指揮。 |
| 1956年5月2日 | 献呈を受けたヴォーン・ウィリアムズ「第8交響曲」初演を指揮。(同6月録音。CDSJB1021) |
| 1957年6月 | マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第1交響曲をPyeに録音。 |
| 1958年5月 | ミラノのスカラ座でマーラーの第2交響曲を初めて指揮。 |
| 1958年~1968年 | ハレ管弦楽団の主席指揮者。 |
| 1959年1月8,9,10,11日 | カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第1交響曲を演奏。(1月10日の演奏会の記録あり。) |
1959年3月12日 | マンチェスターの自由貿易ホールでハレ管弦楽団、ハレ合唱団とマーラーの第2交響曲を演奏。メゾ・ソプラノ:エウゲニア・ザレスカ、ソプラノ:ヴィクトリア・エリオット。(BBCが放送。) |
| 1960年 | はじめてベルリン・フィルハーモニーを指揮。 |
| 1960年 | トリノ・イタリア放送管弦楽団と恐らく放送用にマーラーの第9交響曲を演奏。 |
| 1960年5月24日 | プラハのスメタナ・ホールでの「プラハの春」音楽祭にてマーラーの第1交響曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と演奏。 |
| 1960年10月 | マンチェスターでBBCノーザン交響楽団・ハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第7交響曲を演奏。 |
| 1961年~1967年 | ヒューストン交響楽団の主席指揮者。 |
| 1961年11月 | マーラーの第10交響曲の第1,3楽章を指揮。 |
| 1962年12月6,7,8,9日 | フィルハーモニック・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を演奏。(12月8日の演奏会の記録あり。) |
| 1963年4月 | マーラーの第4交響曲を初めて指揮。 |
| 1964年1月 | ベルリンのイエス・キリスト教会でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とマーラーの第9交響曲をEMIに録音。 |
| 1965年 | ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第2交響曲を3回演奏。ソプラノはマリア・スチューダー、アルトはジャネット・ベイカー。(そのうち6月3日の録音の録音が残っている。) |
| 1965年1月 | マーラーの第6交響曲を初めて指揮。 |
| 1966年1月13日 | ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第6交響曲を演奏。 |
| 1966年3月24日 | ニューヨークのカーネギーホールでヒューストン交響楽団とマーラーの第5交響曲を演奏。(マーラーの第5交響曲を初めて指揮。) |
| 1967年1月3日 | プラハでBBC交響楽団を指揮してマーラーの第4交響曲を演奏。ソプラノはヘザー・ハーバ―。 |
| 1967年 | ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲をEMIに録音。 |
| 1967年8月16日 | ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのヘンリー・ウッド・プロムスでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲を演奏。 |
| 1967年4月 | マーラーの第3交響曲を初めて指揮。 |
| 1968年~1970年 | ハレ管弦楽団の終身桂冠指揮者。 |
| 1969年 | ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第5交響曲をEMIに録音。 |
| 1969年3月8日 | ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第3交響曲を演奏。アルトはルクレチア・ウェスト。 |
| 1969年5月3日 | マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第3交響曲を放送用に演奏。アルトはキャスリーン・フェリア―。 |
| 1970年4月5日 | シュトゥットガルトのリーダーハレでシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮してマーラーの第2交響曲を演奏。ソプラノはヘレン・ドナート。メゾ・ソプラノはブリギット・フィンニレ。 |
| 1970年7月 | EMIに最後の録音。曲目はディーリアスの「アパラチア」「ブリッグの定期市」。オーケストラはハレ管弦楽団。 |
| 1970年7月24日 | 最後のライブ録音となったキングズ・リン・フェスティバルでのハレ管弦楽団との演奏会。エルガー「序奏とアレグロ」「第1交響曲」(BBCL4106-2)。 |
| 1970年7月25日 | キングズ・リン・フェスティバルで最後の演奏会。最後の曲はベートーヴェン「第7交響曲」。 |
| 1970年7月27日 | ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との日本公演のためのリハーサル初日。マーラー「さすらう若人の歌」「亡き子を偲ぶ歌」。ソロはジャネット・ベーカー。 |
| 1970年7月28日 | 日本公演のためのリハーサル第2日。ブリテン「シンフォニア・ダ・レクィエム」、ベートーヴェン「第3交響曲」。 |
| 1970年7月29日 | 心臓発作にてロンドンで死去。 |
お知らせ
GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
2025年8月13日水曜日
バルビローリのマーラー:略年表(2025.8.13改訂)
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