2002年4月30日火曜日

バルビローリのマーラー:第6交響曲・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967, プロムスライヴ)

録音記録があることは良く知られており、正規のリリースが待望されていた1967年8月16日のロンドン、ロイヤル・アルバートホールでの 演奏をBBCが収録したライブ録音である。スタジオ録音とほぼ時期を同じくして行なわれたコンサートでの演奏だが、テンポの設定や解釈は寧ろ 前年のベルリンでのライヴに近い。勿論、オーケストラの持つ特性に応じて、相対的にはスタジオ録音により近いということはできるだろうが。 楽章順も含め、いわゆる第3版に基づく点はスタジオ録音と同じで、ラッツ校訂の協会全集版は採用されていない。また第1楽章のソナタ 提示部反復を行なわないのは、いつもと同じである。
録音の状態は決して良いとはいえないだろうが、演奏は(第3交響曲のハレ管弦楽団の時もそうだったように)、バルビローリの解釈の リアリゼーションの徹底という点で、ベルリンの演奏を上回っていると感じられる。いわゆるライブつきものの事故が少ないだけでも 随分と安心して聴けることは確かだが、スタジオ録音では(どの程度意図的かはおくとして)どうしても曖昧になってしまう楽章間の流れの 一貫性、説得力は圧倒的で、最も理想的なこの曲の演奏の一つであることは間違いない。
楽章順の問題はリーフレットにかなり細かく記載されている。バルビローリとしてはスタジオ録音がレコードとして出る際に中間楽章を 「入れ換え」られたのはやはり不本意であったようだが、私見ではそのバルビローリの楽章排列が彼の解釈と如何に密接に結びついているかを 感じ取れるのは、ライヴ演奏の方、とりわけこのニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのライヴだと思う。
第2楽章150小節のFliessendの指示の後、練習番号62番以降190小節のallmählich wieder zurückhaltend、192小節のZeit lassen!の 指示までの音楽の流れを生み出すバルビローリの読みのユニークさは、とりわけてもこの演奏では圧倒的であるとともにある種の自然さを 備えているように感じられるし、フィナーレの練習番号150番直前のルフトパウゼが生み出す音楽の推進力、そしてその結果もたらされる 練習番号153番でテンポを戻しての主要主題再現の凄みなど、バルビローリの音楽のマクロな流れの読みの深さがライブならではの ドライヴと相俟って強烈な印象を聴き手に残す、素晴らしい演奏だと思う。
勿論、録音状態の制限もあるし、演奏精度だけを単純に 比較すればもっと「巧い」演奏は近年幾らでもあるに違いない。だが例えば、バルビローリの演奏が「不揃い」に聴こえるのは、技術的な限界や 弾きなれていないことだけに由来するわけではないと私には思える。各パートが自分のフレーズを歌いきろうとしたとき、しかも夥しい素材断片の 固有の性格を、垂直的には同時に重ね合わせて実現しようとした場合、管弦楽が単一の呼吸でぴったり揃うことと両立しえないのではないか。 マーラーの交響曲が一つの世界である、というのを比喩として捉えてはならない。そこでの「世界」というのは、例えばハイデガーの「世界内存在」に おける世界であり、それゆえマーラーの音楽は決して孤立した主観のモノローグなどではない。調的配置は依然として決定的に重要だが、 その機能は全く変わってしまっていて、アドルノ的な意味で「唯名論的」にその都度、具体的な楽曲において規定される。そうした在り様を 最も良く聴き取ることができる演奏の一つとして、私はバルビローリの演奏を挙げることができると思うし、その意味でこの演奏の録音は、 そうしたバルビローリの特性が最高のかたちで実現された記録であると思う。

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