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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2025年4月6日日曜日

吉田秀和『永遠の故郷 真昼』より:「≪少年の不思議な角笛≫から」(2025.4.10更新)

 例えばGabriel Engelの伝記がGustav Mahler : Song-Symphonist と題されているように事典的な記述においては交響曲と歌曲の大家とされるマーラーは、だが世上、専ら交響曲の作曲家として認知されているように見える。勿論、それは故なきことではない。マーラーはその創作の初期には室内楽も書いたしオペラの構想もあったようだ。室内楽については「ピアノ四重奏曲」の一部が残っているが、オペラの方は実現に至らず、辛うじてヴェーバーの「3人のピント」の補作が残ることになった。そしてマーラーが自ら作品1としたのはカンタータ「嘆きの歌」だが、それ以降マーラーが残したのは専ら交響曲か歌曲なのである。そして単に量的にみてもそうだが、重要性の点からも、マーラーの作品の主要なジャンルが交響曲であることは論を俟たないだろう。

 実際私も、マーラーに初めて接したのはFM放送で流れてきた第1交響曲(小澤征爾・ボストン交響楽団のの録音のうち、全集ではなくグラモフォンから出て、後に「花の章」が挿入された形で流布した録音の方、ただしリリース当初は普通の4楽章の形で、私が聴いたのもそうだった)だし、その後も「大地の歌」、第7交響曲…と交響曲を一つ、また一つと「発見」して、その音楽に魅惑されていったのであった。歌曲の方はと言えば、地方都市のレコード屋(当時はまだCDではなくLPレコードの時代だった)には交響曲のLPは置いてあっても、歌曲のものはなく、確か最初に買った録音はカセットテーブだったし、それ以前に私自身が、何と言ってもなけなしのお小遣いを叩いて買うのに交響曲の方を優先したということも否定できず、歌曲の録音に接する機会は自ずと限定されていたように記憶する。そのかわりといっては何だが、歌曲はピアノ伴奏版の楽譜を早くから入手していて(勿論、これもまた住んでいた地方都市の楽器屋の店頭に偶々置かれていたのであるが)、歌曲は楽譜を通して親しんでいった側面が強いというのは、別のところでも記したことがある。

 だがそれでは折に触れて取り上げて耳を傾ける頻度はどうかとなると、勿論時期にも依るけれども、思いのほか歌曲に手を伸ばす機会が多いのである。勿論、管弦楽伴奏版があるものは管弦楽伴奏版も聴くけれど、そうした作品についても敢えてピアノ伴奏版を取り上げることも多いし、ピアノ伴奏版しかない作品を聴く頻度も決して低いわけではない。それには恐らくマーラーが残した作品に分け隔てなく接しようとする気持ちが与っているに違いないのだが、それより何より、ごく単純に、私はマーラーの歌曲が交響曲に劣らず好きなのだと思う。これも衆目の一致するところとして、マーラーの音楽の特徴の一つは歌曲と交響曲という一見したところ相容れなさそうなジャンルが独特のかたちで融合しているところで、旋律の相互引用は「嘆きの歌」以来だし、初期の交響曲では歌曲がそのまま一つの楽章として組み込まれるかと思えば、歌曲の方も、「さすらう若者の歌」に始まる連作歌曲集は「子供の死の歌」を経て、「大地の歌」という交響曲とも連作歌曲ともつかない作品、しかもそれこそマーラーの創作の到達点と目される傑作に到達するのだが、そういう、歌曲の中でも、謂わばメイン・ストリームに属さない、歌曲集に収めされた単独の作品もまた、その価値において決して引けを取ることはないと私には感じられるし、仮に客観的な価値については譲ったとして、好みの問題になってしまえば、これは間違いなくその主観的な重みは対等のものだと思う。

 だが実際には、今日の日本に住んでいる平均的な愛好家にとって、マーラーの作品の中でも歌曲に関する情報は、交響曲に比べれば極めて乏しいものと言わざるを得ないのではなかろうか。そもそもマーラーの作品に限らず、一般に歌曲というジャンルは20世紀後半から21世紀にかけての極東の島国において、その存在場所を見出すのに苦労しているように思われる。今やマーラーの交響曲がコンサートのレパートリーの中でも「売れ筋」として扱われているのに対し、歌曲が取り上げられる機会はほとんどないし、いわゆるクラシック音楽と呼ばれるジャンルにおける歌の中では何と言ってもオペラが幅を利かせていて、歌曲の存在感は希薄なものに感じられる。そもそも歌一般ということであれば、わざわざ1世紀も前の泰西の歌曲などに目を向けなくても、その後の1世紀間の間に発達し市場を席捲するようになったポピュラー音楽の方が遥かに多様なニーズに応じるだけの拡がりを持っているのだし、そもそもかつて歌曲が演奏され、受容されていた空間、文化的な場(ミリュー)は最早ほとんど存在していないというのが現実だろう。かつて録音技術が確立された時期に最初に録音されたのは、技術的に人間の声が向いている(というか、より「まし」だった)という事情とSPレコードの録音時間の制約が相俟って、歌曲とかオペラのアリアとかであり、マーラーの作品については早くもアコースティック録音の時代に第2交響曲の全曲録音が為されてはいるけれども、それでも最初期の録音の多くは歌曲なのだが、その後1世紀の時間の経過とともに歌曲が現実の場を喪っていくにつれて、限られた貴重な機会であるリサイタルに欠かさず足を運ぶことが叶わない一般の多くの愛好家にとって、録音を自宅で一人で耳を傾けるのが、歌曲の受容に辛うじて残された可能性になってしまったかのようだ。斯く言う私の場合で行けば、マーラーを聴き始めてもう45年にもなろうかというのに、遂に歌曲のリサイタルを訪れたことは未だなく、交響曲の一部となっている作品を除けば、辛うじてそれでも実演に接することができたのは管弦楽伴奏版による「リュッケルト歌曲集」のみ。それでも私が最も好んで聴く歌曲集の実演に接することが出来たことは、得難く、忘れ難く、心に深く刻み込まれているのではあるけれども。

 そのような事情だから、この極東の地に限って言えば、マーラーの交響曲に関する言説は巷間にあふれていても、こと歌曲についての情報は極めて乏しいものに感じられる。その中で、吉田秀和さんの文章にはマーラーの歌曲を採り上げたものが幾つかあり、貴重なものに感じられる。(なお歌曲に限らず、いわゆる音楽批評として日本でマーラーを論じたものとして、吉田さんの書かれたものの質、量両面での重要性には疑いがなく、その中でごく早い時期に書かれた規模の大きなマーラー論については別に取り上げたことがあるので、併せてご覧いただければ幸いです。)吉田さんのマーラーに関する文章は、本稿執筆時点では、河出文庫に『決定版 マーラー』(2019)として収められているのが最も網羅的であり、かつ手軽に接することができるものだろう。この中にも歌曲についての文章が2つ含まれていて、一つはタイトルもそのままずばりの「マーラーの歌」(初出は『レコード芸術』1981年9月号)、もう一つは掉尾を飾る「菩提樹の花の香」(初出は『マダム』1977年3月~12月の「音楽の光と闇」)。いずれも『作曲家論集第1巻』に収められており、私はそれで親しんだのだが、ことに「菩提樹の花の香」は、私自身が最も好きな歌曲であるIch atmet' einen linden Duft(私は仄かなリンデの香りをかいだ)に因んだ文章で、接した時に我が意を得たりと感じたのを昨日の事のように思い出す。一方の「マーラーの歌」は網羅的で詳細な音源紹介もある充実した紹介で、個人的には「大地の歌」が含めて論じられている点や、私が好きなベイカー・バルビローリのアルバムを高く評価されている点など、こちらも共感できる点が多々あるのだが、それとは別に、この文章は歌手の四家文子さんの追悼として書かれていることに留意すべきであろう。もっとも実際には、私が四家文子さんの歌唱に接したことがあろう筈はなく、だがその名前は「大地の歌」の日本初演を歌った方として忘れ難く記憶されているのであった。(一方で私は、これまた日本におけるマーラーの演奏者として忘れ難く記憶されているネトケ=レーヴェに師事して声楽家としての専門教育を受けた四家さんが、だが戦前は「声楽家」としてよりは寧ろ数多くの歌謡曲を手がけた歌手として活躍されていたことをずっと知らない儘であった。)吉田さんは「マーラーの歌」の文中で四家さんの「亡き子を偲ぶ歌」の歌唱に接したことに触れられているが、同じところで「子供の魔法の角笛」の歌唱者として挙げられている関種子さんについては、『決定版 マーラー』には収録されていない別の文章で触れられている。(ちなみに関種子さんもまた、ネトケ=レーヴェ門下であり、最初はクラシックの声楽家としてデビューするものの、やはり戦前には歌謡曲の歌手として活躍していて、コンサートでのマーラーの歌曲の日本初演もそうした文脈の中に位置づけて捉える必要があるように思われる。)本稿のタイトルに掲げた『永遠の故郷 真昼』(集英社, 2010)がそれである。この本はタイトルからは窺い知れないが、実際には収録されている文章の過半(11篇中6篇)がマーラーの歌曲に関するものであって、『すばる』に2007年から2009年にかけて掲載された以下の文章が収録されており、マーラーの歌曲を個別に取り上げた日本語の文献として大変貴重なものに思われる。

  • 「≪少年の不思議な角笛≫から」(初出:『すばる』, 2007年8月号)
  • 「マーラーの「ラインの歌」」(初出:『すばる』, 2007年10月号)
  • 「「ヴンダーホルン」とは何か」(初出:『すばる』, 2007年12月号)
  • 「≪パドヴァのアントニウスの魚説法≫」(初出:『すばる』, 2008年3月号)
  • 「間奏曲」(初出:『すばる』, 2008年4月号)
  • 「≪告別≫」(初出:『すばる』, 2009年5月号)

吉田さんは1913年の生まれ、2012年に98歳で逝去されているので、それに先立つこと5年から3年の、90歳を超えた、まさに最晩年の文章ということになるが、このうち最初の「≪少年の不思議な角笛≫から」において、関種子さんが≪少年の不思議な角笛≫の歌曲を演奏されたのに接した回想が語られているのである。以下、少し長くなるが冒頭から引用させて頂く。

「 マーラー(Gustav Mahler 一八六〇—一九一一)は≪少年の不思議な角笛 Des knaben Wunderhorn≫という詩集から十数編あまりを選んで音楽とした。その中の三篇は そのままの形で第二、第三、第四交響曲に組みこまれ、別の二篇は歌の声部をとり除いた器楽曲の形で、これまた第二、第三交響曲に一つずつ入っている。マーラーの場合――特に早いころの彼の場合、歌が交響曲のような大型の器楽曲の中に何の違和感もなくとりこまれていたことの良い例である。残りの中、十二篇は管弦楽つき歌曲として――ユニヴァーサル楽譜出版社などから――上下二巻のポケットスコアの形で発売されている。その中にも名作佳品が少なくなく、私はその幾つかをとり上げては折にふれてきく。」(上掲書, pp.53~54)

という要を得た概説を導入として回想に移る。

「最初にきいたのは、確か、過ぐる大戦のはじまる少し前のことだったように覚えている。そのころはまだ、ナチのユダヤ人狩りを逃れて日本に来たヨーゼフ・ローゼンシュトックが当時の東京のオーケストラの指揮者として活躍していた。」(同書, p.45)

その中の一つとして、「戦争に入って間もなくきいたモーツァルトの≪レクイエム≫」に触れた後、いよいよマーラーの演奏の話になる。

「それより少し前だったのではないか、ある時の定期演奏会のプログラムにマーラーの≪少年の不思議な角笛≫から二つか三つの歌がのったのは。マーラーは言うまでもなくユダヤ人だったから、ドイツならこんなことはもう不可能だったろうし、日本でも日独防共協定下どうかとと思われたかもしれないのに、ローゼンシュトックは敢えてマーラーをとり上げた。そうした、私はそんなことを全く考えもせずマーラーをきいて、すごくおもしろいと思った。

 歌ったのは確か関種子さん。ローゼンシュトックが例によって――当時流行の新即物主義のスタイルにそって、あんまり粘らず、あっさりと、しかし品の良い知的な指揮ぶりでバトンをふっている横で、小柄な彼女も、あんまりヴィブラートをかけない濁りのない純白な感じの発声で、はずむような軽快なリズムにのせて、マーラーの「疑似民謡調」の歌を歌っていた。」(同書, p.45)

この部分については様々な角度からコメントしたい点が多々あるが、当時の状況については、太平洋戦争開戦時の外相だった東郷茂徳(彼はもともと独文出身の異色の外交官で妻もドイツ人だった)が、ローゼンシュトックの来日にあたって少なからぬ手助けをしたことや、その後の日本においても何故か国策ニュース映画のBGMとして、マーラーの第二交響曲の録音(しかも敵国であるアメリカのオーマンディ指揮ミネアポリス管弦楽団の演奏である)が用いられていたことなど、それぞれ別に記事として取り上げているのでここでは割愛し、そうした外的状況ではなく、≪少年の不思議な角笛≫を「疑似民謡調」とさらりと形容している点に注目しておこう。あまりに長くなるので吉田さんの文章の引用は控えるが、この点は夙にアドルノが指摘していることでもあり、もともとのアルニムとブレンターノのアンソロジーの持つ屈折(アルニムが民謡に対して施した改作には、マーラーが歌曲を作曲するに際して歌詞をしばしば改変したこととの並行性を見出すことができよう)も併せて指摘されている点も含め、この曲集の持つ複雑な性格が的確に捉えられており、首肯でき、傾聴すべき点が多い。それでも敢えて私見を追加して指摘するならば、マーラーは更に「三重の意味での異邦人」の立場でそれに取り組み、音楽化したということを念頭におくべきだろうと思う。アドルノの言を借りるならば、それは若き日のマーラーにとって、後に「大地の歌」におけるベトゥゲの漢詩の追創作(nachdichtung)がそうであったように「仮晶」であった。吉田さんもまた別の文章(先に触れた1973年から1974年にかけて書かれた長大な論考「マーラー」)において、「旋律の知性化」として取り上げておられ、「ロマン主義者の夢見た自然と素朴の「喪失、解体」という明解な意識が、現実の正しい認識として、存在している事実を示している」(上掲の『決定版 マーラー』ではp.27)と述べるなど、マーラーの「旋律」を巡って極めて示唆に富んだ論考を展開しているが、そちらについて論じるのは本稿の範囲を大幅に超えてしまうので断念せざるを得ないので、ここではそれが高度の芸術意識の裏づけをもった「疑似民謡」(同書, p,56)であるに留まらず、吉田さんが別の歌曲≪シュトラスブルクの砦の上で Zu Straßburg auf der Schanz≫について的確に指摘した「「ここにないもの、あったけれど、いつか失われてしまったもの」をもう一度とり戻そうとする熱い望み」(同書, p.81)を背後に秘めているということを指摘するに留めたい。

 ところで吉田さんは、当日取り上げられた曲について記憶を辿りつつ、≪ラインの小さな言い伝え Rheinlegendchen≫と≪この小さな歌を思いついたのは誰だ Wer hat dies Liedlein erdacht?≫があったように覚えているのに対し、「もう一曲あったような気がするが何だったか」(同書, 同頁)と述べて候補として≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫と≪トランペットが高らかに鳴り響くところ Wo die schönen Trompeten blasen≫を挙げているが、これはその後の話の展開――≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫は別稿で取り上げられるし、≪トランペットが高らかに鳴り響くところ Wo die schönen Trompeten blasen≫については時代状況に照らした省察が繰り広げられ、文章の後半ではこの曲が専ら取り上げられることになる――に繋げるためにわざとそうしているのか、それとも過去の事(何しろ70年も前のことである)で本当に記憶が曖昧になっているのか、俄かには判断しがたいところがある。

 気になって調べてみると、森泰彦「日本におけるマーラー受容1924~1985—オーケストラ演奏記録が語るもの」(『ブルックナー・マーラー事典』(東京書籍, 1993)所収 , p.504)によれば、1938年1月9日の第187回定期演奏会でローゼンシュトック指揮の下、関種子さんが歌ったのはやはり三曲で、「ラインの小さな言い伝え」「この小さな歌を思いついたのは誰だ」とともに取り上げられたのは「無駄な骨折り」であったとのこと。森さんの論文は1993年には出版されているから、吉田さんは『すばる』寄稿の一連の文章を執筆するにあたり参照することは可能だった筈であり、そうでなくても吉田さんのような方が調べようと思えば、幾らでも調べられた筈なので、つい、話の行きがかり上、わざと記憶が定かでないふりをしたのでは、という勘繰りをしたくなる訳である。

 ついでなので、関種子さんの歌った3曲のうち Wer hat dies Liedlein erdacht?とRheinlegendchenとはマーラーの作品の最初期の録音で取り上げられる「定番」曲であったことも指摘しておきたい。特にWer hat dies Liedlein erdacht?の「人気」は突出しており、現在知られている限りで最も時期を遡る Grete Stückgoldの管弦楽伴奏による演奏(1915年説もあるが、そうでなくても1921年迄は遡れるようだ)がそうだし、Lula Mysz-Gmeinerがピアノ伴奏で歌ったもの(1925ないし1926)、同じくLula Mysz-GmeinerがJulius Dahlkeのピアノ伴奏で歌ったもの(1928)、更にはElizabeth SchumannがGeorge Reversのピアノ伴奏で歌ったもの(1930)がある。またRheinlegendchenもまた、Dol Dauber Salon Orchesterによる「歌唱なし」の録音(1928)があり、1931年にはHeinrich SchlusnusがHermann Weigertの指揮するベルリン国立歌劇場管弦楽団とともに演奏したものがあるといった具合である。ローゼンシュトックが1938年にマーラーの歌曲を採り上げるにあたって、そうした録音のことを知っていて念頭においていたかどうかはわからないし、そもそも何故この2曲なのか、色々と想像はできても確かなことはわからないまでも、少なくとも当時の「流行」のようなものがプログラムとして選択する背景にあったのではないかと推測される。

 そして吉田さんはその次の回で、今度はその2曲のうちRheinlegendchenを取り上げて、ここでも冒頭、関さんの歌唱の回想が綴られることになる。だがそれも、その後に個別に採り上げられる≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫についての文章も、最後に句読点を打つべく書かれたかのような≪告別≫についての文章も、個別に採り上げて論じるのは別に機会に譲るとして、ここでは吉田さんの『永遠の故郷 真昼』所収のマーラーに関する一連の文章における指摘の中で、マーラーの個別の作曲に触れたものではないけれど、私見では極めて重要と思われる点について触れることでこの小文の結びとしたい。

 それは『永遠の故郷 真昼』のマーラーの歌曲に関する一連の文章の中での折り返し点を為す、「「ヴンダーホルン」とは何か」の中での、まさに題名通りの「不思議な角笛」についての指摘である。実際にはこの文書は、題名のテーマのみを扱っているのではなく、個別の作品としては「シュトラスブルクの砦の上で」が取り上げられているのだが、私が注目したいのは題名のテーマそのものに対する答の方で、その中でも特にヴァ―リヒのドイツ語辞典のWunderhornの項を調べて結果が報告されている部分である。

 曰く「ヴンダーホルンとは神話学的にいうと、決して飲みつくせない角型の容器」(上掲書, p.91)のこととされているというのである。更にグリムの辞典には「オルデンブルクのヴンダーホルン」という項目があり、これは1474年にケルンの金細工師が作った銀製のTrinkhorn(飲料を盛った角型の容器)であり、以下に示すアルニム=ブレンターノ篇の詩集第2巻のお馴染みの表紙の挿絵はまさにそれを描いたものだとのこと。


 更に吉田さんはグリムの辞典の記述を引き「グリムには、これが神話学的には幸福の象徴であり、花や果物を満載した容器で、多産性、豊穣、過剰などを意味するとある。」(上掲書, p.92)としており、「以上、「ヴンダーホルン」と名づけられたこの詩集は、手にとってみれば「汲めどもつきせぬ興趣あふれる読みもの」にほかならないのである。」(同)とまとめていて、勿論、そのことに異論の余地はないのだが、これを読んだ私は、別のあることを思い浮かべたので、それについて備忘のために書き留めておきたい。

 私の参照先は、レヴィ=ストロースの「クレチャン・ド・トロワからワーグナーへ」である(佐々木陽太郎訳が『現代思想 1985年4月 特集=後期レヴィ=ストロース」に収められており、私はそれを参照している)。レヴィ=ストロースによれば、「聖杯伝説」の聖杯(グラール)とは、ケルト神話に由来しており、「グラールは奇跡をうむ器のひとつととらえることができよう。すなわち、皿にせよ、籠、丼、角杯、鍋にせよ、それを用いる者は尽きることなく食物を手にし、あまつさえ不滅の生命を手にいれることもないではない」(上掲書, p.43)。もうおわかりのことと思うが、私が指摘したいのは、ヴァ―リヒやグリムの指摘に従えば、「子供の魔法の角笛」は、ワグナーの「パルジファル」のベースとなった神話における聖杯(グラール)に他ならないということに尽きる。

 アルマの回想録などから、マーラーは「パルジファル」の元となった伝説、特にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩は読んでいたらしいが、だからといって、両者に存在する疑いようのない連関に気づいていたかどうかは別の問題だし、そもそも自分の歌曲の題材である民謡詩集の題名と、ワーグナーの最後の舞台作品の元となる伝説に関係があったところで、それが直接的にマーラーの創作に関して何かを解き明かす鍵になるわけではないだろう。だがそうであったとしても、アルマの回想に収められたイダ・デーメル(詩人のリヒャルト・デーメル夫人)の日記が証言するところによればマーラーにとっては「幼いころから特別な因縁があった」それ、「完成された詩ではなくて、だれもが思いのままに鑿をふるえる岩の塊」であった「子供の魔法の角笛」(吉田さんの拘りにも関わらず、この文脈を踏まえた時、私は敢えて「少年」よりも「子供」を、「不思議」よりも「魔法」のニュアンスを採りたいように感じる)という詩集は、彼がそこからかくも豊かな作品を彫りだすことができた「汲めどもつきせぬもの」=「聖杯」であったということは言えるだろう。

 だが更に今一度、レヴィ=ストロースに立ち戻り、彼が「オイディプス神話」と対比させつつ「ペルスヴァル神話」に何を見出していたか、更にまた、マーラーが良く知っていたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハとワグナーが、聖杯(グラール)に対する問いをどのように変換したと指摘しているかを確認してみよう。

「ひとも知るように、ワーグナーは提起されることのない問いというモチーフにたじろぎを覚えた。同じ機能を果たしながらも、いわばその逆をゆくような別のモチーフに切り換えている。意思疎通が保証、確立されるに至るのは、知性の働きによるわけではない。感情面での自己同一化が鍵になる。パルジファルはその存在の根にあるドラマに「いま一度立ち会う」までは、グラールの謎を「理解」せず、それはいつまでの解けないままだ。まさしく、ドラマは破れ目をなす。そして、主人公は生身に痛いほどドラマを感じており、したがって、もはや単に此岸と彼岸とのあいだにあるだけではない。感受性と知性、苦しみにもがく人間と他の生の形態、世俗の価値と霊性の価値のあいだにあるといわざるを得ない。こうして、ワークナーはショーペンハウアーから、一気にジャン・ジャック・ルソーと合流する。ルソーこそは憐憫、および他者との自己同一化を、社会生活と分節言語の出現に先だつ意思疎通の原初の様態とみなしたはじめての人物である。それによって、人間は互いに、また他のあらゆる生の形態と結びつくことができるという次第だ。」(同書, p.55)

  上記を踏まえて今一度確認しよう。なぜ「仮晶」でなくてはならないのか?それはもう明らかなことだろう。答えは以下のようなものになるのではなかろうか。「提起されることのない問い」を問うことは、子供、さすらい人、異邦人、故郷を持たぬ者によってのみ可能になるから。アドルノがマーラーについて論じたモノグラフの末尾で、まさに「子供の魔法の角笛」歌曲集を念頭に置きつつ「隊列からはずれた人々、踏みつけにされた人々だけが、また見捨てられた前哨兵や美しいトランペットの音で埋葬された者、あわれな鼓笛兵、まったく自由ではない人々こそが、マーラーにとっては自由を体現している。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.205)と述べたように、聖杯(グラール)に神話的な機能を取り戻すことを可能にするのは、排除され、疎外された者にしか可能でないから、それは「仮晶」であるときにしか、「ありえたかもしれない民謡」である時にしか「聖杯」ではありえないからなのだと。

付記:なお「ありえたかも知れない民謡」としてマーラーの歌曲を捉えようとした小文として「「ありえたかも知れない民謡」としてのマーラーの歌曲についての覚書」があります。併せてお読み頂ければ幸いです。また、マーラーの音楽におけるワーグナーの「パルジファル」との関連についても、アドルノが既に指摘していますが、こちらについては「アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及」をご覧いただければと思いますが、そこにおいて結節点となっているのが、まさに「子供の魔法の角笛」に基づく第3交響曲第5楽章であることを申し添えておきたく思います。

(2025.4.6 公開, 4.7,10 付記)


2025年3月19日水曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(4):マーラーの歌曲の特徴について(2025.3.20更新)

 この記事では、マーラーの歌曲の特徴について生成AIに聞いてみた結果を報告します。いずれも大まかなレベルでは特徴の説明として妥当だと思いますが、細部には幾つかおかしな部分があるので、その点についてコメントをしておきたく思います。

 ChatGPTの回答には、明確な誤りというのは見当たりませんでした。

 Geminiの回答も、交響曲第3番と「亡き子をしのぶ歌」との関連という指摘を除けば、明確におかしい点はなさそうです。なお、歌曲の主要作品としてChatGPTおよびClaudeが「大地の歌」を含めているのに対して、Geminiが含めていない点は興味深く思われます。そう思って特徴を読み返すと、ChatGPTおよびClaudeは「大地の歌」を歌曲に含めた説明をしているのに対し、Geminiの説明には「大地の歌」への言及もなければ、「大地の歌」の特徴を踏まえた説明もなく、一貫していることに気づかされます。

 そこでGeminiに対しては、交響曲第3番と「亡き子をしのぶ歌」との関連について追加でプロンプトを送ると、「共通するテーマや感情は指摘できるが、直接の関連はない」というやや言い訳めいた(笑)回答が返ってきました。更に言えば、「関連性について」の部分は稍々おかしく、一つ目のニーチェとの共通性の指摘は、私見では些か無理があるかなと思う一方で二つ目の「亡き子をしのぶ歌」を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲」というのは明らかに誤りです。そこで更にその点を確認するプロンプトを投げると、今度は「マーラーは、「『亡き子をしのぶ歌』を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました」という情報は正しくありません。」という正しい回答が返ってきました。その後に尚も両者の関連について主張するのはご愛敬として、他の記事で報告した追加プロンプトへの回答も併せて考えると、Geminiはやりとりの文脈を全く踏まえていないという訳ではなくとも、自分の回答を覚えていて、それを踏まえた回答をしているわけではなく、ここでは前の回答との不整合の存在に気づいていなさそうに見えます。ChatGPTやClaudeが以前の発言を撤回して謝罪するのとは対照的です。

 最後にClaudeです。これも特徴の要約として概ね問題なさそうな回答ですが、強いて言えば、「時にはほとんど語るような表現(Sprechgesang)に近づくこともあります」という点が気になるでしょうか?勿論、歌手の演奏解釈によって、そうした表現への近接が時として見られることはありますが、Sprechgesangが直接的にはシェーンベルクに帰せられるという点は措くにしても、類似の表現についても、マーラー自身の明示的な指示としてはちょっと思い当たりません。(というより、寧ろ逆に「うたう」こと、歌謡性が、歌曲のみならず器楽曲も含めたマーラーの特徴であると言いたい気が私はしますし、そうした主旨の文章を記したこともあります。)そこで、その点について追加のプロンプトを投げてみることにしました。すると、「「話すような」表現や朗唱的な要素が見られる箇所」の存在を指摘する回答が返ってきました。しかしその具体的内容には、今度は明確におかしなものが含まれます。

 まず「「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」における説教をする場面」とは一体どこを指しているのでしょう。強いて言えば「元の木阿弥」が報告される最後までは、彼は魚に説教をしているわけですが、描かれるのは寧ろ魚の側の反応の方で、「場面」として特定できる場所は、歌詞の上ではなさそうに見えます。そこで更に具体的な場所を問うプロンプトを投げてみると、今度は明確に誤りと思われる記述が見受けられます。

 次に私の知る限り、「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」の楽譜には、quasi parlando の指示はありません。(逆にcantabileの指示はあるのですが。)こちらについては追加のプロンプトで指摘すると、あっさり誤りを認めました。なお、「Gemächlich. Ohne Hast」(ゆったりと、急がずに)- 冒頭の総合的なテンポ指示」というのも間違いなら、「dolce」(甘く)、「ausdrucksvoll」(表現豊かに)も別の曲にはあるけれど、この曲には存在しない指示で、「Mit Humor」(ユーモアを持って)のみが正しいようです。更に私の知る限り、この作品の歌詞には Er predigt eine lange Zeit という部分は存在しないのですが、こちらについては更に問い質すプロンプトに対しても、「中間部分」で登場すると言い募る回答が返ってきました。歌曲の歌詞には時としてヴァリアントが存在することはあるのですが、ことこの作品については寡聞にして知りません。一般に流布している歌詞について言えば、やはりフェイクであると言わざるを得ないようです。

 更に「ラインの伝説」の「死の太鼓」というのは、「ラインの伝説」の歌詞内容からして明らかに不自然で、何か別の作品との混同が生じているようでしたので、その点について確認するプロンプトを投げたところ、Der Tamboursg'sell(「少年鼓手」)の間違いであったようです。ちなみに「ラインの伝説」の原題が何故か Der Schildwache Nachtlied となっており、更にそれに「夜警の歌」という邦題がつくという不可解な部分が回答に含まれていますが、これは日本語に翻訳する際の対応の混乱というよりは、生成AIがベースにしている技術の基本的な性質上、人間なら容易に気付くレベルの意味的にナンセンスな構成の文生成が行われた結果と考えた方が良いように思います。

 その一方で、今回の質問に関しては特にClaudeの回答で目立つ、作品の邦題の不安定性は嫌でも目につきます。「軍鼓の音」というのがDer Tamboursg'sell(「少年鼓手」)であることは、追加のプロンプトに対する最後の回答により明らかになります。「大地の歌」の「酒に寄す」は敢えて確認はしませんでしたが、「「猿の叫び」を表現する部分」を含むというからには、当然、第1楽章の Das Trinklied vom Jammer der Erdeを指しているものと思われます。ただし、この傾向はClaudeに限定されたものではなく、他の質問の回答においては、ChatGPTでもしばしば遭遇します。生成AIの回答生成の仕方を勘案すると、これは原題の翻訳を探して付けているというよりは、その文脈において最も関連性の高い原題と邦題をそれぞれ独立に求めて、それを恰も、原題に対する邦題といったかたちで文章にしているに過ぎないのではないかと推測されますが、読み手を当惑させるものではあり、特に海外の事象について日本語で生成AIに問い合わせる際には、時として大きな問題になりそうに思えます。

(2025.3.19,20)

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プロンプト(共通):マーラーの歌曲にはどのような特徴がありますか?

chatGPT(2025.3.9)

マーラーの歌曲は、彼の交響曲と密接に結びついていて、個人的な感情や哲学、人生観を濃密に表現しているのが大きな特徴です。彼の歌曲を理解することは、マーラーの音楽全体を理解する上でもとても重要です。


🎶 マーラー歌曲の主な特徴


1. 交響曲と歌曲のクロスオーバー

  • マーラーは歌曲と交響曲を密接に結びつけ、歌曲的な素材をそのまま交響曲に転用したり、逆に交響曲的な壮大さを歌曲に持ち込みました。
  • 例としては、《さすらう若人の歌》が《交響曲第1番》に、《少年の不思議な角笛》の歌曲が《交響曲第2〜4番》に引用されています。

2. オーケストラ伴奏の歌曲

  • ピアノ伴奏版の歌曲もありますが、オーケストラ伴奏歌曲が多いのが特徴。ピアノ版と比べて色彩感やスケールがぐっと広がります。
  • オーケストラは単なる伴奏ではなく、**詩の世界を豊かに描き出すための「もう一人の語り手」**として活躍します。

3. 詩の選択とテーマ

  • マーラーはフォークソングや民謡的な素朴さを好みつつも、死・別れ・孤独・無常観を主題にした詩を好みました。
  • 主な詩の出典は:
    • 《少年の不思議な角笛》(ドイツの民謡集)
    • 自作詩(例:《さすらう若人の歌》)
    • 中国の詩(漢詩)をもとにした《大地の歌》など。
  • 死や別れへの諦念と美しさ、自然との一体感、人生への哀しみや希望が詩と音楽に込められています。

4. 民謡風の素朴さとアイロニー

  • シンプルな旋律やユーモラスなリズムがしばしば登場し、ドイツやオーストリアの民謡風の素朴さを感じさせます。
  • ただし、その裏にはアイロニーや死の影、痛切な孤独感が隠されている場合も多いです。楽しげなメロディの中に、不安や悲しみが見え隠れするのがマーラーらしいところ。

5. 人生観と哲学的な深さ

  • マーラーの歌曲は、単なる愛の歌ではなく、生と死、魂の浄化、永遠への希求など、深い哲学的テーマが表現されています。
  • 特に晩年の《リュッケルトの詩による5つの歌曲》や《亡き子をしのぶ歌》、そして《大地の歌》には死への受容と超越的な安らぎが感じられます。

6. 繊細な表現とドラマティックな対比

  • ささやくような静寂から、突然の激情的な爆発まで、音楽のダイナミクスが大きく、劇的なコントラストが特徴的。
  • 繊細な心理描写劇的な感情の起伏が共存し、まるでオペラのようなドラマ性を持っています。

🎵 代表的な歌曲と歌曲集

曲名 特徴
《さすらう若人の歌》 失恋と放浪をテーマにした自作詩。交響曲第1番と関連。
《少年の不思議な角笛》 民謡風の素朴さとユーモア、アイロニー、死のモチーフ。交響曲とリンク。
《亡き子をしのぶ歌》 子を失った親の悲しみと諦念。感情の深さと抑制された表現。
《リュッケルトの詩による5つの歌曲》 哲学的・内面的な静謐さ。とりわけ《私はこの世に忘れられ》は超絶的な美しさ。
《大地の歌》 東洋的な死生観を取り入れた交響曲的歌曲集。生のはかなさと永遠への憧れ。

もし具体的に「この曲の詩と音楽の関係が知りたい!」とか「リュッケルト歌曲と亡き子の違いって?」などあれば、さらに掘り下げられるよ!どこまでいく?

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Gemini (2025.3.9)

グスタフ・マーラーの歌曲は、彼の交響曲と密接に結びついており、彼の音楽世界を理解する上で非常に重要な要素です。以下に、マーラーの歌曲の主な特徴を挙げます。

1. 交響曲との密接な関連性:

  • マーラーは、歌曲のアイデアやテーマを交響曲に流用したり、逆に交響曲の音楽を歌曲に転用したりすることがありました。
  • 例えば、「亡き子をしのぶ歌」は交響曲第3番や第5番と、「リュッケルトの詩による5つの歌」は交響曲第5番と関連性があります。
  • このように、彼の歌曲と交響曲は、互いに補完し合い、彼の音楽世界をより深く表現しています。

2. 詩と音楽の融合:

  • マーラーは、ドイツ・ロマン派の詩人たちの詩に感銘を受け、それらを歌曲のテキストとして用いました。
  • 彼は、詩の内容を深く理解し、音楽によって詩の世界をより豊かに表現することを目指しました。
  • 特に、詩の情感や情景描写を、巧みな和声や旋律によって際立たせています。

3. 人間の内面や感情の表現:

  • マーラーの歌曲は、人間の内面にある様々な感情、特に愛、悲しみ、孤独、死などを深く掘り下げて表現しています。
  • 彼の音楽は、聴く人の心を揺さぶり、深い共感を呼び起こします。
  • また、自然や宇宙に対する畏敬の念や、人間の存在の儚さなども、彼の歌曲の重要なテーマとなっています。

4. オーケストラ伴奏の重視:

  • マーラーは、ピアノ伴奏の歌曲だけでなく、オーケストラ伴奏の歌曲も数多く作曲しました。
  • 彼のオーケストラ伴奏は、色彩豊かで表現力豊かであり、歌曲の情感をより深く表現するのに貢献しています。
  • 特に、交響曲を作曲する上で培ったオーケストレーションの技術が、歌曲にも生かされています。

5. 独特の世界観:

  • マーラーの歌曲には、独特の厭世観や終末観が表れていることがあります。
  • それは、彼が生きた時代の社会的な不安や、彼自身の個人的な苦悩などが反映されたものと考えられます。
  • 彼の音楽は、単なる美しい旋律や和声の組み合わせではなく、深い思想や哲学が込められた芸術作品と言えるでしょう。

代表的な歌曲集:

  • 「さすらう若者の歌」
  • 「亡き子をしのぶ歌」
  • 「リュッケルトの詩による5つの歌」
  • 「子供の不思議な角笛」

これらの歌曲は、現在でも多くの演奏家によって歌い継がれ、聴く人を魅了し続けています。

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Claude (2025.3.10)

マーラーの歌曲には以下のような特徴があります:

  1. オーケストラ伴奏の重視 - ピアノ伴奏版も存在しますが、マーラーの歌曲はオーケストラ伴奏で作曲されることが多く、オーケストレーションが非常に重要な表現手段となっています。

  2. 交響的な発想 - 伴奏部は単なる伴奏ではなく、声部と対等な関係を持ち、時に交響曲的な複雑さと規模を持っています。

  3. 民俗的素材の芸術的昇華 - 「少年の魔法の角笛」などで民謡や民話に基づく素材を高度に芸術的な表現へと昇華させています。

  4. 文学的感性 - リュッケルト、ギョーテ、ニーチェなど質の高い詩に曲をつけ、詩の内容や構造を音楽的に解釈しています。

  5. 自然描写と象徴性 - 自然の音や風景が象徴的に描かれ、心理状態や哲学的テーマと結びついています。

  6. 死と再生のテーマ - 特に「亡き子をしのぶ歌」や「大地の歌」では、死と喪失、そして受容と再生のテーマが探求されています。

  7. アイロニーとグロテスク - 「少年の魔法の角笛」の一部の歌では、アイロニカルな表現やグロテスクな要素が用いられています。

  8. 声楽技法の拡張 - 歌唱パートは広い音域と表現力が要求され、時にはほとんど語るような表現(Sprechgesang)に近づくこともあります。

  9. 有機的な形式 - 詩の内容や感情的流れに沿った有機的な形式を用い、古典的な歌曲形式にとらわれない自由な展開がみられます。

  10. 交響曲との相互関係 - 歌曲の素材が交響曲に取り入れられたり(「少年の魔法の角笛」の素材→交響曲第2、3、4番)、逆に交響曲的発想が歌曲に持ち込まれたり(「大地の歌」)する相互影響関係があります。

マーラーの主要歌曲作品としては、「さすらう若人の歌」、「少年の魔法の角笛」、「リュッケルトの詩による歌曲」、「亡き子をしのぶ歌」、そして声楽とオーケストラによる「大地の歌」があります。これらの作品は、19世紀ドイツ・リートの伝統を20世紀に向けて拡張し、歌曲ジャンルの可能性を大きく広げました。

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プロンプト(Geminiのみ):交響曲第3番で「亡き子をしのぶ歌」に関連する部分を示してください。

Gemini (2025.3.19)

グスタフ・マーラーの交響曲第3番と歌曲集「亡き子をしのぶ歌」は、どちらもマーラーの作品ですが、直接的な音楽的関連性はありません。しかし、両作品には共通するテーマや感情がいくつか見られます。

共通するテーマと感情:

  • 死と喪失:
    • 「亡き子をしのぶ歌」は、文字通り子供の死を悼む歌曲集です。
    • 交響曲第3番も、自然の壮大さや生の喜びを描きながら、その背後にある死や儚さを感じさせる作品です。
  • 自然との一体感:
    • 両作品とも、自然の描写を通して内面的な感情を表現しています。
    • 自然の美しさや力強さが、死や喪失の感情と対比されることで、より深く心に響きます。
  • 内省と精神性:
    • マーラーは、両作品を通して、人間の存在や精神性について深く考察しています。
    • 死や喪失を通して、生の意味や価値を問いかけるようなメッセージが込められています。

関連性について:

  • 交響曲第3番の第4楽章では、ニーチェの詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節が歌われます。この詩は、生の喜びと苦悩、そして死について深く考察しており、「亡き子をしのぶ歌」と共通するテーマを持っています。
  • マーラーは、「亡き子をしのぶ歌」を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました。両作品には、マーラー自身の内面的な変化や成長が反映されていると考えられます。

まとめ:

交響曲第3番と「亡き子をしのぶ歌」は、直接的な音楽的関連性はありませんが、共通するテーマや感情を通して、マーラーの深い精神性を表現した作品です。

より詳しい情報については、以下の情報源もご参照ください。(以下略)

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プロンプト(Geminiのみ):マーラーは、「亡き子をしのぶ歌」を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました、というのは本当ですか?

Gemini (2025.3.19)

ご質問の件について、確認しました。

マーラーの「亡き子をしのぶ歌」と交響曲第3番の作曲年代は以下の通りです。

  • 交響曲第3番:
    • 1893年から1896年にかけて作曲
  • 亡き子をしのぶ歌:
    • 1901年から1904年にかけて作曲

このことから、「亡き子をしのぶ歌」は交響曲第3番よりも後に作曲されています。したがって、「マーラーは、『亡き子をしのぶ歌』を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました」という情報は正しくありません。

ただし、両作品には共通するテーマや感情が見られるため、関連付けて語られることが多いようです。

関連性について補足します。

  • 共通するテーマと感情:
    • どちらの作品にも、死や喪失、自然との一体感、内省と精神性といった共通のテーマが見られます。
    • マーラー自身の内面的な変化や成長が反映されていると考えられます。

これらの点から、両作品はマーラーの精神性を深く理解する上で重要な作品と言えるでしょう。

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プロンプト(Claudeのみ):マーラーの歌曲におけるSprechgesangの例を示してください。

Claude(2025.3.19)

マーラーの歌曲において、完全な「シュプレヒゲザング」(Sprechgesang)―すなわち、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」のような明確に指定された「話し歌い」の技法―は実際には使用されていません。マーラーの作品が作曲された時期(1880年代から1910年代初頭)は、この技法が正式に確立される前でした。

しかし、マーラーの歌曲には「話すような」表現や朗唱的な要素が見られる箇所があります。これらは厳密なシュプレヒゲザングではありませんが、声楽表現の拡張として注目できる例です:

  1. 「少年の魔法の角笛」の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」 - この歌曲では、説教をする場面で朗唱的な表現が求められています。

  2. 「少年の魔法の角笛」の「ラインの伝説」 - 特に「死の太鼓」の描写部分では、ほとんど話すような表現が含まれています。

  3. 「少年の魔法の角笛」の「軍鼓の音」 - 兵士が処刑される場面の描写では、感情の変化に応じて歌唱法が変化し、時に語るような表現も含まれます。

  4. 「大地の歌」の「酒に寄す」 - テノールのパートで、特に「猿の叫び」を表現する部分では、通常の歌唱から離れた表現が求められています。

これらの例は、後の作曲家たちによって発展させられることになるシュプレヒゲザングの先駆的要素とも言えるでしょう。マーラーの歌曲における表現の多様性は、20世紀の声楽音楽の発展に重要な影響を与えました。

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プロンプト(Claudeのみ):「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」における説教をする場面を具体的に示してください。

Claude(2025.3.19)

マーラーの「少年の魔法の角笛」に収められた「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(Des Antonius von Padua Fischpredigt) における説教場面について具体的に説明します。

この歌曲では、聖アントニウスが空の教会で説教をするために川に向かい、そこで魚たちに説教をする様子が描かれています。説教をする場面の特徴は以下の通りです:

  1. 楽譜上の特徴

    • 歌唱パートに「quasi parlando」(話すように)や「mit Humor」(ユーモアを持って)などの指示がみられる箇所があります
    • 特に「Die Predigt hat g'fallen」(説教は気に入られた)の部分では、ほとんど朗唱的な表現が求められます
  2. 具体的な箇所

    • 「Er predigt eine lange Zeit」(彼は長い時間説教した)の部分では、単調なリズムパターンの上で、説教する様子を模倣するような語り口調の歌唱が求められます
    • 「Kein Predigt niemalen」(どんな説教も決して)から始まる箇所は、説教師の語り口を模した抑揚で歌われます
  3. 音楽的表現

    • オーケストラ伴奏は繰り返しのパターンを持ち、単調な説教の様子を皮肉っぽく表現しています
    • 歌手は通常の歌唱と語りの中間のような表現で、説教の滑稽さを強調することが求められます

この歌曲の皮肉は、聖人の熱心な説教にもかかわらず、魚たちは説教を聞いた後もそれまでと変わらない生活を続ける点にあります。マーラーはこの作品で、説教という行為自体への風刺的な視点を音楽で表現しています。

楽曲全体にはアイロニーとユーモアが満ちており、説教の場面の半ば語るような表現はその効果を高めています。この作品はのちに交響曲第2番「復活」の第3楽章のスケルツォの素材としても使用されました。

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プロンプト(Claudeのみ):「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」でquasi parlandoの指示はどこにありますか?

Claude(2025.3.19)

申し訳ありません。私の前回の回答に誤りがありました。「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(Des Antonius von Padua Fischpredigt) の楽譜を確認すると、実際には「quasi parlando」という明確な指示は記載されていません。

この作品の楽譜には、以下のような演奏指示がありますが、「quasi parlando」という特定の指示は含まれていません:

  • 「Gemächlich. Ohne Hast」(ゆったりと、急がずに)- 冒頭の総合的なテンポ指示
  • 「Mit Humor」(ユーモアを持って)
  • 「dolce」(甘く)
  • 「ausdrucksvoll」(表現豊かに)

私が「quasi parlando」と誤って述べたのは、この作品の演奏慣習や解釈において、説教の場面で時に語るような表現が用いられることがあるという点を正確でない形で表現してしまったためです。

この歌曲には朗唱的な性格を持つ箇所はありますが、楽譜上で明示的に「quasi parlando」や「Sprechgesang」のような指示はマーラーによって記されていません。

誤った情報を提供してしまい、申し訳ありませんでした。

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プロンプト(Claudeのみ):「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」でEr predigt eine lange Zeitという歌詞はどの箇所で歌われますか?

Claude(2025.3.19)

「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(Des Antonius von Padua Fischpredigt) において、「Er predigt eine lange Zeit」(彼は長い時間説教した)という歌詞は、曲の中盤部分で歌われます。

具体的には、聖アントニウスが魚たちに向かって説教を始めた後、様々な種類の魚(鯉、鱒、鱸など)が説教を聞きに集まってくる様子が描写された後に登場します。

この歌詞は曲の構造上、以下のような位置にあります:

  1. 曲の冒頭:聖アントニウスが教会が空なのを見て、川に行き魚に説教することを決める場面
  2. 中盤前半:様々な魚が集まってくる描写
  3. 中盤部分:「Er predigt eine lange Zeit」の歌詞が登場
  4. 中盤後半:説教の内容と魚たちの反応
  5. 終盤:説教が終わり、魚たちが元の生活に戻る場面

この歌詞は、聖アントニウスの説教の長さと熱心さを皮肉っぽく表現するもので、その後に続く「魚たちは説教を聞いても変わらない」という結末への伏線となっています。

この部分の音楽は、繰り返しのパターンを持つオーケストラ伴奏の上で、単調ながらも説教の熱心さを表現するような旋律が歌われます。

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プロンプト(Claudeのみ):「ラインの伝説」の「死の太鼓」の描写部分について詳しく説明してください。

Claude(2025.3.19)

マーラーの「少年の魔法の角笛」に収録されている「ラインの伝説」(Der Schildwache Nachtlied / 夜警の歌)の中の「死の太鼓」(Todestrommel) の描写部分について詳しく説明します。

まず訂正させていただきますが、「死の太鼓」の描写が特に顕著なのは「ラインの伝説」ではなく、同じ「少年の魔法の角笛」収録の「軍鼓の音」(Der Tamboursg'sell / 軍鼓の少年)です。この歌曲は処刑される若い兵士(太鼓叩きの少年)の悲劇を描いています。

「軍鼓の音」における「死の太鼓」の描写:

  1. 音楽的特徴

    • オーケストラ伴奏では、実際に軍鼓(小太鼓)が使用され、処刑へと向かう行進のリズムを刻みます
    • 葬送行進曲のような遅いテンポと、不吉な雰囲気を醸し出す短調の音楽
    • 断片的なリズムパターンと休符の使用で緊張感を高める
  2. 歌唱表現

    • 特に「Gute Nacht, ihr Marmelstein! Ihr Berg und Hügelein!」(さらば、大理石よ!山々や丘よ!)の部分では、通常の歌唱表現から離れ、絶望と諦めが入り混じった半ば語るような表現が求められます
    • 声の強弱の急激な変化、抑制された表現から感情の爆発までの幅広い表現
  3. テキストと音楽の関係

    • 「死の太鼓」という言葉自体は直接現れませんが、死への行進を告げる太鼓の音がオーケストラで表現されています
    • テキストの悲劇的内容(若い兵士の最期)と音楽表現が一体となり、死の不可避性を強調しています

この歌曲でマーラーは、単なる民謡風の素材を芸術的に高め、死と別れの普遍的テーマを表現しています。完全なシュプレヒゲザングではないものの、通常の歌唱と語りの間の表現を用いることで、テキストの劇的な内容をより強く印象づけています。

「軍鼓の音」は後にベルクやシェーンベルクらによって発展される表現主義的な声楽作品の先駆的要素を含んでおり、マーラーの革新性を示す重要な作品です。 

2023年11月20日月曜日

イダ・デーメル(詩人のリヒャルト・デーメル夫人)の日記に出てくるマーラーの言葉(2023.11.20更新)

イダ・デーメル(詩人のリヒャルト・デーメル夫人)の日記に出てくるマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書p.121, 白水社版酒田健一訳p.112)
Es käme ihm auch immer wie Barbarei vor, wenn Musiker es unternähmen, vollendet schöne Gedichte in Musik zu setzen. Das sei so, als wenn ein Meister eine Marmorstatue gemeißelt habe und irgend ein Maler wollte Farbe darauf setzen. Er, Mahler, habe sich nur einiges aus dem Wunderhorn zu eigen gemacht ; zu diesem Buch stehe er seit frühester Kindheit in einem besonderen Verhältnis. Das seien keine vollendeten Gedichte, sondern Felsblöcke, aus denen jeder das Seine formen dürfe.

音楽家が完璧な詩に作曲しようと試みるのは、野蛮な行為としか思えない。それはまるで彫刻の大家が彫りあげた大理石の立像に、そこいらの絵描きが色をぬりたくろうとするようなものだ。だから自分は『子供の魔法の角笛』のなかからほんの少しばかり頂戴するにとどめた。この本とは幼いころから特別な因縁があったからだ。それは完成された詩ではなくて、だれもが思いのままに鑿をふるえる岩の塊なのだ。 

マーラーが自分の作品における歌詞の選択についての考えを述べた言葉。 マーラーは作曲にあたって原詩に手を入れることを躊躇しなかったが、その姿勢を裏付ける言葉だと思われる。 これを例えばデュパルクの言葉と比較するのは興味深い。 最初の1文については同じだが、その後は異なって、デュパルクは不可能事に挑んだのに対して、マーラーは終生、ずっと現実的だったと言えそうだ。 なお、比喩として彫刻家や画家を持ち出しているが、画家は丁度マーラーの姓との語呂合わせになっている(Maler / Mahler)のが意識してのことだとしたら、 機転のきいた言葉ではなかろうか。(機転があるのは記録者のデーメル夫人の方である可能性も否定できないが。)

ちなみに、ここでは割愛したが、この文章の前には戯曲に音楽をつけることについての発言があるが、それが暗に自分がオペラの作曲を放棄したことの 説明になっているようで、ここで引用した部分と両方あわせて第8交響曲第2部のゲーテ「ファウスト」第2部終幕への作曲のことを考えてみること同様、 興味深いものがある。

なお、原書のページは私が所蔵しているミッチェルによるドイツ語新版(1971)のものである。デーメル夫人の日記からの引用は Splendid Isolation 1905 の 章の最後に置かれているから、それを手がかりに探せば他の版でも同定は難しくないだろう。(2007.5.15, 2023.11.20邦訳を追加)

2008年10月21日火曜日

作品覚書(16)子供の魔法の角笛

マーラーの音楽は主観的であり、自己の感情、世界観、死生観その他もろもろのある時は誇大妄想的な、 ある時は感傷的で自己憐憫に溺れた表明である、というのはしばしばマーラーの音楽が鼻持ちならない ナルシスティックなものとして拒絶されるときの決まり文句に近い。そしてそれは勿論、一面において全く 間違っているというわけでもなかろう。音楽には色々あるから、マーラーの音楽とはおよそ懸け離れた、 ある次元において対極にあるような音楽は幾らでもあるだろうし、それらと比較した時に、マーラーの 音楽が上記のように規定されるのは致し方ない。幾ら強がって否定してみようとしたところで、 それには限界というものがある。どんなに逆立ちしたところで超えることの出来ない閾が存在する。

だがその一方で、マーラーの作品の中でも「子供の魔法の角笛」に作曲された歌曲を聴くとき、 人は些かはぐらかされたような、取り留めのない印象を覚えるのではなかろうか。それは、 「子供の死の歌」や「大地の歌」とは異なって、ほとんど主観的な色合いを欠いている。 様式的には歌詞もろとも「子供の魔法の角笛」の世界に近接する「さすらう若者の歌」ですら、 ぐっと主観的で個人的なドラマであり、そこには「私」がいるのは確かなことに感じられる。

それに比べて、「子供の魔法の角笛」の世界は何と客観的なことか。勿論、歌詞の上で 「私」が語り、歌う音楽はあるけれど、それは作者との同一視を拒む距離感をはっきりと 感じさせる。「少年鼓手」のような作品すら、作者ならぬ「私」への作者の眼差しが 感じられる。明らかにそこには客観性があるし、醒めた視線、意識の存在がある。

主題にしてもそうだ。「子供の魔法の角笛」にはしばしば軍隊が、兵士が登場するが、 マーラーは少年時代に兵営を間近にした生活を送ったに違いないとはいうものの、 総じてマーラーが生きた時代は大きな戦争のない、平和な時代だった。してみれば 戦争を知らない作曲家が書いた戦争を素材とした音楽を戦争を知らない聞き手が 受け取るという奇妙な状況が存在していることになる。例えばクセナキスとショスタコーヴィチは 勿論、ヴェーベルンもラヴェルも戦争とは無縁ではあり得なかったし、その作品には 様々な仕方で戦争の影が映り込んでいるのを感じずにはいられないが、マーラーの 場合にはそうした事情は見受けられない。要するに「子供の魔法の角笛」の歌詞は、 マーラーがある時はっきりと語ったと伝えられる通り、そこに彫刻が掘り出される原石、 素材の方に近く、決して作品の内容、主題といったものではないのだ。

だが、「子供の魔法の角笛」の性格に関しては、100年後の日本人は愚か、同じ文化的 伝統に属する、更に言えばマーラーに遙かに近い世代の人間ですら、ややもすれば見解が 分裂するようだ。それを証言する事例を一つだけあげれば、アドルノのマーラー論の第3章で Gebrochenheitについて論じるところ(p.195)で、In den Gedichten, mit denen Mahlers Musik sich durchtränkte, denen des Wunderhorns, waren Mittelalter und deutsche Renaissance selber schon Derivate (...)と述べたり、あるいはよりはっきりと第4章で歌曲について言及するところ(p.223)で、 リヒャルト・シュペヒトの「子供の魔法の角笛」の管弦楽伴奏版に対するコメントを引き合いに出しつつ、 以下のように述べていることが挙げられよう。

Er (=Richard Specht) schreckt nicht vor der Behauptung zurück: » In frühren Jahrhunderten mag man in Marktflecken, unter Soldaten, Hirten, Landleuten so gesungen haben « , (...) während doch jene Künste nicht nur die Wiedergabe auf Messen und Märkten ausschließen, die es ohnehin nichr mehr gibt, sondern dem Begriff des Volkslieds ins Gesicht schlagen.

これについていえば、そもそも「子供の魔法の角笛」というアンソロジーそのものが、これはしばしばあることだが、 アルニム=ブレンターノによる介入を受け、変形された「まがいもの」めいたところがあるらしいことも併せて 考えるべきだろうが、いずれにしても、マーラーの態度が、一方では自分が属していた世界、ドイツロマン派の 主観的な抒情詩系譜からみれば外部であるボヘミヤの民俗的世界に根ざしつつ、他方でそれに対する 距離感をはっきりと意識することにより、叙事的な語りとそれに対する注釈、世界と主体の関係の様相 そのものたりえていることは確かなことに思われる。してみれば、「子供の魔法の角笛」歌曲集は、マーラーを ドイツロマン派の末裔と見做す不当な単純化に対して異議申し立てを行う位置にあることになろう。

こうした微妙な距離感が、100年後の異邦の地に住む人間にどうしてわかるのか、それはそうした知識から 逆に音楽の聴き方を決める倒錯ではないか、という批判が考えられるが、実際「子供の魔法の角笛」 歌曲集に親しめば、少なくともこの歌曲集の民謡調は、いわゆるロマン派の主観的叙情とは懸け離れている こと(だから、ロマン派歌曲が好きな人の多くにとって、マーラーは寧ろとっつきにくい存在なのだ)、そして 他方では理由は何であれ、民謡に対してもはっきりとした距離感があり、民謡への擬態のような側面があることは はっきりとしてくる。その頂点は恐らく、「子供の魔法の角笛」への付曲の掉尾を飾る「起床合図」や「少年鼓手」と いった、もはや民謡調からは懸け離れた作品だろう。単純に旋律や動機が交響曲と連関しているという 以上に、これらの歌曲はその「語り物」的な性格により、その客観性により交響曲に限りなく接近するのである。 「無言歌」というのが、主観的・叙情的な歌曲とのアナロジーによって成り立っているとしたら、マーラーの 純粋器楽による「交響曲」は、「子供の魔法の角笛」歌曲集のような「語り物」とのアナロジーで成り立っている と言いうるかも知れない。 (2008.10.21 この項続く。)

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。管弦楽版による。)
歩哨の夜の歌第1節「行進曲風に」112B
第2節「少しよりゆっくりと」1330
第3節「テンポI」3145
第4節「少しよりゆっくりと」4662
第5節「テンポI」6391-g-B
第6節「ゆっくりと、ひきずることなく」92107
骨折り損のくたびれ儲け前奏「ゆったりと、陽気に」16A
第1の対話739
第2の対話「テンポI」4073
第3の対話「テンポI」74112
運の悪いときの慰めっこ前奏「大胆に、常にもっとも含蓄あるリズムで」112A
第1節1323fis
リフレイン2435e-h
第2節3645f-
間奏4653A
第3節「嘆くように(パロディを伴って)」5461C
第4節6269
リフレイン7077
間奏7885-fis
第5節86102D-A
この歌をこしらえたの だあれ前奏「陽気に楽しく」112F
第1節A1346
第2節B「ゆったりと」4768A-Des
第3節A6997F
この世の生前奏「不気味な動きで」16es
第1節741-B-b
第2節4274es-B-b
第3節75136es-B-es-b
魚に説教するパドヴァの聖アントニウス前奏「のんびりと、ユーモアを伴って」18c
第1節928
第2節2948
間奏「ユーモアを伴って」4963
第3,4節6487-C
間奏「パロディを伴って」88108-c-F
第5,6節109132
第7節133148c-G
間奏「ユーモアを伴って」149158c
第8節159176
第9節177197
ラインの伝説前奏「ゆったりと」116A
第1,2節1732-E
間奏3339
第3節4049A
第4節5057
間奏5870-D-F
第5,6節7190a-E
間奏9194-A
第7節95106
第8節107114
後奏115120
塔に囚われ迫害うけるものの歌第1節「激しく、強情に110d
第2節1128G
第3節2938d
第4節3964B
第5節6577C
第6節7898F
第7節99110d
美しい喇叭の鳴り響くところ前奏「夢見るように、静かに」120d
第1節前半2139
第1節後半、第2節4071D
第3節「冒頭のように」~「落ち着いて」721222d-Ges-h
間奏123129
第4節130162D
第5節163186d
後奏187192
お高い良識 褒める歌前奏「大胆に」19D
第1節1025
間奏2635
第2節3656
第3節5787d-D
第4節88103
第5節104129
レヴェルゲ(死んだ鼓手)前奏「行進して、連綿と」17d
第1節817
第2節1829
第3節「表情を伴って」3047B
間奏4856G
第4節「表情を伴って」5772
第5節7289D-d
間奏8994-es
第6節「非常に強く」95108
第7節109127-fis
間奏~「はっきりと抑えて」~「冒頭より少し荘重に」128153-d
第8節154171
少年鼓笛兵前奏「荘重に、虚ろに」18d
第1節932
第2節3358-g
第3節5977d-g
間奏~「はっきりと遅くして」78110-c
第4節111126C/c
第5節127161
後奏162171c

2008年5月24日土曜日

私のマーラー受容:リートと歌第2,3集・子供の魔法の角笛

「子供の魔法の角笛」歌曲集も「子供の死の歌」同様、最初はLPレコードではなくカセットテープで、 シャーリー=カーク、ノーマン、ハイティンク・コンセルトヘボウのものをずっと聴いていた。 リートと歌第2,3集は音源にめぐり合えないかわりに楽譜を持っていて、これまた 自分で楽譜を読んで発見した感じが強い。個別の曲について言えば、「私は緑の森を歩いた」はマーラーがピアノロールに残した 演奏を聴いていたこともあり、また「夏の交代」は、第3交響曲第3楽章との関係のせいで印象が特に強い。 「子供の魔法の角笛」歌曲集もピアノ伴奏版の楽譜を手に入れた。(ただし全曲ではなかったと思う。)

「角笛歌曲集」については、昔よりも今のほうが一層、色々なニュアンスが感じ取れるように なったと思う。昔から親しんでいたけれど、少なくともそのうちの幾つかはどちらかといえば大人の音楽だろう。 まだまだきちんと聴けていないように感じていて、寧ろこれからじっくり聴いていきたいと思っている。 その独特の醒めた感じやイロニー、そして意識的なアナクロニスムといった、角笛歌曲集に顕著な特性は マーラーを「意識の音楽」と捉える上で鍵となるものであり、また、マーラーによる歌詞の改変の様相が 最も顕著な形で観察できるのもこの曲集で、色々な意味でマーラーの持っている一面を窺い知る 格好の場であることは疑いないだろう。

2008年3月15日土曜日

所蔵録音覚書:子供の魔法の角笛 (2022.1.3 更新)

  • 子供の魔法の角笛の詩による12の歌曲(起床合図,この世の生活, 無駄な骨折り,ラインの小伝説,少年鼓手, 歩哨の夜の歌, この歌をひねり出したのは誰, 高い知性への賛美,魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 塔の中で迫害されている者の歌, 不幸な中の慰め, 美しいトランペットの響くところ), セル, ロンドン交響楽団 / シュヴァルツコップフ(Sp.) / フィッシャー=ディースカウ(Br.), 1968.3.8-9, (7:04, 2:42, 2:26, 3:04, 5:49, 6:16, 1:57, 2:45, 3:58, 3:41, 2:10, 7:31), ロンドン、キングズウェイ・ホール, STEREO, EMI
  • 子供の魔法の角笛の詩による8つの歌(歩哨の夜の歌,無駄な骨折り, この歌をひねり出したのは誰, 美しいトランペットの響くところ, 起床合図, 少年鼓手, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 夏の交替), キーンリーサイド(Br.) / ラトル, バーミンガム市交響楽団, 1997.9.16-17, (5:51, 2:31, 1:58, 6:58, 6:30, 5:27, 3:47, 1:43), バーミンガム、シンフォニー・ホール, STEREO, EMI
  • 子供の魔法の角笛(13曲, 歩哨の夜の歌,この歌をひねり出したのは誰, 不幸な中の慰め, 起床合図, 美しいトランペットの響くところ, この世の生活, 塔の中で迫害されている者の歌, 少年鼓手, 原光, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ラインの小伝説, 無駄な骨折り, 高い知性への賛美), フェルミルオン(Sp.) / ヴァイクル(Br.) / インバル, ウィーン交響楽団, 1996.4.10-14, (6:12, 2:16, 2:25, 6:21, 8:12, 2:40, 4:26, 5:11, 5:31, 4:04, 3:45, 2:58, 2:11), ウィーン、コンツェルトハウス, STEREO, Denon
  • 子供の魔法の角笛の詩による3つの歌(魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, この世の生活, 原光), ファスベンダー(MS.) / シャイー, ベルリン放送交響楽団, 1988.2/1989.1/3, (3:37, 2:33, 4:45), ベルリン、イエス・キリスト教会, STEREO, Decca
  • 子供の魔法の角笛の詩による14の歌曲(歩哨の夜の歌,この歌をひねり出したのは誰, 少年鼓手, この世の生活, 無駄な骨折り, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 原光, 起床合図, ラインの小伝説, 高い知性への賛美, 不幸な中の慰め, 美しいトランペットの響くところ, 塔の中で迫害されている者の歌, 天国の生活), ボニー(Sp.) / フルゴーニ(MS.) / ウィンベル(Tn.) / ゲルネ(Br.) / シャイー, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団, 2000.6.19/20/23, (6:18, 2:02, 6:06, 2:38, 2:44, 3:50, 5:46, 6:55, 3:14, 2:29, 2:22, 7:26, 3:57, 9:45), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Decca
  • 子供の魔法の角笛より7曲(塔の中で迫害されている者の歌, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 不幸な時の慰め, ラインの小伝説, 歩哨の夜の歌, 少年鼓手, 起床合図), ヘンシェル(Br.) / ナガノ, ハレ管弦楽団, 1999.5, (4:21, 3:57, 2:26, 3:04, 5:40, 5:57, 6:24), マンチェスター、ブリッジウォーター・ホール, STEREO, Erato
  • 子供の魔法の角笛の詩による歌曲集(起床合図, ラインの小伝説, 不幸な中の慰め, 無駄な骨折り, 歩哨の夜の歌, この世の生活, 塔の中で迫害されている者の歌, この歌をひねり出したのは誰, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 高い知性への賛美, 美しいトランペットの響くところ, 少年鼓手, 原光), フォン・オッター(MS.) / クヴァストホフ(Br.) / アバド, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 1998.2, (7:13, 3:21, 2:22, 2:42, 6:10, 2:52, 3:56, 2:05, 4:03, 2:32, 7:11, 6:53, 5:44), ベルリン、フィルハーモニー・大ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 子供の魔法の角笛からの詩による12の歌曲(歩哨の夜の歌,無駄な骨折り, 不幸な中の慰め,この歌をひねり出したのは誰,この世の生活, 起床合図, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ラインの小伝説, 塔の中で迫害されている者の歌, 美しいトランペットの響くところ,高い知性への賛美, 少年鼓手), コジェナ(MS.) / ゲルハーエル(Br.) / ブーレーズ, クリーヴランド管弦楽団, 2010.2(Live), (5:29, 3:00, 2:53, 2:21, 2:45, 6:37, 3:35, 3:29, 4:29, 7:00, 2:38, 4:56), クリーヴランド、セヴェランス・ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 子供の魔法の角笛(11曲)(起床合図, ラインの小伝説, 少年鼓手, この歌をひねり出したのは誰, 歩哨の夜の歌, 高い知性への賛美, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, この世の生活, 不幸な中の慰め, 美しいトランペットの響くところ, 塔の中で迫害されている者の歌), ファスベンダー(Sp.) / フィッシャー=ディースカウ(Br.) / ツェンダー, ザールブリュッケン放送交響楽団, 1979.4.23, (6:26, 3:12, 5:58, 2:06, 5:49, 2:32, 3:50, 2:48, 2:08, 6:20, 3:58), ザールブリュッケン、コングレス・ハレ, STEREO, cpo
  • 子供の魔法の角笛(5曲)(魚に説教するパドヴァの聖アントニウス,ラインの小伝説, 高い知性への賛美, 少年鼓手, 起床合図), ミュラー=ブラッハマン(Br.) / ギーレン, 南西ドイツ放送交響楽団, 2009.1.25/29, (3:53, 3:30, 2:38, 6:03, 7:23), フライブルク、オーディトリオ「アルフレッド・クラウス」, STEREO, hänssler
  • 子供の魔法の角笛(9曲)(歩哨の夜の歌,この歌をひねり出したのは誰,塔の中で迫害されている者の歌, 不幸な中の慰め, この世の生活, 美しいトランペットの響くところ, 天国の生活, 無駄な骨折り, 原光), イヴェン(Sp.) / ミュラー=ブラッハマン(Br.) / ギーレン, 南西ドイツ放送交響楽団, 2009.1.25/29/3.22-28, (6:38, 2:07, 4:34, 2:32, 2:51, 7:09, 9:12, 3:00, 5:42), フライブルク、コンツェルトハウス, STEREO, hänssler
  • 子供の魔法の角笛(歩哨の夜の歌,この歌をひねり出したのは誰, 不幸な中の慰め, 起床合図, 美しいトランペットの響くところ, この世の生活, 塔の中で迫害されている者の歌, 少年鼓手, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ラインの小伝説, 無駄な骨折り, 原光, 高い知性への賛美), ベリー(Br.), ルートヴィヒ(A.) / バーンスタイン(Pf.), 1968.4.24, (5:49, 1:52, 2:31, 7:04, 6:49, 2:41, 5:08, 4:54, 3:37, 3:18, 2:52, 4:48, 2:38), ウィーン, STEREO, SONY
  • 子供の魔法の角笛(歩哨の夜の歌,この歌をひねり出したのは誰, 少年鼓手, この世の生活, 無駄な骨折り, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 起床合図, ラインの小伝説, 高い知性への賛美, 美しいトランペットの響くところ, 塔の中で迫害されている者の歌, 不幸な中の慰め,原光), ポップ(Sp.) / シュミット(Br.) / バーンスタイン, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1987.10, (6:04, 2:13, 5:18, 2:57, 3:03, 3:43, 6:47, 3:35, 2:34, 8:29, 4:38, 2:28, 5:49), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 子供の魔法の角笛(歩哨の夜の歌, この歌をひねり出したのは誰, 少年鼓手, この世の生活, 無駄な骨折り, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 起床合図, ラインの小伝説, 高い知性への賛美, 美しいトランペットの響くところ, 塔の中で迫害されている者の歌, 不幸な中の慰め, 原光), ポップ(Sp.) / グレンロース(Br.) / バーンスタイン, イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団, 1984.5, (6:04, 2:13, 5:18, 2:57, 3:03, 3:43, 6:47, 3:35, 2:34, 8:29, 4:38, 2:28, 5:49), テルアヴィヴ、マン・オーディトリウム, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 子供の魔法の角笛(歩哨の夜の歌,この歌をひねり出したのは誰, 少年鼓手, ラインの小伝説, 塔の中で迫害されている者の歌, 原光, 起床合図, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 無駄な骨折り, 美しいトランペットの響くところ, 高い知性への賛美, この世の生活, 不幸な中の慰め), ベリー(Br.), ルートヴィヒ(Ms.) / バーンスタイン, ニューヨーク・フィルハーモニック, 1967.10.17/1969.2.18, (5:53, 2:04, 5:59, 3:34, 5:36, 6:27, 5:52, 3:39, 2:50, 7:00, 2:09, 2:50, 2:48), ニューヨーク、フィルハーモニーホール, STEREO, SONY
  • この世の生活, トゥーレル(Sp) / バーンスタイン, ニューヨーク・フィルハーモニック, 1960.2.16, (2:31), ニューヨーク、セント・ジョージ・ホテル, MONO, SONY
  • この世の生活, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, フィッシャー=ディスカウ(Br.) / バレンボイム(Pf.), 1971.9.14(Live), (2:32, 3:50), ベルリン, STEREO, Audite
  • 子供の魔法の角笛(歩哨の夜の歌,無駄な骨折り,不幸な中の慰め, この歌をひねり出したのは誰,この世の生活,魚に説教するパドヴァの聖アントニウス,ラインの小伝説,塔の中で迫害されている者の歌, 美しいトランペットの響くところ,高い知性への賛美, 起床合図, 少年鼓手), フィッシャー=ディスカウ(Br.) / バレンボイム(Pf.), 1978.2.5/10, (5:53, 2:47, 2:21, 2:05, 2:32, 3:49, 3:30, 3:56, 7:03, 2:34, 7:06, 6:04), ベルリン、ジーメンス・ヴィラ, STEREO, EMI
  • 子供の魔法の角笛(塔の中で迫害されている者の歌, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 高い知性への賛美, 起床合図), クラウゼ(Br.) / ハイティンク, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1981.12.25(Live), (4:49, 3:50, 2:38, 7:04), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Philips
  • 起床合図, ベルマン(Bs.) / ノイマン, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 , 1977.10.10-12, (7:47), プラハ、ルドルフィヌム, STEREO, Supraphon
  • トランペットの美しく鳴り響くところ, ソウクポヴァー(A.) / ノイマン, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 , 1962.12.3-5, (5:30), プラハ、ルドルフィヌム, STEREO, Supraphon
  • この歌をひねりだしたのは誰, シュトゥックゴルト(Sp.) 管弦楽伴奏, 1921(Naxosは1915頃としている), (1:51), MONO, Deutsche Grammophon / Naxos Historical
  • この歌をひねりだしたのは誰, ミス=グマイナー(Sp.) ピアノ伴奏, 1926頃, (2:09), MONO, Deutsche Grammophon / Naxos Historical
  • ラインの伝説,少年鼓手 シュルスヌス(Br.) / ヴァイゲルト, ベルリン国立歌劇場管弦楽団, 1931, (3:36, 4:55), ベルリン, MONO, Deutsche Grammophon / Naxos Historical
  • 原光, シャルル=カイエ(Ms.) / マイロヴィツ, ベルリン国立歌劇場管弦楽団, 1930, (4:47), ベルリン, MONO, Ultraphon / Naxos Historical
  • 私は優しい香りを吸った(英語歌唱), クルマン(Tn.) サージェント / オーケストラ不明, 1938, (2:49), , MONO, Membran
  • この世の生活, ルートヴィヒ(A.) / クレンペラー, フィルハーモニア管弦楽団, 1964.2.17-18, (3:08), ロンドン、キングスウェイ・ホール, STEREO, EMI
  • 美しいトランペットが鳴る所, ルートヴィヒ(A.) / クレンペラー, フィルハーモニア管弦楽団, 1964.2.17-18, (6:03), ロンドン、キングスウェイ・ホール, STEREO, EMI
  • この世の生活, 美しいトランペットの響くところ, ルートヴィヒ(MS) / クレンペラー, フィルハーモニア管弦楽団, 1964.2.17-18, (3:00, 5:55), ロンドン、キングズウェイホール, STEREO, EMI
  • この歌をひねり出したのは誰, 無駄な骨折り, 美しいトランペットの響くところ, ラインの小伝説,  イヴォンヌ・ミントン(Sp) / ショルティ, シカゴ交響楽団, 1970.8.1/7, (3:30, 2:50, 6:55, 3:10), シカゴ、メディナ・テンプル, STEREO, DECCA
  • 子供の魔法の角笛(起床合図, 無駄な骨折り, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, この世の生活, 不幸な中の慰め, 美しいトランペットの響くところ, この歌をひねり出したのは誰, 高い知性への賛美, 少年鼓手, 天国の生活, 塔の中で迫害されている者の歌, ラインの小伝説, 歩哨の夜の歌, 原光),コノリー(MS) / ヘンシェル(Br) / ヘレヴェッヘ, シャンゼリゼ管弦楽団, 2005.10, (6:40,2:36,3:49,2:53,2:22,6:40,2:05,2:31,5:30,8:48,4:05,2:59,5:30,5:04), ディジョン、オーディトリウム, STEREO, Harmonia Mundi
  • 子供の魔法の角笛(起床合図, この世の生活, 無駄な骨折り, ラインの小伝説, 少年鼓手, 歩哨の夜の歌, この歌をひねり出したのは誰, 高い知性への賛美, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 塔の中で迫害されている者の歌, 不幸な中の慰め, 美しいトランペットの響くところ),アン・マレイ(A) / トマス・アレン(Br) / マッケラス, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団, 1990.10.16-20, (6:55,2:51,2:32,3:08,6:26,6:10,1:55,2:30,4:04,3:55,2:39,8:06), ロンドン、アビーロードスタジオ, STEREO, Virgin Classics
  • この歌をひねり出したのは誰, エリザベート・シューマン(Sp.) / ジョージ・リーヴス(Pf.), 1930.2.18, (1:51), ロンドン、スモール・クイーンズ・ホール, MONO, HMV
  • この世の生活, カリン・ブランツェル(Sp.) / ピアニスト不明(Pf.), 1950, (2:21), ニューヨーク、エドワード・J・スミス, REMINGTON,  
  • 原光, キャスリーン・フェリアー(A) / フレデリック・ストーン(Pf.), 1950.9.28, (1:55), , MONO, SOMM
  • この歌をひねり出したのは誰, ラインの小伝説, アニー・フェルバーマイヤー(Sp.) / ヴィクトル・グレーフ(Pf.), 1952, (2:10, 3:02), ウィーン, MONO, Vanguard
  • 三人の天使が歌う(ヨーゼフ・ヴェス管弦楽編曲), アニー・フェルバーマイヤー(Sp.) / プロハスカ, ウィーン国立歌劇場管弦楽団, 1951, (4:31), ウィーン, MONO, Vanguard
  • この世の生活, ラインの小伝説, この歌をひねり出したのは誰, 無駄な骨折り, 美しいトランペットの響くところ, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ロルナ・シドニー(Sp.) / プロハスカ, ウィーン国立歌劇場管弦楽団, 1952, (2:55,3:08,1:49,2:32,6:05,3:57), ウィーン、楽友協会、ブラームスザール, MONO, Vanguard
  • 起床合図, 高い知性への賛美, 歩哨の夜の歌, 少年鼓手, 不幸な中の慰め, 塔の中で迫害されている者の歌, アルフレッド・ポエル(Bs.) ,プロハスカ, ウィーン国立歌劇場管弦楽団, 1952, (6:33,2:13,4:55,4:36,2:04,3:41), ウィーン、楽友協会、ブラームスザール, MONO, Vanguard 
  • 美しいトランペットの響くところ, イルムガルト・ゼーフリート(Sp.) / ワルター, BBC交響楽団, 1955.5.29(Live), (5:13), ロンドン, MONO, ICA
  • 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ラインの小伝説, クリスタ・ルートヴィヒ(MS.) / ジェラルド・ムーア(Pf.), 1957.11.13, (4:04,2:58), ロンドン、アビーロードスタジオ, MONO, EMI
  • 美しいトランペットの響くところ, 歩哨の夜の歌, この世の生活, この歌をひねり出したのは誰, 高い知性への賛美, クリスタ・ルートヴィヒ(MS.) / ジェラルド・ムーア(Pf.), 1959.5.3-5, (6:30,6:35,3:05,2:15,2:50), ロンドン、アビーロードスタジオ, MONO, EMI
  • 美しいトランペットの響くところ, エリザベート・シュヴァルツコプフ(Sp.) / ワルター, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1960.5.29(Live), (5:10), ウィーン、ムジークフェラインザール, MONO, Bruno Walter Society
  • 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ラインの小伝説, 原光, クリスタ・ルートヴィヒ(MS.) / / エリック・ウェルバ(Pf.), 1963.8.10(Live), (4:38,2:50,5:03), ザルツブルク、ザルツブルク音楽祭, MONO, Orfeo  
  • この世の生活, 高い知性への賛歌, レギーナ・レズニク(Sp) / リヒャルト・ヴォイタッハ(Pf.), 1968.3.11, (3:10, 2;24), ニューヨーク、30番街スタジオ, STEREO, SONY
  • 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ラインの小伝説, 美しいトランペットの響くところ, イルムガルト・ゼーフリート(Sp.) / エリック・ウェルバ(Pf.), 1969.5.29(Live), (4:07,3:30,5:39), ザルツブルク、モーツァルテウム, MONO, Orfeo  
  • この世の生活,この歌をひねり出したのは誰, エリー・アメリンク(Sp.) / ベンジャミン・ブリテン, イギリス室内管弦楽団, 1969.6.22(Live), (3:03, 2:23), サフォーク、ブライスバラ教会, STEREO, BBC legends
  • この世の生活, 美しいトランペットの響くところ, 原光, ジェシー・ノーマン(Sp.) / アーウィン・ゲージ(Pf.), 1971.12.17-21, (2:55,6:22,4:46), ベルリン、ヨハネスシュティフト, MONO, MEMORIES
  • 起床合図, ラインの小伝説, 塔の中で迫害されている者の歌, この歌をひねり出したのは誰, 高い知性への賛美, 歩哨の夜の歌, 美しいトランペットの響くところ, 不幸な中の慰め, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 無駄な骨折り, この世の生活, 少年鼓手, ジャネット・ベイカー(A) / ジェレイント・エヴァンズ(Br) /ウィン・モリス, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団, 1966.3.28-29, (6:00,2:57,3:58,1:57,2:19,6:00,6:00,2:10,4:00,2:15,3:06,5:25), ロンドン、ワトフォード・タウン・ホール, MONO, NIMBUS
  • 起床合図, この世の生活, 高い知性への賛美, ラインの小伝説, 歩哨の夜の歌, この歌をひねり出したのは誰, 無駄な骨折り, 少年鼓手, 不幸な中の慰め, 美しいトランペットの響くところ, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 塔の中で迫害されている者の歌, 原光, モーリーン・フォレスター(A) / ハインツ・レーフス(BsBr) / プロハスカ, ウィーン祝祭管弦楽団, 1963.3.27-28/6.1, (6:17,2:59,2:20,3:10,5:31,2:04,2:27,4:56,2:22,5:52,4:03,3:49,4:54), ウィーン、楽友協会、ブラームスザール, MONO, Vanguard
  • 起床合図, 少年鼓手 ファン・ダム(Br.) / ジャン=クロード・カサドシュ, リール国立管弦楽団, 1986.11, (6:52, 6:47), リール、パレ・デ・コングレ, STEREO, Forlaine
  • 起床合図, 少年鼓手 歩哨の夜の歌, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, ホーカン・ハーゲゴール(Br.) / ベルティー二, ケルン放送交響楽団, 1993.1.18-21(Live), (7:14, 5:39, 6:00, 3:49), ケルン、フィルハーモニー, STEREO, Capriccio
  • 子供の魔法の角笛(起床合図, この世の生活, 歩哨の夜の歌, 無駄な骨折り, ラインの小伝説, 少年鼓手, この歌をひねり出したのは誰, 高い知性への賛美, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 塔の中で迫害されている者の歌, 不幸な中の慰め, 美しいトランペットの響くところ), ポップ(Sp.) / ヴァイクル(Br.) / テンシュテット, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団, 1985.2.6-7/1986.3.29-30, (7:23, 2:34, 2:26, 3:22, 6:45, 6:40, 2:00, 2:39, 4:07, 3:32, 2:02, 8:41), ロンドン、アビーロード・スタジオ, STEREO, EMI
  • 子供の魔法の角笛(美しいトランペットの響くところ, 歩哨の夜の歌, 少年鼓手, ラインの小伝説, 高い知性への賛美, 不幸な中の慰め, この世の生活, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 無駄な骨折り, 塔の中で迫害されている者の歌, この歌をひねり出したのは誰, 起床合図), フィッシャー=ディースカウ(Br.) / バレンボイム, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 1989.4.12-17, (7:12, 6:00, 5:49, 3:15, 2:27, 2:16, 2:39, 4:07, 2:46, 3:44, 2:03, 6:43), ベルリン、フィルハーモニー, STEREO, Sony
  • 子供の魔法の角笛(ラインの小伝説, この歌をひねり出したのは誰, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 美しいトランペットの響くところ, 少年鼓手, 高い知性への賛美, 歩哨の夜の歌, 原光, 不幸な中の慰め, 塔の中で迫害されている者の歌, 無駄な骨折り, 起床合図, この世の生活, 天国の生活), エルツェ(Sp.) / フォレ(Br.) / シュテンツ, ケルン・ギュルツニッヒ管弦楽団, 2009.8.23-26/12.28-29, (3:11, 1:57, 4:05, 6:11, 5:24, 2:31, 5:28, 5:18, 2:26, 4:09, 2:37, 6:55, 2:42, 8:25), ケルン、フィルハーモニー, STEREO, OEHMS
  • 子供の魔法の角笛の詩による5つの歌(塔の中で迫害されている者の歌, 少年鼓手, 美しいトランペットの響くところ, 起床合図, 原光), トーマス・ハンプソン(Br.),/ ティルソン=トーマス, サンフランシスコ交響楽団,2007.5.10-13(Live),  (3:54, 5:34, 6:54, 6:24, 5:16), サンフランシスコ、デイヴィス・シンフォニー・ホール, STEREO, SFSMEDIA
  • 子供の魔法の角笛(ラインの小伝説, 無駄な骨折り, 不幸な中の慰め, この歌をひねり出したのは誰, 高い知性への賛美, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 起床合図, 少年鼓手, 歩哨の夜の歌, 塔の中で迫害されている者の歌, 美しいトランペットの響くところ, この世の生活, 天国の生活, 原光), ハンプソン(Br.) / ウィーナー・ヴィルトゥオーゼン, 2010.3/7, (3:19, 3:05, 2:24, 2:10, 2:47, 4:13, 6:26, 6:56, 6:19, 4:14, 7:50, 3:05, 8:21, 5:55), ライディング、フランツ・リスト・センター, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 子供の魔法の角笛(歩哨の夜の歌, 起床合図, ラインの小伝説, この歌をひねり出したのは誰, 無駄な骨折り, 不幸な中の慰め, 高い知性への賛美, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 塔の中で迫害されている者の歌, 少年鼓手, 美しいトランペットの響くところ, この世の生活, 天国の生活, 原光, 三人の天使が歌をうたう), ハンプソン(Br.) / パーソンズ(Pf.), 1991.11/1993.6, (6:13,7:07, 3:25, 2:10, 3:11, 2:21, 2:59, 4:14, 4:25, 6:31, 8:13, 2:50, 8:25, 5:18, 4:22), ベルリン、テルデック・スタジオ, STEREO, Teldec
  • ラインの小伝説, 高い知性への賛美,魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, 起床合図, 少年鼓手, 塔の中で迫害されている者の歌, 美しいラッパの響くところ, この世の生活, 天国の生活, 原光, トマス・ハンプソン(Br.) / ヴォルフラム・リーガー(Pf.), 2001.10.25(Live), (3:10, 2:56, 4:25, 7:39, 6:27, 4;20, 8:25, 2:57, 8:54, 5:50). パリ, シャトレ座, DVD, TDK core
  • 子供の魔法の角笛(起床合図, 少年鼓手, 不幸な中の慰め, この世の生活, ラインの小伝説, 塔の中で迫害されている者の歌, 高い知性への賛美, 歩哨の夜の歌, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, この歌をひねり出したのは誰, 美しいトランペットの響くところ), トマス・E・バウアー(Br.) / ウタ・ヒェルシャー(Pf.), 2002.10.22-25, (6:36, 5:45, 2:31, 2:55, 3:02, 4:15, 2:39, 5:51, 4:21, 2:14, 6:19), フライブルク、エブネット城公園音楽ワークショップ、テオドール・エーゲル・ホール, STEREO, Ars Musici
  • 子供の魔法の角笛(起床合図, 高い知性への賛美, ラインの小伝説, 塔の中で迫害されている者の歌, 美しいトランペットの響くところ, 歩哨の夜の歌, この世の生活, 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス, この歌をひねり出したのは誰, 不幸な時の慰め, 無駄な骨折り, 少年鼓手, 原光), ステファン・ゲンツ(Br.) / ロジャー・ヴィニョルズ(Pf.), 2007.2.15-18, (6:35, 2:50, 3:02, 4:18, 7:14, 5:55, 3:08, 4:28, 2:13, 2:40, 3:07, 5:28, 5:00). STEREO, Hyperion
管弦楽伴奏版の子供の魔法の角笛に基づく歌曲集の方は、その中にどれを含めるかについては必ずしも一定していない。もともと連作歌曲集として 編まれた訳ではないので無理もないのだが、長いスパンに渉って徐々に追加されていった経緯もあり、その一方で交響曲の楽章に埋め込まれるものが 出てきたりしているのがその理由である。上記の中ではナガノがハレ管弦楽団を指揮した演奏の録音は、「子供の死の歌」を含むリュッケルトの詩による歌曲とともに、 1905年1月29日のマーラー自身の指揮による歌曲の演奏会のプログラムを再現した企画であり、興味深い。なお、この歌曲集は「原光」のように交響曲 楽章に組み込まれた時に声部指定が行われたものを除くと、声部の指定がないものが多いため、男声・女声のいずれが歌うことも可能なはずだが、 一般には男声のみによる場合と、歌詞の上で男女の掛け合いのような構成になっている曲について男声・女声が分担して歌い(ただし勿論、本来的な 意味でのデュエットではない)、残りの曲は曲によって男声・女声で分担する場合が多いようだ。後者の場合にはだいたい分担は決まっていて、 高い知性への賛美、起床合図、少年鼓手、魚に説教するパドヴァの聖アントニウスといったところは専ら男声で、ラインの小伝説、この世の生活、 この歌をひねり出したのは誰は女声と、歌詞の内容などから大体分担が決まっているようである。だが、バーンスタインの伴奏でベリーとルートヴィヒ歌唱の ものでは管弦楽伴奏版もピアノ伴奏版も、魚に説教するパドヴァの聖アントニウスをルートヴィヒが担当しており、興味深い。
なお、 シュルスヌスの2曲とシャルル=カイエの「原光」の録音の歴史的価値の高さには異論がなかろう。とりわけシャルル=カイエは1907年にマーラーが契約し、短期間ではあったがマーラーの下でウィーン宮廷歌劇場で活躍した歌手であり、1911年11月20日には「大地の歌」の初演をワルターの下で 歌っている。