2023年11月20日月曜日

イダ・デーメル(詩人のリヒャルト・デーメル夫人)の日記に出てくるマーラーの言葉(2023.11.20更新)

イダ・デーメル(詩人のリヒャルト・デーメル夫人)の日記に出てくるマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書p.121, 白水社版酒田健一訳p.112)
Es käme ihm auch immer wie Barbarei vor, wenn Musiker es unternähmen, vollendet schöne Gedichte in Musik zu setzen. Das sei so, als wenn ein Meister eine Marmorstatue gemeißelt habe und irgend ein Maler wollte Farbe darauf setzen. Er, Mahler, habe sich nur einiges aus dem Wunderhorn zu eigen gemacht ; zu diesem Buch stehe er seit frühester Kindheit in einem besonderen Verhältnis. Das seien keine vollendeten Gedichte, sondern Felsblöcke, aus denen jeder das Seine formen dürfe.

音楽家が完璧な詩に作曲しようと試みるのは、野蛮な行為としか思えない。それはまるで彫刻の大家が彫りあげた大理石の立像に、そこいらの絵描きが色をぬりたくろうとするようなものだ。だから自分は『子供の魔法の角笛』のなかからほんの少しばかり頂戴するにとどめた。この本とは幼いころから特別な因縁があったからだ。それは完成された詩ではなくて、だれもが思いのままに鑿をふるえる岩の塊なのだ。 

マーラーが自分の作品における歌詞の選択についての考えを述べた言葉。 マーラーは作曲にあたって原詩に手を入れることを躊躇しなかったが、その姿勢を裏付ける言葉だと思われる。 これを例えばデュパルクの言葉と比較するのは興味深い。 最初の1文については同じだが、その後は異なって、デュパルクは不可能事に挑んだのに対して、マーラーは終生、ずっと現実的だったと言えそうだ。 なお、比喩として彫刻家や画家を持ち出しているが、画家は丁度マーラーの姓との語呂合わせになっている(Maler / Mahler)のが意識してのことだとしたら、 機転のきいた言葉ではなかろうか。(機転があるのは記録者のデーメル夫人の方である可能性も否定できないが。)

ちなみに、ここでは割愛したが、この文章の前には戯曲に音楽をつけることについての発言があるが、それが暗に自分がオペラの作曲を放棄したことの 説明になっているようで、ここで引用した部分と両方あわせて第8交響曲第2部のゲーテ「ファウスト」第2部終幕への作曲のことを考えてみること同様、 興味深いものがある。

なお、原書のページは私が所蔵しているミッチェルによるドイツ語新版(1971)のものである。デーメル夫人の日記からの引用は Splendid Isolation 1905 の 章の最後に置かれているから、それを手がかりに探せば他の版でも同定は難しくないだろう。(2007.5.15, 2023.11.20邦訳を追加)

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