お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2020年4月4日土曜日

1892年、ハンブルクで…:マーラー祝祭オーケストラの公演延期に接して(2020.4.7追記)

 未知のウィルスが原因の伝染病の猛威の前には、深層学習によるAI技術のブレイクスルーがあり、シンギュラリティが論じられるようになっても尚、その実現には程遠い今の時点では、人間の営みの基本は歴史が証言する、これまで繰り返してきたものと大きくは変わらず、そこで一人ひとりが直面せざる得ない剣呑な状況や運命もまた、1世紀前と変わらないように感じられる。

 そういう状況の中でマーラーの伝記を紐解くとすぐに目に入るのは、マーラーがハンブルク市立劇場の指揮者を勤めていた時期にコレラの大流行に直面したという出来事であろう。1891年3月26日にハンブルク市立劇場の指揮者に就任したマーラーは、3月29日から5月末までの公演を指揮した後、1892年にはロンドンでのいわゆる「引っ越し公演」を大成功させている。休暇に入ったマーラーが8月16日から再開される劇場に戻ろうとしたまさにその矢先、ハンブルクはコレラの流行に襲われ、それは10月まで猛威を振るうことになるのだ。
 市立劇場の方は新しいシーズンを開始したものの、マーラーはコレラを避けるために休暇を延長し、流行が収束し始めた後、10月初旬になってようやくハンブルクに戻り、シーズン最初の指揮をしている。コレラの流行を知った時のマーラーの反応とその後の行動は、遺されたフリードリヒ・レーア宛の1892年8月の書簡およびアルノルト・ベルリーナー宛の8月から9月にかけての書簡によって窺い知ることができる。(邦訳のあるヘルタ・プラウコプフ編の1996年版書簡集では115番から118番まで、須永恒雄訳の邦訳では107~109頁を参照。)
 コッホによるコレラ菌の発見が1884年であり、今日当然のこととされる細菌が伝染病の原因であるという認識すら当時は未だその確立の途上にあった。衛生学的にも水道設備の近代化の途上であり、エルベ川から取水していた水道設備においては沈殿処理のみが行われ、緩速濾過処理が行われていなかったことがコレラ流行の原因であったようだ。今も残るハンブルク市庁舎の中庭にある女神ヒュギエイアの噴水は1892年のコレラ流行の犠牲者の追悼のためのものであるが、それは今日まで受け継がれている都市衛生の基本がそれによって確立する、衛生学上の画期をもたらす出来事だったようなのである。ちなみに北里柴三郎によるペスト菌の発見は1894年。北里柴三郎は1886年から1891年にかけてベルリンのコッホ研究所に留学し、そこでジフテリアと破傷風の抗血清を開発し、世界で初めて血清療法を発見するという成果を上げている。
 欧州を襲ったコレラの流行というのは勿論これ一度ではない。マーラーの時代に近いところでは1831年にベルリンを襲ったコレラの流行が思い起こされるだろう。一旦は避難をしたヘーゲルが、新学期の開始に合わせて未だ流行の収束していないベルリンに戻り、講義を再開して程なくコレラに罹患し病没したことは余りに有名であろう。既に弱冠31歳にして主著『意志と表象としての世界』を上梓したものの殆ど反響がなく、ベルリンで私講師として行った講義においても当時名声の絶頂にあったヘーゲルの講義に対抗して同じ時間に行ったこともあり、聴講者を獲得することに失敗したショーペンハウアーは、イタリア旅行を経てミュンヘンで病を得て療養のためにガシュタインに滞在した後、ドレスデンを経て1825年にはベルリンに戻り再び講義を行うが、1831年のコレラの流行に遭うと罹患を警戒してフランクフルトに移り、以後遂にベルリンには戻らなかった。そのショーペンハウアーの愛読者であったマーラーは、或いはショーペンハウアーの行動に倣ったものか、その行動は慎重であったように見える。
 1892年夏のコレラ流行当時のマーラーは今日第2交響曲として知られる作品の作曲の途上にあった。紆余曲折を経た第2交響曲が最終的に現在の姿をとるに至ったきっかけが1894年に療養先のカイロで没したハンス・フォン・ビューローの葬儀―ハンブルクのミヒャエリス教会で同年3月29日に行われれた―に参列した折、クロップシュトックの復活の賛歌が歌われたのに接したことであるのはあまりに有名な話だろうが、そのフォン・ビューローに第1楽章の初期稿である交響詩「葬礼」(Totenfeier)をピアノで聴かせたのは1891年11月のことであった。その時のフォン・ビューローの否定的な反応とコメントもまた人口に膾炙しているのでここでは繰り返すまい。

 コレラの流行がマーラーの創作に直接影響しているということは言えないだろう。だが、我々に遺されたその作品が、どのような状況で生み出されてきたかを知ることはその作品を理解する上で決して些末なことではあるまい。そうした背景の詮索は、えてして文学的・思想的な領域、稍々広くとっても美術や都市計画といった文化的側面を持つ領域に限定されがちだが、マーラーが、まさに上述の書簡の相手であるベルリーナー(彼は物理学者であり、アインシュタインの知己でもあった)のような友人を通じて当時の最先端の自然科学の知見についても豊富な知識を持ち、フェヒナーやヴントといった現代の心理学の先駆者の著作にも親しんでいたことは軽視さるべきではなかろう。
 既述の書簡のうちベルリーナー宛のものを読めば、ここでフォーカスしているコロナ禍への対応についてもマーラーはベルリーナーの助言を仰いで行動していることが確認できるし、一旦9月12日にハンブルクに戻ろうとしながら、ハンブルクでの流行が収まっていないなら、ハンブルクの北東、ウーレンホルストにあったベルリーナーの居宅に留まりたいと伝えている。(ちなみに1892年にコレラが流行したのは旧ハンブルク市街であり、アルスター川の対岸、エルベ川に沿って下流側にあるアルトナ市では水道設備に逸早く緩速濾過処理が導入されたことから流行を免れている。ベルリーナーの居宅のあったウーレンホルストは旧ハンブルク市街からアルスター湖を挟んで北東側、現在の大ハンブルク市では北地区に属しており、1842年のハンブルク大火の結果、アルスター湖の堤防の水位が下げられたことにより居住可能になった新しい街区であり、コレラの流行があった旧市街とは離れた場所にある。)マーラーの音楽の背後にある世界に対する認識は、それが一世紀前のものであることは確かだが、それでも今日我々が想像するよりは遥かに科学的な知性に裏打ちされたものかも知れないのだ。

 だが、それよりも今、新型コロナウィルスとの戦いのさなかにある我々にとって切実な接点は、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」以前の同じ「神なき時代」「隠れたる神」の時代を生きる同時代者としての、有限の寿命に限界づけられ、かつそのことを意識することを宿命づけられた存在としての共感ではなかろうか。
 コレラ禍を免れたマーラーも、後には猩紅熱が最愛の長女の命をあまりに早く断ち切ってしまう運命に直面し、更に自身もまた連鎖球菌による感染性心内膜炎により命を奪われることになる。それを思えば、第6交響曲のハンマーによる「運命の打撃」のうち残された二つは、二度の世界大戦でも二回の原爆投下でもなく、実は細菌との戦いとその敗北を予言したものであるという主張を誰かがしないとも限らないといった冗談はさておき、いずれも当時は不治の病であったものが、マーラーの没後間もない1928年に発見されたペニシリンをはじめとする抗生物質の開発で治癒可能な病気となったことはよく知られている。だが一世紀経って進歩はしたとはいえ、近年の例に限って思い出すままに挙げてもエイズ、新型インフルエンザ、SARS、そして新型コロナウィルスといった未知の病原菌との戦いは相変わらず繰り返されており、マーラールネサンスの時代には「治癒可能」と説明されることの多かった連鎖球菌による感染症についても、却って今日では耐性菌の出現による新たな脅威にさらされていることを思えば、相変わらず状況に変わりはなく、やはり「二分心」以降「シンギュラリティ」以前という同じ時代にマーラーも我々も生きているのだと感じずにはいられない。
 そして、細胞を持たず、自己複製の能力を持たない「生命」以前の存在であるウィルスが、マックス・テグマークの『Life3.0』によれば「自らのハードウェアを設計する能力」を持った結果、進化の軛を逃れた存在であるLife3.0への橋渡し役としての、謂わば「最後の生命」たる「人間」を脅かしているということを踏まえれば、それは「生命」以前と「生命」以後の抗争として捉えることさえできるのではないだろうか。

 日本では、西浦先生の疫学的数理モデルに基づくクラスタ―の早期発見と抑え込みという方策が、これまで素晴らしい成果をあげてきており、私も微力ながら、例えば「新型コロナウィルス感染症に関する専門家有志の会」(https://note.stopcovid19.jp/ )の活動に賛同したり、自分が置かれた条件の下で、医療関係者、医薬品販売などの生活インフラを担う方々の活動(それは仮に非常事態宣言が出ても、―日本では起きないようだが―ロックダウンが起きても止まることはない、否、止めることができないものであることを認識すべきであろう)を支援しているが、時々刻々と深刻さを増す感染者数の増加状況や各種記者会見などでお話を伺う限り、一刻の猶予を許さない状況に見える。
 例えば「新型コロナクラスター対策課専門家」(https://twitter.com/ClusterJapan)のtwitterでの西浦先生の説明によれば、2割が外出自粛するのではなく、8割が外出自粛して、必要最低限の2割だけが外出するようにならないと感染爆発が防げないと数理モデルは語っている。数理に対するフィーリングがあれば、今起きていることではなく、例えば2週間後におきるであろうことに基づいて今の行動を決めないといけないことは感覚で了解されることと思われる。求められているのは、そのことを感じとる知性であり、それに加えて今、自分からは見えないところで起きていることに対する想像力、更には未だ潜在的な状態にあって2週間後に起きることが想定されることに対する想像力なのではなかろうか。

 マーラーの音楽は、そうした我々の同伴者であり、「生命」以後への道行きから途中で落伍し脱落していく者に手を差し伸べてくれる存在のように感じられる。東日本大震災に遭遇した折、私の頭の中で鳴り響いていた音楽が聞こえなくなり、と同時に外界との間に膜ができたかのような無感覚な状態にしばらく陥ったことを思い出す。そこから抜け出すきっかけ、最初に再び私の頭の中に音楽が鳴り響いたのは、「計画停電」のさなか、自分が勤務するオフィスに向かうべく早朝の渋谷の街を歩いていた時だった。その直後に予定されていたジャパン・グスタフマーラー・オーケストラ(現マーラー祝祭オーケストラ)の第9交響曲の公演が、演奏会場として予定されていたミューザ川崎の被災により延期され、場所を変えて行われたことを思い出す。
 だが、今回の災厄における日常と非日常の切れ目というのはその時とは異なるように思われる。頭の中の音楽が絶えることはなく、あの時に沈黙を破って頭の中に突如として鳴り響いた第9交響曲第1楽章、練習番号8番の手前、Noch etwas zögernd, allmählich übergehen zu ... Tempo Iのところ、より正確には更にその5小節前あたり、ホルンのシグナルが途切れて、ヴィオラに導かれてヴァイオリンが入ってくるところ以降の、逍遥するうちに幾度か回帰することになる、あの清々しい水の流れを思い起こさせる楽節は、「生き延びる」ため、「存続する」ために強いられる、時々刻々の変化への対応が引き起こす長時間の緊張から解き放たれたふとした合い間に心の中で密かに響き出す。そしてその時私は、マーラーの音楽が自分のかけがえのない「同伴者」であること、一世紀前の異郷の地から流れ着いた「投壜通信」が、マンデリシュタムが言ったように、それを偶々拾い上げたかつての子供であった私宛のものであることを確認するのだ。

 来たる5月9日に予定されていたマーラー祝祭オーケストラの第3交響曲の演奏会を9月13日に延期することになったと音楽監督の井上喜惟先生からご連絡頂いたのは去る4月1日のことであった。専門家会議の定義する「感染拡大警戒地域」では、10人以上の集まりを控えることが要請されており、「生き延びる」ためにその要請に応じるならば、オーケストラにとっては公演は勿論、プローベも含めた組織としての活動を全面的に停止することを意味する。或る一つのオーケストラの公演中止に留まらず、全世界でこの状況が続く限り、マーラーの交響曲がその本来の姿でコンサートホールで鳴り響くことはないのだということの持つ意味を、マーラーファンは噛み締めなくてはならないのではなかろうか。だがそれはマーラーの音楽の「死」を意味するのではない。井上先生へは、有識者の見解を取り入れ、ますます深刻になりつつある状況の未来を冷静に見極められての決断に対する深い敬意をお返事としてお伝えしたが、ここで改めてその知性と想像力に対して敬意を表明したく思うとともに、来るべき公演が、こちらはあの感動的な震災後の第9交響曲の演奏会と同じく、マーラーの音楽が生き続けていること、そしてマーラーが今、ここで生きる我々の「同伴者」であることを力強く証明することを信じて疑わない。(2020.4.4初稿, 4.5補筆, 4.6加筆)

[追記] 公開後、岡田暁生先生より、農業思想史・農業技術史がご専門の歴史学者である藤原辰史先生の「パンデミックを生きる指針——歴史研究のアプローチ」(https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic)をご教示頂きました。藤原先生は、文中で「クリオの審判」を引き合いに出され、現下の状況で問われているのは「いかに、人間価値の値切りと切り捨てに抗うか」「いかに、感情に曇らされて、フラストレーションを「魔女」狩りや「弱いもの」への攻撃で晴らすような野蛮に打ち勝つか、である」と述べられていますが、これはまさに、藤原先生の文章をご紹介くださった岡田先生が訳された「ウィーン講演」の末尾においてアドルノが「生涯を通じて彼の音楽が味方したのは貧しい鼓手の若者、命を落とした歩哨、死者になってもまだ太鼓を叩かねばならない兵士であった。(…)彼の交響曲と行進曲は、あらゆる個別とあらゆる個人とをその下に跪かせる調教の類ではなく、不自由の最中にあっては亡霊の行列のようにしか響き得ない解放された人々の行列の仲間へと、彼らを次々に引き入れてやろうとするものだ」(アドルノ音楽論集『幻想曲風に』、岡田・藤井訳、128~9頁)と述べていることと呼応しており、マーラーの作品が担い、コミットする価値に通じるものがあると考えます。ご教示くださった岡田先生に感謝するとともに、素晴らしいテキストを発信してくださった藤原先生に、感謝の気持ちと敬意を表したく思います。(2020.4.7)