お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2013年1月27日日曜日

妻のアルマ宛1909年6月27日(20日?)付書簡にある「エンテレケイア」に関するマーラーの言葉

妻のアルマ宛1909年6月27日(20日?)付書簡にある「エンテレケイア」に関するマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1940年版原書p.441, 白水社版酒田健一訳p.398)
(...) Der Mensch - und alle Wesen wahrscheinlich - sind unaufhörlich productive.
Auf allen Stufen geschieht dies unzertrennlich vom Wesen des Lebens : wenn die Productionskraft versiegt, so stirbt die "Entelechie" d. h., sie muß einen Leib erhalten. Auf jener Stufe, auf der sich höhere Menschen befinden, wird die Production ( die in Form von Reproduction den Meisten natürlich ist ) von einem Akt des Selbstbewußtseins begleitet: und dadurch einerseits gesteigert, andererseits als Forderung an das sittliche Wesen aufgestellt. Dies ist dann eben die Quelle aller Beunruhigung solcher Menschen. Abgesehen von den kurzen Momenten im Leben des Genies, wo diese Forderungen sich erfüllen, sind es die langen, unausgefüllten Strecken des Daseins, die dem Bewußtsein solche Prüfungen und unerfüllbare Sehnsuchten auferlegen. Und eben dieses unaufhörliche und wahrhaft schmerzvolle Streben verleiht dem Leben dieser Wenigen das Gepräge. (...)

(…)人間は―そしてたぶんどんな生物も―たえずなにかを生み出してゆくものだ。このことは進化のあらゆる段階にわたって生命の本質と切り離しては考えられない。生産力が尽きると、『エンテレケイア』は死滅する。すなわちそれは新しい肉体を獲得しなければならない。高度に進化した人間の位置するあの段階では生産(大部分の人間には再生産のかたちでそなわっているが)には自覚の働きがつきまとっていて、そのため一面において創造力は高められるが、その反面、道徳的秩序にたいする”挑戦”として発現する。これこそ創造的人間のあらゆる”煩悶”の源泉にほかならない。天才の生涯にあっては、こうした挑戦が報いられるわずかな時間をのぞいて、あとは満たされることのない長い生存の空白が、彼の意識に苦しい試練といやされぬ憧憬を負わせる。そしてまさにこの苦悩に満ちた不断の闘争がこれら少数の人間の生涯にそのしるしを打刻するのだ。(…)

マーラーがアリストテレスの「エンテレケイア」に由来する「エンテレキー」について言及していることはブルノ・ヴァルターもマーラーに関する回想録において証言している ところだが、マーラー自身の言葉としても、自分の思いを腹蔵なく述べていると想像されるアルマ宛の書簡の中においてそれを確認することができる。おそらく最も 有名なのは第8交響曲の第2部で用いられたゲーテの「ファウスト」第2部の終幕の場の最後の「神秘の合唱」の解釈を述べた書簡におけるそれだろう。 ただしそこではゲーテの「ファウスト」の解釈において用いられているのに対し、同じ時期に書かれた上掲の書簡においては、より一般的な仕方で自分の考えを 述べる際に用いられており、私見ではこちらの方が一層興味深い。

マーラーは恐らくは愛読していたゲーテの自然科学・自然哲学的な著作におけるそれを念頭に「エンテレキー」という言葉を用いていると思われるが、 それはまさに同時代の最新理論であったに違いない、ドリーシュの「新生気論」におけるそれでもあったのではなかろうか。当時における生気論と機械論の対立は、 フォン・ベルタランフィをはじめとするシステム論的な発想によってその後乗り越えられており、ドリーシュの「エンテレキー」は「フロギストン」や「エーテル」同様、 既に不要となった概念といえるだろうが、それはまさに「エンテレキー」によってしか説明できないと当時考えられていた「目標をめがけている」かのごとき生命現象を 「等結果性」(Äquifinalität)の概念を開放系の理論によって説明することによってであった。フォン・ベルタランフィが解析して示したように、閉鎖系は等結果的に 振舞うことはできない。逆に定常状態に向かう開放系においては等結果性は必然的な帰結なのである。

「エンテレキー」は別の説明原理によって置き換えられたとはいえ、ここでマーラーが述べている言葉が、その志向において、後年、フォン・ベルタランフィが語る 言葉との驚くべき一致を示しているのを確認するのは極めて印象的である。そもそもフォン・ベルタランフィは1901年にウィーンに生まれた人だから、彼の幼年時代には マーラーはまだ生きていたという事実を考えれば自然と納得がいくことではあるが、フォン・ベルタランフィの Das biologishce Weltbild I - Die Stellung des Lebens in Natur und Wissenschaft (1949)(邦訳:「生命-有機体論の考察」みすず書房)では、 各章の冒頭の銘としてゲーテが毎度参照され、全巻の棹尾を飾るのは「ファウスト」の引用であり、半世紀を経て今や半ば常識として受容されている発想が、 マーラーの作品の背景を為す世界観に淵源を共有していることを確認することができる。

Robots, Men and Minds - Psychology in the modern world (1967)(邦訳:「人間とロボット-現代社会での心理学」みすず書房)でも General System Theory - Foundation, Development, Applications (1968)(邦訳:「一般システム理論 - その基礎・発展・応用」みすず書房) でも繰り返しフォン・ベルタランフィが強調していることは、動的に定常状態を維持する開放システムである生物は、閉鎖系におけるような平衡状態へ向かう ホメオスタシス機構では十分に説明が行えないということである。外部条件が一定不変でも、外部刺激がないときでも、生物体は受動的ではなく、 基本的に能動的であることである。動的に定常状態を維持するためには、熱力学的な平衡状態からは離れた状態を維持し続けなくてはならない。 常に外部からエネルギーを獲て、(再)生産を続けなければならないのだ。そして非平衡状態を保持することにより、自発的活動や解発刺激に対する 反応の際に、蓄積したポテンシャルを消費することができるのであるし、更には分化と分節、階層秩序の増加による、無秩序とは異なった、しかし単純な パターンの反復による秩序ともまた異なった複雑性を備えた一層高次の秩序や組織化に向かうことも可能になるのである。 自律的な活動が行動のもっとも基本的な形態であり、まさにマーラーが書いているとおり、「人間は―そしてたぶんどんな生物も―たえずなにかを 生み出してゆくもの」なのだ。

更に、これもまたフォン・ベルタランフィが強調することであるが、シンボルの世界を構築するようになった人間は生物的価値とは異なった価値を持っていて、 それはしばしば生物的価値と対立することもある。自己実現や創造行為は、緊張の緩和とか欲求の満足といった言い方が暗黙裡に前提としている 図式では説明できないのであって、それらを適応とか生存のための効用のみに還元してしまうことは行き過ぎの危険が伴う。既に知覚主体は単なる刺激の 受容者ではなく、その中を行動しつつ能動的に「世界を構築する」存在である。シンボルのレベルにおいても同型性が成り立つとしても不思議はあるまい。 ここでマーラーが第3交響曲の創作の折に述べたと伝えられる言葉を思い浮かべても良いだろう。

ここで私が感じることは、こうしたマーラーの言葉によって証言されるマーラーの考え方が、マーラーの遺した作品の実質に見事に見合っていることである。 一般には必ずしも作者の意図が作品の質を担保することはない。だがマーラーの言葉というのは、今日なお話題になる標題が端的に物語るように、いわば 事後的な反省、自分が生み出してしまったものについてのコメントのようなもので、創造行為に先立つわけでもないし、ましてやそれが創造のプロセスの 一部であるわけではない。意図とその実現としての作品といった単純な図式で捉えられるようなものではないのだ。しばしば或る種の理念なりコンセプトなりを ある素材によって定着するという意図的、意識的な行為をもって創作とする立場があり、多くの場合それは貧困に陥るようだが、意識される部分というのが 人間の営みの全体のほんの一部に過ぎないことを考えれば、そうした遠近法的な錯誤に基づく試みが失敗するのは当然であろう。 マーラーは自分の創作のプロセスに対して随分と自覚的であったようだし、自分が何をしているのかについてもわかっていたようだが、それだけに一層、 自分が産み出したものが簡単に分析したり説明したりできないものであることを、単に感覚的な違和感としてだけではなく把握していたのだと思われる。 マーラーが楽曲分析の類に概ね懐疑的であったとされるのも、そうした事情が与っているに違いない。

それでは今日、マーラーの音楽を語る言葉は用意されているといえるだろうか?フォン・ベルタランフィの一般システム理論の提唱はもう半世紀も前のことであり、 システム理論はその後、色々な分野で様々に分化しつつ進展を見たとはいいながら、それは未だ発展途上にあるというべきであろう。そうした中で、 シンボルの世界に属する音楽作品のような存在、しかもそれ自体が有機的で自己組織的な存在であるかに見えるマーラーの音楽のような作品を 的確に記述するための語彙(それは自然言語であるとは限らず、必要に応じて数式や図式を援用することになるのであろう)、カテゴリは未だ 整備されていないのではなかろうか。これまた半世紀前にほぼ唯一、アドルノがその課題に、それなりの自覚と自負をもって取り組み、 それはマーラーの音楽の理解にとってブレイクスルーをもたらした。だが、アドルノの用いたカテゴリは、マーラーの音楽の特性の一部を闡明するのに 大きな成果があったとはいえ、有機体としてのマーラーの音楽を説明するには不充分ではないだろうか。

そして問題はそこに留まらない。実は上記の引用箇所の直後では、「作品」についての見解が述べられ、それは「かりそめの姿、 滅ぶべき部分にすぎない」のであり、肉体同様、「抜け殻」に過ぎないものだとされる。今日マーラーが残した「作品」を受け取る人間は、この言葉を どう捉えたら良いだろうか。楽曲分析の類、標題解説の類が捉えることができるレベルでの「作品」とすれば不思議はないが、まず間違いなく、ここでは そうしたレベルのことが語られているのはなかろう。恐らくは、マーラーがいわゆる「霊魂」の不滅を信じていたということを背景にしてこの言葉を読むべきで あるということはまず押えておくべきだろうが、更にその上で、一世紀の後、「作品」を通じてマーラーを知る人間は、マーラーが当時の文化的・思想的な 文脈の制約の下で書きとめた言葉を、マーラーの「作品」を通じて自己が受け取ったものを裏切ることなく、今日までに手にしたカテゴリを用いて 語り直すべきなのではなかろうか。それは一見したところマーラーが遺した言葉と矛盾するような言い方になるかも知れないが、それでもなお「作品」において 「かりそめの姿、滅ぶべき部分にすぎない」ものは何であって、それを超えて永続するものは何であるかを突き止めることは、マーラーを聴く者が答えるべく 課された問いであり、応答するのは或る種の義務であるように感じられるのである。たとえその応答自体もまた「かりそめの姿、滅ぶべき部分にすぎない」 としても。(2013.1.27)

2013年1月20日日曜日

ヴァルターの「マーラー」における「エンテレケイア」についての言及

ヴァルターの「マーラー」における「エンテレケイア」についての言及(原書Noetzel Taschenbuch版pp.104-105,邦訳, p.191)

Als in seiner Gegenwart einmal davon die Rede war, daß aus einem durchschnittenen Regenwurm zwei würden, indem die hintere Hälfte sich einen neuen Kopf zulege und selbständig weiterexistiere, rief Mahler sofort aus: »Dies wäre ein Beweis gegen die Entelechien-Lehre des Aristoteles.« Er war viel zu einsichtig und siener mangelhaften sachlichen Ausrüstung bewußt, um der wissenschaftlichen Bedeutung solcher Bemerkungen sicher zu sein; doch interessierten ihn Gedanken dieser Art zu heftig, als daß er sich mit der einfachen Aufnahme des Wissensstoffes beruhigt hätte; seine Denkenergie konnte nicht anders, als durch fachlich fundierte Widerlegungen zu tieferer Einsicht zu gelangen. Immer aber erregte die großartige Intuition, die aus seinen Bemerkungen in der Diskussion sprach, die Bewunderung seiner Freunde aus dem Gebiet der Wissenschaft.

マーラーの自然哲学・自然科学への関心については別のところでも触れているが、このヴァルターの証言は、極めて具体的な例を挙げているという点で 鮮明な印象を残すものであろう。引用された部分の直前には、物理学における例も挙げられているが、ここでは生物学史における「生気論」と「機械論」の 対立の一齣の証言でもある、アリストテレスのエンテレケイアの理論についてのマーラーのアイデアに注目することにする。エンテレケイアの理論がアリストテレスに 端を発するということは言うまでもないことだが、マーラーの同時代においては、何といってもドリーシュのウニの胚の分割の実験結果に基づくいわゆる「新生気論」に おける胚発生の等結果性に対する説明原理としてのエンテレキーのことであったと思われる。もっとも、エンテレケイアについてはゲーテも述べており、ゲーテの 文学作品や対話記録のみならず、自然科学的な著作にも通じていたらしいマーラーはゲーテの説を思い浮かべていたのかも知れない。
マーラーが指摘している事象の方についていえば、これがミミズの中でも一部の種に見られる分裂による生殖を指すのか、トカゲの尻尾と同様の再生のことを 指すのか、両方の可能性もあるだろう。ワルターの記述をその通りに読めば前者であろう(なぜなら後者の場合には、プラナリアのような場合とは異なって、 分断された2つの部分のうち頭部の方には尾部が再生するが、尾部の方には再生が見られないからである)が、いずれにしても、最終の典型的生物体を 目的として予想しつつ現象を補正していく要因としてのエンテレキーの考え方を踏まえたコメントをマーラーはしていると思われる。
ところで私のドリーシュの主張に対する知識は、ドリーシュの著作そのものに拠るのではなく、フォン・ベルタランフィの"Das biologische Weltbild I , Die Stellung des Lebens in Natur und Wissenschaft", 1949、邦訳:「生命 有機体論の考察」, 長野敬・飯島衛共訳, みすす書房, 1954によるのだが、 フォン・ベルタランフィは1901年にウィーンの近郊に生まれているから、勿論直接的な関係はないにせよ接点のようなものはあるわけで、何より、「生命」という 著作が、ドリーシュのエンテレキーの理論から始まり、ゲーテの「ファウスト」の一節でしめくくられるということからも同じ文化的な世界に属しているというように 私には感じられる。
フォン・ベルタランフィも明確に述べているように、ドリーシュの「新生気論」そのものには(そうしたことを企てる動きもあるだろうが)今日に おいては最早過去の遺物、理論的には(フロギストンやエーテルがそうであったように)端的に「誤り」であるというのが適当だろうが、フォン・ベルタランフィ自身が 述べるように、その発想は有機体論に受け継がれているというように考えることもできるだろう。「誤り」という点においては当時の機械論もまた同様に誤りで あったと言うべきだろうし、今日では「情報」と呼ばれているものを極めて不正確ではあれ、予感していたのだという見方もできるかも知れないのである。 ただしそれはあくまでも「予感」に過ぎず、説明としては全く不充分なものであった。例えばゲーテの形態論には、ジョフロワ・サンティレールとともに、 「器官の平衡」のような考えがあるが、それはフォン・ベルタランフィが見出したような動的な平衡ないし定常状態として、開放系動力学に基づいた 定量的な法則を備えた形態形成理論によってようやく十全な説明が行われるものの現象論的な観察に過ぎない。科学史的な関心は別の意義が あるだろうが、今日においてそうした過去の理論をそのままなぞることは不毛な結果、いわゆる「知の欺瞞」にしかならない。これまたフォン・ベルタランフィが言うとおり、 単なる「相似性」による許しがたい偽りの類比やそこから生じる誤った判断は、論理的な相同性に基づくシステム論的な方法論により締め出されるべきなのである。
翻ってマーラーの音楽について述べられていることを顧みれば、ここでは生命ではなく、文化的な創造の産物が対象なのではあるが、機械論と生気論の 対立にも似た状況があるように思われる(これ自体が偽りの類比ではないということを証明することはここではできないが、そうではないと私は考えている。) マーラーの音楽のような複雑な対象の説明のための語彙は未だに十分には整備されていない一方で、粗雑で検証に耐えないような比喩や類比、 音楽そのものに辿り着かない別の平面をなぞるだけに終始している標題に関する議論が跋扈している。実際にマーラーの音楽を演奏し、聴取する時に 起きていること、演奏する主体の、聴取する主体の行為を説明するための理論が欠けていて、とりわけても優れた演奏が掴んでいる何か、そこで生じている 出来事の構造の記述があまりに不完全な仕方でしかできていないというように私には感じられる。
勿論、作曲家の側がそれを「神秘」と見做し、説明を拒絶する場合もあるだろう。マーラー自身、自作の分析や解説の類に懐疑的であったという証言が 多数あるのだが、私見ではマーラーの場合には、その説明の手段の貧困と、その直接的な帰結である結果の貧困、許しがたい歪みや誤りを拒絶したのだ。 そして、今日マーラーの音楽を受け止める時に、そうしたマーラーの態度を楯にとってマーラーと同時代と同じレベルの記述・説明に終始するのは、 マーラー自身の志向に反しているのではというように私には思われてならない。勿論、その一方で、既に半世紀以上も前に書かれたフォン・ベルタランフィの 著作を梃子に、せいぜいが四半世紀前までに提唱された理論(一般システム理論、情報理論、サイバネティクス、人工知能、脳神経科学、精神の生態学、 オートポイエーシス、いわゆる「複雑性」についての様々な理論はどれも皆、全てそうである)の中に未だにいて、なおかつ何よりも一世紀前のマーラーの音楽への 拘りを捨てられない私のあり方自体のアナクロニズムについては認めざるを得ないのだが、、、(2013.1.20)