お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2007年4月30日月曜日

はじめに:マーラーについて、私は一体何をしようというのか?(後半)

承前)―やれやれ、また話が逸れた。結局、マーラーについて一体何をしたいのか、そうやって撒き散らすものに対して、どう責任をとる つもりなのか、答える気はないんだな? そもそも、何でマーラーじゃなくちゃいけないんだね。100年も前の、全く異なる環境に生きた 人間のした事が、お前の問題とやらにどう関わるというんだ。気質も能力も違えば、世界観だって違うだろう。せめて時代がもっと 近ければ、問題意識の共有とかもありうるだろうに、それをわざわざ自分の問題に引きつけるなんて、どこかですり替えでもしない限り 無理なんじゃないのか?

―確かに、マーラーの時代と現代では意識について得られている知識の量も違えば、見方も異なっているのは確かだ。進化論にしても 同じ事で、マーラーの時代には許されていた空想の入り込む余地はずっと少なくなっている。意識の問題は、もはや哲学の問題では なくなっているんだ。恐らくは幸いなことにね。やっと机の叩き合い以上の議論ができるようになってきた。(それでも、屁理屈をひねり 出しては話をまぜっかえそうという、哲学者はいるみたいだけどね。)でも、意識の成立の機構がわかったとしても、意識「からの」展望は なくならないし、意識「にとっての」問題は残るんだよ。クオリアはなくならないんだ。自分がどんなに儚く、しかも制限されたものだとしても、 それをまるまる幻想だと言うべきではないんだ。フッサールの現象学が、意識が自分の背中を、自分の基盤を覗き込むことができると 考えていたとしたら、その思い込み自体は幻想だと言って良い。意識は「ほぼ」おまけみたいなものだろうよ。でも、意識は現にある。 だいいち、こうした議論をやっているのはまさに意識じゃないか。自分の権能について幻想を抱くべきじゃないけど、でもまるまる なかったことにするわけにはいかない。或る種の宗教はこうした考え方自体を問題視するのかも知れないけど、僕はそうは思わない。 マーラーの音楽は、それが如何に大きく暗黙のものとなった技能や、無意識的な様々な活動に依拠しているとしても、それでも 意識なしには産み出されなかったと思うよ。意識は極めて受動的に「書きとった」のかも知れないけど、マーラーの音楽には、 書きとらされた意識がはっきりと読み取れると思うんだ。しかもマーラーは、自我の全能性に対する懐疑を持ち合わせていた。 うまくいえないけど、マーラーの場合に限って言えば、こうした問題は、音楽のいわゆる標題、単なる素材じゃない。音楽の構造 自体がこうした問題の構造をある仕方で写し取っているんだと思うよ。
勿論、そうした事態が唯一マーラーだけにおきていると考えているわけではないし、問題意識としてはもっと今日的な仕方で 向き合っていると思える音楽もある。例えば三輪眞弘、クセナキスの方が意識というものに対する距離のとり方としては 現代的だし、いわゆるパラダイムみたいな部分で暗黙のうちに共有している部分が大きいんだろうと思う。あるいは晩年の ショスタコーヴィチの方がマーラーより遥かに醒めていて徹底しているかも知れない。個人的な気質みたいな部分だったら、 ヴェーベルンの方が遥かに身近だと思ってる。
でも、事実として僕にはマーラーの音楽がすっかり染み付いている。今更脱ぎ捨てるわけにはいかないくらい、それは言ってみれば 身体化されているんだ。出遭った時期のせいもあるかも知れない。それは結局偶然の為せる業かも知れないけど、いずれにしても マーラーの音楽は、僕の中に埋め込まれちゃっているんだ。音楽を聴くことは単なる娯楽なんかじゃない。一方で意識的な知識や 習得、教養の涵養にも留まらない。単なる感覚的な刺激の受容でもない。それは世界に対する反応の様式を、認識の方法を学ぶこと、 自分の回路のなかに引き込んでマップするといった側面があるんだよ。ある抽象的な水準での身体の様態の(変換を伴う、でも何か同型性を 保っているはずの)伝達、「感受の伝達」のものすごく複雑なバージョンが音楽を聴くことで起きているんだ。すべての音楽がそうだとは言わないし、 音楽一般になんか僕は興味ない。でもマーラーの場合には、自分の経験に照らして、そうなのだと言えると思うよ。
確かに何で今更マーラーなんだって、僕だって思わないでもないよ。今やCDだって単純に枚数を計算しても50枚と持っていない。 それでも作曲家別に考えたら、まだ1,2を争う量だ。僕は出不精なんで実演はもうほとんど聴かないけど、それでも交響曲は過半の曲の 実演を聴いている。第1交響曲ハンブルク稿の日本初演にだって立ち会った(ひどく「鳴らない」演奏で、あんまり楽しめなかったけどね)。 ひどい劣等比較だけどね。楽譜だって全ての作品のものを持っているわけじゃないけど、それでも被覆率は圧倒的に高い。 専門の研究者なら必ず読んでいるであろう文献だって、全然読めていないだろうけど、それでも既読文献の数や、 手元にある文献の数からいけば、他とは比較にならないくらい多い。要するに、他の人たちと比較してどうかはおくとして、 自分の持ち札のなかでの相対的な比較では、それが劣等比較にすぎなくても、マーラーが一番「まし」なんだよ。
ほとんど全ての作品を満遍なく聴いているし、繰り返し聴くし、思い浮かべることもできる。これまた被覆率は圧倒的だ。まあマーラーは 作品数が少ないから、というのもあるけど、でもマーラーなら交響曲だけじゃなく、歌曲だって同じように接している。もっとも編曲の類には 関心がないけれど。引用されている譜例を読んだときに、それがどの曲の何処の部分なのか同定して、頭の中でその部分を流すことが できるといった程度のことさえ、それなりの確実さと網羅度をもってできると言える自信があるのは辛うじてマーラーだけなんだよ。 あるいはまた、作品の成立史、伝記的な事実、そればかりか真偽の怪しいエピソードの類に至るまで、 マーラーの場合ほど頭にきちんと叩き込まれているケースは他にはないし、いわゆる作曲家論、作品論の類にしても、あくまでも相対的にまし、 というだけにせよ、マーラー以上に知っているといえるのはないんだ。
今時点での「意識的な」距離感からいけば、マーラーは決して一番身近な存在じゃない。寧ろ距離感を感じているのも確かだ。 けれど、その音楽が、人物が自分の「身についている」度合いからいえば、マーラーはやはり特別なんだ。だからこそ「番外」扱いにしているんだ。
主観的な価値、というのはそういうことをひっくるめてのことなんだ。自分の脳の中にしまいこまれているものを、外に引っ張り出して形にするとして、 一番意味がありそうなのは、結局、マーラーにまつわる経験なんだということだと思う。何度も言うけど、それ以上の理由はないんだ。客観的に見て どうであろうと、今の自分にとってそれが必ずしも無条件に具合がいいことではなくても、結局、それが自分にとっての問題なんだ。 どういう結論になるのか、そもそも結論が出るのかもわからないけど、でも、決着をつけなくてはと思っている事柄なんだよ。あるいは或る日、突然、 どうでもよくなってしまう瞬間が訪れるかも知れない。でもまあ、その日が来るまでは少しずつやっていくつもりでいるよ。少なくとも今の時点ではね。 それ以前に、どれだけ時間がとれるのか怪しいものではあるけれど、、、

―お前の個別の事情なんかどうでもいいんだよ。一体そんなものに誰が興味を持つんだ。そんなものは公共性を持ち得ないし、どうあがいても 学問には辿り着かないぞ。お前の様な態度は、結局のところ消費者の問題に過ぎないものへの居直りじゃないか。お前は150年も前にヘーゲルが 美学講義で、お前みたいな姿勢に対してどう言っていたか知らないのか?

それは、「... しかしそうした研究が進展することはない。なぜなら感受というものは不確かでぼんやりとした精神領域だからである。感受されるものは、 もっとも抽象的な個々の主観性という形につつみこまれたままなのであり、したがって感受の相違もまたまったく抽象的で、事柄自体の相違ではない。  ... 感受の省察は、主観的な情動とその特殊性の観察で満足するのであって、単なる主観性やその状態をほうりだしてまで、事柄に、つまり 芸術作品に沈潜・没頭することはないのである。」というやつのことだろう? いや、ヘーゲルの言っていることにまるまる同意できないわけじゃないよ。 寧ろ、ヘーゲルの言ったことは認めた上で、それでもそうした感受抜きに、一体音楽について語ることができるのか、音楽の持つ力について証言できるのか、 と聞いてみたいんだよ。丁度アドルノは、この部分を「新音楽の哲学」の中で反主知主義をチャイコフスキー―アドルノではいつも悪役扱いだが―をだしにして 揶揄している部分で引用しているね(邦訳、渡辺健訳、p.22、上掲の引用も邦訳に従った)。アドルノはそれとは別に聴取の類型論―これまた「エリート主義」の廉で 批難を浴びることの多い、問題あるものだが―も提示していて、その中でまたもやチャイコフスキーを引き合いに出しながら、「自分の本能を解き放って くれるのが音楽なのだ」というような「情緒的聴取者」を分類している。勿論否定的な価値付けとともにね。「教養消費者」「良き聴取者」「エキスパート」というふうに 続くこの類型の価値のスペクトルを眺めていてふと思い浮かぶのが、その「エキスパート」に関してアドルノは、今度はヘーゲルの見解に誤認を認め、―この2つの議論を 単純に重ね合わせていいのかどうかには議論があるかもしれないけど―必ずしも手放しで上述の類型論での価値のスペクトルを是認しているわけでは なさそうだということだ。(アドルノが嫌いな人なら、またいつものやり口か、と腹を立てることだろう。)  結局アドルノは、そもそも享受美学というのに―それが「趣味」という主観的、あるいは間主観的なものに依拠するようなものである限りは― 懐疑的だったんじゃないかと思えるけど、でもアドルノの個別的なもの、主観的な経験に対する態度や、彼が芸術に見出していた働きなり、 力なりを考えた場合、アドルノの創作の極への偏重には疑問が残ると思うんだ。つまりアドルノの周囲にあった享受美学が抱える限界を、 享受そのものの限界と混同すべきでないし、それが理論的には途方も無く厄介なことは明らかでも、やはり享受の極でおきていることに 一定の―通常の社会学の概念では測りきれない―価値を認めるべきなんだと思う。実際アドルノもまた、そのように考えていたふしはあるようだしね。
結局のところ作品は読み解かれることを欲してはいないだろうか? 壜に手紙を封じて海に投じるのは、それが何時か誰かに拾われて読まれることを期待してのことだろう。(マーラーその人の、作品の価値に対する自信と それが理解されないことへの不安を思い浮かべてもいい。彼はやはり、自分ではない他者の誰かが理解してくれることを望んでいたのではないか。 更にはマーラーの場合には、一方で、作品は作者の成長の過程の抜け殻に過ぎないという主旨のことも言っている。いまここでは作品に限定して 話をするけど、この発言もまた最後にはきちんと取り上げる必要があると思っている。マーラーは作品創造について十分に意識的・反省的でもありえた ―自分が創作している最中はそうではなくとも―し、そのことは考慮に入れるべきだろう。) 作品の価値を決定する必須の契機として、理論に受容者を招じ入れることの危険とは裏腹に、作品は受容者を待ち望んでいるんじゃないか。 作品それ自身が生き残り、引き継がれ、再生産されることを望んでいるのではないか?要するに「星座」は解釈者の視点を前提としているんだ。 ならばなぜ作品において創作の極のみが偏重されるんだい?勿論、解釈者を固定してしまうことはいわば論点先取であり、その意味で受容者を「前提とする」 ことへの抵抗は首肯できる。でも星座は解釈者の立つ位置によって、そのすがたを変えるんだよ。否、時が経てば、元の星座の見分けすらつかなるなるだろうよ。 そもそも解釈者の視点なしに星座というのを考えることはできないんだ。所詮は理念の関係とて、プラトン的なイデアの世界の住人ではありえない。 だからアドルノのテルミノロギーで星座というのは言いえて妙であって、アドルノの立場はその意味で、自分の立っている歴史的文脈に自覚的なものには 違いないんだよ。しかし、そうであってみれば、創作の歴史的文脈への理解なしには作品の正しい理解がありえないとする立場において、創作の極への偏重は、 結局のところ作品の自律性を、解釈の恣意性への危険への予防線と引き換えに損なってしまうことになってしまうんじゃないだろうか。
勿論、だからといって一気に何でもありになると言いたいんじゃないよ。ヘーゲルの批判はそれでもなお有効だ。極端な言い方をすれば、例えば、 マーラーの音楽を聴くことで僕の脳内のニューロンの初期状態がこうであったものが、このように変化しました、というのを一度限り記述することになんか、 勿論意味は無いさ。結局はニューロンの活動だとしても、ここでの主題は心理学実験ではないのだから、「神経美学」とでもいうべき水準まで還元するのが 適切な記述レベルだとも思わないしね。ヘーゲルの時代に比べれば、ヘーゲルの時代には知られていなかったレベルがはっきりとしてきた今日においては、 感受はヘーゲルが言うほど不確かでぼんやりとした精神領域というわけではないだろう。だけど、ここでの適切な記述レベルに関して言えば、 事態は多分そう進展はしていないだろうね。 つまり君の言うとおり、僕のやりたいことは、今の手持ちの道具立てでは公共性を持ち得ないし、どうあがいても恐らく学問には辿り着かない。 「個別的なものについての学」というのは不可能なんだ。それは認めるよ。そしてそれでいいと思っている。学問の見かけのもとに趣味の押し売りをやったり、 結局は事柄には辿り着かないどころか、それをかえって見えにくくさえし兼ねない知識を、消息通ぶりを発揮して振り回したりするよりはましだと思うよ。
そもそも、僕のことはおいても、マーラーの研究の進展には「素人くささ」が付き纏ってきた、というのが客観的な評価なのだろう。 アドルノなんか専門の音楽家、音楽学者、音楽社会学者などからしたら、赦し難い越権行為の連続だろうし、 ド・ラ・グランジュの伝記研究も、ミッチェルの生成史研究も、「学問的には」手続き上必ずしも厳密とは言えない、という話を聞いたことがあるよ。 僕個人としては、彼らの研究に垣間見えるマーラーに対する気持ちを感じ取るのは決していやな経験ではないけどね。あのクルト・ブラウコプフですら、 後書きで個人的な述懐をしているけど、それを読んだとき僕は胸が一杯になった。そもそも、彼らがどれだけの年月をかけて著作を産み出していることか。 それは確かにきちんとした計画に沿って整然と、効率よく、採算性を考慮して進められる学問研究じゃないだろう。手際よく数週間で1冊の本を書き上げる のにも能力と蓄積は必要だろうけど、その人の半生をかけて書き上げられたものにも、かけがえのない重みを感じるよ。
そうした第一線の研究はおいても、マーラーを語るときには皆、自分のマーラー経験を語る衝動を抑え難く、それが或る種の儀式―多分、精神分析的な説明が つきそうな―になるというのは良く言われているし、実際、本当に皆、第一線の研究者も、市井の愛好家も、そうした衝動には忠実に見える。 これこそ、ちょっとした驚異じゃないかな。まるでアウトサイダー・アートみたいじゃないか。多分そこには何かがある。少なくとも、マーラーの音楽には、個別的なもの、 主観的な経験のかけがえのなさを救い出そうとする何かが含まれているんじゃないかな? そうしたことの方が、まるでこの100年の進化論をはじめとする自然科学の 進展とそれによる世界認識の変化なんか存在しないかの如くの、黴の生えたような、それこそ「不確かでぼんやりとした」世界観や宇宙観にマーラーを縛り付けて おこうとせんばかりの、標題についての議論なんかより、僕にははるかに重要に思えるんだよ。勿論、マーラーの音楽はアウトサイダー・アートではないし、その音楽が アウシュビッツ、ヒロシマ、ナガサキを予言している、などというような立場は、これまた受け容れ難い。マーラーが預言者である、とか現代社会のある側面を先取り している、という言い方もされるけど、これまた首肯しがたいものを感じるんだ。結局それは、ある時代という文脈の限定性を、マーラーが生きた同時代から、 論者の語る時代に移動させているだけで、論法は大して変わっていないような気がする。結局、マーラーを持論を述べる題材にしているだけで、マーラーの 音楽そのものについて語っているとは思えない。
そうではなくて、もっとマーラーの音楽そのものに寄り添った経験、最初は個別の、取るに足らない、ヘーゲル的には「抽象的な」経験の方が大事だし、そして、僕もまた、そうした経験を語りたいという衝動に逆らおうとは思わない。そしてその上で、時間が許す限り、 自分の経験から作品と人の両方に向けて進んでいきたいんだ。方法論があるわけでもなし、まあ、大した成果は自分でも 期待していないけど、止めてしまうわけにはいかないんだ。繰り返しになるけど、そのようにマーラーの音楽が誘っているんだよ。

―まあ勝手にすればいいさ。どれだけ時間がとれるかだって、動機付けの強さ次第だろうに。最初からそんな予防線を張っているところを みると、先行きは期待できそうにないな。せいぜい優先順位をつけて、あちこち寄り道せずにやることだ。お前みたいにキャパシティのない奴の場合にはことさら、「強さは狭さの応酬」なんだろうから、、、

(2007.4.30初稿, 5.1, 15加筆, 6.30, 7.1加筆修正, 8.14修正)

はじめに:マーラーについて、私は一体何をしようというのか?(前半)

―マーラーについての情報なら、すでに巷に溢れている。そもそも、マーラーはお前が初めて出会ったときのように、説明を要するような 存在ではもはやない。四半世紀の間、お前が「世の成り行き」にかまけている間に、すっかり風景は変わってしまったのだ。 だから、今更マーラーについて、お前がやるべきことなんかない。ましてや、かつてと異なって、マーラーはお前のアイドルではないだろう。 あの盲目的で、近視眼的な、自分勝手な思い込みや共感は、けれども何かをマーラーに対してしようとするときに、必要な愚かさ だったかも知れないのだが、お前には既にそれは残っていない。マーラーが如何に例外的な才能と能力の持ち主であったか、 さらには自分とどんなに異なる気質の持ち主であるか、今のお前にはよくわかっているだろう。
お前はマーラーの音楽の演奏者・解釈者ではないし、マーラーを研究分野とする音楽学者でもない。今のお前と比較するのは 始めから無意味だが、かつてのお前程度の「フリーク」だって、マーラーの場合であれば、世の中にそれこそ数限りなく居るし、 これからも出てくるに違いない。もっと熱心なコンサート・ゴーアー、もっと熱心なレコード・CD蒐集家、アマチュアであっても 自分でマーラーの演奏に参加する能力と時間を持った人間、そうした多くの人間が居るというのに、一体お前は、マーラーに ついてこれから何をしようというのか?
話をWebに限定してもいいだろう。それにしても既に、何と多くのサイトでマーラーが語られていることか。お前如きが付け加えるべき 何かなど残っているのか?一体、何がしたいんだ?


―何か新しいもの、価値のあるものを付け加えることができるという確信があるわけじゃないさ。自分が何か特別に寄与しうるものを 持っている自信もない。でも、価値については考えないことにしたんだ。少し前のことになるけど、クラシック音楽について自分の書いた コンテンツを読み返して、そのうちあるものを破棄し、その後検索サイトのキャッシュを探して復元したり、ということを繰り返した時期があった。 キャッシュが残っているのも我慢できずに、自分の書いたページに対する削除依頼を出したこともあった。(効果はなかったようだけど。) 手元にあるバックアップは勿論、最初に消してしまったわけだ。実のところ、復元しようと思ったときにはもうキャッシュも残っていなくて、 記憶に基づいて改めて書き直した記事もあった。よく覚えていないものについては、それだけの価値がなかったのだ、 ということで諦めることにしたりもした。以前に書いたときほど うまく書けずに、再構を断念したものもある。でも僕は不徹底な人間なんで、そういうことにもじきに飽きてきて、ある時、 公開したものを撤回するのは止めよう、そのかわり、今残っているもの以外のことは考えないことにしよう、更に、残ったもののうち、 どれを凍結し、どれを拡張していくか、その場限りのものであってもいいから、方針を決めようと思ったんだ。
若干の手直しはすることはあっても、原則としてもうこれ以上関わらないために、言ってみれば「決着をつけるために」書いた文章 というのもあるんだ。それらは最早不要なものだけれど、不要なものとしてそこに残っている必要があるみたいなんだ。 それに気づかなかったのが、不毛ないたちごっこの原因の一つだったらしい。
一方で、まだ書くことが残っていることがはっきりしているものもあった。勿論、こんな判断は、いつ反故になるかわかったもんじゃない。 けれど、とにかく、「決着をつけるためには」まだ書かなくてはならなさそうだ、と思えるものがあった。その2つを区別したとき、 マーラーは後者の側に残ったんだ。要するにマーラーは、未解決の問題なんだよ。価値という点でいけば、専ら主観的な価値だけ しか考えていない。別に他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、自分の嗜好を押し付けたいわけじゃないんだ。他の人が マーラーに接する際の参考にして欲しいと思っているわけでもなし、何か他の人の知らない恐らくは有益な情報を提供しようと 考えているわけではない。

―これまた随分な言い様だね。専ら主観的な価値のみが問題だというなら何で公開するんだい? そんなものは気が済むまで こっそり書いて、引き出しにしまいこむなり、燃やしてしまうなりしてしまえばいいだろう。お前の言い分は到底額面通りには 受け止められないよ。実際には、そんなに謙虚で控えめに考えているわけではないんだろう? 正直に言ったらどうなんだ?

―いや、主観的な価値が問題だとしても、書くことは孤立した営みでは困るんだ。迷惑千万かも知れないけど、それは 自分の手を離れる必要があるんだ。それもまたコナートゥス・エッセンディなのかも知れない。 それが利己的だというなら、それでも仕方ないよ。(贈与がコナートゥスの様態だとか言ったら、レヴィナスはどういう顔をするだろうね? この問題は、多分見かけほど―そしてここでこのように皮相なかたちで扱われているほど―には単純な問題ではないのかも知れないね。 レヴィナスだって、多産性のようなかたちで問題をきちんと言い当てているし。けれどもここはレヴィナス的な倫理を主題的に扱う場じゃない。) でも、寧ろマーラーが自分にとって他者であることがはっきりとわかった今なら、その分だけはっきりと、他者から受け取ったものは、他者に渡すべき なのではないかと、そう問うてみることができると感じている。もちろん、収支は大幅な入超だ、ということになるのかも知れない。 主観的な価値が問題だ、というのは、その収支で計量できる価値においては、自分が手渡すことができるものがどんなに貧しいもの、 限りなく無に近いものであっても、それでも、受け取ったからには、自分から手渡す何かがあるべきだと思う、ということなんだ。 その何かは、実際には僕の脳の中にしまいこまれて、生命活動が止んだ日にそのまま無に帰してしまっても別にどうということはないかも知れない。 どっちでも世の中にとっては違いはないのかも知れない。それは仕方のないことだよ。でも、僕が受け取ったものは、作った人間が「神の衣を織る」 つもりで作り上げたものなんだよ。たとえ自分は「神の衣を織る」ことそのものには与れなくとも、せめてその衣について語ることくらいは したいんだよ。自分の目にした貴重なものが、自分の脳の中だけに記憶され、自分の死とともになくなってしまうのが嫌なんだよ。

―それについてなら、心配はいらない。何もお前が残さなくてもマーラーの作品は残る。別にお前が何かしなくてはならないことなんかない。 繰り返しになるけど、もう今はお前がマーラーに出会った時代ではないんだ。こんなに「流行る」とは思わなかったけど、でもどっちみちお前が 何かしたからこうなったわけじゃないしな。いや、お前がマーラーに出会った時代には、マイケル・ケネディではないが、すでにポットの湯は 沸騰寸前だったんだよ。そもそも、その後のナチスの影も含め、反ユダヤ主義の問題があったとはいえ、マーラーは同時代においてすら 少なくとも「話題の中心」ではあったんだ。ほっとけば流砂に埋もれてしまうお前のような存在とは訳が違うんだよ。とにかく、いずれにしても 現時点ではこれ以上マーラーについて何を言っても後出しジャンケンみたいなもんだ。

―それはわかってるよ。だから主観的な価値の問題だと言ってるんだ。でも、マーラーの作品の価値が自分と全く無関係だとは 思わないよ。寄与度としてはどんなに取るに足らないものであっても、無関係ということはない。そもそもマーラーの価値というけれど、 それを認めない人だって、いつの時代にもきっといるんだし、そもそも、マーラーなんか知らない、という人だってたくさんいる。 それどころか、寧ろそっちの方が多いんじゃないかな。マーラーの価値を自明で磐石のものと考えるのは、ある価値観を共有する 環境の下でのみ有効に過ぎない。その範囲は時間的にも空間的にも限定されていると思うけど。勿論そんなこと言ったら、 マーラーに限らず何でもそうだということになるかも知れない。実際その通りなんだ。マーラーを擁護し、批判するというけれど、 それが問題にされる世界というのは、実際にはちっぽけなものだ。マーラーなんかなくたって全然困らない世界の方が遥かに 大きいんだよ。別に自分のことを棚にあげているわけではないよ。マーラーですらそうなのだ、と言ってもいい。いずれにしても その価値は全然自明じゃない。

―おいおい、一体何を言い出すんだ。お前は一体誰に向かって何をしようというんだ。謙虚さはどこへやらで、今後は 十字軍気取りかよ。だいたいそんなこと誰も頼んでないし、マーラーだってそんなこと期待しちゃいないだろう。 さっきは主観的な価値と言っておきながら、随分とこれはまた大風呂敷なことを言うものだ。 それでいて他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、何か他の人の知らない情報を提供しようと考えているわけではないと 言うのだから、全く矛盾も甚だしい。いい加減にしたらどうだ?

―それを矛盾と言うなら、そうかも知れないな。けれど僕が言いたいのは、自分の価値観を他人に押し付けて、無理やり同意を 求めたりはしなくない、でも、自分が価値を認めるものについて、沈黙したまま墓の中に持って行くことはしたくない、ということだけなんだ。 つきつめればこの2つは矛盾するかも知れない。所詮はミームの生存競争なんだろうからね。謙虚なのは見かけだけで、それはミームの 纏う詭計ではないかと言われれば、そうかも知れないという他ない。少なくとも進化論的ゲーム理論のような枠組みではそういうことに なるんだろうね。
ところで、マーラーについては、例えばそうした(必ずしもダーウィン的なものに限定されない)進化論的な考え方(マーラー自身もその音楽も その中では1つの個体に過ぎない)と、マーラーの音楽の内容(つまり音楽自体が、そうした考え方についての或る種の反応なんだ) とが触れ合うんだ。もっと言えば、マーラーの音楽こそ、意識のパラドックスの最も端的な現れの一つなんじゃないかな。 僕にとってマーラーが未解決の問題だ、というのは、一つにはそういうことが含まれているんだ。マーラー自身、(人はただちに第3交響曲に まつわる議論を思い浮かべるだろうけど、)ダーウィンの時代の人間だし、ニーチェは勿論だけれど、単にドイツ・ロマン派的な自然哲学に 親しんでいたというのに留まらず、それ以上に自然科学への関心がとても強く、フェヒナーやロッツェを愛読していたくらいで 進化論的な発想は馴染みがないものではなかったようだし、一方で、不滅性の問題―それは普通には寧ろ、「魂の救済」とか「宗教」 の問題と見做されるのだろうし、実際、マーラーその人の文脈ではそう言ってしまってもいいんだろうけど、僕は出来ることなら一旦 そうした文脈を括弧入れして、自分の生きている時代の文脈、あるいは自分が育まれてきた環境の文脈に置き換えたいんだ―は 彼の中心的な問題であり続けた。人と音楽とは勿論区別しなくちゃいけないけど、マーラーの場合、結局、別々に論じることは できないし、マーラーの音楽は、それを安易に素材としての標題と結びつけるのは問題だけど、さりとて意味を無視して形式だけ 論じることを音楽自体が拒否しているのも確かなことだ。いや、それを一般的に論証するのは無理かもしれない。でも僕にとっては そうだ。僕がマーラーの音楽を聴いて受け取ったものは、入り口では生理的・感覚的・情緒的な反応に過ぎなくても、どこかでそうした 概念的なものと結びついている。個別事例でいいんだ。私の場合、であって、それが一般性を持たなくたっていい。所詮は一般性 なんて程度問題なんだし。でも、「私は確かにこうしたものを受け取った。それは決して無ではない。」ということを、示したいんだよ。 勝手な言い草かも知れないけど、マーラーの音楽がそのように誘っているんだ。

―相変わらずの飛躍ぶりだな。全く目が眩んでしまう。マイヤー言うところの「絶対的な表現主義者」の立場に共感を覚えていると 言う割には、お前の言うことはいつもいつも作品そのものとは懸け離れた話ばかりじゃないか。それでフローロスについて否定的に 考えているなどとよく言えたもんだ。所詮は音楽の享受者でしかないくせに、背伸びをするのも程ほどにしたらどうなんだ?

―確かにそれはその通りだよ。僕は音楽の創作の現場にいるわけじゃないから、そこでなら可能な、生産的な継承というのは 無い物ねだりだ。でも、だからといってマーラーの作品を完結した過去の遺物としてしか扱えないとは思わない。こんなことを 言ったら不遜の謗りは免れないだろうけどね。
フローロスのやり方でひっかかるのは、彼が「それは確かにマーラー自身が考えてメモ書きしたことだ」とか、「この手紙で 彼自身が言っている」「誰それに語ったという証言が残っている」という実証性を免罪符にして、結局は素材に過ぎなかったり、 あるいは極めて不正確な歪みをもった譬えに過ぎないものを、作品の内容そのものと同一視してしまう危険がある点なんだ。 前島さんのいう標題Aへの経路として標題B,Cがある、ということが常に意識されていればいいんだけど、フローロスの議論は 時々、前島さんほどはその点が峻別されていないように思えるしね。そもそも、前言語的な標題Aって、一体何なんだろう。 それをあえてまだ、―混同の危険を冒してまで―、標題と呼ぶ必要があるんだろうか。結局、言語で議論を行っていて、 標題B,Cが持っているバイアスを除去して、標題Aをいわば「還元」することなんか、できるんだろうか。それを可能にする には、標題B,C以外の別のものを持ち込むなりして遠回りをする必要はないんだろうか。何か、ちょっと人工知能における 「表象」の問題に似ている気もするなあ。
でも実は、本当の問題は、標題Aを認めたとして、それは依然として作者の意図の、作品にとっては素材の水準に留まって、 作品に実現されている内容には辿り着かないことに対して無頓着なことではないかな。勿論、作者の意図は重要だし、 それがある作品の魅力をかなりの部分規定してしまうことは否定し難い。でも、意図されたものだけでは十分じゃない。 だって僕が聴きとって惹きつけられたのは、その作品の内容なんだ。マーラー自身、意識的な意図を超えて「書きとらされている」 という証言を何度となくしているけど、作品の内容は、作者の意図と一致しない。勿論、不等号がどっちを向くかは場合による んだけど、マーラーのような天才の場合には、いつも作品が意図をはみ出しているんじゃないか、だからこそ、時代の制約を 超えた価値を持ちうるんじゃないだろうか。アドルノの観相学や精神分析的な読解がいつも妥当だとは思わないよ。恣意におちいってしまう 危険は大きいだろう。だけど、それらはそうした「言外」の部分を取り出そうとしているわけで、そうしたアプローチもまた、意義があると 思うけどね。要するに、作品そのものが問題なんだし、記号論的三分法でいう作品のレベルの中立性は理論的な仮構である ことを思えば、寧ろそうした恣意の危険は避けて通るべきではないと思う。少なくとも僕は、自分が受け止めたものに忠実でありたいと 思うしね。「客観的な」マーラー評価は、どこかの偉い音楽学者や評論家の先生の仕事で、僕には関係ない。
もちろん標題B,Cを実証的に跡付ける作業が全く無価値だとは思わないし、そうした実証性は、資料的な価値は十分にあるから、 それはそれで大事なことではあるんだろうけど、フローロスのようなアプローチだと、(まあ彼自身、実際にそう言っているんだけれども) 19世紀に書かれた交響曲は、マーラー「に限らず」、軒並みフローロスのような標題的な分析が可能であるということになってしまう。 もっとも、これをきちんと考えるには、翻訳されていない第2巻あたりで展開されているらしい、「性格」についての議論から辿ら なくちゃいけないだろうね。それが標題にどうつながっていくのか、フローロスが意味論をどのように根拠付けるのかがわからないと、 フローロスの「方法」については判断できない。その意味では―まあ、売れないだろうから仕方ないけど―第3巻だけが 翻訳されているのは、残念なことだと思う。上でも触れた前島さんの解説はとても立派なものだけど、それがフローロスのやっている こととどう関わるのかがわからないと、読者は戸惑うんじゃないかな。あるいは、安易な読者なら、前島さんの説明を読んで、 それがフローロスの主張(の代弁)であると見做して先に進んでしまうんじゃないかしら。どうせなら、ついでにフローロスの議論では 前提がどんなものであるかというのを、第1巻、第2巻の内容を要約する仕方で説明してもらえればよかったのに、と思うよ。 その要約があれば、安心して第3巻を読むことができるわけだしね。でも、これまた今ここで僕が言いたいこととは関係ない。 音楽学の方法論は、音楽学者とか音楽評論家が批判しあって改良していけばよくて、僕なんかが口出ししてもしょうがないしね。
とにかくフローロスの方法論が一般的な妥当性を持つとしたら、例えばブラームスとマーラーを隔てるものもないし、マーラーが あんなに苦労して差別化しようとした、シュトラウスとマーラーを隔てるものもなくなってしまうんじゃなかろうか。 もしそうだとしたら、別にそういうアプローチの仕方そのものを否定するつもりはないけど、それならそれで、寧ろマーラーなんかより、 「絶対音楽」であるはずのブラームスの交響曲とかを分析した方が面白かったんじゃないかな。そうでなきゃ、色々と道具は持ち出したけど、 結局景色は大して変わらない気がするしね。
でも、だとしたら少なくとも僕はそんなアプローチには全く興味はない。別にマーラーの意図を尊重してというわけではなく、 僕が救い出したいのはマーラーの独自性だからだ。「そんなものはないんだ。結局、マーラーだって時代の子であって、彼がやろうとしたことは、 その時代の人間は多かれ少なかれ思いついていたし、気づこうと気づくまいと、実際にやっていたことなんだ。」という声が 聞こえてきそうだけど、僕はそれには、たとえそれが身の程知らずだろうと、抗弁するつもりだよ。だって、僕は他ならぬ マーラーの音楽に惹きつけられたんだから。欲しいのは時代の一般的な傾向なんかじゃなくて、差異の説明なんだ。
同じことは、社会的・文化的な背景を強調する立場に対しても言える。19世紀末のウィーンの状況を知ることは、 マーラーを理解するのに大切なことだというのは否定しないし、そうした文献にあたることはとても興味深いことだと思う。 でも僕が惹かれたのはマーラーであって、19世紀末のウィーンの方じゃない。はっきり言って19世紀末のウィーンには寧ろ 反撥の方を覚えるくらいだ。それよりなにより、時代がこうだったから、という説明は、結局のところ、いつまでも僕のマーラー 経験には辿り着かない。
それよりかは例えばシェーンベルクのプラハ講演でのあの第6交響曲アンダンテの旋律の分析の方が、よほど僕の経験を 的確に説明してくれるように思えるんだ。もちろん楽曲分析なら何でもいいというわけじゃない。一例をあげれば、楽曲分析としてはマイヤー的な 手法を批判的に継承し、時間性の分析としてはフッサールやハイデガーの現象学を援用するという触れ込みのグリーンの分析は、その着想はとても魅力的なのに、 結局のところ不毛なものに思えてならないんだ。そこでは分析の手法はいわばアリバイに過ぎず、結局言われていることは、 分析の手法とはほとんど無関係にも言いうるようなこと、しかも更に悪いことには、ほぼ空虚な主張に過ぎないのではなかろうか。 どうやら彼は、ハーツホーンのプロセス神学の研究もしているらしいから、ホワイトヘッドのプロセス哲学の道具立てだって 知っている筈なんだけどフッサールやハイデッガーに言及しているところを読むと、随分と不可解なことが書かれていて 理解に苦しむ部分も多い。現象学的な時間論とグリーンがマーラーの交響曲について言いたいこととどう関係あるのかよくわからないし。 だいたい音楽学者が「音楽の現象学」とか「音楽の時間論」と言うときって、どうして現象学者の言葉の引用とか、 本来別の目的で為された旋律の分析のような断片的な議論の敷衍や、音楽作品の享受ではなくて音響知覚のレベルが 適当なような一般的な議論しかしないんだろう。音響学でも心理学でもなく、音楽の現象学を名乗り、あるいは 「音楽的時間」というのを殊更に主張しながら、~ではない、~でもない式の言い方ばっかりでちっとも固有の水準に ついての話は出てこないし、しかも個別の音楽作品という具体的な分析の素材が幾らでもあるというのに、個別の分析は ないか、あっても一見したところ奇妙に素朴な形而上学的な議論になったりして、ちっとも現象学的でなかったり、、、
(ちなみに、ホワイトヘッドの「過程と実在」における概念装置と、現象学的な記述との比較というのには随分昔に興味を 持ったことがあるよ。現象学的な記述にはその立場に由来する「影」がいつもつきまとっているし、ホワイトヘッドの道具立てはエラボレイト しなくてはいけないだろうけど、でもこうした事柄を記述する暫定的な出発点としては、そんなに見当外れだとも思わない。 今だったら、神経科学的な知見によってホワイトヘッドの記述にある肌理の粗さを補完することが考えられるし、現象学は それ自体を意識の自己記述(というか「虚像」の構成)の様相として、捉え返すことができそうに思える。そして、マーラーの ような音楽作品には、やはりそうした「影」が映りこんでいるように思える。だから、現象学と対比するのは、ことマーラーに 関しては決して見当はずれというわけではないんじゃないかな。別に構造主義的歴史学みたいに、あるいはアドルノの観相学の ように、現象学理論とマーラーの音楽が同じ社会的・文化的環境の反映で、或る種の同型性を持っている、というような ことを言おうとしているわけではなくて、もっと端的に、マーラーの音楽のありようが、「意識」の音楽だ、ということでいいんだけど。)
だいたい時間論といいながら、その時間分析のスキーマは随分と貧しくないだろうか? 因果性と自由意志の2つだけで、それを繰り返し用いるだけだから「どちらでもない」「どちらでもある」のような記述として 無意味なことが起こるんじゃないかな。特に第8交響曲や第9交響曲については宗教的なテーマが前面に出てくるから、 彼の独擅場なんだろうけど、首を捻ってしまうな。「変容した意識」というのを繰り返し言うけど、変容の内実が語られなければ それは空疎だ。単に違うといっているだけで何の説明にもなっていないんじゃなかろうか。もし「変容」という言葉の宗教的コノテーションに よりかかった含意をそこに読み取るべきなのだ、というなら、それは結局、現象学や楽曲分析の結果じゃない。その「変容」とは どんなものであるのか、第8交響曲や第9交響曲の時間性の特異性―それ自体は、僕も否定しないよ―を記述する言葉を 見つけるのが課題だったんじゃないのか。
他にも、因果性の話題のところで、意識の話をしていたかと思えば、物理学における未来の事象の予測が出てきたり、 それがサルトルの「自我の超越」に結び付けられたりと、目が眩むような議論の展開が結構ある。あるいはマーラーの音楽と シュニッツラー、クリムト、クラウス、ハイデッガー、サルトルとの間にアナロジーが成り立つとか言われても、この名前の並びを見れば、 その程度のアナロジー(僕には極めて粗雑で、危ういものに見える)が一体マーラーの音楽の時間構造の理解にどう寄与するのか、 どちらかといえば怪訝な気持ちになるんだけどね。
実のところ、マーラーの音楽そのものについてグリーンの言っていることをとれば個別には首肯できる部分も結構あるんだけれど、 それを敷衍して意味や解釈のようなレベルになると途端に言っていることが怪しくなって、おしまいに他の哲学者の概念や文学作品、 美術などを持ち出してきて、アナロジーをやりだすと、今度は解釈の方が一人歩きしだして、こちらは全くついていけなくなる、 というのの繰り返しだ。少なくともグリーンは個別の作品の具体的な分析をやっていて、それは大変に貴重なものだし、グリーンの注目する フレーズの不均衡の問題や不完全なクロージャの問題は確かに重要な観点だと思う。だけど、そのレベルでだって、マーラー独自の 時間構造の特徴とでもいうべきものがちっとも浮び上がってこないように思えるし、それでいて聴取によって構成される構造のレベルの 議論をいきなり表現内容の話と結びつけるのはそもそも無理があるんじゃないかな。どうやらグリーンにとってはそれはmetaphorical exemplification という概念で正当化されているらしいんだけど、実際のグリーンの議論に関しては、全然納得できないな。
もう一言言えば、グリーンは自分の説の独自性を主張するのに、様々な論者の意見の批判をするんだけど、もし彼が音楽を 現象学的に分析しているんだとしたら、その批判の仕方はおかしいように思うな。批判するより、どうしてそうした(グリーンの 立場からは)「誤った」説が出てきてしまうのかの説明をすべきなんじゃなかろうか。仮に誰もグリーンが分析したようにはマーラーの 音楽を受け止めていないんだとしたら、それはグリーンの分析の正しさよりは寧ろ誤りの可能性を示唆する証拠にならないだろうか。 結局、一体グリーンが何をやりたいのか、何を言いたいのか、判然としないんだよ。これはすごくがっかりした。結構期待していたんでね。 まあ僕の頭が悪くて、しかも彼の目も眩むばかりの博学にはついていけないので、彼の主張の素晴らしさや独創性が理解できないだけかも 知れないけれど。

―おやおや、今度は楽曲分析に対する批判か。よくそんな偉そうなことが言えるものだ。それじゃあ、一体お前は何を言えると いうんだ。実際には他人の言っていること、やったことに難癖をつけるだけで、自分では何もしていないじゃないか。どうせ 自分では大したことも言えない癖に、どうやって責任をとるつもりだ。

―いや、それはもっともな批判だと思うし、実際、的を射ているよ。本当のところ、だからといって自分が画期的な分析の 方法を思いついたわけでも、マーラー研究に貢献しうる何かを持っているわけでもないんだ。だから批判する資格なんか 自分にはないのは承知している。自分が言っているのが単なる愚痴だというのもわかっている。でも、立派な研究が自分の 体験を素通りすることに違和感を感じるのは事実で、それを偽っても仕方ないだろう。所詮僕は研究者じゃないから、 方法論の批判が最後には自分に降りかかることになるのは避け難い。でも、おかしいと思うのを言うのだって、まるきり無駄では ないだろう。やっていることの不毛さへの批判は甘受するよ。その上で、自分に出来る仕方で自分の体験に忠実であること、 自分の体験を或る種の記録として残すことくらいしかできそうにない。それの価値については弁解はしない。それを決めるのは どんなにつまらない、僕の書いた文章のようなものであれ、そのきっかけとなった、比較を絶する価値を持つことは疑いようの ないマーラーの音楽であれ、いずれにせよ作者ではないんだ。別にジャンケレヴィッチ式の事実性に立て籠もって、価値の差に 立ち向かうつもりもない。(だいたい、あんな論法は何の慰めにもならないんじゃないかな。いや、あの本を読んだときには、 それなりに感心もするかも知れない。でも実際に、どの人称のでもいい、「夜」が来るのを経験すれば、、、) そう、ナチスの足音に怯えることのない幸福な時代であっても、貴賎を問わず、アドルノが「夜」と呼んだものは、レヴィナスが 指摘している通り、結局のところ誰にでもやってくるんだ。勿論、当然、僕の上にもだ。 正直に言うよ。最後はそれに尽きる。
マーラーがこの上もない天才的な仕方で為しえたことは、つまるところ、儚い存在に過ぎない意識の、主体の擁護ではないだろうか。 有限なものを無限にすることはできない。けれどもそれぞれの可能な仕方で不滅性に(到達することは不可能でも)漸近することは できるのではなかろうか。けれどそのときそれは最早、私ではなく、意識ではありえないだろう。 いずれにせよ「私」とは異なったものに委ねるほかないんだ。もし魂とは、そうした「異なるもの」の呼び名であるというなら、 僕はそれをまで否定するつもりはないよ。
こんなことを言ったからといって、勿論これは結論ではないんだ。寧ろ、これこそマーラーの音楽が呼び起こした問いなのではないか と思うんだ。同じことの繰り返しになるけれど、結局のところ、それは僕にとって未解決の問題なんだよ。恐らくは 決着がつくような代物ではないかも知れないけど、そうとわかっていても、少なくとも今しばらくは関わらざるを得ない、、、
だってそうだろう、同じ人間が、あの第8交響曲と第9交響曲を書いたんだよ。こんな矛盾があるだろうか。マイケル・ケネディは、 「実験」と見做すことでそれを理解しようとしていたように記憶しているけど、本当にそうなんだろうか? それでいて、そうした 分裂、懐疑を否定することができないとも思えるんだ。寧ろ、それは誠実さの証ではないだろうかとすら思えるんだよ。 どちらもそのときには正しかったのかも知れないしね。もしそうなら、第10交響曲のフィナーレの姿を、クック版のおかげで 垣間見ることができたからといって、それが結論ということにはならないかもしれない。いつでも否定される可能性はあるのだから。 でも、彼にとってはあれが結論だった、ともまた言いうるんだ。そして更に、音楽の上での結論と、その人の生涯の軌跡の上での 結論の関係が被さってくる。確かに所詮は他人の人生で、関係ないといえばない。でも、音楽がつきつけるものを無視して しまうことはできない。少なくとも我が事として引き受ける仕方では考えてみざるを得ない、あくまで僕の個人的な受け止め方だけどね、、、(以下、後半に続く。)

(2007.4.30初稿, 5.1, 15加筆, 6.30, 7.1加筆修正, 8.14修正)