(承前)―やれやれ、また話が逸れた。結局、マーラーについて一体何をしたいのか、そうやって撒き散らすものに対して、どう責任をとる
つもりなのか、答える気はないんだな? そもそも、何でマーラーじゃなくちゃいけないんだね。100年も前の、全く異なる環境に生きた
人間のした事が、お前の問題とやらにどう関わるというんだ。気質も能力も違えば、世界観だって違うだろう。せめて時代がもっと
近ければ、問題意識の共有とかもありうるだろうに、それをわざわざ自分の問題に引きつけるなんて、どこかですり替えでもしない限り
無理なんじゃないのか?
―確かに、マーラーの時代と現代では意識について得られている知識の量も違えば、見方も異なっているのは確かだ。進化論にしても
同じ事で、マーラーの時代には許されていた空想の入り込む余地はずっと少なくなっている。意識の問題は、もはや哲学の問題では
なくなっているんだ。恐らくは幸いなことにね。やっと机の叩き合い以上の議論ができるようになってきた。(それでも、屁理屈をひねり
出しては話をまぜっかえそうという、哲学者はいるみたいだけどね。)でも、意識の成立の機構がわかったとしても、意識「からの」展望は
なくならないし、意識「にとっての」問題は残るんだよ。クオリアはなくならないんだ。自分がどんなに儚く、しかも制限されたものだとしても、
それをまるまる幻想だと言うべきではないんだ。フッサールの現象学が、意識が自分の背中を、自分の基盤を覗き込むことができると
考えていたとしたら、その思い込み自体は幻想だと言って良い。意識は「ほぼ」おまけみたいなものだろうよ。でも、意識は現にある。
だいいち、こうした議論をやっているのはまさに意識じゃないか。自分の権能について幻想を抱くべきじゃないけど、でもまるまる
なかったことにするわけにはいかない。或る種の宗教はこうした考え方自体を問題視するのかも知れないけど、僕はそうは思わない。
マーラーの音楽は、それが如何に大きく暗黙のものとなった技能や、無意識的な様々な活動に依拠しているとしても、それでも
意識なしには産み出されなかったと思うよ。意識は極めて受動的に「書きとった」のかも知れないけど、マーラーの音楽には、
書きとらされた意識がはっきりと読み取れると思うんだ。しかもマーラーは、自我の全能性に対する懐疑を持ち合わせていた。
うまくいえないけど、マーラーの場合に限って言えば、こうした問題は、音楽のいわゆる標題、単なる素材じゃない。音楽の構造
自体がこうした問題の構造をある仕方で写し取っているんだと思うよ。
勿論、そうした事態が唯一マーラーだけにおきていると考えているわけではないし、問題意識としてはもっと今日的な仕方で
向き合っていると思える音楽もある。例えば三輪眞弘、クセナキスの方が意識というものに対する距離のとり方としては
現代的だし、いわゆるパラダイムみたいな部分で暗黙のうちに共有している部分が大きいんだろうと思う。あるいは晩年の
ショスタコーヴィチの方がマーラーより遥かに醒めていて徹底しているかも知れない。個人的な気質みたいな部分だったら、
ヴェーベルンの方が遥かに身近だと思ってる。
でも、事実として僕にはマーラーの音楽がすっかり染み付いている。今更脱ぎ捨てるわけにはいかないくらい、それは言ってみれば
身体化されているんだ。出遭った時期のせいもあるかも知れない。それは結局偶然の為せる業かも知れないけど、いずれにしても
マーラーの音楽は、僕の中に埋め込まれちゃっているんだ。音楽を聴くことは単なる娯楽なんかじゃない。一方で意識的な知識や
習得、教養の涵養にも留まらない。単なる感覚的な刺激の受容でもない。それは世界に対する反応の様式を、認識の方法を学ぶこと、
自分の回路のなかに引き込んでマップするといった側面があるんだよ。ある抽象的な水準での身体の様態の(変換を伴う、でも何か同型性を
保っているはずの)伝達、「感受の伝達」のものすごく複雑なバージョンが音楽を聴くことで起きているんだ。すべての音楽がそうだとは言わないし、
音楽一般になんか僕は興味ない。でもマーラーの場合には、自分の経験に照らして、そうなのだと言えると思うよ。
確かに何で今更マーラーなんだって、僕だって思わないでもないよ。今やCDだって単純に枚数を計算しても50枚と持っていない。
それでも作曲家別に考えたら、まだ1,2を争う量だ。僕は出不精なんで実演はもうほとんど聴かないけど、それでも交響曲は過半の曲の
実演を聴いている。第1交響曲ハンブルク稿の日本初演にだって立ち会った(ひどく「鳴らない」演奏で、あんまり楽しめなかったけどね)。
ひどい劣等比較だけどね。楽譜だって全ての作品のものを持っているわけじゃないけど、それでも被覆率は圧倒的に高い。
専門の研究者なら必ず読んでいるであろう文献だって、全然読めていないだろうけど、それでも既読文献の数や、
手元にある文献の数からいけば、他とは比較にならないくらい多い。要するに、他の人たちと比較してどうかはおくとして、
自分の持ち札のなかでの相対的な比較では、それが劣等比較にすぎなくても、マーラーが一番「まし」なんだよ。
ほとんど全ての作品を満遍なく聴いているし、繰り返し聴くし、思い浮かべることもできる。これまた被覆率は圧倒的だ。まあマーラーは
作品数が少ないから、というのもあるけど、でもマーラーなら交響曲だけじゃなく、歌曲だって同じように接している。もっとも編曲の類には
関心がないけれど。引用されている譜例を読んだときに、それがどの曲の何処の部分なのか同定して、頭の中でその部分を流すことが
できるといった程度のことさえ、それなりの確実さと網羅度をもってできると言える自信があるのは辛うじてマーラーだけなんだよ。
あるいはまた、作品の成立史、伝記的な事実、そればかりか真偽の怪しいエピソードの類に至るまで、
マーラーの場合ほど頭にきちんと叩き込まれているケースは他にはないし、いわゆる作曲家論、作品論の類にしても、あくまでも相対的にまし、
というだけにせよ、マーラー以上に知っているといえるのはないんだ。
今時点での「意識的な」距離感からいけば、マーラーは決して一番身近な存在じゃない。寧ろ距離感を感じているのも確かだ。
けれど、その音楽が、人物が自分の「身についている」度合いからいえば、マーラーはやはり特別なんだ。だからこそ「番外」扱いにしているんだ。
主観的な価値、というのはそういうことをひっくるめてのことなんだ。自分の脳の中にしまいこまれているものを、外に引っ張り出して形にするとして、
一番意味がありそうなのは、結局、マーラーにまつわる経験なんだということだと思う。何度も言うけど、それ以上の理由はないんだ。客観的に見て
どうであろうと、今の自分にとってそれが必ずしも無条件に具合がいいことではなくても、結局、それが自分にとっての問題なんだ。
どういう結論になるのか、そもそも結論が出るのかもわからないけど、でも、決着をつけなくてはと思っている事柄なんだよ。あるいは或る日、突然、
どうでもよくなってしまう瞬間が訪れるかも知れない。でもまあ、その日が来るまでは少しずつやっていくつもりでいるよ。少なくとも今の時点ではね。
それ以前に、どれだけ時間がとれるのか怪しいものではあるけれど、、、
―お前の個別の事情なんかどうでもいいんだよ。一体そんなものに誰が興味を持つんだ。そんなものは公共性を持ち得ないし、どうあがいても
学問には辿り着かないぞ。お前の様な態度は、結局のところ消費者の問題に過ぎないものへの居直りじゃないか。お前は150年も前にヘーゲルが
美学講義で、お前みたいな姿勢に対してどう言っていたか知らないのか?
ーそれは、「... しかしそうした研究が進展することはない。なぜなら感受というものは不確かでぼんやりとした精神領域だからである。感受されるものは、
もっとも抽象的な個々の主観性という形につつみこまれたままなのであり、したがって感受の相違もまたまったく抽象的で、事柄自体の相違ではない。
... 感受の省察は、主観的な情動とその特殊性の観察で満足するのであって、単なる主観性やその状態をほうりだしてまで、事柄に、つまり
芸術作品に沈潜・没頭することはないのである。」というやつのことだろう? いや、ヘーゲルの言っていることにまるまる同意できないわけじゃないよ。
寧ろ、ヘーゲルの言ったことは認めた上で、それでもそうした感受抜きに、一体音楽について語ることができるのか、音楽の持つ力について証言できるのか、
と聞いてみたいんだよ。丁度アドルノは、この部分を「新音楽の哲学」の中で反主知主義をチャイコフスキー―アドルノではいつも悪役扱いだが―をだしにして
揶揄している部分で引用しているね(邦訳、渡辺健訳、p.22、上掲の引用も邦訳に従った)。アドルノはそれとは別に聴取の類型論―これまた「エリート主義」の廉で
批難を浴びることの多い、問題あるものだが―も提示していて、その中でまたもやチャイコフスキーを引き合いに出しながら、「自分の本能を解き放って
くれるのが音楽なのだ」というような「情緒的聴取者」を分類している。勿論否定的な価値付けとともにね。「教養消費者」「良き聴取者」「エキスパート」というふうに
続くこの類型の価値のスペクトルを眺めていてふと思い浮かぶのが、その「エキスパート」に関してアドルノは、今度はヘーゲルの見解に誤認を認め、―この2つの議論を
単純に重ね合わせていいのかどうかには議論があるかもしれないけど―必ずしも手放しで上述の類型論での価値のスペクトルを是認しているわけでは
なさそうだということだ。(アドルノが嫌いな人なら、またいつものやり口か、と腹を立てることだろう。)
結局アドルノは、そもそも享受美学というのに―それが「趣味」という主観的、あるいは間主観的なものに依拠するようなものである限りは―
懐疑的だったんじゃないかと思えるけど、でもアドルノの個別的なもの、主観的な経験に対する態度や、彼が芸術に見出していた働きなり、
力なりを考えた場合、アドルノの創作の極への偏重には疑問が残ると思うんだ。つまりアドルノの周囲にあった享受美学が抱える限界を、
享受そのものの限界と混同すべきでないし、それが理論的には途方も無く厄介なことは明らかでも、やはり享受の極でおきていることに
一定の―通常の社会学の概念では測りきれない―価値を認めるべきなんだと思う。実際アドルノもまた、そのように考えていたふしはあるようだしね。
結局のところ作品は読み解かれることを欲してはいないだろうか?
壜に手紙を封じて海に投じるのは、それが何時か誰かに拾われて読まれることを期待してのことだろう。(マーラーその人の、作品の価値に対する自信と
それが理解されないことへの不安を思い浮かべてもいい。彼はやはり、自分ではない他者の誰かが理解してくれることを望んでいたのではないか。
更にはマーラーの場合には、一方で、作品は作者の成長の過程の抜け殻に過ぎないという主旨のことも言っている。いまここでは作品に限定して
話をするけど、この発言もまた最後にはきちんと取り上げる必要があると思っている。マーラーは作品創造について十分に意識的・反省的でもありえた
―自分が創作している最中はそうではなくとも―し、そのことは考慮に入れるべきだろう。)
作品の価値を決定する必須の契機として、理論に受容者を招じ入れることの危険とは裏腹に、作品は受容者を待ち望んでいるんじゃないか。
作品それ自身が生き残り、引き継がれ、再生産されることを望んでいるのではないか?要するに「星座」は解釈者の視点を前提としているんだ。
ならばなぜ作品において創作の極のみが偏重されるんだい?勿論、解釈者を固定してしまうことはいわば論点先取であり、その意味で受容者を「前提とする」
ことへの抵抗は首肯できる。でも星座は解釈者の立つ位置によって、そのすがたを変えるんだよ。否、時が経てば、元の星座の見分けすらつかなるなるだろうよ。
そもそも解釈者の視点なしに星座というのを考えることはできないんだ。所詮は理念の関係とて、プラトン的なイデアの世界の住人ではありえない。
だからアドルノのテルミノロギーで星座というのは言いえて妙であって、アドルノの立場はその意味で、自分の立っている歴史的文脈に自覚的なものには
違いないんだよ。しかし、そうであってみれば、創作の歴史的文脈への理解なしには作品の正しい理解がありえないとする立場において、創作の極への偏重は、
結局のところ作品の自律性を、解釈の恣意性への危険への予防線と引き換えに損なってしまうことになってしまうんじゃないだろうか。
勿論、だからといって一気に何でもありになると言いたいんじゃないよ。ヘーゲルの批判はそれでもなお有効だ。極端な言い方をすれば、例えば、
マーラーの音楽を聴くことで僕の脳内のニューロンの初期状態がこうであったものが、このように変化しました、というのを一度限り記述することになんか、
勿論意味は無いさ。結局はニューロンの活動だとしても、ここでの主題は心理学実験ではないのだから、「神経美学」とでもいうべき水準まで還元するのが
適切な記述レベルだとも思わないしね。ヘーゲルの時代に比べれば、ヘーゲルの時代には知られていなかったレベルがはっきりとしてきた今日においては、
感受はヘーゲルが言うほど不確かでぼんやりとした精神領域というわけではないだろう。だけど、ここでの適切な記述レベルに関して言えば、
事態は多分そう進展はしていないだろうね。
つまり君の言うとおり、僕のやりたいことは、今の手持ちの道具立てでは公共性を持ち得ないし、どうあがいても恐らく学問には辿り着かない。
「個別的なものについての学」というのは不可能なんだ。それは認めるよ。そしてそれでいいと思っている。学問の見かけのもとに趣味の押し売りをやったり、
結局は事柄には辿り着かないどころか、それをかえって見えにくくさえし兼ねない知識を、消息通ぶりを発揮して振り回したりするよりはましだと思うよ。
そもそも、僕のことはおいても、マーラーの研究の進展には「素人くささ」が付き纏ってきた、というのが客観的な評価なのだろう。
アドルノなんか専門の音楽家、音楽学者、音楽社会学者などからしたら、赦し難い越権行為の連続だろうし、
ド・ラ・グランジュの伝記研究も、ミッチェルの生成史研究も、「学問的には」手続き上必ずしも厳密とは言えない、という話を聞いたことがあるよ。
僕個人としては、彼らの研究に垣間見えるマーラーに対する気持ちを感じ取るのは決していやな経験ではないけどね。あのクルト・ブラウコプフですら、
後書きで個人的な述懐をしているけど、それを読んだとき僕は胸が一杯になった。そもそも、彼らがどれだけの年月をかけて著作を産み出していることか。
それは確かにきちんとした計画に沿って整然と、効率よく、採算性を考慮して進められる学問研究じゃないだろう。手際よく数週間で1冊の本を書き上げる
のにも能力と蓄積は必要だろうけど、その人の半生をかけて書き上げられたものにも、かけがえのない重みを感じるよ。
そうした第一線の研究はおいても、マーラーを語るときには皆、自分のマーラー経験を語る衝動を抑え難く、それが或る種の儀式―多分、精神分析的な説明が
つきそうな―になるというのは良く言われているし、実際、本当に皆、第一線の研究者も、市井の愛好家も、そうした衝動には忠実に見える。
これこそ、ちょっとした驚異じゃないかな。まるでアウトサイダー・アートみたいじゃないか。多分そこには何かがある。少なくとも、マーラーの音楽には、個別的なもの、
主観的な経験のかけがえのなさを救い出そうとする何かが含まれているんじゃないかな? そうしたことの方が、まるでこの100年の進化論をはじめとする自然科学の
進展とそれによる世界認識の変化なんか存在しないかの如くの、黴の生えたような、それこそ「不確かでぼんやりとした」世界観や宇宙観にマーラーを縛り付けて
おこうとせんばかりの、標題についての議論なんかより、僕にははるかに重要に思えるんだよ。勿論、マーラーの音楽はアウトサイダー・アートではないし、その音楽が
アウシュビッツ、ヒロシマ、ナガサキを予言している、などというような立場は、これまた受け容れ難い。マーラーが預言者である、とか現代社会のある側面を先取り
している、という言い方もされるけど、これまた首肯しがたいものを感じるんだ。結局それは、ある時代という文脈の限定性を、マーラーが生きた同時代から、
論者の語る時代に移動させているだけで、論法は大して変わっていないような気がする。結局、マーラーを持論を述べる題材にしているだけで、マーラーの
音楽そのものについて語っているとは思えない。
そうではなくて、もっとマーラーの音楽そのものに寄り添った経験、最初は個別の、取るに足らない、ヘーゲル的には「抽象的な」経験の方が大事だし、そして、僕もまた、そうした経験を語りたいという衝動に逆らおうとは思わない。そしてその上で、時間が許す限り、
自分の経験から作品と人の両方に向けて進んでいきたいんだ。方法論があるわけでもなし、まあ、大した成果は自分でも
期待していないけど、止めてしまうわけにはいかないんだ。繰り返しになるけど、そのようにマーラーの音楽が誘っているんだよ。
―まあ勝手にすればいいさ。どれだけ時間がとれるかだって、動機付けの強さ次第だろうに。最初からそんな予防線を張っているところを
みると、先行きは期待できそうにないな。せいぜい優先順位をつけて、あちこち寄り道せずにやることだ。お前みたいにキャパシティのない奴の場合にはことさら、「強さは狭さの応酬」なんだろうから、、、
(2007.4.30初稿, 5.1, 15加筆, 6.30, 7.1加筆修正, 8.14修正)
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