Mahler est un homme de foi. Interrogé, plus tard, dans le cadre d'une enquête sur la question : « Pourquoi créez-vous ? » il aura cette belle réponse : « Tisser la vêtement vivant de Dieu, ce serait au moins quelque chose ... »
( Mahler war zeitlebens ein gläubiger Mensch. Später einmal stellte man ihm im Rahmen einer Umfrage die Frage » Warum glauben Sie? « und er gab darauf folgende poetische Antwort : » An Gottes lebendigen Kleid mitzuweben, das wäre doch immerhin etwas ... « )
マーラーは信仰の人である。後にアンケート調査で「なぜ創作するのか?」という設問に立派な回答を寄せる。「神の生き生きとした衣を織ることは、それだけで何かである…」注:問いや地の文についていえば、ドイツ語訳は必ずしも忠実な翻訳ではないようだが、これは翻訳(それも、もしかしたら誤訳に近い)なのか、 それとも、地の文はともかく、問いと答えの方はこちらがオリジナルなのか? そもそも、この質問と答えは一体、何時行われたものなのだろうか? (アメリカで、とかいうことは如何にもありそうな感じだが、だとしたら元は英語かも知れない? そもそもこの件が全部ジルーの「創作」ということは まさかないとは思うが、、、) de La Grangeの伝記をきちんと読めばどこかにあるのかも知れないが、まだ探せていない。 ご存知の方がいらしたら教えていただきたくお願いしたい。(2007.5.12)
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と、このように記したブログ記事を最初に公開したのは2007年5月のことだった。1989年に邦訳が出て直ちにジルーの小説を読んだ時に、この「神の衣を織る」という表現に心を奪われ、更にそれを他ならぬマーラーが自分の創作の動機を説明するのに用いたということにひどく心を動かされ、だけれどもその典拠には思い当たりがなく、その後永らく気になっていたこと、だがその後も典拠を突きとめることができず、更にはそれがマーラー自身の言葉なのか、それとも何かの引用なのかすらわからずに、だけれどもこの言葉こそ、マーラーの創作のあり方を申し分なく言い当てているように感じられ、もしかしたら自分の知らない文献に典拠があるのではとも考えて、Web上で誰か知っている人が居て、教えてもらえないかと思い立ってこの文章を綴ったことをまるで昨日の事のように思い出す。マーラーが交響曲創作に関して述べた余りに有名な「手持ちの全ての手段を用いて一つの世界を構築する」という言葉は、この「神の衣を織る」という言葉を介して理解すべきなのであるという思いは、最初にジルーの小説のこのくだりを読んだ時も、この問い合わせの文章を綴った時も勿論、それから更に20年近い歳月を経た今なお、変わることはない。作品を創造するということは、それによって世界を一層豊かにすることであり、作曲する「私」自身、世界の一部であることを思えば、それは世界の自己享受と自己創造・自己組織化の絶えざる運動の一部なのであるという考え方は、如何にもマーラーの作品の在り様に相応しくはないだろうか?
ところでこの典拠に対する問いは、その後マーラーの書簡集を確認していく中で解決した。実はこれはハンブルク時代のマーラーのリヒャルト・バトカ宛書簡の中の言葉を下敷きにしており、そして「神の衣を織る」というのは、ゲーテの『ファウスト 第1部』の地霊の台詞に基づいたものなのである。(1924年版書簡集原書198番, pp.216-7。1996年版書簡集では163番, pp.167-8(邦訳pp.152-3)。 1979年版のマルトナーによる英語版では154番, pp.175-6)そのことを報告する記事(「リヒャルト・バトカ宛書簡にある作品創作に関するマーラーの言葉」)を書いたのは、この記事の5年後のことであり、勿論その間ずっと探し続けていた訳ではなく、ふとした折に思い出しては手元にあるマーラーに関する様々な文献をあたり、というのを繰り返した挙句、書簡集を読み返していくうちに或る日行き当ったのである。その探索の途上では、正確にその通りではないけれど関連があるかも知れないとして記事として取り上げた書簡もあるので、それも併せて以下に紹介をすることにしたい。
なお、マーラーの言葉の、それ自体は印象的なこの引用がジルーによって行われる文脈は、この本がアルマに関する本であるから当然なのだが、アルマがマーラーと出会って後、婚約に至る部分である。従ってそれは1901年のことなのだが、引用の典拠である日付のないマルトナー宛書簡はと言えば、1896年にハンブルクにて書かれたと推測されているし、その書簡を「アンケートの回答」であると注記したアルマ自身によって編まれた1924年版書簡集以降、1996年版に至るまで、その推測は基本的には踏襲されている点を注記しておきたい。つまるところジルーの「後に」という記述は、そうした観点からすれば矛盾していることになるのである。もっとも、上記のブログ記事にも記載の通り、1996年版書簡集の編者であるヘルタ・ブラウコップフによれば、マルトナー宛書簡がもっと遅くに書かれた可能性は残されており、何らかの理由でジルーが1988年刊行の著作執筆時点で、そちらの解釈に(勘違いではなく)意図的に与した可能性も否定できないのだが…
(2007.5.12初稿, 2021.7.12追記, 2025.8.12 改訂)
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