お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2012年10月30日火曜日

マーラーにおける「対話」についての素描

マーラーの音楽の基本的な発想の一つの側面として、対位法的な発想があることについては概ね異論はなかろう。 いわゆる概説書の類でも、一例を挙げればマイケル・ケネディがそのような指摘をしているし、アドルノもまた、マーラーに 関するモノグラフの中で、かなりの重点を置いて取り上げている。

マーラー自身の証言における「対位法」についての言及についていえば、バウアー・レヒナーの「回想」にある有名な 件をまず挙げるべきなのだろう。ただしこの言及は、マーラーの音楽における(マーラーの生きた時代を考えた場合に) 前衛的な側面、一般にはシュルレアリスムと結び付けられることの多い、コラージュやモンタージュといった技法、 あるいは「サウンドスケープ」のようなコンセプトとの関連で言及されることが多い。この場合の音楽の領域での 参照先は、例えばチャールズ・アイヴズであり、ドナルド・ミッチェルがその浩瀚なマーラーの作品についての著作のうち 「角笛交響曲の時代」を扱った巻において、トピック的にマーラーとアイヴズにフォーカスした節を設けていたり、 日本においても渡辺裕さんのマーラー論をまとめた著作の中に、マーラーが生きた時代のウィーンの「サウンドスケープ」 との関連を論じた論文が含まれているのを読むことができる。

一方で保守的と言われるマーラーの読書傾向の嗜好を辿ると、バフチンが「小説の言葉」のとりわけ第5章「ヨーロッパの 小説における二つの文体の流れ」等で取り立てているポリフォニー性の強い作品の系譜との共通性が見られることに気づかざるを得ない。 叙事詩から小説への決定的な第一歩を踏み出したとされるヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルチヴァール」からはじまって、 スターンの「トリストラム・シャンディ」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」、更にはスターンの流れのドイツにおける継承としてのジャン・パウルの作品(「巨人」 「生意気盛り」「ジーベンケース」など)、メタ小説的な趣向に事欠かないホフマン(「牡猫ムルの人生観」を思い浮かべて いただきたい)、マーラーの読書の中核であったらしいゲーテの作品、そして掉尾を飾るのは何といってもバフチンがポリフォニックな 小説の典型と見做し、「ドストエフスキーの詩学の諸問題」で主題的に扱っているドストエフスキー(特に「カラマーゾフの兄弟」)と いった具合に、ポリフォニー性の高い作品が一貫して好まれていることがわかる。

バフチンといえば芸術創造を本質的に対話的なものと考える初期の見解から出発して、様々な様式や言語、文化の 間の対話を実現するものとしての小説のポリフォニー的構造の指摘を行うに至るが、更に小説にカーニバル性を 見出す主張を行っている。そしてポリフォニー性のみならずカーニバル性も含め総じてバフチンが小説というジャンルに見出す 「対話」的な構造は、一見すると様々な文化に属するジャンルが無秩序に混淆しているようにさえ見え、それが批難や嫌悪の 原因ともなるマーラーの音楽との親和性が高いように思われる。もっと直接的に、一時は作曲者自身によって交響詩「牧神」と さえ呼ばれた巨大な第1楽章を持つ第3交響曲や、まさにカーニバル的と呼ぶに相応しい様相を呈するフィナーレを含み、 バロック的なフランス風序曲を下敷きにしながら、四度音程の積み重ねによって新ウィーン楽派にも通じる第1楽章、 谷間を隔てて呼び交わすホルンやカウベルが鳴り響く中、古風な夜の音楽の断片が交錯する第1夜曲、 バルトーク・ピチカートの先駆けさえ厭わないグロテスクで「影のような」中間のスケルツォ、ギターやマンドリンを コンサートホールに持ち込んでの第2夜曲でのセレナーデの追憶からなる遠心的な構成を備えた第7交響曲を 思い浮かべてみることも出来よう。

交響曲と歌曲、カンタータといったジャンルの並列と交差(連作歌曲から交響曲「大地の歌」にいたる流れと、「嘆きの歌」を 起点にし、ファウスト第2部の終幕を取り上げた第8交響曲第2部にいたる流れを見出すことができるだろう)、 民謡(借り物としてのドイツ民謡、基層としてのボヘミヤ的な旋律とユダヤ的な旋律)とコラール、調律されていない 音響と楽音、自然の音(鳥の声、小川のせせらぎ)と人間の音(カウベル、郵便馬車のポストホルン、ホルンの 呼び交わしからファンファーレへ)、更には都市の喧騒の並存は、まさに多言語の混在であり、パロディやイロニーの導入は それが意識の音楽であり、多層的なものであることを告げる。交響曲というジャンル自体の歴史を交響曲自体が振り返り、 その結果として最早即時的にそれ自身ではあり得ず、自身のイメージを演ずることしかできないかのようだ。 マーラーにおいては主観的形式であった筈の歌曲ですら、とりわけ「子供の魔法の角笛」に取材したそれはどこか客観的であり、 民謡そのものではなく、民謡を利用した別の何かになってしまっている。

マーラーが交響曲というジャンルを選択したことは、そうした嗜好と全く無関係であると考える必要もなかろう。 一見して雑種的で複合的な、今日で言えばマルチ・メディア的なジャンルであるオペラの上演に一方では携わりながら、 当時の概念では「総合芸術」であるそれが、本当の意味での多声性を保証するものではないことに気づいてか、 自己の作品創造においては、そうした経験を惜しみなく交響曲というジャンルに注ぎ込み、それをバフチン的な意味で 小説的であり、ポリフォニックなものとしたと見做すことができるのではなかろうか。

だが小説という文学におけるジャンルとマーラーの交響曲との類似の指摘、更には類似のいわば要石たるポリフォニー性の 指摘といえば、まずはアドルノの所論に言及すべきだろう。彼の「マーラー論」の1章はまさに「小説」と題されており、 マーラーの音楽に最も近いジャンルは小説であるという主張をしている。更には第9交響曲について絶対的な小説-交響曲と 規定しているくだりでは、対位法的な声部の間の対話構造に言及していて、ポリフォニーを「対話」の実現であり、 小説というジャンルがそれを可能にすると主張するバフチンの立場との突合せが可能な程度には並行性が見られるように思われる。

ところで、まさにその部分こそ、ツェランの「山中の対話」の贈呈の返礼としてツェランに宛てて書かれた書簡において、 アドルノが自作を引用した箇所に他ならない。話は単に文学作品の音楽性といったレヴェルに留まらないのだ。 勿論のこと、小説と詩というジャンル間の隔たりは小さくない。まさにバフチンが、小説の対話的構造の対立項として 詩のモノローグ的な性格を強調しているのであるから、このアドルノの引用に比較に超えがたい懸隔に架橋を試みる 牽強付会を見出す人がいても不思議はない。だが詩を芸術と対立させつつ、詩を対話的なものとして捉えていたのが 他ならぬツェラン自身であったとすれば、詩における対話の可能性について、寧ろここを出発点として考えていく姿勢こそが ツェランを読むために必要とさせることなのではなかろうか。ツェランの詩はバフチンが多分に戦略的な意図をもって 設定した詩の類型からの例外、逸脱と考えることはできないだろうか。

そうした展望の中で再びマーラーの本棚に目をやると、ツェラン自身も大きな共感を寄せていたらしい、ポリフォニックな 詩作の実践者の姿が目に留まる。ギリシアの讃歌に範をとり、キリストとギリシアの神々が共存する後期の自由律の 巨大な詩篇群に加え、ソフォクレスのドイツ語翻訳を試みた人、最晩年には病の中でスカルダネリという別の名で署名した 短い詩を他者に宛てて送り続けた人。その人の名はフリードリヒ・ヘルダーリン。マーラーが好んだとされる 巨大なライン讃歌とマーラーの巨大な交響曲楽章の間に「近さ」を見出すことがそんなに困難なこととは 私には思われないが、のみならず、荒唐無稽と断定されてしまうこともあるフラバヌス・マウルスの讃歌 (しかもここでは伝統的なグレゴリア聖歌のカントゥス・フィルムスが顧みられることもない)とゲーテのファウストの 第2部(これ自体はそれまでも何度となく作曲家達によって取り上げられてきた題材である)の間の架橋もまた、 ヘルダーリンが別の基盤に立って別の文脈で企図したそれと構造的に同型の、相異なる他者間の「対話」の試みとして 捉えることができるのではないだろうか。

否、翻ってツェランの詩を顧みても、ツェランの詩作がどんな「対話」の文脈を水源として織られて行ったか、 その作品の中に、作者の個人的経験の層、読書その他による「対話」の反響の層がどんなにぎっしりと埋め込まれているかを 思えば、そこに(例えばツェランが自身の対極として想定していたらしいマラルメの「書物」のような)モノローグ的なあり方とは 異なった様相を確認するのは別段困難なことには思えない。その詩は、ある時にはカバラを参照するかと思えば、 植物学、鉱物学、地質学、気象学や解剖学といった莫大な領域を参照し、晩年になるにつれますます顕著になる 改行による単語の綴りの分離、それと相関するかのようにこちらもまた増大し、解釈の困難すらもたらすことがしばしばである ネオロジスムもまた、ツェランの詩が決してモノローグなどではなく、それ自体が自律したポリフォニックな構造を備えていることを 示していはしないだろうか。その詩の言われるところの秘教性なるものは、実はその詩が私的で自閉的で他者を拒んでいるが故ではなく、 寧ろ全く逆にその詩が読み手の視界に収まりきらない程の複雑さと多重度をもって他者に対して開かれた、多声的な構造を 備えていることに由来する解釈の困難さを履き違えたゆえの誤解ではないのか。一体そこでは誰が語っているのか。 作者はもはや語りの主体ではないかのようだ。シェーンベルクがプラハ講演にてマーラーの第9交響曲を評して述べた 言葉、まるで他者が作曲主体をメガホン代わりに使っているかのようだとの言葉は、晩年のツェランの詩篇についても 言えるのではなかろうか。

そうしたことを思い合わせてみるに、一見すると対極にすら見えるかも知れない寡黙で訥弁なツェランの晩年の詩と、 まさに小説-交響曲の体現である巨大で饒舌なマーラーの後期交響曲との間にも、私はそうした表面的な違いを超えた、 ある「近さ」を感じずにはいられない。それはマーラーもツェランも、物言わぬものの代弁をすること、 「幽霊」たちに声を与えることを己の創作の使命とした点と恐らくは関係があり、つまるところ、もう一度、 その作品がその中で生み出され、そして生み出された作品そのものが再帰的に構築していく場の構造としての 「対話」が問題なのではないかという気がしてならない。(2012.10.30/31, 11.5)

2012年10月20日土曜日

アドルノがパウル・ツェラン宛書簡で自己引用した「マーラー」における第9交響曲についての言及

アドルノがパウル・ツェラン宛書簡で自己引用した「マーラー」における第9交響曲についての言及(Taschenbuch版全集第13巻p.300,邦訳新版(龍村訳), p.202)
In der dialogisierenden Anlage des Satzes erscheint sein Gehalt. Die Stimmen fallen einander ins Wort, als wollten sie sich übertönen und überbieten: daher der unersättliche Ausdruck und das Sprachähnliche des Stücks(, der absoluten Romansymphonie).
偶々パウル・ツェランに関する書籍(関口裕明「パウル・ツェランとユダヤの傷 -《間テキスト性》研究-」慶應義塾大学出版会, 2011)の中で、ツェランとアドルノの 関係を扱っていた章を読んでいると、アドルノがマーラー論の上記の箇所を自己引用した書簡(1960年6月13日付)をツェラン宛に送っているものの引用(pp.160-1)に ぶつかった。同書末尾の書誌によれば、この書簡はアドルノ研究の年報のようなものに掲載されただけ(Theodor W. Adorno - Paul Celan: Briefwechsel 1960-1968. Hrsg. von Joachim Seng. In: Frankfurter Adorno Blätter VIII)のようなので、アドルノの研究者あるいはツェランの研究者でなければ目にすることは困難で、 そのいずれでもない、私のような市井のマーラーの聴き手にすれば、こうした事実を確認できるのは僥倖に近いものがあるので、ここに書きとめておく次第である。
 
なお、括弧で括った部分は、アドルノが引用の文脈上省略したと思われる部分である。引用の文脈について簡単に触れておくと、1960年5月23日に ツェランが、講演や書簡を除くと、彼の書いたほぼ唯一の散文である「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)を送ったのに対するアドルノの返礼が、上記の 文章の引用を含む6月13日付けの書簡となる。もともと「山中の対話」は、前年の1959年夏、ツェランがエンガディーンに滞在した折、同地でアドルノと 直接出会うチャンスがあったにも関わらず、アドルノの到来を待たずに同地を去りパリに戻った後、エンガディーンでの実現されなかった出会いの思い出として 書いたとツェランが自ら証言している散文であり、作中の対話の一方の話者である「大きなユダヤ人」はアドルノを指していると言われている。
 
上記の書籍を紐解いたのは、私がパウル・ツェランに関しては文学としては例外的な関心を抱いていて、その詩や散文を折に触れ読み返しているという 文脈あってのことなのだが、そうした文脈があればあったでなお一層、アドルノとツェランのやりとりの中で、マーラーの第9交響曲についての言及があるのは 非常に印象的なことである。だがツェランに親しんでいる人間の側に立てば、上で簡単にその一部を述べたアドルノとツェランとの交流については良く 知られたことではあるし、特に「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)に因んだやりとりはあまりに有名であるけれど、そこでマーラーの音楽が参照されることの方には、 些かの意外感がある、というのが一般的な反応であろうと想像される。関口さんも、上記を含む書簡を訳して引用した上で、「音楽にも精通していたアドルノ ならではの批評である。」としたあとで続けて、「独立した芸術作品としては、アドルノが『マーラー』で論じたマーラーの第9交響曲とツェランの詩的散文との 間には、ジャンルはもとより、その本質においても埋め難い径庭がある。」とコメントされている。
 
些か余談めくが、関口さんは、引用元であるアドルノの 「マーラー」の原文にあたられているようで、上で触れた省略についても述べられているのだが、それならば今度はアドルノが自己引用した文章のすぐ後、 パラグラフの結びとなる一節である"als ob die Musik während des Sprechens den Impuls zum Weitersprechen erst empfinge."の後半、"den Impuls"以降の部分が、 関口さんがツェランとの関わりで関心をお持ちのようで、ツェランに取材したオペラの初演にも立ち会われたと別の書籍で述べられているルジツカのヴィオラ協奏曲(1981) のタイトルとして用いられていること、そしてその作品でルジツカはまさにマーラーの第9交響曲をベースにしていることもまたご存知なのだろうか。のみならずルジツカには、 第5楽章にマーラーの第10交響曲の主題の引用を含む弦楽四重奏曲《...断片...》(1970)があるが、この作品はパウル・ツェラン追悼のために書かれたもので、 モットーとしてツェランの"Lichtzwang"からの一節が掲げられているのであるが、これについてはどうだろうか。
 
勿論、こうしたルジツカの側の文脈を列挙したところで、マーラーの音楽とツェランの詩的作品の間の関連を無条件に裏付けたり、 直接に証明したりするものでないことは明らかだが、仮に傍証であるとしても、こうした作品を書いている ルジツカのツェランに対する関わりについての言及を他所で行う一方で、ここでは「その本質においても埋め難い径庭がある」と断定し、だが、その断定に関する 一切の論証をせずにこの話題から離れていってしまうのは、上記のような事情を知る私にとっては非常に残念なことに感じられてならない。 浩瀚な大著のほんの一部でいわば通りすがりに言及されているだけなのであるから、無いものねだりなのだとは思いつつも、読者の私としては、俄には 受け入れがたい断定的なコメントがいわば宙に浮いたまま取り残されてしまった感じがして、ひっかかりを抱き続ける仕儀となっているのである。
 
さりとて、それについてツェラン、アドルノ、マーラーのいずれの研究者でもない私に何かが言えるわけでもないのだが、それでもこの文脈で主題的に論じられているのが 「対話」であることは明らかで、それがツェランにとっては極めて切実な問題であること、マーラーにおいても技法の次元を介してではあるが、極めて根本的な 問題であることもまた明白に思われるだけに、関口さんが、(あっさり通り過ぎてしまったマーラーの方はともかくも、)その点にはあたかも自明の前提の如く、 後続の「山中の対話」の分析でもほとんど主題的に扱うことがないことにも違和感を覚えてしまうのである。関口さんも指摘するとおり、ツェランは「子午線」において 「芸術」に「詩」を対立させる独特の詩論を展開するが、その一方でツェランはまた、先行するブレーメン講演で表明されている通り、詩を内的なモノローグ、 独語ではなく、「投壜通信」として、つまり対話として捉えてもいるのだし、そうした文脈で「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)を読むとき、まずそれが、タイトルに 「対話」という語を含み、形式として対話構造を直接持っているのではないが、その中で対話が繰り広げられていること、一度きり散文として対話が いわば「直接に」作品中でなされていることが持つ意味合いについてのコメントがあってしかるべきではないかという気がしてならない。
 
それはユダヤ性という点においても (ツェランが直接会って失望したブーバーよりも、寧ろ、ツェランの「投壜通信」への遅ればせの応答のようにツェラン論を書いたレヴィナスやデリダにおけるそれを 私は思い浮かべているが)決して瑣末な問題ではないし、「間テクスト性」という概念自体、ツェランについてそれを研究するのであれば、ツェランのいう「対話」概念 との絡み合いへの反省なしに行うことは、事態に即しているとは思えない。
 
してみれば、ことはマーラーに関わる部分に限定されるのではない。アドルノとツェランのこのやりとりを 「文章の音楽的効果」を介したものとして紹介するのは全く正当ではあるけれど、まずは何よりも、そこでジャンルを跨いだ「間テクスト性」において問題とされている 「対話」という主題という直接的なレベルにおいて無視が行われている点が、「対話」という主題の持つ射程、ジャンルを跨いだ「間テクスト性」概念自体にも 及ぶであろうそれに対する無視と重なって、ここで検討されるべきであった筈の論点、仮にマーラーの音楽について言えば個別には「その本質においても 埋め難い径庭がある」としても、それであればそうした個別の事情の方を無視して(つまり、マーラーが関係ないとおっしゃるならそれはそれでいいから)、 なお取り上げるべき論点、アドルノが指摘する「対話」の問題についての検討が為されていないことを遺憾に感じる気持ちを抑えがたいのである。 そもそも「間テクスト性」研究の正当性は、ツェラン自身が 「対話」を志向していた点(それが常に成功したのか、主観的にツェランがどのように感じていたか、晩年のツェランの抱えた問題がそれにどう影響したか、と いった問題は考慮しないといけないだろうが)に存している筈であり、「間テクスト性」の表れのレヴェルではなく、それを根拠づけている構造のレヴェルで 「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)はまさに結節点に位置しているのではないか。
 
だがここではマーラーの文脈に戻ることにしよう。マーラーの音楽において「対話」というのは、表面的には(子供の魔法の角笛を歌詞に持つ、バラード的な 作品が特に顕著だが、例えば「大地の歌」の終曲においても出現する)歌曲の歌詞における2つの人格間のやりとり、 「嘆きの歌」から第8交響曲第2部の「ファウスト」終幕の場に至る、やはり歌詞を持つカンタータ風の構想を持つ作品におけるテキストレヴェルでの プロットとしてのそれがまずあるが、それ以上に、アドルノがここで第9交響曲を主題に扱っている、形式面でのそれ、マーラーが出発点として参照し 続けたソナタ形式から取り出して見せた長調・短調の二元論(第6交響曲の第1楽章の第1主題と第2主題のブリッジの部分に出てくる有名な モットーはそれをいわば「蒸留」したものであろう)と、マーラーの音楽の一貫した特徴である2声の対位法による思考(それがむき出しの形で現れるのは、例えば 第9交響曲の第4楽章の最初は変ニ短調で現れる挿入句が、ついで嬰ハ短調で再び登場し、独立した対主題として成長するときにとる形態 だろう)、多楽章形式における視点の移動・変更(それがいわば「標題」として表に出ているのが第3交響曲の場合だろうが、別に第3交響曲において それが最も著しいわけではないし、例えば、一見そうは見えなくても、実際には「大地の歌」においてもはっきりと判別することができるが、それについて私は 別のところで素描を試みたことがある)、そしてそれとは異なったレベルでの作品自体の機能のレヴェル(例えばマーラーがアルマ宛の書簡で作者が 成長する折に脱ぎ捨てた「抜け殻」に過ぎないと述べているようなレヴェル)における「対話」や「贈与」といったコミュニケーション的な観点を 併せて考える必要があるだろう。
 
マーラーの音楽は肥大した自己意識の誇大妄想的な主観的独白と見做されることが多いようだが、何よりも上に述べたような、その音楽の 実質を支える内的な形式構造がそうした見方を否定する。マーラーの音楽が忌避されるのは、それが彼の表現として主観的だからではなく、 それが主観を苛む外部との葛藤を常に内的契機として孕んでしまっていて、美的な観点から判断すれば醜悪なものを内容するが故に、 心地よい音楽を求める人にとってそれは耳障りだからであり、逆に「心から心へ」の音楽観に忠実な人から見れば、その音楽は対立する契機を 含が故に屈折し、内的表白として理解しようとするものを拒む秘教的な暗号めいたものを持つゆえに素直に受け取ることができない胡散臭い 代物に映るからなのであろう。だがいずれにせよ「対話」という点においては、まずは内的な形式におけるそれが契機となって、今度はその作品自体が 他者に向かって開かれたもの、時代と環境を越えて、表現することのできない者、見捨てられた者の声を伝えるものであるという点で、ツェランが詩作を 通じて取り組んだことと一致するように私には思われる。上に引用したアドルノの指摘は、そうした一見したところ「埋め難い径庭」を超えた、両者の 最も個別的な側面での一致にまで通じるものなのではないか。
 
それはまた、それが成功しているかどうかは別として、ルジツカがなぜ、ツェランを追悼する作品でマーラーの音楽をまさに「間テキスト的」に引用せずには いられなかったかという理由にも繋がることは疑いない。勿論、現時点では論証抜きの仮説に過ぎないことは承知しているが、それでもこの場での私個人の 暫定的な結論はマーラーの音楽とツェランの詩的作品のジャンルの違い、2人の生きた時代や環境、それぞれの作品の持つ文脈の違いを 超えて、「対話」の構造において両者は本質的な関連を持つ、というものである。付言すれば、それは学問的論証のレベルではまだ取るに足らない レベルだし、私のような市井の人間の思いつきがきちんとした論証に辿り着く日が訪れることは、少なくとも私に残された時間を思えば、私個人の時間の 裡ではないと考えるべきだろうが、それでもなお、私はここでそれを「投壜」して、潜在的な読み手との「対話」を試みることはできる。そしてそれは、 ツェランの詩とマーラーの音楽に自分の生の極めて本質的な部分を支えてもらっている、それどころか私自身の一部であるとさえ感じている、それ自体は 取るに足らない存在に過ぎない私のではあるけれど、自己の個別性を賭した主観的確信に由来する行為なのである。否、そうした無力で言葉を 奪われたものである私、マーラーの音楽とツェランの詩に自己の代弁者を、自由を、あえて言えば"Schrift der Wahrheit"を見出すものの証言であるが 故に、論証としての説得力には至らずとも、この文章自体がせめて一つの証言としての意味があるのではないかと願わずにはいられない。(2012.10.20/21)

2012年10月7日日曜日

アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及

アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及(Taschenbuch版全集第17巻p.50,邦訳「楽興の時」白水社, p.73)

(...) Schon an einer klagenden Stelle des Glockenchors aus Mahlers Dritter Symphonie steht eine offene Reminiszenz an die Trauermusik für Titurel; und Mahlers Neunte ist ohne den dritten Akt, zumal das fahle Licht des Karfreitagszaubers nicht zu denken. (...)
 
別の目的で、疎遠な作曲家であるワグナーの、しかしその作品中ではやや例外的に多少の馴染みがなくはないわずかな作品のうちの1つである「パルジファル」について調べている折、 ふとマーラーについての言及に気づいたので備忘のために書きとめておくことにする。マーラーが主題として扱われているわけではない文章を読んでいて偶々マーラーに関する記述を見つけたとしても、 その文章の主題の側についての知識がなければ、そこでのマーラーの取り上げ方を云々することは難しいだろうが、ここでの主題である「パルジファル」は最初に述べたとおり、 多少なりとも馴染みのある作品であるが故に、その言及を出発点として想いをめぐらすこともできるわけで、思いつきのようなものでも書きとめておいて後日の検討の素材とする 意図で記しておくことにしたい。
1860年生まれのマーラーは1883年に没したワグナーと音楽家としてのキャリアに関して言えば、ほとんど入れ替わって後続するような関係にあるが、アルマの回想録 には、学生時代のマーラーがウィーンを訪れたワグナーを劇場で見かけたものの、 緊張のあまり声をかけることも、コートを着るのを手伝うこともできなかったという経験があるいう記述がある。 後年マーラーは時代を代表するワグナー指揮者の一人となり、かつウィーンの宮廷・王室歌劇場の監督としてワグナーの作品を取り上げることになるが、アルフレート・ ロラーとの共同作業による赫々たる成果を挙げたにも関わらず、ユダヤ人であった彼は、反ユダヤ主義的な傾向のあったコジマの意図もあって、ついぞバイロイトに指揮者として 招聘されることはなかった。宮廷・王室歌劇場監督としてコジマとの間で交わされた書簡が存在する(ヘルタ・ブラウコプフの編んだ『グスタフ・マーラー 隠されていた手紙』 中河原理訳・音楽之友社, 1988」で読むことができる)が、その内容は、例えばコジマの息子である歌劇作曲家ジークフリート・ワグナーの 作品を演目として採用するかどうかについての駆け引きであったり、あるいはまたバイロイトにアンナ・フォン・ミルデンブルクが出演できるように推薦する内容であったりと、 いわゆる監督としての業務上のやりとりが中心である。
話を「パルジファル」に限定すると、ワグナーの没後30年間はバイロイト以外での上演を禁止するというワグナー自身の指定による保護期間の規定に対して忠実であったマーラーは、 バイロイトへの出演を拒まれた結果として、「パルジファル」は手がけていない。現実にはいわゆる掟破りの例もあって、マーラーの存命中の1903年12月24日には後日マーラーが 訪れることになるニューヨークで、1905年6月20日には、これまたマーラーがコンサート指揮者として頻繁に訪れたアムステルダムでの上演が行われている。ちなみに上記のニューヨークでの 1903年の上演を強行したのは、後年マーラーをニューヨークに招聘したメトロポリタン歌劇場の支配人、コンリートだが、その上演を風刺するカリカチュアはロヴォールト社のオペラ解説 シリーズのパルジファルの巻に収められており、音楽之友社から出ている邦訳で確認することができる。ちなみにマーラーは、コンリートの下で「パルジファル」を指揮することはなかったが、 メトロポリタン歌劇場を辞任して後に、コンサート・ピースとしての演奏は許容されていた第一幕への前奏曲をニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会で指揮している (1910年3月2日の第5回「音楽史演奏会」)。アルマの回想には、「マーラーはコンリードとのニューヨーク行きの契約に署名したとき、どんなことがあっても「パルジファル」は上演しない という一行を加えた。彼はヴァーグナーの遺志にそむきたくなかったのだ。」("Als Mahler seinen Kontrakt mit Conried nach New York unterzeichnete, schrieb er die Klausel hinein, daß er unter keiner Bedingung den »Parsifal« dirigieren wolle, denn er wollte nicht dem testamentarischen Willen Wagners zuwiderhandeln.", 「回想と手紙」, 秋1907年の章, 邦訳1973年版ではp.146)とあって、例によってアルマの回想を鵜呑みにするのは事実が問題の場合には危険が伴い、かつ、この件に関する他のソースによる 確認は今の私にはできないが、契約条項の存在の有無に関わらず、結果的にはその通りになったことは事実のようである。少なくともこの一節の背後には、上述のコンリートの 「掟破り」があって、もし実際に契約条項が存在したとしたら、その事実を念頭においてのことであるのは確かであろう。
だが、指揮者マーラーと「パルジファル」の関わりは上記に留まらない。マーラーは歌劇場の楽長のとしてのキャリアのごく初期に、旅回りでワーグナーを上演する劇団を主宰し、 ワーグナー家の信頼を得ていたユダヤ人アンゲロ・ノイマンの知己を得て、キャリアを積み上げていく足がかりを掴むのだが、既に「指輪」4部作をバイロイト以外で上演することに 成功していたノイマンは、自分が監督を勤めていた1885年~86年シーズンのプラハの王立ドイツ州立劇場において、「パルジファル」を例外的に演奏会形式で上演することを コジマから許可される。そしてそれを実現した1886年2月21日に第一幕の場面転換の音楽と合唱と伴う最終場面の演奏会形式での上演を指揮したのは他ならぬマーラーであった。 つまりマーラーは、部分的ではあるもののパルジファルを初めて演奏会場で指揮したことになるのである。その後1887年11月30日に、今度はライプチヒ市立劇場で、ニキシュと分担するかたちで、 第一幕・第三幕の最終場面の指揮もしている。その後もバイロイトでパルジファルを歌うことになった歌手の役作りの手伝いを買って出たり、上述のように自分がバイロイトへの出演を 後押ししたアンナ・フォン・ミルデンブルクがバイロイトでクンドリーを演じるにあたり、リハーサルをつけたりしており、「パルジファル」という作品を熟知していたことを窺わせる記録に事欠かない。 (このあたりの事情は、ヘルタ・ブラウコプフ編「グスタフ・マーラー 隠されていた手紙」の「マーラーとコジマ・ワーグナー」の章のエドゥアルト・レーゼルの解説に詳しい。邦訳では291頁以降。)
従って、ここで取り上げたアドルノの文章で言及されているマーラー自身の作品への影響も、そうした実践や楽譜を通しての研究の産物なのかも知れないが、その出発点として 聴き手としてバイロイトを訪れた経験があることにも触れておくべきだろう。特にワグナーが没する前、1882年の初演の翌年の1883年にバイロイトで「パルジファル」を聴いていることが、 これまた書簡を通じて窺え、マーラーにとって「パルジファル」の経験が圧倒的なものであったことが書簡の内容や文体から想像することができる(1883年7月のある日曜、イーグラウから フリードリヒ・レーアに宛てた書簡。1996年版書簡集20番、邦訳p.26)。前年の1882年のパルジファル初演が行われた第2回バイロイト音楽祭(第1回の1876年からは6年振りという ことになる)はワグナー自身が関与した最後の回であり、マーラーと交流のあったブルックナーは訪れているが、マーラーはその時期は駆け出しの歌劇場楽長としての契約の切れている時期、 つまり失業中の時期であり、一方の1883年はモラヴィアのオルミュッツ(現在のオロモウツ)の劇場の楽長を勤めたあと、ウィーンでカール劇場でのイタリアからの巡業の一座の合唱指導の 仕事が5月まであり、その間に秋に始まる次のシーズンからのカッセルの王立歌劇場の監督の契約が決まっていた。1883年のバイロイト音楽祭も前年に続き、「パルジファル」のみの 上演であるから、マーラーはまさに「パルジファル」を聴きに「バイロイト詣で」をしたことになる。ちなみにマーラーのバイロイト訪問はその後も何度か行われていて、ブダペスト時代の 1889年の第7回、ハンブルクに移った1891年、1894年にも「パルジファル」を聴いていることが確認できる。また、「パルジファル」の典拠である、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの 「パルチヴァール」については、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの「トリスタン」と並んで、アルマの「回想と手紙」の中に、夕食後にアルマがマーラーに読んで聞かせる本の一つとして 挙げられているし、アルマの没後にその蔵書を調査した折、蔵書の中に含まれていたことが確認されており、他の、自分が手がけた作品の典拠と並んで、取り上げることのなかった 「パルジファル」についても典拠を読んでいたことが確認できる。
もっとも、マーラーのみならず、 マーラーに後続する新ウィーン楽派の3人、つまりシェーンベルクもベルクもヴェーベルンも「パルジファル」を非常に高く評価していて、ベルクには後に妻となるヘレーネに宛てた手紙で バイロイトで聴いた「パルジファル」に触れたものがあるし、ヴェーベルンはやはり学生時代にいわば卒業旅行のようなものとして「バイロイト詣で」をしていて、その旅行記のような 文章が残っているが、その文章の冒頭にはパルジファルの前奏曲の冒頭主題が銘のようなかたちで書き写されていたりいる。シェーンベルクには問題の保護期間の延長についての文章があるが、 それを読めば「パルジファル」の作品そのものについての彼の評価を窺い知ることができる。
ちなみにここで取り上げたアドルノの文章も、始まってすぐに保護期間の問題についての言及を 含んでおり、「パルジファル」という作品が自律主義的な音楽美学に収まらない受容のされ方(それは全く妥当なことだし、とりわけても「パルジファル」はそうであるべきだと思うが)をしている点は はなはだ興味深い。滅多にこの作品が取り上げられることのない日本で実演に接したところで(勿論、上演の意義、上演に接することの意義は認めた上で)、この作品の上演が 西欧において置かれている文脈からは懸け離れたものでしかないことに聴き手は留意すべきなのだ。例えば物議をかもした(だけで終わったということになっているらしい) シュリンゲンジーフのバイロイトでの演出を思い起こせばよい。それが21世紀初頭のバイロイトで上演されるときに、その文脈で生じたであろう意味を「感じ取る」ことは不可能であるにしても、 それまでに蓄積されてきた「パルジファル」の演出の歴史を可能な範囲であれ俯瞰し、一時期物議をかもしたツェリンスキーによる「告発」といった出来事も踏まえた上で、 あるいはレヴィ=ストロースの「パルジファル」についての言及を一読した上で(そうすれば評判の悪いらしい数々の「読み替え演出」の中にも神話論理的な変換の試みに相当するものを 見出すことができないことではないことが確認できるだろう)、更にはこの演出の折に指揮を担当したブーレーズが、かつて、もう四半世紀前にバイロイトで「パルジファル」を指揮した折に書いた「パルジファル」についての 文章を読んだ上で、自己の感覚的な反応は反応として、そこで起きた出来事を遠回りにであれ理解しようという試みをするならば、他方でそれ自体は優れた演出であろうクラウス・ グートの演出を日本で受容することについても、そこに予め存在しているギャップや間隙に意識的にならざるを得なくなる。
「普遍性」などという曖昧な言葉を隠れ蓑にして、自己の主観的な感覚的な印象を正当化することが行われることは許容されえないだろう。ワグネリアンでなくとも、 (ワグネリアンなら勿論のことだろうが)ワグナー自身が一般の劇場でこの作品を上演することに対して抱いた危惧の念については、一旦は受け止める必要はある。 それを鼻持ちならない態度として否定するのは、作品自体をどう評価し、それに今、ここで自分自身が多少なりともかかずらっていることについて自覚的になった上でやればいいのだ。 主題的・内容的な議論、つまり宗教性がどうしたとか、ナチスとの関わりがどうしたとかといった点に取りかかるのはその後の話の筈で、そうした点が抜け落ちて、あたかもそれが 当たり前の如くに批評が成立すると思い為すのであれば、結局のところそうした主題的・内容的な議論自体を全うすることはできない筈である。同じ状況は実際にはいわゆる (「パルジファル」をその一部とする西欧音楽の末裔としての)「現代音楽」の側の受容の側にもあるのだが、作品の現代的意義を主題的には問うている(少なくともそのように 主張される)議論ですら、その扱い方自体は、上演を取り巻く様々な社会的・制度的状況は無条件に括弧入れできると思っている、つまり自らの批評の場は確保されていると 思い込んでいるかの如くに見え、そうした暗黙の前提自体が結果的に、目指すところ作品の現代的意義とやらへの到達を予め不可能にしているように見えるのは奇妙な光景という他ない。 まるで魔法にかかっているかの如く、時間と空間は溶け合うどころか、あっさり超越されてしまっているというわけだ。
そうした事情は、舞台芸術という「雑種的」なジャンルにとりあえず属するという了解になっている「パルジファル」に比べれば一見して直接的な問題には見えなくとも、 マーラーの音楽、音楽外的な標題や伝記的な出来事との関わりがあれほど論じられ、そうでなくても声楽の導入により、テキストと音楽との関係は無視できないものに なっているマーラーの作品についても基本的には変わるところはない。マーラーそのものについてのそうした傾向については何度もこれまでそうした兆候についての指摘を繰り返してきたので ここでは「パルジファル」に関連する文脈に限定して一例を挙げるならば、例えばヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」でのマーラーの「引用」程度の文脈で マーラーの音楽への拒絶感を自己正当化するような態度は、「バイロイト詣で」を欠かさない一方で、そちらこちらで上演される「パルジファル」のあの演出を貶し、あの演出を ごく簡単なコメントだけで持ち上げることを繰り返しつつ、結局のところワグナーの作品を消費しているだけか、せいぜいがそうした消費への誘いをしているだけの態度と変わるところはない。 「ヴェニスに死す」での「引用」にかこつけて一気に葬ってみせたマーラーの音楽は、それではここで引いたアドルノの文章で「パルジファル」の音楽との関わりが指摘されるそれとは違った何か なのだといって頬被りをきめこんでみせるのだろうか。その拒絶感の在り処は実際にはどこなのかを、ワグナーの音楽を鏡として突き詰める作業こそが必要なのではないか。
ところで、マーラーがバイロイトを訪れた時期を考えると、アドルノの上記の言及はクロノロジカルにはギャップを含んでいることがわかる。つまりマーラーが「パルジファル」経験をしたのは、 作曲家としてのマーラーについて言えば、「嘆きの歌」よりは後だが、第1交響曲よりも先行する時期にあたるのである。勿論、そのことが直ちにアドルノの主張の当否について何かを 物語ることはないが、少なくとも言及のある第3交響曲、第9交響曲以外の作品についてはどうかを問うことが権利上可能であることにはなる。第3交響曲の第5楽章は「子供の 魔法の角笛」に基づいているが、アドルノの言及しているのは練習番号3から7にかけてのアルト・ソロがペテロの悔恨を歌う部分、特にその中でも独唱が終わった後、鐘の音を 模する合唱と管弦楽による移行部となる練習番号6番以降の部分であろう。鐘がなり、ゆっくりとした行進曲調で バスが付点音符を含むリズム(全く同一というわけではないが)を固執して刻み続けること、嘆き、悔恨の感情が扱われていることは共通しており、確かに指摘はもっともと思われるが、 民謡調で女声や子供の声で歌われるマーラーの音楽(ペテロの嘆きすら、アルトのソロが歌うのである)と、聖杯騎士と後続部分ではアムフォルタス自身が嘆きと悔恨を語る ワグナーの劇の音楽のトーンには違いがあるのも確かだろう。そもそもマーラーの音楽では合唱は「泣いてはいけない」というのに対し、聖杯騎士たちはアムフォルタスを責めるばかり であり、第4楽章の「夜」を経たマーラーの「朝」の音楽には、荒廃した聖杯守護の騎士達の城の陰惨さは感じられない。 ただしマーラーが後続する第6楽章について「神よ、私の傷を見てください」と語ったというエピソードとは符合するし、 第3交響曲の終楽章をパルジファル第3幕の終幕の部分と比較するのは色々な点で興味深いことではあろう(これは両者が類似しているという意味ではない。はっきりと その実質において両者は全く異質のものであると私は断言できる)。更に言えば、先行する第4楽章でニーチェの詩を歌うアルト・ソロは 誰なのか、どういう性格付けを持っているのか(勿論、クンドリーが思い起こされるわけだが)、あるいは第2楽章の花と「パルジファル」における花の乙女を突き合わせてみると いった作業も可能になろう。
邦語文献では、ブルックナー/マーラー事典(東京書籍)のマーラーの第3交響曲の第5楽章の解説において、執筆者の渡辺裕さんが「パルジファル」との関連を指摘している(p.321)。 そこでは「罪を自覚したペテロがキリストに憐れみを乞い、そこで神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される、という構図」が「「パルジファル」とのつながりを感じさせる」 と述べられているのだが、アドルノの指摘についての言及はない。上述の通り関連の指摘自体は妥当だと思うが、私見によれば、渡辺さんの指摘する「構図」は「パルジファル」 の構図そのものとは言い難いというのが率直な印象で、「パルジファル」の解釈として寧ろこれは異色であるという感じを覚えずにはいられない。そもそもペテロもキリストも「パルジファル」には 現れないし、「神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される」とは、具体的には「パルジファル」の中のどの部分を指してのことなのか、私には到底明白とは思われない。 勿論「パルジファル」の側において、ペテロとキリストとの関係という基本的には別の物語への暗示(これこそ暗示のレベルであろうと思う)を含まないとは思わないが、 「パルジファル」の主要な構図は、あくまでもMitleid「共苦」を通しての認識による救済であるし、「罪を自覚したペテロ」が「パルジファル」における誰で、キリストが誰なのか、奇蹟を もたらす神への祈りとは、パルジファルにおいては誰のそれか、救済とは誰のものであるのかを問うた時、「パルジファル」の側で既に為されている或る種の構造変換 (レヴィ=ストロース的な神話論理の水準のもの)に気づかざるを得ない。しかも、マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)の方も、第7楽章として予定され、 最終的に第4交響曲のフィナーレとなった歌曲のテキスト程異端的ではないにせよ、こちらはこちらでキリスト教的にはやはり或る種の読み替えなり構造変換なりが為されているのである。
ちなみに、他の第3交響曲に関する研究等においても、パルジファルへの参照はしばしば行われている。第5楽章に関する言及としては、フローロスの場合が挙げられるだろう。 ただしフローロスが注目しているのは、4つの鐘と少年合唱の利用が、空間的な指示つきで(「高いところに」配置するように指示があることについての言及であろう)用いられる点であって、 それ以外の側面についての言及はない。一方、ドナルド・ミッチェルの「角笛交響曲の時代」の第3交響曲と第4交響曲を扱った部分では、メヌエットである第2楽章に関して 「ワーグナーの《パルジファル》の花の乙女たちの場面で試みられている絶妙な装飾的表現を研究し、それをみごとな器楽法で 処理したかがやかしい例である。」(喜多尾道冬訳, p.210)といった言及が見られるし、ピーター・フランクリンの第3交響曲に関するモノグラフにおいては、第6楽章の自筆譜冒頭に 掲げられたエピグラフ(既に上でも言及している「父よ、私の傷を見てください、、、」)への言及に続けて、第6楽章に関して「パルジファル」が参照されているといった具合である。 それぞれ興味深い指摘ではあるが、あまりに断片的な参照であり、マーラーの第3交響曲の全体を俯瞰して、その系の一部に「パルジファル」が扱う問題に対するマーラーなりの 応答が含まれているといった視点には至っていない。逆に、その参照箇所の拡散ぶりの方が、そうした個々の論点の背後に、より構造的な連関が秘められていることを 裏書しているようにさえ見える。その点では、急所を押えているという点も含め、渡辺さんの指摘が最も本質的な次元を衝いていると私には感じられる。ただしそこで指摘 されていることを考えるためには、第3交響曲という作品の色々なレベルでの「多声的」な構造に応じた、多面的な検討が必要ではなかろうか。
というわけで、渡辺さんのここでの主張が、第3交響曲と「パルジファル」それぞれのある解釈を通じて妥当であるという論証が不可能だとは思わないが、 それを確認するのはかなりの事前の手続を通してのことであり、自明のこととは到底思えないというのが私の率直な感覚である。 あえて言えば、聖書の物語の関連を比較すれば、「パルジファル」と聖書の物語の関連よりも、マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)の方が寧ろ構図において直接的であり、 それをもって「パルジファル」との関連を云々するのは寧ろ遠回りであって、些か強引な感じが否めない。 「パルジファル」との関連があることそのものは全く正しいし、限られた解説の中であえてその点に触れる慧眼に対しては敬意を表するものの、「パルジファル」とマーラーのこの作品との関連づけとしては (解説書の一部であるという制約を考えれば無い物ねだりだとは思うが)戸惑いを感じずにはいられないのである。私の展望は既述の通りで、ペテロの物語を寧ろ真ん中において、 マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)と「パルジファル」を対照させたときに浮かび上がるのは、扱っている主題の共通性もさることなら、そのニュアンスの差異のコントラストの方である。 また、この第5楽章が、構造的に、概ね「パルジファル」であれば第3幕の聖金曜日の奇蹟の位置にあることについても異論はないが、具体的な布置は異なるし、総体としてみれば、 そもそも「パルジファル」が「罪を自覚したペテロがキリストに憐れみを乞い、そこで神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される、という構図」と総括できるものというのは、「パルジファル」の 解釈として、かなり大胆なものに思われる。
罪の自覚、憐み、祈り、奇蹟、救済といったモチーフは確かに共通するけれど、それらの布置と連関がもたらす「構図」の方はかなり異なるのではないか。 寧ろマーラーは自分なりの「パルジファル」の読み替えを、第3交響曲の総体をもって提示したのだと考えることはできるだろうが、寧ろ私としては、「パルジファル」で扱われている問題についての マーラーなりの回答と見做すべきであって、同じ問題に対するマーラーの第3交響曲における認識と回答は、「パルジファル」のそれとは結果的には相当に隔たっているというのが 妥当な見方なのではなかろうか。
第9交響曲についての言及は更に曖昧で、しかも聖金曜日の音楽が参照されていることには率直に言えば些かの戸惑いを感じずにはいられない。勿論、主張が誤っていると いいたい訳ではないのだが、マーラーの第9交響曲と「パルジファル」の音楽の接点ということであれば、寧ろ他の部分の方により多く私は接点を見出せるように感じている。 色彩について言えば、第9交響曲第4楽章の色彩についてアドルノは、マーラーについてのモノグラフにおいて"künstlich roten Felsen"という言い方をしているが、他の箇所で詳述したとおり、これはドロミテの 地で"Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、菫色などの色彩に変化する現象を思い浮かべてのことと思われ、聖金曜日の 光とは異なる。先行する楽章、特に第1楽章などには"das fahle Licht"により相応しい箇所もあろうが、 私見ではそうした色彩に関する点も含め、第9交響曲については 聖金曜日の部分よりも寧ろ「パルジファル」の他の部分に類似の音調を感じ取ることができるように思われてならない。
ただし、「パルジファル」の音楽とマーラーとの関係では、寧ろ第10交響曲第1楽章の主題の一つがクリングゾールのライトモティーフと類似するという指摘の如きものの方が、少なくとも 日本では人口に膾炙しているように窺えるにも関わらず、「パルジファル」の音楽からの連想においてアドルノがマーラーの音楽の中で第9交響曲を取り出したこと自体は全く 妥当なことと思われる(第10交響曲こそ、ワグナーのみならず、シュトラウスのサロメの動機との関連などの指摘にも関わらず、そうした作品とは異なった音調を備え、異なった 場所で鳴り響く音楽である、というのが私の認識であるからだ)。私個人の印象では、寧ろ第1楽章の音楽にこそ「パルジファル」の音楽の遠いエコーが聴き取れるように思われる。 マーラーの音楽はワグナーとは異なって神話的な世界とは無縁であり、そもそも音楽が鳴り響く場が異なっているし、音楽の主観のあり方も全く異なるから、時代が接していて、 巨視的に見れば様式的な影響があるのは明らかであるにしても、そうした影響関係は音楽の備えている時代と場所を越えた価値に注目したときにはほとんど何の意味も持たないだろう。
だが、にも関わらず、例えば第9交響曲の冒頭でハープで提示され、(ソナタ形式としてみた場合の)展開部末尾の葬送行進曲の部分(練習番号15の後、Wie ein schwerer Kondukt 以降)においてまさに鐘で奏される動機は、アドルノがもう一つの参照点としている第3交響曲第5楽章の鐘の動機と、従って「パルジファル」の鐘の動機と連関しているのは明らかだろう。 (なお、「パルジファル」の鐘の動機と第9交響曲の冒頭の動機との連関の指摘に限れば、金子建志「こだわり派のための名曲徹底分析:マーラーの交響曲」の第9交響曲についての章に 言及があることを記しておく。)ここで葬送されるのは決してティトゥレルに比されるような主体ではないにせよ、まずもってここが構造的に場面転換に相当する点において、「パルジファル」第3幕の場面転換部分を 思い起こすことは困難ではない。そのように考えると、この部分に対応した提示部における箇所、即ち練習番号7の前、音楽が静まった後のTempo I subitoから始まって後、 練習番号7を過ぎてPlötzlich sehr mäßig und zurückhaltend以降の部分は、第1幕のあの有名な場面転換の、森から城への「道行」の音楽、”Du sieh'st , mein Sohn, zum Raum wird hier die Zeit.” というグルネマンツの言葉がいわば注釈するプロセスを実現する音楽の遠いこだまであるように私には感じられる。勿論、アナロジーには限界があって、ワグナーの作品においてはいずれもが、 能の前場と後場のような場の時間的・空間的な移行を惹き起こすのに対し、マーラーのそれは直前で生じた或る種のカタストロフの結果、意識の不可逆的な変化が生じつつも、 いわば意識の階層のレベルを一段降りて、だが同じ風景が回帰するプロセスを実現している。音楽は常に冒頭の風景に戻るが決して同一の風景の反復ではない。それでもなお Andanteという指示の元々の意味に忠実に、常に繰り返される歩みはどこかに向かう。だがそれは別の場所には辿り着かないで終わるのだ、少なくとも第1楽章においては。 変化が起きるのは歩く主体の意識の方であって、風景の「場所」、つまり空間的には「客観的」には冒頭と同じなのだ。「風景」が主観が捉えたものである限りにおいてのみ「風景」が、 寧ろ「展望」が変化したのであって、その歩みは全くの徒労というわけではなく、何か別の「場所」に到達したというように言いうるのであるが、それは寧ろ同じ風景の中を循環する 意識の内的な遍歴なのである。同じ場所を巡回しつつ、意識は現在の場を離れて過去に、フッサール現象学でいう第二次的な想起のプロセスを都度繰り返す。だが、その間にも経過する 容赦ない外的な時間流がもたらす推移(それの巨視的な累積の結果が「老い」と呼ばれる)が「風景」を、内的な空間の展望を変えてしまう。従ってここでもグルネマンツの ”Du sieh'st , mein Sohn, zum Raum wird hier die Zeit.”は、ある意味では事態の記述たりえているのである。
そしてマーラーの音楽の中でもとりわけて第9交響曲においては音楽的主体の受動性が顕わである点において「パルジファル」という音楽劇の持ついわゆる外的な筋書きの変化の 乏しさと対応した音楽の性格との或る種の類似が認められるだろう。いわばホワイトヘッドの抱握の理論における「推移」の時間の、しかも受動性が歪なまでに優位なのだ。 勿論それは「超越」に他ならないのだが、目的論的図式はここでは廃墟と化していて、寧ろレヴィナス時間論における「超越」、主体の可傷性、被曝性といった側面と 他者の他者性が相関して強調されるそれの音楽的実現であると考えることができるだろう。聖金曜日は単に到来するのであって、それは主体の働きとは基本的には無関係だ。 アドルノの第9交響曲についての言及は曖昧だが、こうした抽象的な時間論的図式のレベルで考えれば、その指摘は見かけほどは意外なものではないということになりそうだ。 ただし「パルジファル」の末尾の"、あの物議を醸し続けてきた言葉、"Erlösung dem Erlöser!"までその類比を拡張できるかどうかについては予断は許されないだろう。
"Erlösung dem Erlöser!"という言葉を導きの糸としつつ、第9交響曲以外のマーラーの音楽を改めて振り返ってみると、マーラーにおける「パルジファル」の対応物として、 表面的にはより直接的にさえ見える2つの作品に思い当たることになる。即ちそれは、宗教的であることが一見あからさまであり、その「正統性」とその価値について 絶えず懐疑の眼差しに曝され続けてきた作品、やはり「パルジファル」同様、既に色褪せた過去の遺物とする見方すらある作品である第2交響曲と第8交響曲である。 内容や主題ではなく、より抽象的な次元においてそれらが何を実現しているかを改めて検討する際に、「パルジファル」をいわば鏡として置くことは興味深い。 アドルノは既にマーラーに関するモノグラフで第8交響曲に関連して(些か異例なことに)カバラ的なものにさえ言及し、"Mahlers Gefahr ist die des Rettenden"とさえ 言っている。アドルノは「パルジファル」では虚偽から真実が生じる、ただしその真実は「消えうせた意味をたんなる精神から呼び起そうとすることの不可能性」のそれである といったことを、ここで取り上げた文章の末尾で述べているが、それは第8交響曲に対するアドルノの評価との突合せを迫るほどには並行的であろう。
一方の第2交響曲の第1楽章は一時期、交響詩「葬礼(Totenfeier)」として独立の作品と考えられていた時期があったことが知られているし、その音楽こそ"die Totenfeier meines lieben Herrn"のそれと突き合わせてみることが出来るように感じられる。(ただし、良く知られているようにTotenfeierという題名の由来は、マーラーの友人であったリーピナーが ドイツ語に翻訳をしているアダム・ミツキエヴィチの詩劇"Dziady"である。題名には言及がないが、晩年にニューヨークで自作の第1交響曲を指揮したときのことをワルターに報告する書簡で、 「葬礼」第3部の最も有名な箇所を自作のいわば「解説」に引用していることも良く知られているだろう。ただし"Dziady"がもともとはスラヴやリトワニアにおける 祖先を供養する祭礼であることを考えると、それを「葬礼」と訳すことが妥当かは疑問の余地があるかも知れない。例えばアルマの「回想と手紙」でアルマがリーピナーの翻訳に 言及している箇所では、白水社版の訳(p.37)では「慰霊祭」と訳されている例もある。これだと、言及されているものが第2交響曲第1楽章の題名の由来であるとは 訳書を読むものは気づかないかも知れないが、逆にマーラーの楽曲の側を「葬礼」ではなく「慰霊祭」であるとして聴いてみても良いのである。いずれにしてもマーラーがTotenfeierで どういった儀礼を思いうかべていたかは更に別の問題として考えなくてはならないだろう。
そうした錯綜を前にしてみると、そもそもが全体で4部からなり、その第1部は未完、最も有名な第3部はその他の部分の10年後に書かれていて、内容上も 連続性を欠いているこの詩劇において"Dziady"という題名に相応しいのは第2部であることを考えると、マーラーが第1交響曲、第2交響曲の2作を、リーピナーが翻訳した ミツキエヴィチの詩劇"Dziady"と関連づけている事実は確認しておくべきだろうが、結局のところTotenfeierという単語に基づいて連想を膨らませるのは恣意的な感じを否めず、実証的な 水準では検証に耐えないことははっきりとさせておくべきだろう。そしてここでの「パルジファル」でのティトゥレルの葬礼への連想も、もちろんそうした限界の範囲での連想に過ぎないのである。 最終的にはそれは実証不可能だし、実証そのものに決定的な意味が存するわけでもない。必要なのは音楽を取り巻く状況のこうした錯綜を踏まえ、その上で今、ここでそうした 錯綜の中から浮かび上がってくる音楽がこちら側にもたらすものを見極めることであろう。
だが、それを前提にしたとしてもなお、 ハンス・フォン・ビューローという「父」の死をきっかけに完成した第2交響曲、後日フロイトの弟子であるテオドール・ライクの精神分析的解釈を呼び起すような成立史を 持つこの作品について、まさに「父」ティトゥレルの「葬礼」の場面の音楽を連想することは、その背後に存在する構造を考えれば決して妥当性を欠くとは思えない。 ビューロウとの関係は1883年夏のバイロイトでの「パルジファル」の初体験の直後の1884年1月のカッセル時代から始まっている。ビューロウの死は1894年2月、マーラーが立ち会った ハンブルクでの葬儀は3月29日、第2交響曲の完成はシーズン後6月のシュタインバッハにて、その後にバイロイトを訪れて「パルジファル」を聴いているのだ。そして その間の1891年にももう一度「パルジファル」を聴いている。1889年夏のバイロイト訪問に先立つ1888年8月にスコア完成をみた、つまりプラハ時代に成立した第2交響曲第1楽章に "Totenfeier"というタイトルを付与することをマーラーが何時、何をきっかけに思いついたものか。更にマーラーは第2交響曲としての初演後の1896年3月16日のベルリンでの演奏会でなお、 第1楽章のみを「葬礼」として演奏していることにも気を留めておこう。有名なマルシャルクへの書簡にて、「葬礼」で葬られているのは第1交響曲第4楽章で死ぬ英雄であると述べるのは、 その直後の3月26日である。そしてこれまた有名な、ビューロウに「葬礼」を聴かせた時の拒絶反応の「思い出」(?)を述べたザイドル宛の手紙は1897年2月になってからのものなのだ。)
繰り返すがここで問題にしたいのは、文化史的、思想史的な実証の水準であったり、 ワグナーにおけるショーペンハウアー哲学の影響、Mitleidの思想、一方のマーラーの思想を音楽がつけられたテキストの内容のレベルで比較するといった水準の議論ではない。 また、音楽そのものを対象とするにしても、単なる引用や動機の類似の指摘レベルの議論に終始していては、作品の持つ射程の理解に資することは覚束無いだろう。 (その点で、アドルノがマーラーについてのモノグラフの冒頭で述べたマーラー理解の困難についてのコメントは、今日においても妥当すると私は考えている。そしてそれは ナチスによる介入についての点が、こちらは裏返しの形で妥当するという点も含め、「パルジファル」についても当て嵌まるのであろう。) そんな議論は、100年以上の時間と地球半分の空間の隔たり、それ以上に大きな文化的・思想的な隔たりのこちら側で、今、ここで「パルジファル」を、マーラーの音楽を 取り上げることの意義とはほとんど無関係なことである。寧ろ今、ここでの議論の起点は、三輪眞弘さんの「新しい時代」のような作品にこそ求めるべきである。逆にそれが 提起する問題を考える上で、「パルジファル」やマーラーの音楽のような過去の参照点なしで済ませることは私には困難で、「新しい時代」のような作品に、その作品の価値に 相応しい仕方で接しようとすれば、そこで取り上げられている問題を時事的に取り上げたり、そこで用いられているテクノロジー自体について論じるだけでは不充分であろう。 それぞれを、時代と文化の相違を超えた価値の次元において理解しようとしたときに、例えばレヴィ=ストロースが神話研究で行ったような仕方と類比的なやり方で、 それらを比較検討することが是非とも必要なのではないかと感じられてならないのである。(2012.10.07公開, 10.13/14加筆, 10.28指揮者マーラーの「パルジファル」との 関わりにつき大幅に修正, 11.23「ブルックナー/マーラー事典」での第3交響曲第5楽章の解説についてのコメントを加筆, 2013.1.19 アルマの「回想と手紙」における 言及に関して加筆。)

2012年6月30日土曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会
2012年6月24日 文京シビックホール 大ホール

マーラー 交響曲第9番ニ長調

井上喜惟(指揮)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会が本来なら1年前にミューザ川崎で開催される予定であったこと、それが3.11によって、 1年延期になったこと、その結果として演目である第9交響曲の初演(1912年6月26日にヴァルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で行われた) からちょうど1世紀後の開催になったことは、このコンサートに関わった人間にとって忘れることができない記憶となるだろう。そして間接的とはいえ、私もまたその中に 含まれることになるだろう。少なくとも2012年6月24日の文京シビックホール大ホールでの演奏に立ち会ったものとして。 直接の原因は演奏会場であるコンサートホールが被災により物理的に利用不可能になったからだが、この1年の延期は3.11という出来事の持つ 重みに相応しいものと私には思われる。第9交響曲が演目として選択されたのは3.11の前であって、だから演目の選択は偶然なのだが、それでもなお、 3.11を想起し、再認し、それによって記憶するために行われたかのような演奏会に、これもまた相応しいものと私には思われる。
前回の2009年6月の第8回定期演奏会に立ち会うことによって20年ぶりにコンサートホールでマーラーを聴いた私にとって、第9回定期演奏会の中止は それだけで意気を喪失させるに足る出来事であり、1年後のコンサートに足を運ぶことについても様々な事情により当日まで迷ったのだった。そして これもまた専ら個人的な事情に過ぎないが、幾つかの関わりのある催し以外に足を運ぶことを断念している私にとって、コンサートホールを訪れること自体、 都度ぎりぎりの選択なのは第8回定期演奏会の記録に記した通りなのだが、或る意味では当初意図した通りと言うべきか、結局私を後押ししたのは、 マーラーの音楽を演奏するためにコミットメントしているオーケストラの方々、とりわけても平常時であったとしても非常に大きな困難を伴うオーケストラの 運営に携わっている方々に対する私自身のコミットメントを、演奏に立ち会うことによって今一度表明すべきであるという判断であった。 従ってまず最初に、非常時の混乱を経て演奏会を実現させたジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの方々、音楽監督・指揮者の井上喜惟さん、 事務局の方に対する敬意を表することで感想を始めたいと思う。
そして以下に私が記すのは演奏会評の類ではない。それは演奏会に聴き手として立ち会った感想ではあるけれど、私は単なる消費者としてコンサートの チケットを購入し、古典となった作品の再現、再生としての演奏という無形の財を消費したとは考えていないし、コンサートホールで演奏を聴いている際の 心の動きとしても、そうすることができなかった。従って以下の記述は演奏や解釈に対する客観性を装った批評ではありえない。寧ろ私も コミットメントを行うことで、マーラーの第9交響曲の3.11以後のこの地における新たな生成を見届けたというべきなのだと感じている。そもそも私は マーラーに100年後の日本で向き合うことの意義自体、そうした関わりの裡にしかないと考えてきたが、第9回定期演奏会に立ち会った経験は、そうした 確信を裏づけ、一層深めるものであったと感じている。
*   *   *
過去にマーラーの第9交響曲の実演に接した時の印象は簡単ながら別のところに記したので繰り返さないが、自分の知人が所属する学生オーケストラによるその折の 演奏の印象、決して低くはない筈の学生オーケストラの技量をもってしても演奏至難な難曲であるというもので、残念ながらそのコンサートの記憶は、 私の場合には少なくない惨めな気持ちになった演奏会の一つである。そうした事情もあって、今日ではプロのオーケストラでなくてもマーラーを演奏するのは決して 珍しいことではないとはいうものの、マーラーの中でもわけてもこの第9交響曲は難曲であるという印象が私には抜き難くあったのだが、ジャパン・グスタフ・マーラー・ オーケストラの演奏は、精度の問題を超えて感動的なものであった。
前回同様楽章間のチューニングを挟んでの演奏だったが、第9交響曲の楽章配置は 基本的に遠心的なものであり、特に第1楽章の終りは通常の作品の全曲の終りに匹敵するほどの完結感を備えていることもあり、全く気にならない。 一方で指示こそないものの、一つには密接な動機連関により、更には調的な配置の効果により連続して演奏すべきである第3楽章と第4楽章は、 そのように連続して演奏され、結果として第4楽章はアドルノがそのマーラー論で語っている"künstlich roten Felsen"、「魔法にかかったように茜色に染まる岩」と 訳すのが適当と思われる、現地の言葉であるドロミテ・ラディン語で"Enrosadira"と呼ばれる現象、ドロミテ地方の日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、 赤色、薔薇色、菫色などの色彩に変化する現象を強く想起させる、(私は音と色の共感覚を持っているので)明確な色彩を文字通り「見る」ことができる 演奏であったことは銘記されるべきかと思われる。(ちなみに"Enrosadira"については、 「ドロミテのマーラーの足跡を辿る―林邦之さんに―」という別の文章で 言及したことがあるので、詳細はそちらをご参照いただきたい。)
第4楽章の歌は感情に満ちた素晴らしいもので、特にMolto adagio subito以降の高潮は圧倒的で、オーケストラがいわば「入った」状態になっていることが感じられた。 ちなみに私にとって、ここの部分の途中Molto adagio subitoの指示から7小節目のヴィオラの下降音型は第8交響曲第2部の「引用」である。 練習番号170から171にかけて、かつてグレートヒェンと呼ばれた女が歌う部分の結びの音型と同じだからなのだが、ここはまさにファウストの復活を 歌う決定的な部分であり、この音型には"neue Tag"という言葉があてられていることを思い起こしていただきたい。これまた別の文章 (「ある日、第8交響曲第2部を聴いて」)に記したことだが、そもそも練習番号165番から始まるこのグレートヒェンの歌は、 楽章をまたがって、第8交響曲第1部の第2主題"Impre sperna gratia"の「再現」なのであって、それはマーラー自身が etwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと記していることからも明確なのである。その末尾が第9交響曲の第4楽章のこの部分でいわば「参照」 されていることは、一見したところ間に「大地の歌」を挟んで対極的な位置にあると見做されがちな第8交響曲と第9交響曲が共通した世界認識に 基づくものであることを示していると私は考えている。勿論違いがないわけではなく、ファウスト終幕の山峡は、ここではドロミテの風景なのであり、 この「参照」そのものが未来である第9交響曲からの「回顧」と見做しうるのだが、こちらは有名で必ず言及されるといっていい、もっと先での Kindertotenlieder第4曲の末尾"Der Tag ist schön auf jenen Höh'n"の引用が「子供たちのいる天国」を示唆するとしたら、 その子供達は第8交響曲の第2部でグレートヒェンとともにファウストの復活を歌う子供達(Selige Knaben)でもあるはずなのだ。 それはまた、まさに同じKindertotenliederの引用が実は既に第8交響曲にも現れていることからもいえるであろう (第1部練習番号22 "firmans"のところ、第2部練習番号79から4小節目のzurückhaltend "Die ew'ge Liebe"のところ)。 そしてこの日の演奏は、まさにそうした世界認識をオーケストラが己がものとした素晴らしいものであったと 私には感じられたのである。それは勿論、3.11で喪われた生命への思いとも重なるであろう「祈り」に由来するものに他ならないだろう。音楽の演奏は 或る種の「奉納」なのであり、演奏会は儀礼なのだ。3.11後のマーラーの第9交響曲の演奏は、そうした基本的な構造を再認させずにはおかない。
それに劣らず圧倒的だったのは、副次部分が「大地の歌」の「告別」の風景に変容した後の高潮を経て、Wieder zurückhaltendのviel Bogenによる あのシンコペーションの直後の主部再現(Tempo I. Molto adagio. (noch breiter als zu Anfang) )以降を聴いたときに私の意識の裡で生じた、 或る種の相転移的な変化である。普通に言えばこれは「再現」ということになるのだが、マーラーの「再現」が単なる反復ではなく、常に時間の厚みの 因果的効果のベクトル性を帯びて、それが同じものでありながら最早同一ではありえず、最早元に戻ることはできない非可逆的な過程の徴を帯びていること、 そして既述の第8交響曲第2部練習番号165の etwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilもそうであり、あるいは別の例を挙げれば、第3交響曲第6楽章の練習番号26の Sehr Langsam. a tempo. (Noch langsamer als im Anfang)がそうであり、ここでもnoch breiter als zu Anfangといったように必ずテンポの変化の指示を伴うが 故の決定的な「再現」の感覚が生じることにおいては同じでありながら、 ここでは何かが 決定的に抜け落ちてしまい、後は(実際に音楽はそのように経過していくのだが)文字通り「解体」していくしかないことがここまではっきりと感じ取れたのは、 稀有な経験であった。
そうした音楽の経過は、ここでは主体のそれではない。あたかもそれを外から眺める別の視線があるかのように、音楽は 主観性を喪う。聴き手もまた、ここでは音楽を情緒的に受け止めることができなくなる。これまた有名なシェーンベルクのプラハ講演での発言に含まれる 第9交響曲についてのコメントにおける「非人称性」が決定的に露わになるのだ。それは「祈り」の向こう側にある沈黙なのであって、これを図像学的な 「死」の描写と見做すのは、「死が私に語ること」という言葉(それは少なくとも、第3交響曲の撤回されたマーラー自身の稚拙なタイトルの陳腐さの 模倣であって、その中においてすら件の「非人称性」の痕跡が残っているいる点でまだましなのに比べ、それ)以上にこの作品の固有性を損なう把握であり、 このコンサートにおける演奏が私に突きつけたものと縁遠い。マーラーをメガホン代わりに使った「誰でもないもの」(Niemand)は、だが消え去ることはない。 それは寧ろこの作品の優れた演奏がその度に呼び起し、再現する「幽霊的なもの」の出現なのだ。比喩的に言えば、ここにおいて主体は我に返って 覚醒するのだが、自分がいる場所が最早どこなのかがわからない、といった有様なのである。
勿論、その他の楽章の演奏も素晴らしかった(例えば第1楽章の有名な、アドルノのカテゴリーでいえば音楽が「崩壊」していく部分、 Plötzlich bedeutend langsamer (Lento) und Leise.のソロの協奏の部分など、幾らでも例を挙げることができるだろう)が、 指揮者の解釈の卓越を明確に印象づけられたのは、(前回の第7交響曲も類似のことに感銘を受けたのだったが)第2楽章のレントラーに おけるブロック毎のテンポの交替が、マーラーにおいては一貫している独自の調性格論的な色彩の変化と相俟って、意識の層の切替として 把握されていた点であろう。また第9交響曲は作曲者自身による初演を経ずに、 それまでの作品と比較すれば「未完成」といって良い段階の、一部は判読に困難が伴うような状態で総譜が残されたこともあり、 マーラーの総譜としては指示が少ないことが知られており、とりわけ第4楽章の予告でもある第3楽章の中間部以降のテンポ設定は指揮者によって 異なる部分であるが、ここでの解釈は基本的には少ない指示に忠実なもので、それがその後の主部の再現以降の段階を踏んだテンポの加速と 整合しており、指揮者の巨視的な楽曲把握の確かさを感じた。
*   *   *
上述の、特に第4楽章を私が聴いたときに感じたようなことが明確に感受されるのは、マーラーを演奏することを 目的に集まったオーケストラの実現に接すればこそのことであろうと私には思えてならない。それは優れた演奏をCDで再生すればいつでも手に入るような 性質のものとは全く異質なものなのだ。CDを聴くときに感じられる「幽霊性」は過去の異郷の音楽の受容に如何にも相応しいもののように思える。 楽譜を読んで頭の中で音楽を鳴らすことも勿論できるが、それとは異なって、CDを聴く場合には録音技術と記録媒体に支えられた見せかけのもので ありながら、そうしたメディアの透明性があたかも「作品」そのものに向き合うこと可能にするかのようだ。一方で、今、ここでのコンサートでの実演においては、 他者は不在ではない。その場で空気を伝わる音響もそうだし、どんなに悲劇的な作品であったにせよ、良い演奏であれば寧ろ必ず存在するに違いない 「演奏することそのもののよろこび」を伴った演奏者の身体性、その音楽を聴くために集まる他の聴き手の存在とあわせ、私自身の コミットメントの志向もまた純粋な経験を汚染するかのようで、「作品」の聴取には不透明な影が付き纏う。
だがメディアの透明性が、再生の時間を可能にするとしたら、(少なくとも私にとっての)ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの演奏会の方は、 そうした不透明性が、生成の時間を可能にするということができるように思う。ここでいう再生とは想起のことであり、同一のもの、常に同じ過去の 反復である。現実には、それとて不透明な部分があり汚染されている筈なのだが、メディアの透明性が高ければ高いほど、あたかも「過去そのもの」を 覗き込むことが可能であるかのような回想を可能にするような錯覚が生じるに違いない。一方の生成とは、別のもの、異なるもの、未聞のものの 到来であり、それは或る作品に定着された風景を未来の「別の時間」へと移植することである。
そしてそのことが作品の創作についての事情、とりわけてもシェーンベルクがマーラーの第9交響曲について述べたような消息と並行している点に 留意しておきたい。作品の創作は自分がまのあたりにした「風景」を記録することだが、その「風景」は「私」が選択したものではなく、私の背後にいる 「誰か」(あるいは「誰でもないもの」)が命じたものであって、作曲者はいわば「カメラ」に過ぎないのだ。そうした一連の過程自体、主体的な意識の 働きのみによるものではありえず、非人称的なものに過ぎない。意識主体としての「私」は手段に、メディアに過ぎないのだ。 だが「私」が「風景」を見る仕方の「如何に」、「私」が「風景」を記録する仕方の「如何に」は決してトリヴィアルなものではない。メディアたるマーラーの 個性がもたらす不透明性こそが「価値」の源泉であり、それによって新たな仮想的な「風景」の生成が可能になるのだし、そのようにして定着された 「風景」の記憶としての音楽作品が「投壜通信」のように投じられ、時代と場所を越え、それを拾い上げた人によって繰り返し演奏されることによって (ここでは進化論的なミーム概念を適用することが適当かも知れないが)受け継がれていくのだから。
*   *   *
私は今、コンサートがあった週末の1週間後の週末の時点でこの文章を記しているが、とりわけ上で述べた第4楽章を聴いたときに感じた 印象は永続的なもので全く薄れていない。その一方で、改めて文章にしつつ整理を試みてもコンサートで受けた印象に含まれている 謎めいたものが全て解消したとは到底感じられない。演奏が私に突きつけてきたもの、私の裡に刻印されたものは、容易にありきたりの マーラーの音楽に関する解説で示されているような解釈を受け付けるものではないのだ。自分が受け止めたものを私はこの後も反芻しつつ 考え続けていかなくてはならない。そうすることが演奏に対する応答であり、聴き手にとっての義務なのだという感覚を私は抱いている。 そして同時にそれはまた、こうした音楽を残したマーラーに対する応答でもあり、如何に稚拙な仕方であったにせよ、私はマーラーからの贈与に対して 応答をしなくてはならないのだと感じている。このようなことを再認させる貴重な経験をさせて下さった井上さんをはじめとするジャパン・グスタフ・マーラー・ オーケストラの演奏者の方々に改めて感謝の意を表しつつ、今回の演奏会の感想の結びとしたい。(2012.6.30公開、7.1加筆)

2012年5月2日水曜日

マーラーの音楽の不可逆性について

マーラーの音楽が新ウィーン楽派以降、20世紀の音楽において、どのように受容されてきたかを俯瞰した文章を 改めて読み返し、20世紀の音楽そのものを思い起こし、その上でマーラーの音楽における最も重要と自分が考えてきた 側面を改めて振り返ってみると、何故、マーラーの音楽を過去のものとして用済みにできないのか、それ以前の音楽にも、 その後の音楽にも私が見出せない、そればかりか、音楽以外のものに見出せず、それゆえ繰り返しマーラーの音楽に 立ち戻らずにはいられない理由に思い当たる。そしてマーラーを聴き始めた35年前の中学生になったばかりの自分には ただちに自覚できたわけではないにせよ、程なくして関心の領域として自ら設定した枠組みが、結局のところその理由と 正確に対応することに改めて気付くことになる。約10ヶ月近い中断を経て、改めてマーラーの音楽に立ち戻った途端に、 突然、自分がしてきたことを基底で支えているものが何であるかについて気付かされることになる。あるいはそれは、 かつてはあまりに当然のことであり、そのこと自体を自覚的に確認するまでもなかっただけかも知れないという気はする。 けれども、今までかならずしも明確に意識していなかった自分の行動の理由が突然、自分自身にとって明らかになったには 違いない。あるいはまた、時間が経つにつれ、驚愕の感覚は薄れ、一体全体当たり前のことに何を驚いていたものかと 呆れることになるのかも知れないが、今はその驚きに忠実に、浮かび上がった構図を記録しておくことにしよう。
マーラーの音楽を特徴づけるものは何かについては、勿論のこと、立場によって色々な見方が可能であろう。 しかし、20世紀の音楽は、マーラーの音楽の中に、とりわけても空間的な側面での創意を認めてきたと言えるのでは なかろうか。マーラーの楽譜の指示の中に、空間的なパラメータに関するものが見られることは、しばしば指摘されてきた。 改めて指摘するまでもないだろうが、例えば遠くから聞こえるようにオフ・ステージ(多くの場合舞台裏)で演奏が指示される 第2交響曲の第5楽章におけるバンダ、やはりオーケストラ本体とは離れたオフ・ステージ(こちらは客席の高い位置が 多いようだ)で演奏する指定がある第8交響曲の金管の別働隊、これも舞台裏での演奏指示がある第3交響曲第1楽章の 主題展開部末尾の小太鼓、同じく第3交響曲第3楽章中間部のポストホルン、更には高いところに配置するよう指定される 第3交響曲の独唱、女声合唱、児童合唱と鐘、ステージでの演奏と舞台裏での演奏の使い分けが為される第6交響曲や 第7交響曲のカウベルなどが直ちに思い浮かぶ。当時は対抗配置であった第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンのパートの 掛け合いもまたコンサートホールでの空間的な効果を狙ったもので、第1交響曲の突破の直前のクレシェンドにおいて第2ヴァイオリンの パートのみクレシェンドをしない指示をしたり、第6交響曲のアンダンテ楽章でもパート間での強弱のコントラストの効果を狙ったりと、 例示を試みれば枚挙に暇がない。
舞台裏のオーケストラは「嘆きの歌」の初期形態に既に構想されていたし、第1交響曲の 序奏のトランペットのファンファーレも「遠くから」響くように指示される。ミュートを使わないホルンとミュートを使ったホルンの 呼び交わしよって、恰もこだまが返ってくるような効果を意図した第7交響曲の第1夜曲(第2楽章)や第5交響曲第3楽章の 中間部分、ミュートされたトランペットのファンファーレをフルートが引き継ぐことで、恰も霧の彼方に音源が去っていくかの効果を企図した 第5交響曲第1楽章の葬送行進曲の末尾のように、音色の変化による空間的な奥行きの表現を狙った例を 挙げることもできるだろう。あるいは演奏指示として「遠くから」という指定が為される場合もある。何よりも、第1交響曲の 第1楽章の冒頭の序奏は「自然の音のように」という指示がなされ、弦楽器群のフラジオレットのA音が数オクターブに 渡って広げられ、アドルノの言うところの「カーテン」を形成する。ファンファーレはカーテンの向こう側から聞こえてくるという仕掛に なっていて、そのファンファーレは再現部の冒頭の「突破/発現(Druchbruch)」の箇所では、文字通り前面に突破して 発現することになる。
こうした空間性の導入は、例えばリゲティが注目して指摘を行っているが、そのリゲティは自作において、直接的な 影響を示す「ロンターノ」のみならず、空間性についての関心をずっと持ち続けたことは良く知られている。 だが、空間性というのはそうした直接的なケースに留まらない。例えば、これまたマーラーの音楽の特徴とされる 通俗的な素材の引用やコラージュ的な素材の重ね合わせも空間的な多層性を惹き起こすし、マーラーの作曲法の 基本にある対位法的・線的な発想は、やはり多層性や空間的な広がりをもたらすことになる。
舞台裏での演奏指示の例として掲げた第3交響曲第1楽章の展開部末尾の舞台裏の小太鼓は、 舞台の低弦のピチカートとは無関係の、独立のテンポで叩くことが求められており、複数のテンポが並行する部分としても 著名であろう。更に第6交響曲フィナーレのハンマーや低音の鐘、第7交響曲フィナーレの金属の棒、あるいは両者で 用いられるカウベルなど、調律されていない打楽器の利用、非楽音的・雑音的な音響の導入もまた空間的な質の多様性、 重層性をもたらしていると考えることができるだろう。雑音的な音響ということで言えば、コル・レーニョ(例えば第7交響曲の 第2楽章)や絃を指板に当てる、所謂バルトーク・ピチカート(第7交響曲の第3楽章)、ハープにおけるMediatorの指定 (第6交響曲のフィナーレ)といった特殊奏法や、管弦楽法の通則に逆らうような、鳴りにくい音域を敢えて用いる楽器法 (思いつくままに幾つか例を挙げれば、ファゴットの高音域での使用、フルートの低音域での使用、コントラバスのソロが 主旋律を弾く第1交響曲の第3楽章など、これも幾らでも続けることが出来よう)は調律されない楽器の導入とともに、 ラッヘンマンの「楽器によるミュージック・コンクレート」や通常の奏法をパラメータの一部にしてしまうような特殊奏法による 音色のパレットの大幅な拡張に通じていくと同時に、そのような奏法によって、これまた西欧音楽における規範であった ムラのない均質で大きな音に対して、非西欧的な音楽が重視するような、所謂「サワリ」のある音を引き出し、 奏者の息遣いを含めた身体性を浮かび上がらせる方向性に通じていく。
考えようによっては第4交響曲第2楽章の独奏ヴァイオリンのスコルダトゥーラもまた、音色の多様化とともに、 微妙な音律のずれの効果によるヘテロフォニー的な空間的な滲みを狙っていると考えることもできるだろう。 第4交響曲第1楽章のフルート4本によるアドルノ言うところの「夢のオカリナ」もまた、4本のフルートの重ね合わせによる 音色の変化は当然のこととして、同様にヘテロフォニーに通じる着想を見出すことができるのかも知れない。 ヴァイオリンの高音域とコントラバス、コントラファゴットのみによる第9交響曲のフィナーレに見られる対位法、 更には第10交響曲のアダージョ楽章でも聴かれる音が漂う虚空を浮かび上がらせるような対位法もまた、 空間的な処理の一例と考えることができるだろう。
実際、再びリゲティを引き合いに出せば、雑音と楽音のあいだの音の探求は既に初期において 明確だし、異なる音律の並存、異なるテンポの並存といった試みは晩年の作品において顕著であり、 しかもそれらはリゲティ独自の音楽的空間についての考え方の作品上でのリアライズなのである。 「擬似空間」、「時間流の空間化」といった用語から窺えるように、リゲティの作品では音楽作品を「想像上の空間」を 産み出すものと見做す傾向が強く、また「網状組織」や「複数の中心」といった用語から窺えるように、 多層的で複数のパーステクティブを備え、奥行きを持った空間を音響的に実現しようとする志向が見られる。 のみならず、リゲティは作品を静的なオブジェとして見做す傾向が強く、音楽の時間軸上の展開は、プロセスが 非常に緩慢にしか推移しない初期のミクロポリフォニー的な作品だけでなく、後期の作品においても目的をもった 発展というよりは、予め静的に定められた規則を時間軸上に広げて提示するという側面が強いようだ。
だがこうした空間性の重視は、寧ろそうした側面を引き出す20世紀の音楽の側の事情を物語っているとも 考えられる。調性が崩壊した挙句、機能和声を放棄することによって楽曲を構成する原理のうち、時間方向の 展開の最も基本的な手段が喪われることによって、20世紀の音楽は音楽を別の原理で支える必要性に 迫られる。音色の次元の拡張や空間性はそうした要求に応えるものであったと見做すことができるだろう。 だが、音楽が時間的な延長を持たざるを得ない以上、時間的な経過を扱う方法が必要とされることには 変わりがない。合成和音のシステムやスペクトル楽派は時間軸については何の解決も与えないし、クセナキス的な 篩のシステムによる音階の構成の一般化や集合論や群論による構造の規定もまた、いみじくもクセナキスが そう語るように、時間外構造をしか規定しない。12音技法は順序を原理として持つ点でいわゆる時間内構造を 規定しうるが、それは貧弱な順序構造以上の複雑な構造を組み立てることはできないゆえ、巨視的な 形式構造として、バロックや古典の形式を使い続けることによって支えるしかない。12音が一巡り鳴ったら それで終りというミニアチュア形式を導くヴェーベルンの直観の方が寧ろ理に適っているのだ。クセナキスは 確率によって音の継起の頻度や密度を確率的に制御しようとするが、微視的な構造については何も規定しない がゆえに具体的な細部は作曲者の直観によって選択・決定されるしかない。ミニマリスムの反復の手法や フラクタル幾何学の援用、無限列の利用やオートマトンの導入は力学系的な発想であるから時間方向の発展の 原理ではあるけれど、ゆらぎを与えたところで単一の法則での音の制御は単純な時間構造しかもたらさないし、 幾つかの法則を単に重ねたところで、先行する西欧音楽の歴史が築き上げた複雑で豊かな構造に比べたとき、 貧弱な結果しか齎さないように見える。制御するパラメータを演奏や聴取の限界まで、あるいは限界を超えて増やし、 細部をもはや聞き取れないほど複雑にしてみても、生物学的な進化の速度に従うほかない保守的な人間の 知覚様式は、そこに混沌と無秩序をしか見出さないという結果を招きかねない。
一方で工芸的な組立て・構築を放棄し、サウンド・スケープのように伝統的な意味合いでは非音楽的な音環境に おける音響イベントの継起をそのまま受け入れて聞き入ることや、メシアンのように神学的な意図も手伝って それ自体は永遠に反復可能なある持続によって楽曲を形作り、そうしたブロックをパネルを並べるように複数併置することで 楽曲を構成する試みもあるが、それらの聴取の経験はプロセスの動性よりも、寧ろ静的な印象が強い。 フェルドマンのある時期以降の音楽の数時間にわたる長大な持続は、寧ろ時間の観念を変容させ、廃棄に 追い込んで、不動の塊と化した時間のオブジェの出現をもたらすし、ミクロポリフォニーの知覚の限界に挑むようなゆっくりとした 推移もまた、想像上の空間に時間を変換したインスタレーションの趣きがある。クセナキスがある時期から 用いた樹形曲線、リゲティにおけるフラクタル幾何学の時間構造への適用も、その着想は空間的であり、 時間方向の持続は、空間を描くために一巡りするために必要とされる時間に過ぎず、結局のところ、そこでは何も 新奇な出来事は起こらない。神学的な永遠性であれ、ガジェット的なオブジェであれ、静的で閉じた作品であるか、 プロセスを重視するかはあるが、いずれにしても音楽はどこかに向かうことを止めてしまい、聴き手をどこかに誘う 目的論的なベクトル性を喪ってしまっているように見える。音楽社会学のような領域では、そうした傾向を 20世紀の社会が持つ構造が定着されたものであると見做されるのであろうし、そこには目的論的な強制に対する プロテスト、管理された時間を逃れ、アナーキーで自由な時間を取り戻そうとするイデオロギー的な選択が 働いているのかも知れない。
約半世紀程前にマーラーの生誕100年が祝われてからこちら、マーラーの音楽はダールハウスも指摘しているように、 かつての世界観音楽としてではなく、ようやく絶対音楽として聴かれるようになった。そうした文脈においてはヴィスコンティの映画の BGMとして第5交響曲の第4楽章が用いられることは、マーラーの流行にとって少なからぬ効果を持ったとはいえ、 そうした絶対音楽としての受容の流れに対する伝記主義的逆行、「悪しき19世紀の残滓」であると見做されたものだ。 しかしその後、絶対音楽としてのマーラーの受容は、 今度は単なるサウンドの消費、音響体としての音色の多彩さや詳細を極める演奏指示を如何に忠実にリアライズするかといった ディティールのみで評価が決まるような兆候を帯びるようになる。もっともこうした傾向は高橋悠治さんが1970年代前半に 既に指摘しているように、別にマーラーに限ったものではなく、LPやCDのように何度も好きなところで止めて繰り返し 再生できるメディアの発達と、テレビ番組の放映においては時間枠に区切られ、 更にはコマーシャルで断ち切られるといったように細切れに分解されて提示され、最早そうした事態に驚きさえしなくなるといった 状況とがドラマを成立させる時間の構造を解体させていく過程の一サンプルに過ぎないのだろう。
音楽的時間をテンポの変化の大きさという尺度に還元して演奏様式を 比較するといった試みがマーラーの第4交響曲の録音に対して行われたのは、そうした潮流を考えれば自然な成り行き であったと言えるのかも知れない。勿論、そうした切り口での分析自体に価値がないわけではないのだが、それで音楽に おける時間の次元が汲み尽くされたかのような様相を呈するとしたら、それはやはりマーラーの音楽的時間、 アドルノが性格的要素として「発現/突破」「停滞/一時止揚」「充足」、あるいは「崩壊」といったカテゴリーを 用いて言い当てようとした実質は大きく損なわれてしまったという印象は拭い難いし、その隣でマーラーの音楽の サウンドスケープといったテーマが論じられるのだとしたら、そうした光景はマーラーの音楽の空間的な側面の重視が、 時間的な側面の縮退・単純化と引き換えであることを示しており、それは20世紀後半という時代の特質を反映した ものだということなのだろう。
それに対する評価はおくとして、バブルの時代のおぞましいまでのマーラーの流行は、自らを正当化する「マーラーの時代が来た」という 極めて都合の良い御誂え向きのキャッチコピーのもと、録音メディアや放送メディアの媒介などなかったかの如く、バブルの恩恵で 次々と建設されるコンサートホールの杮落としに因んでマーラーの交響曲の連続演奏会が同時にあちらこちらで行われるという異様な熱狂 (もっともこれもまた、マーラーの音楽に限定された現象ではなく、ベートーヴェンの交響曲を順番に全て演奏していく マラソンコンサートなどのような近年の現象と通じているだろう)と、到底きちんとは聴ききれないのではないかと思われるような 膨大なコレクションを個人のものにすることを可能にした際限のない交響曲全集のCDのリリース(こちらも同様に、マーラーだけの 現象でも交響曲というジャンルに固有の現象でもなく、ネットワークからのダウンロード配信への過渡期にあたる今日では、 様々な切り口でのCDのボックスセット化による過去の音源の叩き売りの企画は当たり前の風景になったかのようだ)との氾濫の中、 既に古びたメディアである映画のBGMでは最早不足とばかりにマーラーを切り刻んで数十秒のCMの中に押し込み、 果ては「着メロ」としてパーソナライズするまでに至る時間の平板化と断片化による時間構造の解体のプロセスであったと言えるかも知れない。 少なくとも私個人に限って言えば、そうした傾向に耐え難いものを感じ、一時期マーラーの音楽を聴くことを全く止めることを 余儀なくされたほどであったが、今こうして振り返ってみれば、自分が一体何に耐え難さを感じていて、その時は明確な認識には至らないまでも、 何を予感してそうした行動をとったのか、わかるような気がする。それは単にマーラーの音楽という対象の本質の破壊ではない。 マーラーの音楽によって自己を形成した私にとって、それは自分自身の破壊に繋がる側面を持っていたのだ。
そうしたマーラー後の音楽やらマーラーの音楽の受容やらが地層のように累積した厚みを通してマーラーの音楽を改めて 眺めたときに、それが反動的なものであるかどうかはおくとして、その後喪われてしまい、そして今日の世界では取り戻すことのできない、 かつての時間的な構造への渇きのようなものを癒す対象としてマーラーの音楽に向かっている自分を発見することになる。
上述のようにマーラーの音楽は20世紀の、色々な意味で空間的な音楽に対する前駆、先蹤として様々なヒントを 与えるような側面があったのは確かだが、マーラーの音楽は本来、優れた意味で時間的な側面の強いものであった筈である。 基本的にロマン派の音楽であるマーラーの音楽こそは、優れて意識の音楽であり、意識の時間的な変容のプロセスを 作品として提示するものであるはずだ。巨視的な形式において機械的な反復、再現を嫌うマーラーの音楽の経過は 不可逆的であり、アドルノによって長編小説に譬えられたその構造は、聴き手を全く別の風景へと導く。 主題の再現とて、単なる繰り返しではなく、再現までに経過した時間の厚みを感じさせ、まさにそれが「再現」であって、 元のものとは異なるものであることを告げる。部分的に無調的な旋律が含まれ、伝統的なカデンツからは逸脱しながらも、 全音階的な発想を捨てなかったマーラーは、その代わりにかつての調性格論にも比せられる調性毎の固有で置換不可能な 質を保持し、楽章間の調的な配置の関係によって複数の層の関係を示し、発展的調性によって音楽がどこに向かうのかを 曖昧さなく示すことができる。それは主観的・心理的な時間であるとともに、意識的な活動に限定されず、意識の奥底で 働く無意識の活動の反映でもあるし、ヘーゲル的な「世の成り行き」の容赦なさでもある。調的な音楽の軌道が描く 力学系的な遍歴は、まさに世界と関わる意識の時間性の遍歴に他ならない。そしてこうした事態は、 それ以前のロマン派音楽でも兆候としては見られたものの、マーラーにおけるほどクリティカルな問題として前景に 出ることはなかったし、マーラー以後の音楽がそうした事態に背を向けてしまったことは既に見たとおりである。
万物は流転するという認識を 人間的な尺度の限界の内部での認識であると嘲笑し、今こそ世界の人間的な意味づけからの訣別が必要だと 言い立てることは容易だが、己の認識の檻の外部に端的に出ることが出来るというのは、それ自体が意識の浅薄な 思いなしによる独断論のまどろみの中での寝言に過ぎないかも知れないことに対して、そうした姿勢はあまりに 無頓着ではないか。そうした思いなしがあまりに観念的で抽象的なものであり、現実に対して力を持ちえずに結局 ノスタルジーへの退却し、自閉せざるを得なかった歴史に対し、それはあまりに盲目であるか、さもなくば開き直っているのだと しか思えない。そうした態度は、空を飛ぶことができると頑なに主張し、だが実際にやってみろと促されれば一歩も 踏み出すことのできない観念ばかりが肥大した100年前のアヴァンギャルドと変わるところがない。
よくあることではあるし、とりわけマーラーの周囲でも 頻繁に起きていることではあるけれど、歴史を語り、過去の音楽のおかれた文脈に関する知識を披瀝しつつ、だが そうして語っている自分が拘束されている現実との距離感の感覚は欠如していて、まるで骨董品の来歴を語る 好事家のごとき趣味的な態度は、過去の異郷の音楽を今日引き受けることの必要性と切実さを些かも明らかにしない ばかりか、蒙昧化にしかなっていない。勿論、今日の状況でマーラーのような音楽を書くことは端的に不可能に違いない。 そしてそうした不可能性に直面し、そうした事態から目を逸らすことなく誠実に状況に向き合っている作曲家の例を私は 具体的に身近に知っているし、そうした試みが自分の同時代に、すぐ近くで行われていることに勇気付けられもしている。 そうした活動を目の当たりにして感じることは、おかれている状況に応じ、選択される手段は違い、実現される作品の相貌も 全く異なるが、そうした活動の方が自分の置かれている位置の方は等閑視したままマーラーについて新規さを装った 主張をするような態度やマーラーの音楽を引用する姿勢により己の立場の限界を露呈するような態度よりも、 かつてマーラーが己の状況の中で取り組んだ企図と姿勢をよりよく継承しているということだ。結局のところ、時代を隔てた 作曲家の営みの距離を、表面的な様式上の影響関係やら引用によって単純に測ることはできない。今ここで確認できる そうした関係は結局のところマーラーを利用する側の思惑をしか示さないし、マーラーをどのようなものとして扱いたいかを 語ることによって、そうやって扱う側の志向が炙り出されるばかりであって、マーラーが為そうとしたこと、その志向の方はといえば、 今日では100年間の間に起きた状況の変化に応じ、全く別の仕方で為されていると考えるべきなのだ。
21世紀になって、1000年に一度と言われる未曾有の地震と津波の災害に襲われ、更にはその結果として 原子力発電所の災害が発生し、その影響が人間の尺度で言えば単一の個体の寿命を超えかねないような 事態に遭遇した今、尚マーラーの音楽を聴き続けることの意義、マーラーの楽譜を調べ、その作品の構造を自分の聴経験と突合せる作業を 続けることの意義は、だから私の場合には明らかである。要するに、端的に言ってマーラーの音楽にしか見出せないような 時間的な構造があり、マーラーの音楽にしかないような世界への態度、世界に対する姿勢があるのだ。それは主観性の 擁護の音楽であり、これまた価値判断は様々だろうが、或る種の主体の構造、意識と無意識と身体性との複合的な 様相がそこでは示されていて、しかもそれは他では代替が利かないもののようなのだ。
単にお前はその音楽によって自己の 回路を形成してしまったから、その音楽から逃れられないのだ、それは全く一般性を欠いていて、お前の個別的な問題に 過ぎないのだという批判に対しては私は抗弁すまいと思う。実際それはその通りだからだ。ジュリアン・ジェインズが素描したように、 もともと可塑的な脳の回路の構築の仕方の一つに過ぎない意識のあり方は時代と場所により、そしてそこでの社会的・文化的な 環境によって変化していくものに違いない。
私が生きている間には実現しないかも知れないが、ポスト・ヒューマン思想の 論者が語るように、近い将来に特異点に到達し、意識のあり方のみならず、「精神」「魂」の定義自体が変わってしまい、 例えば「魂の不死性」のような考え方が、空想的な観念の裡の霞のかかった妄想としてではなく、徹底的に唯物論的な 技術的な手段のブレイクスルー(遺伝子工学やナノ・テクノロジー、人工知能的なロボット研究などの今後の進展が それを可能にするのだが)を通じて、全く別の意味合いを帯びて、紛れもない現実になる可能性だってあるかも知れないのだ。 「人間」概念自体が拡張され、現在とは似ても似つかないものに変容しうるのだとしたら、世界の人間的な意味づけの 実質もまた変わるだろう。
だが結局のところどこまでいっても、「人間」という概念をまるごと廃棄するのであればともかく、そうでなければ 「人間的な意味づけ」を逃れることなど出来はすまい。一見、非人間的に感じられ、そう見做されるかもしれない暴力的な 現実もまた、それ自体「人間的な意味づけ」が為されたものでしかないのだ。
例えば一方で三輪眞弘さんの言う「コンピュータ語族」としての、機械とのシステムの中に埋め込まれた人間が居て、 他方では他の生物、とりわけ動物と人間の境界が問題にされ、永らく倫理学における暗黙の前提であった人格概念の 見直しが行われつつある中でマーラーの音楽で語られていることを振り返ってみれば、控えめに言ってもマーラーがナイーブな 人間中心主義、人間を絶対的な基準とおくような発想からは遠かったことは明らかなことに思われる。そして例えば第8交響曲を まるでピタゴラス派の天球の音楽の復興であるかの如く、惑星や恒星の運動に譬えたマーラーの企図を、作品そのものの実質もまた 決して裏切らない。全体が「突破/発現」の瞬間であるかの如きこの作品の持つ独特の時間性は、移ろいゆくものとしての 人間を超出する仮想的な視点からの展望であるかのようではないか。
無論のことマーラーの音楽を聴き続けることが、上述のような未来の展望を無条件に保証するわけではない。更に言えば、 自分が生きている間に実現しそうもない変革など結局のところ切実な問題たりえないし、よしんばそうした側面に対して、 個人的な事情から技術的、哲学的に多少の関心や利害があったところで、実際のところ、卑小なばかりか、消耗しつくして 病んでいる現在の私にとって、上述のような問題意識は手に余る。私は単に「世の成り行き」の中で落伍しそうになっている自分を、 手を広げて迎えてくれる音楽を求めているだけなのだろう。音楽をムーディーに消費するばかりの私のような存在にとって、 20世紀の様々な音楽のほとんどは、とりわけそれが産み出されたプロセスや文脈を離れ、オブジェとして対峙したとき、 それ自体が閉塞の反映であり、己を取り囲む状況の閉塞を確認させられて抱えているストレスを昂進させるばかりだし、 マーラー以前の音楽の方は、現実がこうなる以前の状況を記憶する媒体としてノスタルジーの対象となり、 一時の休息と慰藉を与えてくれるものではあっても、そしてそれは身体的にもメンタルにも危機的な状況にある人間にとって ある時期には必要なものであっても、再び現実に戻り、「世の成り行き」の中に自分を投じる勇気を与えてくれるものではないのだ。
マーラーの音楽はかくして三輪眞弘さんの活動とともに今の私にとってかけがえのないものであるのだが、 その理由を問われれば、マーラーの場合には、その音楽が持つ時間的な構造、そこでの主体の遍歴の不可逆性によるのだと答えることになるだろう。 その音楽は、自由を奪われた幽霊達の隊列に私もまた加わるように誘うのだ。自分が幽霊ではないと感じる人にとってはこの音楽は全く不要なものだろうから、 こうした状況を一般化するつもりは全くない。これが極めて個別的な状況であることを認めた上で、それだけに自分にとっては 切実なものなのであることは繰り返し強調しておきたい。そういう人間にも居場所があってもいいではないか。 そういう人間にも声が与えられもいいではないか。マーラーの音楽はそういう人間の代弁者なのだ。(2012.5.2)

2012年5月1日火曜日

マーラーの行進曲の印象

いろいろな音楽の間を彷徨った後、別に意識して避けてきたわけではない筈だが、無意識的にどこかで敢えてそうして いたかも知れないなと思いつつもマーラーの音楽を聴いてみると、ただちに幾つかの顕著な質に気づいて酷く驚くことになる。 例えば行進曲。マーラーが行進曲を偏愛したのは明らかだろう。 マーラーの幼児期の記憶の中にその起源を求める見方は繰り返しなされてきた。 「芸術音楽」の擁護者からはマーラーの音楽の中のいわゆる「バナルな」要素として誹謗される恰好の材料を提供した。 集団操作の道具、ある意味ではオーケストラを統率する楽長の音楽に相応しいと皮肉られるだろうか。 画一的を強制し、意識に自発性を許さずに寧ろ心理的な適応を強いる音楽。 容赦ない「世の成り行き」への屈服、攻撃者への同一化をあらわしているのだという精神分析的な解釈もある。

確かにマーラーの行進曲は、音楽の主体を急きたて、どこかに追いやる働きをする。 停滞を中断し、活動を強制するかのようだ。 マーラーの音楽を聴く私も、行進曲に促され、前に進もうとする。 しかもマーラーの行進曲は、それが主体にとっての強制であるという主体の側の反応そのものを刻印していることもあるから、 疲れていても、動かなくてはならないのだ、という認識に聴いている私を誘う。 その認識には両面があって、強制的に歩かされているという悲壮感と、蹲っているよりは少しでも歩いた方がましだという気持ちが綯交ぜになっている。 実はそうやって急き立てられでもしなければ、怠け者の私は残された時間を浪費して、何事も成し遂げられないかも知れない。 怠惰な人間が何かを為すには、外からの暴力が、強制が必要なのだ、というわけだ。

その外部とは、「世の成り行き」かも知れないが、自分の奥底に穿たれたいわば内部の外部から響く呼びかけかも知れないのだ。 マーラーの音楽が自分の中にすっかり埋め込まれ、意識としての私よりもより下の層を構成しているとしたら、 それはフロイトのモデルのうち、超自我の指令ではなくて、寧ろエスの呼びかけであるということだってありうる。 マーラーの行進曲はそのどちらでもありうるのではないか。

もっと単純に、私の中に埋め込まれたマーラーがゲーテの思想に共感して、「活動を止めてはならない」と呼びかけているとしたら? 人間は密室の中で、外部とのコミュニケーションを絶ったままでは生きていけないのだ。 連帯への誘いであれ、強制であれ、外部からの呼びかけに応えて、外部に出て行く必要があるのだ。 行進に加わっても、あっという間に脱落し、落伍するかも知れないとしても、また立ち上がり、どこかに向かって歩かなくてはならない。 寧ろそれは生物としての、動物としてのヒトの性質に由来するのかも知れない。

不吉な連想。

1.ハールメンの笛吹きに率いられた生物の集団自殺。 閾域下に働きかける信号によって、集団催眠にかけられ、操られた集団の行進はどこに向かうのか。 だがそれも、遺伝子のどこかに仕組まれた、進化の詭計によるものだとしたら?

2.強制収容所でマーラーの姪が演奏した行進曲。 収容所の入り口には、ナチスの欺瞞に満ちたモットーである「労働は自由にする」が掲げられている。 そこでの自由とはなんだったか。生き延びるためには行進から落伍してはならない。 だがそれは強制収容所の中だけのことなのだろうか。

一旦乗りかかった船からは、途中で降りるわけにはいかないのだ。 おまけに乗った船が実は泥舟であった、ということもある。 最初は立派な船であっても、何かのはずみで泥舟に変貌することだってある。 行進に加わったときにそれを見極めることが常にできるというのは後知恵に過ぎないのではないか。 しかも行進に加わらないことはできないのだ。 せいぜいが、運がよければどの隊列に加わるのかについての選択肢があるかも知れないというのが現実ではないのか。

マーラーの音楽が持つ異様な活力は、ぎっしりと詰った情報ともども、聴くものを疲れさせ、消耗させる。 だから疲れて病んでいるときには、しばしばマーラーを聴くのに耐えられなくなるのだろう。 だがじきに、自分の中に埋め込まれたマーラーの音楽が、再び立ち上がって歩き始めるように促し始める。 目を覚ませ、とそれは私に呼びかける。

もしお前が一緒に行進している同伴者が幽霊であったらどうか? それでもお前は一緒に行進するのか? だがしかし、私もまた幽霊の如き存在ではないのか? マーラーの行進曲は、そうした幽霊たちに手を差し伸べ、隊列に加わるように誘う。 かくして「レヴェルゲ」達の隊列が組まれる。

行進がどこに行くのか、誰も知らない。 いや、ある意味では皆が知っていて、知らないふりをしているということもできる。 実はそれがどこにも辿り着かない、目的のない、行進のための行進であることを、マーラーの音楽は誠実にも隠し立てすることがない。 ただ、マーラーは自分がかつて見聞きし、体験したと思った何かに再び出遭えることをどこかで待ち望んでいる。 どこに行けばいいのかもわからないし、それが実現することのないことを予感しているにも関わらず、何か自分に勝りたるものに与ることを夢見ることを断念することはできずに、盲目の意志に導かれて行進は続くのだろう。

私は弱った体の恢復を待ちながら、過去の異郷から響いてくる行進曲の響きに耳を澄ませ、性懲りもなく再び隊列に加わることを夢見て、その意志を壜に封じて情報の海原に投げ込む。 遠い昔、子供の頃にふとしたきっかけで、誰に教えてもらうでもなく、自ら探し当てた壜の中に閉じ込められた音楽の響きに導かれて、このようにして。 (2012.5.1)

2012年4月30日月曜日

主観性の擁護について:「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012」公式ガイドブックにおけるマーラーに対する言及を読んで(2021.6.29更新)

「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」という音楽祭が丁度毎年ゴールデン・ウィークの時期に開催されるようになったのは何時頃のことからだったか。 コンサートが課する時間的・体力的・精神的な制約に耐えるだけのキャパシティを欠いていることから、私はごく一部の例外を除けばコンサートに 足を運ぶことがない。ゴールデン・ウィークとて同様だから「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」もまた例外ではなく、そういう催しの存在は 知っていても、それに参加することはそもそも選択肢にすらならないのではあるが、そういう私でも昨年2011年のそれが、東日本大震災とそれによって 発生した原子力発電所の災害のため、当初のプログラムを維持できないような会場設備への損害と来日演奏者の大量のキャンセルを蒙った ことは風の噂に聞いていた。もっとも、2011年が丁度マーラーの没後100年にあたる年であることは意識していても、その年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」が 特集した19世紀末のクラシック音楽の創作における「巨人たち」の中にマーラーが含まれていることすら知らず、一年後になってふとした偶然で 2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に因んだ公式ガイドとしての機能を持つらしい新書版のロシア音楽に関する書籍(亀山郁夫, 『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2012オフィシャルBOOK), PHP新書, 2012)を読み、 その中におけるマーラーの音楽に関連した記述に非常に強い違和感を覚え、やはり震災を契機に中断していたマーラーについての文章を 認めることを再びせずにはいられなくなってから、ようやくそうした事実関係を知ったような次第なのだ。

勿論、2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」はロシア音楽の特集なので、マーラーがいわゆるテーマ作曲家として言及されているわけではなく、 公式ガイドブックの著者の個人的な音楽聴取の履歴やら、テーマ作曲家を論じるときの或る種の背景として言及されているに過ぎない。 プロローグにあたる部分で著者の30歳代の10年間全体におよぶマーラーに対する熱中の時期があったことがまず語られ、ついであるコンサートで接した ショスタコーヴィチの室内楽を言及する際のいわゆる聴取の背景の経験として言及され、そしてそこからはかなり離れて、「現代のロシア音楽」と 著者が見做す(あるいは企画上、そう括ることを強いられた)作曲家の音楽を論じる部分で、ここで取り上げようと考えている一対の言及、 カンチェリとシルヴェストロフに関する記述に出現するマーラーへの参照が為されているに過ぎない。

ちなみに同じくプロローグにある2011年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」への言及は、些か奇妙な(と私には感じられる)仕方で為されている。 まずプロローグの冒頭、2012年5月という日付が記された一節の途中で「昨年の5月」に開かれたコンサートについて言及がなされる。 そこでの記述は、19世紀末のヨーロッパの音楽は「今」(いつ?)の著者にとって「遠い記憶のなかにこだましている 懐かしい響きばかりだったが、あの、恐ろしい災厄に打ちのめされた心には、なぜかむしょうに心地よく響きわたった。コンサート会場に足を運んで、 はじめて自分が慰めに飢えていたことに気づいた」といったものだが、それ自体には特段奇妙な点はない。

奇妙な、というのは次にもう一度、上述のマーラーへの言及が行われた1994年6月のショスタコーヴィチ作品のコンサートについての一節の後、 今度は2004年9月という日付が冒頭に書付けられた一節で再び言及される時の言及の仕方と内容だ。今度は個別のコンサートに対象が限定されていて、 それは東京国際フォーラムCで行われたらしいブルックナーの第4交響曲のコンサートである。だがそこでは今度は(深読みをすれば、暴力とノスタルジーというコピーを意識したものか) 巨大地震と津波の「現前化」の経験が語られるのだ。奇妙に感じられるのはその経験の内容自体では勿論ない。「現前化」の経験は恐らく事実なのだろうし、 私自身、少し後になるが、被災地から出てきた知人と一緒に東京文化会館でラヴェルの「ダフニスとクロエ」のバレエの公演を観ていた折、ラヴェルの音楽に対してではなく、 波が押し寄せてくる演出を見て津波の映像のフラッシュバック(だからそれはここで語られる「現前化」とは似て非なるものではあるが)を経験した結果、 ラヴェルの音楽の方も聴けなくなってしまい、未だにその状況が続いているのだ。同様に、同じ第4交響曲でも私の場合はショスタコーヴィチの第4交響曲なのだが、 あのフィナーレのコーダを頭の中で思い浮かべるだけで津波の映像のフラッシュバックに襲われるため、ショスタコーヴィチの音楽もまた聴けない状況が未だに続いている。

ブルックナーの第4交響曲の方はと言えば、自分にとってブルックナーの交響曲の中で最も疎遠な作品の一つであるし、その作品の雰囲気から言っても 「現前化」なるものが起きるのは意外なことではあるけれど、そのことを奇妙に感じたわけでもない。私がフラッシュバックの経験をした際に不幸にも聞いていた ラヴェルの音楽もまた19世紀末のヨーロッパの音楽といって良いだろうが、きっかけとなった演出はおいて、ラヴェル音楽そのものからはその時には大きな慰藉を 受け取った気がする。またこれは心理的には或る種の退行ではないかと思うが、その後色々な音楽が聴けなくなって後、しばらくはブラームスの音楽ばかりを 聴いていた時期があったくらいだが、ブラームスもまた19世紀後半の「巨人達」の一人に含まれていた。そういう意味では2011年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」への 2つの言及のうち、寧ろ一度目に近いものを当時の私は感じていたのだと思う。

結局のところ私が奇妙に感じるのは、その一度目の(恐らくはブルックナーの第4交響曲もまた含まれるであろう19世紀末のヨーロッパ音楽に対する)言及と、二度目の言及で語られる 「現前化」の体験がどう結びついているのかがわからないという点に尽きる。私自身の経験からすればコンサートの途中でそうした「現前化」を体験するのは 寧ろ悲惨なことである。その経験にも関わらず「恐ろしい災厄に打ちのめされた心には、なぜかむしょうに心地よく響きわたった」「遠い記憶のなかにこだましている 懐かしい響き」でもあるというのが、私には腑に落ちないのである。

同様にして、ブルックナーの第4交響曲についてのこの経験が、「堅牢な」ドイツ音楽とロシア音楽との対比へと連想を広げていくこと自体も、それに異議を挟む謂れはないし、 出発点となっている「執拗かつ強靭な反復のなかで、その反復のもつ意味が日常の理解を超えたリアリティを増」すというのは、ブルックナーの音楽の聴取の 経験に基づく発言なのだろうが、それが直ちに「堅牢」さと言い換えられれば当惑せざるを得ず、これもまた違和感の原因となっていそうである。 執拗な同一音型の反復、長大なゼクエンツは確かにブルックナーの音楽の特徴だろうが、シューマンの同一リズムの反復の執拗さやシューベルトのゼクエンツの 長大さと同様、それらは寧ろ、所謂「ドイツ音楽」の構築的な契機とむしろ対立するものではなかったか。 シューマンのそれはしばしば病的なものとさえ見做され、シューベルトのそれは「天国的な長さ」という決まり文句に通じる非構築的な側面であり、 ブルックナーの場合であれば、20世紀の音楽の諸潮流を経た今日であれば、寧ろミニマリストのそれに比することができるかも知れないものであって、 時間方向の構造を決定する契機としてはドイツ的な「堅牢さ」とはまず異質なものではなかったのか。

もっとも、この後取り上げるマーラーについての言及が為される近傍には、「カンチェリはミニマリスト・ブルックナー」という言葉に続いて直ちに「形容矛盾ではない。」 というメモを記す著者のことだから、それはそれで了解は首尾一貫してはいるのだろう。だが、一貫しているからといって理解できるかと言えば勿論そんなことはなく、 私にとってはそのいずれも当惑の対象にしかならないのだが。序に言えば、発展・展開のない執拗な反復は寧ろ対比される筈の「ロシア音楽」の特徴の一つではないかとさえ 私は考えているし、その限りで例えば件のカンチェリに対するコメントも(対立を持ち込もうとする著者の意図には反するので、「形容矛盾」は当らないとはいえ) わからなくもないのだが、いずれにしてもそれはこの「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012」公式ガイドブックの是とする「ロシア音楽」の理解ではないのだろう。 パウル・ベッカーによればオーストリア的な交響曲のカテゴリに属し、ブラームスからは(これはより構築的であるはずの第8交響曲についてだったが)「うわばみ」と 評されたブルックナーの音楽の、よりによって執拗な反復をとりたててドイツ音楽の「堅牢さ」を連想するというのは、私にとっては奇妙な把握としか思えない。

その「ミニマリスト・ブルックナー」であるらしいカンチェリの「風は泣いている」に因んで、この「ガイドブック」は「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行い、更に「この一行は、マーラーの交響曲を念頭に置いて書いている。」と 自己の主張について注釈するのである。そして「人間による意味づけからの解放、その表象世界がカンチェリにあるのだ。」と続け、更に、「彼の世界観は、 次に述べるシルヴェストロフとは対極にあるものだろう。世界が暴力とノスタルジーの二つからなっているということを、そして音楽は無限の可能性を 秘めているということをカンチェリほど切実に訴えかけてくる音楽はなかなか出合えない。」と述べる。更に節を変えて、そのシルヴェストロフについての 記述の中で、彼の第5交響曲に因んで再びマーラーの名前が出現する。「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされている。 それは、もはやロシアとかウクライナへの郷愁ではなく、廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚と いってもよい。」という言葉に続けて、「グスタフ・マーラーから強い影響を受けていることがはっきりと聴きとれるが、ロマン主義が終わり、アヴァンギャルドも 遠い過去となったいまだからこそ、この音楽が甦るのだ。」というようにマーラーが参照されるのである。

上記のようなマーラーへの言及は、私自身が、そして想像するに多くの人が想定するであろうショスタコーヴィチやシュニトケの項においてはマーラーへの言及が 為されていない(厳密にはショスタコーヴィチの項では「バッハからマーラーへと連なる壮大な西洋音楽の歴史」という言い回しの中でマーラーという固有名が出現するが、 これはマーラーとショスタコーヴィチとの関係の記述ではないから除外できるだろう)という面と併せて、少なくともこの「ガイドブック」の著者がマーラーの音楽を どのようなものとして受容しているかを端的に物語っているだろう。

ある音楽をどのように受容するかは、結局のところ各人の自由だから、私もまたそうした受容を「誤り」であると主張しようというわけではない。 ましてやこれは第一義的には「ロシア音楽」についての「ガイドブック」であって、マーラーについてのそれではないのだから、こんなところでマーラーの受容に ついて云々するのは、本末転倒・些事拘泥の謗りを免れないだろう。更に言えば、意図的かも知れないレティサンスの背後に、「ポスト・マーラー」といったコピーの下、 ショスタコーヴィチやシュニトケを取り立てる傾向に対する暗黙の異議申し立てが含まれているとしたら、それについては首肯できる側面だってあるのだ。 またその一方で、クレーメルか誰かが「キエフに死す」だと評したらしいシルヴェストロフの交響曲との関連付けのさせ方について言えば、当然のこととして マーラーの交響曲の方は「ヴェニスに死す」のBGMとしての文脈で捉えられているに違いないのだが、そうした把握の仕方こそが「ロシア音楽」からの展望なのだと 言われてしまえば、それが私にとって如何に意外で許容しがたい把握であったとしても、それはそれで受け入れるしかないのだろう。 カンチェリの音楽に対する程にはシルヴェストロフの音楽に私が惹きつけられることはないのだが、さりとてカンチェリの音楽に対してさえ、特段の強い拘りを持っているわけでもないから、 彼らの音楽との関係でマーラーの音楽がどのように位置づけられるにせよ、それによって決定されるシルヴェストロフの音楽、カンチェリの音楽の位置づけの方について言えば、あえてそれに関する文章を書いて自分の思いを整理しておこうと思っているわけでもないのである。

否、そもそもそれは「ロシア音楽」からの展望に限定された了解というわけではなく、21世紀にマーラーを聴くことの意義の一般的な了解はそうしたものなのであって、 別段特殊な見解が述べられているのではないのかも知れない。そしてとりわけ東日本大震災の後の日本ではそうであることの兆候が偶々「ロシア音楽」を 媒介にして発現したということなのかも知れない。

だがしかし、それがどのようなマジョリティを占めるものであったとしても、東日本大震災の影響と、それとは直接的に別の要因による多忙の結果の 感情的な麻痺状態の後、ようやく再びマーラーの音楽に接することが出来るようになりつつある状況下にあって感じるのは、少なくとも私にとってマーラーの音楽は、 この「ガイドブック」でのそれとは異なった相貌と志向を帯びた音楽であると感じられるし、そのように私はマーラーの音楽を聴いているということだ。 しかもそれは震災の前後で変化したわけでもなく、出会ってから35年間、基本的には変わっていないように感じられるのである。 そしてその了解のもとにこの「ガイドブック」の記述を読み返したとき、私にとっては飛躍が多くて論理の筋道がひどく辿りにくく、ここで扱うマーラーへの 言及に関連した部分に限定しても、例えばカンチェリについての記述は私にとってはその論旨が正確には把握できないことを白状せざるを得ないほど であるのだが、そうした困惑もひっくるめてこの文章で少なくとも仄めかされていると感じられる幾つかの点について自分なりの整理を行う必要を感じたということなのである。

正直に言えば、私は最早ほとんど、今、この地でマーラーの演奏を、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの活動への関与といった例外を除けば、 コンサートに赴いて聴取する必然性を感じなくなっている。その理由の一部は、この「ガイドブック」でマーラーという固有名の周辺で論じられている 事柄と確かに関連しているには違いなく、その限りでは問題の設定自体に違和感を感じているわけではない。しかしその一方で、そういう状況に陥った 私が未だにマーラーの音楽に聴き取りうると感じ、それゆえマーラーを聴き続けようと思うその理由となる音調は、ここでマーラーに帰せられているらしい それではないのも確かなことに思われる。要するに事態は錯綜としていて、この「ガイドブック」の記述から受ける困惑の一部もそうした錯綜に原因があるようなのだ。 そこで以下ではそうした錯綜を自分なりに整理してみたい。

マーラーの音楽が帰属する時代、ロマン主義の時代は最早決定的に過去のもので、その限りで「ロマン主義が終わり、アヴァンギャルドも 遠い過去となったいま」という認識は正しいと思う。しかし、そうした時だからこそ甦る「この音楽」とは一体どういう音楽なのか。甦ると言われるからには それは一旦は滅したということなのだとしたら、「この」の指示対象はシルヴェストロフの個別の音楽作品では少なくともないだろう。「この」はより 正確には「このような」であって、「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽、「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の 普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」に満たされた音楽一般が甦る、ということと受け取るほかない。だとしたら、そうした特性を持つシルヴェストロフの 音楽に「影響」を与えた(という主張をこの著作の著者は支持しているように見える)グスタフ・マーラーのそれもまた、同じ性質を備えた音楽だということになりそうである。

まず思いつくのは、人が過去の音楽にノスタルジーを感じるのは、対象となっている音楽自体が哀愁とノスタルジーに満たされているということを 必ずしも意味しないということだ。それは聴取の態度の性質の問題であって、聴取の対象の持つ性質ではない。勿論、対象もまた、そうした性質を 帯びていて、ホワイトヘッド的な意味での「感受の感受」のような事態が生じることもあるだろうし、ここでもそうしたことが想定されているということは 考えられるが。実際、ここで取り上げられているシルヴェストロフの第5交響曲は、マーラーの第5交響曲のアダージェットと結び付けられて論じられることが多いようだ。 既に言及したクレーメルの発言らしい「ヴェニスに死す」ならぬ「キエフに死す」であるといった評言は、そうした結びつきを前提としたものだろう。

しかし、ある音楽が過去の時代の音楽を引用する、あるいは直接的な引用ではなくても、音調を借用するという挙措は、引用や借用を行う側の音楽 固有の文脈と展望における価値を帯びていて、それは引用や借用の対象となった音楽が持っていたものとはとりあえず別である。 借用が元の音楽の持つ音調の効果を利用するために為される場合もあるだろうが、それでも借用であることがわかってしまえば、 借用された内容の次元ではなく、それを借用した行為の次元について何某かを問わず語りに語ってしまうことは避けられない。 シルヴェストロフの意図が奈辺にあるか私は詳らかにしないが、いずれにしても聴き手に届くのは、借用の意図であって借用されたものの内容そのものである筈がない。 そうした時に、マーラーの「影響」とは一体どの水準での影響を指し示しているのかが曖昧に思われるのである。クレーメルの発言に乗っかって それを利用した言い方をするならば、シルヴェストロフの立ち位置は、せいぜいヴィスコンティの立ち位置と対応しているに過ぎず、 それならばマーラーの音楽の捉え方に関するヴィスコンティの影響を云々すべきだということになろう筈であって、マーラーの音楽そのものの影響を 云々するのはレベルの混同であるということになるのではないか。

勿論、そうした事情を踏まえてなお、マーラーの音楽自体もまた、「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽、 「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」に満たされた音楽である、という主張は可能だし、 そうした音調こそ、シルヴェストロフとの共通点であり、そうした音調に関してシルヴェストロフへのマーラーの影響が窺えるという主張もまた 成立するだろう。だがしかし、例えばマーラーの第5交響曲という作品の脈絡におけるアダージェットの置かれた位置とそれに相応して担っている機能、 更にはそれを含めたマーラーの第5交響曲の総体の持つ志向は、構造的に全く異なったシルヴェストロフの作品の志向と本当に同じだろうか。

伝記的事実や本人の意図を特権視する姿勢は今日では手放しで是認されることはないだろうからそうした面は捨象することにしても、 葬送行進曲で始まり、ニ長調のロンド・フィナーレで終わるマーラーの作品の全体は、私見によればシルヴェストロフの音楽の 「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジー」とはかなり異質のものである。アダージェットの主題が後続のロンド・フィナーレで受ける 変形についてはマーラーを知る人の間では良く知られているし、何よりも一度聴けばすぐに気づくほど明らかなことだが、 その変形の意味をどうとるにせよ(ちなみに私は、それが言語的な記述の水準で確定できるという考え方に対して懐疑的であるが)、 未完成の第10交響曲を含めてさえ、ということは調性が曖昧になる「部分」(だがそれはあくまでも部分に過ぎない)を含んでさえ、 全体としては明確に全音階的な調的システムの中で軌道を描き、バロック時代以来の調性格論の適用すら可能な程であるマーラーの交響的作品 にあって、ニ長調で終わる第5交響曲ははっきりと「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジー」とは別の着地点を音楽の裡に持っていると 私は了解している。

一方で、第5交響曲がマーラーの交響曲作品の中で占める位置づけについては、この曲に決まって適用される発展的調性論が嵌め込もうとする 闘争から勝利へといった図式を逃れるものがあること、この曲をベートーヴェン的な肯定の音楽と見做すことに対する疑問を私は持っていて、 別のところで記述したことがあるのでここでは詳細は繰り返さないが、それでも第5交響曲がマーラーの創作において(事後的な展望での 後付の理屈かも知れなくても)或る種の停泊点、折り返し点であり、その音楽の持つ時間性は、例えば第1交響曲の初期形態、つまり 交響詩「巨人」のそれを逆行させたものに近接するように捉えられるのではないかということはここで改めて述べておいてもいいだろう。

しかしそうした捉え方の下でも、「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジー」に終始しない異なる明確な動性を備えているということは 明らかだし、仮に乱暴な単純化をして第5交響曲を退嬰的な後ろ向きの音楽であると総括したところで、そうした位置を占める第5交響曲が マーラーの創作の全てではないから、マーラーの音楽が総じて「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽、 「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」に満たされた音楽であるという主張は、 第5交響曲のアダージェットについての主張を第5交響曲全体に、そしてマーラーの作品全体に不当に広げたものであるという疑念は拭い難く、 実際の私の聴経験とも一致しないのである。

それならば更に一歩下がって、マーラーの音楽がロマン派の棹尾を飾るものであり、その音楽は滅びてゆく世界の過去の輝きに対するノスタルジーなのだ、 といった見方はどうだろうか。だが、この主張もまた、マーラーの音楽を後世の人間が眺めるときの展望の一つに過ぎない。勿論、そう捉えたければどうぞお好きに、 という他ないし、そういう展望でマーラーを捉えることこそマーラーを今日聴くことの意義を保証するのだと言われれば、そうした他人の展望にケチをつける つもりもないのだが、一つにはそのような音楽史的・文化史的な展望への還元は個別の作曲を、結果としての作品を少しも救い出さないし、 ある時代においてある人間が選択した姿勢なり態度なりをあまりに軽視しているとしか思えない。歌劇場の監督であり、 コンサート指揮者でもあったマーラーは、過去の音楽にも同時代の自分以外の音楽にも現場で接していたし、音楽史的な展望を持っていたのは、 マーラーが行ったコンサート・シリーズの企画などからも窺えることだが、シェーンベルクの音楽に未来を託した彼が自分の音楽を行き止まりであると 考えていたとは思えないし、幸か不幸か第1次世界大戦すら知らずに没したマーラーは、自分が属した(とはいっても、3重の異邦人としてという マージナルなあり方でに過ぎなかったのだが)秩序が崩壊していく過程とその帰結を(例えば第2次世界大戦の惨禍に直面して「メタモルフォーゼン」を作曲することになったシュトラウスのようには)目の当たりにすることもなかった。

だからマーラー自身と、マーラーの音楽の同時代における意義はおくとして、今日の我々にとってはそれは「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の 普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」を惹き起こす音楽であるという主張に対しては、そういう聴き方も可能かもしれないし、そうしたければどうぞ という他ないのだが、そのようにマーラーの音楽の聴取の仕方を規定しておいて、他方で「マーラーの交響曲を念頭に置いて」「世界は、人間中心的な 意味づけから解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行うことは、マーラーの音楽に対して正当な態度とは思えない。 それは自分である見方を対象に押し付けておいて、自分が押し付けたに過ぎない見方によって対象を断罪しているに過ぎないではないか。

断っておくが、私は「今こそそれを知る必要がある。」とまで言うつもりはないが、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」という 主張自体に異議があるわけではない。否、東日本大震災とそれによって生じた原子力発電所の災害の渦中に未だにいるのであれば、 「今こそそれを知る必要がある」と言いたい気持ちもわからなくはない。もっとも今更、手のひらを返したように「今こそそれを知る必要がある」といった 言い方をするのは随分御目出度い発言のように感じられるというのが正直な気持ちではある。しかもそう言っておいて、震災後に聴取の仕方が 変わったと言われるのが、そうした「人間による意味づけからの解放」の音楽であるカンチェリに対してではなく、彼の世界観と「対極にある」とされる シルヴェストロフの「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽に対してなのだというのだから戸惑ってしまう。主張とは裏腹に、 それまでは懐疑的であった「人間中心的な意味づけから解放され」ない側の音楽に対する評価が高くなったと言っているに他ならないのだから。

そしてまた、一方ではカンチェリの音楽を「対話的宇宙」と性格づけ、それを説明するために、2つの人格である「我‐汝」の間の対話の思想を 展開したブーバーの名前を引用しておきながら、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」というのは、端的に矛盾しているか、 さもなくば大幅な説明不足であって、そんな論理的な飛躍を自明のこととして、その間隙を埋める作業を読者に強制するのもまた不当なことにように 感じられてならない。もし対話の一方の主体を非人格的なもの(「世界」でも「宇宙」でも好きに名付ければよい)とするのなら、ブーバーを参照するのは ミス・リーディングにしか感じられないし、対話が(そのように取れる記述も見られるから)作曲者と聴き手の間のそれであるとするなら、そうした対話と 「人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない」とされる「世界」との関係の如何、更には総じて「対話的宇宙」で名指されているものが 一体何であるか、全く明らかではない。しかもここでは「暴力」のみならず「ノスタルジー」もまた「世界」に帰せられているらしいのだ。

文学の世界ではこうした修辞や表現は許容され、寧ろ顕揚されさえするのかも知れないが、残念ながら私にはその意味を正確に捉えることが著しく困難であり、 これを「ガイドブック」として向かい合うことが求められている音楽祭に参加する資格など自分にあるとは思えない。そればかりか、少なくともカンチェリの音楽を 理解することなど全くの不可能事にさえ思えてくる。個人的な経験を言えば、カンチェリの音楽は30代に差し掛かる直前のある時期、全ての交響曲、 ヴィオラ協奏曲「風は泣いている」や、「亡命」「詩篇」といった幾つかの作品を聴いたので、ここで参照されている作品についての聴経験は持っているはずなのだが、 その経験も、この「ガイドブック」の発言内容を理解する助けにはあまりならないようだ。

あるいはこういうことなのだろうか。カンチェリの作品は確かに暴力的とも形容できるような大音量の音塊が響くブロックと、哀歌的な旋律がきれぎれに 継起する静かな部分が、西欧の音楽からすれば全く非有機的な仕方で交替するような構造を概ね備えているという言い方は可能だろう。 そしてその交替に脈絡のなさを見出し、ある種の単調さを感じる人も少なくないだろう。その音楽の時間方向の脈絡は、主体の外部から到来する イヴェントに支配されているかのようで、主体は受動的である他ない。そういう意味ではこの音楽の世界は「人間中心的な意味づけから解放されている」という観方もできよう。 一方で、だがそうした音楽はそれでもなお作品であり、カンチェリという人間が組み立て-作曲したものである。単調さや脈絡のなさは、カンチェリによって 選び取られたものなのだ。だがその一方でカンチェリは作品の中に「ノスタルジー」をも埋め込むことで、聴き手に対して対話の余地を残していると言うことは できないだろうか。もっと言えば、暴力とノスタルジーが交替する作品を提示することによって、人間中心的な意味づけを拒む世界とともに、それに対面する 人間の反応としてのラメントをも差し出すことで、聴き手との対話を試みているのだ、と。

(もっとも、著者の提唱する二分法によれば、カンチェリもシルヴェストロフもどちらも有機的であって、ここでは対立はないことになるらしい。一方で、 ベートーヴェン的=求道的・構築的、モーツァルト的=道草的・非構築的という軸では、カンチェリは前者、シルヴェストロフは後者で対立することになっている。 ただし有機的であることの定義は一切なされないから、そもそも異論を唱えることすらできない。求道的、構築的にしても同じで、例えばペルトが シュニトケと並んで求道的・構築的に分類されているのを見ると、それぞれの意味もさることながら、求道的と構築的を一緒に押し込んだ分類に 一体どういう意義があるのか疑問に感じられる。もっと謎めいているのはキリスト教・非キリスト教の軸である。例えば、第14交響曲を書いたショスタコーヴィチがキリスト教タイプに分類されるかと思えば、ユダヤ人ではあるがロザリオの祈りを構造的な支点に持つ第4交響曲を書き、それ以外にも 典礼文に音楽を繰り返しつけていて、例えば翻訳もあるイヴァシキンとの対談においても自分からカトリックや正教への信仰を巡って語っているにも関わらず、 シュニトケは非キリスト教タイプとされる。同様に、タタール人ではあるが正教徒であり、やはり受難曲や復活に因んだ作品を作曲していても、 グバイドゥーリナもまた非キリスト教的と分類される。ちなみにカンチェリはキリスト教タイプ、シルヴェストロフは非キリスト教タイプに分類されている。 この2人に対しては以下にも述べるようにその音楽が(非音楽的な礼拝行為のような性格を帯びているかという観点から)宗教的・非宗教的を分類すると 読みかえれば概ね妥当だと思うが、それは「キリスト教的」かどうかとは別の水準の議論だし、他の作曲家の配分を見る限りでは分類基準は私には 全く不明であって恣意的で勝手気儘なものにしか思えない。一体、基準が明確でない二分法の組み合わせが「ガイド」として何の役に立つのか 私には理解できない。読者の反応を気にして釈明をする以前に、定義を示すべきなのではないか。)

一方で、もっと単純に、カンチェリの作品が儀礼的な側面を備えていること、そういう意味でそれは人間的ではない何かに対する語りかけであるというふうに 言うことはできるだろう。それはだが、端的に「祈り」と呼ぶべき行為なのだ。つまりカンチェリの音楽は常に音楽外の行為的な価値を帯びている点に その音楽の決定的な特徴の一つが存しているように私には見える。そしてそうした側面は、カンチェリの作品の内容をも浸食しているのだ。 祈りは常に人間のものであり、祈りの行為には必ず祈らずにはいられない人間の感情や情動が影のように付き纏う。そうした側面こそが カンチェリの作品に或る種の暖かみを与えているのではないかと考えることはできるだろう。

だとしたらそれは「対話的」なのではないだろう。それは人間的な祈りの所作であり、聴き手は聴くことによってその祈りに参与することが可能であるに過ぎない。 勿論、「我-汝」の関係を祈りの対象との対話、神との対話として考えることもできるだろうし、実際ブーバーの思想が由来するハシディズムの伝統では そうなのかも知れない。だが、カンチェリの音楽の相貌からは、寧ろ私なら我と汝の対話を主張するブーバーよりも絶対的他者としての神との分離を説く レヴィナスを思い起こすところだ。実際にはグルジア人であるカンチェリはいずれとも直接の関わりはないのかも知れないが、例えば彼の別の作品、 アルバム「亡命」に含まれる幾つかの作品で選択されたパウル・ツェランの詩はブーバーのハシディズム的な対話の世界からは遠く隔たっている。誰でもないものへの祈りであるそれは、 寧ろ対話が拒まれた世界との(非)関係における祈りの(不可視の)共同体への絶望的な希求なのではないか。それは「ぼくとあなた」の対話などでは 決してないし、そこに世界が割り込むのでもない。ここで「亡命」を、ツェランの詩を参照することの妥当性については議論があるかも知れないが、 いずれにせよ最初にも述べたように、カンチェリを巡る「ガイド」の記述は、私にはそれこそ「支離滅裂」にしか感じられない。

ともあれそう考えれば、世界観が対極にあるかどうかはおくとして、少なくともシルヴェストロフの音楽がカンチェリの音楽と異なった位相にあることは間違いないだろう。 シルヴェストロフの音楽には祈るべき超越的な他者が欠如しているのだ。レクイエムと題された作品ですら、それは祈りではない。寧ろそれは主体の世界に 対する反応(例えば親しい人間の死という出来事に接したときの感情や情動)を音楽的に定着したものであり、私的で独我論的といっても良い ような記録なのであるが故に、自律的で、音楽外的な機能を持たない純粋な音楽でしかない。だがこのとき、カンチェリにもシルヴェストロフにも適用される ノスタルジーという語の用いられ方は、ほとんど無意味に近づくほどにまで拡張されてしまっているように思える。「ロシア音楽」(だが、カンチェリは西欧に 亡命したグルジア人であり、シルヴェストロフはウクライナ人、更に言えばシュニトケはヴォルガ・ドイツ系ユダヤ人、グバイドゥーリナはタタール人、ペルトはエストニア人で、ここで対象となっている二名のみならず他のいずれの作曲家もロシア人ではないのだが、、、)の特徴を一言で要約することが要求される音楽祭のキャッチコピーによって、 暴力的に一くくりにするという目的以外にそれを敢えて同じ語で呼ぶのは必要性があるのだろうか。勿論、両者に共通性を見出す立場も可能だろうが、 実際に対極にあると主張するのであれば、その主張に応じて、いっそのこと別の語を用いるべきだったのではという疑念は避け難い。 もっとも実際の適否を判断するのは私の手に余る作業である。私はその両者の作品の全体を、個別の作品のではなく、作品に共通する作者の 世界観の違いを判別することが可能な程度に知っているのは到底言えないからである。だが、この点においてすら、この「ガイド」のこの部分について、 数えるばかりの実演と、「乏しい」と著者自らが述べるCDのコレクションと(音源の著作権に照らした投稿の合法性について疑念がある場合が 少なくない)YouTubeの音源に基づき、代表作かどうかも自分では判断できない、ごく限られた作品しか案内できないと断り書きがついているので あれば、著者とは見解が一致することはないのだろう。結局のところ私自身はシルヴェストロフは関心はないし、カンチェリにしても関心はそんなに強固なものではないので、 この点についてはもうこれくらいで十分だろう。

だがしかし、そうであるならばマーラーについてはどうなのか。既に述べたようにマーラーの音楽そのものは典礼的な目的で書かれたわけではないが、 にも関わらず、テキストにキリスト教的なものが含まれる作品以外でも、総じてその音楽には奉納といった側面が確実に存在しているように私には 感じられる。コンサートホールでの交響管弦楽の演奏を想定されてはいるが、委嘱を受けて書かれたわけではないそれは、名人芸の披露のため、 あるいは聴き手の娯楽のため、消費されることを目的として書かれたのではない。内容においても、際立って主観的と見做されるにも関わらず、 それは作曲者の個人的感情の吐露といったレベルでは捉えることができず、寧ろ或る種の世界観の提示(ただしそれを主題とているのではなく、寧ろ、世界を構築するシミュレーションと捉えるべきだろう)、認識の様態を開示するようなものだ。 そういう意味では疑いなく哲学的であり、広い意味での宗教性を帯びていると言ってよいと思われるし、少なくとも音楽が手段として用いられる 音楽外の契機が音楽を基礎づけるといった音楽のあり方において、カンチェリに近接するようにすら感じられる。

その作品は歌謡的な旋律に富んでいて、一見形式的に弛緩しているように受け止める向きもあるだろうし、複数の音響層の併置や 空間的な音響構成など、伝統的な作曲法からすれば構築的とは言いがたいが、全般的には全音階法的な和声と線的な書法に支えられ、 意識の流れを思わせるような散文的な時間的構造を備えており、有機的な音楽と言ってよいだろう。

またマーラーの音楽はヘーゲル的な「世の成り行き」(Weltlauf)とそれに対する主体の(必ずしも意識的な部分に限定されない)反応といった図式に従っていて、 現実的な外部が契機として明確に存在するし、そうであるが故に、他面において超越的なものへの眼差しにも欠けていない。 意識の音楽としてのマーラーの音楽には、時間論的に回想に相当する機能を果たす箇所が認められるが、それはあくまでも一つの契機に過ぎず、 その作品の構造をそれのみで規定するようなものではない。従って、マーラーの音楽をノスタルジーの側面のみから捉えるのは、 マーラーの音楽自体にとっては著しく一面的でバランスを欠いた見方であると考えられる。

その一方で、マーラーの音楽には様々な性質の非人間的な契機の侵入が明らかに認められ、従ってマーラーの音楽を専ら「世界の人間的な意味づけ」として捉えるのは、 これもまた不当な単純化であると思われる。だが同時にマーラーの音楽は、「世の成り行き」に対する主体の反応であると見做せるし、 人間が儚く有限の存在であることを認めた上で、そうした人間の主観性の無限への憧れを擁護し、卑小な人間の反応の過程を音楽として定着させる志向を 備えているという点で、人間的な地平に縛られた音楽であるともいえるだろう。それは人間中心主義的ではないが、にも関わらず人間的な音楽なのだ。 総じて主観の極が廃棄されることはなく、全面的に非人間的な秩序ないし法則、あるいは暴力の反映になりきることはない。 そして3.11以降の今であるからこそ、(それには心理的には大きな困難が伴うことを私は経験しているし、今でもそれはしばしば困難であり、 もしかしたら私が存続する限り、もうその困難から解放されることはないのかも知れないが、そうであれば寧ろ、尚更)マーラーの音楽を聴き続ける必要が あると感じているのは、それが「世の成り行き」の前で無力な人間の立場に立った音楽だからなのだ。 アドルノも言っている通り、マーラーの音楽は敗残者のためのバラードであり、自由を奪われた状況においては幽霊の行進でしかなくとも、弱り果て、 もの言わぬ自我たちに表現の道を用意し、救おうと手を差し伸べるものであり、「レヴェルゲ」(目を覚まさせるもの=幽霊)なのだ。

従って、あえて「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012」公式ガイドブックに抗して言えば、今こそ必要なのは、人間的な意味づけからの解放などではない。 確かにマーラーは過去の異郷の音楽であるけれど、そうした時代と空間の隔たりを越えて、常に人間が直面せざるを得ない、人間的な意味づけがいとも 容易に崩れてしまうという現実のさなかにあって、繰り返し人間的な意味づけを恢復することに誘うような音楽なのだ。恢復は懐古でないのは勿論、復旧でもない。 意味はその都度、改めて獲得されなおされなければならないものであって、決して自明で不変なものではない。そして恢復のためにはノスタルジーが契機として 必要であったとしても、ノスタルジーに自閉するのではなく、現実に立ち戻る必要がある。疲労困憊していたとしても、更にはそれが運命に対する或る種の「反逆」であり、 勝ち目のない戦いであったとしても尚、移り行くものに留まるほかない者は外部に向かって働きかけ続けなくてはならないのだろう。「私が人生の終焉まで 休むことなく活動すれば、現在の生存形態が私の精神をもはやもちこたえられなくなっても、自然はかならず私に別の生存形態を与えてくれる筈だ」という マーラー自身の発言を、その音楽は裏切らない。ここに引用したマーラーの言葉は、マーラーの時代にあっては「霊魂の不滅」という議論の枠組みでしか 語られることはなかった。だが、マーラー自身はそうした時代の制約の中で、ゲーテに依拠しつつ、彼の時代の自然科学の動向にも留意しつつ、 音楽という手段(そう、ここで音楽は手段であり、音楽外の契機が侵入していることをもう一度確認しよう。音楽は自律しているかわりに他の人間の活動から 孤立した営みではないし、そうした人間の活動もまた、世界の中で孤立して、自足しているわけではないのだ。)を用いて定着させた。100年後の異郷に 住む人間は、そうしたマーラーの志向を継承し、今、ここでの展望から、更には未来のポスト・ヒューマンの展望から、かつて「魂」と呼ばれたものや「精神」と 呼ばれたものを改めて定義しなおし、「霊魂の不滅」を別の仕方で扱うことができるし、そうすべきなのだ。マーラーの音楽はそうした不断の、終りなき 活動への誘いなのである。

その一方でマーラーの音楽は暴力的な世界に対する徹底的な覚醒を強いることはない。「お休み」と言うことはここでならまだ許されているのだ。 ここでは回想だけではなく、眠りにより意識の中断すら許容される。主観性の擁護は、無意識的なものの排除を意味しない。 そしてそういうマーラーの音楽は意識的な主体の限界を超えた奥の部屋からの声を 聴き取るように誘う(「おお、人よ、注意せよ!」)のであり、三輪眞弘さんの言う「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた 内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」なのであって、それゆえ100年の隔たりを経た後、今なお、それに感動することができるし、 GWの余暇のための単なる「イケテナイ娯楽」ではない何かであり続けるのだし、それゆえ、どんなに拙いものであったとしても、その音楽に自分なりに 応答するための時間を贈与すべき対象なのだ。その音楽を擁護するという行為そのものによってさえ、かつまた卑小で無価値な私のような聴き手さえもが、 自分に勝りたるもの、自分の有限の生命と取るに足らない能力が能くしうる限界を遥かに超えた価値、最早人間の概念が止揚されるような場、もはや 私のままでは関与できないようなものにコミットし、寄与することを確信できるような何かをマーラーの音楽は備えている。人間的な意味づけの擁護、 主観性の擁護を介して、それを徹底することによって人間的な意味づけからの解放を希求する動きこそ、マーラーの音楽の備えるもっとも基本的な 志向なのだ。そして私はそのことを、自分のマーラーの聴経験に照らしてここに証言し、かつそうしたマーラーの音楽とともにあることをここに証言する。 (2012.4.30/5.1初稿, 2021.6.24,29加筆修正)