マーラーの音楽が新ウィーン楽派以降、20世紀の音楽において、どのように受容されてきたかを俯瞰した文章を
改めて読み返し、20世紀の音楽そのものを思い起こし、その上でマーラーの音楽における最も重要と自分が考えてきた
側面を改めて振り返ってみると、何故、マーラーの音楽を過去のものとして用済みにできないのか、それ以前の音楽にも、
その後の音楽にも私が見出せない、そればかりか、音楽以外のものに見出せず、それゆえ繰り返しマーラーの音楽に
立ち戻らずにはいられない理由に思い当たる。そしてマーラーを聴き始めた35年前の中学生になったばかりの自分には
ただちに自覚できたわけではないにせよ、程なくして関心の領域として自ら設定した枠組みが、結局のところその理由と
正確に対応することに改めて気付くことになる。約10ヶ月近い中断を経て、改めてマーラーの音楽に立ち戻った途端に、
突然、自分がしてきたことを基底で支えているものが何であるかについて気付かされることになる。あるいはそれは、
かつてはあまりに当然のことであり、そのこと自体を自覚的に確認するまでもなかっただけかも知れないという気はする。
けれども、今までかならずしも明確に意識していなかった自分の行動の理由が突然、自分自身にとって明らかになったには
違いない。あるいはまた、時間が経つにつれ、驚愕の感覚は薄れ、一体全体当たり前のことに何を驚いていたものかと
呆れることになるのかも知れないが、今はその驚きに忠実に、浮かび上がった構図を記録しておくことにしよう。
マーラーの音楽を特徴づけるものは何かについては、勿論のこと、立場によって色々な見方が可能であろう。
しかし、20世紀の音楽は、マーラーの音楽の中に、とりわけても空間的な側面での創意を認めてきたと言えるのでは
なかろうか。マーラーの楽譜の指示の中に、空間的なパラメータに関するものが見られることは、しばしば指摘されてきた。
改めて指摘するまでもないだろうが、例えば遠くから聞こえるようにオフ・ステージ(多くの場合舞台裏)で演奏が指示される
第2交響曲の第5楽章におけるバンダ、やはりオーケストラ本体とは離れたオフ・ステージ(こちらは客席の高い位置が
多いようだ)で演奏する指定がある第8交響曲の金管の別働隊、これも舞台裏での演奏指示がある第3交響曲第1楽章の
主題展開部末尾の小太鼓、同じく第3交響曲第3楽章中間部のポストホルン、更には高いところに配置するよう指定される
第3交響曲の独唱、女声合唱、児童合唱と鐘、ステージでの演奏と舞台裏での演奏の使い分けが為される第6交響曲や
第7交響曲のカウベルなどが直ちに思い浮かぶ。当時は対抗配置であった第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンのパートの
掛け合いもまたコンサートホールでの空間的な効果を狙ったもので、第1交響曲の突破の直前のクレシェンドにおいて第2ヴァイオリンの
パートのみクレシェンドをしない指示をしたり、第6交響曲のアンダンテ楽章でもパート間での強弱のコントラストの効果を狙ったりと、
例示を試みれば枚挙に暇がない。
舞台裏のオーケストラは「嘆きの歌」の初期形態に既に構想されていたし、第1交響曲の
序奏のトランペットのファンファーレも「遠くから」響くように指示される。ミュートを使わないホルンとミュートを使ったホルンの
呼び交わしよって、恰もこだまが返ってくるような効果を意図した第7交響曲の第1夜曲(第2楽章)や第5交響曲第3楽章の
中間部分、ミュートされたトランペットのファンファーレをフルートが引き継ぐことで、恰も霧の彼方に音源が去っていくかの効果を企図した
第5交響曲第1楽章の葬送行進曲の末尾のように、音色の変化による空間的な奥行きの表現を狙った例を
挙げることもできるだろう。あるいは演奏指示として「遠くから」という指定が為される場合もある。何よりも、第1交響曲の
第1楽章の冒頭の序奏は「自然の音のように」という指示がなされ、弦楽器群のフラジオレットのA音が数オクターブに
渡って広げられ、アドルノの言うところの「カーテン」を形成する。ファンファーレはカーテンの向こう側から聞こえてくるという仕掛に
なっていて、そのファンファーレは再現部の冒頭の「突破/発現(Druchbruch)」の箇所では、文字通り前面に突破して
発現することになる。
こうした空間性の導入は、例えばリゲティが注目して指摘を行っているが、そのリゲティは自作において、直接的な
影響を示す「ロンターノ」のみならず、空間性についての関心をずっと持ち続けたことは良く知られている。
だが、空間性というのはそうした直接的なケースに留まらない。例えば、これまたマーラーの音楽の特徴とされる
通俗的な素材の引用やコラージュ的な素材の重ね合わせも空間的な多層性を惹き起こすし、マーラーの作曲法の
基本にある対位法的・線的な発想は、やはり多層性や空間的な広がりをもたらすことになる。
舞台裏での演奏指示の例として掲げた第3交響曲第1楽章の展開部末尾の舞台裏の小太鼓は、
舞台の低弦のピチカートとは無関係の、独立のテンポで叩くことが求められており、複数のテンポが並行する部分としても
著名であろう。更に第6交響曲フィナーレのハンマーや低音の鐘、第7交響曲フィナーレの金属の棒、あるいは両者で
用いられるカウベルなど、調律されていない打楽器の利用、非楽音的・雑音的な音響の導入もまた空間的な質の多様性、
重層性をもたらしていると考えることができるだろう。雑音的な音響ということで言えば、コル・レーニョ(例えば第7交響曲の
第2楽章)や絃を指板に当てる、所謂バルトーク・ピチカート(第7交響曲の第3楽章)、ハープにおけるMediatorの指定
(第6交響曲のフィナーレ)といった特殊奏法や、管弦楽法の通則に逆らうような、鳴りにくい音域を敢えて用いる楽器法
(思いつくままに幾つか例を挙げれば、ファゴットの高音域での使用、フルートの低音域での使用、コントラバスのソロが
主旋律を弾く第1交響曲の第3楽章など、これも幾らでも続けることが出来よう)は調律されない楽器の導入とともに、
ラッヘンマンの「楽器によるミュージック・コンクレート」や通常の奏法をパラメータの一部にしてしまうような特殊奏法による
音色のパレットの大幅な拡張に通じていくと同時に、そのような奏法によって、これまた西欧音楽における規範であった
ムラのない均質で大きな音に対して、非西欧的な音楽が重視するような、所謂「サワリ」のある音を引き出し、
奏者の息遣いを含めた身体性を浮かび上がらせる方向性に通じていく。
考えようによっては第4交響曲第2楽章の独奏ヴァイオリンのスコルダトゥーラもまた、音色の多様化とともに、
微妙な音律のずれの効果によるヘテロフォニー的な空間的な滲みを狙っていると考えることもできるだろう。
第4交響曲第1楽章のフルート4本によるアドルノ言うところの「夢のオカリナ」もまた、4本のフルートの重ね合わせによる
音色の変化は当然のこととして、同様にヘテロフォニーに通じる着想を見出すことができるのかも知れない。
ヴァイオリンの高音域とコントラバス、コントラファゴットのみによる第9交響曲のフィナーレに見られる対位法、
更には第10交響曲のアダージョ楽章でも聴かれる音が漂う虚空を浮かび上がらせるような対位法もまた、
空間的な処理の一例と考えることができるだろう。
実際、再びリゲティを引き合いに出せば、雑音と楽音のあいだの音の探求は既に初期において
明確だし、異なる音律の並存、異なるテンポの並存といった試みは晩年の作品において顕著であり、
しかもそれらはリゲティ独自の音楽的空間についての考え方の作品上でのリアライズなのである。
「擬似空間」、「時間流の空間化」といった用語から窺えるように、リゲティの作品では音楽作品を「想像上の空間」を
産み出すものと見做す傾向が強く、また「網状組織」や「複数の中心」といった用語から窺えるように、
多層的で複数のパーステクティブを備え、奥行きを持った空間を音響的に実現しようとする志向が見られる。
のみならず、リゲティは作品を静的なオブジェとして見做す傾向が強く、音楽の時間軸上の展開は、プロセスが
非常に緩慢にしか推移しない初期のミクロポリフォニー的な作品だけでなく、後期の作品においても目的をもった
発展というよりは、予め静的に定められた規則を時間軸上に広げて提示するという側面が強いようだ。
だがこうした空間性の重視は、寧ろそうした側面を引き出す20世紀の音楽の側の事情を物語っているとも
考えられる。調性が崩壊した挙句、機能和声を放棄することによって楽曲を構成する原理のうち、時間方向の
展開の最も基本的な手段が喪われることによって、20世紀の音楽は音楽を別の原理で支える必要性に
迫られる。音色の次元の拡張や空間性はそうした要求に応えるものであったと見做すことができるだろう。
だが、音楽が時間的な延長を持たざるを得ない以上、時間的な経過を扱う方法が必要とされることには
変わりがない。合成和音のシステムやスペクトル楽派は時間軸については何の解決も与えないし、クセナキス的な
篩のシステムによる音階の構成の一般化や集合論や群論による構造の規定もまた、いみじくもクセナキスが
そう語るように、時間外構造をしか規定しない。12音技法は順序を原理として持つ点でいわゆる時間内構造を
規定しうるが、それは貧弱な順序構造以上の複雑な構造を組み立てることはできないゆえ、巨視的な
形式構造として、バロックや古典の形式を使い続けることによって支えるしかない。12音が一巡り鳴ったら
それで終りというミニアチュア形式を導くヴェーベルンの直観の方が寧ろ理に適っているのだ。クセナキスは
確率によって音の継起の頻度や密度を確率的に制御しようとするが、微視的な構造については何も規定しない
がゆえに具体的な細部は作曲者の直観によって選択・決定されるしかない。ミニマリスムの反復の手法や
フラクタル幾何学の援用、無限列の利用やオートマトンの導入は力学系的な発想であるから時間方向の発展の
原理ではあるけれど、ゆらぎを与えたところで単一の法則での音の制御は単純な時間構造しかもたらさないし、
幾つかの法則を単に重ねたところで、先行する西欧音楽の歴史が築き上げた複雑で豊かな構造に比べたとき、
貧弱な結果しか齎さないように見える。制御するパラメータを演奏や聴取の限界まで、あるいは限界を超えて増やし、
細部をもはや聞き取れないほど複雑にしてみても、生物学的な進化の速度に従うほかない保守的な人間の
知覚様式は、そこに混沌と無秩序をしか見出さないという結果を招きかねない。
一方で工芸的な組立て・構築を放棄し、サウンド・スケープのように伝統的な意味合いでは非音楽的な音環境に
おける音響イベントの継起をそのまま受け入れて聞き入ることや、メシアンのように神学的な意図も手伝って
それ自体は永遠に反復可能なある持続によって楽曲を形作り、そうしたブロックをパネルを並べるように複数併置することで
楽曲を構成する試みもあるが、それらの聴取の経験はプロセスの動性よりも、寧ろ静的な印象が強い。
フェルドマンのある時期以降の音楽の数時間にわたる長大な持続は、寧ろ時間の観念を変容させ、廃棄に
追い込んで、不動の塊と化した時間のオブジェの出現をもたらすし、ミクロポリフォニーの知覚の限界に挑むようなゆっくりとした
推移もまた、想像上の空間に時間を変換したインスタレーションの趣きがある。クセナキスがある時期から
用いた樹形曲線、リゲティにおけるフラクタル幾何学の時間構造への適用も、その着想は空間的であり、
時間方向の持続は、空間を描くために一巡りするために必要とされる時間に過ぎず、結局のところ、そこでは何も
新奇な出来事は起こらない。神学的な永遠性であれ、ガジェット的なオブジェであれ、静的で閉じた作品であるか、
プロセスを重視するかはあるが、いずれにしても音楽はどこかに向かうことを止めてしまい、聴き手をどこかに誘う
目的論的なベクトル性を喪ってしまっているように見える。音楽社会学のような領域では、そうした傾向を
20世紀の社会が持つ構造が定着されたものであると見做されるのであろうし、そこには目的論的な強制に対する
プロテスト、管理された時間を逃れ、アナーキーで自由な時間を取り戻そうとするイデオロギー的な選択が
働いているのかも知れない。
約半世紀程前にマーラーの生誕100年が祝われてからこちら、マーラーの音楽はダールハウスも指摘しているように、
かつての世界観音楽としてではなく、ようやく絶対音楽として聴かれるようになった。そうした文脈においてはヴィスコンティの映画の
BGMとして第5交響曲の第4楽章が用いられることは、マーラーの流行にとって少なからぬ効果を持ったとはいえ、
そうした絶対音楽としての受容の流れに対する伝記主義的逆行、「悪しき19世紀の残滓」であると見做されたものだ。
しかしその後、絶対音楽としてのマーラーの受容は、
今度は単なるサウンドの消費、音響体としての音色の多彩さや詳細を極める演奏指示を如何に忠実にリアライズするかといった
ディティールのみで評価が決まるような兆候を帯びるようになる。もっともこうした傾向は高橋悠治さんが1970年代前半に
既に指摘しているように、別にマーラーに限ったものではなく、LPやCDのように何度も好きなところで止めて繰り返し
再生できるメディアの発達と、テレビ番組の放映においては時間枠に区切られ、
更にはコマーシャルで断ち切られるといったように細切れに分解されて提示され、最早そうした事態に驚きさえしなくなるといった
状況とがドラマを成立させる時間の構造を解体させていく過程の一サンプルに過ぎないのだろう。
音楽的時間をテンポの変化の大きさという尺度に還元して演奏様式を
比較するといった試みがマーラーの第4交響曲の録音に対して行われたのは、そうした潮流を考えれば自然な成り行き
であったと言えるのかも知れない。勿論、そうした切り口での分析自体に価値がないわけではないのだが、それで音楽に
おける時間の次元が汲み尽くされたかのような様相を呈するとしたら、それはやはりマーラーの音楽的時間、
アドルノが性格的要素として「発現/突破」「停滞/一時止揚」「充足」、あるいは「崩壊」といったカテゴリーを
用いて言い当てようとした実質は大きく損なわれてしまったという印象は拭い難いし、その隣でマーラーの音楽の
サウンドスケープといったテーマが論じられるのだとしたら、そうした光景はマーラーの音楽の空間的な側面の重視が、
時間的な側面の縮退・単純化と引き換えであることを示しており、それは20世紀後半という時代の特質を反映した
ものだということなのだろう。
それに対する評価はおくとして、バブルの時代のおぞましいまでのマーラーの流行は、自らを正当化する「マーラーの時代が来た」という
極めて都合の良い御誂え向きのキャッチコピーのもと、録音メディアや放送メディアの媒介などなかったかの如く、バブルの恩恵で
次々と建設されるコンサートホールの杮落としに因んでマーラーの交響曲の連続演奏会が同時にあちらこちらで行われるという異様な熱狂
(もっともこれもまた、マーラーの音楽に限定された現象ではなく、ベートーヴェンの交響曲を順番に全て演奏していく
マラソンコンサートなどのような近年の現象と通じているだろう)と、到底きちんとは聴ききれないのではないかと思われるような
膨大なコレクションを個人のものにすることを可能にした際限のない交響曲全集のCDのリリース(こちらも同様に、マーラーだけの
現象でも交響曲というジャンルに固有の現象でもなく、ネットワークからのダウンロード配信への過渡期にあたる今日では、
様々な切り口でのCDのボックスセット化による過去の音源の叩き売りの企画は当たり前の風景になったかのようだ)との氾濫の中、
既に古びたメディアである映画のBGMでは最早不足とばかりにマーラーを切り刻んで数十秒のCMの中に押し込み、
果ては「着メロ」としてパーソナライズするまでに至る時間の平板化と断片化による時間構造の解体のプロセスであったと言えるかも知れない。
少なくとも私個人に限って言えば、そうした傾向に耐え難いものを感じ、一時期マーラーの音楽を聴くことを全く止めることを
余儀なくされたほどであったが、今こうして振り返ってみれば、自分が一体何に耐え難さを感じていて、その時は明確な認識には至らないまでも、
何を予感してそうした行動をとったのか、わかるような気がする。それは単にマーラーの音楽という対象の本質の破壊ではない。
マーラーの音楽によって自己を形成した私にとって、それは自分自身の破壊に繋がる側面を持っていたのだ。
そうしたマーラー後の音楽やらマーラーの音楽の受容やらが地層のように累積した厚みを通してマーラーの音楽を改めて
眺めたときに、それが反動的なものであるかどうかはおくとして、その後喪われてしまい、そして今日の世界では取り戻すことのできない、
かつての時間的な構造への渇きのようなものを癒す対象としてマーラーの音楽に向かっている自分を発見することになる。
上述のようにマーラーの音楽は20世紀の、色々な意味で空間的な音楽に対する前駆、先蹤として様々なヒントを
与えるような側面があったのは確かだが、マーラーの音楽は本来、優れた意味で時間的な側面の強いものであった筈である。
基本的にロマン派の音楽であるマーラーの音楽こそは、優れて意識の音楽であり、意識の時間的な変容のプロセスを
作品として提示するものであるはずだ。巨視的な形式において機械的な反復、再現を嫌うマーラーの音楽の経過は
不可逆的であり、アドルノによって長編小説に譬えられたその構造は、聴き手を全く別の風景へと導く。
主題の再現とて、単なる繰り返しではなく、再現までに経過した時間の厚みを感じさせ、まさにそれが「再現」であって、
元のものとは異なるものであることを告げる。部分的に無調的な旋律が含まれ、伝統的なカデンツからは逸脱しながらも、
全音階的な発想を捨てなかったマーラーは、その代わりにかつての調性格論にも比せられる調性毎の固有で置換不可能な
質を保持し、楽章間の調的な配置の関係によって複数の層の関係を示し、発展的調性によって音楽がどこに向かうのかを
曖昧さなく示すことができる。それは主観的・心理的な時間であるとともに、意識的な活動に限定されず、意識の奥底で
働く無意識の活動の反映でもあるし、ヘーゲル的な「世の成り行き」の容赦なさでもある。調的な音楽の軌道が描く
力学系的な遍歴は、まさに世界と関わる意識の時間性の遍歴に他ならない。そしてこうした事態は、
それ以前のロマン派音楽でも兆候としては見られたものの、マーラーにおけるほどクリティカルな問題として前景に
出ることはなかったし、マーラー以後の音楽がそうした事態に背を向けてしまったことは既に見たとおりである。
万物は流転するという認識を
人間的な尺度の限界の内部での認識であると嘲笑し、今こそ世界の人間的な意味づけからの訣別が必要だと
言い立てることは容易だが、己の認識の檻の外部に端的に出ることが出来るというのは、それ自体が意識の浅薄な
思いなしによる独断論のまどろみの中での寝言に過ぎないかも知れないことに対して、そうした姿勢はあまりに
無頓着ではないか。そうした思いなしがあまりに観念的で抽象的なものであり、現実に対して力を持ちえずに結局
ノスタルジーへの退却し、自閉せざるを得なかった歴史に対し、それはあまりに盲目であるか、さもなくば開き直っているのだと
しか思えない。そうした態度は、空を飛ぶことができると頑なに主張し、だが実際にやってみろと促されれば一歩も
踏み出すことのできない観念ばかりが肥大した100年前のアヴァンギャルドと変わるところがない。
よくあることではあるし、とりわけマーラーの周囲でも
頻繁に起きていることではあるけれど、歴史を語り、過去の音楽のおかれた文脈に関する知識を披瀝しつつ、だが
そうして語っている自分が拘束されている現実との距離感の感覚は欠如していて、まるで骨董品の来歴を語る
好事家のごとき趣味的な態度は、過去の異郷の音楽を今日引き受けることの必要性と切実さを些かも明らかにしない
ばかりか、蒙昧化にしかなっていない。勿論、今日の状況でマーラーのような音楽を書くことは端的に不可能に違いない。
そしてそうした不可能性に直面し、そうした事態から目を逸らすことなく誠実に状況に向き合っている作曲家の例を私は
具体的に身近に知っているし、そうした試みが自分の同時代に、すぐ近くで行われていることに勇気付けられもしている。
そうした活動を目の当たりにして感じることは、おかれている状況に応じ、選択される手段は違い、実現される作品の相貌も
全く異なるが、そうした活動の方が自分の置かれている位置の方は等閑視したままマーラーについて新規さを装った
主張をするような態度やマーラーの音楽を引用する姿勢により己の立場の限界を露呈するような態度よりも、
かつてマーラーが己の状況の中で取り組んだ企図と姿勢をよりよく継承しているということだ。結局のところ、時代を隔てた
作曲家の営みの距離を、表面的な様式上の影響関係やら引用によって単純に測ることはできない。今ここで確認できる
そうした関係は結局のところマーラーを利用する側の思惑をしか示さないし、マーラーをどのようなものとして扱いたいかを
語ることによって、そうやって扱う側の志向が炙り出されるばかりであって、マーラーが為そうとしたこと、その志向の方はといえば、
今日では100年間の間に起きた状況の変化に応じ、全く別の仕方で為されていると考えるべきなのだ。
21世紀になって、1000年に一度と言われる未曾有の地震と津波の災害に襲われ、更にはその結果として
原子力発電所の災害が発生し、その影響が人間の尺度で言えば単一の個体の寿命を超えかねないような
事態に遭遇した今、尚マーラーの音楽を聴き続けることの意義、マーラーの楽譜を調べ、その作品の構造を自分の聴経験と突合せる作業を
続けることの意義は、だから私の場合には明らかである。要するに、端的に言ってマーラーの音楽にしか見出せないような
時間的な構造があり、マーラーの音楽にしかないような世界への態度、世界に対する姿勢があるのだ。それは主観性の
擁護の音楽であり、これまた価値判断は様々だろうが、或る種の主体の構造、意識と無意識と身体性との複合的な
様相がそこでは示されていて、しかもそれは他では代替が利かないもののようなのだ。
単にお前はその音楽によって自己の
回路を形成してしまったから、その音楽から逃れられないのだ、それは全く一般性を欠いていて、お前の個別的な問題に
過ぎないのだという批判に対しては私は抗弁すまいと思う。実際それはその通りだからだ。ジュリアン・ジェインズが素描したように、
もともと可塑的な脳の回路の構築の仕方の一つに過ぎない意識のあり方は時代と場所により、そしてそこでの社会的・文化的な
環境によって変化していくものに違いない。
私が生きている間には実現しないかも知れないが、ポスト・ヒューマン思想の
論者が語るように、近い将来に特異点に到達し、意識のあり方のみならず、「精神」「魂」の定義自体が変わってしまい、
例えば「魂の不死性」のような考え方が、空想的な観念の裡の霞のかかった妄想としてではなく、徹底的に唯物論的な
技術的な手段のブレイクスルー(遺伝子工学やナノ・テクノロジー、人工知能的なロボット研究などの今後の進展が
それを可能にするのだが)を通じて、全く別の意味合いを帯びて、紛れもない現実になる可能性だってあるかも知れないのだ。
「人間」概念自体が拡張され、現在とは似ても似つかないものに変容しうるのだとしたら、世界の人間的な意味づけの
実質もまた変わるだろう。
だが結局のところどこまでいっても、「人間」という概念をまるごと廃棄するのであればともかく、そうでなければ
「人間的な意味づけ」を逃れることなど出来はすまい。一見、非人間的に感じられ、そう見做されるかもしれない暴力的な
現実もまた、それ自体「人間的な意味づけ」が為されたものでしかないのだ。
例えば一方で三輪眞弘さんの言う「コンピュータ語族」としての、機械とのシステムの中に埋め込まれた人間が居て、
他方では他の生物、とりわけ動物と人間の境界が問題にされ、永らく倫理学における暗黙の前提であった人格概念の
見直しが行われつつある中でマーラーの音楽で語られていることを振り返ってみれば、控えめに言ってもマーラーがナイーブな
人間中心主義、人間を絶対的な基準とおくような発想からは遠かったことは明らかなことに思われる。そして例えば第8交響曲を
まるでピタゴラス派の天球の音楽の復興であるかの如く、惑星や恒星の運動に譬えたマーラーの企図を、作品そのものの実質もまた
決して裏切らない。全体が「突破/発現」の瞬間であるかの如きこの作品の持つ独特の時間性は、移ろいゆくものとしての
人間を超出する仮想的な視点からの展望であるかのようではないか。
無論のことマーラーの音楽を聴き続けることが、上述のような未来の展望を無条件に保証するわけではない。更に言えば、
自分が生きている間に実現しそうもない変革など結局のところ切実な問題たりえないし、よしんばそうした側面に対して、
個人的な事情から技術的、哲学的に多少の関心や利害があったところで、実際のところ、卑小なばかりか、消耗しつくして
病んでいる現在の私にとって、上述のような問題意識は手に余る。私は単に「世の成り行き」の中で落伍しそうになっている自分を、
手を広げて迎えてくれる音楽を求めているだけなのだろう。音楽をムーディーに消費するばかりの私のような存在にとって、
20世紀の様々な音楽のほとんどは、とりわけそれが産み出されたプロセスや文脈を離れ、オブジェとして対峙したとき、
それ自体が閉塞の反映であり、己を取り囲む状況の閉塞を確認させられて抱えているストレスを昂進させるばかりだし、
マーラー以前の音楽の方は、現実がこうなる以前の状況を記憶する媒体としてノスタルジーの対象となり、
一時の休息と慰藉を与えてくれるものではあっても、そしてそれは身体的にもメンタルにも危機的な状況にある人間にとって
ある時期には必要なものであっても、再び現実に戻り、「世の成り行き」の中に自分を投じる勇気を与えてくれるものではないのだ。
マーラーの音楽はかくして三輪眞弘さんの活動とともに今の私にとってかけがえのないものであるのだが、
その理由を問われれば、マーラーの場合には、その音楽が持つ時間的な構造、そこでの主体の遍歴の不可逆性によるのだと答えることになるだろう。
その音楽は、自由を奪われた幽霊達の隊列に私もまた加わるように誘うのだ。自分が幽霊ではないと感じる人にとってはこの音楽は全く不要なものだろうから、
こうした状況を一般化するつもりは全くない。これが極めて個別的な状況であることを認めた上で、それだけに自分にとっては
切実なものなのであることは繰り返し強調しておきたい。そういう人間にも居場所があってもいいではないか。
そういう人間にも声が与えられもいいではないか。マーラーの音楽はそういう人間の代弁者なのだ。(2012.5.2)
0 件のコメント:
コメントを投稿