お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2011年4月29日金曜日

「生きるという甘美な習慣」(süßer Gewohnheiten des Daseins)

マーラー生誕150年のアニヴァーサリーの昨年に引き続き、今度は没後100年のアニヴァーサリーの今年は、だが日本の歴史上では、史上最大級の地震に 見舞われた年として記憶されることになるだろう。昨年に引き続き、アニヴァーサリーを意識してか、マーラーに関連する雑誌の特集やら書籍の出版は 行われており、マーラーに因んだ映画の公開も予定されているようだが、その一方で3月11日の震災以降、いわゆる「芸術」活動への影響も決して小さくはなく、 私がコミットしていて、かつマーラーに関連する例を一つだけ挙げれば、会場として予定されていたコンサートホール、ミューザ川崎の被災により、 ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの第9交響曲の演奏会が1年延期になっている。その一方で、己の内部になる音楽が変わってしまったり、 あるいは音楽を聴いても感動できなくなったりすることもありえるだろうし、心の中に鳴り響く音楽がその人を支えることもありえるだろう。そうした最中にあって 音楽が娯楽だから自粛する、あるいは心を癒すから自粛すべきでないという議論は音楽がなお可能であるということを疑ってみることもせずに暗黙の 前提とした論理を備えていることがあからさまであり、音楽が必要とされなくなる、必要なのに音楽を演奏したり享受したりすることができないといった 状況からずれたものに感じられてならず、あるいはまた恰も自分が論じている作品や作曲家の価値が自明であり、自説や自分の解釈を開陳することに 終始するかに見えるマーラーを巡る状況にも強い違和感を覚えずにはいられない。

2011年3月11日の地震の日、私は自宅に帰らずに都心にある勤務先のオフィスに留まり、翌3/12の朝、復旧した電車に乗って帰宅した。 週明けの3月14日には今度は「計画停電」と称する突然の電力供給制限の実施のせいで運休を余儀なくされた交通機関の麻痺により、 出勤ができなくなった。それから1ヶ月が経過し、幸いにして私の周辺ではようやく日常が戻りつつあるものの、一旦損なわれた生活は恐らくは 完全に元に戻りはしないだろうし、この状態に明確な終りなどなく、最初は異常と感じられた様々な事象にも何時しか馴化してしまい、 日常の風景に溶け込んでしまうこともあろう。マーラーの音楽はそうした中で、だが確実に自分の内側で響いていた。例えば早朝の通勤の途上、 人影のまだほとんどない都心を歩いている最中、心のうちには第9交響曲の第1楽章が鳴り響き、そこから湧き出してくるものに導かれるように、 後押しされるような感覚に囚われることが幾度となくあった。そうした中、Webページの更新も別段自粛していたわけではなく、 仕事の関係もあって間接的ではあるけれど震災復興に従事する方々のお手伝いをしていたがため時間が全く取れずに断念してきたのだが、 ようやく一段落した時にふと思い浮かんだのが、この文章のタイトルとして掲げたマーラーの言葉であった。

この言葉は1909年の初めにニューヨークからヴァルター宛に書かれた日付のない書簡中に出てくる(1996年版書簡集では404番)のだが、書簡の方は 名宛人であったヴァルター自身がマーラーについてのモノグラフの中で言及して以来、この時期のマーラーの心境を告げる文章として 繰り返し引用されてきた非常に有名なものであり、私自身、以前に「語録」の項で取り上げたことがあるので、そこで書いたことは繰り返さない。

特に取り上げる上記の言葉は原文では ( in allen ) » süßer Gewohnheiten des Daseins « であり、だから括弧は私が付加したのではなく、 マーラー自身がつけたものである。色々なところで引用される際の日本語訳を調べてみるとかなりばらつきがあることがわかり、それはそれで興味 深いがここで逐一取り上げることはせず、私がここで示した訳は、そうした様々な訳と比べれば、いわゆる直訳と言われるタイプに属するであろうと いう点の指摘に留めることにしよう。マーラーが括弧をつけたのは、何かの引用であることを示している可能性はあるだろうが、原典について 言及した記述は管見では見当たらなかった。簡単に調べた限りでは、恐らくマーラーの愛読書であったE.T.A.Hoffmannの Lebensansichten des Katers Murr(「牡猫ムルの人生観」)のErster Band, Erster Abschnitt "Gefühle des Daseins. Die Monate der Jugend."の冒頭、 Es ist doch etwas Schönes, Herrliches, Erhabenes um das Leben! – »O du süße Gewohnheit des Daseins!« ruft jener niederländische Held in der Tragödie aus." がその出典に違いない。ここで言及されている「悲劇の主人公」とは、これまたマーラーの愛読書であったゲーテの「エグモント」であるが、対応する第5幕2場では やや違った形で出てくる。"Süßes Leben! schöne freundliche Gewohnheit des Daseins und Wirkens!")

だが出典が何であれ、括弧つきで繰り返し用いられているこの言葉は、第9交響曲に浸透している 情調と如何にも親和的に感じられ、また、震災とその後の混乱を経た後の私自身の思いと強く響きあうものを感じずにはいられない。 "Mich selbst finde ich jeden Tag unwichitiger, kann es aber oft nicht begreifen, daß nab im täglichen Leben doch seinen alten gewohnten Trott weitergeht - in allen » süßer Gewohnheiten des Daseins. «" というマーラーの述懐は、それ自体は平凡な私のような人間にもわかるもので ありながら、その背後に響く音楽によって比類ない仕方でもってその認識に伴う「感じ」の記憶を定着させ、ふとそれに耳を澄ます時代も場所も 隔たった他者の裡に再現するのだ。

更にもう一点、同じ書簡の少し先で(これまたヴァルターが引用している部分だが)、Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? と問いかけていることにも触れずにはいられない。第3交響曲のタイトルよろしくここでもマーラーは自分を主体の位置に置かず、自分の内なる 何者かを主体の位置においているが、それは上記の Gewohnheit という単語と勿論対応しているに違いない。否、そのようにGewohnheitを 捉える視点こそが、第9交響曲のあの音調を可能にしているのだ。それゆえシェーンベルクが後にプラハ講演で第9交響曲に関して指摘する、 "In ihr spricht der Autor kaum mehr als Subjekt. Fast sieht es aus, als ob es für dieses Werk noch einen verborgenen Autor gebe, der Mahler bloß als Sprachrohr benützt hat."という消息にこの言葉は繋がっていく。

己の内なる他者の声に耳を澄ます姿勢はマーラーにあって(どこまでそれについて意識的であったかについてはおくとして、その姿勢そのものは) 一貫したものであったと私には思える。だが» süßer Gewohnheiten des Daseins «という認識自体は、マーラーが人生の危機、 それまでに経験したどれよりも大きな危機を経て獲得したものであり、危機を克服した後にそうした認識を芸術に定着させることができたことに 私は畏敬の念を覚えずにはいられない。客観的にはどうであれ、マーラー自身にとってそれは大きな危機だったに 違いないし、その経験を過ぎ越すことによってマーラーが獲得した認識の主観的な質や重みを、神話の解体や偶像破壊よろしく軽んじるような論調に 与することはできない。確かにマーラーはその時に自分の余命がいくばくもないとは考えていなかっただろうが、だからといってマーラーが己の有限性に ついてそれ以前とは質的に異なった認識に達しなかったことにはならないし、彼が獲得した認識がどんなものであるかは、その後の彼の音楽を 聴けば明らかなことではなかろうか。それはまたアルバン・ベルクが後に妻となるヘレーネに宛てた手紙に第9交響曲第1楽章について記した言葉とも 共鳴する。勿論、書簡でヴァルターへの語りかけに仮託しつつマーラー自身が自問しているように「生きるという甘美な習慣」は両義的なものだが、 そうした両義性に対する意識こそ、第9交響曲のあの不思議な、これ一度限りの(アドルノの言葉を借りれば「唯名論的」な)楽章配置の 構想に対応している。中間楽章でハ長調・イ短調という調性は、»Gewohnheiten des Daseins «の「世の成り行き」としての側面を、アクセントを 変えて提示するし、それらを囲繞する両端楽章のうち第1楽章のニ長調の色彩と光の調子は、きっとどこかで第10交響曲フィナーレのあの、最早どこで 鳴っているのか言い当てることができないようなユートピア的なニ長調に繋がっているし、半音下がった変ニ長調のフィナーレは茜色に染まって 漂ったまま静寂と薄明の中に溶け込んでしまい、決して元には戻らない。この音楽を順応的に感受する(ホワイトヘッド的な意味合いで)ことに よって聴き手が自分の中に形成するものの重みは、文化史的な背景への還元など受け付けないし、陳腐な標題についての議論やら 「人生」と「芸術」の単純化された関係図式の中をうろつきまわるだけの論争とも無縁のものだ。作品から自分が受け取ったものを作品の作者に 押し付けることも、そうして形成された「神話」の虚構性を告発し、事実をもって否定するかの身振りも、「作品」や「作者」の存在論的身分に ついて些かの疑いを抱くこともなく自らこそが「真理」に辿り着く特権を有しているのだという思い込みの下、所詮は同じ土俵の上で自分の観点の 押し売りをしているに過ぎないように思えてならない。

というわけで、2年続きのアニヴァーサリーの最中、それに因んで編まれた雑誌の特集に目を通しても、映画のリブレットを読んでみても、 何か奇妙に視界がずれているようにしか感じられない。そして震災とその後の時期を経て改めて感じたのはそうした違和感が 寧ろ深まったことだった。同じ対象を相手にしている筈でありながら認識を共有できないこと自体は日常的に色々な場面で多少なりとも 起きていることで、それ自体は驚くに足らないのかも知れない。だが「生きるという甘美な習慣」という言葉を書簡に書き付けた人間とその人間の書いた音楽の 場所と、それらについて解釈し、語っている筈の場所が全く重なり合わず、しかも後者こそが今・ここの近傍である筈なのに接点を見出すことが できなさそうに感じられるのは一種異様な感覚である。神話の解体や偶像破壊の名の下に一体そこで断罪されようとしているものは実際には何者で、 厄払いの後に残るものは一体何なのか。そこで救い出され、あるいは見出されたと主張されるものについてはどうか、少なくとも私にはわからない。 幽霊を追放し、抹殺する(だが、そもそも幽霊に対してそれは可能なのだろうか)ことにより顕わになる実体が本当にあるのだろうか。あるいはまた、 フィクションを隠れ蓑にして幽霊の代理を演じさせ、それを撮影して撒き散らすことがもたらす結果についての責任はどうなのか。先立つかつての アニヴァーサリーの折にあった類似の事象に対してはそれなりの正当な異議申し立てが為されたものであったが、このたびは時効により免責というわけか。 アニヴァーサリーが刻みつける時間の隔たりを介し、その隔たりそのものに他ならない地平の変容、技術がもたらした時空の遠近法のドラスティックな変化の影響下で、 まるでそんな変容には無頓着に、だがその実そうした変容のもたらした結果に最大限依存しつつ、幽霊の幽霊性を都合良く忘却し隠蔽すること、 自分の用意したフィクションに取り込んでしまうことによって幽霊を厄払いし、隔離して閉じ込めることは、だが、しかしそうした営みが自閉する地平の外には 出ることはないだろう。そのようにしたところで幽霊と会話することを学ぶことなどできないのだから。

それゆえそうした歪んだ遠近感の支配する空間の中で、だがそんな歪みなどお構い無しに、自分が会ったこともない過去の異郷の音楽家の 「生きるという甘美な習慣」という言葉の背後にある認識が、その認識と隣り合わせに書かれた音楽によって形成された地形に沿って自分の心に実感を伴って届く。 まるで幽霊に憑依されるかのように。そしてそれは取り憑いた者に対し、己の内なる他者の声に耳を澄ますように促すかのようだ。 Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? という問いかけへの答を求められた者は、「生きるという甘美な習慣」の裡に (厄払いではなく)喪の作業に誘われるのだ。まさに能の舞台でしばしば起きるように。かつて別の文脈で、ある他者によって言われたように、 可能なのは幽霊に対して言葉をかけること、幽霊からの語りかけに言葉を返すこと、そうしつつ生きることを学ぶことでしかないのだ。 だがそもそも、マーラーという幽霊がその作品を通して私たちに語るのもまた、まさにそのことそのものではなかったか。(2011.4.29/30初稿・公開, 5.2/8加筆・修正)