お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2023年10月29日日曜日

[お知らせ]『配信芸術論』刊行について

 三輪眞弘:監修、岡田暁生:編『配信芸術論』がアルテスパブリッシングより、2023年10月25日に刊行されました。詳細は以下の出版社の公式ページをご覧ください。

https://artespublishing.com/shop/books/86559-282-5/

 


 本ブログ管理者も、2019年4月~2022年3月に実施された京都大学人文科学研究所の共同研究「「システム内存在としての世界」についてのアートを媒介とする文理融合的研究」に参加させて頂いた経緯より、論考「二分心崩壊以後・シンギュラリティ以前の展望から見たライブの可能性」を寄稿させて頂いており、その中でマーラーの音楽についても触れています。更に参考文献に本ブログを含めている他、注において個別に参照している本ブログの記事として、「デイヴィッド・コープのEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣についての覚え書」 および「音楽を一人きりで聴くこと:マーラーの場合」の2つがあり、本ブログの内容とも多くの接点がある内容となっていますので、ご一読頂ければ幸いです。なお三輪眞弘さんの活動については、本ブログの姉妹ブログ、『山崎与次兵衛アーカイブ:三輪眞弘』をご覧ください。(2023.10.19, 20公開, 10.26更新)

2015年5月9日土曜日

ある市井のマーラー愛好家の専門家宛の手紙より

(…)

宿題になっていた、「神の存在をどう思うか」というご質問に対するお答をしなくてはなりません。 この質問に答えることは大変厄介であると感じていますが、それは一つには、神ということで何を 指し示すかについての了解自体がとりわけ現在の日本では形成し難いということに由来するように 感じています。一つだけ例を挙げれば、「無神論」という言葉の含意が西欧と日本ではかなり異なる のは比較的知られていることと思います。その日本でも嘗ては「神仏をも懼れぬ仕業」といった 言い回しが意味を持っていたわけですが、現在ではこの表現を実生活で聞くことはほとんどないのでは ないかと思います。それでもなお、初詣には行き、墓参りをすることは未だ多くの日本人にとって 自然なことでしょう。他方で「存在する」ということについての了解の方も実際には自明とは 云い難い。フッサール現象学やハイデガーの(中絶しましたが)基礎存在論の企ては、その困難を 物語って余りあります。しかし、ここは予備的な分析する場ではありませんので、 誤解を怖れずに、結論から述べてしまいたいと思います。

端的に言えば、既成の個別の宗教における神を信じるかと問われれば否です。だけれども、 神的なものを否定するかと言えば、これは明確に否ということになるでしょう。 「神の存在」に対する答えからすると、少々遠回りに感じられるかも知れませんが、 先賢の顰に倣って、日常の具体的なところから始めることをお許しください。 恐らくそうすることによってのみご理解いただけることがあろうかと思います。

私はしばしば「祈り」ます。何に対して祈っているのかを突き詰めることを常にしているわけではなく、 けれども「祈り」という行為は私にとって自然な行為です。実家に戻れば仏壇の前で手を合わせるし、 墓参りはするし、初詣もします。のみならず例えば散歩をしている最中に神社や祠を見かければ、 立ち寄って賽銭を投げて祈ることも珍しくはありません。と同時に、そういう場での行為としてではなく、 より私的で内的な行為として、何かをするにあたって、あるいは何かを終えたときに、私は 何者かに対して祈ります。祈りは(内的独語であれ)言葉による語りかけのかたちをしばしばとります。 けれども、祈りの対象を人格を持つ存在として捉えているかといえば、どうもそうではない。 そもそもその対象がどんな姿をしているかを考えたことはありません。言葉が通じると思っているわけでもなく、 寧ろ言葉は自分の思いを固定するために、寧ろ自分向けに用いている道具なのです。何を祈るのかを 自分が確認するために言葉を使っていて、それは「祈り」にとっては入口のインタフェースに過ぎず、 それがその先でどのように変換して、対象に伝達されるかについてはどうやら無頓着で、何故か 通じるものと考えているようなのです。

祈りの対象はどこに存在するでしょうか?そもそもどこかに存在するのでしょうか?私が物理的・ 生物学的に其の中に住んでいる世界の時空の具体的な座標をそれが占めているというようには 考えていないようです。そういう意味では、それは「存在」しません。けれども仮想的なもの、 観念的・理念的なものも含めた現象学的な世界ということであればどうでしょう? 恐らく、語りかけの入口は穿たれている。けれども現象学的な地平の「彼方」にそれは存在するのではないかと 思います。そういう意味合いで、それは超越的な存在であり、端的には非存在だということになるのでは ないかと思います。ではその入口はどこに穿たれているのか、どうやらそれは、自分の心の奥に 穿たれていると考えるのが自然に思えます。例えば神社仏閣のように、一見したところ祈る対象が 物理的に目前にあるように思えるときでさえ、私の祈りは一旦は心の奥に向かい、その上で(もし届くのであれば) 対象に届くと感じているように思えます。路傍で見つけた眼前にある石仏自体は只の石像に過ぎないですが、 その前で祈るとき、それでもなおその石像を或る種の媒介として、祈りはこの世界では端的に不在な なにものかに対して届くと考えているように思います。

私が自分の祈りの構造の良い近似になっていると感じているのは、ジュリアン・ジェインズという心理学者が 提唱した「二院制の心」(bicameral mind)という説です。意識というのが歴史的な産物であり、 その形態は過去においても異なっていて、変化してきたという認識を推し進めると、今度は レイ・カーツワイルのような特異点論者が予測するように、未来にはまた、意識は異なる形態をとる可能性が あるだろうと思います。その時には、祈る対象の方も恐らくは今とは異なった「現れ」方をするのだろうと 思います。けれども差し当たり、技術的特異点の手間で寿命が尽きてしまうであろう世代の人間である私にとっては、 将来生じるであろう意識の変容は、興味深いものであっても、所詮は自分には関係のないものです。

そういう意味では私はマーラーと同じエポックに属する人間であり、自己の存在の有限性を前提として 色々なことを考えざるを得ないと思っています。そしてその音楽を聴くにつけ、超越的なものに対する フィーリングのようなものにおいて、マーラーは自己の同類であると感じています。 もっとも子供の頃に出会ってからこの方、寧ろマーラーの音楽が孕んでいる世界観の方に私の方が 影響されつつ自己形成してきたという見方もでき、そうであれば同類であるのは何か稀有な、 誇るべきものなどではなく、寧ろ当然の結果であることになります。

彼は死後の世界を信じていたでしょうか?第2交響曲フィナーレのプログラムについてのエピソードは、 そのプログラムがそのまま、いつかこの世で生起するとまでは彼が考えていなかったこと示しているように 私には思えます。勿論彼は、精神的なものが物質的なものとは独立に存在し、それが自分の生物的な死を 超えて存続することを信じていたと思いますが、それは例えば、音楽作品というのが、実現にあたって 物理的な音響というかたちで現象するものであったとしても、(もの凄く単純化してしまえば、 )ある音の継起と組合せのパターンの情報をデジタル化して、何度でも再現できるように固定したものであり、 物理的なスコアという手段を通して、だけれどもそれ自体は抽象的な存在として、世代を超えて継承される こと、そしてそうした継承を通して、マーラーの「精神」なるものも継承されていくものであり、それが 仮に進化の偶然の賜物であったとしても(現実には私は、ほぼ間違いなくそうであろうと思っていますが)、 意識を持つことになった人間の精神的な領域における営みは(理念的なものである)無限(への漸近)を 目指すものであるという、今日でも恐らくは十分常識的な見解と接続することが十分に可能なものであったと 私は考えています。マーラーが唯物論者でなかったのと同じ程度に、1世紀後の私も精神的な領域の 自律性を確信していると思います。言い方を替えると、1世紀後の日本にもしマーラーが居れば、 彼の考え方は、私のそれをさほど重大な齟齬を来たすことはないだろうと感じているということです。 (繰り返しになりますが、それは寧ろ彼の遺した音楽を通じて、彼の影響のもとに私が成立していると したら、当然のことではないでしょうか?)

ファウスト第二部終幕の解釈に関連したアルマへの書簡ではっきりとそう書いていたと思いますが、 彼はそれを「比喩」として捉えるだけの批判的な知性を持っていましたし、キリスト教的な伝統に ついても、十分批判的な見方をしていましたが(一部はユダヤ人として、そういう見方をすることを 強いられた部分があるのでしょうが)、その一方で、Veni Creator, spritusを彼なりの捉え方で 音楽化し、「ところでそれが来なければ」という悪意に対しては、断固として、そうした超越的な ものの彼方からの到来が現実に起きること、そしてそれは決して無ではないことに対して、 擁護の論陣を張ったであろうと思いますし、私としては、1世紀後の日本においてなお、 第8交響曲の「理念」は異国の文化史の研究の対象でしかない1世紀前の西欧の世紀末の文化遺産などではなく、 今、此処で擁護可能なものだし、擁護しなくてはならない、そうでなければ、博物館の文化財の陳列を眺めるように、 マーラーの交響曲をコンサートホールで「鑑賞」することになど、意味はないと考えています。

同様に、第8交響曲と「大地の歌」の間にも、両者の世界観や神の存在についての認識に、 分裂や矛盾など無いと考えています。マーラーは意識を備えた人間の精神の飛翔が無限を目がけるもので あることを正しく把握し、音楽化したし、その一方で個体としての、個としての自分が過ぎ行くもの、 仮初めのものの側に属していて、そのままでは永遠に与りえないことも正しく把握していて、それをも 音楽化したのだと私は考えています。

もう一度、最初の問いである「神の存在」に戻りましょう。マーラーの音楽は超越的なものへの志向を 備えているという点で際立ったものですが、それは別に既に解決済みの過去の問題であるわけではなく、 寧ろカーツワイルの言う技術的特異点に達するまでのエポックは、マーラーの音楽の「今」であり 「此処」であると考えるべきであり、マーラーにおける「神の存在」の問題の基本的構造は、 そのまま我々のものであり続けているのだと思います。(繰り返しになりますが、ジェインズの意識の考古学は、 その範囲を最も広くとった場合の「我々にとってもそうである」ことに対する説得力ある説明であると思います。)

否、我々を広くとることは止めてもいいでしょう。我々を、マーラーの音楽を聴く事で「目を覚ます」ことを 余儀なくされた者の集団というように限定してもいいでしょう。(私はここで、アドルノのウィーン講演の 結びの部分を思い浮かべています。)これも今や歴史的文献、過去の世代の証言に属するものとなり、 読み返す人も多くないのかも知れませんが、ワルターの以下の言葉こそが、そうした「幽霊達」、即ち マーラーの音楽にコミットする者達の「神の存在」に対する共通認識ではなかろうかと私には思われるのです。

否、更にそうですらなく、これは私だけの孤立した、例外的な認識なのでしょうか?ワルターすら、マーラーに ついてこのように言うものの、自分は別の世界に生きていたのでしょうか?恐らくそんなことはないと思います。 そうでなければ、彼が殊更にマーラーを選び、傾倒する必要などないのですから。
「私は、かれが宗教的精神をもち、ときにその高揚があったとはいえ、かれを敬虔な信仰者と呼ぶことはできない。 かれの感動の高揚は、かれを信仰の高みに登らせはしたが、信仰の確固たる安息の保証はえられなかった。 かれの心はあまりに痛ましく、生きるものの苦悩を感じた。動物相互の殺戮、人間同志の悪徳、疾病に対する 肉体の敏感性、間断なき脅威、それらすべてが、いくたびとなくかれの信仰の基底をゆるがせ、そして、 この世の悲哀と悪徳とをいかにして神の親愛と全能との調和せるむるか、それがかれの自覚し、又かれの 一生涯にわたってますます強くなった問題であった。」(ワルター, 『マーラー 人と芸術』,村田武雄訳, 音楽之友社, 1960, pp.186-7
マーラーは「神を探していた」という評言こそが適切で、彼にとって神は丸山桂介が言う通り 「隠れたる神」であったのだと思います。しかし、それは1世紀後の極東に生きる我々に とってもそうではないかと思うし、少なくとも私にとってはそうなのです。 「隠れたる神」は非存在です。だけれども存在しないものはただちに無であるわけではなく、 仮想的なもの、想像的なものにして創造的なもの、理念的なもの、かつて存在して今はないという形でその記憶が存続しているもの、 言ってみれば「幽霊的なもの」の領域が「在る」のです。勿論、そうした構造を無意識的に、そうとは 気付かずに生きることと、それを意識しつつ生きることは同じことではありません。そしてマーラーは 明らかに後者のタイプに属しているのだと思います。(ちなみに、マーラーの同時代の日本で、この 構造に気づいた先駆者こそ、北村透谷であると私は考えています(彼は文学者であり、ジャンルは異なりますが)。 良く知られているように、その後の日本文学は、透谷の持つ普遍性と超越への志向を引き継ぎませんでした。 そして1世紀の隔たりにも関わらず、時代の意匠を取り払えば、透谷の認識からそれほど遠くに来たとは到底思えません。 彼の見出した問題、とりわけても「信仰なき者の祈り」の問題はそのまま残っていると私には感じられます。 そして、今日のテクノロジーやメディアの環境の文脈の中で、全く別の方法論によってその問いの答えを探求しているのが、 作曲家でメディア・アーティストの三輪眞弘さんであると思います。)

音楽もまた、総じて仮象に過ぎません。時間の経過とともにそれは過ぎ去り、消えてしまう。 だけれども、そうであるが故に作品の演奏は、その都度、一回性の「出来事」なのですし、 その効果は有限の生命を持つ人間の脳の中の「魂」と呼ばれるものにしか働きかけることができなくとも 決して無ではないし、物理的な音響が消えた後も、その「何か」は存続するし、その価値にコミットする のであれば、その存続に自ら与らなくてはならない、しかも自らの有限性の限界を超えた存続に 与らなくてはならないのだと思います。

恐らく「神」というのはそうした存在と非在の間の領域、精神=聖霊=精霊=亡霊(Geist)の領域の理念的な極限、 超越的な「存在の彼方」の名前なのではないでしょうか?プラトン以来、「存在の彼方」とは善や美といった、 価値に関わる領域を指し示していることを思い起こしてみるべきかも知れません。ともあれ、 それはヒトが現在のような意識の構造を持ってから発見した領域であり、かつ、未だその領域を覗き見た程度であって、 人間が現在の形態である限りは、つまり技術的特異点の手前にいる限りは、それがどれほどの拡がりを 持っているのかを知ることはできず、それゆえ差し当たりは超越的な「存在の彼方」として把握されるほか ないのかも知れません。(カントの言うところの「理性」の宿命は、従ってある意識構造のエポックの 内部でのそれに過ぎないのかも知れません。)個人的にそれをあえて今尚、「神」と呼ぶのが適切かどうかに ついては疑問の余地なしとはしないのですが、一方で、自分が手前に留まる存在であることを前提とするのであれば、 そうした未知の領域のことを従来通り「神」と呼ぶ方が寧ろ一貫するという見方もできるでしょう。 結局のところ、そういうものとして、私は「神の存在」を捉えている、というのがご質問の回答になるかと思います。

漠然としたことを延々と書き連ねてしまい申し訳ありません。しかしながら、私にとってお問い合わせの内容は 簡単な断定で済ませられるようなものではありません。結論が出ているわけでもありません。しかし、 こうした問題に対して、結論めいたことを言うことがそもそも構造的に可能なのかどうか。 聊か言い訳めきますが、そうした点をご考慮いただき、ご勘弁いただけますようお願い申し上げます。

(…)

(2015.5.9)

2015年4月22日水曜日

丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」より

丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」(in 「音楽の手帖 マーラー」(青土社, 1980))より

(…)
 マーラーの音楽、なかでもとりわけ第九終章の「アダージョ」を聴いていると、 ときに私は自分の存在の無限のはかなさを感じる。 そこでは生の意味が徹底的に懐疑され、 ほとんど耐え難いほどの世界苦にマーラーの魂が呻吟しているのが余りにもはっきりと私に伝わってくるからである。 彼の苦悩する精神の現実が私の内に浸透し、私をゆり動かし、共苦させるのである。 マーラーの音楽が、日本のこの現実に生きる私達にも深い感動を呼びおこすのは、 孤独な魂の叫びが私達の存在の基盤をゆさぶるからではないだろうか。 十九世紀末の時代精神に根をおろしたマーラーの芸術は、 その意味では時空を超えているといえるかもしれないが、 私にはしかし彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに立っているように思われる。 この歴史的現実を超越することによって、かえって私達の現実にもあてはまる存在の懐疑を彼の音楽は私達にもたらすのである。
(…)
 マーラーの作品はつまるところ音響態でしかないかもしれないが、しかしその音の響きを背後から支えているこのような 彼の創造理念が私達にも感動を与えるのだといえるだろう。クーベリークも来日時に、第九は終章にさしかかるとそれまでの暗雲が 切れて突然のように青空が拡がり、天使が舞い降りてくるといっていた。もちろんマーラーの音楽を聴くのに天使はいらない といえばそれまでだろう。日本では、あるいはそのような受け取り方がなされていることの方が多いかもしれない。 だが芸術においては、その人間が信じているものは表われるのだ。或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが表われる。
(…)
 既にニーチェが指摘しているのであれば、マーラーの時代にも彼を取り囲んでいたのは神の殺害者であったといえるだろう。 そのなかにあって、彼は神を探し求めた人間のひとりであった。 もちろんルターやバッハにおける隠れたる神と、マーラーにおけるそれとは意味を異にしてはいただろう。 それに実際にヨーロッパの歴史を通じて、キリスト教とユダヤ教がどのような関係にあったのか私には詳らかでないし、 おそらくマーラーにあっても、ニーチェと同様神は超越者一般を指してはいただろう。 ニーチェの「ツァラトゥストラ」の「酔歌」とマーラーの音楽における明るみの、 不思議なほどに一致する感覚の質がそのことを何よりもよく証しているように思われる。 だがそれにもかかわらず「ヨーロッパ文化への入場券」を買うものは、隠れたる神を探したものの仲間に加わらざるを得ないのだ。 何となれば、おそらくはヨーロッパなるものの本源はそこにしかないからなのだ。 しかも神を探すものは、しばしば周囲から嘲けりを受ける運命にあるようにみえる。 マーラーもまた超越者に関わることによって、社会的にも叩きのめされたのではないか。 仕事のうえでのまさつは、彼がユダヤ人だったからであると同時に、 彼が超越者との関わりを芸術の領域に持ちこんで、 周囲の人間には容易に見えない高邁な理念にしたがってことを運ぼうとしたからである。 マーラー自身は、たしかに隠れたる神としての意識をそれほど明確には持っていなかったように思われるけれども、 結局彼もヨーロッパの根源に掉さすことによって、究極的には神の不在の問題に還元されることになる、 人間の生への深い反省や死との対峙を余儀なくされたのである。 彼も本質的に何かを求め探していた人間だったのだ。 だからこそときに烈しく叩きのめされながらも、いや、かえってその故に、 苦難の最中に数々の作品を創造し得たのではなかったのだろうか。
 マーラーの「アダージョ」のような作品には、温かい明るみが満ちていると同時に、 私にはまた一方でそこにはしんしんとした孤独が介在しているように思われる。 物狂いの人にのみつきまとっている、これは存在の孤独とでもいったらよいものだろう。
 たしかに私達の多くは神の不在にも、神の存在にも関わりをもたない幸福な生活を営んでいるようにみえる。 だがそのような、いわば生なき生の最中にあっても、 マーラーの音楽は突然のように私達に人間の何であるかを開示してみせるようだ。 私達はそれ故に感動し、またそこに社会的疎外感などが加わることによって、 感動はいっそうその振幅をおおきくするのである。 けれども、私達は、というより私はというべきかもしれないが、 その感動を感動として、つまり現実の生活から切り離された次元において、 芸術の鑑賞領域における感動として受け止めているが故に幸福な生活が送れるのかもしれないのだ。 もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを探しはじめるだろう。 そしていまの私には、決して不可能であるとはいわないまでも、 そうした何かを探求しつつ生きる生活は、当面日本の現実と決定的に相容れないもののように思われるのである。


 丸山桂介の上記の文章に出会ったのは、今から35年前に、音楽の手帖「マーラー」(青土社, 1980)に 掲載されているのを読んだときのことであるが、私見では、日本語で書かれたマーラーを巡る文章の中でも 群を抜いて、圧倒的で永続的な印象を与えられた文章であり、今尚読み直しても、その内容は聊かも古びて いないと思われる。バッハとベートーヴェンの研究者として知られる著者がマーラーを扱ったという点で、 マーラーの文脈ではマージナルな存在かも知れないが、時代を隔てて日本でマーラーを尚、聴くことの意義を 示しているという点では際立った内容だと思う。

 その内容をきちんと受け止めて、それに相応しい文章を書くだけの余裕が、残念ながら今の自分には 無いのだが、最小限の応答として、その内容について若干のコメントを記して後日に備えたい。

 著者は「彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに 立っているように思われる。」と述べているが、これは「隠れたる神」が 問題になりうる意識様態の構造というのが、ある特定の文化的・社会的文脈の 更に特定の時点の環境に依存したものではないという点では正しいが、 にも関わらず、権利上、如何なる歴史的時空との関わりを超越したものである という意味合いではありえないだろう。

 時間を超えることは端的に不可能であって、作曲者の死後も生き永らえている マーラーの音楽とて、時間を通って存続し続けることで辛うじて永遠に漸近すると 言いうるに過ぎない。それは社会的・文化的な場の歴史的連続性を超えて、 (恐らくは幾分の誤解とともに)1世紀後の極東の島国で受容されているが、 それが、ジェインズ的な意識の考古学におけるホメロス以前の意識の構造にまで 及ぶものなのか、あるいはカーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の 向こう側にまで及ぶものなのかは、自明なこととは言えないだろう。

 進化生物学的な意識の発達史、あるいはジェインズ的な意識の考古学と、 カーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の向こう側の 両方を収めた展望の下では、「隠れたる神」の問題はやはり、 それ自体歴史的な存在である、ある種の意識様態に固有の問題であろうし、 最も外延を広くとっても、遺伝子の搬体としての生物個体の中で 自伝的自己を伴う自己意識を備えた者に固有の問題であろう。

 超越性というのは、そうした存在様態固有の認知パターンなのだし、 そうした認知パターンにおいてのみ「隠れたる神」が問題になりうるのだ。 (ただし必要条件であって、十分条件ではないが。) 神を探すことが成立するためには、単に自伝的自己を伴う自己意識を 備えているだけではなく、そうした構造を把握し、境界に身を置かなくては ならないのだろう。カントのいう、アンチノミーに悩むことを宿命づけられている 「理性」が必要なのであり、そうした「理性」が生じるような場所でのみ、 「隠れたる神」が問題になりうるのだ。

 勿論それは、西欧固有のものに過ぎず、極東の島国ではア・プリオリに 禁じられているというわけではない。例えば北村透谷が1世紀前、(奇しくも彼の生涯は マーラーのそれにすっぽりと覆われてしまっていて、なおかつお互いに因果的な過去・ 未来に住んでおらず、知り合うことがないという意味において、 本来の意味での「同時性」が成立しているのだが)マーラーの同時代の 日本に生き、やはり或る意味において「ヨーロッパ文化への入場券」を買い、 当時の日本にあっては(もしかしたら、現代の日本においても未だなお) 例外的な出来事であったかも知れないが、彼なりの展望において「隠れたる神」を 探し求めたことが思い浮かぶ。

 「もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを 探しはじめるだろう。」というのは全くその通りだと思う。 だが何かを探求しつつ生きる生活の不可能性は、 「当面日本の現実」と「決定的に相容れない」だけでなく、 常に既に、何時の時代の何処の文化的環境においてもそうではないのか? また、マーラーがユダヤ人であったことは、リーの指摘するように、 彼が西欧の社会における「マージナル・マン」であるための原因の一つで あるだろうし、具体的なその様態を捨象することは (ここで問題になっているのが音楽作品という感性的なオブジェクトで あることを考えれば特に)できないだろうが、にも関わらず、 唯一の原因ではないし、従って「隠れたる神」の探究に至る唯一の 原因ではないだろう。

 寧ろ、マーラーの音楽が鳴り響く文化的環境に生を享け、 ふとした偶然からある日マーラーの音楽を聴いた子供は、その「出来事」を介して、 「隠れたる神」の探究に誘われるのであり、それは恐らく、 自伝的自己を伴う自己意識を備えている存在(それには全ての「ヒト」が 含まれるわけではないかも知れないし、逆に「ヒト」以外の存在が そこに含まれえないと決めつけることもまた、できないだろう)であれば 潜在的に持ちうる可能性であり、それが現勢化するかどうかは、 「出来事」の到来という偶発時にかかっているのだし、逆に一旦 そうした「出来事」が到来してしまえば後戻りはできないのだろう。

 著者は「しょせんは音響態に過ぎないかもしれない」としても「芸術」に おいて、「或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが 表れる」と述べているが、これも全くその通りだろう。ただしその如何にしてを 考えたとき、それは作品の素材に過ぎない標題性などとは別の水準で可能になって いることには留意すべきであろう。作品は(マーラー自身、晩年に妻に対して 書いたように)「抜け殻」に過ぎないだろうし、「出来事」の経験についていえば、 その痕跡に過ぎないだろう。だが一回性で反復不可能な到来としての「出来事」は その痕跡であるところの「作品」なくしては、記憶され、想起され、 反復され、継承されえないのだ。「出来事」の主体の有限性を超えて、 死後の生命を獲得することはできないのである。

 作品は活動プロセスの痕跡であり、その定着には記号化・離散化・ デジタル化が不可避である。化石がそうであるように、響きそのものではなく、 響きのパターンが記録される。それは「抜け殻」(マーラー)かもしれないが、 自己を超えて生き延びることとは、そのようにしか可能ではない。 見方を変えれば、そうすることによって生物個体としての有限性を 超えて、遺伝子の複製とは異なった水準での、個体の記憶の継承、一回性の 「出来事」の記憶の継承という「反逆」(ダマシオ『自己が心にやってくる 意識ある脳の構築』)が 可能になるのだ。それは「抜け殻」であると同時に、(マーラーが、これはゲーテの 「ファウスト」第1部の地霊の台詞を引用して述べるように)「神の衣」でもあるのだ。

 我知らずして、いわば盲目的に神の衣を織るためには、自伝的自己を 伴う自己意識は必ずしも必要ない。だがある価値にコミットして、 己の出遭った価値あるものの(漸近的な)永続化をめがけ、 そうした出遭いという一回性の出来事を記憶し、出来事の一回性を超え、 自己の有限性をも超え、他者に向けて継承することを目指して、 作品としてデジタル化する意図をもって「衣を織る」ことは、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ない。

 そして、そのことを「作品」を聴くことによって感じ取るのもまた、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ないだろう。否、実際には、 マーラーの音楽を聴くという経験が、意識がある様態を持つように自己 形成することに寄与している筈なのであって、それ自体が或る種の 文化的複製子(ミーム)なのである。自伝的自己を伴う自己意識が 取りうる或る種の意識の様態、超越性、外部からの到来に対する応答と いった出来事が生じるような様態を伝播させる搬体がマーラーの 音楽作品という文化的複製子だ、というわけである。

 それはある種の 共進化の如きものとして捉えることができるのかも知れないが、 それよりも私にとって興味深いのは、マーラーの作品の構造が持つ、 意識の様態との構造的な類似性である。マーラーの音楽は、ある種の 意識の様態を別の素材を用いて物質化して定着させたかの如くであり、 それ自体は「生きて」はいなくとも、生がどのような構造を備えて いるかは、それによって推測できるような構造物であり、その限りで カールハインツ・シュトックハウゼンが、宇宙人が「人間」のことを 知ろうと思ったら、マーラーの音楽を調べれば良いといったのは (勿論、その「人間」は、生物学的な意味でのヒトのことではなく、 広くとってもジェインズのいうヒュポスタシス以降、カーツワイルの 特異点以前のエポックの、自伝的自己を備えた意識を持つ存在という ことになろうが)、それなりに正しい直感に基づく発言なのではと思われる。

 マーラーの音楽は、優れて「意識の音楽」であり、マーラーの音楽自体が、 自伝的自己を伴う自己意識の「時代」を証言し、その構造を映し出し、 その宿命を示唆する存在、つまり自伝的自己を伴う自己意識の自己認識の 結果であり、尚且つ、そうしたマーラーの音楽を聴き、それによって自己を 形成し、その上でそれについて証言することは、そうしたマーラーの音楽に 対するコミットメントとしての行為遂行性を帯びており、それは自伝的自己を 伴う自己意識の自己の宿命に対する或る種の「反逆」に対するコミットメント でもあるのだ。

 それをマーラー音楽というミームの詭計と捉えることも できるだろうし、そうした見方にも一部の理はあるだろうが、もしそうであると するならば、更に一歩進んで、マーラーがこのような音楽を創造したこと自体もまた、 或る種の宿命であり、仕組まれたものなのだということになるだろう。著者の言うように、 マーラー自身が「来たれ」という呼びかけに応答すべく、作品を創造したのだが、 今度はその(作曲者が、ではなくて)作品自体が、聴き手に対して「来たれ」と 誘うことになる。

 ここで、シェーンベルクのプラハ講演における第9交響曲に関する コメントを想起してもいいだろう。曰く、作曲者はメガホンに過ぎず、その背後に 真の主体が居るといった見方は、まさにここで問題になっているような構造を 言い当てたものに違いない。その主体はまた、第8交響曲の2つの「来たれ」の 命令を発した存在なのだが、それは一体誰なのか。

 進化論についての論争でもそうであるように、そうした詭計を仕組む者を 「神」と呼ぶ立場もあろうし、「隠れたる神」がそうであるように、寧ろそうした 立場こそが伝統的、正統的な立場なのであろう。だが今日であれば、それは或る種の 自己組織化の結果、創発的な現象と見做すべきではなかろうか。マーラーの音楽を 19世紀末の西欧という、歴史的・文化的環境に還元して理解するのではない、別の可能性がここには 開けているように思われる。「神」や「天使」という語彙ではなく、だが、 超越を、出来事の到来を語る別の語彙が必要なのではなかろうか。 神を殺すのではなく、その後の時代に相応しい「隠れたる神」を探す別の仕方が ここでは問題になっているのだ。ドイッチュの言う「無限の探究」もまた、 そのような試みの一つなのだと私には思われる。

 神経科学の発達で脳のメカニズムが少しずつ解き明かされ、 意識についての語り方が変わりつつある今、それは、別の仕方で説明し直されることを 求めているのではなかろうか。そしてそれは、まずもってマーラーの音楽を 狭義の音楽学の語彙によってではなく、或る種のシステムとして捉えること、 狭義の美学の語彙によってではなく、情報の観点から捉えることによって可能に なるのではなかろうか。そしてそれはマーラーの音楽を、それ自身そのように 志向していたように、狭義での「芸術」の閉域の境界において考えることを 求めているのではなかろうか。マーラーの音楽はベイトソンの言う 「無意識のエクササイズ」なのであり、超越的なものへの開け、出来事の到来を 記録したアーカイブであり、カーツワイルの言う特異点の手前に居る人間にとって、 差し当たり特異点に達するまでの間は少なくとも意義を持つものに違いないのだから。

(2015.4.22/24)

2014年2月16日日曜日

マーラーの音楽の時間性についてのメモ

音楽は時間の組織化、構造化である。それは生物的な、感覚受容や身体的事象へ反応といった体験の時間とは異質の、非日常的に、人工的に編まれた時間の結晶体である。音楽的時間の経験は、様々な時間経験の一種に過ぎないが、それは高度な意識を持つ生物種である人間ならではの社会的・文化的な歴史の沈殿物の摂取であり、或る種の意識経験の様態を自分の中に(変形しつつ)移植することである。 叙事的、ロマン的(アドルノ)と形容される時間の流れを、その複雑さを毀損することなく捉えようとしたとき、充分に意識的で、 批判的・反省的な知性の持ち主であったマーラー自身による説明におけるゲーテの原植物を含む有機体論や進化論的メタファー(エンテケレイアなど)の進入については、その事実を骨董に関する薀蓄よろしく、歴史的な事象として指摘することなどではなく、さりとてそれを単なる比喩や修辞として、音楽自体とは別のものとして無視するのでもなく、システム理論や複雑系の理論の発展を通過した今の地点から捉え直すことこそが必要であろう。

調性組織における発展的調性は、楽式論における単なる反復、ダ・カーポを嫌い、絶えず変容し発展しようとする傾向との間に 明白な相関を有するのであって、出発点に過ぎない和声法や楽式論の図式を逸脱してしまう。その結果として、多楽章形式はここでは 複数の視点、複数の層からなる時間の布置を実現するデヴァイスであり、多重世界論(デイヴィッド・ルイスの様相実在論)の如き理論装置を要請する。 マーラー自身が敏感に感じ取り、指揮者への指示として書き込んだように、楽章の始まりと終わりは一様ではないし、楽章間の関係も、 画一的な単なる中断、中休みには決してならず、ある時にはそこに断層があり、ある時には休止を跨いで連続するといった具合に、 その連関の様相は多彩である。 オーケストラならではの、非平均律的な均質でない和声組織に支えられた調性格論は、直接的には共感覚的に色彩を喚起するものであると同時に、心理的時間としては、モーダルなヴァーチャリティの様々な質・諧調を実現しており、その肌理の細かさに対応した理論装置を要求する。

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マーラーの音楽は、職人技による工芸品的な単純なパターンの反復、規則的な変形による線形変化のもつ、物理的とでもいうべき 時間ではない。他方で、外的なプロットに束縛されることのない、独立したモナド的な主体性を備えている。 それが近藤譲の言う「身振り」の音楽であるというのは、命題的態度の音楽であるということであり、それは高度な心性を持つ 意識的主体においてのみ可能となる構造を前提として初めて生じうる時間性を備えているということであり、その時間性は 現象学的・実存的な時間論が分析の対象とするようなものである。

そしてそれは閉じているわけではなく、世界、他者との接触により生じる間主観的な出来事としての実存的時間を備えている。 その空間性は、相対論的に出会うことなく、常に遅れてしか出会い、応答できない同時的存在としての他者との距離であり、 主体の内的時間と同調しない、容赦ない推移の流れ(「世の成り行き」)に身を浸すという意味で、高度な心性を有する 意識的な主体の間主観的な生成過程の組織化である。

その限りにおいては、異星人が地球上の人間について知りたければ、 マーラーの音楽を調べれば良いという、カールハインツ・シュトックハウゼンの言葉は妥当性を持つ。これは(とりわけても 西欧的な意味合いでの)「人間」でなければ産み出しえない類の音楽であることは間違いない。更に、ジュリアン・ジェインズ的な 意識の考古学的な展望を、レイ・カーツワイルのような技術特異点論者のポスト・ヒューマン的な展望と接続する立場からは、 これは将来のある時点で、「かつての人間」の意識の様態を記録した考古学的遺物になるのだろう。マーラーの音楽が音楽で 在り続けるのは、「人間」がかつての、そして大きな変容を蒙りつつ、今なお辛うじて存続している「人間」の存続期間の 範囲内であり、賞味期限つきなのである。ジェインズの記述するホメロスの時代、あるいは西洋中世といった意識なきエポック ではマーラーの音楽はありえなかったし、タイムマシーンで遡及して送り届けたところで理解不可能なものであったに違いないが、 未来の方向に向けても、三輪眞弘さんが「感情礼賛」で「夢を見た」ようにポスト・ヒューマンのエポックにおいてはマーラーの音楽は理解不可能なものとなるであろう。(再帰的に、音楽を聴取する、しかも自己自身のような複雑な音楽を聴取する経験自体もまた、そうした時間性を備えている。このことから、マーラーの音楽自体が聴き手にとって優れた意味での他者である、つまり複雑な内部構造を有し、固有の時間性を持つ他者であり、レヴィナス的な意味で、決して自己固有化できない「他者」であるということが帰結する。それは私の中に埋め込まれても、或る種の飛び地、クリプトとして 存在し続けるだろう。)

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マーラーの音楽の時間はアドルノ風の、「突破」「停滞」「充足」「崩壊」といったカテゴリが示唆する心理的時間であり、 意識の構造に由来するアスペクト的な特性を持つ。楽章内においても時間の断絶、複数の層の不連続な継起があり、 ホワイトヘッドのプロセス哲学における時間論における「時の逆流」を彷彿とさせるような瞬間にも事欠かない。 それは単一の時間ではなく、複数の重層的な時間。時間の分岐と合流であり、ヒンティッカが試みたような可能世界意味論による解釈の下で、 フッサール現象学における内的時間意識の不連続性を取り扱う必要性を認識させる。

第一次過去把持・第二次過去把持の区別は勿論、忘却・想起・回想といった出来事を、多重世界の圏域体系上で解釈しようとしたとき、 しばしばその人工性や模倣的で根無し草の性格が取りざたされるマーラーにおける「民謡」調や、とりわけ「大地の歌」での 東洋趣味もまた、スティグレール的な第三次過去把持による前主体的過去、社会的、集合的記憶への仮構された遡及としての (ありえたかもしれない、架空の)「民謡」。「東洋」(「大地の歌」)として、同じ多重世界の圏域体系上で解釈可能な ものになるのではないか。

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そしてその先には、第10交響曲がある筈であった。嬰ヘ調という調性の持つヴァーチャリティと、その文脈における ニ長調がコントラストによって蒙る変容。過去が絶対的な過去になり、現在は通常の時系列的なパースペクティブから 隔離されて浮遊する。(臨死経験との類比からすれば、それは可能性としての「未来」を最早持たないことの 帰結なのだろうか?)だがそこにおいてこそ、(数学的な意味での)極限としての未来の到来・生成の場があり、 それは主体の側からは自己超越による死と再生の過程である。第10交響曲はそうした時間を作品の裡に 刻み込んでいるという点で、極めて特異な作品である。

この作品が未完成であることについては多くのことが 言われているが、この音楽が、芸術に許されたヴァーチャリティを限界まで徹底させ、「実現しない未来」の 時間を定着しつつあったことを思えば、ありとあらゆる迷信の類を取り除いた後に、その実質と、作品が「この」 現実世界、様相実在論的な可能世界意味論における用語法におけるそこでは、それがスーパーヴィニエンスである ことを確認した上で、未完成に終わったことに対して、「人間」は何某かの意味を読み込みたい欲求に抗うことは 難しい。それを「あまりに人間的」と断定する批判は正しいが、「音楽」が結局は「人間」のものでしかないことに 対する無視は致命的である。

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第8交響曲の冒頭のEsのペダル音は、人間の消滅の時に響く「基底の音」であるかも知れない。(実際、三輪眞弘さんの 「ひとのきえさり」ではEintonという「楽器」がそのように響く。)第8交響曲はアドルノ風には「突破」の瞬間の 拡大であろうが、その音楽は経過につれて、人間がそのままの姿では見ることのできない出来事と化してゆく。 勿論、(プフィッツナーが悪意を篭めて揶揄したといわれるように、またアドルノが両義的な態度の中で、不承不承か、 あるいは寧ろ、己の恃む否定性の威を借ってか認めたように、それは「到来しなかった」かも知れないのだ。 それは1世紀後の極東で、深夜、自室で「録楽」としてそれを聴いた聴き手のちっぽけな脳内で起きた事象に過ぎず、 何も変わっていはしない。これまたアドルノの言うように、ファウストの終景から聖書的近東を経由して 辿り着いた「大地の歌」の極東は紛い物に過ぎないかも知れない。だが、どんな形而上学も可能ではないということが最後の形而上学たりうる ように、あるいはまた、架空の極東の民族の(だから決して「到来したことのない」)滅亡を記憶する機械による朗読が、 あたかも最後の「音楽」のように、あるいは「音楽」の終焉のドキュメントとして、それ自体は現実に生起し、 その事実が語り継がれていくように、第10交響曲の、決して到来することのない、決して経験することのできない 時空は、マーラー自身によって完成されることはなかったけれども、デリック・クックによって演奏可能な形にされ、 1世紀を経てなお、極東の地で再演が試みられる限りにおいて、まさに「音楽」として、「音楽」を介して、 現実的に生起するのである。

かつての「音楽」、かつてそう呼ばれ、今なお、人がそれをそう呼ぶことに何の疑問を抱かない音楽作品と その演奏を振り返ってみたとき、逆に、或る過去の時代の、自分とは異なった歴史的・文化的伝統に属する人間が作曲し、 記譜して残した作品を、別の誰かが演奏するとき、あるいはまた、不幸にして未完成に終わった作曲を、 別の誰かが補うとき、更には同時代にいながら、それゆえに常に遅れてしか応答できないにせよ、自分のできる仕方 (それ自体は「音楽」ではないかも知れない)での応答を試みるとき、そうした人間の営みによって、 音楽が、第一義的にはまず自分自身という人間のためのものでありながら、そうした自分という或る種の制限、 檻の如きものが制限づけているに違いない視界の狭窄、感性の水路の狭窄にも関わらず、 その音楽(だがそれは、正確には「どれ」のことを、「どの範囲」の出来事を指しているのだろうか?)が 人間の限界を超越して、想像することの出来ないような彼方へと(そう、まるで宇宙船にカプセル化されて 未知の知的生命体に向けて送り出されたものであるかのように)、突き抜けていってしまい、 私のようなちっぽけな人間には及びもつかないような存在に感じられることが、しばしば生じる。 その限りで、いかに突飛で滑稽に見えようとも、アドルノが「大地の歌」に関連して、宇宙飛行士が外側から 見ることになる地球の青さを先取りしていると述べたのは、それがジャン=ピエール・デュピュイの賢明な破局論 での意味合いにおける「予言」である限りにおいて、文字通り正しいのである。だとしたら、レイ・カーツワイルの 述べる技術的特異点の彼方で生起することの「予言」が、第10交響曲において、それ自体未完了で開かれたままの 状態で行われていると考えることもまた可能であろう。

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勿論、技術的特異点の彼方において、この「音楽」が、否、おしなべて「音楽」自体が最早意味を喪失し、 無用のものとなる可能性もある。そうではなくても、かつての「人間」の制約条件に強く拘束されているがゆえに、 過去の遺物として、博物館での展示品としての価値しかなくなる可能性もあるだろう。その一方で、第10交響曲の 「今」と「ここ」がようやく適切な現実を獲得する事態も考えられるだろう。マーラーより更に100年前にヘルダーリンが、 早すぎる晩年の寂静の裡に記した断片 "Wenn aus der Ferne" の「今」「ここ」と同様、現在の現実世界では ヴァーチャルな、「場所なき場所」を指し示すそうした作品が、丁度ホメロスの叙事詩のように、今より更に100年後、 新たな光の裡で、新たな光を放たないと誰が言いうるだろうか?

全ては両義的である。まさにそのために書かれたにも関わらず、完成した暁にはコンサートホールでオーケストラによって 演奏されることになっていたことが明らかなこの作品は、しかしながら、演奏はおろか、作曲の途上で、楽譜の上においてさえ、 そうした形態を採る前に作者たるマーラーの手を離れた。だが、技術的特異点の向こう側から 見たとき、生物学的な基盤の持つ限界からの自由を獲得し、時間的にも空間的にも、現在の人間の持っている 制限から自由になったとき、人間のアイデンティティの定義も当然だが、作品のアイデンティティの側もまた 変容してしまった後で、この作品を取り巻く様々な状況の意味はどのように変わり、どのような形態で、 どのような媒体での受容が行われることになるのだろうか。最早人間の可聴域の制限すら超え、媒体の制約も超えて、 クックの作業の更なる延長線上に、寧ろその未完成が故のポテンシャリティによって、現在では思いもつかないような 受容のされ方がなされるかも知れない。

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人間的なものの極限に、人間を超えたものが顕現するかに思われる瞬間がある。通常の自己の記憶の回想ではない、 自己の経験していない過去を展望できるかに思われる瞬間があり、それに応じて、実現可能性のある現在の延長としての 未来ではない未来、人間の意識がその形態のままでは経験不可能に思われるような未来、極限としてしか想像できない未来が 顕現するかに思われる瞬間がある。音楽は実際には起きはしないことをあたかもそれが今ここで成就したかの如く偽る 詐術などではない。それは現実とは異なる実在の多重世界の別の一つにおける別の現実の投影なのだ。

これは現在の瞬間が拡大されて、永遠と化する奇跡ではない。そこで起きるのはまた、充実ではなく、「ノエマの 爆発」の如き出来事であり、寧ろ自己は没落し、滅して、純粋な受動性の領域が現れ、外から何かが到来する瞬間、 外に対して自己を被曝する瞬間であると同時に、主体の自己超越の瞬間なのだ。そうした瞬間は孤立した出来事ではなく、 それが生じるための力学が働く多層的な脈絡と多岐的な広がりとが必要となる。 マーラーの音楽は、そうした瞬間をその中に胚胎しているという点で特異な音楽であろう。そうした瞬間を孕む 時間的な構造はそれ自体、人間の歴史の蓄積の結果であり、マーラーの音楽はそうした文脈の下で起きた一回性の事象であった。 勿論、もう一度歴史が反復されれば、それが生じる可能性はあるが、それが生じるのは必然ではなく、系の持つゆらぎの 産物に過ぎず、異なった径路を辿ることになると考えるべきだ。

その音楽にあっては「ここ」こそが主体にとって未だ訪れることがなかった異邦の地であり、「自己」が滅したときにしか 出現しないという意味で、最も主体から遠い場所なのだ。これほど「人間」から遠ざかった音楽は、だが「人間」にとって遠いのであって、それは「人間」的主体の構造に基づいていて、それゆえ優れて「人間」のためのものなのだ。 シェーンベルクの第10交響曲への評言は、しばしば歴史的には誤解に基づいた、仰々しいほどまでに大袈裟なものと されることがあるが、実際には個別の出来事の事実関係の差異を超えて、その音楽の質を正しく言い当てている。 我々は、それを聞くための準備がまだ出来ておらず、その音楽に値しない。その故にその音楽は我々にとって未完成のまま留まる。それは常に未来に向かって開かれたまま、聴き手の個体の限界をさえ超えて存続し続ける。(2014.2.16初稿,2.21加筆)