IV.
マーラーを考える上での主題系
- 意識/無意識、進化論、不滅性、懐疑と矛盾、自然、イロニー
- 意識・自己・心 : 現象学、認知科学、プロセス哲学、脳科学、神経生理学、進化論(ミーム含む)
- 批判理論、初期のハイデッガー
- 意識「からの」眺め、倫理や価値
- 標題性―内的プログラム―作品の聴取におけるクオリアの問題
- 「書き取らされている」という感じについてのジェインズの2院制の心による説明
- 内的プログラム、リスト的な意味でのプログラムの否定(ただし、撤回されたものの、最初には存在した)―作者の「意図」を論じることの限界。
- 意図の上での「異稿」問題―ナンセンス
- 歌詞の存在、交響曲と歌曲との関係
「人工知能」がマーラーの問題になりうるか、検討の余地はある。 だが「意識」と「人工知能」がそうであるように、今日の問題としてマーラーを引き受けたときの展望というのはあるはずだし、あるべきだろう。 一見関係ないことが自明だが、具体的に距離を測るべきなのだ。
一方「意識」の領域は現象学以外については余り広げるべきではないかも知れない。 進化論をどう扱うかも考えどころだ。まずもって、進化論のマーラーの受容の問題がある。それは今日のものとはかなり距離があって、 その距離を正確に測り、記述するのは容易ではない。(当時の思潮を取り上げれば済むというのはあまりに安直で、マーラーの音楽の 説明になりえていないのは勿論、マーラーの人の説明にさえなっていないが、研究ではなくて一般に流布している「マーラー論」のレベルは そういった水準を超えていないように思える。)一方で、そうしたマーラーの音楽を、今受容するという受容側の問題がある。 上述の、当時の思潮を取り上げてマーラーの音楽の「解説」をした気になる度し難いお目出度さには、今日の問題意識にマーラーを 突き合わせるという視点を全く欠いている。マーラー自身は物理学、心理学をはじめとする当時の先端の自然科学のトレンドにさえ 関心を示す人であったのに比べれば、マーラーを骨董品として受容するようなそのような姿勢は、マーラーが持っていたはすの、従って、 マーラーの音楽が持っているはずのベクトル性をあまりに軽んじている。もしマーラーの(例えば第3交響曲における)「世界観」を今日 問題にするなら、今日の進化論の展開、さらには遺伝的アルゴリズム他の進化論的方法や人工生命の方向性、あるいは 進化論の文化的な平面へのアナロジーとしてのミームの問題などを無視することはできないように感じられる。そうした「主題」の領域を 抜きにしても、進化論的ではなくても動態的な視点は必須だ。従って、横断時に出現することになるに違いない。
マーラーにおける自然の問題をヴェーベルンやシベリウス、あるいはクセナキスの場合と対比させること。 同時に主体の立ち位置の問題でもある。 19世紀末的な「自然」にマーラーとヴェーベルンは含まれる。シベリウスは少し違う? 実際には、その様態においてはヴェーべルンとシベリウス(と恐らくブルックナー)の方が近いのにも関わらず。 一方でそのような意味合いでの「自然」は、ラヴェルやフランクにはない。これは何故? 都市の音楽だから?当時のフランス音楽が都市のものだったから? 「自然」に対する態度の違い?風土や文化?音楽の「機能」の問題? ロシアにおける例外的とも言いうるショスタコーヴィチにおける自然の欠如。 ショスタコーヴィチはロシアではなく、ソ連の文化的・政治的文脈が優った音楽であることは否定できまい。 とにかく、彼は人間に関わらざるを得なかった。告発するために、呪詛するために、記憶するために。
あるタイプの作曲家―演奏家の倫理性は、作曲家―演奏家という自分の立場の外には出ようとしない。 それは音楽家の己のための倫理だ。 それを中途半端なアマチュアが批判すれば恐らくははぐらかされてしまうのがおちだろう。 勿論、それが間違っているわけではない。 だが結局、音楽家でない私にはそれは「どうでもいい」ことだ。 そしてそうした倫理性は、作品の享受の関心の担保にはならない。 多分演奏家にとっては興味深いかも知れないその作品も私の心には響かない。 寧ろ行為ではなく、音楽そのものに向き合う類の音楽の方が 一見自閉的に見えて作品としての豊かさを備えている。 無論、作品は開かれている(いる「べき」かどうかの問題ではない、事実 としてそうなのだ)し、豊かさは演奏家が与えるものだ、という立場は間違っていない。 だが、私はそれにもあまり関心がないのだろう。 作品を固定した、死んだものとして「鑑賞する」美学に対する反撥には大いに共感するが、 それに対する彼らの答には私は共感できない。
作品が完成品でないのは、作品を作曲家―演奏家―まさに彼らがそうである、 特権的にそうであるような―の中間領域に常に「手を加える」必要のある 状態に宙吊りにしておくことでなくてはならないとは限らないだろう。 それは彼ら固有の条件への自閉ではないのか? 作曲者―演奏家本人にしか実現不可能な作品―他者が再演することのない 作品とは一体何なのか?一見開かれた、伝統芸能で言う「手」の集積は、 しかし、芸の伝達のシステムが機能しない場合には、イデオレクトに 過ぎないのではないか?自分のための、自分のためだけの作品。 自分の行為のみを正当化する作品。その正当化は確かに無欠かも知れない。 そして聴き手を忘れて、音楽家の固有のモデルに閉じてしまう。 そのスタンスは、外に対して他者に対して一体何でありうるというのか? だから、(特に20世紀以降に顕著な言説の形態での)批判の鋭さは認めても、豊かさを見つけることはできない。 その倫理性には高い感銘を受けるが、それでいて自分の中にははっきりと今や形をなした違和感がある。 彼らは正しいのかも知れない。多分そうなのだが、それは「選ばれた者」の論理なのだ。 彼はそのように為すべく選ばれた者なのだ。 その選ばれた者の自分の立場の表明した書籍を、実践を、そうでない人間が 書籍の形や、あるいは演奏会のチケットの形で消費するというのは、一体どういうことなのか? 弁の立つ名人芸的ピアニストへのファン心理と何が違うのか? 音楽家が音楽について考え、実践するのは正当なことだろう。 でも、それは私にとって一体何の関係がある?私は音楽家ではない。
演奏家―作曲家の特権性だけではない。 例えば、音自体に拘り、あるいは音と音との抽象的な関係という次元に 己を限定する音楽についての緻密な思考は、だが、音楽家でない私にとって何なのか? 彼らは、その人並み優れた自分の能力に応じて、自分の問題を解いている。 だが、それは私には結局関係がない。 問題意識は結局共有できない。 それはきっと私は音楽家ではないからだ。 彼らは音楽家の「音楽家としての」問題意識の圏内で動き、結果を生み出す。 だが、私が音楽に聞きだすのは、最後の部分では、音楽家固有の問題に 対する技術的な対応ではない。
私はそうではない。私にとっては、自分も含めて、自分の身近にいる人間の心の傷や不安、怖れの方が問題だ。病や老い、そして死。 それは自分自身の問題でもある。 勿論、個人の次元では解決はない。 社会的次元にこそその手がかりがある、というのは正しいのだろう(だからこそ、私は「他者論」に関心を持ったわけだ)。 だが、それでもクオリアの私性を何かでごまかすことはできない。 個人の次元は純化する必要もないし、そうすべきではないのだが、だからといって解消されてはならない。それは残るべきなのだ。 自分に行動すべき何かの動機があるとしたら、そうした私性の、私性ゆえの、だが結局のところ私性の「ための」戦い以外にはない。 私は親密さなどいらないが、私性、個別のこの生命、この痛みの価値は擁護したい。 意識の問題を消去するのには、意識を消去すれば良い。だが、私はつまるところその問題含みの意識そのものなのだ。 消去は私「にとって」何の解決にもなっていない。 意識は頼りなく、少なくとも有限なものだ。世代の交代は意識という現象にとっては何の救いにもならない。私はそこで行き止まりなのだ。
支配するのは怒りではなく、寧ろ無力感だ。怒りがあれば、それは何かを生み出すだろう。 そしてそれが不滅へと通じる途なのかも知れない。丁度ショスタコーヴィチのop.145が証言するように。 自然への帰依の感情、法則性、Nomosへの信頼からもまた、遠い。 だからシベリウスやヴェーベルンのあの自然の即自性は勿論、マーラーのあの憧憬からも遠ざかってしまったのだ。 単なる観点の、立場の問題かも知れないとはいえ、遺伝子の、あるいはミームの媒体に 過ぎない個体の有限性を、自分の営みの虚しさを確認することは意志を喪失させる。 何という陰惨な展望であることか。 何というところに辿り着いてしまったことか。 自然が一体何の救いになるのか? (全く風景は異なるが、no hay caminos, hay que caminar / viae inviae の対比が アナロジーとして思い浮かぶ。途がないのは同じでも、何という認識の違いがあることか。)
その法則は、何か安らぎを与えるものではありえない。 寧ろ、クセナキスの様な人間の認識の有限性への絶望と、運命の仮借なさに対する反抗の方が共感できる。 或いはショスタコーヴィチの認識の方が。 またいずれ神ならぬ盲目の進化の(Schopenhauerならそれを意志と呼んだだろう)巧みさも ひらめきもない作業の産物である自然の造化の精妙さに感動することがあるのだろうか? それでもその法則の「偉大さ」(?)に畏怖の念を覚えることがあるのだろうか?
何かを作ること、産み出すことの行く末を見定めること、それはまだ残っている。 残念なことに己の産み出すものの価値については全く信じられなくなっているが、それでも、ラヴェルの職人意識の方が、自然よりも、 人工物を信じるその懐疑とイロニーとその背後にある悲しみと諦観の方が、今の自分には信頼がおける。 裏切られた、傷ついた子供の心をどこかにしまってありながら、表面上は冷淡に、理性的に振舞うその「知性」を、 その意図された、意志的な冷たさの方に私はより多く共感できる。 自分の為し遂げたこと、自分の使命に対する信頼など、持てようがない。 それでもマーラーを否定し去ることはできないのだが、、、
かつて親しくしていた友人の夢を見た。理由はわからない。 だが、こうしてまた、あの日のマーラーの第9交響曲第1楽章をきっかけにした対話に戻ってゆく。 不滅性とあとかたもなく消えること。 あの頃の素朴な信念はもうない。けれど、マーラーの音楽がなくなったわけではない。 どんな写真よりも文章よりも生々しい経験の定着。 勿論、マーラーの見た風景が見えると、といった私は間違っている。 そんなものは音楽のどこにもしまわれていない。風景は私のでっちあげた虚像に過ぎない。 けれども、経験の質は?「伝達」としては不十分だとして、この「変換」の結果は?
もし個人が、そして個人の生産物が、完全に社会に拘束されたものであるとすれば、ミームの伝播というものが意味を持つことはない。 もし正解を生成された社会的文脈に置いて、その解釈の地平をその「過去の側」に制限するならば、未来にいる聴き手、 異境で、異なる文化的伝統の裡にある聴き手は正しい解釈から排除されてしまう。 もしミームが伝播しうるなら、そうした文脈から離れた仕方でしかない。 しかもそうしたミームを受容するものが、聴き手の裡に存在していなくてはならない。 ミームを扱うとき、都市伝説や流言のような寿命の短いもの、伝播が空間的には広くて速度は早いが、存続しないものを中心に考えるのは面白くない。 マーラーの作品やショスタコーヴィチの作品のように存続する、世代を超えるものでなくては意義が薄い。 Holbrookがマーラーとショスタコーヴィチの文化的文脈の違いを超えた共通性について論じているのは(p.239)正しい。 そして多分―勿論「了解」の問題はあるだろうが―生死の問題が相対的により普遍的であり、 文化や社会といった構造よりも一般性が高い点に、共通性が可能になる地盤を求めているのも正しいだろう。 無論、「了解」の問題はある。生死は生物学的事実ではない。 寧ろ生死についての了解が問題で、その了解に接点がなければ共通性は存在しない。だがそれは「了解」の共有を求めているわけではない。 了解は社会的・文化的な制約を受けるし、必ずしも「一致する」わけではない。 個別の了解を成立させる地盤の共通性があれば良い。 多分それは、生物学的事実と社会・文化的相対性の中間くらいにあるのだ。 それは、社会・文化が閉じていないこと、ミームの伝播が「可能」であること、そして当のミームの伝播自体が辺縁を生じさせ、 そうした共通の地盤の生成を促進するのだろう。(2008.5.27)
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