お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2024年3月8日金曜日

「歌う骨」が私に語ること―「嘆きの歌」上演によせて―(2023.12.24 マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会によせて)(2024.3.8更新)

※お詫びと訂正:マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会の公演プログラム掲載の文章「「歌う骨」が私に語ること―「嘆きの歌」上演によせて―」の中に誤記がありましたので、お詫びして訂正致します。以下の文章では修正されていますが、「嘆きの歌」と旋律の相互参照がある同時期に書かれた歌曲は、リートと歌第1集に含まれる「春の朝」ではなく、それに先行する最初期の3つの歌曲のうちの一つである「春に」です。関係者およびプログラムをお読み頂いた方には、校正不足のためにご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。(2024.3.8)

 「嘆きの歌」は作曲者本人が自分の「作品1」であると語ったにも関わらず、他の交響曲がすっかりコンサートのレパートリーに定着した今日でも上演の頻度は低く、所謂「稀曲」「秘曲」の類であることは否み難いようだ。実演のみならず、マーラーの交響的作品の中では圧倒的に録音記録の数が少ない作品でもあり、マーラーの交響曲全集を完成させるような、所謂「マーラー指揮者」と呼ばれる人でも、「嘆きの歌」をレパートリーとし、録音記録があるのはごく一部に限られる。その理由として、物語的な性格が強く歌詞の理解が求められること、内容が陰惨で悲劇的であること、遠隔オーケストラを含む大規模な管弦楽に加え、独唱、混成合唱が必要とされ、上演が困難であること、更には複雑な改訂の経緯を持ち、版の選択の問題があるといったことが直ちに思い浮かぶが、そのいずれも単独では他の作品にも当て嵌まることであり、寧ろ「若書き」で「未熟」であるという評価に加え、後にマーラーが到達した交響曲という形式に拠らない異質の作品であるという点に拠る面が大きいのだろうか。

作品の完成を告げる1880年11月1日付の書簡で「次になすべきこと」として語った「考えうるあらゆる手段を用いてこの曲を上演すること」に対するマーラーの拘りは、20年以上後の1901年に王室・宮廷歌劇場監督に昇り詰めたマーラー自身の指揮でようやく初演に漕ぎ着ける迄絶えることなく続いた。この作品を語る時に決まって言及されるベートーヴェン賞への応募と落選の逸話の細部には実はマーラー自身による記憶の錯誤が含まれ、意識的・無意識的に依らず脚色があるようだが、その後1883年に当時全ドイツ音楽協会の会長であったリストに楽譜を送って評価を請うたが色よい返事が得られなかったことや、1893年に初期稿の第1部をカットし、遠隔オーケストラも削除して本体のオーケストラに組み込むといった改訂を行っていることが明らかになっている。結局初演時には遠隔オーケストラは復活したものの第1部はカットされたまま2部構成となり、残された部分も標題を削除され、少なからぬ改訂を経た形態となった。出版もされたこの形態が永らく「嘆きの歌」の確定版とされてきたが、削除された第1部「森のメルヒェン」を含む全3部の初期稿も喪われたわけではなく、ようやく1997年になって初演が実現し、全集の補巻IVとして楽譜の出版が行われたことは今や良く知られていることだろう。

「嘆きの歌」のテキストはルートヴィヒ・ベヒシュタインの採集した民話「嘆きの歌」とグリム童話にある「歌う骨」に基づいてマーラー自身が書いたものだが、そうした編集作業の背後に潜む動機については村井翔さんがジャック・ディーサーの精神分析学的な解釈を紹介しつつ興味深い解説をされている(村井翔『マーラー』, 音楽之友社, 2004, 172頁以降参照)。フロイト的な兄弟殺しの機制がこれほどあからさまな作品をマーラーが書くことはこの後二度となかったが、この作品を「作品1」として「聖別」し、まるで「祭祀」を執り行うこと自体が問題であるかのように20年もの間その上演に拘り続け、剰えコンサートという制度の中に受け容れられ易くする改変を施しさえして上演に漕ぎ着けたことは、ディーサーによれば無意識的な罪の意識からの「行為化」(アクティング・アウト)による解放と解釈されるようだ。更に「嘆きの歌」の物語の登場人物の中でマーラーが自己同一化した対象について、ディーサーの解釈では「王」となった兄であるのに対し, 村井さんは「死者」の恨みを代弁する「辻音楽師」こそがマーラーの代弁者であるとし、作曲家は一種の媒体であって、彼なしでは声を持たぬものがこの媒体を通して語るという音楽観が「嘆きの歌」においても既にはっきりと表明されていることを指摘されておられるが、これもまた至当と思われる。

だがここで指摘しておきたいのは、作品創作や改訂の心理的な要因よりも、マーラーの創作にあって首尾一貫している幾つかの傾向が「嘆きの歌」においても明確に現れている点である。

同時期に書かれた歌曲(ここでは「春に」(※お詫びと訂正参照))との旋律の相互参照と並んで、テキストの選択に関し、他人の手になる素材をそのまま利用せず、編集・改変によりオリジナルな版を構成するのは、第2交響曲でのクロップシュトックの「復活」の讃歌から「大地の歌」の「告別」に至る迄続くマーラーの「方法」の最初期の例と看做すことができるだろう。

それ以上に興味深く思われるのは「歌う骨」という「楽器」の存在である。「辻音楽師」が「死者の無念を晴らす」ための媒体として機能しているのは確かだが、彼自身の声で代弁するのではなく、拾った死者の骨を笛に仕立てることによって死者の声の語りが可能になっているという構造に注意しよう。歌うのは他の誰かであって音楽家自身ではない。更にここでは「歌う骨」とそれを吹く人間の役割は通常と逆転し、骨=笛は人が歌うための楽器=メディアではなく、逆に人間は息を吹き込んで骨=笛が歌うことを可能にしているに過ぎない。「辻音楽師」は第一義的にはこの世にただ一つしか存在しない楽器の製作者であり、息を吹き入れることによって「死者」に声を与え「幽霊」を蘇らせる役割を果たしているに過ぎないのである。

更に付け加えて言えば、楽器の発する(単なる音響ならぬ)「声」は「嘆きの歌」という音楽作品において人間の声によって代弁される。語りも嘆きのルフランも3人の独唱と合唱とが受け渡すようにして繰り広げていくのであり、独唱者が舞台作品におけるような固定的な役割を担うことはない。初期稿では少年の声が充てられていたパートは、改訂によって女声(アルト)に置き替えられるが、これもまた「原光」から「告別」へと至る、マーラー特有の異化の操作の一つと捉えることができる。同様に改訂における標題の削除についても第1交響曲や第3交響曲の例が直ちに思い浮かぶが、一連の改訂が具体性・標題性を剥ぎ取って抽象化していく方向性を一貫して持つのは、時系列的にこれらの作品の創作・改訂時期が重なっており、「嘆きの歌」改訂版の初演はそうした作業の最後を告げ、句読点を打つ出来事であったことを思えば当然であり、そもそもマーラーが「嘆きの歌」を「作品1」であると語ったのもそうした一連の改訂作業を通して獲得した認識に拠るものに他ならないことに留意すべきだろう。

ナターリエ・バウアー=レヒナーが記録している少年期のマーラーのエピソードの一つに、アコーディオンを与えられた少年マーラーが耳にした音楽を片端から記憶してアコーディオンで再現してしまったというものがあるが、ここでもマーラーが自分の声で歌うのではなく、アコーディオンという楽器を媒介として、まるで自らは再生装置のように他人の音楽を再現した点が興味深い。ピアニストとしても相当の腕前であったらしいマーラーは、だが長じては指揮者となり、自分の声で歌うはおろか自分で楽器を演奏することすらなく、他者を通じてその場には不在の他者の声を語らせることを選んだが、思えばこれもまた自己の内面を歌うのではなく誰かの声のメガホン替わりになるという作曲者としての姿勢と一貫していることに気付く。

更にマーラーの作品が常に持っている、そのそれぞれが仮構された一つの世界であり「夢」の如きものであるという構造が、既に出発点である「嘆きの歌」において明確であることにも注目したい。後にそのための媒体としてマーラーは交響曲というジャンルに辿り着くことになるが、そこに至るまでには更なる紆余曲折があり、次には2部5楽章からなる交響詩「巨人」に対して「嘆きの歌」と同様のカットを施して第1交響曲とするといった歩みが繰り返されることを念頭に置くならば、結果的にカンタータというジャンルに属することになった「嘆きの歌」は、マーラーが「交響曲」を再発見する段階に先行する、未成の「交響曲」であると考えることもできるだろう。

かくして「嘆きの歌」は、マーラーが兄として弟に対して負っている心理的な負い目を音楽化するとともに、自らが音楽家になって他者の歌を媒介することを引き受けることでその負い目を償うことを選択したという原点の証言であるとともに、作曲家としてのマーラーの様々な志向が最初に発現した特異点として、まさに「作品1」に相応しい実質を備えていることが浮かび上がってくるのである。

ところで骨で笛を作ることに関しては、考古学的遺物として世界の各地で確認されている様々な「骨笛」が思い浮かぶ。スティーブン・ミズンが『歌うネアンデルタール』で紹介している5万~3万5千年前のものと推定される正円の穴が開いた熊の大腿骨は、肉食獣が犬歯で噛んだ跡が偶々笛の穴に似たということのようだが、中国の河南で7千~8千年前に作られた鶴の骨のそれやタジク族や中南米に見られる鷹の骨のそれは疑いなく「笛」として用いられたようであるし、チベットでは法具として人間の骨でできた笛が用いられると聞く。

道具の制作も高度な共感も、或いは死を悼むことすら人間固有の能力ではなく、他の動物にも共通する生物学的な基盤を持つ可能性があるが、「幽霊」を見ることができるのは人間のみであり、「今ここ」には存在しないものを追憶し、「死者」に語らせるために骨で笛を作るのもまた、「現実」とは別に「虚構」を共有できる人間のみの営みであろう。そしてまた「死者」の追悼は、単なるその場限りの同期、同調、一体感ではなく、場所を変え、時を変えて記憶し、反復し、継承するという側面を必須なものとして含んでいる。更に儀礼によって「物語」が空間的な拡がりをもって共有され、時間的な拡がりをもって伝承されるためには、それが記録され、伝承されることが必要条件であり、予め反復可能でなくてはならないことを思えば、マーラー本人によって初演されてから100年以上の歳月を隔てた地球の反対側で、未だに演奏の伝統が稀薄で演奏に困難が伴う作品、けれどもその後の全ての作品の原点にあたる「作品1」を有志の手によって再演することの持つ測り知れない意義と価値の重みは自ずと了解されるのではなかろうか。それは他のどの作品にも増して長い20年もの間忘れることなく、「儀礼」としての上演を果たしたマーラー自身の行為を、場所を変え、時を変えて記憶し、反復し、継承することによってマーラーその人に応答することに他ならない。(2023.10.5, 2023.12.28本ブログにて公開)

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