お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2019年11月17日日曜日

MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):和音の分類とパターンの可視化(2021.8.23更新)

重心計算を除けば、MIDIデータを入力としたこれまでの作業は、ほんの初歩的なデータ処理に過ぎなかったわけですが、ようやく「音楽」として普通にイメージされる分析の出発点として、各小節頭拍で鳴っている和音(含む単音、2音)を

(1)ひとまず転回を無視して分類
(2)単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音を抽出
(3)転回を判定するために、最も低い音を抽出
(4)上記を用いて、長三和音、短三和音が鳴っている時点を転回つきで抽出する

といったことをやってみました。データとしては既に公開済の基本データのなかのseqと呼んでいる、同時に鳴っている音の組み合わせの系列を抽出したデータのうち、B系列と呼んでいる各小節頭拍のデータのみを抽出した結果を使いました。ただしそれだけだと(4)のための情報がないため、上記に加えて、同時に鳴っている音の組み合わせのうち、最低音の音名の系列を抽出したデータを用意しました。

結果を示すために、リュッケルト歌曲集の「私はやわらかな香りをかいだ」についての上記の処理結果を図示したものを以下に示します。



一番左の列が(1)の結果です。37小節分のデータがあり、そのうち36小節を分析しています。(MIDIファイルでは、曲頭の小節を色々な初期設定情報を詰め込むためのダミーとすることが良くあります。)和音のパターンは、単音、2音はすべて、三和音、四和音、五和音、六、七、九は分析対象としたマーラーの作品(全交響曲と幾つかの歌曲)や比較対照用の他の作曲家の作品に出現するものを直観的に頻度が高そうなものを130種類くらい用意しました。

  • 4,5行目に0小節,100%と出ているのは、未分類の和音の数、分類進捗率を示します。未分類の和音がなく、分類がすべて終わっていることを示します。
  • 6,7行目の15小節、41.667%というのは、3和音, 4和音からなる小節数、占める割合です。
  • 8,9行目の0小節、0%は、5和音以上の複雑な和音の小節数、占める割合です。この例では5和音以上の複雑な和音は使われていないことを表しています。

10行目以降が各小節毎の和音の種類を示します。
背景色は、単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音についてはパターンを表現し、その他の和音については、3和音なのか4和音なのか、5つ以上の複雑な和音なのかの分類を表現したものです。数字は例えば32がCの単音、256がAの単音、2057は432はGesの長三和音といったように、和音のパターンを示します(ビット表現を10進数で表したものです)。またわかりやすさのために、1音、2音のは文字色を青に、未分類の和音は文字色を赤にしてあります。この歌曲は「大地の歌」の末尾と同様、付加6の和音で終わることで知られていますが、最後の背景色桃色の番号3456はDの付加6を表しており、正しく抽出されていることがわかります。

二列目が(2)の結果です。

  • 4,5行目に4小節, 88.889%と出ているのは、単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音には分類されない和音の数、単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音の占有率を示します。4小節分は、上記に含まれない特殊な和音が使われていることを示します。
  • 6,7行目の21小節、58.333%というのは、単音と2音のみからなる小節数、占める割合です。
  • 8,9行目の11小節、30.556%は、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音の小節数、占める割合です。
  • 背景色の定義は(1)は一列目に準じますが、ここでは背景色が白い部分は単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6のいずれでもない和音を示します。またわかりやすさのために、1音、2音のは文字色を青にしてあります。
三列目は分類された和音パターンにラベルをつけたものです。同一の分類に属するビットパターンを正の整数とみなした場合の最小値としています。例えば単音の場合には、1,2,4,8,16,32,64,128,256,512,1024,2048の12種類(それぞれDesから五度圏のドミナント方向廻りにFisまでの12音の単音に対応)がありますが、このパターンのラベルは、12種類の中の最小値である1としています。最後の小節の27は付加6の和音のパターン(転回形は同じパターンに属するとして区別しない)を表します。

五列目・六列目が(3)の結果です。
各小節頭拍で鳴っている音のうちMIDIコードで最も小さい値=最も低い音の音名のみを抽出したものです。数字は音名を表します。ここではDesが最下位ビット、Fis=Gesが最上位ビットとしてビット列を定義しているので、数字と音名との対応は以下のようになります。
Des  1
Aes 2
Es 4
B 8
F 16
C 32
G 64
D 128
A 256
E 512
H 1024
Fis 2048
背景色は私の持っている色聴をベースに、しかしそれに似せることを目的とせず、それらしく区別ができるように上記の数字と音との対応に基いてColorindexの中から適当な色を選択しています。なお、参考までに、同様の方法で最高音を抽出して色づけしたのが、名七列目・八列目になります。

四列目が(4)の結果となります。
(2)の中の長三和音、単三和音だけに注目して抽出したものに対して、各小節頭拍において(3)で抽出した最低音の音名から、それが各和音の基本形か第1転回形(6の和音)か第3転回形(4-6の和音)かを文字色で表現しています。即ち 黒=基本形、緑=第1転回形、赤=第二転回形です。文字はその音名を根音とする長三和音、単三和音に相当する音の組み合わせがその小節の頭拍で選ばれていることを表す形式的なものであり、楽曲分析の結果得られた主音を意味している訳ではありません。

背景色は、(2)に準じますが、長三和音、単三和音のみなので、ピンク色が長三和音、橙色が短三和音を表します。またここでは背景が白で数字が入っていない小節は、長三和音、単三和音以外が頭拍で鳴っていること一方、背景色が灰色の部分は、その小節では音が鳴っていないこと(ビット列に対応する数字は0)を示します。曲頭の灰色はMIDIデータにおけるダミーの小節でなければアウフタクトで始まる場合を表しています。曲末の灰色はその手前が最後の小節であることを表しています。

以上からわかる通り、ここで行っているのは通常の意味での楽曲分析ではなく、その手前の鳴っている音名の組み合わせが何であるか、またその最低音の音名が何であるかについての「記述」に過ぎません。しかしながら、上記の情報からだけでも、ある作品に使われている音の組み合わせ・和音の種類数の多寡とか、利用頻度の偏りといった統計的な情報が得られますし、特に主和音の基本形・転回形の出現頻度も同様に調べることができます。また単純なドミナント・サブドミナント・ドミナントセブン(と付加6)によるカデンツに相当するパターンを抽出することも可能でしょう。ただしあくまでもここで抽出できるのは、音の組み合わせの遷移のパターンであって、楽曲分析において機能づけされた和音のカデンツを見出すこととは違いがあります。例えば調性の概念や中心音の概念はまだありません。それらをアプリオリに前提とせずに、選ばられた音の組み合わせの系列の遷移過程を眺めることで、マーラーの音楽の特徴のようなものを抽出できないか、というのがここでの問題設定であることがご理解頂けるのではないかと思います。

最後に、今回の分析をやったづれづれの感想を記しておきます。また計算結果が出たばかりで、結果を細かくてみているわけではないのですが、幾つか今後の作業を進めるにあたって方針づけとなる知見も得られたように思います。

これまでに重心軌道計算結果や基本データを公開してきましたが、今回の分析をするにあたって、MIDIファイルから抽出された入力データが、そもそも(完全にではなくても、分析を進めるにあたって支障とならない程度には)正しく小節頭から抽出されているかをはじめとして、MIDIファイルのデータの信頼性について、大まかにではありますが検討を行いました。

その結果、従来の基本セットについて幾つかの問題があることがわかりました。そのうちの一つは、DTMの領域では「クオンタイズ」の対象とされる問題、つまり通常は演奏されたデータにつきもののタイミングのばらつきのために分析上正しい位置に音が存在しないことに由来する問題です。これは従って一般的にはMIDIシーケンサが持つ「クオンタイズ」の機能を用いれば解決する性質のものです(ただしそれを全自動でやることは非常に難しく、今日のAIのベースとなっている機械学習の恰好の問題であると思われます)が、「クオンタイズ」を行うことは楽譜への忠実さという点からはプラスになっても、それを聴いて利用する点からは却って不自然になる可能性もあり、目的に応じて判断は変わってくるでしょう。いずれにしても歌曲のデータのうち、最も多くの歌曲のデータを公開しているサイトのMIIDファイルが、「カラオケ」を提供するという目的故に、ここでの目的に限って言えば極めて信頼性が低く利用に耐えないらしいことがわかりました。それを踏まえて基本セットの見直しを歌曲について行い、対象作品を限定しました。(歌曲では、特にピアノ伴奏版において、高声用、中声用、低声用といったように原調から移調されたヴァリアントが存在するという事情もあります。)

この「クオンタイズ」に纏わる問題は他の交響曲のMIDIデータでもかなりの頻度で発生していますし、類似した問題として、拍の頭がグリッドに対して規則的にずれている、それがチャネル毎に異なるようなケースもありますが、結果だけを見て、それが単に「クオンタイズ」をしていないだけなのか、楽器の特性等を考慮して意図的にずらしたものなのかを判断するのはしばしば困難を伴います。いずれにしても、「拍の頭で鳴っている音を抽出する」以上、鳴っている筈の音が、ほんのわずか遅れて鳴り始めるために拾えないこともあれば、前の拍に属する音が次の拍にかかってしまっていることもあるといった事態が致命的なことはご理解頂けるかと思います。この問題については分析の際に或る程度の補正をすることは考えられ、実際に試行も行っていますが、補正が常にうまくいくとは限らず、却って元のデータを誤って加工してしまう可能性が排除できないことから、公開しているデータは補正を行わずに解析を行った結果をとしています。

上記以外にもMIDIファイルの仕様に由来する(つまり楽譜だけからは思いつかないような)問題もあります。そのうち今回の分析にとって致命的なのは、タクトの情報が欠落している、或いは入っているがずれている場合です。これも入力したデータを再生して聴くだけなら全く問題が起きないことから、そもそもMIDIデータ作成の目的が異なれば仕方ないことではありますが、小節の頭拍の和音を抽出しラベルづけする、重心を計算するといったことをしようとした時には大きな問題になります。特にマーラーの場合、変拍子が比較的頻繁に発生するので、単純には解決できません。(その一方で、聴感上の強拍と譜面上のそれが意図的にずらされているケースもまたマーラーの場合珍しくないですが、こちらは別の問題で、そもそも小節の頭拍を機械的に抽出するという、今回のアプローチ自体の問題になります。)

もう一つ、これもマーラーの場合に特に問題になるのが打楽器の扱いです。MIDIの仕様上、ピッチの決まらない打楽器はデフォルトでは第10チャネルに割当られてられ、この場合に限り、MIDIノートナンバーが音高ではなく、音色の違いを表しているのはご存知の方も多いかも知れません。ただしMIDIファイルの作り方には大きな自由度があり、シーケンサによってやり方は様々です(従って入力をする人間がそれを常に意識しているとは限りません)。打楽器でもピッチのあるものは別チャネルになっている場合もあれば、第10チャネルの中に混在している場合もあります。後者の場合にはMIDIノートナンバーが実質的にピッチを表している場合とそうでない場合が混在していることになり、はなはだ厄介です。そこで考え付く極端な解決策は、第10チャネルを解析の対象から除外してしまうというやり方で、最終的にここで選択されたのは、実はこのやり方です。ピッチがある場合でも打楽器はその音色の特性からピッチが明確に聴き取れるわけではなく、しばしば他の楽器によって同じピッチが裏打ちされていることを考えれば一定の妥当性があるようにも思えますが、ご存知の通り、マーラーの場合にはティンパニを初めとして打楽器のソロというのが珍しくないので、MIDIデータの作り方によっては、そうした部分が切り落とされてしまうということが起きてしまいます。結局、何を目的で分析を行うのか、その是非を決めることになり、今回、私は、最終的にはそれを含めることで、分析結果にノイズが入り込む可能性よりも、それを除外することで一部の和音から音が欠落することの方がより問題が小さいという判断をしたことになります。

こうしたことを考えると、ありとあらゆる場合に対応した解析プログラムを作成することは非常に面倒な作業になるため、現実的な割り切りとして、対象としているデータセットにおいて問題が起きないようにプログラムを作るといったことが必要になります。その時、特定の人が特定のMIDIシーケンサを使って入力したデータは基準が統一されていることが期待できるので、対象データの選択にあたっては、まずカバレッジ(被覆率)の高い作者のデータを用いることが最初の選択肢となりますが、その際には、例えば入れ間違いの頻度といったことも含めた他の問題を抱えていないかどうかも併せての判断となり、しばしば一部の問題点については目を瞑らざるを得ないということが起きます。一長一短あるならば全てのデータの結果を公開するという発想もあるでしょうが、今度は、全てのデータについて対応できる汎用的なプログラムを用意すること、全てのデータについて、それぞれに異なる制限を確認する膨大な作業が発生することを考えると、これもまた現実的な選択肢になりませんでした。

ということで現在公開しているデータセットは、上記のような様々な事情を勘案した上での或る種の妥協の産物であるに過ぎない点をここで明確にしておきたく思います。末尾に記載の[ご利用にあたっての注意]は、この場合に限っては形式的なものではなく、実質的なものであることにご注意ください。(ちなみに上に例として出した「私はやわらかな香りをかいだ」は、上述の様々な問題の影響が比較的少ないことを確認して掲出することにしたものです。)

また比較対照用に用意した他の作曲家のデータについても、今回の分析で大まかな傾向ではありますが、それなりに興味深い知見が得られました。

例えば今回用意した130くらいのパターンで、バッハから古典期にかけての作品は、あくまでも選択された作品の範囲ではありますが、ほとんんど分類可能であることが確認できました。その傾向は特に声楽曲に強いように見受けられました(声楽曲の方が単純、ないし保守的な傾向があるようです)。ロマン派ではブラームスに比べてシューマンの方が未分類の和音が若干多い傾向が見られました。ブラームスは和音が凝っている印象があったのでちょっと意外な気もしましたが、曲の選択のせいかも知れませんし、上述のMIDIファイルの精度の問題のせいかも知れません。マーラーはここでの分析結果に限れば、未分類率だけからすればシューマンの方により近く、作品によりばらつきがあるブルックナーやワグナーと似たような傾向を示す一方で、ラヴェルやシュトラウスは明らかに未分類率が高く、複雑な和音を用いていることを窺わせます。聴感とも一致しますが、マーラーが全音階的とはいっても、和声の種類について言えば保守的でもなければ単純というわけでもなく、その特徴を表すものが何なのかを突きとめるには、時間をかけてきちんと調べる必要がありそうです。ただし、今回確認した範囲でも、マーラーの中では、歌曲の方が複雑な和音を用いる程度が低く、年代区分としては、後期にいくに従い未分類の和音が増加する傾向は認められるように思えます。

転回形に関連して一つ不思議に思ったのが、シェーンベルクがプラハ講演で、マーラーの第8交響曲第1部におけるEsのIの4-6和音(第2転回形)を頻繁に用いていると述べている件があるのを何となく覚えていて、どうかと思って処理結果を眺めてみたのですが、単純な三和音だけに限定すれば、文字通りのEsのIの4-6和音(第2転回形)が有意に多いようには思えませんでした。ただしEsのI和音全体としてみれば、他の作品に比べて頻度が高いのは確実に言えそうです。しかもここでの分析は小節の頭拍のみに限定していますから、それ以外の拍に出現したEsのIの4-6和音(第2転回形)は考慮されていません。全ての拍について調べてみる必要もありそうです。

なお、上記の分析結果のデータのうち、マーラーの全交響曲と一部の歌曲のデータを以下で公開しています。

https://drive.google.com/file/d/1WlBYSIrJIgKi4cV039sa5rl5YzbpfLZr/view?usp=sharing

解凍するとexcelファイルが3種類とpdfファイルが1種類出てきます。
pdfファイル(experimental_MidiFileName.pdf)は対象となったMIDIデータ・作品の対照表です。excelファイルについては以下の通りです。

chord_seq:上記の1列目(sheet1)・3列目(sheet3)に対応。sheet2は3列目で用いているラベル毎に、各グループに属するビットパターンの類型出現回数を集計した結果です。
main_chord_seq:上記の2列目に対応
bass_seq:上記の:4列目(sheet1)・5列目(sheet2)・7列目(sheet3)に対応


用いているMIDIデータや対象となっているマーラーの作品については、以下の重心計算のページをご覧ください。

https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/09/midi.html

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。

(2019.11.17公開, 11.19データ公開, 11.22更新,11.24加筆・修正,12.1最高音のデータを追加し、第8交響曲第1部のEsのI46について付記、2020.1.28 データを改訂版に差し替え)、2.1 MIDIデータ解析上の様々な問題点について付記, 2021.8.23重心計算ページへのリンクを修正。)

2019年11月10日日曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析についての予想:発展的調性を力学系として扱うことに向けて

 「マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_4.html)の末尾で、マーラーの音楽の音響態としての構造のどこに「物語性」を成立させる契機が含まれるのか、ひいては「意味」を見出す手掛りがあるのかについて、漠然とした予感ながら、音楽が時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想を採り、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて音楽の構造を分析すること、しかも完全に客観的なデータの分析というのは不可能であるという点は踏まえた上で、作曲のためのユーティリティに過ぎない規範、或いは先行する時代のモデルとなる作品を分析するために設定された規範(例えばシェンカーのモデルもそうしたものの一つであろう)からの逸脱の距離を測るのではなく、マーラーの楽曲のデータそのものから読み取れるものは何かを探るというアプローチについて述べた。

 一方、そうしたデータ分析の実践として、「MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/09/midi.html)において、MIDIファイルを入力としたごく初歩的で予備的な分析について報告した際には、それまでに行った分析の具体的な問題点を思いつくままに述べたが、明らかなように、上記の中には、幾つか異なるレベルに理由が求められるものが混在しており、五度圏の円上の重心計算という方法に起因するものもあれば、それより手前の、相対的な音高の上下を捨象し、五度圏上での音の構成に限定してしまうことに起因するものもあった。

 前者の例としては、そこでの重心が西洋の和声学上の調的中心の近似としてはかなり粗いものに過ぎないこと、単純なところでは、同時になっている音が2つ以下の時は重心は五度圏の円周に近づく一方、中心からの方向が三和音(I)からずれていく点、言い替えれば、ある音の五度圏上の座標の円中心からの方向に対して、その音を主音とする調の主和音の座標の円中心からの方向がずれてしまうこと、更に、それが同時に鳴っている音の数に由ること、つまりトニカと空虚5度、根音のみの重心は、θがずれてしまうことが、伝統的な調的中心への近似としては問題がある点の他、和声→重心の写像がが一対一対応ではなく、逆写像が単射にならない。つまり幾つかの異なる音の組み合わせが同一の重心を持つことを挙げた。

 一方後者に属する問題点は、和声の推移のパターンの抽出をしようとすると、同一和声が複数時区間にわたって持続する情報はパターン抽出の邪魔(同じ音の連続というパターンとして扱ってもいいが、分類の観点からはノイズにすぎない)というような、単に重複を取り除くことで技術的には簡単に対応できるものは除くと、更に詳細に分類することが可能であり、根音や転回の有無の情報がなくなることは、五度圏に帰着させる際に音高を捨象してしまうというここでの方法論に起因するのに対して、以下の点は、寧ろ、このようなデータ分析をする上で、人間の分析者が、スキルやノウハウとして暗黙の裡に身に着けている処理が明示化されることが必要となるという、人間の作業の一部を機械化する情報処理システムの構築の際に起きる事態、特にAIの領域においては、かつて「知識工学」の課題として捉えられたようなレベルのものと考えられる。
・サンプリングする時刻において同時に1音、2音しか鳴っていない時、1音、2音で重心計算した結果を、3つ以上の場合と混在させることの問題。伝統的な発想では、1音、2音の時も常に3和音のどれかに帰着させるはず。
・上記を考慮しなくても、3つ以上の音の重なりの和声機能の候補は常に複数あり、調的文脈なしでは決定できないこと。長調・短調の区別すら文脈なしではできないこと。
 ここではこの問題を、データ処理における具体的なデータ構造に関連付けつつ、もう一度振り返ることによって、ありうべきデータ分析についてのイメージを示すことを目指したい。それは「マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ」末尾で述べたような、具体的にデータを処理しようとしてぶつかる問題への対応を一つ一つ検討していくことによって、既成の規範を暗黙の前提とすることなく、それをいわば現象学的還元して、寧ろそれが拠って立つ基盤を明らかにすることへの試みであり、規範からの逸脱としてではなく、寧ろ異なる選択肢を都度(アドルノの言葉を借りれば)「唯名論的に」選び取って、実質的な仕方で世界を構築する仕方を拡大していったマーラーの営みを明らかにする端緒となることを目論んでいる。

 そしてそれを出発点として、データ分析を進めていく際の、さしあたりの目標、サブゴールのようなものとして掲げた、発展的調性を力学系として扱うことへ向けての第一歩として、Dika Newlin 以来の発展的調性を、調的なスキーマ(ドミナント優位のシェンカー的図式ではなく、 同主調とか3度関係、サブドミナント側への連鎖などの使用や、転調のプロセス、 特に媒介なしの切り替えの使用など、Dahlhaus の言う「オリジナリティの原則」の周辺で、 具体的な特徴が取り出せるのではというように感じている)と関連づけ、これまた Paul Bekker 以来の交響曲という多楽章からなる楽式に関する古典的な問題、即ちフィナーレの問題と結び付けて再解釈することにより、マーラーの音楽の時間性の特徴である「物語性」にアプローチするための第一歩となればと考えている。

まずMIDIデータから抽出した、小節頭拍に鳴っている五度圏上音の集合を、12音各音を1ビットとする12ビットのベクトルで表現することを考える。ビットが立っている(=その桁の値が1である)場合に、そのビットに対応する音が鳴っていること、ビットが立っていない(=その桁の値が0である)場合は、そのビットに対応する音が鳴っていないことを表すとする。この時、調的遷移の過程は、このベクトル列上のビットの遷移パターンの系列で表され、その変化の過程を力学系として考えることができる。ただし遷移規則は今のところ未知であり、また遷移規則が求める付加的なデータ構造(典型的には直前ではない、過去の状態の記憶であったり、ビット列以外の外部的なデータであったりするだろう)については、その必要の有無も含めて、現実のマーラーの楽曲のデータからボトムアップに推定されるものと考えたい。遷移規則自体も伝統的な和声学や対位法、楽式論のような既成の規範に基いて天下りに与えるのではなく(そうしてしまうと規則からの逸脱を測るといった発想から逃れることは困難だ)、実際の作品が描き出す軌道から法則性を抽出するといった方法をとることにしたい。この枠組みだと機械学習で規則を学習させるというのも可能であろう。だがここではそうした先走った議論は一先ず措いて、上記のベクトル表現と、その上での遷移規則が具体的にどんな性質を持つことになるのかを、少し細かく見ていくことしよう。

 12ビットのビット列のどの桁に五度圏上のどの音を割り当てるかは任意だが、例えば下から6ビット目がCであり、かつその左隣、つまり1桁上が五度高いGを表すというように定めれば、隣接ビットが五度圏上でも隣接する音となる。 000001100000 と隣接ビットに1が立つ。あるビットに対応する音に対して左隣が5度上の音、右隣が5度下の音となる。また一番左のビットの更左隣は一番右のビットとなるという巡回的な構造となっている。つまり 100000000001 では、最上位桁と最下位の桁が隣接しており、五度圏の円を、丁度、最上位桁に対応する音と最下位桁に対応する音の間で切断して、直線に移したような具合になっている。注意すべきは、ここで定義したビット列上では転回形の区別がなく、五度と四度というのはビットパターンとしては区別がつかないことになることである。即ちCに対してGは五度上の音でもあり、四度下の音でもある。逆にCに対してFは四度上の音でもあり、五度下の音でもある。

 同様にして、長二度(短七度)は1ビット離れて 000010100000 、短三度(長六度)は2ビット離れて 000100100000 、長三度(短六度)は3ビット離れて 001000100000 、短二度(長七度)は4ビット離れて 010000100000 、最後に増四度は5ビット離れて、 100000100000 となる。最後のケースでは、左右いずれの側からも5ビット離れており、これは五度圏の円の反対側に位置していることに対応する。そして上記で同時に2音が鳴るケースの全パターンを網羅していることになる。
 同時に3音が鳴る、いわゆる三和音の場合に進むと、C音を主音とする長調のIの和音(ミソド)は 001001100000 のように表現され、ここでも転回形は区別されない。ドミナントもサブドミナントも、上記のベクトルを左右に1ビットシフトさせるだけでできるから、ビットパターンとしては区別がつかないことになる。一方で同主短調は、000001100100 平行短調は 001100100000 でビットパターンとしては長調の左右対称形になっていることがわかる。そして、いわゆる全音階の基本的な三和音は、ビットパターンとしては上記の2パターンに帰着されることになる。
 四音が同時になる七の和音、五音が同時になる九の和音も同様に、
001001101000、001011101000 となり、付加6の和音は 001101100000 で、後の2つのビットパターンは自己対称性を持つ。

 次に、こうしたビット表現に対してビット列とビット列の変換を定めると、典型的な変換としては以下のような操作が基本操作として考えられる。
(1)左シフト・右シフト(5度・4度転調)
(2)左右反転(長調・短調の転調)
(3)ビットを立てる(音を増やす)・ビットをクリアする(音を減らす)
常に3声体を前提にすれば(3)は不要になって楽だが、現実のデータはそうはなっていない以上、(3)の操作はパターンの遷移を記述する上で省略することができない。更には、同時に1つの音のみが鳴っている場合、2つの音のみが鳴っている場合に、それを三和音に帰着させるためには、ビット列の遷移以外の情報が必要となることがわかる。

 そしてこれらの操作のそれぞれについて操作にかかるコスト(必要とされるエネルギーの量)を考えることができるだろう。例えばドミナントやサブドミナントへの遷移は、(1)の操作1回で済むのに対して、それ以外の操作は(1)を複数回繰り返す必要があるので、その分コストがかかるといった測度が導入できることになる。同様にして、3度の転調でも短三度と長三度を比べると前者より後者の方が「意外感」が大きいのは、シフト操作の移動量が大きいからという説明が可能になるように思われる。同様に、ビットを立てるにしても、空虚5度から三和音なら1ビットの追加で済むように、三和音の構成音を抜いたり足したりのコストは小さいことになりそうだ。

  (1)(2)(3)の操作の間のコストの大小については何らかのやり方で決めてやる必要があるが、コスト関数が文化依存か物理的な一般性があるのかは今は問わないことにしよう。とにかく操作コストで距離空間を張ることができて、距離により意外性のようなものが測れると同時に、例えば転調の移行の際のピボットやドッペルドミナントとかサブドミナントマイナーのような借用和音も、やや大きいが一定のコストの範囲内で収まる操作として定義づけることができることから、「多少の捻りを加えることによって変化を与えつつ、比較的自然な推移を実現する」といったヒューリスティクスの根拠を、ある程度自然なかたちで定義することが期待できそうである。

 これまでの説明は、通常五度圏上で行われる議論を、ある場所で円環を切り開いて作られる巡回ビット列(一番左の左は一番右に繋がっている)の操作に置き換えているだけなので、当たり前のことを説明しているだけに見えるかも知れないが、逆に問題が起きる場合には、五度圏での説明自体が妥当でない可能性があることを念頭においておきべきだろう。或いはまた、ここでの五度圏の使い方が誤っていて、本来適用すべきでない事柄に不当に適用していることが原因である場合もあるだろう。例えば、既に例示したように、ここでのビット列での表現では音高の情報が落ちてしまい、和声においては転回形の区別がつかなくなっている。そしてこのことがビット列の遷移の規則を推定するにあたって問題を引き起こしている可能性がある。特に三和音の第2転回形である四六の和音は、単独の機能を持たず、前後の文脈に依存するという説明の仕方が為されることがあることに留意すべきだろう。ただし、音高の情報を喪うことが規則の推定にどの程度影響するかは明らかではないし、個別のケースに依存する可能性も考えられる。ここでも和声学は規範として第2転回形を使う際の制約条件を与えるが、データ分析において禁則が出現した場合に、それがどのような力学を持つかの説明はしてくれない(少なくとも私が知る限り)。上記の例で行けば、第2転回形についてだけ制限がつくのは何故なのかの説明はないし、第1転回形は形の上では異なるにも関わらず基本形と機能上の違いが無いのは何故なのかの説明もまたない。勿論、和音の並べ方の規範としては、まさに「単独の機能を持たない」ことが禁則の「理由」に他ならないのだろうが。序でに言えば、ビットの付加・削除の操作に相当するのは、声部の増加・減少だが、これも上で触れたように、和声学の規範の上では例外としての扱いを受けるもののように見える。特に声部が1つないし2つになった場合の力学は明らかではない。だが現実のデータではそれなりの頻度で出現するわけだし、規範からすればそこには不決定性や曖昧さがあるということであればあったで、力学系としてはそれも含めて記述したいのである。当然、ここでの音高を落としたビット列での表現が必要にして十分であるということを主張するつもりはなく、実際に分析をしてみて、それが致命的な問題を引き起こすのであれば、データ表現を音高を保存する形に修正すべきなのだが、一方で、ここでのビット列の情報だけで何が出て来るのかを見てみることも全くの無意味というわけではないだろうから、とりあえずはこのデータ表現を前提に議論を進めることにする。

 その一方でここのビット列での説明を、以前に行った五度圏上での重心計算および重心間の距離に基づく分析のモデルと比較した場合、両者には共通点がある一方で、重心計算では上記の(1)(2)(3)の操作が、重心による距離の空間で一元的に表現されるのに対して、こちらのビット列に対する操作については、ビットの左右反転操作(長調・短調間の移行)や音の数の増減が、ビットのシフトや反転とは異なる操作によって表現されることから、前者において生じたような角度上の捻じれが起きるような問題や移動距離が不自然(一度に鳴る音の数が増えれば増える程、円の中心に密集して、単純な距離定義では直感に反することになるなど)は気にせずに済ませることが期待できそうに思われる。(ちなみに調性の数学的モデルというのはそれだけで研究テーマとなるようで、例えば、Elaine Chew, Towards a Mathematical Model of Tonality, MIT, 1998 など幾つかの文献にあたっているが、五度圏園上の重心表示の方は多少接点があるものの、ここでのビット列の状態遷移の力学の方は目的が異なるため、ここでは参照は行わない。)

 さて、上記の説明は和声学の基本との対応づけを意識し、それをなぞるようにしているが、あくまでも説明の便宜上そうしているだけであって、ビット列の時系列上の並びが、実は和声学のような規範を意識して作られた作品から抽象されたものであることを一旦括弧入れしてしまえば、抽象的なビット列の遷移の系列について、ビット列に対すする幾つかの基本操作とその組み合わせによって遷移の力学を推定するという一般的な問題として扱うことができる。そのような見方をした場合には、ビット列上では区別がつかないある和音を或る場合には主和音と分析し、別の場合には属和音、下属和音と分析できるのが何故なのかを逆に問うこともまた可能になるだろう。だが、ここではそれはあくまでも後付けの説明であり、あくまでもデータをしたは或るビット列によって表現される同時に鳴らされる音の集合があり、それがある規則により変化するありさまが時系列に並んでいるという捉え方を一旦してみたいのである。些か極端に見えたとしても、主音、調的中心といた概念は、音楽のある側面を表現しているデータの系列がアプリオリに備えているものではなく、あくまでも分析者=聴取者が、そのデータの系列から読み取り抽出するものであると考えたいのだ。ことにマーラーの音楽のように、古典的な調的図式からの逸脱が指摘され、発展的調性のような代替図式が提案されるような場合には、主音の決定が保留の状態や、2つの調的極を揺れ動くようなことが遷移過程の中で生じており、その様相を明らかにしようとすると、主音や調的中心というのがアプリオリに存在するとするよりも、或る条件の下で形成されるアトラクタのようなものとして捉えた方が適切に思われるのである。

 ある社会的・文化的環境の下では、そうした系列を聴くと、そこには主音や調的中心があるように聴き取り、それに基づく和声の変化の分析をすることが、あたかも自然で当然のことのように出来てしまうし、マーラーの作品もそこに含まれる調性音楽の場合には一般に、そもそも作曲の際にそうした規範が参照されているのは事実に属することなのだが、例えば、既にある程度は社会的・文化的環境の中に予め組み込まれつつも、少なくともそうした規範を十分に意識された形では自覚していない、その限りでは規範を知らないと言って良い子供、或いはド・ラ・グランジュのマーラー伝への序文においてシュトックハウゼンが想定した宇宙人が、上記のような特性を持ったマーラーの音楽を初めて聴くといった状況を考えたり、更には今日ではAIが当該データを分析するといったケースを考えた時、上記のような捉え方をすることに一定の意義が認められると私は考えたいのである。

 和声学でのカデンツは局所的な遷移のテンプレートだし、転調であれば移行した後の調性の確立(これ自体カデンツが使われるわけだが)の方法というのがヒューリスティクスとして確立して、稍もするとそれが規範というよりは客観的な法則、絶対的な規則であるかの如き様相を呈するのだが、それは時代の嗜好に応じて変遷するものであることから明らかなように、一定の物理的・心理的な合理性に基づくものではあっても、物理的客観でも心理的客観でもないのだから、ここではそれらを天下りにルールとして外から与えるのではなく、力学系の遷移の過程で形成されていく地形として考えたいのである。恐らくトニカに「解決」するというのは、そこが力学系でいけばアトラクタなのだ、ということなのだろうし、カデンツはベイスンに沿った軌道を描けるように用意されているのであろう。文脈が作られて、それがトニカであると判定ができるというのも、ビット列の変化が描き出す軌道が動き回る空間におけるポテンシャルの地形に応じて、どっちには行きやすい、どっちには行きにくいというのが出来てくる、或いは場合によっては、それが一本道ではなく、サドル上で分岐が生じることもある、というふうに考えたいのある。

 そうした立場をとると、或る意味では素朴で、もしかしたら非常に原理的な疑問が直ちに幾つか浮かんでくる。例えばシェンカー分析の前提となっている理論を取り上げてみよう。シェンカーが分析の前提とする I→V→I という原則は確かに上記のビット列の力学系でもコスト的には小さく、経済的であるように見える。だが一方で同じ力学系をベースに先入観なく考えれば、素朴な疑問として、例えば以下のようなものが直ちに出て来ることになるように思われる。
(1)V→IというのはVが不安定でIが安定だという前提をおけば自然だが、ではVが不安定なのは何によるのか?ビット列としては同じバターンが右に1ビットシフトするのだが、そのことがアトラクタとなるのはなぜか?明らかにここでいう安定性はビット列自体が客観的に備えている性質ではないようだ。
(2)左1ビットシフトIV→Iもアトラクタの資格を持っている(プラガル終止)が、これはI→Vとビット操作上は区別がつかない。このことから、それはビット列自体の性質でないだけでなく、ビット列の局所的な遷移が持つ性質でもないことになる。では何が区別を可能にしているのか?
(3)V→Iが何かの理由でアトラクタであることを認めたとする。だがこのとき、そもそも一旦はI→Vというポテンシャル地形上は山登りとなるようなコストの大きな動きがなぜ起こるのか?物理学では、ここで温度の上昇でゆらぎが大きくなるというような話になるのだが、是非は一旦措いて、そのアナロジーを適用するならば、ここで温度に相当するものは何か?また、山登りは偶然に起きるものではないし、山登りの経路というものも(場合によっては複数)想定できるだろうが、それを定めるものは何か?
(1)と(2)は、上で触れた地形の形成の問題だが、最後の一つは少し水準が違った問題、音楽はそもそも何故始まるのか?もっと言えば、何もないのではなく、音楽があるのは何故なのか?という問題に帰着するようにも思える。自律主義的な美学というのは音楽の内部に、その力学の根拠が内在するという立場なのだろうが、それは既に不安定な状態にあるものが安定な状態に移行することは説明できても、何故そもそも不安定な状態になったのかを最後のところで説明できないのではなかろうかという疑いが残る。その一方で、さりとてそれを Nattiez が物語論的分析の妥当性について述べたような「語りの衝動」のようなものを外部から持ち込むことによって解決しようとするのは、今度は音楽が自律的に描く軌道の可能性を十分に汲み尽くさずに済ませてしまう危険を孕んでいるように思われる。さりとてシェンカー分析を含めたのような或る種の規範を前提とする分析は、結局のところ、ある作品が持っている軌道を、予め用意された規則や規範、テンプレートを用いて説明し、それに従わないところは「逸脱」として説明することになり、その軌道が備えている固有の力学を捉えそこなってしまう惧れがあるのではなかろうか。

 以下では、上記のような予備的な検討から導き出されるマーラー作品のありうべきデータ分析についての予想をラフスケッチしておきたい。結論を先取りして言えば、それは標題にあるように、発展的調性を力学系として扱うこと、もっと踏み込んで言えば、高次元のカオス力学系のようなもの(ただし差し当たり離散的なものという制限はつくが)として扱うことになるのではなかろうか、ということになる。その当否は、具体的なデータ分析によって今後得られる展望により判断されるものであるべきだろう。そして、それだけで判断ができるわけではないだろうが、少なくとも判断の条件の一部としてデータ分析の裏付けが含まれるべきではあろうと考える。

 マーラーの調的遷移の特徴として、一方では古典的なドミナント優位の遷移があるかと思えば、特に準備なしで3度を始めとする遠隔調への転調が頻繁に用いられるように、しばしばコストが大きい遷移が敢て選択されることがある。古典派とロマン派と対比という枠組みでは、専ら後者が「逸脱」として記述されて注目されることが多いようだが、現実にはマーラーの調的プロセスは、非ドミナント系の転調における移行過程の入念さ、繊細さや巧妙さそのものにあるというよりは(実際、そうした技巧に関しては、他の同時代の作曲家と比べたとき、マーラーは寧ろ素朴にさえ見える)、複数のシステムの併存と、その結果として起きる競合に特徴があるように思われる。一方ではごくオーソドックスなプロセスがあるかと思えば、一瞬にして別の領域に足を踏み込むかのような急激な変化があり、ある調的領域をあっという間に通り過ぎたかと思えば、最初は仮初めに見えた領域に長いこと留まってみたりという具合に、その多様性こそが特徴なのではないかと思われる。

 しばしば発展的調性と一括りにされる調的プロセスも、個々に見ればその様相は多様なのだが、共通するのは、どこに辿り着くかが事前に決まっているのではなく、複数の調的な極の間で競合があって、そのどちらかが選ばれるかについて、事前に定められた経路に従って予定調和的に進んでいくのではなく、ある時には開始の調性に回帰し、ある時には関係調に、ある時には遠隔調に辿り着くということが起きるという不決定性のように思われるのだ。つまり「発展」というのは寧ろ実態を正しく言い当てておらず、偶々曲頭の調性に回帰しなかったことを以て遡及的にそう述べているに過ぎないというのが実態に近いようにさえ感じられるのである。他方で、曲頭の調性に回帰するが故に発展的調性の枠組みから除外される作品(第1交響曲、第6交響曲、第8交響曲、そして第10交響曲)についても、その調的遷移の過程は作品ごとに固有であり、まさにアドルノの言う「唯名論的」という形容が当て嵌まるし、その一方では発展的調性の側に分類される作品と力学において共通な側面もあるであろう。要するに、外面的に曲頭の調性と末尾の調性の一致・不一致による分類よりも、マーラーの作品全体を通して共通する固有の力学を、実現された作品の具体的なプロセスの多様性を説明できるような仕方で見出すことが目標とされるべきなのではなかろうか。

 そこでは古典的なシステムにおけるような意味合いでの真のアトラクタは存在せず、しばしば何が主音であるかについて複数の候補の間での競合状態が続いたり、調的領域が曖昧な状態が起きたりもするし、寧ろ準安定点が複数あってそれらが形作る複数の領域(ベイスン)の間を遍歴するかのような挙動を示しているように見えるのである。

 そのような系の挙動の定性的特徴から連想されるのは、まさにカオス的遍歴という疑似アトラクター間の遷移を挙動上の特徴として持つ高次元カオス力学系のような複雑系であろう。一般に複雑系というのは散逸系で動的不均衡で準安定なわけだが、マーラーの音楽は上記のビット列の力学系の挙動という点に関しては、比喩ではなく文字通りに複雑系的な挙動をするような系であるということはないのだろうかと思えてならないのである。上述の発展的調性についても、エネルギーの流入で系の変化の自由度が増した結果、局所的にゆらぎが起きたときに、系がどちらの方向に発展するかについて必ずしも決定的ではなく、これもカオス力学系で観測される分岐現象が起きていると考えることはできないだろうか。

 今日、脳の活動をカオス力学系と見做してモデルを構築する試みが為されているが、あたかも「意識の流れ」の如き「小説」に類比される時間性を持つマーラーの音楽が或る側面に注目した場合にカオス力学系のような複雑系としてモデル化できるというのは、必ずしも突飛な思いつきではないだろう。ただし、あくまでモデルはビット列の状態遷移であり、離散力学系である点には留意する必要がある。和声学の規則をルールとして実装することを例にとっても良いが、自然なモデル化としてまず思いつくのは1次元セル・オートマトンのような状態遷移システムであろう。もっとも近傍の定義は明らかでなく、セル・オートマトンで通常用いられるとは異なるものを用いなければならないかも知れず、ビット列の置換規則がどのようなものになるのかは、寧ろ機械学習の恰好の課題かも知れないが。いずれにしても必要なのは、音楽に対してメタな立場から、メタファーとしてラベルを宛がうことではなく、その音楽の持っている構造自体を分析することによって、その振舞を適切な語彙で説明することなのではなかろうか。実際にマーラーの音楽の調的遷移のプロセスがどのような数理で記述できるのかは、今後の課題ではあるのだが、それはアドルノが半世紀前にマーラーに関するモノグラフ冒頭で喝破した通り、伝統的な楽曲分析によってでもなく、さりとて今日なら記号論的アプローチを用いることによって洗練されたものになったとはいえ、音楽を外部の何者かの「記号」として扱う点では昔ながらの「標題性」についての議論と変わるところのない方法によってでもなく、それら両者がいずれも背負っている文化的伝統の重荷からは自由な立場で、個別の楽曲のデータ分析し、モデル化することによって明らかにされるものなのではなかろうか。或いはその結果、まだ極めて肌理の粗い直観に過ぎない上記のような予想が誤りであることがわかるかも知れないが、仮にそうなったとしても、曖昧なメタファーを隠れ蓑にした、捕らえ処のない議論に終始するよりは遥かにましであると考えたい。そしてそこに向けての果てしない道程の最初の一歩として、ここでごく初歩的な検討を試みた、マーラーの作品の各時点において鳴っている音をビット列で表現し、そのビット列の状態遷移過程を力学系として記述する試みを位置づけてみたく思っているのである。

 分析の稚拙さ、記述の不正確さについては、もとよりそれ意図したものである筈はなく、海容を乞う他なく、あわよくばその意を汲んで頂き、ここでは初歩的なレベルに過ぎない分析を議論に耐えるようなレベルにまで進展させて下さる方が現れるのであれば、この拙い文章の意図は十分に達成されたことになる。(2019.11.10-11未定稿, 14,16加筆)

2019年11月4日月曜日

マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ

 マーラーの交響曲の分析の中には、物語論(Narratology)的分析と称するグループがある。アドルノがマーラーに関するモノグラフにおいてその1章の標題を「小説」とし、マーラーの交響曲を(叙事詩との対比において)「小説」に類比したことは有名だが、ここでの物語論は、自らアドルノのアイデアの衣鉢を継ぐものであると主張するものの、道具立てとしては、文学の記号論的分析を背景とした文学理論としての物語についての理論の音楽への適用を試みるもののようだ。一口に物語論的分析と言っても、論者により立場は様々であるけれど、それらの論考に接していて、いずれの分析においても疑問に感じる点が少なくないので、自分の整理を目的とした備忘のために、以下にその疑問点を記載しておきたい。最初にお断りしておかなくてはならないのは、私が参照したのは、あくまでもマーラーの音楽への物語論的分析の適用に関する論考であって、一般的な音楽の物語論的分析についてのそれではないことだ。更に言えば、専門の研究者でもなく、組織的な研究の一環として読んだわけでもないので、マーラーに限定してもなお網羅的であるわけではない。それ故以下は、あくまでも私が接し得た範囲での私の個人的な反応の雑多なメモ書きに過ぎない。

  当然のことながら、もともとは文学についての理論である物語論を音楽に適用することの是非や適用可能性についての検討は為されていて、論者によってその立場にはかなりの多様性がある。そもそも音楽への適用以前に、文学理論の側も単一の理論がある訳ではなく、様々な論者が様々な理論を提唱しているから、その中のどのバージョンを採用するかという点について選択肢が存在することになる。そして音楽に適用するフェーズに至ると、まず一方には音楽は「物語る」ことがそもそもできないという主張があり(例えばJean-Jacques NattiezやCarolyn Abbate)、他方では言語とは異なった仕方ではあるが「物語る」ための手段があるという立場がある(こちらは枚挙に暇がないが、思いつくままに挙げれば、例えばV. Kofi Agawu, Seth Monahan, Thomas Peathe, Neal Warner, Vera Micznik)。前者については物語ることができない理由についての相違があり、更に、では、にも関わらず音楽が「物語る」ように思われる時に起きていることは何であるかについても様々な見解が存在することになる。後者について言えば、「物語る」手段の具体的な選択肢が論者により異なってくることになる。具体的な選択肢としては、音楽に内在的なものに限っても、調的構造、楽式、主題の展開、カデンツ等、更には様々なセカンダリー・パラメータ、即ちリズム的な輪郭、楽器の配置や音の厚みなどのテクスチュア、音色の選択、様々なアタックの区別やダイナミクス等々までその範囲は及ぶようだ。
  音楽は「物語る」ことがそもそもできないとする立場について語るべきことはあまりないのだが、Nattiezのように、それを語り手のNarrative Impulseに基づく単なるメタファーとするような主張は、ではその衝動がそもそも何に由来するのか、あくまでも言語表現の水準のメタファーだとして、全くの恣意というわけではなく少なくともメタファーが成立するからには、それを支えるものは何なのかを問えば、単に問題解決を放棄しているだけであることが明らかだし、Carolyn Abbateの理由づけもまた、音楽が「過去形を持たないから」というもので、これは適用元の文学の媒体である言語の構造を異なった媒体に依拠する音楽に対して不当に外挿しているに過ぎず、こちらも同様に、ではなぜ音楽が「物語る」ように感じられるのかを問われれば、自己引用(自己参照性)とか他の作品の引用(間テキスト性)のようなものに(それを音楽の構造に内在するかたちで規定すれば、「物語れる」ことになるから)曖昧な形で依拠せざるを得なくなる。
  間テキスト性に至っては、音楽作品だけではなく言語芸術や視覚芸術といった他のジャンルとの関わりを論じることになり、その先は最早、音楽の外側に議論をずらしてしまうのだが、そうした間テキスト性がジャンルを超えて、メディアの違いを超えて成立する根拠は相変わらず曖昧なままだし、そもそもこの水準の議論は、何らかの仕方で音楽が「物語れる」とする立場からも可能であり、実際にRobert Samuelsのように、ある時には音楽の構造のある側面に注目し、ある時には音楽的素材や様式(例えば特定の舞曲のジャンル)が持っている文化的コノテーションに依拠し、更にはジャンルを超えた間テキスト性を論するといった論者も存在する。間テキスト性の平面でなら、例えばあからさまに標題性に依拠したり、対象となる作品への言及を含む手紙や証言といったものさえ手掛りにされるのだが、こうなってしまえば最早、音楽の内在的な構造についての議論ではありえず、音楽自体を或る種の文化的記号の如きものとして扱っていることになる。但し、それが如何にして正当化されるかについては相変わらず不明瞭なままだが。

  マーラーの周辺においては、音楽の物語的分析が可能であるという立場ではVera Micznikの見解が比較的参照されることが多いように見えるので、Music and Narrativity Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler (2000)を参照しつつ、その見解を少し細かく見てみると、そこでも傍目には不可解としか思えないような議論がなされているようだ。思いつくままに幾つか気になる点を挙げてみると、まずおかしいのが、story/discourseという道具立てだ。前者が語られる内容で、後者が語り方ということなのだろうが、語られる時間と語りの時間の重層性という言葉にも関わらず(従ってstoryの側には語れる出来事間の時間的な順序が想定されているように見えるのにも関わらず)、実際には前者はstoryではなく、storyを構成する要素(musical event)に過ぎないことが直ちに明らかになる。
  後者については、まず奇妙なのは、(記号のシステムの階層構造ではなくて、)記号そのものの重層性(形態的・統語的・意味的レベルが論じられるにも関わらず、Roland Barhesを参照して、denotation/connotationの区別を持ちこんで、音楽はdenotationはできないが、connotationは可能であると述べると、途端にmusical eventのレベルはそっちのけとなり、いきなり舞曲のジャンル(例えばワルツ)が持つ文化的・社会的なconnotationの例を持ち出すことによってmusical ideaがrepresentないしstand forされると定義される意味論的レベルが説明されてしまう点だ。この説明で全てなら、音楽の「意味」というのはつまるところ、音楽そのものではなく、それを文化的・社会的文脈において「記号」として取り扱うことによってのみ成立することになるから、既に述べたように、音楽そのものは「物語ることができない」とする立場との違いがどこにあるのかがわからなくなる。しかもここでシニフィアンの位置に来る「ワルツ」という舞曲のジャンルが、musical eventを要素として構成されるはずの記号のシステムにおいてどのように定義されるものであるか、そもそも構成的にボトムアップに定義可能なのか、例えば、作者が「ワルツ」と標題なり発想標語として記した(勿論、言語記号によって)ことに依拠するということはないのかなど、理論的にはおよそ見通しがついているとは言い難い。
  その後のChomskyの performance/competence の区別が持ち出されるところも、それを援用する意図の方はよくわからない。前者にはsubjective, individualが、後者にはintersubjectiveが割り当てられ、affectとかcharacterとかtopicといった概念は、後者に由来するとの主張なのだが、そうであるならば、音楽への適用可能性が疑わしいChomskyに由来する概念など持ち出さずに、結局音楽においてはaffectなりcharacterなりtopicというものは音響態としての構造から文脈自由にボトムアップに規定されるものなどではなく、特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものなのだ、とだけ言えば済むことのように思われる。

  音楽の物語性の具体的内実については、古典派とロマン派における物語性の違いが取り上げられる。つまり古典派においては、主調・属調の調的枠組みの中で主題が構成素(動機)に分解されて構成素(動機)レベルでの操作が行われる一方、主題そのものは形態的に不変でその性格を変えることがないのに対し、ロマン派においては調的スキームが弛緩した中で様々な動機が主題の一部としてではなく並列的に提示され、動機群や主題は全体として回帰する一方で、回帰するごとに形態が変容を蒙るのみならず、セカンダリ・パラメータの操作などに伴われつつその性格を変えていくとされる。それぞれの範例は古典派側はベートーヴェンの第6交響曲の第1楽章、ロマン派側はマーラーの第9交響曲の第1楽章である。この指摘自体は特段問題はなく妥当なものだが、それに付随してDahlhausとSchoenbergの名前とともに呼び出される「発展的変奏」についての議論は、こと後者との関連では不思議なものである。即ちこの議論における「発展的変奏」は、上記の区分でいけば古典派における主題や動機の操作と結び付けられているようなのである。だが、ことSchoenbergの文脈では「発展的変奏」というのは寧ろ後期のマーラーにこそ典型的に当て嵌まり、彼自身の作曲法に繋がっていくものではなかったか?Schoenberg自身において「発展的変奏」というのが必ずしも一貫しておらず、場合によって恣意的に用いられるという事情はあるにせよ、それなら尚更のこと古典派・ロマン派の物語性の違いの説明のためにそれを持ち出すのは不適切ということになるのではなかろうか?
  だが物語性という点について言えば、この区別で留意されるべきは、古典派的なそれとロマン派的なそれが単に区別されるだけではなく、論文の標題にある通り、両者では物語性の「程度」(degree)に差があり、ロマン派的な枠組みの方がより高いと考えられている点に存する。例えば叙事詩と小説というジャンルの違いに応じて、物語性の具体的な性質が異なるというのではなく、古典派の交響曲よりもロマン派の交響曲の方が「物語性」の程度において、より勝っているという序列が存在するようなのだ。無論のこと、これは「物語性」の定義如何ということなるだろう。それが明示的であるわけではない点も譲れば、ここまでならロマン派の音楽の構造に内在する要因によって、「物語性」がより高くなるという説明であって、恐らくは暗黙裡にそのように想定されているように、近代的な小説が「物語性」に関する範例であるならば、アドルノの主張をより具体的な「如何にして」付きで展開したものであるということになるだろう。
  しかしながら、では「物語性」を高めることに寄与しているロマン派的な枠組みの実質は何であるかを確認していくと、必ずしもそうではないことに気付かされるのである。即ち、ロマン派的な枠組みが「物語性」を生じさせる根拠というのは、結局のところそれが古典派的な枠組みから逸脱する程度において測られるというように読めてしまうのだ。つまりここでも歴史的文脈というのが含意されているのだが、更にこれが、上でも注意を向けた音楽的「意味」の規定、即ちそれはdenotationは不可能だが、connotationは可能であるという主張、更にaffectなりcharacterなりtopicなりといったものが特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものであるという主張と重なった時、結局、「物語性」というのは歴史的・文化的な文脈によって規定されるものであって、或る種の音響態の構造が内在させている契機によるものではないのだという方向に議論が収斂していくかに見えるのである。序でに言えば、音楽の「意味」を文化的・社会的な「記号」として操作できるものとして定義することによって、ソフィスティケートされた高度な教養を要するものなのか、素朴で子供じみたものなのかの違いはあれ、それは陳腐な標題性と水準において何ら変わらないことになるだろう。アドルノのモノグラフ冒頭の、伝統的な楽曲分析とともに標題性に関する議論を批判する言葉を想起するならば、この定義に依拠する限りにおいて、出発点であった筈のアドルノの意図を裏切っているように思われる。

  私は上記のような議論に対して全面的に異を唱えるつもりはないし、それは不可能であろうと思っている。だがその一方で、音楽的「意味」なり、「物語性」なりを歴史的・文化的な文脈によって規定され尽くすものであるという主張に対しては、制限を設けたいと思っているのである。今ここで、その理由を明示的に提示することは困難なので、それに替えて、まず最初に、上記の主張の根拠となる「気分」を問わず語りに示すようなケースを提示することを手掛かりとしたい。

  マーラーの音楽の聴き手として、マーラーの音楽に対して上記のような物語的分析をすることができる存在、マーラーの音楽の同時代のみならず、それに先行する音楽史のみならず文化的・社会的背景にも通暁し、かつマーラーの音楽のディテールは勿論、マーラーの音楽に含まれる先行作品の引用や暗示に加え、そのように引用され、暗示された作品自体についても知悉しているような音楽学のプロフェッショナルではなく、つまりモノグラフを書いたアドルノその人を範例とする存在ではなく、だがそのアドルノがまさにモノグラフの中で言及する、あの「子供」、或いはよりシンプルに、作品が書かれてから100年後に、マーラーの作品の文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材となった郵便馬車のポストホルンや兵営のファンファーレも、レントラーもセレナードも、過去の遺物としてすら接する機会のない地球の反対側の異郷で、マーラーが引用したり参照したりしていると音楽学者が指摘する作品も含め、音楽史上先行する膨大な作品群を聴くより以前に、或る日初めてマーラーの音楽に接した子供のことを、まずは思い浮かべてみよう。そしてそれに続けて、マーラーの音楽に対して「聴き手」の位置に立つ「人間」以外の存在、マーラー受容の文脈で馴染みがあるところでは、シュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の序文で思い浮かべた宇宙人が、或いはより今日的な文脈ならば、AIがマーラーの聴き手になるという事態を思い浮かべてみよう。
  いや、そんな極端なケースを思い浮かべる必要はなく、専門家ならぬ単なる市井の愛好家たる私がマーラーを聴くとき、私はアドルノや件の音楽学者のようには聴いていないだろうし、彼らの要求水準を満たす日が何時か来るとも思えないのだ。それは単にお前の聴き方に問題があることを告げているだけで、マーラーをどう聴くべきかに関する規範はあくまでも件の音楽学者のような聴き方なのだ、という主張に対して私自身は抗弁する言葉を持たないけれど、それでもなお、作品が書かれてから100年後に、地球の反対側の異郷でマーラーの音楽に耳を留め、またたくうちにそれに魅了された子供たちについては擁護を試みたいと思わずにはいられないのだ。そうした子供は、単に無媒介に、民謡風のわかりやすい旋律といった特徴のみに惹かれてマーラーの音楽に魅了される訳ではない。もしかしたらそうした側面に初めから些か鼻白みつつも、マーラーの音楽において際立っている豊饒で複雑で、時として否定的なモメントや不気味さや混沌すら排除されることのなく絶えず精妙に変化して止まない世界の様相に魅了されるのではなかろうか。
  同様にして、AIにマーラーの音楽の音響に関するデータを与えて分析をさせることを考えた時、そもそも分析の入力となったデータの中に、マーラーの「音楽」の全てがあるわけではないことを認めるに吝かではなく、別のところで述べたように、仮に分析をし尽くしたAIが、マーラーの音楽そっくりの作品(そっくりどころかボルヘスの『伝奇集』に登場するピエール・メナールのように全く同一の作品かも知れない。ただしそ現実にそれが実現する確率の低さは宇宙論的スケールのものだろうが。)を出力するというような状況を想定したとき、工学的なチューリングテストのルールから見たら違反になろうとも、そのことがAIがマーラーになったということを意味する訳では些かもないと考えているのだが、それでもなおマーラーの音楽が小説に類比できるとするならば、その根拠をなす特徴のかなりの程度の部分がAIに入力するデータの分析から得られる筈である、しかもそのデータにはマーラーの作品を含める必要はあっても、上述の理論において想定されているような「伝統からの乖離」の測定を可能にするような莫大な先行作品のデータを用意する必要はないと考えたいのである。そしてそう考える理由は、上で批判的に紹介した物語論的分析を不適切であると考える理由と表裏一体の関係にあると私は考えている。そこで以下に私の目には事態がどのように映っているかを素描して、この備忘を締めくくることにしたい。

  まず音楽において語られる時間と語る時間の2つの層を想定するのは端的に誤っている。確かに音楽はdenotationを持たない限りにおいて「意味」とは無縁であって、専ら「語り方」そのものであるのだが、であれば音楽的時間とは端的に語りの時間そのものなのだ。寧ろ音楽は第一義的には、言語記号であれば随伴的と見做されるであろう感得的な質自体であり、何かを指示する記号としてではなく、外部からの働きかけに対する反応として感得的である限りにおいて聴き手に伝達され、同調を働きかけるものなのではないか。要するに言語記号とのアナロジーは、音楽自体の裡では成立しないのだ。
  ただしそのことは二次的に音楽がメタレベルの「記号」として用いられることを否定するものではない。マーラーの作品のような物語的な脈絡を備えた音楽は、その要素の一部、或いはそれ自体が文化的・社会的な記号として機能することはあり得るだろうが、それは言ってみれば外側から事後的に宛がわれたものに過ぎない(それを当の分析者自身が行っていて、そのラベルづけの是非が問われるというような不可解な状況すら発生しているかに見える)。だがそれは、第一義的には自伝的自己の統合的な世界の認識の「何を」よりも、寧ろ優れて「如何にして」についてのシミュレータであり、だからこそ音楽を作ることは仮想的に世界を構築する(恰も異なる世界の内部存在であるかの如き内部的なループを脳内のネットワーク上に産出する)ことに他ならず、それ故音楽を聴くことは仮構された世界を仮想的に(上記の「あたかも」ループを駆動することにより)経験することに他ならないのである。discourseに先立つstoryなどなく、あるのは常に編集済のものとしての「経験」なのである。
  そもそも人間の意識は知覚したものをそのまま受け取っているわけではなく、意識が受け取るものは既に編集済の結果であることは、ベンジャミン・リベットの実験を始めとする様々な研究により明らかにされている。また、発達心理学における質的研究によってやまだようこが明らかにしているように、自己の確立の過程では、共感的な「うたう」側面が認識的な「とる」側面に先行して発達し、その両者が統合されることによって自己が成立し、自己が成立すると今度はその自己は己の経験を編集して「物語化」していくことによって「自己」を維持していくのである。つまり「物語化」というのは、とりわけ高度な心性を持つ存在にとっては、特定のイデオロギーに基づく文化的・社会的な個別的な文脈よりも遥かに手前において、そもそもが意識や自己といった心的装置が成立する前提条件であり、寧ろ前了解の層に属するものなのだ。勿論、文化的・社会的な文脈はそうした前了解にも浸透していることも確かだが、それはあくまでも世界の認識の「如何にして」を先行的に規定するのであって、denotationであろうがconnotationであろうが、認識の「何を」の水準ではない。それらは発生論的に言ってセカンド・オーダーに属するものなのだ。

  ところでここでの「物語」は上で検討した物語理論の音楽への適用におけるような「物語性」における「小説」の優位を前提としない。強いて言うならば、古典派のような一定の調的スキーマの制約の存在は、口承的な叙事詩や昔話等における定型的なストーリー(ただしその内部で無数のヴァリアントが存在しうるのだが)や記憶の便宜のために定められた韻律を始めとする様々な規則と、その規則に導かれて成立した定型的な表現形式との共通性を感じさせるのに対し、マーラーの作品のそれは記憶の代補となる記憶媒体(音楽においては記譜法)の発達によって獲得された自由度を最大限に生かした散文形式、比喩としてではなく、まさしく「意識の流れ」を叙述する「小説」との共通性を感じさせはするし、繰り返しになるが、この指摘については特段の問題があるわけではない。ただしそれは叙述レベルの重層性といった人称や時制を表示する機構を備えた言語を媒体とした小説固有の構造とは一先ず無縁であって、音楽は「誰が」語っているのか、「何時の」出来事が語られているのか、それが直接経験される出来事なのか想起によって回想された内容であるのかを直接表すことはできないのだが、それでもなお語りの主体が切り替わったこと、出来事の系列が断絶したり、語りのレベルが切り替わったことを聴き手に感得させることができないわけではないのである。 ほんの一例を例示するならば、とりわけそれが調的配置のデザインを伴う場合には、多楽章形式がそうした時間的な断絶や視点の変化、叙述のモードの切り替えを告げる媒体となりうるだろう。マーラーにおいてはDika Newlinの示唆以来のテーマである発展的調性についても、それが主和音・属和音中心の調的配置が志向する主和音への「回帰」という予定調和的な目的論的図式自体を上書きして、何が終結の調性になるかについては、途中段階では複数の選択肢が存在し、それらが競合するかのような時間発展のモデルである限りにおいて、「小説」に類比される経験のシミュレーションの媒体たりうる時間性を備えることを可能にしているのである。そういう意味では、上記のような「物語論」的アプローチから見れば、単なる比喩のレベルという評価となるのかも知れないが、Donald Mitchellが、単独の楽曲のみならず連作歌曲や交響曲のような複数の楽曲の組み合わせからなるもの含めて、マーラーの作品で用いられている調性的なプロットが、楽曲自体の固有の論理と呼びうるコヒーレンスよりも心理的なプロットに対応するように選択されている点をnarrative tonalityという言葉によって指摘しているのは、ここでの発想に近いように感じられる。

  そして共感的な「うたう」能力というのを軽視してはならない。まずもって現生人類が現存する類人猿と比べて際立っている能力、そして種の存続に(少なくともかつてのその環境においては)有利であったが故に発達し、絶滅した他のヒト属の種と比して際立っていたと推定される能力こそ、相手に共感し、模倣を行う能力であったらしいのだ。そしてこれは遺伝子決定論を意味しない。その能力はエピジェネティックに解発され、学習によって強化されるものであり、それ故に置かれた環境に柔軟に適応することができる。それが博識で怜悧な音楽学者の高度な要求を十分に充たすものであるかは予断を許さないとはいえ、作品が書かれてから100年後に、文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材がもともと帰属していた文脈とはほぼ断絶した地球の反対側の異郷においてさえ、作品が提示する時間性に同調的な感受が生じ、作品を通して世界の認識の仕方を学ぶといったことが可能になるのだ。伝統からの乖離の距離に「物語性」が生じる動因を求めることは、論理的には或る種の文化的・社会的決定論を帰結することになろうが、自己形成の結果ではなく、寧ろそれを可能にする根拠として共感する能力を備え、自己が確立した後は「物語」を紡ぐことによって己を維持するようにいわば「宿命づけられた」存在である「子供」は、そうした決定論の軛をいともやすやすと乗り越えてしまう。
  そしてこの点は同時に、AIと「子供」の間に存在する乗り越え困難な差異でもあるだろう。データを分析し、特徴を抽出する能力という点ではAIは「子供」に遜色ないレベルを達成できるかも知れない(定義によっては既に達成している場合もあるだろう)。そして音楽学者が「物語性」の程度の基準とする、伝統的な書法との乖離の度合いを計算することもまた可能だろう(ここでは恐らく「子供」よりもAIが勝っており、もしかしたら音楽学者の分析能力を凌駕するかも知れない)。そして、それが文化的・社会的な「記号」として操作できる限りにおいて、音楽の「意味」を抽出することもまた可能であろう。 だがAIには「共感する」ことができない。少なくとも現在のAIの延長線上では、表面的な模倣はできても、表面的に巧みに歌うことはできても、それらを「共感をもって」行うことはできない。AIに音楽を入力し分析させることは可能だろうが、AIは音楽を分析する動機づけを欠いている。
  その意味でAIは、仮に音楽学者顔負けの分析が行えたとしても、仮にマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」を作りだせたとしても、マーラーの音楽を「子供」のように「聴く」こと、「聴いて」共感することはできないし、そこから世界の認識の仕方を学ぶこともできないのだ。更に言えば、私はマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」と言い、或いは先立っては、ボルヘスの小説を参照しつつ、マーラーの作品を寸分違わず再作曲するといった状況にも言及したが、にも関わらず、一見すると遥かに現実的で、容易にさえ思われるかも知れない第10交響曲の補筆完成版の作成には言及しなかったが、これは勿論意図的にそうしているのである。第10交響曲を既存のマーラーの作品の様式の学習結果によって作り出しても、それはマーラーその人が達成したであろうものとは決定的に異なることについては大方の同意が得られることと思う。一般に創造というのは、過去の自分を模倣することではないし、ことマーラーのように、一作毎に発展してきた作曲家の場合には優れてそうであろう。クックを始めとする補作の試みを入力にしたところで同じであって、出て来るのは様々な補作のどれにも似ないかも知れないが、単なるそれらの模倣に過ぎないものであろうし、マーラー後の音楽を入力に含めたとして、マーラーの作品とは似ても似つかない奇矯な混淆物が出力されるのが関の山だろう。要するにこれを一言で言えば、何故作曲するかの動機づけがAIには欠けているのだ。更に言えば、クックは(もしかしたら他の補作者でそのようなことを思った人間が居た可能性はあろうが)マーラーに替って作曲するなどといったことは思いつきもしなかっただろうけれど、それでも恐らくは彼の補作作業すらAIには達成できないに違いない。AIには何故補作を行うかの動機がないからで、クックの作業は、一見してそうは見えなくても、クックその人にしかできなかった際立って創造的な側面を含み持っていて、時として霊感がクックを訪れたとした思えないような瞬間があるように私には思えるのだ。

 もう改めて繰り返す必要もないだろうが、これまで「子供」やAIを登場させることによって間接的に言い当てようとしたことのトリヴィアルで後ろ向きな半面は、上で検討したようなマーラーの物語論的分析がマーラーの音楽の「意味」に到達することはないだろうということである。
 そもそもが言語を範例とする「記号」として音楽を扱うということ自体に理論的には無理があると思うのだが(音楽が「記号」としても機能しうる点を認めるに吝かでないが、それはまた別の話である)、そこを強引な(にしか見えない、もっと言うとナンセンスに近い気さえする)アナロジーで対応づけるか、それをあっさり放棄して、音楽の「実質」を抜きに、領域横断的な話題に終始するかのいずれかであるように感じてしまい、違和感が募ることが多いのである。そもそもが規範との差分であったり、過去の楽曲、更には他のジャンルの作品との関係に基づくアプローチというのは、そうしたアプローチを提唱し、実践する当事者たる音楽学者の厖大な学識と、高度な分析能力を前提したものであり、例えば私自身がマーラーの作品を聴くときに、彼らの要求するような水準の聴取が出来ているとは到底思えないし、マーラーに初めて出会った時の「子供」であった私の経験を、彼らの分析は少しも説明してくれない。勿論、高度な分析が、自分が気付かなかったようなマーラーの作品の秘密を明らかにしてくれることを否定するわけではなく、私のような愛好家はそうした分析の恩恵を最も被っているに違いないのだが、それでもなお違和感が残る。そしてその由来を端的に述べれば、マーラーの音楽を聴く時には、確かに高度な記号操作が行われているには違いないのだろうが、その背後で起きていること、音楽が人を惹きつけ、感動させ、或いは世界の見方を変えさせさえするにといった側面については、そうした分析が語ることが余りに乏しいことに存するように思える。そして私が知りたいのは、寧ろ、背後で起きていることの側であり、それが起きるメカニズムの側なのだ。
 背後で起きていることは、一般には心理とか情動という言葉で語られ、そうした側面についての研究も行われているが、それらの多くは、あえてやや戯画化した言い方をすれば、何種類かの作品を与えて、何種類かの感情なり、情動なりのタイプを事前に決めておいて、その間の対応づけを行うといったレベルに終始する限り、余りに肌理が粗すぎて、ここで私が知りたいことに対する回答はおろかヒントさえ与えてくれるようには思えない。せめてよりミクロな音楽の脈絡に応じて、聴き手の「心」の内部で起きていることに対して、例えば今日ならば脳の働き方を測定することによって探りを入れるようなものであるべきだろうと思う。勿論、そうした実験結果から言いうることと、ここで私が知りたいと思うこと間の径庭は大きいと思う。例えばデリック・クックが『音楽の言語』で試みたようなアプローチは、今や辛うじてながら、それでも異なる文化的伝統を身体化している極東に住む我々から見れば、音型と情動の結び付けは、全く恣意的ではないとはいえ、非常に多く文化的・社会的な文脈で形成されるものであることは間違いなく、他方でそうした我々が、クックが解明しようとした伝統に属する音楽を「聴く」ことができるからには、文化的・社会的決定論というのも誤りで、その結び付けは学習によって後成的に形成可能であることもまた、明らかであるように思える。であるとするならば、その結び付けの手間で、そこに辿り着く前に音楽の構造の側でやれることはたくさんある筈だ。

  だがもう半面の側、ではマーラーの音楽の音響態としての構造のどこに「物語性」を成立させる契機が含まれるのか、ひいては「意味」を見出す手掛りがあるのかというポジティブな半面についてここで私が具体的に語れることは、幾つかの漠然とした予感を除けばほとんどない。辛うじて言いうることがあるとすれば、それは自伝的自己を備えた延長意識の構造の解明とパラレルであろうということと、音楽が時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想を採り、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて音楽の構造を分析することが、トンネルを反対側から掘り進める方法として考えられるのではないかということである。そしてその限りにおいては、上で検討した「物語論的」枠組みでのマーラーの交響曲の個別的な分析の内容には参考にすべき点、傾聴すべき点が少なくないのだ。必要なのは或る種の展望の変換であり、完全に客観的なデータの分析というのは不可能であるという点は踏まえた上で、作曲のためのユーティリティに過ぎない規範、或いは先行する時代のモデルとなる作品を分析するために設定された規範(例えばシェンカーのモデルもそうしたものの一つであろう)からの逸脱の距離を測るという遠近法的倒錯をやめて、マーラーの楽曲のデータそのものから読み取れるものは何かを探るというアプローチではないかと私には思えてならない。
 批判ばかりしていないで、では具体的にどうすればいいのかについて述べるべきとは思いながら、漠然とした予想めいたものを書き留めることしかできないでいることは上記のに記した通りだが、ことマーラーに関して言えば、具体的なあてが全くないわけでもない。例えば、これも上で言及したDika Newlin以来の発展的調性を、調的なスキーマ(ドミナント優位のシェンカー的図式ではなく、 同主調とか3度関係、サブドミナント側への連鎖などの使用や、転調のプロセス、 特に媒介なしの切り替えの使用など、Dahlhausの言う「オリジナリティの原則」の周辺で、 具体的な特徴が取り出せるのではというように感じている)と関連づけ、これまたPaul Bekker以来の交響曲という多楽章からなる楽式に関する古典的な問題、即ちフィナーレの問題と結び付けて再解釈することなどが、「物語性」にアプローチする方法の一つとして考えられまいか、というようなことを考えているのだ。その一方でマーラーの場合には、いわゆるセカンダリー・パラメータの重要性というのは夙に指摘されてきており、何よりも「うたう」ことを念頭に置いた場合、旋律と旋律の複合としての対位法がマーラーの場合には特に重要なのは明らかで、 調的な図式を抽象した分析ばかりをやっていては取りこぼしてしまうことがあまりに多いのを嘆息するばかりなのだが。だがそれでも、具体的にデータを処理しようとしてぶつかる問題への対応を一つ一つ検討していくことが、既成の規範を暗黙の前提とすることなく、それをいわば現象学的還元して、寧ろそれが拠って立つ基盤を明らかにすることに繋がりはすまいか、そのようにして、規範からの逸脱としてではなく、寧ろ、異なる選択肢を都度(アドルノの言葉を借りれば)「唯名論的に」選び取って、実質的な仕方で世界を構築する仕方を拡大していったマーラーの営みを明らかにする端緒となりはすまいかということを思わずにはいられないのである。(2019.11.4-6初稿・公開,10加筆)

2019年11月2日土曜日

シュニトケから見たマーラー

  シュニトケにはマーラーの初期の習作、ピアノ四重奏曲断片に基づく作品があるけれど、シュニトケであるかどうかより手前で、私はマーラーの作品の一部を引用したり、素材として利用する(リミックスであれ、映画音楽としての利用であれ)こと(加えて言えば、マーラー自身を映画の素材とすることも含めてだが)に対しては全く関心がないので、そういう意味合いで他のマーラー・ファンなら感じるであろう結びつきを意識することはなかった。勿論、シュニトケの場合には彼のある時期を特徴づける「多様式主義」がそうした引用や様式的な模倣といった「手法」を意識的に利用しているではないかと問い返すことが可能だし、マーラーの側では、では習作のピアノ四重奏断片ではなく未完成で遺された第10交響曲ではどうなのかといった問いは成立しうるだろう。(第10交響曲の補作の中には、補作者本人の言い分とは別に、私の主観では「補作」で許容される限度を逸脱しているように感じられるバージョンもあるわけだし。)

 更に言えば、マーラーこそ件の「多様式主義」の先駆であるというような主張すら出て来かねないだろう。この最後の点については、私見では一応は両者は区別可能だし、区別されるべきものであるように思われるのだが、実はこの点は、私が最初に実演で接して以来、シュニトケに対して感じていた違和感のようなものに直接関わってもいるようだ。マーラーを比較対象として用いれば、マーラーが行った民謡や行進曲の模倣を始めとする様々な「卑俗」と言われもする音楽様式の取り込み、ファンファーレや鳥の鳴き声の素材としての利用、Es管のクラリネット、スコルダトゥーラのヴァイオリン、ポストホルンといった、所謂「芸術音楽」以外の他のジャンルとの結びつきを持つ楽器、更には鐘や鈴、カウベル、ハンマー、ルーテ、調律されていない金属の棒のような特殊な打楽器の利用はどうなのか、ということになるだろう。更には、例えば古典派の音楽が民謡を素材とするような場合、典型的には変奏曲の主題とするような場合とは異なって、それが伝統的な「交響曲」というジャンルにとって異質であるという意識をもって、つまり様式的に変換してから取り込むのではなく、様式ごと素材として持ちこむことによって或る種の「異化」を企図したとさえ見做されるのであるから、シュニトケの立場との区別は付け難い面があることは否定できないだろう。にも関わらず私には、両者には素材としての扱い方に感覚的にはっきりと区別できる違いがあるように感じられる。程度の問題といってしまえばそれまでなのだが、この点は、恐らくマーラーの音楽への適用が盛んな文学理論におけるナラトロジーの適用の是非の問題と密接に関わっているのではなかろうか?そうした素材の取り込みが、言語記号との類比を可能にするようなメタな操作であり、従ってそこには記号論的な概念、例えばコノテーションのような概念が適用可能なのだというようには、ことマーラーの場合には思えないのである。裏返せばシュニトケの場合には、そうした適用が可能な場合があるかもしれないと思う、ということになるだろう。

 勿論これは、私がマーラーが生きた100年前のオーストリア=ハンガリー帝国に生きているわけではなく、そうした素材の元々の文脈の生々しさから疎外されているからという事情が関わっているに違いないし、一方のシュニトケの場合であれば、場所の隔たりはあれど、同じ時代の一部を共有し(大まかにはシュニトケの後半生30年間と私の前半生30年間が重なっているわけだから)、しかも文化的にはいわゆる「国際化」が遥か極東まで及んで均質化が進んだ時代ということもあり、その素材の持つ文脈の生々しさの度合いが遥かに強いことは否定できない。だが、例えばシュニトケの「レクイエム」の「クレド」におけるリズム・セクションの扱いが私のように(能楽や義太夫節を除けば)他のジャンルをほとんど聴かない人間にとって強烈な違和感をもたらすのは、そうした素材が、取り込まれた側の文脈の中でどのように用いられるかに拠っているように思われるのである。

 つまりマーラーの場合とシュニトケの場合とを比べると、素材の機能の仕方の向きが異なるように思えるのだ。マーラーの場合それは世界を構築する素材であり、素材は取り込まれる前の文脈を交響曲の中に持ちこむことによって、世界の構成要素となり、新しい層を産み出す働きをしているのに対して、シュニトケの場合には、持ち込まれた素材は、予めある文脈と競合し、攪乱する働きをしているということになるだろうか。マーラーのポストホルンやファンファーレは、それが素材として既成のものであるとしても、マーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素であるのに対し、シュニトケにおける様式の混在は、基層の音楽の脈絡の中に、それとは異質のものとして、いわばメタレベルで「音楽というもの」として侵入するかのように感じられることすらある。同様にして、素材となった音楽は、その様式の由来となったもともとの脈絡では受ける筈のない加工や変形を、いわば外部から、同様にメタレベルの操作として受けることになる。映画音楽において音楽がモアレのように朧にかすんでしまったりフェードアウトしたりするのは、音楽自体の動力学によってではなく、音楽を「利用する」側のメタレベルでの要請に基づくものだが、そういう意味で、シュニトケの場合には音楽が恰もオブジェのように外から操作されてしまう(それが音楽的主体によっては受動的な経験であるかのように)といった印象がある。マーラーの場合にも第4交響曲における擬古典様式についての有名なアドルノの指摘があるが、これは、仮に様式模倣であることは認めたとしても「引用」ではないし、アドルノの「昔…があったとさ」という言い方は、強いて言えば聴き手たるアドルノの恣意的な読み取りに過ぎず、控え目に言ってもミスリィーディングであって、これは第1交響曲や「さすらう若者の歌」の民謡調であったり、より直接的には第3交響曲の中間楽章、更には当初は第3交響曲のフィナーレであった第4楽章のフィナーレの様式との脈絡で考えられるべきであろう。それがフェイクであるというのなら、マーラーの初期交響曲はその総体がフェイクであるということになりかねないし、実際にはフェイクに感じられた音楽は、それが展開するに従って、フェイクであるという最初の見かけの方がフェイクであることがわかるのではなかったか。かくしてこの最後の場合もまた、ポストホルンやファンファーレと同様にマーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素に他ならず、それが文化的・社会的な「記号」として機能するというのは、マーラーその人の作曲とは一先ず無関係なことである。そのことは既に同時代にあって、マーラー自身がこの作品が「誤解」されることに酷く傷ついたことからも窺えるだろう。序でに言えば、してみるとそうした、聴き手の都合による「勝手読み」は、マーラーの同時代以来、常に付き纏ってきたものであり、マーラー・ルネサンス以降の時代固有の現象というわけではないようだ。

 シュニトケにおいての方がマーラーよりも音楽が恰も記号であるかのように操作・編集される度合いが高いことは感じられるし、そこで音楽は、自分自身の内在的な論理によって展開するのではなく、外在的な要因によって編集される対象の如き様相を呈している。或いは同じことを逆向きに述べることになるのだが、主体の回想そのものが音楽化されるのではなく、主体の回想の中に流れる音楽が、回想の音楽化の裡に二次的に埋め込まれて響くかのようなのだ。かくして古典派の音楽が、定型的な韻文、或いは語り方自体も高度に様式化されている昔話や民話のような定型的なプロットを備えた叙述に構造的に類比できるとするならば、マーラーは、アドルノの言うように「意識の流れ」的な小説の叙述に構造的に類比できるのに対し、シュニトケは、実際に彼がそのための音楽をたくさん作曲した映画、ないしは映画をノベライズしたものに構造的に類比できるように思われる。

 要するに、両者の間には音楽によって構築される世界のビジョンに対する認識の違いが横たわっているのではなかろうか?シュニトケも交響曲というジャンルの作品を残しているが、それらを聴くと、最早マーラーのような交響曲を書くことはできないという認識の下にあることがはっきりと読み取れる。シュニトケにとってより相応しいのは寧ろ協奏曲という形態ではなかったかと思えるし、実際に彼はかなりの数の様々な協奏曲を書いているが、それは名称だけからは同じに見えても、かつての新古典主義の作曲家達が量産したそれとは全く異なった音調と脈絡(のなさ)を備えている。いや、この点だけとれば、交響曲だってそうなのだが、コンチェルト・グロッソにせよ、ソロのコンチェルトにせよ、そうしたフォーマットが借り物であることが明らかである一方で、その内実自体もかつての文脈からそのまま借用するのではなく、いわば換骨奪胎することによって世界認識のあり方の例示たりえているように思えるのだ。

 もう一つ見逃せない点は素材の扱いで、未だアコースティックの時代に生き、ようやくプレイヤーズ・ピアノ(ピアノ・ロール)には接しても、演奏の録音には関わることのなかった(従って、大指揮者マーラーの演奏記録は遺憾ながら一つとして残っていないのだが)マーラーとは異なって、シュニトケが録音・再生・編集テクノロジーの浸蝕を蒙っている点は直ちに見てとれるであろう。シュニトケの態度はこちらについても或る意味では誠実なものであったと言える。即ち、そうしたテクノロジーの侵入を恰もなかったかの如くの「昔ながらの」音楽を書くのではなく、素材の扱いの点で、はっきりと知覚がテクノロジーの影響を受けて変容していることを示すような手法を用いている。それが時としてその作品にいかがわしさやフェイクのような印象をもたらし、シニカルで時として絶望的な印象を与えることにもなる。正直に言えば、それ故にシュニトケの音楽を聴くことは決して楽ではなく、寧ろ抵抗感さえ覚えることも多いのだが、前段において述べた素材の機能の仕方の向きの件ともども、それが「現実」の反映であることは否定すべくもなく、テクノロジーの都合良い面のみを見て、後は恰も存在しないかの如くに過去の追憶に耽る態度に比べれば、仮にそれが時として顰蹙や反発を買うにしても、シュニトケの音楽の(アドルノ的な意味合いでの)批判的な意義は疑うべくもないものに思われる。マーラーの音楽と同様に、シュニトケの音楽も「意識の音楽」といって良いだろうが、その意識は、マーラーのそれに比べて、テクノロジーの侵入を受け、支配されていて、結果として知覚そのもののあり方が変容してしまっているのだが、音楽のそうした相貌は我々が今日まさにその中で生きている現実を映したものなのだから。

 因みに上記の最後の点は、これまたアドルノがマーラーに関して述べた点に通じるのだが、そうはいっても両者の間に存在する断絶の方に対しても目を瞑るわけにはいかないだろう。そもそもシュニトケ本人がマーラーに関して強い共感を表明する一方で、相違点として『さすらう若者の歌』や『子供の魔法の角笛』のような民謡のような作品を書く能力の有無を挙げているくらいであって、これは正しくシュニトケが置かれた環境のマーラーとの違いに由来するものであろうし(言ってみれば、それが佯りのものであるかどうかは措いて、シュニトケにはマーラーにはあった「自然」が最早存在しないのだ)、何より象徴的なのはファウストに対する姿勢の違いであろう。シュニトケはマーラーとは異なって、ゲーテのファウストではなく(それを彼は「理想化された」と見做しているようだ)、伝説の描く魔術師としてのファウスト、悪魔に魂を売ったファウストに向かうのだが、それは彼自身も述べているように、世界に対する認識、人類史に対する展望の違いに根差しているのである。

 だがしかし、それ故に逆説的にシュニトケは、マーラー的な精神のある側面の、彼の生きた時代における後継者であったということはできるだろう。例えばシュニトケ自身は高く評価しているらしいシルヴェストロフの交響曲はしばしば「マーラー的」と言われるようだが、私見ではそれは寧ろ、マーラーを受容する現代の消費者の態度との共通性を示唆するものでこそあれ、マーラー自身の志向との共通性を些かも意味していない。クレーメルだか誰だかが件の交響曲を「キエフに死す」と綽名したらしいが、さもありなん、それはヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』がマーラーを「利用する」姿勢との共通性はあっても、マーラーその人とその作品の志向とは凡そ懸け離れたものであろう(当時、マーラーを知る人々がどれだけ激しくヴィスコンティの挙措に対して反撥したかは既に忘却されてしまっているかのようだが…)。ハンス・マイヤーはマーラーのテキストの使い方を巡って彼を簒奪者であると批判したが、『ヴェニスに死す』におけるアダージェットの「読み替え」こそ、簒奪という形容に相応しいものに私には思われる。たとえそれが、第5交響曲自体が持っているかも知れない側面、クレンペラーがそれをもって作品の演奏を拒絶するような契機に通じるところがあるかも知れないにしてもなお、そうであると考える。

 一方、シュニトケの方はと言えば、晩年に近付くに従って徐々に「多様式主義」の装いを脱ぎ捨てて行ったように見える。だが、そこで残ったものは、実は「多様式主義」の作品の中にも基調の響きとして流れていて、それゆえ外からやってくる素材に対して抵抗し、文脈の競合を起こし、或いは逆に素材に攪乱されるものではなかったか。シュニトケの音楽にほぼ一貫して流れている暗澹とした音調は、それが借り物の様式を身に纏うかどうかに関わらず、外部からの暴力によって時としてシニカルな、時として絶望的な、悲劇的なトーンを帯びる点でもマーラーと軌を一にするかに見える。マーラーがそうであるように、シュニトケも「世の成り行き」から身を引き離し、閉じ籠もることはしなかった(シュニトケが、シルヴェストロフについて「自分に投げつけられる「日々の石」を欠いている」と述べつつ、彼は「人間は石を投げつけられる必要がある」と述べていること、そしてシルヴェストロフの側はともかく、シュニトケ自身の側についてはそれが単なる言葉の上でのことではなかったことを思い起こそう)。ショスタコーヴィチのそれと比較されることの多いその後期様式についても、マーラーのそれとの比較は興味深い課題だろう。ショスタコーヴィチは無神論者であったようだが、シュニトケはそうではなかった。「クレド」を書けないからという理由で「ミサ曲」を断念したマーラーは、実はこの点では両者の中間に位置づけられるのではないか。(2019.11.2-4初稿・公開, 11.16加筆修正)