マーラーの第9交響曲はしばしば「大地の歌」と一括りにされ、「死」と「告別」という内的プログラムを持つものとして語られる。パウル・ベッカーは「死が私に語ること」を第9交響曲の暗黙の標題とし、メンゲルベルクは自分のスコアに「愛する者たちからの告別」(第1楽章)「白鳥の歌」(第4楽章)と書き込んだ。前作の「大地の歌」のみならず、ベートーヴェンの「告別」ソナタの引用、終楽章における「原光」や「子供の死の歌」第4曲の引用も「死」や「告別」と作品との結び付きを裏付けるかに見える。
その一方で、素材に過ぎないものを作品のイデーとしての「標題」と見做す立場に対する批判があり、伝記的事実との作品の安易な結びつけを戒め「人生と芸術」の関係を相対化する立場も存在する。しかし心の状態ではなく、現実性に対する態度が問題であるならば、例えば「大地の歌」のマクロな構成が「死の受容」のプロセスと類比的であるとする説にも妥当性を認められようし、その傍証としてならば、長女の死、自身の病の宣告という伝記的事実を持ち出すのは構わないだろう。その一方で音楽を「死のイメージ」の表現と見做し、或いは「死との対決」というプログラムに縛り付けておきながら、その創作の時期にマーラーが既に「危機」を克服していたという事実をもって「人生と芸術」との関係を相対化する主張には一抹の違和感が残る。
確かにマーラーは既に「大地の歌」と第9交響曲の作曲の間の時期にあたる1909年初頭のワルター宛ニューヨーク発の書簡で「一切をかくも新しい光の中にみている(Ich sehe alles in einem so neue Lichts)」と語り、自分が第8交響曲第2部で音楽化した『ファウスト』第2部終末のファウストの蘇りにさえ言及している。だがだとしたら寧ろ第9交響曲は「死」と無関係ではないにせよ、「死」そのもののイメージとも「死の受容」とも異なった、現実的なものの経験において生じる別の反応形態と関わるのではないか?
この問いに答えるにあたっては、マーラーの作品における「後期様式」についての議論が手がかりとなるだろう。マーラー論においてアドルノは「後期様式」に関してゲーテの「現象からの退去」を参照するが、これはジンメルの『ゲーテ』での「老齢芸術」論に基づいたものとされる。ジンメルは「老い」によって外部世界から内なる経験へ焦点が移行し、既存の形式に依拠した全体的統合に無頓着になり、作品や作者の世界との関係が象徴的なものとなると指摘している。アドルノはジンメルの見解を継承しつつ、調和や有機的統合性の放棄を強調しているが、そのアドルノの衣鉢を継いだサイードもまた伝記的事実への安易な照会を戒めているとはいえ、五十歳にも満たないマーラーが「後期様式」を獲得したことは、二人称的な死との直面や一人称的な死の予告としての病の宣告、社会的水準で「老い」との関りが深い「退職」といった出来事との対峙により自らの有限性を意識し、「老い」を意識することにより現実への態度を更新したことと無関係ではあるまい。
今井眞一郎によれば「老い」のシステム論的定義は「生物が持つロバストネスの変移と崩壊」であり、単なる「崩壊」=「死」ではないことが強調されるが、それを踏まえるとすれば、「後期様式」とは、端的に「老い」と「老いの意識」の様式であり、それを通じて「一切をかくも新しい光の中にみる」試みではないだろうか。
斯くして実現した音楽は、シェーンベルクが「プラハ講演」で指摘する、「恰も作曲家が隠れた作者のメガホン替わりであるかの如き」、「美についての客観的で、ほとんど情熱を欠いた証言」となる。アドルノの指摘する「間接話法」での語りも、シェーンベルクの指摘も「現象からの退去」と関連づけることが可能であり、第9交響曲は「大地の歌」の「死の受容」のプロセスに続く「老い」の時間性の音楽化と捉えることができる。
従ってその徴候は音楽の形式的、構造的側面においてこそ明らかなものとなる。全曲のニ長調→変ニ長調という下降する調的プラン、ニ長調・ニ短調の対比を構成原理とし、ソナタ形式を基本としながら変形の技法の限りを尽くして絶えず主題が変容しつつ回帰する第1楽章の独自の構造、通常の意味合いでの解決が絶えず宙吊りにされ、時として調性の感覚が曖昧になりさえする独特の和声進行や、規範に囚われない斬新な音響に富んだ器楽法は「後期様式」の特徴を典型的に体現している。その第1楽章を後続の楽章が遠心的に取り囲む、アンバランスで統合性に欠くと見做されるかもしれない破格な楽章配置もまた然りだし、各楽章におけるアイロニー、反抗と諦観も、ハ長調-イ短調-変ニ長調という調性格論に拠る基本的性格に基づきつつ、現実に対する「老い」固有の反応の様態を色濃く反映したものとなっている。更に第9交響曲に関して指摘される「崩壊」や「溶解」といった局所的な構造的性格も、「老い」のシステム論的定義に照らせば、「死」そのものではなく、寧ろ「死」へのベクトル性を帯びた「老い」の時間性を反映していると見るのが妥当ではなかろうか。長調と短調の二元論にせよ、変形の技法、形式の唯名論的性格、或いは「仮晶」にせよ、それら自体としてはマーラーの作品全体を通して指摘でき、必ずしも「後期様式」固有のものではないけれども、それらが「老い」の意識を通じて機能することによって「後期様式」の実現に本質的に寄与していることは間違いないだろう。
それを思えば「大地への未聞の愛の表現」というベルクの言葉も、第1楽章におけるシュトラウスの「楽しめ、人生を」の引用とともに「死の受容」を経た老境の生に対する態度の反映と捉えられるだろう。更にファウストの蘇りへのマーラーの言及について言えば、「子供の死の歌」第4曲の引用とされる音型が既に第8交響曲にも確認できること、第4楽章のMolto adagio subitoから7小節目(55小節)のヴィオラの下降音型が第8交響曲第2部で、かつてグレートヒェンと呼ばれた女がファウストの蘇りを歌う部分の結びの引用であり、"neue Tag"という言葉が充てられていたことを思えば、常には対照的なものと位置づけられることが専らの第8交響曲第2部を、寧ろ「後期様式」の予告として位置づけ直し、翻って第9交響曲を読み直すことが求められているのではなかろうか。
「老い」を前面に立てたとて、その内実が「死」との関わり、生からの「告別」であるとするならば結局は同じことであり、殊更異を唱える迄もないという見方もあるかも知れない。だが私見によれば「老い」についての言い落しはマーラーの「後期作品」の捉え方に無視できぬ歪みをもたらしている。そのことは西欧的主体観にとっては「死」への覚悟よりも、主体自体の衰頽・崩壊の過程である「老い」の方が厄介なものであり、それは「死」についてならかくも饒舌に多くが語られるのに対し、寧ろ「老い」を取り上げることの方がタブーであり、スキャンダルですらあることと関わっていよう。しかし東洋の伝統では事情が異なる。思いつく限りでも、例えば能の老女物における「老い」の受容もそうだし、世阿弥の「老年の初心」を思い浮かべることもできよう。西欧でもその周縁からなら、トルンスタムの「老年的超越」といった、禅を参照するなど東洋的な考え方に親和的な概念が提唱されている。ゲーテの「現象からの退去」も、静寂観と神秘に重きをおく老年観についても東洋的なものとの親和性を指摘することができようし、それはまたゲーテのみならず、ショーペンハウアー、東洋学者でもあったリュッケルト、更にはフェヒナーの自然哲学に親炙し、漢詩の翻案に惹き付けられたマーラー自身のものでもあろう。「一切をかくも新しい光の中にみる」という言葉は、例えば世阿弥の「老年の初心」の表明ではないだろうか?こうした点を踏まえてマーラーの音楽に虚心坦懐に向き合うことは、西欧的な主体観や能力主義に相当程度侵蝕されている今日の日本の我々にとって、寧ろ自己の奥底に潜む伝統を再認識する契機にすらなり得るのではなかろうか。
今日であれば、生成AIがマーラーの「後期様式」を論じ、第9交響曲の分析レポートを作成することすら可能になっている。だが生成AIは問われた対象についての言説の空間の内部を情動的反応なしで動き回り、「他人の噂」に基づいて回答を返すことしかできない。AIは「老い」を感じず、音楽を聴くことで引き起こされる反応とは無縁で、第9交響曲を聴いて共感することもない。井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラにとって第9交響曲は2012年以来の再演になるが、前回の演奏が東日本大震災のために延期され、会場を変更して翌年実現したこともまた、その事実を指摘することなら可能であっても、公演がおかれた未聞の状況、演奏においてこれ一度きり実現した、異様とも言える雰囲気から受ける「感じ」を10年以上隔てて今なお生々しく想起するといったことは、少なくとも現在の生成AIにとっては無縁の事柄なのである。既に生成AIが自己の「死」を認識し、それを避けようとするという報告があるが、どこまで行っても「老い」とは原理的に無関係である以上、AIが「一切をかくも新しい光の中にみる」ことはないだろう。
今や現実味を帯びて来たシンギュラリティ(技術的特異点)の彼方では、人間もまた「老い」から解放されるのかも知れず、もしかしたら私たちはジュリアン・ジェインズの「二分心」崩壊以降、シンギュラリティ以前のエポックを生き、単に生物として「老い」を生きるのみならず、「老い」を意識し、経験する最後の世代なのかも知れない。そしてシンギュラリティの彼方でマーラーの音楽は、今から半世紀以上も前にシュトックハウゼンが想定した、地球を訪れた宇宙人にとってのように、かつて「人間」と呼ばれた種族を知るための考古学的な手がかりに過ぎなくなるかも知れない。しかしシンギュラリティの手前に生きて老いてゆく私たちにとってマーラーの第9交響曲を聴くことは、自らもまた自己の有限性を自覚しつつ、まさにそのことによって「一切をかくも新しい光の中にみる」ことに誘われるかけがえのない経験であり続けるだろう。(2025.6.18初稿, 7.2最終稿, 10.13公開)
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