西暦 | 年齢 | 生涯 | 初演・自作演奏 | 作品 |
1860 | 0 | (7/7)グスタフ・マーラー、父ベルンハルト(32)と母マリー(旧姓へルマン, 23)の間の第二子としてオーストリア・ハンガリー帝国のカリシュト
(チェコ共和国カリシュト)で誕生。第一子は早逝のため、実質は長男。 (10)「十月勅書」発布に伴い、家族はイーグラウ(スロヴァキア共和国イフラーヴァ)に移住。 |
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1866 | 6 | イーグラウの初等学校に入学。 | ||
1869 | 9 | ピアノ教師ブロッシュに師事。年下の少年にピアノを教える。 (10)イーグラウのギムナジウムに入学。 |
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1870 | 10 | (10/13)イーグラウ市立劇場で最初のピアノ独奏のリサイタル。 | ||
1871 | 11 | (9)プラハのギムナジウムに移る。 | ||
1872 | 12 | (3)成績不振やいじめのためにイーグラウに戻る。 (11/10)イーグラウのギムナジウムで行われたコンサートに出演。 |
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1875 | 15 | (4/13)弟のエルンスト13歳で没。 (9/10)ヴィーン音楽院入学。 |
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1876 | 16 | (9/12)イーグラウで慈善演奏会に出演。 | 現存する最初の作品ピアノ四重奏曲楽章の作曲および演奏。 | |
1877 | 17 | ヴィーン音楽院ヴァーグナー協会のメンバーになる。 (7/14)イーグラウのギムナジウムの学外受験生として卒業試験を受けるが、不合格。 (9)再試験の結果、大学入学資格試験に合格。 (10/1)ヴィーン大学に登録。和声学(ブルックナー)、哲学、歴史学、音楽学の講義に出席(1878,1880も)。 |
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1878 | 18 | (3/18)嘆きの歌の歌詞を完成。 (7/2)ウィーン音楽院卒業。 |
(3/18)嘆きの歌の自作歌詞を完成。 | |
1879 | 19 | (6~8)ブダペスト近郊でピアノの家庭教師。 ウィーン大学の「ペルナーシュトルファー・サークル」の一員となる。 |
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1880 | 20 | (7,8)バート・ハルの夏季劇場の楽長 | 3つの歌曲((2/19)「春に」(2/27)「冬の歌」(3/5)「緑の野の5月の踊り」)。 (11/1)嘆きの歌の完成をエミール・フロイント宛の書簡で報告。 | |
1881 | 21 | (9)ライバッハ(スロヴェニア共和国リュブリャーナ)市立歌劇場楽長。 (12)嘆きの歌、ベートーヴェン賞落選。 |
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1882 | 22 | (4)ライバッハ市立歌劇場楽長を退任。 | ||
1883 | 23 | (1~3)オルミュツ(スロヴァキア共和国オロモウツ)歌劇場楽長。 (7)バイロイト音楽祭訪問。「パルジファル」を聴く。 (8)カッセル王立歌劇場次席楽長。 |
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1884 | 24 | (6)第1交響曲「花の章」の原形を含む「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽の作曲・上演 | (11,12)さすらう若者の歌、冬、第1交響曲作曲開始(~1888)。 | |
1885 | 25 | (8)プラハのドイツ劇場次席楽長。 | ||
1886 | 26 | (8)ライプチヒ市立劇場次席楽長。 | (4/18)プラハで「春の朝」「ハンスとグレーテ」「今朝、野辺を行くと」の初演。(独唱:フランク/ピアノ:マーラー) | |
1887 | 27 | (5)ヴェーバーの孫のカール・フォン・ヴェーバー大尉からヴェーバーの未完のオペラ「3人のピント」の補筆完成の依頼を受ける(10月完成)。 (10/13)リヒャルト・シュトラウスと知り合う。 |
(10)「セビリアの色事師と石の賓客」の付随音楽の作曲・上演。 | 「ドン・ファンのセレナード」「ドン・ファンの幻想」 |
1888 | 28 | (1/20)「3人のピント」初演。 (1/26)チャイコフスキーと会う。 (10)ブダペストのハンガリー王立歌劇場監督。 |
(3)フリードリヒ・レーア宛書簡で第1交響曲完成を報告。 (8/18)第2交響曲第1楽章の初期形である交響詩「葬礼」のパルティチェル完成。 | |
1889 | 29 | (2/18)父ベルンハルト没。 (9/27)妹レオポルディーネ没。 (10/4)母マリー没。 |
(11/13)ブダペストで「思い出」「別離を忌避」(いずれも初演)「春の朝」を演奏(独唱:ビアンキ/ピアノ:マーラー)。 (11/20)ブダペストで第1交響曲初演(2部よりなる交響詩)。 |
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1890 | 30 | (5)保養のために妹ユスティーネを伴ってイタリア(トリエステ、ヴェネチア、ボローニャ、ミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァ)に出かける。 (10)ナターリエ・バウアー=レヒナーと会う。 |
夏、青年時代の歌第2,3集の作曲(ウィーン郊外、ヒンターブリュール) | |
1891 | 31 | (3)ハンブルク市立劇場主席楽長。 | ||
1892 | 32 | (5~7)ロンドン訪問。「ドイツ・オペラ・シーズン」を指揮する。 「リートと歌」3巻を出版。 |
(4/29)「外へ!外へ!」「もう会えない」ハンブルクで初演。 (12/12)「歩哨の夜の歌」「無駄な骨折り」ベルリンで初演 |
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1893 | 33 | (10/27)ハンブルクで第1交響曲(交響詩「巨人」)と6つの「子供の魔法の角笛」歌曲管弦楽伴奏版の演奏。 (「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」(独唱:ブルス)「この歌を思いついたのは誰」(独唱:シュフ=プロスカ)は初演。 「歩哨の夜の歌」「天上の生活」(独唱:ブルス)「無駄な骨折り」(独唱:シュフ=プロスカ))。 (11/17)ヴィースバーデンで「歩哨の夜の歌」「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」管弦楽伴奏版の演奏(独唱:ブルス)。 |
夏、第2交響曲第2,3楽章,「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」、「原光」、 「ラインの小伝説」、「この世の生活」を作曲(アッター湖畔シュタインバッハ) | |
1894 | 34 | (3/29)ハンブルクでのビューローの葬儀に参加し、クロップシュトックの「復活」が歌われるのを聴く。 | (6/3)ヴァイマルで第1交響曲を演奏(交響詩「巨人」)。 | (12/18)第2交響曲完成。 |
1895 | 35 | (2/6)弟のオットー、ピストル自殺。 | (3/4)ベルリンで第2交響曲第1,2,3楽章初演。 (12/13)ベルリンで第2交響曲初演。 |
夏、第3交響曲第2,3,4,5,6楽章作曲(アッター湖畔シュタインバッハ) |
1896 | 36 | (3/16)ベルリンで「さすらう若者の歌」管弦楽版初演。第1交響曲の4楽章版初演。第2交響曲第1楽章を「葬礼」として演奏。 (12/14)ライプチヒで第2交響曲第1,2楽章演奏。 |
夏、第3交響曲第1楽章、「高き知性への賛美」作曲(アッター湖畔シュタインバッハ) | |
1897 | 37 | (2)第2交響曲出版。 (2/23)カトリックに改宗。 (4/15)ウィーン宮廷歌劇場常任指揮者。 (10/8)ウィーン宮廷歌劇場監督。 (12)「さすらう若者の歌」出版。 |
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1898 | 38 | (9/24)ウィーン・フィルハーモニーの指揮者。 | 夏、「塔の中で迫害されている者の歌」「美しいトランペットが鳴り響く所」作曲 (南チロルのファールン) | |
1899 | 39 | (8/18)ヴェルター湖畔マイアーニックに別荘用の地所を購入。(別荘の完成は1901。) 第1交響曲と「子供の魔法の角笛」出版。 |
(1/22)リエージュで第2交響曲演奏。 (3/1)フランクフルトで第1交響曲演奏。 (4/9)ウィーンで第2交響曲演奏。 |
夏、第4交響曲、「起床合図」作曲(ザルツカンマーグートのアルト・アウスゼー) |
1900 | 40 | (6/18~22)パリ万国博覧会にウィーン・フィルとともに参加。 | (1/14)ウィーンで「この世の生活」「美しいトランペットが鳴り響く所」管弦楽伴奏版初演、 および「この歌を思いついたのは誰」「今朝、野辺を行くと」「彼女の青い目が」管弦楽伴奏版の演奏。(独唱:クルツ) (10/20)ミュンヘンで第2交響曲演奏。 (11/18)ウィーンで第1交響曲演奏。 |
夏、第4交響曲のパルティチェル完成(ヴェルター湖畔マイアーニック) |
1901 | 41 | (4/1)ウィーン・フィルの指揮者を辞任。 (11/7)アルマ・シントラーに会う。 |
(2/17)嘆きの歌(第3稿)ウィーンで初演。 (11/25)ミュンヘンで第4交響曲(独唱:ミハーレク)初演。 (12/16)ベルリンで第4交響曲(独唱:プライヒンガー)演奏。 |
夏、「私はやわらかな香りをかいだ」「私の歌をのぞき見しないで」「真夜中に」 「私はこの世に忘れられ」「少年鼓手」「子供の死の歌」第1,3,4曲作曲。第5交響曲に着手 (ヴェルター湖畔マイアーニック) |
1902 | 42 | (3/9)アルマ・シントラーと結婚。 (3/11)新婚旅行を兼ね、サンクト・ペテルブルクへの演奏旅行に出発。 (4/14)第14回分離派展の前日の内覧会で、宮廷歌劇場の管楽器奏者たちを率いてベートーヴェンの第9交響曲終楽章の一部の編曲を指揮。 (11/3)長女マリア・アンナ誕生 第3交響曲、第4交響曲、「嘆きの歌」(第3稿)出版。 |
(1/12)ウィーンで第4交響曲(独唱:ミハーレク)演奏。 (1/20)ウィーンで第4交響曲(独唱:ミハーレク)、「嘆きの歌」(第3稿)演奏。 (6/9)クレーフェルトで第3交響曲初演。 |
夏、第5交響曲のパルティチェル完成。「美しさのゆえに愛するなら」作曲(ヴェルター湖畔マイアーニック) |
1903 | 43 | (2/21)アルフレート・ロラー美術による「トリスタンとイゾルデ」の新演出を指揮。 | (1/23)ヴィースバーデンで第4交響曲(独唱:フォルベス)演奏。 (4/2,4)ルヴフで第1交響曲演奏。 (6/15)バールで第2交響曲演奏。 (10/22,23)アムステルダムで第3交響曲演奏。 (10/25)アムステルダムで第1交響曲演奏。 (12/2)フランクフルトで第3交響曲演奏。 |
夏、第6交響曲の作曲を開始(ヴェルター湖畔マイアーニック) |
1904 | 44 | (4/23)シェーンベルク、ツェムリンスキーの設立した「創造的音楽芸術家協会」の名誉会長を引き受ける。 (6/15)次女アンナ・ユスティーネ誕生。 (10/17)ロラー美術の「フィデリオ」新演出を指揮。 第5交響曲出版。 |
(2/1)ハイデルベルクで第3交響曲演奏。 (2/2)マンハイムで第3交響曲演奏。 (2/25)プラハで第3交響曲演奏。 (3/23)マインツで第4交響曲(独唱:ベッカー)演奏。 (3/27)ケルンで第3交響曲演奏。 (10/18)ケルンで第5交響曲初演。 (10/23)アムステルダムで第4交響曲(独唱:オルデンブーム=リュトケマン)演奏。 (10/26,27)アムステルダムで第2交響曲演奏。 (11/28)ライプチヒで第3交響曲演奏。 (12/14,22)ウィーンで第3交響曲演奏。 |
夏、第6交響曲のパルティチェル完成。「子供の死の歌」第2,5曲、第7交響曲第2,4楽章を作曲。(ヴェルター湖畔マイアーニック) |
1905 | 45 | R.シュトラウスの「サロメ」のウィーン初演のための交渉を行うが、不成功。 (12/21)ロラー美術の「ドン・ジョヴァンニ」新演出を指揮。 「子供の死の歌」「私はやわらかな香りをかいだ」「私の歌をのぞき見しないで」「真夜中に」「私はこの世に忘れられ」出版。 |
(1/29)ウィーンで「子供の死の歌」「真夜中に」「私はこの世に忘れられ」(独唱:ヴァイデマン) 「私はやわらかな香りをかいだ」「私の歌をのぞき見しないで」(独唱:モーザ)(いずれも管弦楽伴奏)の初演、 「塔の中で迫害される者の歌」「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(独唱:モーザ) 「起床合図」(独唱:シュレーター)「少年鼓手」(独唱:ヴァイデマン)の初演、 および「歩哨の夜の歌」(独唱:ヴァイデマン)「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」(独唱:モーザ) を含む「子供の魔法の角笛」の7つの歌曲管弦楽伴奏版の演奏会。 (2/3)ウィーンで「高き知性への賛美」管弦楽伴奏版(独唱:グートハイル=ショーダー)初演。 「無駄な骨折り」「この歌を思いついたのは誰」(独唱:グートハイル=ショーダー) 「子供の死の歌」「真夜中に」「私はこの世に忘れられ」「歩哨の夜の歌」「少年鼓手」(独唱:ヴァイデマン) 「起床合図」(独唱:シュレーター)「塔の中で迫害される者の歌」「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」 「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」「私の歌をのぞき見しないで」「私はやわらかな香りをかいだ」(独唱:モーザ)いずれも管弦楽伴奏版の演奏。 (3/13)ハンブルクで第5交響曲演奏。 (5/21)シュトラスブール音楽祭で第5交響曲演奏。 (6/1)グラーツで「子供の死の歌」「歩哨の夜の歌」「この世の生活」「少年鼓手」「私はこの世に忘れられ」(独唱:ヴァイデマン) 「真夜中に」(独唱:シュメーデス)「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(独唱:モーザ) 「起床合図」(独唱:シュレーター)いずれも管弦楽伴奏版の演奏。 (12/1)トリエステで第5交響曲演奏。 (12/7)ウィーンで第5交響曲演奏。 (12/20)ブレスラウで第5交響曲演奏。 |
夏、第7交響曲第1,3,5楽章のパルティチェル完成。(ヴェルター湖畔マイアーニック) |
1906 | 46 | (1/29)「後宮からの逃走」新演出を上演。 (3/30)「フィガロの結婚」新演出を上演。 (8/18,20)ザルツブルク音楽祭にウィーン宮廷歌劇場のメンバーとともに参加。「フィガロの結婚」指揮。 第6交響曲出版。 |
(3/5)アントワープで第5交響曲演奏。 (3/8)アムステルダムで第5交響曲、「子供の死の歌」管弦楽伴奏版(独唱:ザルスマン)演奏。 (3/10,11)アムステルダムで嘆きの歌(第3稿)演奏。 (5/27)エッセンで第6交響曲初演。 (10/24)ベルリンで第3交響曲、「歩哨の夜の歌」「この世の生活」「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(独唱:ヴァイデマン)の管弦楽伴奏版の演奏。 (11/8)ミュンヘンで第6交響曲演奏。 (11/11)ブルノで第1交響曲演奏。 (12/3,23)グラーツで第3交響曲演奏。 |
夏、第8交響曲のパルティチェル完成。(ヴェルター湖畔マイアーニック) |
1907 | 47 | (3/18)任期中最後の新演出、グルック「アウリスのイフィゲニア」上演。 (6/5)メトロポリタン歌劇場と契約を結ぶ。 (7/12)長女マリア・アンナ没。 (7/17)心臓疾患の診断を受ける。南チロルのトーブラッハ(ドビアッコ)に向かう。 (10/5)ウィーン宮廷歌劇場辞任発表。 (11/2)ヘルシンキでシベリウスに会う。 (12/9)アメリカに向けてウィーンを出発。 「美しさのゆえに愛するなら」出版。 |
(1/4)ウィーンで第6交響曲演奏。 (1/14)ベルリンで第3交響曲演奏。 (1/18)フランクフルトで第4交響曲(独唱:ゲントナー・フィッシャー)演奏。 (1/20)ライプチヒで第1交響曲、「思い出」「外へ、外へ」を演奏(独唱:カイタン/ピアノ:マーラー)。 (2/14)ベルリンで「さすらう若者の歌」「子供の死の歌」「いたずらっ子をしつけるために」「夏の交替」「もう会えない」 「うぬぼれ」「たくましい想像力」「私の歌をのぞき見しないで」「私はやわらかな香りをかいだ」「真夜中に」 「私はこの世に忘れられ」ピアノ伴奏版演奏(独唱:メッシェール/ピアノ:マーラー)。 (4/1)ローマで第5交響曲第4楽章演奏。 (11/9)サンクトペテルブルクで第5交響曲演奏。 (11/24)ウィーンで第2交響曲演奏。 |
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1908 | 48 | (1/1)メトロポリタン歌劇場デビュー。 | (5/8)ヴィースバーデンで第1交響曲演奏。 (9/19)プラハで第7交響曲初演。 (10/27)ミュンヘンで第7交響曲演奏。 (12/8)ニューヨークで第2交響曲演奏。 |
夏、大地の歌を作曲。(南チロルのトーブラッハ) |
1909 | 49 | (2/17)メトロポリタン歌劇場との契約打ち切り。 (3/31)ニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。 (4/19~30,10/8~12)パリでオーギュスト・ロダン作の胸像のモデルになる。 (12)第7交響曲出版。 |
(10)オランダ国内でコンセルトヘボウ管弦楽団と第7交響曲演奏(3回)。 (12/16,17)ニューヨークで第1交響曲を演奏。 |
(6)第9交響曲の作曲を開始。(南チロルのトーブラッハ) |
1910 | 50 | (3/5)メトロポリタン歌劇場で生涯最後の公演(「スペードの女王」のアメリカ初演)。 (7/29)アルマとグロピウスの関係が表面化する。 (8/28)ライデンでフロイトと面会。 |
(1/26)ニューヨークで「子供の死の歌」管弦楽伴奏版(独唱:ヴュルナー)。 (1/29)ブルックリンで「子供の死の歌」管弦楽伴奏版(独唱:ヴュルナー)。 (4/17)パリで第2交響曲演奏。 (9/12,13)ミュンヘンで第8交響曲初演。 (11/20)ブルックリンで「さすらう若者の歌」「ラインの小伝説」管弦楽伴奏版演奏(独唱:グルック)。 (11/22,25)ニューヨークで「さすらう若者の歌」「ラインの小伝説」管弦楽伴奏版演奏(独唱:グルック)。 |
(4/1)ニューヨークからのワルター宛書簡で第9交響曲総譜の清書完成を報告 夏、第10交響曲に着手するが未完に終わる。(南チロルのトーブラッハ) |
1911 | 51 | (2/21)死因となった感染による発熱の中、ニューヨーク・フィルハーモニックで生涯最後のコンサートの指揮。 (4/8)ウィーンに向けてニューヨークを出発。 (5/18)心内膜炎のため死去。 第8交響曲出版。 |
(1/17,20)ニューヨークで第4交響曲(独唱:アルテン)演奏。 |
年表(生涯/初演・自作演奏/作品)
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