お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

年表(生涯/初演・自作演奏/作品)

西暦年齢 生涯 初演・自作演奏 作品
18600 (7/7)グスタフ・マーラー、父ベルンハルト(32)と母マリー(旧姓へルマン, 23)の間の第二子としてオーストリア・ハンガリー帝国のカリシュト (チェコ共和国カリシュト)で誕生。第一子は早逝のため、実質は長男。
(10)「十月勅書」発布に伴い、家族はイーグラウ(スロヴァキア共和国イフラーヴァ)に移住。
18666 イーグラウの初等学校に入学。
18699 ピアノ教師ブロッシュに師事。年下の少年にピアノを教える。
(10)イーグラウのギムナジウムに入学。
187010 (10/13)イーグラウ市立劇場で最初のピアノ独奏のリサイタル。
187111 (9)プラハのギムナジウムに移る。
187212 (3)成績不振やいじめのためにイーグラウに戻る。
(11/10)イーグラウのギムナジウムで行われたコンサートに出演。
187515 (4/13)弟のエルンスト13歳で没。
(9/10)ヴィーン音楽院入学。
187616 (9/12)イーグラウで慈善演奏会に出演。 現存する最初の作品ピアノ四重奏曲楽章の作曲および演奏。
187717 ヴィーン音楽院ヴァーグナー協会のメンバーになる。
(7/14)イーグラウのギムナジウムの学外受験生として卒業試験を受けるが、不合格。
(9)再試験の結果、大学入学資格試験に合格。
(10/1)ヴィーン大学に登録。和声学(ブルックナー)、哲学、歴史学、音楽学の講義に出席(1878,1880も)。
187818 (3/18)嘆きの歌の歌詞を完成。
(7/2)ウィーン音楽院卒業。
(3/18)嘆きの歌の自作歌詞を完成。
187919 (6~8)ブダペスト近郊でピアノの家庭教師。
ウィーン大学の「ペルナーシュトルファー・サークル」の一員となる。
188020 (7,8)バート・ハルの夏季劇場の楽長 3つの歌曲((2/19)「春に」(2/27)「冬の歌」(3/5)「緑の野の5月の踊り」)。
(11/1)嘆きの歌の完成をエミール・フロイント宛の書簡で報告。
188121 (9)ライバッハ(スロヴェニア共和国リュブリャーナ)市立歌劇場楽長。
(12)嘆きの歌、ベートーヴェン賞落選。
188222 (4)ライバッハ市立歌劇場楽長を退任。
188323 (1~3)オルミュツ(スロヴァキア共和国オロモウツ)歌劇場楽長。
(7)バイロイト音楽祭訪問。「パルジファル」を聴く。
(8)カッセル王立歌劇場次席楽長。
188424 (6)第1交響曲「花の章」の原形を含む「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽の作曲・上演 (11,12)さすらう若者の歌、冬、第1交響曲作曲開始(~1888)。
188525 (8)プラハのドイツ劇場次席楽長。
188626 (8)ライプチヒ市立劇場次席楽長。 (4/18)プラハで「春の朝」「ハンスとグレーテ」「今朝、野辺を行くと」の初演。(独唱:フランク/ピアノ:マーラー)
188727 (5)ヴェーバーの孫のカール・フォン・ヴェーバー大尉からヴェーバーの未完のオペラ「3人のピント」の補筆完成の依頼を受ける(10月完成)。
(10/13)リヒャルト・シュトラウスと知り合う。
(10)「セビリアの色事師と石の賓客」の付随音楽の作曲・上演。 「ドン・ファンのセレナード」「ドン・ファンの幻想」
188828 (1/20)「3人のピント」初演。
(1/26)チャイコフスキーと会う。
(10)ブダペストのハンガリー王立歌劇場監督。
(3)フリードリヒ・レーア宛書簡で第1交響曲完成を報告。
(8/18)第2交響曲第1楽章の初期形である交響詩「葬礼」のパルティチェル完成。
188929 (2/18)父ベルンハルト没。
(9/27)妹レオポルディーネ没。
(10/4)母マリー没。
(11/13)ブダペストで「思い出」「別離を忌避」(いずれも初演)「春の朝」を演奏(独唱:ビアンキ/ピアノ:マーラー)。
(11/20)ブダペストで第1交響曲初演(2部よりなる交響詩)。
189030 (5)保養のために妹ユスティーネを伴ってイタリア(トリエステ、ヴェネチア、ボローニャ、ミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァ)に出かける。
(10)ナターリエ・バウアー=レヒナーと会う。
夏、青年時代の歌第2,3集の作曲(ウィーン郊外、ヒンターブリュール)
189131 (3)ハンブルク市立劇場主席楽長。
189232 (5~7)ロンドン訪問。「ドイツ・オペラ・シーズン」を指揮する。
「リートと歌」3巻を出版。
(4/29)「外へ!外へ!」「もう会えない」ハンブルクで初演。
(12/12)「歩哨の夜の歌」「無駄な骨折り」ベルリンで初演
189333 (10/27)ハンブルクで第1交響曲(交響詩「巨人」)と6つの「子供の魔法の角笛」歌曲管弦楽伴奏版の演奏。
(「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」(独唱:ブルス)「この歌を思いついたのは誰」(独唱:シュフ=プロスカ)は初演。
「歩哨の夜の歌」「天上の生活」(独唱:ブルス)「無駄な骨折り」(独唱:シュフ=プロスカ))。
(11/17)ヴィースバーデンで「歩哨の夜の歌」「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」管弦楽伴奏版の演奏(独唱:ブルス)。
夏、第2交響曲第2,3楽章,「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」、「原光」、 「ラインの小伝説」、「この世の生活」を作曲(アッター湖畔シュタインバッハ)
189434 (3/29)ハンブルクでのビューローの葬儀に参加し、クロップシュトックの「復活」が歌われるのを聴く。 (6/3)ヴァイマルで第1交響曲を演奏(交響詩「巨人」)。 (12/18)第2交響曲完成。
189535 (2/6)弟のオットー、ピストル自殺。 (3/4)ベルリンで第2交響曲第1,2,3楽章初演。
(12/13)ベルリンで第2交響曲初演。
夏、第3交響曲第2,3,4,5,6楽章作曲(アッター湖畔シュタインバッハ)
189636 (3/16)ベルリンで「さすらう若者の歌」管弦楽版初演。第1交響曲の4楽章版初演。第2交響曲第1楽章を「葬礼」として演奏。
(12/14)ライプチヒで第2交響曲第1,2楽章演奏。
夏、第3交響曲第1楽章、「高き知性への賛美」作曲(アッター湖畔シュタインバッハ)
189737 (2)第2交響曲出版。
(2/23)カトリックに改宗。
(4/15)ウィーン宮廷歌劇場常任指揮者。
(10/8)ウィーン宮廷歌劇場監督。
(12)「さすらう若者の歌」出版。
189838 (9/24)ウィーン・フィルハーモニーの指揮者。 夏、「塔の中で迫害されている者の歌」「美しいトランペットが鳴り響く所」作曲 (南チロルのファールン)
189939 (8/18)ヴェルター湖畔マイアーニックに別荘用の地所を購入。(別荘の完成は1901。)
第1交響曲と「子供の魔法の角笛」出版。
(1/22)リエージュで第2交響曲演奏。
(3/1)フランクフルトで第1交響曲演奏。
(4/9)ウィーンで第2交響曲演奏。
夏、第4交響曲、「起床合図」作曲(ザルツカンマーグートのアルト・アウスゼー)
190040 (6/18~22)パリ万国博覧会にウィーン・フィルとともに参加。 (1/14)ウィーンで「この世の生活」「美しいトランペットが鳴り響く所」管弦楽伴奏版初演
および「この歌を思いついたのは誰」「今朝、野辺を行くと」「彼女の青い目が」管弦楽伴奏版の演奏。(独唱:クルツ)
(10/20)ミュンヘンで第2交響曲演奏。
(11/18)ウィーンで第1交響曲演奏。
夏、第4交響曲のパルティチェル完成(ヴェルター湖畔マイアーニック)
190141 (4/1)ウィーン・フィルの指揮者を辞任。
(11/7)アルマ・シントラーに会う。
(2/17)嘆きの歌(第3稿)ウィーンで初演。
(11/25)ミュンヘンで第4交響曲(独唱:ミハーレク)初演。
(12/16)ベルリンで第4交響曲(独唱:プライヒンガー)演奏。
夏、「私はやわらかな香りをかいだ」「私の歌をのぞき見しないで」「真夜中に」 「私はこの世に忘れられ」「少年鼓手」「子供の死の歌」第1,3,4曲作曲。第5交響曲に着手 (ヴェルター湖畔マイアーニック)
190242 (3/9)アルマ・シントラーと結婚。
(3/11)新婚旅行を兼ね、サンクト・ペテルブルクへの演奏旅行に出発。
(4/14)第14回分離派展の前日の内覧会で、宮廷歌劇場の管楽器奏者たちを率いてベートーヴェンの第9交響曲終楽章の一部の編曲を指揮。
(11/3)長女マリア・アンナ誕生
第3交響曲、第4交響曲、「嘆きの歌」(第3稿)出版。
(1/12)ウィーンで第4交響曲(独唱:ミハーレク)演奏。
(1/20)ウィーンで第4交響曲(独唱:ミハーレク)、「嘆きの歌」(第3稿)演奏。
(6/9)クレーフェルトで第3交響曲初演。
夏、第5交響曲のパルティチェル完成。「美しさのゆえに愛するなら」作曲(ヴェルター湖畔マイアーニック)
190343 (2/21)アルフレート・ロラー美術による「トリスタンとイゾルデ」の新演出を指揮。 (1/23)ヴィースバーデンで第4交響曲(独唱:フォルベス)演奏。
(4/2,4)ルヴフで第1交響曲演奏。
(6/15)バールで第2交響曲演奏。
(10/22,23)アムステルダムで第3交響曲演奏。
(10/25)アムステルダムで第1交響曲演奏。
(12/2)フランクフルトで第3交響曲演奏。
夏、第6交響曲の作曲を開始(ヴェルター湖畔マイアーニック)
190444 (4/23)シェーンベルク、ツェムリンスキーの設立した「創造的音楽芸術家協会」の名誉会長を引き受ける。
(6/15)次女アンナ・ユスティーネ誕生。
(10/17)ロラー美術の「フィデリオ」新演出を指揮。
第5交響曲出版。
(2/1)ハイデルベルクで第3交響曲演奏。
(2/2)マンハイムで第3交響曲演奏。
(2/25)プラハで第3交響曲演奏。
(3/23)マインツで第4交響曲(独唱:ベッカー)演奏。
(3/27)ケルンで第3交響曲演奏。
(10/18)ケルンで第5交響曲初演。
(10/23)アムステルダムで第4交響曲(独唱:オルデンブーム=リュトケマン)演奏。
(10/26,27)アムステルダムで第2交響曲演奏。
(11/28)ライプチヒで第3交響曲演奏。
(12/14,22)ウィーンで第3交響曲演奏。
夏、第6交響曲のパルティチェル完成。「子供の死の歌」第2,5曲、第7交響曲第2,4楽章を作曲。(ヴェルター湖畔マイアーニック)
190545 R.シュトラウスの「サロメ」のウィーン初演のための交渉を行うが、不成功。
(12/21)ロラー美術の「ドン・ジョヴァンニ」新演出を指揮。
「子供の死の歌」「私はやわらかな香りをかいだ」「私の歌をのぞき見しないで」「真夜中に」「私はこの世に忘れられ」出版。
(1/29)ウィーンで「子供の死の歌」「真夜中に」「私はこの世に忘れられ」(独唱:ヴァイデマン)
「私はやわらかな香りをかいだ」「私の歌をのぞき見しないで」(独唱:モーザ)(いずれも管弦楽伴奏)の初演、
「塔の中で迫害される者の歌」「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(独唱:モーザ)
「起床合図」(独唱:シュレーター)「少年鼓手」(独唱:ヴァイデマン)の初演

および「歩哨の夜の歌」(独唱:ヴァイデマン)「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」(独唱:モーザ)
を含む「子供の魔法の角笛」の7つの歌曲管弦楽伴奏版の演奏会。
(2/3)ウィーンで「高き知性への賛美」管弦楽伴奏版(独唱:グートハイル=ショーダー)初演。 「無駄な骨折り」「この歌を思いついたのは誰」(独唱:グートハイル=ショーダー)
「子供の死の歌」「真夜中に」「私はこの世に忘れられ」「歩哨の夜の歌」「少年鼓手」(独唱:ヴァイデマン)
「起床合図」(独唱:シュレーター)「塔の中で迫害される者の歌」「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」 「不幸な時の慰め」「ラインの小伝説」「私の歌をのぞき見しないで」「私はやわらかな香りをかいだ」(独唱:モーザ)いずれも管弦楽伴奏版の演奏。
(3/13)ハンブルクで第5交響曲演奏。
(5/21)シュトラスブール音楽祭で第5交響曲演奏。
(6/1)グラーツで「子供の死の歌」「歩哨の夜の歌」「この世の生活」「少年鼓手」「私はこの世に忘れられ」(独唱:ヴァイデマン)
「真夜中に」(独唱:シュメーデス)「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(独唱:モーザ)
「起床合図」(独唱:シュレーター)いずれも管弦楽伴奏版の演奏。
(12/1)トリエステで第5交響曲演奏。
(12/7)ウィーンで第5交響曲演奏。
(12/20)ブレスラウで第5交響曲演奏。
夏、第7交響曲第1,3,5楽章のパルティチェル完成。(ヴェルター湖畔マイアーニック)
190646 (1/29)「後宮からの逃走」新演出を上演。
(3/30)「フィガロの結婚」新演出を上演。
(8/18,20)ザルツブルク音楽祭にウィーン宮廷歌劇場のメンバーとともに参加。「フィガロの結婚」指揮。
第6交響曲出版。
(3/5)アントワープで第5交響曲演奏。
(3/8)アムステルダムで第5交響曲、「子供の死の歌」管弦楽伴奏版(独唱:ザルスマン)演奏。
(3/10,11)アムステルダムで嘆きの歌(第3稿)演奏。
(5/27)エッセンで第6交響曲初演。
(10/24)ベルリンで第3交響曲、「歩哨の夜の歌」「この世の生活」「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(独唱:ヴァイデマン)の管弦楽伴奏版の演奏。
(11/8)ミュンヘンで第6交響曲演奏。
(11/11)ブルノで第1交響曲演奏。
(12/3,23)グラーツで第3交響曲演奏。
夏、第8交響曲のパルティチェル完成。(ヴェルター湖畔マイアーニック)
190747 (3/18)任期中最後の新演出、グルック「アウリスのイフィゲニア」上演。
(6/5)メトロポリタン歌劇場と契約を結ぶ。
(7/12)長女マリア・アンナ没。
(7/17)心臓疾患の診断を受ける。南チロルのトーブラッハ(ドビアッコ)に向かう。
(10/5)ウィーン宮廷歌劇場辞任発表。
(11/2)ヘルシンキでシベリウスに会う。
(12/9)アメリカに向けてウィーンを出発。
「美しさのゆえに愛するなら」出版。
(1/4)ウィーンで第6交響曲演奏。
(1/14)ベルリンで第3交響曲演奏。
(1/18)フランクフルトで第4交響曲(独唱:ゲントナー・フィッシャー)演奏。
(1/20)ライプチヒで第1交響曲、「思い出」「外へ、外へ」を演奏(独唱:カイタン/ピアノ:マーラー)。
(2/14)ベルリンで「さすらう若者の歌」「子供の死の歌」「いたずらっ子をしつけるために」「夏の交替」「もう会えない」 「うぬぼれ」「たくましい想像力」「私の歌をのぞき見しないで」「私はやわらかな香りをかいだ」「真夜中に」 「私はこの世に忘れられ」ピアノ伴奏版演奏(独唱:メッシェール/ピアノ:マーラー)。
(4/1)ローマで第5交響曲第4楽章演奏。
(11/9)サンクトペテルブルクで第5交響曲演奏。
(11/24)ウィーンで第2交響曲演奏。
190848 (1/1)メトロポリタン歌劇場デビュー。 (5/8)ヴィースバーデンで第1交響曲演奏。
(9/19)プラハで第7交響曲初演。
(10/27)ミュンヘンで第7交響曲演奏。
(12/8)ニューヨークで第2交響曲演奏。
夏、大地の歌を作曲。(南チロルのトーブラッハ)
190949 (2/17)メトロポリタン歌劇場との契約打ち切り。
(3/31)ニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。
(4/19~30,10/8~12)パリでオーギュスト・ロダン作の胸像のモデルになる。
(12)第7交響曲出版。
(10)オランダ国内でコンセルトヘボウ管弦楽団と第7交響曲演奏(3回)。
(12/16,17)ニューヨークで第1交響曲を演奏。
(6)第9交響曲の作曲を開始。(南チロルのトーブラッハ)
191050 (3/5)メトロポリタン歌劇場で生涯最後の公演(「スペードの女王」のアメリカ初演)。
(7/29)アルマとグロピウスの関係が表面化する。
(8/28)ライデンでフロイトと面会。
(1/26)ニューヨークで「子供の死の歌」管弦楽伴奏版(独唱:ヴュルナー)。
(1/29)ブルックリンで「子供の死の歌」管弦楽伴奏版(独唱:ヴュルナー)。
(4/17)パリで第2交響曲演奏。
(9/12,13)ミュンヘンで第8交響曲初演。
(11/20)ブルックリンで「さすらう若者の歌」「ラインの小伝説」管弦楽伴奏版演奏(独唱:グルック)。
(11/22,25)ニューヨークで「さすらう若者の歌」「ラインの小伝説」管弦楽伴奏版演奏(独唱:グルック)。
(4/1)ニューヨークからのワルター宛書簡で第9交響曲総譜の清書完成を報告
夏、第10交響曲に着手するが未完に終わる。(南チロルのトーブラッハ)
191151 (2/21)死因となった感染による発熱の中、ニューヨーク・フィルハーモニックで生涯最後のコンサートの指揮。
(4/8)ウィーンに向けてニューヨークを出発。
(5/18)心内膜炎のため死去。
第8交響曲出版。
(1/17,20)ニューヨークで第4交響曲(独唱:アルテン)演奏。

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