お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2024年3月29日金曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第23回定期演奏会(2024年5月26日)

 マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第23回定期演奏会が2024年5月26日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます。詳細は以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページをご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)



プログラムには、マーラーの第10交響曲のデリック・クックの補筆による演奏会用バージョン(全五楽章版よりなる、所謂「クック版」)及びリュッケルトによる5つの歌曲がプフィッツナーの「パレストリーナ」前奏曲とともに含まれます。第10交響曲のクック版はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2014年6月15日に同じミューザ川崎シンフォニーホールで取り上げられており、今回は10年ぶりの再演となります。10年前の公演に接した本ブログ管理人の感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会を聴いてという記事として本ブログで公開しています。

今回の公演における第10交響曲クック版の再演に際してプログラムノートに寄稿させて頂いておりますので、是非ともご一読頂ければ幸いです。

また本ブログでは、上記の公演の感想以外にも、第10交響曲に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

また、リュッケルト歌曲集の管弦楽伴奏版の演奏に接する機会は、こと日本国内では稀であり、大変貴重な機会となります。リュッケルト歌曲集に関連した本ブログの記事としては以下のようなものがありますので、こちらも目を通して頂ければ幸いです。

(2024.3.29公開)

2024年3月10日日曜日

自己組織化システムとしてのマーラーの交響曲についてのメモ (2024.3.10更新)

マーラーの「交響曲」は小説的であり、ポリフォニックである。オペラとの対比では一見して交響曲は主観的な叙述であり、 モノローグ的であるという誤解が生じがちである。だが、オペラは文学的形式としては劇の類比物であり、寧ろモノローグ的 なのだ。そもそも「歌曲」からして、マーラーのそれは主観的な語りではありえない。

例えば以下のような文章で探り当てられようとしているのは、まさに寧ろ交響曲の方が、オペラのような一見 ハイブリッドでマルチメディア的なジャンルよりも多声的であることについてに他ならない。
黒田「(...)面白いオペラをつくる人間というのは単純な人間なんではないかとかねてから思っているんです。 そのなかで錯綜としたものというのはないような気がするんです。ワーグナーでさえ例外ではないでしょう。(...) マーラーのようなかたちで複雑なものが入り混じっている人にとっては、どうもオペラはうまくいかないんじゃないか。」
粟津「(...)ワーグナーの場合は劇に対する統一的な感覚があって、それがあればこそあの人のもってる俗っぽさも 崇高さも単純さも複雑さも、いろいろな役割を当てがわれて、みんな歌いはじめたということです。 ところがマーラーになると、そういう劇感覚がなくなっちゃってるんだな。いろんな要素が勝手気ままに彼の中で生きはじめる。 そして、彼はそれに耐えるしかない。(...)」 (粟津則雄、黒田恭一「対談 マーラーの世界、マーラーの現在」, in 「音楽の手帖 マーラー」青土社, 1980)
音楽史、文化史的な崩壊や解体の過程を想定するかのような視点はおいて、 マーラーの交響曲の(バフチン的な意味での)ポリフォニー的な性格を言い当てようとしていると考えれば、上記の やりとりは納得できる。オペラよりも交響曲の方が複雑でありうるのだ。
 
少し先でシュトラウスの恐らくは「ナクソス島のアリアドネ」を念頭に劇中劇への言及があるが、劇中劇よりも 交響曲の内部の多声性、己の内なる他者の声に耳を澄まし、それが「私に語ること」を音楽として定着させることの方がはるかに錯綜とした構造を必要とする。それは伝統的な形式論をはみ出てしまい、まさにアドルノの言うところの 唯名論的な、その都度の形式の鍛造が必要となるのだ。これもまた上記対談の中の「膨大な私オペラ」という規定や 「劇中劇の登場人物はひたすら自分のヘソを見つめつづけている」という指摘は、 それが複数の登場人物の対話によって繰り広げられる劇ではなく、 個人の自閉したモノローグであるという意味合いであればはっきりと間違いであるが、劇的統一の中に仕組まれた 対話とは別の次元にマーラーの音楽のポリフォニー性があるという事態を示唆しているという点では、全くの的外れという わけでもない。ひたすら自分のヘソを見つめつづけているのは作者自身であって、しかも彼は「物が私に語ること」を 聴き取り、それと対話をしようとしているというふうに考えることもできるだろう。

それというのも、アドルノが言うように、素材(マテリアル)としての他者の声が、「主観の自由な措定ではなく、本来の形ではない形の中で主観の支配要求に対抗して自己主張を行う」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』,  龍村あや子訳, 法政大学出版局, 第5章「ヴァリアンテ―形式」, p.118)からなのだ。ここでのアドルノのヴァリアンテの理論は、 そのままバフチンの小説の理論に移行できるかのようだ。バフチン的な意味でのポリフォニー、対話が実現するジャンルとしての小説を念頭においてマーラーの交響曲に与えたアドルノの規定、小説-交響曲において可能となる時間性の効果が、複雑さをもたらすのだ。 それゆえ、そこには予めあてがわれた形式が保証する図式的な時間の賽の目に区切られた外的な枠組みではない、 力動的な時間の生成があるのだ。二度と同じ流れに乗ることはできないゆえに単純な反復は、それ自体が メタな意味を担う場合(第10交響曲のプルガトリオ楽章がもしかしたらそうであったかも知れないし、伝統的な提示部 反復に従う第6交響曲の第1楽章もそうだろう)を除けば、再現は単なる同じ事の反復ではなく、寧ろ、予告されたものが ようやく本当に実現するといった印象を与える。主題の提示は、とうとう第9交響曲の冒頭では本当にそうなるのだが、 初期の作品においてすら、未来完了的な位置づけを占めている。例えば第1交響曲の序奏から既にそうではないか。

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上に引用した対談でのワーグナーとの対比ということでいけば、興味深いのはアドルノが、一方ではマーラー論でもその前奏曲の 転調のプロセスを引き合いに出し、他方では「パルジファルの総譜によせて」で今度はマーラーの固有名を呼び出しているといった 仕方で関係を示唆している「パルジファル」との相関である。直接にはアドルノが「パルジファル」との関連を示唆するのは 第3交響曲の第5楽章を除けば、もっぱら第9交響曲なのだが、マーラーの交響曲中、一般にオペラ的であるように 見えるのは、一見したところは寧ろ、第8交響曲の第2部だろう。アドルノのマーラー論において第8交響曲を論じた部分で参照されるのは 第1部に因んだ「マイスタージンガー」であるとはいえ(邦訳p.148)、第8交響曲における「ファウスト」劇の導入は舞台こそないが、 演奏会形式のオペラのように歌手や合唱には配役がある。その崇高さへの志向や祝祭的とでもいえるような内容からしても、 寧ろ第8交響曲こそがワーグナーの「舞台神聖祝典劇」のマーラーの交響曲における等価物であるのではないかと思えるのだが、 にも関わらず、舞台で演じられてしまう「パルジファル」には聴き取ることができない音調が第8交響曲の第2部には確かにあって、 もしかしたらそれは、逆説的にも、コンサートホールでよりも自宅のPCで夜遅くに音楽(三輪眞弘さんによれば「録楽」というのが 正確なのだが)を聴くときにこそ接近可能であるようなものなのかも知れないのだ。そしてそれは、夏の作曲家マーラーがある日、 作曲小屋での孤独の中で聴き取った何か、マーラーが作品として定着させようとした何かそのものであるに違いない。

マーラーの音楽で「ファウスト」第2部を聴くとき、寧ろこれが戯曲というジャンルに属していることの方が、あたかも不可能事を 捻じ伏せようとするかのような力業に感じられてならないのである。この劇を舞台で、その内実に相応しく上演することが可能なのかと 問わずにはいられない。少なくともマーラーが見出した時間性は、人間が語り演じる舞台という現実の制約に全く相応しくない もので、それは交響曲という形式によってのみ定着することが可能なものであったに違いない。実際、夙にルドルフ・シュテファンに よって指摘されている(「『ファウスト』最終場面の作曲をめぐって―「詩」対「音楽」」)とおり、 マーラーは科白に音楽をつけるという点では原典に忠実であることはなく、それは一見して予め存在するゲーテのテキストに 「合わせて」付曲されたかに見えるであろうこの第8交響曲第2部ですら例外ではないのだ。そしてそのことは、 その音楽の形式を規定する原理は別にあるということを告げている。

既成のオペラというジャンルではなく「舞台神聖祝典劇」を名乗り、他のオペラ 作品と同じ場での上演を嫌った挙句、バイロイト祝祭劇場での独占上演さえ企図された「パルジファル」が、しかしそれでも 現実の舞台での上演に向け、この上もない円熟した技量によって見事に統一されているのに対し、マーラー版の「ファウスト」は (マーラー自身が拒絶した「千人の交響曲」というキャッチコピーで売り込まれ、かつてマーラーが経験したことのない大成功を 納め、丁度「解禁」後の「パルジファル」がそうであったように、作曲者の没後しばらくは、膨大な準備の手間にも関わらず、 寧ろ他の曲を上回るかの如き頻度で上演されたにも関わらず、)現実に場を持つこと拒絶しているかのようなのである。 かつての「ハルモニア・ムンディ」たる惑星の運行が奏でる音が人間には聴き取れないとされたのに呼応するように、こちらもまた、 人間の持つ生物学的な制約からは自由であるべきではないのかという、冷静に考えればナンセンスな考えさえ振り切ることは困難である。 それはこの音楽はそれ自体が、人間が人間のままでは起こりえないこと、経験することのない瞬間から到来したものであるかの ような音調を備えていることと対応しているのであり、その音楽の持つ時間論的なスキーマ、まさに交響曲というジャンルにおいて しか可能でないようなそれにその原因を求めるべきなのだ。

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オペラとの類比ということでいけば、「大地の歌」は歌曲集といいながら、構造はオペラ的であり、特に第6楽章は レシタティーヴォとアリアが交替する。第2交響曲や第3交響曲は声楽が導入されているということだけでなく、 器楽パートにおいても、レシタティーヴォ的、アリア的な要素をそこかしこに見つけることができるだろう。

だが、ここにもマーラー的な「交響曲」に相応しい分裂があり、天使と格闘する第2交響曲第4楽章のヤコブや 悔恨の涙を流す第3交響曲第5楽章のペテロが女声で歌われるのと対応して、「大地の歌」では男声と女声の交替か 男声の2つの声(テノールとバリトン)という選択肢が一方でありながら、同じ一人のテノールが歌うよう指定されている 筈の第1楽章と第3楽章では、まるで2つの質の異なる声が求められているかのようだ(カラヤンが実際に、2人の歌手に 歌わせたという例があるようだ)し、第6楽章の歌では対話する2人の男の声を、まるで謡曲や義太夫のように、 一人の女声の歌手が歌わなくてはならない。一部は2つの詩をつなぎ合わせたという事情に由来する2人の声の交錯は 微妙であり、角笛歌曲集の幾つかように、明確な歌い分けがあるわけでもないから、声色を使い分けることを忌避するとはいえ、 いわゆる音遣いによって性別や年齢を描き分けることへの関心を捨てきれない義太夫よりも、 そうした写実性を拒絶する能の謡の方が一層近いだろうか。いずれにしても統一原理が働く「単純な」オペラより、 節約された手法の中でポリフォニーを実現する能の方が一層マーラーのポリフォニーに近い。 楽器同士の、あるいは器楽と声楽のヘテロフォニーにしても同様である。初期の作品であるカンタータ「嘆きの歌」もまた、 マーラー自身が扱いかねて、後には上演の便宜もあって切り詰めてしまった語りの層の多層性があり、 一見するとオペラとの類比が最も容易であるかに見えて、その語りの多層性を損なわずに舞台での上演を考えることは 不可能であるという点において、既に小説的、(マーラー的な意味での)交響曲的な作品なのである。

第8交響曲と「大地の歌」ということであれば、ミッチェル(モノグラフの第3巻である"Gustav Mahler, Songs and Symphonies of Life and Death")を 参照すべきかも知れないが、いずれにせよ、 第8交響曲、大地の歌、第9交響曲という後期の3作がすべて「交響曲」であるという点に、 マーラーの「交響曲」のジャンル論的な位置づけを試みるにあたっての鍵が潜んでいる。 初期においては、「嘆きの歌」、二部からなる交響詩(「巨人」)、「さすらう若者の歌」であり、 2,3,4という歌つきの連作、5,6,7という歌なしの連作の間には「子供の死の歌」がある、といった構図を思い描くこともできるだろう。 いずれにしても、カンタータ、多楽章形式の交響詩、連作歌曲であったものが、後期においてはすべて交響曲となるのだ。 その間には最初は声楽付きの、次いで器楽のみよる2つの交響曲ツィクルスの経験が介在しているのだが。

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マーラーの交響曲の多声的構造の中でレヴィストロース的なブリコラージュと他者の声のポリフォニーの関係を論じることも可能だろうし、 バフチン的なインターテクスチュアリティとの関係を問うこともできるだろう。 マーラーの音楽の「ポプリ」的な側面、様々なジャンルが多層的に織り込まれること、マーラーの言う(ゲーテの「ファウスト」第1部 の地霊の台詞に由来する)「神の衣を織る」という言葉や、第3交響曲に因んで述べたとされる「世界を構築すること」とは まさにこうしたポリフォニーを創りあげることであったというように捉えても良いのではなかろうか。そして「世界を構築すること」が、 世界の様々な物が語るのを聴くことであること、つまりモノローグではなく、対話的な仕方で為されていることに留意すべき ではなかろうか。更にそれはシュトックハウゼンがかつて示唆したように、かつての「人間」の解体と期を一にしているのだ、 という社会学的な視点もそれなりの妥当性があるのだろう。だがそれは、マーラーの音楽は境界線の向こう側からの最後の声 であるということではない。寧ろ逆に、アドルノが指摘したマーラーの交響曲における形式の唯名論的な性質は、 生物組織の複雑性をもった自己組織化サイバネティクスにおける絶えざるプログラムの作り直しに比するべきなのではないか。 マーラーの小説的な交響曲の成立を可能ならしめる系の条件は、寧ろ以下のような、アンリ・アトランの述べるそれ、 いかにして物質が自己組織化の場になりうるかについての理解を踏まえて記述可能なようなものではなかろうか。
(...), mais où nous pouvons nous reconnaître parce qu'elles peuvent nous parler. Au lieu d'un homme qui se prend pour l'origine absolue du discours et de l'action sur les choes, mais un réalité coupé d'elles et conduit inévitablement à un univers schizophrénique, ce sont des choses qui parlent et agissent en nous, à travers nous comme à travers d'autres systèmes bien que de façons différente et peut-être plus perfectionnée. Grâce à cela, si nous nous laissons pas étouffer par elles,  c'est-à-dire si notre vouloir - faculté inconsciente d'auto-organisation sous l'effet des choses de l'environnement - arrive à s'inscrire suffisamment en mémoire, de telle sorte que nous en ayons un degré suffisant de conscience, et si celle-ci en retour peut interagir avec les processus auto-organisateurs sans toutefois qu'il y ait conflit entre ces deux formes d'interaction, alors, lorsque nous regardons autor de nous, nous pouvons nous sentir chez nous, parce que les choses nous parlent aussi. Après tout, si l'on peut nous démontrer comme des machines et remplacer des organes comme des pièces, est-ce que cela ne veut pas dire aussi que nous pouvons voir dans les machines, c'est-à-dire dans le monde qui nous entoure, quelque chose où nous pouvons nous retrouver, et avec qui nous pouvons, à la limite, dialoguer? Quand nous découvrons une structure dans les choses, n'est-ce pas retrouver, de façon renouvelée et épurée, un language que les choses peuvent nous parler? 
「(...)しかしそこにおいては、たしかに、物が我々に語るから我々は自分を再確認できる。自分を物に対する 言説や行動の絶対的根源と考え、実際は物から切り離され、分裂症的世界におちいることが避けられない人間のかわりに、 我々のなかで我々をとおして語り(多分もっと完全な異なった方法による他のシステムをとおして語るように)、行動するのは物である。そのおかげで、我々は物によって窒息させられなければ、いいかえれば我々の願望―周囲の物の影響下の無意識的自己組織化能力 ―は十分に記憶にとどめられ、十分に意識され、そして意識が今度は自己組織化プロセスと相互作用し、しかし二つの相互作用形態の あいだで争いを起こさないならば、我々の周囲を見まわすとき、物が我々に語りかけるので、我々は自分の家にいるように感ずる。 それは、結局、もし機械のように分解して器官を交換することができるならば、機械のなかに(いいかえれば我々をとりまく世界のなかに)、 我々と同じものを見出し、究極的にそれと対話できる、ということを意味するのではないだろうか。我々が物のなかにひとつの構造を見出すという ことは、物が我々に語りかける言語を、新しい純粋な方法で我々が見出すことであろう。」 (アンリ・アトラン「自己組織化システムにおける意識と欲望」, in 「結晶と煙のあいだ 生物体の組織化について」(阪上脩訳, 法政大学出版局, 1992), p.161)

ここでアトランが、奇しくもマーラーが思いついた標題を思わせるように、「物が我々に語りかける」、あるいはシェーンベルクがプラハ講演で第9交響曲について述べた表現を思わせるように、「我々の中で我々を通して語る」という言い方をしているのは、単なる修辞上の偶然だろうか?否、決してそうではないだろう。そうではないどころか、上記のアトランの言葉は、マーラーの音楽をロマン主義的な「人間」についての見方の下で理解しようとすることが如何に不適切であるか、寧ろ、シュトックハウゼンの言う「かつての「人間」の解体」以後の新たな枠組み、サイバネティクス以降の認識の下で理解すべきであることを告げているように思われる。(なおここで、ハイデガーが、サイバネティクスが形而上学の終焉である、と述べていたことを、その言葉を軸に議論が展開され、その議論の帰趨を含めて、知る限り、近年の思考の中においてここでの論点と最も密接な関りを持つと思われる『再帰性と偶然性』を著したユク・ホイの名とともに思い起こしておくことは、後日の検討のためのメルクマールとして必須のことに感じられる。)

もう一言付け加えるならば、20世紀後半の半世紀にわたるサイバネティクス登場以降の潮流を踏まえつつも、「機械」と「生物」(「人間」含む)を対立的に位置付け、「機械」をフェルスターの言うノントリヴィアル・マシン迄のレベルに押し込めてしまい、更には昨今の人工知能のブレイクスルーを支える技術的・理論的な背景には統計的・確率的な発想が存在するというのに、人工知能もそちらに分類されるらしい「機械」を決定的な動作をするものと決めつけ、確率的過程を恣意的に「生物」の側のみに認めることまでして機械の複雑さと生物の自律性を根本的に異質なものとして対立させ、(なぜ不可能なのかを語ることなく)その対立が乗り越え不可能なものであるかのように語るような発想は(最近の「情報学」なる学問領域に属する主張に、「ネオ・サイバネティクス」を自称し、「人間非機械論」を昌道する、そうしたものが存在することを教えて頂いたのだが、それらが再帰性、オートポイエーシス、構成主義を重視するという基本的な立場の水準では異論なく賛成できるにしても、その帰結としての上述の枠組みには全く同意できないし)、結局のところアトランが述べる上記のような認識とは相容れないように思われる。

つまり上記のアトランの叙述中の「機械」という言葉は、修辞上の不正確さの結果などではなく、さりとて比喩の如きものでは更になく、正確に、文字通りに受け止めるべきなのであって、寧ろ、機械が生命と同レベルのメカニズムを持ち、従って本当に自律性を獲得するということが現実になりつつある一方で、「生命」なるものも「機械」で補綴することができ、「機械」のように交換できてしまう現実が到来しつつあるという点が今日の問題なのであれば、人間を、或いはまたオートポイエティックなシステムを、本当はそれらは「機械」に過ぎないのに、それらが機械ではないのに機械だとみなす態度が問題であるかのような認識、寧ろ正しくは人間も生命もオートポイエティックなシステムもまた(マトゥラーナ/ヴァレラが自らそのように明言しているように)「機械」(但し、それまでの素朴な了解におけるそれとは異なったメカニズムを備えたそれ)として捉えるべきなのに、それを非機械と規定してしまえば現実が変わるかの如き発想は、現実に起きていることの微妙さを、単なる議論の論理の上でだけ単純化することで取り逃しているようにしか思えない。またマトゥラーナ/ヴァレラのオートポイエーシスに限定して言えば、それまで無視されてきた内部からの見方の必要性という点で重要だけれども、だからといって全てがオートポイエーシスの見方で語りつくせるわけではなく、言ってみれば説明の仕方としては限定的であり、観察者の立場にある科学的な見方と相補的であるべきにも関わらず、そこに恣意的な二分法を持ち込み、両者には解決できない対立・矛盾があって、どちらかを選ばなければならないかの如き論理を展開するのは、却って問題の在り処を見えなくしてしまう懸念がある。

私見では上記のような議論の問題の一つは、それが極めて抽象的で、具体的な「現場」におけるディティールに無頓着に見えることで、具体的な対象を分析し、モデル化を試み、構成主義的な仕方でそれを検証していく中で微妙で繊細な問題に突き当たるという経験(それは例えば情報工学や制御工学等の現場においてはごく日常的で当たり前に起きていることであろう)を欠いていることに存すると思われる。そして本稿で参照したバフチンやアドルノの所説を念頭におきつつマーラーの音楽を具体的に分析していく中で、彼らの議論を単にパラフレーズするのではなく、サイバネティクスや情報論的な語彙で語りなおすことを目指しつつ、マーラーの作品についての認識を構成主義的に練り上げていくというのは、まさにそうした具体的な問題(しかもトリヴィアルではない問題)の一つに対するアプローチたりうるというのが、本論を通じて示唆したいことなのである。(「示唆する」という言い方を敢えてするのは、私の能力ではそれを解明することなど到底覚束なく、初歩的な取り組みをしていく中で予感し、示唆するのが精一杯であるというのが偽らざる現実だからであり、この後、それを解決する資格と能力のある優秀な方々が取り組み、解明することを期待しているからである。)

マーラーの音楽を今日、聴き、演奏することの意義は、それがマーラーの没後、20世紀も後半になって提唱されたサイバネティクスや自己組織化をはじめとする複雑性の理論によってようやく正当に記述し、理解することができるような対象であり、マーラーが彼の生きた時代と文化の制約の中で捉え、交響曲という形式に定着させようとした、世界について認識、主体についての認識は、今なお、適切な語彙による解明を待っている点に存するのだ。寧ろ、まだ我々はマーラーの作品をその複雑さと豊饒さに相応しい仕方で受け止めるための準備ができていないと考えるべきであり、「マーラーの時代が来た」という、最早使い古され、色褪せたコピーとは裏腹に、未だにマーラーの音楽は将来における解明を待つ謎なのである。(2012.11.11公開, 12.9加筆修正, 2024.1.2,7加筆, 2024.3.1加筆, 3.10加筆およびアトランの引用に原文を追加)

シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(2024.3.10更新)

シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.118。 ただしこの邦訳は抄訳であり、全訳はアーノルド・シェーンベルク「グスタフ・マーラー」,『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』, 上田昭訳, ちくま学芸文庫, 2019, p.115以降に「グスタフ・マーラー」というタイトルで所収。)
Statt viele Worte zu machen, täte ich vielleicht am besten, einfach zu sagen: » Ich glaube fest und unerschütterlich daran, daß Gustav Mahler einer der größten Menschen und Künstler war.« Denn es gibt ja doch nur zwei Möglichkeiten, jemanden von einem Künstler zu überzeugen, die erste und bessere: das Werk vorzuführen, die zweite, die zu benutzen ich gezwungen bin: seinen Glauben an dieses Werk auf andere zu übertragen.

 多言を弄するかわりに、ただ一言、「私は、グスタフ・マーラーがもっとも偉大な人間にして芸術家のひとりであったと、かたく、ゆるぎなく信じている」と申しあげるのがいちばんよろしかろうと思います。といいますのは、だれかにある芸術家の価値を認めさせるにはふたとおりの方法しかなく、第一の、そしてよりより方法は、作品そのものを持ち出すこと、第二の、つまり私がここでとらざるをえない方法は、その作品にたいする自分の信念を他の人びとに伝達することだからです。 

すでにこの講演で第9交響曲について述べた有名な言葉については紹介済だが、ここで上に引用したのは講演全体の冒頭部分である。如何にもシェーンベルクの 面目躍如といったスタイルの語り出しだが、最初はマーラーを批判した経緯から、サウロが回心して使徒パウロとなったのを自らのマーラーとの関係に対応付けて マーラーを擁護していくこの講演は、単に内容が示唆に富んで興味深いというに留まらない、感動的なものだと思う。上記のシェーンベルクの言葉に従えば、 私は既に第1の、より良い方法によってマーラーの価値を認めているのではあるけれど、シェーンベルクの採った第2のやり方はこの上もない説得力を持って 成功しているのではなかろうか。

実際、この講演の持つ影響力の大きさは大変なものであったらしく、その後マーラーのイメージを色々な側面で方向付けることになったようだ。とりわけ顕著な 「聖化」の傾向は、フランキスト達のペール・フランクの聖化同様、顕著なもので、アルマが回想録によって作り出したマーラーのイメージともども、マーラーの「実像」を 捉えることの妨げになったのは否定し難いことであろう。だが100年後の異郷の地からの展望はすっかり異なっていて、 まるでこの地では今やマーラーについて「客観的に」語ることが可能になったかのようであり、「マーラーの時代が来た」という言葉自体、 改めて持ち出すまでもない自明の事実となったかのようである。

だが、マーラーを聴き始めてようやく30年になろうかという私個人の展望は全く異なっている。作品とマーラーを直接知る人間による記録や書簡といった資料を通して 感得されるマーラーの姿は、確かに今や適切な距離感をもって過去の異郷に位置づけられ、かつてはあんなに身近だった彼は、今や一個の他者、 直接会ったことのない、そして勿論直接会うことは叶わない他者になった。そのかわり彼の音楽は今や演奏会のレパートリーの中心の一つ、 CDなどの録音メディアの売上げの中核となり、その音楽はすっかり日常的なものになったようだし、程度の差はあれ直接、間接にその恩恵に私自身が 浴しているのは恐らく間違いのないことなのだが、それによって私にとってマーラーが一層わかりやすい存在になったかと言えば、 決してそんなことはないことだけは断言できる。マーラーは未だに私にとって未解決の問題だし、その一方でその音楽が私にもたらす「何か」の重みは、 私の生の行路の展望に応じて少しずつ変わりつつ、寧ろ一層増しているように思われる。その一方で、ますます増え続けるマーラーのコンサートやCDは、 かつての思い出すのも忌まわしい「マーラーブーム」以降、私にとっては100年近く前のシェーンベルクの言葉ほども身近に感じられないというのが 正直な感じ方なのだ。

ここで引用したシェーンベルクの講演は、実は第10交響曲への言及で結ばれている。客観的に見ればそれは当時の第10交響曲を巡る状況の産物であって、 その後第10交響曲が辿った紆余曲折を考慮に入れれば、シェーンベルクの発言は状況に依存したものとして相対化してしまえるのかも知れない。 ところがその状況は既に30年前においてほぼ成り立っていた筈なのである。私はマーラーを聴き始めて比較的すぐに、まず第10交響曲のアダージョを聴き、 それに深く魅了された。当時の私がある機会にマーラーを語る際に、その音楽の中から1曲選んだのは他ならぬ第10交響曲のアダージョだった程なのである。 クック版を知ったのも非常に早い時期で、これは偶然の悪戯なのだが、例えば第5交響曲などよりもずっと早くにクック版の第10交響曲は馴染み深い存在 だったのである。否、そうした風景は30年を経た今でも基本的には変わらないようである。

だが、それでは私にとってシェーンベルクの展望は30年前の時点の私にとってすでに最早受け入れ難いものだったろうか? あるいはまた、今の私に関してはどうだろうか?この問いに対する答えは、かつても否であり、そして今尚、否であり続けているようである。 一見したところでは論理的には矛盾した言い方になってしまうかも知れないが、私見によれば第10交響曲のアダージョの聴取の経験は 寧ろシェーンベルクの言葉の正しさを告げているように感じられるし、クック版は更にそれを補強していると私には感じられるのである。シェーンベルクの顰に倣えば、 私はまだそれを知ってはならないような気持ちに捉われるし、自分がそれを受け止めるところまでに熟していないように思えてならない。 第10交響曲はまだ私に「語られていない」のではないかというのが寧ろ偽らざる心境なのだ。 この信じられないほどの強度を持ったフィナーレを繰り返し繰り返し聴き、それにほとんどいつものように圧倒され、涙しながら、 自分が一体何を受け取っているのかをきちんと語ることが未だにできないでいるのだ。確かにそれは第9交響曲の先にあるようだが、 では一体その音楽が鳴っている場所が「どこ」であるのか、私にはわからない。第10交響曲によって第9交響曲や大地の歌に関する或る種の捉え方が 否定されるのは確かだと思うのだが、だからといって、第10交響曲の響いている場所が、とりわけクック版の鳴り響く場所がどこなのか、私には言えない。 だが、そういう場所があることを指し示す音楽の力はもの凄いものだし、それを産み出すことが出来た人間が確かに居たというのは、本当に感動的な、 それを思うだけでも胸が一杯になるようなことだと思うし、私は音楽が示す風景を所詮は音楽が終われば消え去る仮象として片付けてしまうことが、 この音楽については出来ない。どんなに大袈裟に響こうとも、その音楽を知ってしまえば生き方が変わってしまう類の音楽である、という言い方は マーラーの第10交響曲に関して言えば、私個人に限って言えば比喩でも何でもない、端的な事実なのである。

だから多分、シェーンベルクの言葉に従うなら、私は戦いつづけなければならないのだろうと思うのだ。こうした受け取り方は、 客観的には誤読だということになるのかも知れないが、それでもなお、シェーンベルクその人は、このような受け止め方を許してくれるだろうという、 身勝手な思い込みから私は逃れられないでいるのだ。それゆえもう一度、自分のために彼の講演の末尾の言葉を確認しておこう。
Aber wir, wir müssen doch weiter kämpfen, da uns die Zehnte noch nicht gesagt wurde.

しかしわれわれは、そうです、われわれはやはり戦いつづけなければなりません。第十交響曲はまだわれわれに語られていないからです。 

(2008.5.18 マーラーの命日に第10交響曲のクック版を聴きながら, 2024.3.10邦訳を掲載。)

第9交響曲について:シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(2024.3.10更新)

第9交響曲について:シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.124。ただしこの邦訳は抄訳であり、全訳はアーノルド・シェーンベルク「グスタフ・マーラー」,『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』, 上田昭訳, ちくま学芸文庫, 2019, p.115以降に「グスタフ・マーラー」というタイトルで所収。
In ihr(=9. Symphonie) spricht der Autor kaum mehr als Subjekt. Fast sieht es aus, als ob es für dieses Werk noch einen verborgenen Autor gebe, der Mahler bloß als Sprachrohr benützt hat. Dieses Werk ist nicht mehr im Ich-Ton gehalten. Es bringt sozusagen objektive, fast leidenschaftslose Konstatierungen, von einer Schönheit, die nur dem bemerkbar wird, der auf animalische Wärme verzichten kann und sich in geistiger Kühle wohlfühlt. 

 そこ(=第9交響曲)では作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもうひとりの隠れた作曲者がいて、マーラーをたんにメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品を支えているのは、もはや一人称的音調ではありません。この作品がもたらすものは、動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。

これもまた大変有名な言葉。プラハ講演にはこれ以外にも、第6交響曲アンダンテの主題に関しての分析や第8交響曲、第10交響曲についての言及があり、 興味が尽きない。ただし第10交響曲については、この講演の時点では草稿の存在が知られているだけで、それ以上は推測するより他無かった点に留意する 必要がある。それにしても、この受け止め方自体のインパクトは大きく、知ってしまうとどうしてもこの言葉を通して作品を聴いてしまうほどの力を持っていると 思う。勿論、その後の批評にも影響を与えたであろうし、そうした影響を通して、第9交響曲の受容の仕方を方向付けてしまった発言ではなかろうか。
もっともそれでは、このシェーンベルクの言葉を否定し、かつそれに拮抗しうるような聴き方ができるかどうかと言えば、それはそれで難しそうだ。というのも、 ことは生涯と作品の内容を安直に繋げる安易な伝記主義や、アドルノが揶揄したような「死が私に語ること」式のプログラムの問題ではなく、作品を創作する とともに作品の内側に映り込む主体の様態や作品における「表現」そのものの問題に関わるからだ。そうであれば、どっちみちシェーンベルクの洞察は、 その問題の在り処の指摘については全く正鵠を射ているというほか無いのではなかろうか。(2007.5.12)
だから、このシェーンベルクの発言を、第9交響曲が一面ではきわめて個人的ではあっても、超個人的で普遍的なテーマを持つものとなっていることの指摘と とる考え方があるようだが、そうした意見は控えめに言っても、論理を補完すべき飛躍を含んでいるように思えてならない。少なくともシェーンベルクの言いたいのは、 マーラーが自分自身の死の恐怖を乗り越えて、冷徹に客観的に死をテーマにしている、ということではないのではないか。そしてその結果、作品が超個人的で普遍的な ものになったということではないのではないか。
結局そうした意見に対しては3つの疑問がある。1つは「作品」が超個人的で普遍的であることを保証するのは、「作者」の主題に対する態度なのか、 それは「作品」と「作者」との関係をあまりに単純に捉えていないかという疑問、そしてもう一つは、死の恐怖を乗り越えるという「人生」が、冷徹に客観的に死を テーマとした「芸術」を可能にするというような単純な結びつきが、ここでシェーンベルクの指摘しているような印象の由来なのかという、「人生」と「芸術」との関係に ついての疑問、そして最後に、シェーンベルクの言いたいのは、作品が超個人的で普遍的なテーマを扱っていることなのか、そうではなくて、彼がこだわったのは、 あくまで作品の音調が非人称的なものであるという点に在るのではないか、という疑問である。そうした主張がしばしば、マーラーが個人的な死への怖れを 「主観的な仕方で」作品に刻印したのだという「人生」と「芸術」の関係についての「素朴な」立場に対する異論として提示されるだけに、批判の対象のネガのような、 ある意味では同じくらいの「素朴さ」の論理の展開には些か戸惑いを感ぜずにはいられない。
些事拘泥と思われることだろうが、「超個人的」「普遍的」というのは、ここでシェーンベルクが言いたいこととは少なくとも直接は関係ないし、死の恐怖を克服して、 それを客観視できるようになった「から」、シェーンベルクの証言するような音調が可能になったのではないのではなかろうか。確かにシェーンベルクは第10交響曲について 思い込みをしていたに違いないが、事実誤認のほうはそれとして、その思い込みの先にある考え方―それは上記の引用の少し先で展開されている―の方まで 一緒に捨ててしまったら、シェーンベルクの意図を裏切ることになるように思われる。勿論、シェーンベルクの意図はどうでもよくて、上記の証言をいわば「証拠」として 利用できればいいのだ、という考えであればそれでもよい。だが、私個人はそうは思わない。むしろシェーンベルクが言おうとしたことの方が、第9交響曲の核心に 迫っているように感じられてならないのである。(2007.6.30初稿, 2024.3.10邦訳を掲載。)

2024年3月8日金曜日

「歌う骨」が私に語ること―「嘆きの歌」上演によせて―(2023.12.24 マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会によせて)(2024.3.8更新)

※お詫びと訂正:マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会の公演プログラム掲載の文章「「歌う骨」が私に語ること―「嘆きの歌」上演によせて―」の中に誤記がありましたので、お詫びして訂正致します。以下の文章では修正されていますが、「嘆きの歌」と旋律の相互参照がある同時期に書かれた歌曲は、リートと歌第1集に含まれる「春の朝」ではなく、それに先行する最初期の3つの歌曲のうちの一つである「春に」です。関係者およびプログラムをお読み頂いた方には、校正不足のためにご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。(2024.3.8)

 「嘆きの歌」は作曲者本人が自分の「作品1」であると語ったにも関わらず、他の交響曲がすっかりコンサートのレパートリーに定着した今日でも上演の頻度は低く、所謂「稀曲」「秘曲」の類であることは否み難いようだ。実演のみならず、マーラーの交響的作品の中では圧倒的に録音記録の数が少ない作品でもあり、マーラーの交響曲全集を完成させるような、所謂「マーラー指揮者」と呼ばれる人でも、「嘆きの歌」をレパートリーとし、録音記録があるのはごく一部に限られる。その理由として、物語的な性格が強く歌詞の理解が求められること、内容が陰惨で悲劇的であること、遠隔オーケストラを含む大規模な管弦楽に加え、独唱、混成合唱が必要とされ、上演が困難であること、更には複雑な改訂の経緯を持ち、版の選択の問題があるといったことが直ちに思い浮かぶが、そのいずれも単独では他の作品にも当て嵌まることであり、寧ろ「若書き」で「未熟」であるという評価に加え、後にマーラーが到達した交響曲という形式に拠らない異質の作品であるという点に拠る面が大きいのだろうか。

作品の完成を告げる1880年11月1日付の書簡で「次になすべきこと」として語った「考えうるあらゆる手段を用いてこの曲を上演すること」に対するマーラーの拘りは、20年以上後の1901年に王室・宮廷歌劇場監督に昇り詰めたマーラー自身の指揮でようやく初演に漕ぎ着ける迄絶えることなく続いた。この作品を語る時に決まって言及されるベートーヴェン賞への応募と落選の逸話の細部には実はマーラー自身による記憶の錯誤が含まれ、意識的・無意識的に依らず脚色があるようだが、その後1883年に当時全ドイツ音楽協会の会長であったリストに楽譜を送って評価を請うたが色よい返事が得られなかったことや、1893年に初期稿の第1部をカットし、遠隔オーケストラも削除して本体のオーケストラに組み込むといった改訂を行っていることが明らかになっている。結局初演時には遠隔オーケストラは復活したものの第1部はカットされたまま2部構成となり、残された部分も標題を削除され、少なからぬ改訂を経た形態となった。出版もされたこの形態が永らく「嘆きの歌」の確定版とされてきたが、削除された第1部「森のメルヒェン」を含む全3部の初期稿も喪われたわけではなく、ようやく1997年になって初演が実現し、全集の補巻IVとして楽譜の出版が行われたことは今や良く知られていることだろう。

「嘆きの歌」のテキストはルートヴィヒ・ベヒシュタインの採集した民話「嘆きの歌」とグリム童話にある「歌う骨」に基づいてマーラー自身が書いたものだが、そうした編集作業の背後に潜む動機については村井翔さんがジャック・ディーサーの精神分析学的な解釈を紹介しつつ興味深い解説をされている(村井翔『マーラー』, 音楽之友社, 2004, 172頁以降参照)。フロイト的な兄弟殺しの機制がこれほどあからさまな作品をマーラーが書くことはこの後二度となかったが、この作品を「作品1」として「聖別」し、まるで「祭祀」を執り行うこと自体が問題であるかのように20年もの間その上演に拘り続け、剰えコンサートという制度の中に受け容れられ易くする改変を施しさえして上演に漕ぎ着けたことは、ディーサーによれば無意識的な罪の意識からの「行為化」(アクティング・アウト)による解放と解釈されるようだ。更に「嘆きの歌」の物語の登場人物の中でマーラーが自己同一化した対象について、ディーサーの解釈では「王」となった兄であるのに対し, 村井さんは「死者」の恨みを代弁する「辻音楽師」こそがマーラーの代弁者であるとし、作曲家は一種の媒体であって、彼なしでは声を持たぬものがこの媒体を通して語るという音楽観が「嘆きの歌」においても既にはっきりと表明されていることを指摘されておられるが、これもまた至当と思われる。

だがここで指摘しておきたいのは、作品創作や改訂の心理的な要因よりも、マーラーの創作にあって首尾一貫している幾つかの傾向が「嘆きの歌」においても明確に現れている点である。

同時期に書かれた歌曲(ここでは「春に」(※お詫びと訂正参照))との旋律の相互参照と並んで、テキストの選択に関し、他人の手になる素材をそのまま利用せず、編集・改変によりオリジナルな版を構成するのは、第2交響曲でのクロップシュトックの「復活」の讃歌から「大地の歌」の「告別」に至る迄続くマーラーの「方法」の最初期の例と看做すことができるだろう。

それ以上に興味深く思われるのは「歌う骨」という「楽器」の存在である。「辻音楽師」が「死者の無念を晴らす」ための媒体として機能しているのは確かだが、彼自身の声で代弁するのではなく、拾った死者の骨を笛に仕立てることによって死者の声の語りが可能になっているという構造に注意しよう。歌うのは他の誰かであって音楽家自身ではない。更にここでは「歌う骨」とそれを吹く人間の役割は通常と逆転し、骨=笛は人が歌うための楽器=メディアではなく、逆に人間は息を吹き込んで骨=笛が歌うことを可能にしているに過ぎない。「辻音楽師」は第一義的にはこの世にただ一つしか存在しない楽器の製作者であり、息を吹き入れることによって「死者」に声を与え「幽霊」を蘇らせる役割を果たしているに過ぎないのである。

更に付け加えて言えば、楽器の発する(単なる音響ならぬ)「声」は「嘆きの歌」という音楽作品において人間の声によって代弁される。語りも嘆きのルフランも3人の独唱と合唱とが受け渡すようにして繰り広げていくのであり、独唱者が舞台作品におけるような固定的な役割を担うことはない。初期稿では少年の声が充てられていたパートは、改訂によって女声(アルト)に置き替えられるが、これもまた「原光」から「告別」へと至る、マーラー特有の異化の操作の一つと捉えることができる。同様に改訂における標題の削除についても第1交響曲や第3交響曲の例が直ちに思い浮かぶが、一連の改訂が具体性・標題性を剥ぎ取って抽象化していく方向性を一貫して持つのは、時系列的にこれらの作品の創作・改訂時期が重なっており、「嘆きの歌」改訂版の初演はそうした作業の最後を告げ、句読点を打つ出来事であったことを思えば当然であり、そもそもマーラーが「嘆きの歌」を「作品1」であると語ったのもそうした一連の改訂作業を通して獲得した認識に拠るものに他ならないことに留意すべきだろう。

ナターリエ・バウアー=レヒナーが記録している少年期のマーラーのエピソードの一つに、アコーディオンを与えられた少年マーラーが耳にした音楽を片端から記憶してアコーディオンで再現してしまったというものがあるが、ここでもマーラーが自分の声で歌うのではなく、アコーディオンという楽器を媒介として、まるで自らは再生装置のように他人の音楽を再現した点が興味深い。ピアニストとしても相当の腕前であったらしいマーラーは、だが長じては指揮者となり、自分の声で歌うはおろか自分で楽器を演奏することすらなく、他者を通じてその場には不在の他者の声を語らせることを選んだが、思えばこれもまた自己の内面を歌うのではなく誰かの声のメガホン替わりになるという作曲者としての姿勢と一貫していることに気付く。

更にマーラーの作品が常に持っている、そのそれぞれが仮構された一つの世界であり「夢」の如きものであるという構造が、既に出発点である「嘆きの歌」において明確であることにも注目したい。後にそのための媒体としてマーラーは交響曲というジャンルに辿り着くことになるが、そこに至るまでには更なる紆余曲折があり、次には2部5楽章からなる交響詩「巨人」に対して「嘆きの歌」と同様のカットを施して第1交響曲とするといった歩みが繰り返されることを念頭に置くならば、結果的にカンタータというジャンルに属することになった「嘆きの歌」は、マーラーが「交響曲」を再発見する段階に先行する、未成の「交響曲」であると考えることもできるだろう。

かくして「嘆きの歌」は、マーラーが兄として弟に対して負っている心理的な負い目を音楽化するとともに、自らが音楽家になって他者の歌を媒介することを引き受けることでその負い目を償うことを選択したという原点の証言であるとともに、作曲家としてのマーラーの様々な志向が最初に発現した特異点として、まさに「作品1」に相応しい実質を備えていることが浮かび上がってくるのである。

ところで骨で笛を作ることに関しては、考古学的遺物として世界の各地で確認されている様々な「骨笛」が思い浮かぶ。スティーブン・ミズンが『歌うネアンデルタール』で紹介している5万~3万5千年前のものと推定される正円の穴が開いた熊の大腿骨は、肉食獣が犬歯で噛んだ跡が偶々笛の穴に似たということのようだが、中国の河南で7千~8千年前に作られた鶴の骨のそれやタジク族や中南米に見られる鷹の骨のそれは疑いなく「笛」として用いられたようであるし、チベットでは法具として人間の骨でできた笛が用いられると聞く。

道具の制作も高度な共感も、或いは死を悼むことすら人間固有の能力ではなく、他の動物にも共通する生物学的な基盤を持つ可能性があるが、「幽霊」を見ることができるのは人間のみであり、「今ここ」には存在しないものを追憶し、「死者」に語らせるために骨で笛を作るのもまた、「現実」とは別に「虚構」を共有できる人間のみの営みであろう。そしてまた「死者」の追悼は、単なるその場限りの同期、同調、一体感ではなく、場所を変え、時を変えて記憶し、反復し、継承するという側面を必須なものとして含んでいる。更に儀礼によって「物語」が空間的な拡がりをもって共有され、時間的な拡がりをもって伝承されるためには、それが記録され、伝承されることが必要条件であり、予め反復可能でなくてはならないことを思えば、マーラー本人によって初演されてから100年以上の歳月を隔てた地球の反対側で、未だに演奏の伝統が稀薄で演奏に困難が伴う作品、けれどもその後の全ての作品の原点にあたる「作品1」を有志の手によって再演することの持つ測り知れない意義と価値の重みは自ずと了解されるのではなかろうか。それは他のどの作品にも増して長い20年もの間忘れることなく、「儀礼」としての上演を果たしたマーラー自身の行為を、場所を変え、時を変えて記憶し、反復し、継承することによってマーラーその人に応答することに他ならない。(2023.10.5, 2023.12.28本ブログにて公開)

2024年1月19日金曜日

備忘:MIDIファイルを用いた分析の振り返り:本文(暫定版 2024.1.22更新)

序文から続く)

1.先行研究について

 これまで実施・報告してきた集計・分析は、伝統的な音楽学における和声理論の立場からの無視できない乖離がある一方で、音楽情報処理の分野では、対象がマーラーの交響曲のような複雑・大規模なものである点を除けば、寧ろありふれたものと見做されるだろう。先行研究の例としては、本稿の集計・分析を進めるにあたり参考にした、Eva Ferkova et al., Chordal Evaluation in MIDI-Based Harmonic Analysis: Mozart, Schubert, and Brahms (in Tonal Theory for the Digital Age, Computing in Musicology 15 (2007-08))が挙げられる。この論文で分析対象となり比較が行われているのは、タイトルにもあるように、モーツァルト、シューベルト、ブラームスである。ということで、MIDIファイルを入力とした分析自体は集計・分析の実施を思い当たった時点で既にありふれたものであったが、 管見では、マーラーの音楽に関するまとまった分析の報告は見当たらなかった。そしてその状況は本稿を執筆している現時点でも変わらない。

2.マーラー作品のMIDI化状況について

 MIDIファイルを用いた分析を行うには、当然のこととして対象の音楽作品のMIDIファイルを用意する必要があるのだが、上記のような状況から、マーラーの作品については、そもそもまずMIDIファイルが存在しないのではないかという懸念があった。またもしMIDIファイルが存在しても、パブリックドメインでダウンロードして利用可能な状況でなければ、私のような立場で集計・分析環境を整えることは実質的に不可能となる。
 そこでまず、マーラー作品のMIDI化状況についての調査を行った。すると交響曲は「大地の歌」、第10交響曲のクックによる演奏会用補作を含めて全てMIDI化されていることがわかった。しかも、第1~9交響曲、「大地の歌」については、単一の製作者(加藤隆太郎さん)による「全集」が存在することがわかった。一方で「嘆きの歌」はなく、歌曲は、さすらう若者の歌、リュッケルト歌曲集はあるが、「子供の死の歌」、「子供の魔法の角笛」による歌曲は網羅的ではないことがわかった。
 集計・分析のために利用するという前提に立った場合のMIDIデータの信頼性の観点からは、入力のポリシーが均質であることのメリットは大きい。様々な点で同一条件でデータが作成されていることがわかっていれば、例えばマーラーの異なる作品の間での比較を安全に行うためのコストは大幅に小さくすることが可能になる。逆にMIDIファイルが利用可能であるとしても、それがどのような目的で、どのような仕方で作成されたかが異なる場合には、そうした目的・前提が異なるファイルを単純に比較することには分析の精度上問題がある場合もあるし、抽出しようとしている条件によってはそもそも利用に適さないような場合も存在する。これらについては、本稿で実施してきた分析・集計の観点から具体的にどうであったかを、別途「MIDIファイルのデータとしての信頼性」の項でまとめておきたい。
 もう一点、開始してから既に7,8年が経過している現時点において明らかになってきたこととして、Webでアクセスできるデータは時々刻々変化すること、かつ単調にリソースが増加するとは限らないことが挙げられる。それどころか寧ろ、近年はMIDIファイルそのものの公開はDTMが盛んであった時期に比べると低調であるように見受けられる。以前MIDIファイルを公開していたサイトがなくなったり(これには少し前からかなりのペースで進んでいる、インターネットプロバイダのWebサイト提供サービスの終了が大きく影響しているように思われる)、youtubeでMIDIファイルを再生した結果を聴かせる形態に切り替わる(この場合、生成結果の音響を聴くことができるが、元となったMIDIファイル自体にはアクセスできなくなってしまう)など、結果的に、MIDIファイルのダウンロードができなくなるケースが増えている印象がある。もともとマーラーを含むクラシック音楽専用のサイトを含め、MIDIファイルの共有を目的としたサイトは海外に多く(というか、知る限りでは海外のものばかりで)、日本のものは圧倒的に個人のサイトが多いのだが、その結果として、海外の共有サイトは相変わらず利用可能なのに対して、日本国内の個人のサイトにはアクセスできなくなってしまったものが多い。そして日本国内のサイトで公開されているMIDIファイルには、海外のサイトでは入手できない作品のMIDIファイルを初めてとして貴重なものが数多く含まれていたから、仮に例えば、本稿執筆の時点で分析を企図して利用できるMIDIファイルの調査を行ったとしたら、充分なデータが入手できずに同じ分析を実施することは出来なかったし、事によったら分析自体を断念した可能性すらある。そういう意味では、本ブログの分析は、タイミングに恵まれた、幸運の産物であると言うことができるように思う。
 なお本ブログで分析結果を公開するにあたっては、MIDIファイルから自分で作成したプログラムによって抽出した所謂元データ(集計の対象であり分析の入力となる、どの時点でどの音高の音が鳴り始めた/鳴り終わったという基本的なデータ)については公開の対象としているが、MIDIファイルそのものは含めていない。これはMIDIファイルの利用についてはパブリックドメインであっても、著作権は当然作者に帰属するし、MIDIファイルを再配布する権利が許諾されているかどうかまでは確認が取れないからだが、当初は取得元のWebサイトのURLを示せば済んだという事情も大きい。上述のように現時点では既にアクセスができないサイトも多く、徐々に価値ある貴重なデータにアクセスできなくなる頻度が高くなるにつけ、手元にあるデータを共有できないものかと思わなくもないが、上述のように、どの時点でどの音高の音が鳴り始めた/鳴り終わったという基本的なデータの抽出結果は公開しているので、それを活用して頂くことが可能であることを以て良しとするというのが現時点での判断である。

3.和音の定義について

 データ分析に取り組むもともとの動機がマーラー作品における調的遍歴のプロセスを取り出すことにあったことから、抽出する特徴量は自ずと和音とその周辺に限定することになり、音のダイナミクスの変化、テンポの変化、音色の違いなどの所謂「セカンダリー・パラメータ」はデータ抽出の対象にしなかった。それ故、それらについてのMIDIファイルのデータの精度や信頼性については問題になることはなかった。勿論、和音の抽出といっても、分析者の視点をもった人間が、自己の関心に基づいて対象を同定し、選択し抽出するのとは異なって、プログラムによって機械的に抽出するとなると、人間だったらそもそも暗黙の裡に処理をしてしまって意識することすらないかも知れない様々な条件を考慮する必要が出てくる。単純な話、音楽作品には無音の部分、単音の部分、重音の部分も存在するわけで、そうした部分の扱いは真っ先に問題になるが、本ブログにおける分析においては、無音の部分は除外するものの、単音・重音は対象として、それらも含めて集計・分析の対象とすることにした。(なお、最初の動機に関しては、五度圏サークル上の重心を計算し、その時間軸に沿った変化を3Dグラフで視覚化した結果を、記事「MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について」で報告しており、本体の和声の出現頻度の分析よりも、こちらの視覚化の方がより高い評価を頂ける場合も少なくない。)

 ところで、ここで「和音」とは、音楽理論(和声学)上の「和声」でなく、所謂ピッチクラスセットのことである。実際のMIDIデータには同一ピッチクラスに属する音の集合について、解離・密集の区別や移置関係による区別が存在するので、ピッチクラスを抽出するためには、それらを捨象して同一のピッチクラスセットに分類する処理が必要となる。結果として解離・密集の区別はなくなり、移置の区別も取り除かれることになるが、ここでの移置関係の区別の除去は、音楽理論(和声学)上の主音の判定に基づく和声機能の同一性の判定とは異なることに注意が必要である。特に問題となるのは主和音に相当するピッチクラスについてで、主音の判定(調性推定)なしだと、その和音(ピッチクラス)の和声学上の機能(主和音なのか、属和音なのか)の判定が行えない(主和音も属和音も、ピッチクラスとしては同一である)。だが主音の判定は、それ自体が楽曲分析の結果であり前提ではない。また転回の区別も捨象されるが、機能和声上、転回形により異なるとされる主和音の機能差については区別ができない。(転回についてはピッチクラスの構成音の内、実際の音高が最も低いのはどの音かに基づき区別ができるので、主音判定とは異なり、こちらは対応可能でああり、実際に転回形の区別を行った集計・分析も実施した。だが、主和音以外の和音についても同様の区別をすることにどの程度意味があるものかは判断がつき兼ねるし、繰り返しになるが、ここでいう主和音というのは、あくまでも主和音の構成音からなるピッチクラスセットであって、機能和声上、主和音なのか属和音なのかの区別は行っていない点は常に念頭におくべきであろう。)

 上記の点を解決するためには、主音の判定が必要である。実際、本ブログの分析の過程においても調性推定について検討したことはあって、実際、検討結果い基づき、クラムハンスルによる「調的階層」を用いた調性推定のアルゴリズム(詳細は、Carol L. Krumhansl, Cognitive Foundations of Musical Pitch.  Oxford: Oxford University Press. 1990 の特に第2章 Quantifying tonal hierarchies and key distance および第4章 A key-finding algorithm based on tonal hierarchies 参照。)を参考にして計算を行い、その結果を公開している。(記事「MIDIファイルを入力とした分析の準備(1):調性推定と和音のラべリング」を参照。)

 但し、結果的には調性推定の結果としてそれ単独で公開しているだけで、結果を用いた和音の機能の推定(究極には機能和声に基づくラベリングがゴールということになる)はしていないし、和音の出現頻度分析への適用も未実施である。(前者はともかく、うまくいくかどうかは措いて、後者はやってみればいいのかも知れないが、現時点では実施していない。実は推定結果を具体的に個別の作品について眺めて、大雑把な仕方ではあるが楽曲分析との乖離の程度を確認する作業まではやったのだが、その結果は、方法上当然のことであるとはいえ、気になる点が多くあって、主音推定結果を用いて和音の機能を推定することは躊躇われたことを付記しておく。)

 その一方で、既述の通り、機能的に異なるものを区別するという観点から、主三和音に相当するピッチクラスセットに限定し、転回の区別を行った集計・分析の方は実施済である。(記事「付加六は旋法性の現われか?:MIDIデータを入力とした分析続報:主和音形とその転回形・属七・属九・付加六の出現頻度分析」を参照。)

 本分析を通じて身をもって感じたことの一つに、音楽理論上の機能を持つとされる「和声」という概念と、楽譜に書き留められた(その結果としてMIDIデータとして存在する)同時に鳴る(べき)音の集合としての「和音」との間に広がる大きなギャップの存在がある。所謂音響処理においては、実現された物理的な音響と、楽譜上に記譜された音高や音価、更には音色といったパラメータを持つ「音」との対応づけも見かけほど単純な問題ではなく、mp3などのフォーマットに収められた音響データをMIDIファイルに変換することもまた、別レベルの様々な困難を伴うが、ここでの問題はそこではなく、楽譜に記譜された「和音」と音楽理論上の機能を持った「和声」の関係である。既に述べた通り、楽譜に記譜されたままの同時に鳴るべき各音の音高の違いを捨象してピッチクラスの集合を抽出したとしても、例えばそれが主和音に相当する音の組み合わせであった場合に、その「和音」が鳴っている区間における調的な中心音が何か、調性は何かといった文脈の情報なしには、それが機能上主和音なのか属和音なのかを判定することはできないし、主和音であった場合には、転回の有無によって機能の差異が生じるため、ピッチクラスの集合にしてしまうのは抽象のし過ぎということになる。だがその一方で、繰り返しを厭わず言うが、文脈の情報は、まさに分析に基づく推論の結果として得られるものであって分析の前提ではないため、後で述べるような部分観測マルコフモデルベースでのベイズ推論システムのようなものを構築し、学習と推定を繰り返し行うことで調整をしていくようなアプローチを採用するならともかく、本ブログで行ったような素朴な集計・分析手法ベースで対応しようとするならば、既述のクラムハンスルの提案手法等によって別途推定した結果を用意して、それも入力として与えてピッチクラスの情報と組み合わせるといった対応が現実的なものであろう。

 こうした和声に関する一見するとパラドキシカルな状況については、音声認識における音素の位置づけとのアナロジーが成り立つように思われる。音素という概念は理論的に設定されたものであり、現実の物理的な音声との対応は必ずしも単純ではなく、その実際の音声としての実現は文脈によりかなりの変異があることは良く知られているであろう。では音素は客観的に「実在」しないのかと言えば、それが外部世界の構造として実在するかどうかという観点では実在しない一方で、現実と関わりが全くない単なる理論的抽象というわけではないだろう。具体的には音声認識システムの内部には外部からの入力を処理して分類をする仕組みが存在し、それは音素の体系に概ね対応したものである筈であり、音声認識システムの一つである人間の脳内の神経回路網にはその近似的なモデルが構築されていると考えられる。そしてそれと類比できるような状況が、和声についても成り立っているのではないかと思われる。(上で例として挙げた、部分観測マルコフモデルベースでのベイズ推論システムのようなものはその一例だろう)。それでは一見するとパラドキシカルな状況が現実には問題にならないのは何故かに関して言えば、それは音楽を享受したり、音声を認識したりする「心」のメカニズムは、フリストンの言う「能動的推論」によって特徴づけられるのであって、「現実」の「世界」は、客観的に実在する構造を認識するのではなく、主観的に制作されるという構成主義的な見方がより適切であるような造りになっているからである。(その限りで、ベイズ推論システムは相対的にはより妥当な近似ととらえることができるのではなかろうか?)この点については後述の分析の前提となるモデルについての節で改めて整理することにしたい。


4.和音の抽出方法について

 和音(ピッチクラスセット)を対象とするといっても、データ中の全ての音を対象とするわけではない。もともとの動機であるマーラー作品における調的遍歴のプロセスの抽出という目的に照らして、大まかには音楽理論(和声学)上、「意味のある」和音が出現している可能性が高い箇所のみを対象にするのが適当と考えたからである。経過音、刺繍音など、「非和声音」とされる和音を拾うのを防ぐ一方で、すべての「意味のある」和音=「和声音」を拾うのが理想的だが、実際にはそもそも「すべて」を定義することは困難であり、それは楽曲分析の結果であって前提ではない。

 そこで、上記の主旨を考慮した上で、(A)各拍頭および(B)各小節頭拍頭の2種類のパターンで和音を抽出することにした。従って集計対象となる和音の抽出の仕方は、ランダム・サンプリングではないがサンプリングが行われているには違いない。しかも機械的に上記2種類の条件で抽出した場合に、主旨にそぐわないケースが出てくることも確かである。例えば装飾音の扱いは常に問題になるし、アウフタクト、シンコペーション等により、特に各小節頭拍については音が鳴っていない場合がある。一方で、長い音価の音の場合、特に各拍の頭で拾うと、音の鳴り始めではなく音が鳴っている途中を拾うこともあるが、それ自体が問題であるというよりは、拍頭以外のところで解決が起きるのを拾い損なうことが起きるのは、和声進行を正しく拾うという観点からは問題があるだろう。特に後述するように、出現頻度の集計対象となる和音を、機能的に意味のあるものとして和声学等で取り上げられる、所謂「名前を持った」和音(煩瑣を厭わずに繰り返すならば、和音に対応するピッチクラスセット)に限定した場合、余計な和音を過剰に抽出してしまう方の弊害は問題ではなくなるが、拍頭以外のところで鳴る意味のある和音を拾い損なってしまう可能性については避けることが困難である。


5.集計対象とする和音の範囲について

 前節末尾でも触れたように、和音の出現頻度(出現確率)の集計対象を決める際には、出現するすべてのピッチクラスセットを対象とするか、機能的に意味のあるものとして和声学等で取り上げられる、所謂「名前を持った」和音に対応した、特定のピッチクラスセットに限定するかについての選択が存在する。後者の特定のピッチクラスセットの範囲の定義にあたり参照した文献は、先行研究についての節でも言及した、Eva Ferkova et al., Chordal Evaluation in MIDI-Based Harmonic Analysis: Mozart, Schubert, and Brahms (in Tonal Theory for the Digital Age, Computing inMusicology 15 (2007-08))である。

 一方で、出現するすべての和音(ピッチクラスセット)を対象とする方については、実際のMIDIデータに存在する解離・密集の区別や移置関係による区別を取り除いて同一のピッチクラスセットに分類する処理を、出現するすべての和音に対して用意する必要があり、この処理が対応していない和音は分類されず、分析の対象にもならない未分析の和音になる。どういう和音が出現するかは作品毎に異なるし、抽出対象を各拍毎にするか、各小節頭拍毎にするかによっても異なる(更に現実の問題としては、同一作品についての異なるMIDIデータ間にも差異が存在する)ため、実際にMIDIファイルを与えてプログラムを動かし、分類できない和音が出てきたら、分類処理にそのパターンを追加することになる。本ブログの集計・分析の初期の段階では、出現頻度の高い和音については分類できるようにしたものの、出現頻度の低い和音については未分類・未分析のパターンが残っていたこともあって、特定の和音、ないし出現頻度の高い和音に限定した集計・分析に限定せざるを得なかった。(この辺りの具体的な状況については、記事MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 補遺(1):未分析和音の解消を参照されたい。)その結果として途中の段階では、マーラーの作品における出現頻度が上位40種に含まれる和音を対象とするというようなやり方をしたこともあったが、現時点では、手元にあるマーラーの全ての作品の全てのMIDIデータについて、各拍に出現する和音については全て分類ができるようになっているため、全ての和音についての集計・分析が可能となっている。

 マーラー以外の作曲家の作品、特にマーラーの同時代以降の作曲家の作品にはマーラーの作品には出現しない和音がしばしば出現するため、集計・分析の対象は自ずと特定の和音に限定される。特に状態遷移パターンの集計・分析を行うにあたっては、未分析・未分類の和音が存在することの影響は大きく、意味のある集計・分析が行えない場合もあった。この最後の点については、記事「MIDIファイルを入力とした分析:未分析の和音の出現頻度―エントロピー計算結果の同時代以降の作品との比較の記事撤回について」で取り上げているが、結果としてマーラーの作品と他の作曲家の作品を比較対照するにあたって、現状の集計・分析環境では、比較対象とする作品を制限することなった。

 勿論この問題は、更に比較対象の作品に出現する和音を網羅するように分類のプログラムを拡張すれば解決するし、根本的には、どんな和音についても解離・密集の区別や移置関係による区別を取り除いて同一のピッチクラスセットに分類する汎用的なプログラムを作成すれば良いのだが、第一義的にはここでの集計・分析の対象はマーラーの作品であり、そしてマーラーに作品に限れば、既に述べた通り、手元にある全てのMIDIデータを網羅することはできており、尚且つマーラーの作品について更に集計・分析をすべき課題は山積していて、当然そちらを優先して実施することになる関係上、他の作曲家の作品には手が回らないことから、上掲記事にも記載した通り、今後、上掲記事で報告した他の作曲家の作品の未分析和音を解消すべくパターン・マッチング処理を拡張するかどうかに関して言えば、現時点では否定的である。


6.和音の状態遷移パターンの定義について

 状態遷移パターンの分析にあたって参考にしたのは、大黒達也『音楽する脳』(朝日新書, 2022)の第2章「宇宙の音楽 脳の音楽」の「脳の音楽」の部分(p.76以降)、特にpp.84~88である。状態遷移の前情報の「深さ」についても同書p.86 深い統計学習と浅い統計学習 の節に拠っている。なお和音単独での出現頻度は、深さ0の状態遷移(つまり記憶がない場合)として扱うことが可能である。
 一方、和音系列から状態遷移パターンを抽出するにあたっては、細かく見ると以下のような選択肢が考えられる。

  • 三和音以上のみに限定するか?単音・重音についても対象とするか?
  • 同じ和音の繰り返しをカウントするか、連続しているとしてカウントしないか?
  • バスの音高の変化の大きさを区別することにより移置を考慮するかしないか?
実際に聴こえる音の系列の現象面を重視するならば、できるだけ元の系列を保存するような抽出の仕方となり、単音・重音を含め、同じ和音の繰り返しもカウントすることになるだろうし、音楽のより抽象的な構造にフォーカスするならば、機能的に意味を持つ三和音以上を対象とし、各和音の持続の長さは無視して、異なる和音がどのように連結するのかといった
音楽理論上の「カデンツ」に近いものを抽出するアプローチを取ることになると思われる。更に言えば、前者では音が鳴っていない場合の扱いが問題になりえる一方で、後者では単にピッチクラスとしての和音のシーケンスのパターンではなく、移置を考慮する、更には転回の有無も考慮した上でパターンを定義することも考えられる。従来の和音単独での出現頻度の場合には、主和音に限り転回を区別して集計・分析を行っているので、状態遷移においても同様の条件で状態遷移パターンを定義することも考えられる。


7.MIDIファイルのデータとしての信頼性について

 もともとデータ分析用を目的として作成されたものではないものを、謂わば転用しているに過ぎない。あくまでもデータ分析というここでの利用目的に照らしての相対的なものであることに注意が必要。この点を踏まえた上で、大きく分けてMIDIファイルの作成され方には2種類ある。
  • MIDIシーケンサソフトを用いて作成(DTM)
  • MIDIIキーボードで人間が演奏したものの記録
 MIDIシーケンサソフトを用いて作成するのは、DTM(DeskTop Music)と呼ばれ、再生して聴いて楽しむ目的が第一義的である。そしてそれ故、楽譜に忠実であるとは限らず、拍子の情報、小節の区切りに関してばらつきが存在する。
 MIDIIキーボードで人間が演奏したものの記録は、音響の実現の再生可能な記録。楽譜の情報は基本的に含まれない(拍子・テンポの指定はない)ため、拍頭・小節頭拍の拍頭に同時になっている音をサンプリングしようとしても、どこが拍かの指定がない。

 後者については、鳴っている音から推定するアプローチはありうるものの、MIDIファイル中のデータを抽出して分析するというアプローチには適さない。前者は、作者の作成ポリシー次第であり、同一曲について複数のMIDIファイルのバージョンが存在する場合には、そのばらつきが存在する。楽譜に忠実な入力ポリシーで作成されたMIDIファイルは、データ分析に使用するのに適している一方で、そうでない場合には、拍毎、小節頭拍毎の抽出を前提にするとサンプリングの条件が異なることになり、結果として出現頻度分布、出現確率分布の形が変わってしまうことになる。

 従って、本分析の観点から利用しやすい好ましいMIDIファイルは、MIDIシーケンサソフトを使って入力されたものであり、かつ特に拍子の情報が楽譜に忠実に入力されており、小節の区切りが正しく同定できるものということになる。更に同一作者が入力したMIDIファイルは、入力ポリシーが統一されていることが期待できるので、利用しやすいタイプの入力ポリシーを持った同一の作成者の手になるMIDIファイルが存在することが望ましい。マーラーの作品に関しては、非常に幸運なことに、「大地の歌」を含む全交響曲の同一の作者(加藤隆太郎さん)によるMIDIファイル「全集」が存在したので、分析は基本的にはこの「全集」を用いて実施することになった。なおこの点に関しては、ピアノ伴奏版の歌曲についてはMIDIIキーボードで人間が演奏したものであるが故にここでの分析には向かず、逆にDTMとしてシーケンサソフトで入力する他ない管弦楽作品である交響曲や管弦楽伴奏歌曲のMIDIファイルの方が分析に適しているという稍々意外にも感じられる状況にある。マーラーの交響曲は長大である上に管弦楽編成も大規模であるが故にDTMでのMIDIファイル作成には大きな困難があり、膨大な手間がかかるものと思われることを思えば、マーラーの交響曲のMIDIファイルの状況は大変に恵まれたものであると感じざるを得ない。特にお世話になった加藤隆太郎さんを始めとする作成者の皆様には改めて大きな感謝の気持ちとともに、敬意を表したく思う。


8.分析の前提となるモデルについて

 本分析を開始してから和音の出現頻度を対象とした分析が一区切りするまでは、MIDIファイルは理想的には楽譜の替わりであり、機械可読性のある楽譜と見做していた。実際には文字通り楽譜をタグ付けにより機械可読に形式化した、musicXMLというXML形式の楽譜表記のためのオープンなファイルフォーマットも存在しており、こちらは所謂楽譜作成ソフトウェアにより作成することができるようになっている。musicXMLはその名が示す通り、楽譜の表記に対応したタグが定義されており、文字通り機械可読可能な楽譜と見做すことができるだろう。それに対してMIDIファイルは、その利用目的からしても、楽譜の代替として用いることが可能であるとしても楽譜そのものではない。特にそれが明確に表れるのは、デュナーミクやアゴーギクといった側面で、楽譜上は離散的に記号化する(ppp~fff)か、自然言語による指示(accelerando, ritardandoなど)が用いられるのに対して、MIDIファイルでは音量の増減や速度の加減として、いわば「解釈」されたものになる。発想表示や奏法の指示についても同様であり、実際にはMIDIファイルの作成には、演奏そのものではないにしても、具体的にどのように音響的に実現をするかについての「解釈」が含まれるのである。それはMIDIファイルの作成方法として、実際にMIDIキーボードで人間が演奏したものを記録するやり方があることを考えれば明らかなことであろう。楽譜上、音符で表記される音の高さ・相対的な長さは基本的には楽譜に準じた入力がされると見做していいだろうが、長さの変化について、同一の長さで入力速度を増減するのではなく、そもそも微妙に音価の異なる音符として入力することも可能であり、目的によっては全く差し支えないだろうし、拍子の情報、調性の情報はあくまでも参考情報に過ぎず、存在しなくても音響的な実現には影響しないのである。

 前節で述べたMIDIファイルのデータとしての信頼性が、ここでの目的にMIDIファイルを使用するという観点に限定されたものであることを強調したのはそのためであり、結果としてMIDIファイルの作成の仕方によって大まかに向き不向きが存在し、シーケンサソフトを用いて入れる場合で、楽譜に忠実な入力の仕方がなされた場合に限り、ここでの分析に利用できるということになったのは既述の通りである。そして楽譜の代替と見做してMIDIファイルのデータを用いる限りにおいて、そのデータは(本来は)確定的であり、作品の「あるべき姿」についての情報であることを前提に集計・分析が行われることになる。そうした見方が可能なのは、ここでの分析の対象が演奏やMIDIファイルの作成といったリアライズにおいて差異が生じうる特徴量についてではなく、和音というリアライズに依らず保存される筈の情報であるが故であって、本質的には音響的実現そのものではなくて(なぜなら調性とか拍子というのは、既に見たように、音響的実現を保存し再現可能にする方法としてのMIDIフファイルにとっては不要なものだから)、実現される音響の背後にある、或る種の「構造」を取り出そうとしているからに他ならない。

 この点に関連して、内井惣七『ライプニッツの情報物理学』には「休憩室」と性格づけられた「モナドロジーと音楽」という章がある(pp.195~204)が、ここでは音楽作品(楽譜)とその作品の演奏との関係において、モナドロジーとのアナロジーが成立していることが指摘されている。そのアナロジーに従うならば、作曲者によって設計された音楽作品の楽譜として書き留められ、それが音響的に実現されたときに、その具体的な実現による影響を受けずに「変わらない構造」とされている「状態遷移の順序と他の声部との対応関係」に相当するものが本分析の対象であるという対応関係を認めることができるだろう。勿論、現実のMIDIファイルには入力ミスが存在しうるが、それは演奏において生じうるミスよりも寧ろ、楽譜に含まれうる誤植の対応物と考えるわけである。いずれにせよ、ここで重要なのは、分析の対象となる音楽作品は確定的なものであって、その構造は楽譜として記述されているという見方を採っていることである。

 一方で、和音単独の出現頻度の分析を終えて、和音の状態遷移パターンの出現震度や遷移確率が対象となると、分析の枠組みがマルコフ過程のような確率的な過程としてモデル化されているが故に、上述のような確定的過程として捉えようとする立場と齟齬を来すことが起きるようになる。それが最も明確に現れるのはマルコフ過程としてのエントロピーを求めようとしたときで、MIDIファイルから抽出した和音の系列の状態遷移マトリクスを作成した上で、状態遷移マトリクスから定常分布を求めるという手順を踏むのだが、定常分布の存在は過程がエルゴード的であることを前提としている。だが、ここで対象となっているタイプの音楽作品の過程についてエルゴード性が成り立っているとは考えにくい。更に定常分布の計算は、その元となる状態遷移マトリクスが現実の過程の一部分をサンプリングしたものであることを前提とし、それがいずれ一定の確率分布に収束することを前提にしているのに対し、ここで状態遷移マトリクスを作成するために用いた和音の系列は、対象となっている音楽作品の全体についてのものだし、その状態遷移過程は、それが楽譜に書いてある通りの正確なものであるならば確定的である筈ではなかったか。実際にMIDIデータから抽出した状態遷移パターンをもとにエントロピーを計算しようとすると、定常分布がある特定の状態に収束してしまうことがしばしば生じたが、例えばピカルディ終止のようなものを思い浮かべれば、それが必ずしも例外的ではないことがわかる。

 それでは音楽作品の分析のモデルとして確率的な過程を用いるのが不適当なのかと言えば、そうではない。上記の議論はあくまでも本分析の枠組から見た場合に限定のものであり、MIDIファイルの作成が、楽譜を作成するよりは寧ろ楽譜の内容の実現としての演奏に近いという点を踏まえるならば、MIDIファイルのデータを分析するより一般的な枠組みとしては寧ろ適切なものである筈である。例えばトーマス・パー、ジョバンニ・ペッツーロ、カール・フリストン『能動的推論 ――心、脳、行動の自由エネルギー原理』(乾敏郎 訳, ミネルヴァ書房, 2022)の第7章 離散時間の能動的推論 では、「離散時間のカテゴリ変数のモデルに焦点を当て、知覚処理、意思決定、情報探索、学習、階層的推論などのモデルを、簡単なものから複雑なものへと一連の例を通して説明する」(同書, p.137)手始めの簡単な例として、音楽の演奏を聴くことが採り上げれられる。それは完全な部分観測マルコフ決定過程( POMDP, Partially Observable Markov Decision Process)の特殊なケース、選択や行動を無視できるPOMDPの特殊なケースとして取り上げている。

「楽譜に書かれている音符の系列は、隠れ(観察されない)状態であり、我々が実際に耳にする音符の系列は、(観察可能な)成果であると考えられる。演奏者がプロの音楽家であれば、隠れ状態と成果の対応は極めて近いものになるだろう。しかし、アマチュア音楽家であれば、演奏されるべき音から聞こえる音への(尤度)マッピングには、ランダム性が加わるかもしれない。また、このシナリオでは、それぞれの音が他の音に先行または後続する確率に関する事前の信念があれば、どの音が聞こえたかをより正しく推論できるかもしれない。」(トーマス・パー、ジョバンニ・ペッツーロ、カール・フリストン『能動的推論 ――心、脳、行動の自由エネルギー原理』, 乾敏郎 訳, ミネルヴァ書房, 2022,  pp.137~8)

ここで「我々が聴いている音楽がアマチュア音楽によってどのように生成されるかに関して我々が持つ信念の記述」(同書, p.139)として定式化されるHMMモデルは以下の要素からなる。

  • 尤度:音楽家が意図した(隠れ状態である)音をどれだけ正確に演奏(成果)できるかを決める、ある状態(列)からある成果(行)が得られる確率を表す行列。
  • 遷移確率:現在の状態(列)から次の状態(行)になる確率
  • 初期状態に関する事前信念:系列の初期状態(事前確率)

そしてこの例は、以下のように位置づけられる。

「上述のHMMモデルは、一連の成果に基づく非常に簡単なカテゴリ推論の例を示している。しかし、このモデルで表現されているような(動かない)生き物は、あまり面白くない。自律的な生き物は、感覚データを受け取るだけの受動的な存在ではなく、能動的に環境を変化させ、感覚中枢と双方向のやりとりを行っている。このことは、HMMをPOMDPに変換することの重要性を物語っている。POMDPでは、環境がどのように変化しているかだけでなく、自分の選択した行為系列が環境をどのように変化させるか、そしてどの行為系列を選択すべきかを推論しなければならない。」(同書, p.141)

上記の内容を、MIDIファイルを用いた分析に適用してみたらどうなるだろうか?MIDIファイルの作成方法のうち、MIDIキーボードの演奏記録は、ほぼ上記の演奏を聴くケースそのものであり、MIDIシーケンサを用いたDTMの場合もアナロジーで捉えることが可能そうである。(或る種の演奏解釈が提示されていると考えていい。実際に「理想の」解釈を実現する意図をもって作成されている。逆にそうであるが故に、楽譜上の情報のどの部分が重視されるかに関して、ここでの分析を目的とした場合に比べて、少なからぬ乖離が発生することになる。)

 従って、実はMIIDIファイルを用いた分析は、MIDIファイルの作成過程も含めた全体を捉えた場合には、寧ろ隠れマルコフモデルで定式化する方が適切ではないだろうか。演奏で生じうるミスをあらかじめモデルに組み込み、現在の状態から次の状態を予測し、実際に観測された状態が予測と異なる場合にはそれが誤りであるかどうかを判定する、という動的なベイズ推論過程として捉えることが可能であり、人間が演奏を聴く行為のアナロジーとしてMIDIファイルを読み込んで分析を行う「機械」を考えることができる。そうした視点に立った場合、本ブログで行ってきた分析は、そうしたより一般的なモデルの一部分を取り出し、目的に応じた集計・分析がすぐに実施できるように、幾つかの仮定を置いた単純化を行い、変形したものと位置付けることができるだろう。

 そうしたより広く全体を捉えたモデルを押し広げていくと、楽譜とその実現と実現されたものの享受(聴取・分析を含む)のフェーズだけではなく、楽譜の作成のフェーズ、つまり創作のフェーズをもモデルに含めることが考えられるだろう。再び内井惣七の『ライプニッツの情報物理学』におけるライプニッツのモナドロジーと音楽のアナロジーを参照するならば、モナドの世界を設計し作り出すのは合理的な神であるのに対応して、楽譜を設計し作り出すのは作曲者であるということになる。マーラーは自らの創作を「手持ちにあらゆる手段を使って一つの世界を構築すること」と語ったが、マーラーの作品の楽譜は、まさに実現されうる世界の設計図であり、その不変の構造を書き留めたものであるということなるであろう。また、そうしたより広い全体を捉えたコンセプトとして、三輪眞弘さんの「逆シミレーション音楽」における音楽の3つの相があるが、そこでの「規則の生成」と「解釈」の部分を、ここで得られたモデルを経由して、ライプニッツのモナドロジーと対比させることは興味深い作業となるように思われる。

 そしてそうしたモデルの拡大の行き着く先は、シュトックハウゼンがアンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝に寄せた序文で書いている、地球外からやってきた宇宙人がマーラーの音楽を通じて「人間」を理解するために行う分析をも包括するようなそれであろう。ここでの観点からすると、シュトックハウゼンの発言は、「非人間的なもの」の地平において、マーラーの作品という「出力」から、そうした「出力」を行う能力のある「機械」が、一体どのような構造を備えていなくてはならないかを推測する、といったアプローチを示唆している点で興味深い。そこでは機械対人間(を含む非機械としての生物)の単純で粗雑な二分法は無効化されていて、寧ろ、その両方を包含するような、より一般的な「オートマトン」からなるシステムを記述しうるモデルが要請されているように見える。逆に「地球」=「大地」をその外から、宇宙の側から眺めるようなアプローチ(その先蹤は、アドルノのマーラー・モノグラフにおける「大地の歌」についてのコメントに見られる)によって「人間」を捉えようとした時に浮かび上がるのは、機械対生物という図式が両者を区別する根拠としているレベルとは異なる水準で、「人間」が単なる「生物」と区別されるためのシステム的な構造の条件についての問いではなかろうか?

 和声の出現頻度に関するデータ分析で検出できる特徴は、人間が音楽を聴いて感じられるものと結び付けるのが困難なのであれば、いっそのこと人間が感じとることができ、(多くの場合)自然言語により表現することのできるようなレベルの特徴ではなく、寧ろ機械にしか発見できないような特徴が見いだされることを期待するといった立場もあるだろう。言ってみれば、地球外からやってきた宇宙人がマーラーの音楽を分析するとした時に捉えることが可能になるような、非人間的な何らかの特徴を見出すことができないかということである。

 それが将来実現する可能性はあるとしても、更に言えば、現時点で実際に実施可能なアプローチで実現に迫るための手がかりは、研究の最先端の領域では既にある程度は獲得されているとはいえ、本ブログで報告しているレベルの分析の枠組みでそこに到達することは端的に言って不可能である。本ブログで報告している分析は、対象となるデータの規模から言っても、今日では(脚光を浴びているビッグデータの分析に対して)「スモールデータ」の分析と呼ばれるものにならざるを得ないし、既に述べたように、(未完成の作品が存在したり、今後未発見の作品ないし作品の断片が発見される可能性が残っているにしても)対象となる作品は有限でかつ閉じて確定していると見なすことができるだろうから、その限りでは確率的な扱いに馴染まないものですらある。そして実際に用いられた手法も、以下の節で確認するように、ごく初歩的で基本的なものに過ぎない。

 だがしかし、そのことはマーラーの作品の分析がここで行ったような仕方でしか行えないということを些かも意味しない。勿論、本ブログで報告している分析の具体的な実施の手続き上の細部にわたる選択については、それが妥当であり、得られた結果が意味のあるものであるように留意したつもりではあるが、そもそもMIDIデータの中から、ある条件に従って同時に鳴っているピッチクラスの集合をサンプリングするというやり方自体が、見方によっては分析主体である私、より正確には私を含むシステムの制約により(一部は能動的だが、それ以外は受動的に)選択された結果であり、それ自体、恣意的で客観性ではないという見方も可能だし、シュトックハウゼンの件の「宇宙人」が、(それ自体「人間的な」尺度でに卯過ぎないが)「高度な」知性を有する存在ではなく、また、その知覚・認識システムも単純なものであり、マーラーを音楽を認識しようとしたときに、そうした機能的な制約から、偶々ここで報告している分析におけるような仕方でしか外界のデータを受容できず、受容したデータを用いた情報処理を行えないというようなケースを想定することも可能であろう。つまり、私が「人間」として、あるいはかつて「人間」と呼ばれたものの残滓としてマーラーの音楽を聴くときの「私」と、MIDIデータを入力としてマーラーの音楽を分析するときの「私」は同じ「私」ではなく、同じ「機械」ではないのだ。そしてこうした発想の延長線上では、逆説的ではあるけれど、マーラーの音楽をそのMIDIデータに基づいて分析することによって「人間」を理解しようとする宇宙人=機械があるとしたら、それはここで採用されたような単純な分析を自動的に行う機械ではなく、最低でもセカンドオーダー・サイバネティクスの要件を満たすような複雑な構造を備えた機械であり、そうした構造があって初めて、その機械に固有な、非人間的仕方でマーラーの音楽作品の特徴を取り出し、それをもって己れの他者たる「人間」を理解することができるのだとは言えないだろうか?


9.分析手法について

 マーラーの作品のMIDIファイルから抽出したデータを集計・分析しようとする際に気づかざるを得ないのは、そのデータが有限で、しかも今後新たね作品が追加されたりといったことが起きることが原理的にない、閉じた性質を持っていることである。しかも作品自体が基本的にウニカートな(唯一の)ものであるから、統計的な手法にそぐわない面も多々ある。そのような制約から、用いることのできるデータ分析の手法も限定したものにならざるを得ない。大量のデータを前提とせず、寧ろ手持ちの有限のデータから何を見出すことができるのかを探る工夫が求められているという点で、今日世上を賑わしている大量のデータを対象とした分析手法ではなく、所謂「スモールデータ解析」で用いられるタイプの手法に限定せざるを得ない。そうしたことを念頭に、ここではまず以下のような分析手法を用いて和音の出現頻度の分析を行った。
  • クラスタ分析(階層クラスタ分析/非階層クラスタ分析)
  • 主成分分析(標準化の有無)
  • 因子分析(回転の有無)
 更にMIDIファイルから抽出された和音の系列は、大黒達也『音楽する脳』において旋律を状態遷移過程と見做したのと同様に、ある時点出現する和音を状態とする状態遷移過程と捉えることができる。状態遷移過程の捉え方としては、現在の状態から次の状態が決定されるというマルコフ過程と見做すアプローチがある。一般にはマルコフ性は、未来の挙動が現在の値だけで決定され、過去の挙動には依存しない性質のことをいうが、この定義における「現在」というのを深さを持ったもの(所謂「幅のある現在」)として捉えることにより、深さを多重度とした多重マルコフ過程として捉えることが可能になる。これは分析対象である音楽作品が実際にマルコフ性を持っているということを意味せず、仮にマルコフ性を備えていると仮定した場合を集計・分析しているに過ぎないが、マルコフ過程として捉えることにより、現在の状態→次の状態への状態遷移の頻度を集計し、状態遷移確率を計算した結果により状態遷移マトリクスを作ることが可能となり、出現するパターンの異なり数を比較するような単純な分析から始まって、状態遷移マトリクスに基づきエントロピーのような統計量を計算して個別の作品の特徴づけや作品間の比較ができるようになる。
 本ブログでの分析では、まず予備的な分析として、異なり率(対象となった系列数に対する和音パターン・状態遷移パターンの異なり数の比率)を用いた分析を行った。その後で エントロピーの計算も行ったのだが、エントロピーは系列長の影響を受ける(同じ長さの区間でエントロピーが同じであれば、長い作品の方がエントロピー大きくなる、つまり作品の規模が乱雑さ・不確実性に影響する)ため、長さは短いが「複雑な」作品というような直感にフィットした特徴量ではない。そのため、ある系列長でのエントロピーの上限・下限を計算して、その間のどのあたりに個別の作品のエントロピーが位置づけられるかを確認する作業を併せて実施した。
 一方で、状態遷移パターンを集計することにより、状態遷移過程としてみた場合の作品間の類似の度合いを計算することができるようになった。MIDIファイルからデータを抽出できるようになったごく初期に、各ファイルから抽出した和音の系列をそのまま用いて時系列データの距離を比較する手法(具体的には、DTW(Dynamic Time Warping):動的時間伸縮法)を適用したことがあったが、結果は思わしくなかったため、その後は専ら一部の和音の出現頻度や出現確率の比較を行ってきたが、未分析の和音が解消され、全ての和音を対象とした状態遷移パターンの出願頻度・出現確率が集計できてみると、状態遷移パターンの出現確率を比較することも可能となっていることに気づいた。同時にこれは、和音単独の出現頻度や出現確率についても(深さ0の状態遷移パターンと見做すことで)全ての和音を対象とした比較分析が可能となったことをも意味する。
 確率分布の比較方法としては、近年機械学習分野ではポピュラーになったカルバック・ライブラー・ダイバージェンス(KLダイバージェンス)や相互情報量を用いることができる。ただしKLダイバージェンスは、所謂「距離の公理」を満たさず非可換であること、更には、その定義から、出現パターンに関して、一方が他方を覆う関係になくてはならない。そのため、例えばマーラーの交響曲全体における和音の状態遷移パターンの出現確率と各交響曲のそれとの比較のように、交響曲全体で出現するパターンが個別の作品で出現しない、つまり確率0であることはありえるが、その逆はないというような条件においてのみ計算可能である。その結果として交響曲全体側から個別の作品を見るといった一方向の見方しかできず、また互いに相手には出現しないパターンを持つ作品間の比較が行えないなどの制限があることに留意する必要がある。


10.分析の目的について

 本ブログでの分析の目的の一つに、マーラーの作品について、具体的なデータに基づいてその特徴を語ることができるようになるということがある。自然言語による作品の特徴についての記述は、感覚的なレベルでなら、それが妥当に感じられる・感じられないの評価を行うことも可能だろうが、実証的な裏付けを得ようとすれば、具体的なデータを対象とした集計・分析を行う他ない。逆にデータを集計・分析することによって、直感的な把握では捉えることが難しい特徴が明らかになることも期待できる。とはいうものの、和音の出現頻度という単一の特徴量により語れることには限界があり、特に出現頻度は時間の次元を捨象して得られるものなので、普通に作品を聴いた印象と一致するような特徴が得られることは期待しにくい。強いて言えば、作品全体から感じられる印象、しかも和声の機能に根差した構造的なレベルに由来するものではなく、表面的なテクスチュアのレベルに由来する印象に近い特徴が浮かび上がってくることくらいであれば期待できるかも知れないといった程度であろう。
 一方で、そうした極めて限定的なスコープの分析であってなお、マーラーの作品と他の作曲家の作品を区別するための幾つかの特徴を抽出できたこと、更には、マーラーの作品について、その創作の初期から後期へと、時期的な変化に対応した特徴の変化を見出すことができたことは大きな収穫であったと考える。
 勿論それは、既にアドルノを初めに多くの論者がマーラーの創作について述べている発展的な性質、初期・中期・後期といった創作時期に応じた様式上の変化という、誰でも気づくような特徴を確認し、そうした主張の妥当性を追認しただけであって、新たな発見があった訳ではないし、人手で音楽理論に基づいて分析するのではない、いわば「機械的」なやり方でなければ発見できないような未知の特徴が発見されるのでなければ、こうした分析の価値はないのではないかという意見はあるだろう。(本ブログで報告した分析の中では、典型的には、付加六の和音に注目して、五音音階や全音音階の使用と関連すると思われる特徴がマーラーの後期作品に特にはっきりと見られることを確認した一連の分析がそうした批判の対象となるアプローチということになるのだろう。)そうした意見が妥当であり、ここでの分析の成果について、それが何らの新規性を持たないものであることを認めた上で、だが私が一言述べておきたいのは、そうであってなお、実際にMIDIデータから抽出できるデータを用いて、既に為されている指摘の「裏付け」ができたこと自体にも一定の意味があり、そうした指摘が直感的ではあっても恣意的なものではなく、客観性のより高いものであることが確認できたことに、私個人としては一定の意義を感じているということである。
 一方で、「機械的」なやり方でなければ発見できないような未知の特徴を見出すことの可能性の方は、それを否定するつもりはないにせよ、それでもなお、分析者と分析手段と分析対象を含む全体を一つのシステムとして捉えようとしたとき(例えばベイトソンにおけるサイバネティクスについての了解がそれに近いと思うのだが)、分析の動機や目的まで含めて考えると、分析者の動機や目的を離れたという意味合いでの「機械的」分析はそもそも成り立たないし、シュトックハウゼンの「宇宙人」のようなものを想定せず、相変わらず分析システムのループの中に「人間」(ないしその残滓)が含まれる以上は、完全に人間的なものから無縁の分析というのはあり得ないのではなかろうか。
 否、シュトックハウゼンの「宇宙人」すら、アントロポモルフィズムから自由であるとは言えないのではなかろうか?(或いは例えば、レムのソラリスの海のような存在の「人間」との「コンタクト」を思い起こしてみたらどうだろうか?申し分なくセカンドオーダー・サイバネティクスの定義を充足する機械=生物が、別の機械=「人間」が産み出した「作品」に関心を示し、それに対する反応として或る種の「模倣」をするとしたらどうだろうか?だがその時、ソラリスの海が示す多様性に富んだ様々な形態変化が人間にとって理解不能なものであるように、マーラーの作品の海による「分析」結果は我々の理解を超えたものになるのではなかろうか?結局のところ、何のために分析をするのか、ということが最後に残りはすまいか?なぜ創作時期に沿った特徴の変化が取り出されるのか?それはマーラーの作品そのものの特徴を浮かび上がらせるのと同程度に、分析する私の側を浮かび上がらせていはすまいか?この点について最後にもう一度触れたいと思う。
  
 上記のように、和音の出現頻度分析の目的としては、

  • 他の作曲家の作品との類別
  • 創作時期にそった特徴量の変化

  • という2つの視点でマーラーの作品にはどのような特徴があるかを探ることにしたのであるが、和音の状態遷移パターンの分析を行うにあたって参考にした大黒達也『音楽する脳』には、状態遷移パターンのエントロピーに基づいて作曲家の個性について述べた節(pp.125~127)を含む一方で、ベートーヴェンの後期の「挑戦」についての言及もあり、既に実施していた和音の出現頻度の集計・分析における2つの視点と並行している。そこで和音の状態遷移の分析についても、上記2つの視点での集計・分析を行うこととした。さらに言えば、ベートーヴェンの後期の「挑戦」の指摘は、アドルノの後期・晩年様式についての指摘(『楽興の時』所収の「ベートーヴェンの晩年様式」)と呼応している。一方で本ブログの対象であるマーラーについてもアドルノは「晩年様式」について語っており、本ブログでは、アドルノの指摘を導きの糸として、MIDIファイルを用いた分析とは別に、「老い」についての分析のための準備作業に関する一連の備忘を公開していることもあり、和音出現頻度分析では、付加六→五音音階・全音音階に絞って、具体的なデータの分析を通じて「晩年様式」の特徴を取り出すことを試みてきた。そこで当然、和音の状態遷移を対象とした分析でも、「晩年様式」の特徴を取り出すことを試みる、というのが目的の一つになった。
     そして分析の結果として、和音の出現頻度の分析だけではなく、和音の状態遷移パターンの出現頻度・確率に関連した分析においても、マーラーが「発展的な作曲家」であり、創作時期の推移につれて様式が変化していくこと、特にその後期作品の特徴づけを分析結果を通して試みることができたと考える。
     だがそれは、既に述べたように、予め「わかっていたこと」を跡付けただけに過ぎないという見方もあるだろう。そうした指摘についてはそれを受け容れることとして、では、シュトックハウゼンの「宇宙人」は、或いはレムの「ソラリスの海」が分析したとしたら、どのような結果に辿り着くだろうか?和声の出現頻度や和声の状態遷移パターンの出現確率の分布の変化が、創作時期と一定の相関を持つこと自体はデータ自体が持っている性質と言ってよいから、そうした特徴に気づくことはあるかも知れない。だがそれを「晩年様式」として捉えるだろうか?それを「晩年様式」として捉える分析主体は、まず自らも「老い」てゆく存在であり、尚且つ自ら「老い」てゆくことを知っているという限りにおいてセカンドオーダーのシステムでなくてはならない。「宇宙人」は、「ソラリスの海」は、そもそも「生物」なのだろうか?それは「老い」てゆくのだろうか?
     単に創作時期を経るにつれて作品の様式的特徴が変化するという傾向にとどまらず、その変化の方向がどちらを向いているか、「晩年様式」が備えている特徴はどんなものであるかの実質に迫ろうとしたら、分析対象の音楽作品を生産する機械も、音楽作品を享受する機械も、「老い」てゆく機械でなくてはならないし、自分が「老い」てゆく機械であることを知っている必要があるだろう。もし「老い」が「生命」にとって必然的であったとしても、全ての「生命」が自分が「老い」ていくことに対して自覚的であるわけではない。
     「生命」が或る構造を備えた機械のクラスの名称であるとしたならば、単に「生命」であるだけでは不十分であり、例えばマックス・テグマークが『Life3.0』で提起したように、「生命」のバージョンを更にレベル分けする必要があるだろう。だから「機械」と「非機械」としての「生命」を単純に対立させるだけでは不十分であって、寧ろ「生命」という「機械」のあるクラスの中で改めて「人間」(と同時に、「非人間」と)をどう位置付けるかが問われているのだ。ユク・ホイが指摘するように、今や技術的対象が有機化しつつあり、「有機的」な「機械」、生命的な機械が現実のものとなりつつあるのであれば、彼の著作の一つのタイトルが示すように「再帰性」と「偶然性」の具体的な関わり合いの様相を明らかにすることにより、かつての有機体としての「生命」「人間」に対して機械を対立させる枠組みに囚われることなく、生命の創造性を、生命の一種ではあるが単なる生命の定義では捉えられない人間の創造性(だからそれは生命の創造性に依拠しつつも、それとは区別されなくてはならない)とを検討し直す必要に迫られているのではなかろうか?それは寧ろ有機的なものが持つ或る種の「全体性」(それはだから、「生命」的なものにとっての或る種の「原罪」の如きものととらえることができるかも知れない)の批判に通じることになるであろう。
     もう一言だけ付け加えておくならば、ユク・ホイがリオタールのルーマン批判を援用しつつ、「断片化」(framgmentation)の思考を練り上げようとする方向性は、シュトックハウゼンの指摘する、かつての「人間」の解体をその前提条件としており、解体は専ら否定的に捉えられる事柄ではなく、寧ろ件の「全体性」に抵抗しつつ、だがますます有機的になる機械を排除するのではなく、己もまた有機的な機械として、多元的で対話的な関係を構築する可能性を探求するための条件として捉えるべきなのではなかろうか?要するにここで目指されているのは機械と有機体を対立させ、自分の作り出した対立の論理を乗り越え不可能なものと見做して、危機に瀕しているかに見える「人間」の復興を、バージョンアップした「人間主義」の再興を目指すものでは勿論ないが、だからといって、主体とか自己意識を悪者にして、それらのせいで無意識的な活動が抑圧されているので開放しないといけないといった類の非人間主義の主張の焼き直しでもない。
     現実に本ブログで実施してきた、そして今後実施することができるであろう分析の水準からすれば、身分不相応に大きな展望に及んでしまったが、その間に存在する大きな径庭にも関わらず、従来の音楽についての専門的知識を有するエキスパートによる楽曲分析ではなく、MIDIデータに基づいてマーラーの作品の分析を行うことは、ここで触れたような展望に通じる側面を持っており、一見すると当たり前であり、そうすることが自明であったり、そうする他に選択の余地がないような実際の分析の詳細についても、ありうべき姿に対して、それがどのように単純化をした結果なのかについて自覚的であるべきではないのかというのが、一連の分析を改めて振り返って感じたことそのものであったので、あえて割愛せずに思い浮かんだことを書き留めておくことにした次第である。(2024.1.19 暫定稿, 21,22更新)

    2024年1月8日月曜日

    備忘:MIDIファイルを用いた分析の振り返り:序文(2024.1.21更新)

    はじめに 

     これまで本ブログでは、長期に亘って、MIDIファイルを用いたマーラーの作品、特に交響曲についてのデータ集計・分析を行い、その結果を公開してきました。マーラーの作品のMIDI化の状況(Webでパブリックドメインで公開されているものに限定されますが)の報告(2016)から始まって、和音の出現頻度の分析(2020~2021)に至るまでの全体の振り返りは、2021年末に公開した記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 これまでの作業の時系列に沿った概観」で行っていますが、おおまかな流れのみ再掲すると、以下のような経過を辿りました。

    • 分析の入力となるMIDIファイルの状況についての報告
    • 基本データとその解析結果を公開
    • 五度圏上の重心計算
    • 和音の分類とパターンの可視化
    • マーラー作品のありうべきデータ分析についての考察
    • 和音の分析への準備作業
    • 和音の出現頻度から見たマーラー作品についての報告
    • 長短三和音の交替から見たマーラーの交響曲について報告
     なお、和音の出現頻度の分析のまとめは記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ」で行っており、以下の項目よりなります。
    • 和声出現頻度の分析の位置づけ
    • 関連する話題
    • 分析内容の概要
    • 和声出現頻度の分析で何がわかったか?
    • まとめと今後の課題
    • 参考文献
    • 関連記事一覧(2021年末時点)
     その後、補遺として、未分析和音の解消と同一曲の別データとの比較、歌曲の分析などを行った上で上記のまとめ記事を更新(2022年5月)し、更に、2021年12月23日に行った私的な発表「MIDIファイルを用いたデータ分析について」のために用意した報告メモを2023年3月15日に更新・公開して、一区切りとしました。この報告メモは、上記のまとめ記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ」の内容を拡張したものとなっており、以下の項目よりなる他、より包括的な参考文献リストと、2023年3月時点での関連記事一覧、元となった報告の説明やお世話になった先生方への謝辞を含みます。
    1. これまでに実施・公開してきた音楽関係のデータ分析の概観
    2. データ分析の動機・理由づけについて
    3. データ分析結果の公開に拘る理由
    4. 本日の報告対象:和声出現頻度と長短三和音の交替を位置づけ
    5. 関連する話題:分析のスコープは遥かに限定的なので部分的にしか一致しない
    6. データ分析の限界
    7. 分析内容の紹介(インフォーマルな説明)
    8. 分析で何がわかったか?
    9. 今後の課題:5.関連する話題の節に記載の論点へのアプローチを継続
     また上記の分析と並行して、2021年8月くらいから調査を開始し、その後1年近くに亘って準備を行ってきた、Google MagentaのPolyphony RNNモデルを用いた機械学習の実験の結果を2022年7月7日に公開していますが、これもMIDIファイルを入力として用いた実験で、集計・分析ではなく、機械学習にMIDIファイルを用いたものです。
     集計・分析については、その後2023年5月に、それまでとはアプローチを変えて、五音音階や全音音階といった旋法性にフォーカスした分析結果を以下の3記事に分けて報告した後、
    2023年7月より、ようやく本来なら本題の第一歩である筈の和音の状態遷移パターンについての集計・分析に着手し、2023年12月に至るまで断続的に実施した結果を随時公開してきました。
     本稿では、和音の状態遷移パターンの集計・分析を行うことを通じて、それまでは気づいていなかった観点で見えてきたことがあったことから、一連の分析を振り返り、そこでわかったことを確認するとともに、改めてMIDIファイルを入力とした分析全体を通して、どのような意味を持つのか、集計・分析の結果をどのように受け止めるべきかについて考えてみたいと思います。具体的には以下のような点についてまとめる予定です。

    1. 先行研究について
    2. マーラー作品のMIDI化状況について
    3. 和音の定義について
    4. 和音の抽出方法について
    5. 集計対象となる和音の範囲について
    6. 状態遷移パターンの定義について
    7. MIDIファイルのデータとしての信頼性について
    8. 分析の前提となるモデルについて
    9. 分析手法について
    10. 分析の目的について

     個々のトピックについては上記の個別の報告の際に触れているものが多いですし、特に重要と考えた点については、集計・分析結果の報告とは別に、考察の記事を執筆・公開してきましたが、MIDIファイルを入力とした分析の記事がかなりの分量となり、記述が分散して全体が掴みにくくなっていることもあり、重複は厭わない代わりに、詳細な議論は割愛し、できるだけ網羅的・俯瞰的に観点を示すことを心がけようと思います。

    本文(暫定版)に続く)

    (2024.1.8 暫定公開, 1.10,14,18,19,21更新)