お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2012年10月30日火曜日

マーラーにおける「対話」についての素描

マーラーの音楽の基本的な発想の一つの側面として、対位法的な発想があることについては概ね異論はなかろう。 いわゆる概説書の類でも、一例を挙げればマイケル・ケネディがそのような指摘をしているし、アドルノもまた、マーラーに 関するモノグラフの中で、かなりの重点を置いて取り上げている。

マーラー自身の証言における「対位法」についての言及についていえば、バウアー・レヒナーの「回想」にある有名な 件をまず挙げるべきなのだろう。ただしこの言及は、マーラーの音楽における(マーラーの生きた時代を考えた場合に) 前衛的な側面、一般にはシュルレアリスムと結び付けられることの多い、コラージュやモンタージュといった技法、 あるいは「サウンドスケープ」のようなコンセプトとの関連で言及されることが多い。この場合の音楽の領域での 参照先は、例えばチャールズ・アイヴズであり、ドナルド・ミッチェルがその浩瀚なマーラーの作品についての著作のうち 「角笛交響曲の時代」を扱った巻において、トピック的にマーラーとアイヴズにフォーカスした節を設けていたり、 日本においても渡辺裕さんのマーラー論をまとめた著作の中に、マーラーが生きた時代のウィーンの「サウンドスケープ」 との関連を論じた論文が含まれているのを読むことができる。

一方で保守的と言われるマーラーの読書傾向の嗜好を辿ると、バフチンが「小説の言葉」のとりわけ第5章「ヨーロッパの 小説における二つの文体の流れ」等で取り立てているポリフォニー性の強い作品の系譜との共通性が見られることに気づかざるを得ない。 叙事詩から小説への決定的な第一歩を踏み出したとされるヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルチヴァール」からはじまって、 スターンの「トリストラム・シャンディ」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」、更にはスターンの流れのドイツにおける継承としてのジャン・パウルの作品(「巨人」 「生意気盛り」「ジーベンケース」など)、メタ小説的な趣向に事欠かないホフマン(「牡猫ムルの人生観」を思い浮かべて いただきたい)、マーラーの読書の中核であったらしいゲーテの作品、そして掉尾を飾るのは何といってもバフチンがポリフォニックな 小説の典型と見做し、「ドストエフスキーの詩学の諸問題」で主題的に扱っているドストエフスキー(特に「カラマーゾフの兄弟」)と いった具合に、ポリフォニー性の高い作品が一貫して好まれていることがわかる。

バフチンといえば芸術創造を本質的に対話的なものと考える初期の見解から出発して、様々な様式や言語、文化の 間の対話を実現するものとしての小説のポリフォニー的構造の指摘を行うに至るが、更に小説にカーニバル性を 見出す主張を行っている。そしてポリフォニー性のみならずカーニバル性も含め総じてバフチンが小説というジャンルに見出す 「対話」的な構造は、一見すると様々な文化に属するジャンルが無秩序に混淆しているようにさえ見え、それが批難や嫌悪の 原因ともなるマーラーの音楽との親和性が高いように思われる。もっと直接的に、一時は作曲者自身によって交響詩「牧神」と さえ呼ばれた巨大な第1楽章を持つ第3交響曲や、まさにカーニバル的と呼ぶに相応しい様相を呈するフィナーレを含み、 バロック的なフランス風序曲を下敷きにしながら、四度音程の積み重ねによって新ウィーン楽派にも通じる第1楽章、 谷間を隔てて呼び交わすホルンやカウベルが鳴り響く中、古風な夜の音楽の断片が交錯する第1夜曲、 バルトーク・ピチカートの先駆けさえ厭わないグロテスクで「影のような」中間のスケルツォ、ギターやマンドリンを コンサートホールに持ち込んでの第2夜曲でのセレナーデの追憶からなる遠心的な構成を備えた第7交響曲を 思い浮かべてみることも出来よう。

交響曲と歌曲、カンタータといったジャンルの並列と交差(連作歌曲から交響曲「大地の歌」にいたる流れと、「嘆きの歌」を 起点にし、ファウスト第2部の終幕を取り上げた第8交響曲第2部にいたる流れを見出すことができるだろう)、 民謡(借り物としてのドイツ民謡、基層としてのボヘミヤ的な旋律とユダヤ的な旋律)とコラール、調律されていない 音響と楽音、自然の音(鳥の声、小川のせせらぎ)と人間の音(カウベル、郵便馬車のポストホルン、ホルンの 呼び交わしからファンファーレへ)、更には都市の喧騒の並存は、まさに多言語の混在であり、パロディやイロニーの導入は それが意識の音楽であり、多層的なものであることを告げる。交響曲というジャンル自体の歴史を交響曲自体が振り返り、 その結果として最早即時的にそれ自身ではあり得ず、自身のイメージを演ずることしかできないかのようだ。 マーラーにおいては主観的形式であった筈の歌曲ですら、とりわけ「子供の魔法の角笛」に取材したそれはどこか客観的であり、 民謡そのものではなく、民謡を利用した別の何かになってしまっている。

マーラーが交響曲というジャンルを選択したことは、そうした嗜好と全く無関係であると考える必要もなかろう。 一見して雑種的で複合的な、今日で言えばマルチ・メディア的なジャンルであるオペラの上演に一方では携わりながら、 当時の概念では「総合芸術」であるそれが、本当の意味での多声性を保証するものではないことに気づいてか、 自己の作品創造においては、そうした経験を惜しみなく交響曲というジャンルに注ぎ込み、それをバフチン的な意味で 小説的であり、ポリフォニックなものとしたと見做すことができるのではなかろうか。

だが小説という文学におけるジャンルとマーラーの交響曲との類似の指摘、更には類似のいわば要石たるポリフォニー性の 指摘といえば、まずはアドルノの所論に言及すべきだろう。彼の「マーラー論」の1章はまさに「小説」と題されており、 マーラーの音楽に最も近いジャンルは小説であるという主張をしている。更には第9交響曲について絶対的な小説-交響曲と 規定しているくだりでは、対位法的な声部の間の対話構造に言及していて、ポリフォニーを「対話」の実現であり、 小説というジャンルがそれを可能にすると主張するバフチンの立場との突合せが可能な程度には並行性が見られるように思われる。

ところで、まさにその部分こそ、ツェランの「山中の対話」の贈呈の返礼としてツェランに宛てて書かれた書簡において、 アドルノが自作を引用した箇所に他ならない。話は単に文学作品の音楽性といったレヴェルに留まらないのだ。 勿論のこと、小説と詩というジャンル間の隔たりは小さくない。まさにバフチンが、小説の対話的構造の対立項として 詩のモノローグ的な性格を強調しているのであるから、このアドルノの引用に比較に超えがたい懸隔に架橋を試みる 牽強付会を見出す人がいても不思議はない。だが詩を芸術と対立させつつ、詩を対話的なものとして捉えていたのが 他ならぬツェラン自身であったとすれば、詩における対話の可能性について、寧ろここを出発点として考えていく姿勢こそが ツェランを読むために必要とさせることなのではなかろうか。ツェランの詩はバフチンが多分に戦略的な意図をもって 設定した詩の類型からの例外、逸脱と考えることはできないだろうか。

そうした展望の中で再びマーラーの本棚に目をやると、ツェラン自身も大きな共感を寄せていたらしい、ポリフォニックな 詩作の実践者の姿が目に留まる。ギリシアの讃歌に範をとり、キリストとギリシアの神々が共存する後期の自由律の 巨大な詩篇群に加え、ソフォクレスのドイツ語翻訳を試みた人、最晩年には病の中でスカルダネリという別の名で署名した 短い詩を他者に宛てて送り続けた人。その人の名はフリードリヒ・ヘルダーリン。マーラーが好んだとされる 巨大なライン讃歌とマーラーの巨大な交響曲楽章の間に「近さ」を見出すことがそんなに困難なこととは 私には思われないが、のみならず、荒唐無稽と断定されてしまうこともあるフラバヌス・マウルスの讃歌 (しかもここでは伝統的なグレゴリア聖歌のカントゥス・フィルムスが顧みられることもない)とゲーテのファウストの 第2部(これ自体はそれまでも何度となく作曲家達によって取り上げられてきた題材である)の間の架橋もまた、 ヘルダーリンが別の基盤に立って別の文脈で企図したそれと構造的に同型の、相異なる他者間の「対話」の試みとして 捉えることができるのではないだろうか。

否、翻ってツェランの詩を顧みても、ツェランの詩作がどんな「対話」の文脈を水源として織られて行ったか、 その作品の中に、作者の個人的経験の層、読書その他による「対話」の反響の層がどんなにぎっしりと埋め込まれているかを 思えば、そこに(例えばツェランが自身の対極として想定していたらしいマラルメの「書物」のような)モノローグ的なあり方とは 異なった様相を確認するのは別段困難なことには思えない。その詩は、ある時にはカバラを参照するかと思えば、 植物学、鉱物学、地質学、気象学や解剖学といった莫大な領域を参照し、晩年になるにつれますます顕著になる 改行による単語の綴りの分離、それと相関するかのようにこちらもまた増大し、解釈の困難すらもたらすことがしばしばである ネオロジスムもまた、ツェランの詩が決してモノローグなどではなく、それ自体が自律したポリフォニックな構造を備えていることを 示していはしないだろうか。その詩の言われるところの秘教性なるものは、実はその詩が私的で自閉的で他者を拒んでいるが故ではなく、 寧ろ全く逆にその詩が読み手の視界に収まりきらない程の複雑さと多重度をもって他者に対して開かれた、多声的な構造を 備えていることに由来する解釈の困難さを履き違えたゆえの誤解ではないのか。一体そこでは誰が語っているのか。 作者はもはや語りの主体ではないかのようだ。シェーンベルクがプラハ講演にてマーラーの第9交響曲を評して述べた 言葉、まるで他者が作曲主体をメガホン代わりに使っているかのようだとの言葉は、晩年のツェランの詩篇についても 言えるのではなかろうか。

そうしたことを思い合わせてみるに、一見すると対極にすら見えるかも知れない寡黙で訥弁なツェランの晩年の詩と、 まさに小説-交響曲の体現である巨大で饒舌なマーラーの後期交響曲との間にも、私はそうした表面的な違いを超えた、 ある「近さ」を感じずにはいられない。それはマーラーもツェランも、物言わぬものの代弁をすること、 「幽霊」たちに声を与えることを己の創作の使命とした点と恐らくは関係があり、つまるところ、もう一度、 その作品がその中で生み出され、そして生み出された作品そのものが再帰的に構築していく場の構造としての 「対話」が問題なのではないかという気がしてならない。(2012.10.30/31, 11.5)

2012年10月20日土曜日

アドルノがパウル・ツェラン宛書簡で自己引用した「マーラー」における第9交響曲についての言及

アドルノがパウル・ツェラン宛書簡で自己引用した「マーラー」における第9交響曲についての言及(Taschenbuch版全集第13巻p.300,邦訳新版(龍村訳), p.202)
In der dialogisierenden Anlage des Satzes erscheint sein Gehalt. Die Stimmen fallen einander ins Wort, als wollten sie sich übertönen und überbieten: daher der unersättliche Ausdruck und das Sprachähnliche des Stücks(, der absoluten Romansymphonie).
偶々パウル・ツェランに関する書籍(関口裕明「パウル・ツェランとユダヤの傷 -《間テキスト性》研究-」慶應義塾大学出版会, 2011)の中で、ツェランとアドルノの 関係を扱っていた章を読んでいると、アドルノがマーラー論の上記の箇所を自己引用した書簡(1960年6月13日付)をツェラン宛に送っているものの引用(pp.160-1)に ぶつかった。同書末尾の書誌によれば、この書簡はアドルノ研究の年報のようなものに掲載されただけ(Theodor W. Adorno - Paul Celan: Briefwechsel 1960-1968. Hrsg. von Joachim Seng. In: Frankfurter Adorno Blätter VIII)のようなので、アドルノの研究者あるいはツェランの研究者でなければ目にすることは困難で、 そのいずれでもない、私のような市井のマーラーの聴き手にすれば、こうした事実を確認できるのは僥倖に近いものがあるので、ここに書きとめておく次第である。
 
なお、括弧で括った部分は、アドルノが引用の文脈上省略したと思われる部分である。引用の文脈について簡単に触れておくと、1960年5月23日に ツェランが、講演や書簡を除くと、彼の書いたほぼ唯一の散文である「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)を送ったのに対するアドルノの返礼が、上記の 文章の引用を含む6月13日付けの書簡となる。もともと「山中の対話」は、前年の1959年夏、ツェランがエンガディーンに滞在した折、同地でアドルノと 直接出会うチャンスがあったにも関わらず、アドルノの到来を待たずに同地を去りパリに戻った後、エンガディーンでの実現されなかった出会いの思い出として 書いたとツェランが自ら証言している散文であり、作中の対話の一方の話者である「大きなユダヤ人」はアドルノを指していると言われている。
 
上記の書籍を紐解いたのは、私がパウル・ツェランに関しては文学としては例外的な関心を抱いていて、その詩や散文を折に触れ読み返しているという 文脈あってのことなのだが、そうした文脈があればあったでなお一層、アドルノとツェランのやりとりの中で、マーラーの第9交響曲についての言及があるのは 非常に印象的なことである。だがツェランに親しんでいる人間の側に立てば、上で簡単にその一部を述べたアドルノとツェランとの交流については良く 知られたことではあるし、特に「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)に因んだやりとりはあまりに有名であるけれど、そこでマーラーの音楽が参照されることの方には、 些かの意外感がある、というのが一般的な反応であろうと想像される。関口さんも、上記を含む書簡を訳して引用した上で、「音楽にも精通していたアドルノ ならではの批評である。」としたあとで続けて、「独立した芸術作品としては、アドルノが『マーラー』で論じたマーラーの第9交響曲とツェランの詩的散文との 間には、ジャンルはもとより、その本質においても埋め難い径庭がある。」とコメントされている。
 
些か余談めくが、関口さんは、引用元であるアドルノの 「マーラー」の原文にあたられているようで、上で触れた省略についても述べられているのだが、それならば今度はアドルノが自己引用した文章のすぐ後、 パラグラフの結びとなる一節である"als ob die Musik während des Sprechens den Impuls zum Weitersprechen erst empfinge."の後半、"den Impuls"以降の部分が、 関口さんがツェランとの関わりで関心をお持ちのようで、ツェランに取材したオペラの初演にも立ち会われたと別の書籍で述べられているルジツカのヴィオラ協奏曲(1981) のタイトルとして用いられていること、そしてその作品でルジツカはまさにマーラーの第9交響曲をベースにしていることもまたご存知なのだろうか。のみならずルジツカには、 第5楽章にマーラーの第10交響曲の主題の引用を含む弦楽四重奏曲《...断片...》(1970)があるが、この作品はパウル・ツェラン追悼のために書かれたもので、 モットーとしてツェランの"Lichtzwang"からの一節が掲げられているのであるが、これについてはどうだろうか。
 
勿論、こうしたルジツカの側の文脈を列挙したところで、マーラーの音楽とツェランの詩的作品の間の関連を無条件に裏付けたり、 直接に証明したりするものでないことは明らかだが、仮に傍証であるとしても、こうした作品を書いている ルジツカのツェランに対する関わりについての言及を他所で行う一方で、ここでは「その本質においても埋め難い径庭がある」と断定し、だが、その断定に関する 一切の論証をせずにこの話題から離れていってしまうのは、上記のような事情を知る私にとっては非常に残念なことに感じられてならない。 浩瀚な大著のほんの一部でいわば通りすがりに言及されているだけなのであるから、無いものねだりなのだとは思いつつも、読者の私としては、俄には 受け入れがたい断定的なコメントがいわば宙に浮いたまま取り残されてしまった感じがして、ひっかかりを抱き続ける仕儀となっているのである。
 
さりとて、それについてツェラン、アドルノ、マーラーのいずれの研究者でもない私に何かが言えるわけでもないのだが、それでもこの文脈で主題的に論じられているのが 「対話」であることは明らかで、それがツェランにとっては極めて切実な問題であること、マーラーにおいても技法の次元を介してではあるが、極めて根本的な 問題であることもまた明白に思われるだけに、関口さんが、(あっさり通り過ぎてしまったマーラーの方はともかくも、)その点にはあたかも自明の前提の如く、 後続の「山中の対話」の分析でもほとんど主題的に扱うことがないことにも違和感を覚えてしまうのである。関口さんも指摘するとおり、ツェランは「子午線」において 「芸術」に「詩」を対立させる独特の詩論を展開するが、その一方でツェランはまた、先行するブレーメン講演で表明されている通り、詩を内的なモノローグ、 独語ではなく、「投壜通信」として、つまり対話として捉えてもいるのだし、そうした文脈で「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)を読むとき、まずそれが、タイトルに 「対話」という語を含み、形式として対話構造を直接持っているのではないが、その中で対話が繰り広げられていること、一度きり散文として対話が いわば「直接に」作品中でなされていることが持つ意味合いについてのコメントがあってしかるべきではないかという気がしてならない。
 
それはユダヤ性という点においても (ツェランが直接会って失望したブーバーよりも、寧ろ、ツェランの「投壜通信」への遅ればせの応答のようにツェラン論を書いたレヴィナスやデリダにおけるそれを 私は思い浮かべているが)決して瑣末な問題ではないし、「間テクスト性」という概念自体、ツェランについてそれを研究するのであれば、ツェランのいう「対話」概念 との絡み合いへの反省なしに行うことは、事態に即しているとは思えない。
 
してみれば、ことはマーラーに関わる部分に限定されるのではない。アドルノとツェランのこのやりとりを 「文章の音楽的効果」を介したものとして紹介するのは全く正当ではあるけれど、まずは何よりも、そこでジャンルを跨いだ「間テクスト性」において問題とされている 「対話」という主題という直接的なレベルにおいて無視が行われている点が、「対話」という主題の持つ射程、ジャンルを跨いだ「間テクスト性」概念自体にも 及ぶであろうそれに対する無視と重なって、ここで検討されるべきであった筈の論点、仮にマーラーの音楽について言えば個別には「その本質においても 埋め難い径庭がある」としても、それであればそうした個別の事情の方を無視して(つまり、マーラーが関係ないとおっしゃるならそれはそれでいいから)、 なお取り上げるべき論点、アドルノが指摘する「対話」の問題についての検討が為されていないことを遺憾に感じる気持ちを抑えがたいのである。 そもそも「間テクスト性」研究の正当性は、ツェラン自身が 「対話」を志向していた点(それが常に成功したのか、主観的にツェランがどのように感じていたか、晩年のツェランの抱えた問題がそれにどう影響したか、と いった問題は考慮しないといけないだろうが)に存している筈であり、「間テクスト性」の表れのレヴェルではなく、それを根拠づけている構造のレヴェルで 「山中の対話」(Gespäch im Gebirg)はまさに結節点に位置しているのではないか。
 
だがここではマーラーの文脈に戻ることにしよう。マーラーの音楽において「対話」というのは、表面的には(子供の魔法の角笛を歌詞に持つ、バラード的な 作品が特に顕著だが、例えば「大地の歌」の終曲においても出現する)歌曲の歌詞における2つの人格間のやりとり、 「嘆きの歌」から第8交響曲第2部の「ファウスト」終幕の場に至る、やはり歌詞を持つカンタータ風の構想を持つ作品におけるテキストレヴェルでの プロットとしてのそれがまずあるが、それ以上に、アドルノがここで第9交響曲を主題に扱っている、形式面でのそれ、マーラーが出発点として参照し 続けたソナタ形式から取り出して見せた長調・短調の二元論(第6交響曲の第1楽章の第1主題と第2主題のブリッジの部分に出てくる有名な モットーはそれをいわば「蒸留」したものであろう)と、マーラーの音楽の一貫した特徴である2声の対位法による思考(それがむき出しの形で現れるのは、例えば 第9交響曲の第4楽章の最初は変ニ短調で現れる挿入句が、ついで嬰ハ短調で再び登場し、独立した対主題として成長するときにとる形態 だろう)、多楽章形式における視点の移動・変更(それがいわば「標題」として表に出ているのが第3交響曲の場合だろうが、別に第3交響曲において それが最も著しいわけではないし、例えば、一見そうは見えなくても、実際には「大地の歌」においてもはっきりと判別することができるが、それについて私は 別のところで素描を試みたことがある)、そしてそれとは異なったレベルでの作品自体の機能のレヴェル(例えばマーラーがアルマ宛の書簡で作者が 成長する折に脱ぎ捨てた「抜け殻」に過ぎないと述べているようなレヴェル)における「対話」や「贈与」といったコミュニケーション的な観点を 併せて考える必要があるだろう。
 
マーラーの音楽は肥大した自己意識の誇大妄想的な主観的独白と見做されることが多いようだが、何よりも上に述べたような、その音楽の 実質を支える内的な形式構造がそうした見方を否定する。マーラーの音楽が忌避されるのは、それが彼の表現として主観的だからではなく、 それが主観を苛む外部との葛藤を常に内的契機として孕んでしまっていて、美的な観点から判断すれば醜悪なものを内容するが故に、 心地よい音楽を求める人にとってそれは耳障りだからであり、逆に「心から心へ」の音楽観に忠実な人から見れば、その音楽は対立する契機を 含が故に屈折し、内的表白として理解しようとするものを拒む秘教的な暗号めいたものを持つゆえに素直に受け取ることができない胡散臭い 代物に映るからなのであろう。だがいずれにせよ「対話」という点においては、まずは内的な形式におけるそれが契機となって、今度はその作品自体が 他者に向かって開かれたもの、時代と環境を越えて、表現することのできない者、見捨てられた者の声を伝えるものであるという点で、ツェランが詩作を 通じて取り組んだことと一致するように私には思われる。上に引用したアドルノの指摘は、そうした一見したところ「埋め難い径庭」を超えた、両者の 最も個別的な側面での一致にまで通じるものなのではないか。
 
それはまた、それが成功しているかどうかは別として、ルジツカがなぜ、ツェランを追悼する作品でマーラーの音楽をまさに「間テキスト的」に引用せずには いられなかったかという理由にも繋がることは疑いない。勿論、現時点では論証抜きの仮説に過ぎないことは承知しているが、それでもこの場での私個人の 暫定的な結論はマーラーの音楽とツェランの詩的作品のジャンルの違い、2人の生きた時代や環境、それぞれの作品の持つ文脈の違いを 超えて、「対話」の構造において両者は本質的な関連を持つ、というものである。付言すれば、それは学問的論証のレベルではまだ取るに足らない レベルだし、私のような市井の人間の思いつきがきちんとした論証に辿り着く日が訪れることは、少なくとも私に残された時間を思えば、私個人の時間の 裡ではないと考えるべきだろうが、それでもなお、私はここでそれを「投壜」して、潜在的な読み手との「対話」を試みることはできる。そしてそれは、 ツェランの詩とマーラーの音楽に自分の生の極めて本質的な部分を支えてもらっている、それどころか私自身の一部であるとさえ感じている、それ自体は 取るに足らない存在に過ぎない私のではあるけれど、自己の個別性を賭した主観的確信に由来する行為なのである。否、そうした無力で言葉を 奪われたものである私、マーラーの音楽とツェランの詩に自己の代弁者を、自由を、あえて言えば"Schrift der Wahrheit"を見出すものの証言であるが 故に、論証としての説得力には至らずとも、この文章自体がせめて一つの証言としての意味があるのではないかと願わずにはいられない。(2012.10.20/21)

2012年10月7日日曜日

アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及

アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及(Taschenbuch版全集第17巻p.50,邦訳「楽興の時」白水社, p.73)

(...) Schon an einer klagenden Stelle des Glockenchors aus Mahlers Dritter Symphonie steht eine offene Reminiszenz an die Trauermusik für Titurel; und Mahlers Neunte ist ohne den dritten Akt, zumal das fahle Licht des Karfreitagszaubers nicht zu denken. (...)
 
別の目的で、疎遠な作曲家であるワグナーの、しかしその作品中ではやや例外的に多少の馴染みがなくはないわずかな作品のうちの1つである「パルジファル」について調べている折、 ふとマーラーについての言及に気づいたので備忘のために書きとめておくことにする。マーラーが主題として扱われているわけではない文章を読んでいて偶々マーラーに関する記述を見つけたとしても、 その文章の主題の側についての知識がなければ、そこでのマーラーの取り上げ方を云々することは難しいだろうが、ここでの主題である「パルジファル」は最初に述べたとおり、 多少なりとも馴染みのある作品であるが故に、その言及を出発点として想いをめぐらすこともできるわけで、思いつきのようなものでも書きとめておいて後日の検討の素材とする 意図で記しておくことにしたい。
1860年生まれのマーラーは1883年に没したワグナーと音楽家としてのキャリアに関して言えば、ほとんど入れ替わって後続するような関係にあるが、アルマの回想録 には、学生時代のマーラーがウィーンを訪れたワグナーを劇場で見かけたものの、 緊張のあまり声をかけることも、コートを着るのを手伝うこともできなかったという経験があるいう記述がある。 後年マーラーは時代を代表するワグナー指揮者の一人となり、かつウィーンの宮廷・王室歌劇場の監督としてワグナーの作品を取り上げることになるが、アルフレート・ ロラーとの共同作業による赫々たる成果を挙げたにも関わらず、ユダヤ人であった彼は、反ユダヤ主義的な傾向のあったコジマの意図もあって、ついぞバイロイトに指揮者として 招聘されることはなかった。宮廷・王室歌劇場監督としてコジマとの間で交わされた書簡が存在する(ヘルタ・ブラウコプフの編んだ『グスタフ・マーラー 隠されていた手紙』 中河原理訳・音楽之友社, 1988」で読むことができる)が、その内容は、例えばコジマの息子である歌劇作曲家ジークフリート・ワグナーの 作品を演目として採用するかどうかについての駆け引きであったり、あるいはまたバイロイトにアンナ・フォン・ミルデンブルクが出演できるように推薦する内容であったりと、 いわゆる監督としての業務上のやりとりが中心である。
話を「パルジファル」に限定すると、ワグナーの没後30年間はバイロイト以外での上演を禁止するというワグナー自身の指定による保護期間の規定に対して忠実であったマーラーは、 バイロイトへの出演を拒まれた結果として、「パルジファル」は手がけていない。現実にはいわゆる掟破りの例もあって、マーラーの存命中の1903年12月24日には後日マーラーが 訪れることになるニューヨークで、1905年6月20日には、これまたマーラーがコンサート指揮者として頻繁に訪れたアムステルダムでの上演が行われている。ちなみに上記のニューヨークでの 1903年の上演を強行したのは、後年マーラーをニューヨークに招聘したメトロポリタン歌劇場の支配人、コンリートだが、その上演を風刺するカリカチュアはロヴォールト社のオペラ解説 シリーズのパルジファルの巻に収められており、音楽之友社から出ている邦訳で確認することができる。ちなみにマーラーは、コンリートの下で「パルジファル」を指揮することはなかったが、 メトロポリタン歌劇場を辞任して後に、コンサート・ピースとしての演奏は許容されていた第一幕への前奏曲をニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会で指揮している (1910年3月2日の第5回「音楽史演奏会」)。アルマの回想には、「マーラーはコンリードとのニューヨーク行きの契約に署名したとき、どんなことがあっても「パルジファル」は上演しない という一行を加えた。彼はヴァーグナーの遺志にそむきたくなかったのだ。」("Als Mahler seinen Kontrakt mit Conried nach New York unterzeichnete, schrieb er die Klausel hinein, daß er unter keiner Bedingung den »Parsifal« dirigieren wolle, denn er wollte nicht dem testamentarischen Willen Wagners zuwiderhandeln.", 「回想と手紙」, 秋1907年の章, 邦訳1973年版ではp.146)とあって、例によってアルマの回想を鵜呑みにするのは事実が問題の場合には危険が伴い、かつ、この件に関する他のソースによる 確認は今の私にはできないが、契約条項の存在の有無に関わらず、結果的にはその通りになったことは事実のようである。少なくともこの一節の背後には、上述のコンリートの 「掟破り」があって、もし実際に契約条項が存在したとしたら、その事実を念頭においてのことであるのは確かであろう。
だが、指揮者マーラーと「パルジファル」の関わりは上記に留まらない。マーラーは歌劇場の楽長のとしてのキャリアのごく初期に、旅回りでワーグナーを上演する劇団を主宰し、 ワーグナー家の信頼を得ていたユダヤ人アンゲロ・ノイマンの知己を得て、キャリアを積み上げていく足がかりを掴むのだが、既に「指輪」4部作をバイロイト以外で上演することに 成功していたノイマンは、自分が監督を勤めていた1885年~86年シーズンのプラハの王立ドイツ州立劇場において、「パルジファル」を例外的に演奏会形式で上演することを コジマから許可される。そしてそれを実現した1886年2月21日に第一幕の場面転換の音楽と合唱と伴う最終場面の演奏会形式での上演を指揮したのは他ならぬマーラーであった。 つまりマーラーは、部分的ではあるもののパルジファルを初めて演奏会場で指揮したことになるのである。その後1887年11月30日に、今度はライプチヒ市立劇場で、ニキシュと分担するかたちで、 第一幕・第三幕の最終場面の指揮もしている。その後もバイロイトでパルジファルを歌うことになった歌手の役作りの手伝いを買って出たり、上述のように自分がバイロイトへの出演を 後押ししたアンナ・フォン・ミルデンブルクがバイロイトでクンドリーを演じるにあたり、リハーサルをつけたりしており、「パルジファル」という作品を熟知していたことを窺わせる記録に事欠かない。 (このあたりの事情は、ヘルタ・ブラウコプフ編「グスタフ・マーラー 隠されていた手紙」の「マーラーとコジマ・ワーグナー」の章のエドゥアルト・レーゼルの解説に詳しい。邦訳では291頁以降。)
従って、ここで取り上げたアドルノの文章で言及されているマーラー自身の作品への影響も、そうした実践や楽譜を通しての研究の産物なのかも知れないが、その出発点として 聴き手としてバイロイトを訪れた経験があることにも触れておくべきだろう。特にワグナーが没する前、1882年の初演の翌年の1883年にバイロイトで「パルジファル」を聴いていることが、 これまた書簡を通じて窺え、マーラーにとって「パルジファル」の経験が圧倒的なものであったことが書簡の内容や文体から想像することができる(1883年7月のある日曜、イーグラウから フリードリヒ・レーアに宛てた書簡。1996年版書簡集20番、邦訳p.26)。前年の1882年のパルジファル初演が行われた第2回バイロイト音楽祭(第1回の1876年からは6年振りという ことになる)はワグナー自身が関与した最後の回であり、マーラーと交流のあったブルックナーは訪れているが、マーラーはその時期は駆け出しの歌劇場楽長としての契約の切れている時期、 つまり失業中の時期であり、一方の1883年はモラヴィアのオルミュッツ(現在のオロモウツ)の劇場の楽長を勤めたあと、ウィーンでカール劇場でのイタリアからの巡業の一座の合唱指導の 仕事が5月まであり、その間に秋に始まる次のシーズンからのカッセルの王立歌劇場の監督の契約が決まっていた。1883年のバイロイト音楽祭も前年に続き、「パルジファル」のみの 上演であるから、マーラーはまさに「パルジファル」を聴きに「バイロイト詣で」をしたことになる。ちなみにマーラーのバイロイト訪問はその後も何度か行われていて、ブダペスト時代の 1889年の第7回、ハンブルクに移った1891年、1894年にも「パルジファル」を聴いていることが確認できる。また、「パルジファル」の典拠である、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの 「パルチヴァール」については、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの「トリスタン」と並んで、アルマの「回想と手紙」の中に、夕食後にアルマがマーラーに読んで聞かせる本の一つとして 挙げられているし、アルマの没後にその蔵書を調査した折、蔵書の中に含まれていたことが確認されており、他の、自分が手がけた作品の典拠と並んで、取り上げることのなかった 「パルジファル」についても典拠を読んでいたことが確認できる。
もっとも、マーラーのみならず、 マーラーに後続する新ウィーン楽派の3人、つまりシェーンベルクもベルクもヴェーベルンも「パルジファル」を非常に高く評価していて、ベルクには後に妻となるヘレーネに宛てた手紙で バイロイトで聴いた「パルジファル」に触れたものがあるし、ヴェーベルンはやはり学生時代にいわば卒業旅行のようなものとして「バイロイト詣で」をしていて、その旅行記のような 文章が残っているが、その文章の冒頭にはパルジファルの前奏曲の冒頭主題が銘のようなかたちで書き写されていたりいる。シェーンベルクには問題の保護期間の延長についての文章があるが、 それを読めば「パルジファル」の作品そのものについての彼の評価を窺い知ることができる。
ちなみにここで取り上げたアドルノの文章も、始まってすぐに保護期間の問題についての言及を 含んでおり、「パルジファル」という作品が自律主義的な音楽美学に収まらない受容のされ方(それは全く妥当なことだし、とりわけても「パルジファル」はそうであるべきだと思うが)をしている点は はなはだ興味深い。滅多にこの作品が取り上げられることのない日本で実演に接したところで(勿論、上演の意義、上演に接することの意義は認めた上で)、この作品の上演が 西欧において置かれている文脈からは懸け離れたものでしかないことに聴き手は留意すべきなのだ。例えば物議をかもした(だけで終わったということになっているらしい) シュリンゲンジーフのバイロイトでの演出を思い起こせばよい。それが21世紀初頭のバイロイトで上演されるときに、その文脈で生じたであろう意味を「感じ取る」ことは不可能であるにしても、 それまでに蓄積されてきた「パルジファル」の演出の歴史を可能な範囲であれ俯瞰し、一時期物議をかもしたツェリンスキーによる「告発」といった出来事も踏まえた上で、 あるいはレヴィ=ストロースの「パルジファル」についての言及を一読した上で(そうすれば評判の悪いらしい数々の「読み替え演出」の中にも神話論理的な変換の試みに相当するものを 見出すことができないことではないことが確認できるだろう)、更にはこの演出の折に指揮を担当したブーレーズが、かつて、もう四半世紀前にバイロイトで「パルジファル」を指揮した折に書いた「パルジファル」についての 文章を読んだ上で、自己の感覚的な反応は反応として、そこで起きた出来事を遠回りにであれ理解しようという試みをするならば、他方でそれ自体は優れた演出であろうクラウス・ グートの演出を日本で受容することについても、そこに予め存在しているギャップや間隙に意識的にならざるを得なくなる。
「普遍性」などという曖昧な言葉を隠れ蓑にして、自己の主観的な感覚的な印象を正当化することが行われることは許容されえないだろう。ワグネリアンでなくとも、 (ワグネリアンなら勿論のことだろうが)ワグナー自身が一般の劇場でこの作品を上演することに対して抱いた危惧の念については、一旦は受け止める必要はある。 それを鼻持ちならない態度として否定するのは、作品自体をどう評価し、それに今、ここで自分自身が多少なりともかかずらっていることについて自覚的になった上でやればいいのだ。 主題的・内容的な議論、つまり宗教性がどうしたとか、ナチスとの関わりがどうしたとかといった点に取りかかるのはその後の話の筈で、そうした点が抜け落ちて、あたかもそれが 当たり前の如くに批評が成立すると思い為すのであれば、結局のところそうした主題的・内容的な議論自体を全うすることはできない筈である。同じ状況は実際にはいわゆる (「パルジファル」をその一部とする西欧音楽の末裔としての)「現代音楽」の側の受容の側にもあるのだが、作品の現代的意義を主題的には問うている(少なくともそのように 主張される)議論ですら、その扱い方自体は、上演を取り巻く様々な社会的・制度的状況は無条件に括弧入れできると思っている、つまり自らの批評の場は確保されていると 思い込んでいるかの如くに見え、そうした暗黙の前提自体が結果的に、目指すところ作品の現代的意義とやらへの到達を予め不可能にしているように見えるのは奇妙な光景という他ない。 まるで魔法にかかっているかの如く、時間と空間は溶け合うどころか、あっさり超越されてしまっているというわけだ。
そうした事情は、舞台芸術という「雑種的」なジャンルにとりあえず属するという了解になっている「パルジファル」に比べれば一見して直接的な問題には見えなくとも、 マーラーの音楽、音楽外的な標題や伝記的な出来事との関わりがあれほど論じられ、そうでなくても声楽の導入により、テキストと音楽との関係は無視できないものに なっているマーラーの作品についても基本的には変わるところはない。マーラーそのものについてのそうした傾向については何度もこれまでそうした兆候についての指摘を繰り返してきたので ここでは「パルジファル」に関連する文脈に限定して一例を挙げるならば、例えばヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」でのマーラーの「引用」程度の文脈で マーラーの音楽への拒絶感を自己正当化するような態度は、「バイロイト詣で」を欠かさない一方で、そちらこちらで上演される「パルジファル」のあの演出を貶し、あの演出を ごく簡単なコメントだけで持ち上げることを繰り返しつつ、結局のところワグナーの作品を消費しているだけか、せいぜいがそうした消費への誘いをしているだけの態度と変わるところはない。 「ヴェニスに死す」での「引用」にかこつけて一気に葬ってみせたマーラーの音楽は、それではここで引いたアドルノの文章で「パルジファル」の音楽との関わりが指摘されるそれとは違った何か なのだといって頬被りをきめこんでみせるのだろうか。その拒絶感の在り処は実際にはどこなのかを、ワグナーの音楽を鏡として突き詰める作業こそが必要なのではないか。
ところで、マーラーがバイロイトを訪れた時期を考えると、アドルノの上記の言及はクロノロジカルにはギャップを含んでいることがわかる。つまりマーラーが「パルジファル」経験をしたのは、 作曲家としてのマーラーについて言えば、「嘆きの歌」よりは後だが、第1交響曲よりも先行する時期にあたるのである。勿論、そのことが直ちにアドルノの主張の当否について何かを 物語ることはないが、少なくとも言及のある第3交響曲、第9交響曲以外の作品についてはどうかを問うことが権利上可能であることにはなる。第3交響曲の第5楽章は「子供の 魔法の角笛」に基づいているが、アドルノの言及しているのは練習番号3から7にかけてのアルト・ソロがペテロの悔恨を歌う部分、特にその中でも独唱が終わった後、鐘の音を 模する合唱と管弦楽による移行部となる練習番号6番以降の部分であろう。鐘がなり、ゆっくりとした行進曲調で バスが付点音符を含むリズム(全く同一というわけではないが)を固執して刻み続けること、嘆き、悔恨の感情が扱われていることは共通しており、確かに指摘はもっともと思われるが、 民謡調で女声や子供の声で歌われるマーラーの音楽(ペテロの嘆きすら、アルトのソロが歌うのである)と、聖杯騎士と後続部分ではアムフォルタス自身が嘆きと悔恨を語る ワグナーの劇の音楽のトーンには違いがあるのも確かだろう。そもそもマーラーの音楽では合唱は「泣いてはいけない」というのに対し、聖杯騎士たちはアムフォルタスを責めるばかり であり、第4楽章の「夜」を経たマーラーの「朝」の音楽には、荒廃した聖杯守護の騎士達の城の陰惨さは感じられない。 ただしマーラーが後続する第6楽章について「神よ、私の傷を見てください」と語ったというエピソードとは符合するし、 第3交響曲の終楽章をパルジファル第3幕の終幕の部分と比較するのは色々な点で興味深いことではあろう(これは両者が類似しているという意味ではない。はっきりと その実質において両者は全く異質のものであると私は断言できる)。更に言えば、先行する第4楽章でニーチェの詩を歌うアルト・ソロは 誰なのか、どういう性格付けを持っているのか(勿論、クンドリーが思い起こされるわけだが)、あるいは第2楽章の花と「パルジファル」における花の乙女を突き合わせてみると いった作業も可能になろう。
邦語文献では、ブルックナー/マーラー事典(東京書籍)のマーラーの第3交響曲の第5楽章の解説において、執筆者の渡辺裕さんが「パルジファル」との関連を指摘している(p.321)。 そこでは「罪を自覚したペテロがキリストに憐れみを乞い、そこで神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される、という構図」が「「パルジファル」とのつながりを感じさせる」 と述べられているのだが、アドルノの指摘についての言及はない。上述の通り関連の指摘自体は妥当だと思うが、私見によれば、渡辺さんの指摘する「構図」は「パルジファル」 の構図そのものとは言い難いというのが率直な印象で、「パルジファル」の解釈として寧ろこれは異色であるという感じを覚えずにはいられない。そもそもペテロもキリストも「パルジファル」には 現れないし、「神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される」とは、具体的には「パルジファル」の中のどの部分を指してのことなのか、私には到底明白とは思われない。 勿論「パルジファル」の側において、ペテロとキリストとの関係という基本的には別の物語への暗示(これこそ暗示のレベルであろうと思う)を含まないとは思わないが、 「パルジファル」の主要な構図は、あくまでもMitleid「共苦」を通しての認識による救済であるし、「罪を自覚したペテロ」が「パルジファル」における誰で、キリストが誰なのか、奇蹟を もたらす神への祈りとは、パルジファルにおいては誰のそれか、救済とは誰のものであるのかを問うた時、「パルジファル」の側で既に為されている或る種の構造変換 (レヴィ=ストロース的な神話論理の水準のもの)に気づかざるを得ない。しかも、マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)の方も、第7楽章として予定され、 最終的に第4交響曲のフィナーレとなった歌曲のテキスト程異端的ではないにせよ、こちらはこちらでキリスト教的にはやはり或る種の読み替えなり構造変換なりが為されているのである。
ちなみに、他の第3交響曲に関する研究等においても、パルジファルへの参照はしばしば行われている。第5楽章に関する言及としては、フローロスの場合が挙げられるだろう。 ただしフローロスが注目しているのは、4つの鐘と少年合唱の利用が、空間的な指示つきで(「高いところに」配置するように指示があることについての言及であろう)用いられる点であって、 それ以外の側面についての言及はない。一方、ドナルド・ミッチェルの「角笛交響曲の時代」の第3交響曲と第4交響曲を扱った部分では、メヌエットである第2楽章に関して 「ワーグナーの《パルジファル》の花の乙女たちの場面で試みられている絶妙な装飾的表現を研究し、それをみごとな器楽法で 処理したかがやかしい例である。」(喜多尾道冬訳, p.210)といった言及が見られるし、ピーター・フランクリンの第3交響曲に関するモノグラフにおいては、第6楽章の自筆譜冒頭に 掲げられたエピグラフ(既に上でも言及している「父よ、私の傷を見てください、、、」)への言及に続けて、第6楽章に関して「パルジファル」が参照されているといった具合である。 それぞれ興味深い指摘ではあるが、あまりに断片的な参照であり、マーラーの第3交響曲の全体を俯瞰して、その系の一部に「パルジファル」が扱う問題に対するマーラーなりの 応答が含まれているといった視点には至っていない。逆に、その参照箇所の拡散ぶりの方が、そうした個々の論点の背後に、より構造的な連関が秘められていることを 裏書しているようにさえ見える。その点では、急所を押えているという点も含め、渡辺さんの指摘が最も本質的な次元を衝いていると私には感じられる。ただしそこで指摘 されていることを考えるためには、第3交響曲という作品の色々なレベルでの「多声的」な構造に応じた、多面的な検討が必要ではなかろうか。
というわけで、渡辺さんのここでの主張が、第3交響曲と「パルジファル」それぞれのある解釈を通じて妥当であるという論証が不可能だとは思わないが、 それを確認するのはかなりの事前の手続を通してのことであり、自明のこととは到底思えないというのが私の率直な感覚である。 あえて言えば、聖書の物語の関連を比較すれば、「パルジファル」と聖書の物語の関連よりも、マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)の方が寧ろ構図において直接的であり、 それをもって「パルジファル」との関連を云々するのは寧ろ遠回りであって、些か強引な感じが否めない。 「パルジファル」との関連があることそのものは全く正しいし、限られた解説の中であえてその点に触れる慧眼に対しては敬意を表するものの、「パルジファル」とマーラーのこの作品との関連づけとしては (解説書の一部であるという制約を考えれば無い物ねだりだとは思うが)戸惑いを感じずにはいられないのである。私の展望は既述の通りで、ペテロの物語を寧ろ真ん中において、 マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)と「パルジファル」を対照させたときに浮かび上がるのは、扱っている主題の共通性もさることなら、そのニュアンスの差異のコントラストの方である。 また、この第5楽章が、構造的に、概ね「パルジファル」であれば第3幕の聖金曜日の奇蹟の位置にあることについても異論はないが、具体的な布置は異なるし、総体としてみれば、 そもそも「パルジファル」が「罪を自覚したペテロがキリストに憐れみを乞い、そこで神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される、という構図」と総括できるものというのは、「パルジファル」の 解釈として、かなり大胆なものに思われる。
罪の自覚、憐み、祈り、奇蹟、救済といったモチーフは確かに共通するけれど、それらの布置と連関がもたらす「構図」の方はかなり異なるのではないか。 寧ろマーラーは自分なりの「パルジファル」の読み替えを、第3交響曲の総体をもって提示したのだと考えることはできるだろうが、寧ろ私としては、「パルジファル」で扱われている問題についての マーラーなりの回答と見做すべきであって、同じ問題に対するマーラーの第3交響曲における認識と回答は、「パルジファル」のそれとは結果的には相当に隔たっているというのが 妥当な見方なのではなかろうか。
第9交響曲についての言及は更に曖昧で、しかも聖金曜日の音楽が参照されていることには率直に言えば些かの戸惑いを感じずにはいられない。勿論、主張が誤っていると いいたい訳ではないのだが、マーラーの第9交響曲と「パルジファル」の音楽の接点ということであれば、寧ろ他の部分の方により多く私は接点を見出せるように感じている。 色彩について言えば、第9交響曲第4楽章の色彩についてアドルノは、マーラーについてのモノグラフにおいて"künstlich roten Felsen"という言い方をしているが、他の箇所で詳述したとおり、これはドロミテの 地で"Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、菫色などの色彩に変化する現象を思い浮かべてのことと思われ、聖金曜日の 光とは異なる。先行する楽章、特に第1楽章などには"das fahle Licht"により相応しい箇所もあろうが、 私見ではそうした色彩に関する点も含め、第9交響曲については 聖金曜日の部分よりも寧ろ「パルジファル」の他の部分に類似の音調を感じ取ることができるように思われてならない。
ただし、「パルジファル」の音楽とマーラーとの関係では、寧ろ第10交響曲第1楽章の主題の一つがクリングゾールのライトモティーフと類似するという指摘の如きものの方が、少なくとも 日本では人口に膾炙しているように窺えるにも関わらず、「パルジファル」の音楽からの連想においてアドルノがマーラーの音楽の中で第9交響曲を取り出したこと自体は全く 妥当なことと思われる(第10交響曲こそ、ワグナーのみならず、シュトラウスのサロメの動機との関連などの指摘にも関わらず、そうした作品とは異なった音調を備え、異なった 場所で鳴り響く音楽である、というのが私の認識であるからだ)。私個人の印象では、寧ろ第1楽章の音楽にこそ「パルジファル」の音楽の遠いエコーが聴き取れるように思われる。 マーラーの音楽はワグナーとは異なって神話的な世界とは無縁であり、そもそも音楽が鳴り響く場が異なっているし、音楽の主観のあり方も全く異なるから、時代が接していて、 巨視的に見れば様式的な影響があるのは明らかであるにしても、そうした影響関係は音楽の備えている時代と場所を越えた価値に注目したときにはほとんど何の意味も持たないだろう。
だが、にも関わらず、例えば第9交響曲の冒頭でハープで提示され、(ソナタ形式としてみた場合の)展開部末尾の葬送行進曲の部分(練習番号15の後、Wie ein schwerer Kondukt 以降)においてまさに鐘で奏される動機は、アドルノがもう一つの参照点としている第3交響曲第5楽章の鐘の動機と、従って「パルジファル」の鐘の動機と連関しているのは明らかだろう。 (なお、「パルジファル」の鐘の動機と第9交響曲の冒頭の動機との連関の指摘に限れば、金子建志「こだわり派のための名曲徹底分析:マーラーの交響曲」の第9交響曲についての章に 言及があることを記しておく。)ここで葬送されるのは決してティトゥレルに比されるような主体ではないにせよ、まずもってここが構造的に場面転換に相当する点において、「パルジファル」第3幕の場面転換部分を 思い起こすことは困難ではない。そのように考えると、この部分に対応した提示部における箇所、即ち練習番号7の前、音楽が静まった後のTempo I subitoから始まって後、 練習番号7を過ぎてPlötzlich sehr mäßig und zurückhaltend以降の部分は、第1幕のあの有名な場面転換の、森から城への「道行」の音楽、”Du sieh'st , mein Sohn, zum Raum wird hier die Zeit.” というグルネマンツの言葉がいわば注釈するプロセスを実現する音楽の遠いこだまであるように私には感じられる。勿論、アナロジーには限界があって、ワグナーの作品においてはいずれもが、 能の前場と後場のような場の時間的・空間的な移行を惹き起こすのに対し、マーラーのそれは直前で生じた或る種のカタストロフの結果、意識の不可逆的な変化が生じつつも、 いわば意識の階層のレベルを一段降りて、だが同じ風景が回帰するプロセスを実現している。音楽は常に冒頭の風景に戻るが決して同一の風景の反復ではない。それでもなお Andanteという指示の元々の意味に忠実に、常に繰り返される歩みはどこかに向かう。だがそれは別の場所には辿り着かないで終わるのだ、少なくとも第1楽章においては。 変化が起きるのは歩く主体の意識の方であって、風景の「場所」、つまり空間的には「客観的」には冒頭と同じなのだ。「風景」が主観が捉えたものである限りにおいてのみ「風景」が、 寧ろ「展望」が変化したのであって、その歩みは全くの徒労というわけではなく、何か別の「場所」に到達したというように言いうるのであるが、それは寧ろ同じ風景の中を循環する 意識の内的な遍歴なのである。同じ場所を巡回しつつ、意識は現在の場を離れて過去に、フッサール現象学でいう第二次的な想起のプロセスを都度繰り返す。だが、その間にも経過する 容赦ない外的な時間流がもたらす推移(それの巨視的な累積の結果が「老い」と呼ばれる)が「風景」を、内的な空間の展望を変えてしまう。従ってここでもグルネマンツの ”Du sieh'st , mein Sohn, zum Raum wird hier die Zeit.”は、ある意味では事態の記述たりえているのである。
そしてマーラーの音楽の中でもとりわけて第9交響曲においては音楽的主体の受動性が顕わである点において「パルジファル」という音楽劇の持ついわゆる外的な筋書きの変化の 乏しさと対応した音楽の性格との或る種の類似が認められるだろう。いわばホワイトヘッドの抱握の理論における「推移」の時間の、しかも受動性が歪なまでに優位なのだ。 勿論それは「超越」に他ならないのだが、目的論的図式はここでは廃墟と化していて、寧ろレヴィナス時間論における「超越」、主体の可傷性、被曝性といった側面と 他者の他者性が相関して強調されるそれの音楽的実現であると考えることができるだろう。聖金曜日は単に到来するのであって、それは主体の働きとは基本的には無関係だ。 アドルノの第9交響曲についての言及は曖昧だが、こうした抽象的な時間論的図式のレベルで考えれば、その指摘は見かけほどは意外なものではないということになりそうだ。 ただし「パルジファル」の末尾の"、あの物議を醸し続けてきた言葉、"Erlösung dem Erlöser!"までその類比を拡張できるかどうかについては予断は許されないだろう。
"Erlösung dem Erlöser!"という言葉を導きの糸としつつ、第9交響曲以外のマーラーの音楽を改めて振り返ってみると、マーラーにおける「パルジファル」の対応物として、 表面的にはより直接的にさえ見える2つの作品に思い当たることになる。即ちそれは、宗教的であることが一見あからさまであり、その「正統性」とその価値について 絶えず懐疑の眼差しに曝され続けてきた作品、やはり「パルジファル」同様、既に色褪せた過去の遺物とする見方すらある作品である第2交響曲と第8交響曲である。 内容や主題ではなく、より抽象的な次元においてそれらが何を実現しているかを改めて検討する際に、「パルジファル」をいわば鏡として置くことは興味深い。 アドルノは既にマーラーに関するモノグラフで第8交響曲に関連して(些か異例なことに)カバラ的なものにさえ言及し、"Mahlers Gefahr ist die des Rettenden"とさえ 言っている。アドルノは「パルジファル」では虚偽から真実が生じる、ただしその真実は「消えうせた意味をたんなる精神から呼び起そうとすることの不可能性」のそれである といったことを、ここで取り上げた文章の末尾で述べているが、それは第8交響曲に対するアドルノの評価との突合せを迫るほどには並行的であろう。
一方の第2交響曲の第1楽章は一時期、交響詩「葬礼(Totenfeier)」として独立の作品と考えられていた時期があったことが知られているし、その音楽こそ"die Totenfeier meines lieben Herrn"のそれと突き合わせてみることが出来るように感じられる。(ただし、良く知られているようにTotenfeierという題名の由来は、マーラーの友人であったリーピナーが ドイツ語に翻訳をしているアダム・ミツキエヴィチの詩劇"Dziady"である。題名には言及がないが、晩年にニューヨークで自作の第1交響曲を指揮したときのことをワルターに報告する書簡で、 「葬礼」第3部の最も有名な箇所を自作のいわば「解説」に引用していることも良く知られているだろう。ただし"Dziady"がもともとはスラヴやリトワニアにおける 祖先を供養する祭礼であることを考えると、それを「葬礼」と訳すことが妥当かは疑問の余地があるかも知れない。例えばアルマの「回想と手紙」でアルマがリーピナーの翻訳に 言及している箇所では、白水社版の訳(p.37)では「慰霊祭」と訳されている例もある。これだと、言及されているものが第2交響曲第1楽章の題名の由来であるとは 訳書を読むものは気づかないかも知れないが、逆にマーラーの楽曲の側を「葬礼」ではなく「慰霊祭」であるとして聴いてみても良いのである。いずれにしてもマーラーがTotenfeierで どういった儀礼を思いうかべていたかは更に別の問題として考えなくてはならないだろう。
そうした錯綜を前にしてみると、そもそもが全体で4部からなり、その第1部は未完、最も有名な第3部はその他の部分の10年後に書かれていて、内容上も 連続性を欠いているこの詩劇において"Dziady"という題名に相応しいのは第2部であることを考えると、マーラーが第1交響曲、第2交響曲の2作を、リーピナーが翻訳した ミツキエヴィチの詩劇"Dziady"と関連づけている事実は確認しておくべきだろうが、結局のところTotenfeierという単語に基づいて連想を膨らませるのは恣意的な感じを否めず、実証的な 水準では検証に耐えないことははっきりとさせておくべきだろう。そしてここでの「パルジファル」でのティトゥレルの葬礼への連想も、もちろんそうした限界の範囲での連想に過ぎないのである。 最終的にはそれは実証不可能だし、実証そのものに決定的な意味が存するわけでもない。必要なのは音楽を取り巻く状況のこうした錯綜を踏まえ、その上で今、ここでそうした 錯綜の中から浮かび上がってくる音楽がこちら側にもたらすものを見極めることであろう。
だが、それを前提にしたとしてもなお、 ハンス・フォン・ビューローという「父」の死をきっかけに完成した第2交響曲、後日フロイトの弟子であるテオドール・ライクの精神分析的解釈を呼び起すような成立史を 持つこの作品について、まさに「父」ティトゥレルの「葬礼」の場面の音楽を連想することは、その背後に存在する構造を考えれば決して妥当性を欠くとは思えない。 ビューロウとの関係は1883年夏のバイロイトでの「パルジファル」の初体験の直後の1884年1月のカッセル時代から始まっている。ビューロウの死は1894年2月、マーラーが立ち会った ハンブルクでの葬儀は3月29日、第2交響曲の完成はシーズン後6月のシュタインバッハにて、その後にバイロイトを訪れて「パルジファル」を聴いているのだ。そして その間の1891年にももう一度「パルジファル」を聴いている。1889年夏のバイロイト訪問に先立つ1888年8月にスコア完成をみた、つまりプラハ時代に成立した第2交響曲第1楽章に "Totenfeier"というタイトルを付与することをマーラーが何時、何をきっかけに思いついたものか。更にマーラーは第2交響曲としての初演後の1896年3月16日のベルリンでの演奏会でなお、 第1楽章のみを「葬礼」として演奏していることにも気を留めておこう。有名なマルシャルクへの書簡にて、「葬礼」で葬られているのは第1交響曲第4楽章で死ぬ英雄であると述べるのは、 その直後の3月26日である。そしてこれまた有名な、ビューロウに「葬礼」を聴かせた時の拒絶反応の「思い出」(?)を述べたザイドル宛の手紙は1897年2月になってからのものなのだ。)
繰り返すがここで問題にしたいのは、文化史的、思想史的な実証の水準であったり、 ワグナーにおけるショーペンハウアー哲学の影響、Mitleidの思想、一方のマーラーの思想を音楽がつけられたテキストの内容のレベルで比較するといった水準の議論ではない。 また、音楽そのものを対象とするにしても、単なる引用や動機の類似の指摘レベルの議論に終始していては、作品の持つ射程の理解に資することは覚束無いだろう。 (その点で、アドルノがマーラーについてのモノグラフの冒頭で述べたマーラー理解の困難についてのコメントは、今日においても妥当すると私は考えている。そしてそれは ナチスによる介入についての点が、こちらは裏返しの形で妥当するという点も含め、「パルジファル」についても当て嵌まるのであろう。) そんな議論は、100年以上の時間と地球半分の空間の隔たり、それ以上に大きな文化的・思想的な隔たりのこちら側で、今、ここで「パルジファル」を、マーラーの音楽を 取り上げることの意義とはほとんど無関係なことである。寧ろ今、ここでの議論の起点は、三輪眞弘さんの「新しい時代」のような作品にこそ求めるべきである。逆にそれが 提起する問題を考える上で、「パルジファル」やマーラーの音楽のような過去の参照点なしで済ませることは私には困難で、「新しい時代」のような作品に、その作品の価値に 相応しい仕方で接しようとすれば、そこで取り上げられている問題を時事的に取り上げたり、そこで用いられているテクノロジー自体について論じるだけでは不充分であろう。 それぞれを、時代と文化の相違を超えた価値の次元において理解しようとしたときに、例えばレヴィ=ストロースが神話研究で行ったような仕方と類比的なやり方で、 それらを比較検討することが是非とも必要なのではないかと感じられてならないのである。(2012.10.07公開, 10.13/14加筆, 10.28指揮者マーラーの「パルジファル」との 関わりにつき大幅に修正, 11.23「ブルックナー/マーラー事典」での第3交響曲第5楽章の解説についてのコメントを加筆, 2013.1.19 アルマの「回想と手紙」における 言及に関して加筆。)