お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2009年12月19日土曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽についてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽についてのマーラーの言葉(1984年版原書p.138, 1923年版原書p.119, 邦訳pp.301-2)
(...)"Die Musik muß immer ein Sehen enthalten, ein Sehen über die Dinge dieser Welt hinaus. Schon als Kind war sie mir etwas so Geheimnisvoll-Emporttragendes, doch legte ich damals mit meiner Phantasie auch Unbedeutendes hinein, was gar nicht darinnen war." (...)

この言葉はナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録のSommer 1899 8. Juni - 29. Juli の章、Auf Bergeshöh の節に含まれる。(1923年版には 22. Juli という日付の記載があるのだが、 1983年版では削除されており、1983年版に基づく邦訳にも当然日付の記載はない。削除の理由は詳らかでない。)この日、彼らはPfeiferalmに登り、その頂きにある小屋のヴェランダでの 言葉として記録されている。よくあることで、マーラーは突然こうした言葉を語ったのであろう、バウアー=レヒナーはどうしてそこでこうしたことをマーラーが語ったのかわからないと付記している。
 
だが私がこの言葉に初めて接したのは、実はナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録ではなく、アドルノのマーラー論の中での引用によってではなかったかと思う。ただしアドルノが引用したのは 最初の一文のみであるが(I. Vorhang und Fanfareの最後のパラグラフ、Taschenbuch版全集第13巻p.165,邦訳(龍村訳)では p.23)。アドルノがこの言葉を引用した文脈はそれは それで興味深く、そうした憧れの表現が、世の成り行き(Weltlauf)を正当化する装飾と化す事無く、他なるものの他性を損なうことなく、見失われたもののうちに見つけるのでなければならないというように続く。 (このあたりをレヴィナスの超越論・他者論と突き合わせる作業は、そのいずれもがヘーゲルの現象学に対する読解なのであってみれば、非常に興味深いものとなるであろう。) 日曜作曲家、休暇の作曲家であり、世間的には歌劇場の監督であったマーラーは単純に世の成り行きを拒絶したのではない。実際の動機は何であれ、彼は日々の糧を得るべく、 身をすり減らし、自分の時間のほとんどを費やしたけれど、その最中、合間を縫うようにして音楽を書き続けた。意地悪な見方をすれば、実は件の憧れは「私はこの世に忘れられ」という 題名がいみじくも告げているように、そうした日常からの逃避だったのではないか、結局のところマーラーの音楽とて、本人にとっては楽長殿のはた迷惑な道楽であり、所詮は娯楽に 過ぎないのでないかと疑ってみることもできよう。実際、アドルノの発言を裏返したように、例えばハンス・マイヤーは(多少異なった文脈でだけれども)、マーラーの音楽は日曜宗教みたいな もので、装飾品ではないかという発言をしていたりもする。(Rainer Wunderlich刊行のマーラー論集に収められた"Musik und Literatur"の特にp.152以下。邦訳は酒田訳「マーラー頌」p.361以下。) マーラーがこの言葉を発した状況は、私には例えば第6交響曲第1楽章展開部後半の、アドルノのカテゴリーではSuspensionにあたるブロックを思い起こさせるが、マイヤーの手にかかれば 自然に対するマーラーの態度も同断であって、ディレッタント的な簒奪者ということになってしまう。だが、一見したところ対立するように見えるマイヤーの主張の結論はアドルノのそれと、少なくとも 決定的に背馳するものではない。マイヤーは「大地の歌」が「第2交響曲」の撤回であり、カフカやシャガールを引き合いに出しつつ、マーラーの芸術には救済が拒まれていると述べているのだから。
 
しかしここではアドルノやマイヤーの所説を検討するのは控えることにしたい。それよりも私にとって気になることは、マーラーの音楽を1世紀後に「消費」している私は、それでは一体何なのだ という点である。かつて中学生であった私がそう思ったように、私もまたディレッタント、簒奪者ではないのか。そうでないような立場が可能なのかは、現在の私にも未だ判然としないのだ。 お前に一体何がわかるんだと問い詰められれば、私には返す言葉がないのははっきりしている。まるで(これまたアドルノがマーラー論で引用した)カフカの「審判」のヨーゼフ・Kのように、 マーラーの角笛歌曲に歌われる「ひかれもの」のように。
 
けれども実は、寧ろそうであるからこそ上記のマーラーの言葉に、そしてその言葉を決して裏切らないマーラーの音楽に私は強い共感を覚えるのかも知れない。悟った人から見れば、こうした私のスタンスは 悪あがきに映るだろうし、そうした人にとってはもしかしたらマーラーの音楽さえ、そうした悪あがきのサンプルということになるのかも知れない。だがそれならそれで、ここでコミットメントが生じているのだ。 きっとマーラー自身がそうであったように、かの如き憧れなしに「世の成り行き」に身を浸すのは耐え難いことだけれども、だからといってそれは単なる息抜き、娯楽であるわけではない。 再びマーラー自身がそうであったように、それがある種の目的論的転倒であるにせよ、「神の生ける衣を織る」こと、為し能うかどうかは定かでなくとも、そのように努めることをせずには いられないのだ。マーラーの没後、「マーラーが何から救われたいと思っていたのかわからない」、と冷静で怜悧なリヒャルト・シュトラウスは語ったといわれるが、是非はおくとして、とにかく 私がマーラーとともに愚かさの側にいるのは確かなことのようだ。
 
そうした私にとって、上に掲げたマーラーの言葉はある種の「モットー」のような重みを持っている。勿論、音楽家ならぬ 私にとって主語は音楽には限定されない。でも序列の違いはあれ、マーラーだってそうだったろうし、私の側ではマーラーの音楽が上記のモットーに合致したものの一つであることは確かだ。 否、逆にそうした志向を子供だった私に与えたのはマーラーの音楽の方なのかも知れない。音楽を聴くのは気晴らしなどでは決してなく、ある種の感受の、認識の様態を感受することに よって自らの裡に受容し、刻印することに他ならない。そうしたプロセスの結果として、比喩でなく文字通り、私は少しだけマーラー「である」のだ。かくして アドルノの印象的な言い方を借りれば

"So mag ein Halbwüchsiger um fünf Uhr in der Früh geweckt werden von der Audition eines überwältgend niederfahrenden Lauts, auf dessen Wiederkunft zu warten der, welcher ihn eine Sekunde zwischen Wachen und Schlaf gewahrte, niemals mehr verlernt."(Taschenbuch版全集第13巻p.153,邦訳(龍村訳)では p.6)

ということになる。否、それは単にジェインズの言う「別の部屋」からの声に 過ぎないのかも知れない。だが例えばラマヌジャンが公式を見出したのはそうした声に導かれてではなかったのか。マーラーが「書き取らされた」のはそうした声に導かれててではなかったのか。 「全世界が映し出されるような巨大な作品においては、人は宇宙が奏でる1つの楽器に過ぎない」という言葉もまた同様に、マーラーの時代においてすら過去のものとなっていたロマン主義的な 意味合いではなく、そうした意味合いで文字通りに受け取られるべきなのだ。マーラーの音楽をそれが出てきた背景に還元して理解するが如き姿勢は、マーラーが上掲の言葉で語ったような 志向に対する背馳ではないか。そうした姿勢が「今こそマーラーの時代が来た」などという厚かましい呼号と対になっているのは、そこに存在する遠近法的錯誤の甚だしさを証言するものだろう。 マーラーが「音楽によって世界を構築する」、と発言したのを、その言葉のみではなく、実際に彼が為し得たことによって測ろうとするならば、比喩ではなく、文字通りに、だが肥大したロマン主義的 主体の妄想としてではなく、主体の背後にあって主体を構成している動的な構造を含めた上での環境と有機体の相互作用のあり方として、実践的な仕方での「世界」(だが、ここでいう世界は 一体どこから始まるのだろうか?)との関わり、解釈学的過程としての音楽のあり方を述べたものとして捉えるべきなのだ。生誕100年の時点でアドルノは、マーラーの音楽は形式的な楽曲分析に よっても標題によっても充分には解明されえないと述べたが、寧ろマーラーの音楽を分析し、その構造を記述するためのデバイスは半世紀後の今日においても未だ準備されておらず、 今後の脳神経科学や意識の科学の発展とともに、ようやく少しずつ的確な記述が可能になっていくのではないのか。本格的なマーラーの音楽の観相学はまだ可能になっていないのではなかろうか。
 
勿論そうした観点から帰結するところもまた、結局のところ人間は自分の行動様式という監獄からは自由になれない、ということに過ぎないのかも知れない。 賽を投げるのも、スピノザの自由意志についての議論よろしく、自分がそちらに向けて投げているのではなく、そう投げるように仕向けられ、馴化されてしまっただけなのかも知れない。 (もっともそうした意識の受動性に対する認識が、意識下で行われている活動についての意識が存在するという事実に基づく違いは残るし、マーラーの音楽はとりわけてもそうした 意識の構造のある種の反映となっている点で際立っていると思われるのだが。)それでもともかく、ein Sehen über die Dinge dieser Welt hinausが自然主義的な 展望の下で「どこ」に位置づけられるにせよ、あるいはマーラーの音楽の本格的な観相学のため準備が未だ整っていないとしても、そうした志向を共有するものにとって、 マーラーの音楽はこの上ない同伴者であるには変わりはないと私には思われる。(2009.12.19)

2009年12月5日土曜日

妻のアルマ宛1904年2月1日付け書簡にある進化論に由来するマーラーの言葉

妻のアルマ宛1904年2月1日付け書簡にあるマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1940年版原書p.226, 白水社版邦訳pp.276-7)
"Mein Geliebtes!
Also gestern im "Liebesgarten". Die Aufführung war sehr gut und durchaus eine Bestätigung meiner Eindrücke bei der Lecture. Ich habe keinen neuen Gesichtspunkt gewonnen. Meine Ansicht über Pfitzner ist die gleiche geblieben. Große Stimmungskraft und sehr interessant in Kolorit. Aber zu gestaltlos und verschwommen. Gallert und Urschleim, immer zum Leben drängend, aber in der Entwicklung gehemmt. Die Schöpfung gedeiht höchstens bis zu den Weichtieren. Wirbelthiere können nicht entstehen."(...)

ここで話題になっているプフィッツナーの歌劇「愛の花園の薔薇」は、アルマがマーラーに働きかけて宮廷歌劇場でのウィーン初演を実現したという経緯が「回想」の方で語られている。 1902年のクレーフェルトでの第3交響曲初演の折にプフィッツナーがマーラーを訪れ上演を懇願したのが発端で、その後1904年2月にマンハイムとハイデルベルクをマーラーが訪れた折に 1月31日にマンハイムで行われた上演を聴いた感想を翌日ハイデルベルクからアルマに書き送ったのが上掲の書簡である。ここでの評価は否定的だが、アルマの働きかけにより1905年4月に マーラーがこの歌劇のウィーン初演を行うことになる経緯は「回想」の1905年の章に詳しい。

だがここで私がこの書簡を採り上げるのはプフィッツナーの歌劇を話題にしたいからではない。そうではなくてマーラーが評価をする際に用いた進化論に由来するレトリックの方が 興味深く思われたからである。進化論は21世紀の今日でもキリスト教圏では未だ議論の対象のようで、極東の島国から眺めるとそれはそれで些か意外な感を抱くのだが、 ダーウィンの「種の起源」出版からまだそんなに時を隔てていない1904年の時点で、よりによって音楽を評するのに進化論の比喩を用いるのはマーラーが持っていた思想的背景の 反映に違いない。今日の視点からすれば何でもないような言い回しかも知れず、私自身、子供の頃にこの書簡を読んだ時にも特に気を留めることもなく通り過ぎてしまったのだが、 例えば上掲の書簡の続きで言及される第3交響曲を肴にマーラーの世界観を論じようとするのであれば、1世紀の年月がもたらす遠近法的な歪みに無頓着でいることはできないだろう。 マーラーが読んだとされるフェヒナーやロッツェ、ハルトマン等は当時勃興しつつあった実証的な自然科学の知見と観念論的な思弁との折り合いをつけようと試みたが、それはその時代が 要請したものであって、今日それに当時と同等の意義を認めるのは困難だろう。マーラーも彼なりの仕方で共有し、その音楽にも刻印されているそうした思考のベクトルは 今日でもなお喪われた訳ではないだろう(実際、同じベクトルを持つ主張が今日的な文脈で繰り返されるのをそこかしこで見ることができるだろう)が、展望は自ずと変わっている筈だし、 それに対して無自覚でいるのは当時のマーラーが抱いていた関心のベクトル性の深さとは相容れないことだろう。

21世紀の今日に生きる人間が1世紀も前の立ち位置に無媒介に立てる筈がないというのに、その音楽についてはコンサートホールやCDでいとも容易くアクセスできるが故に、 実際には「幽霊」でしかないかも知れないものをまるで生きているかのように錯視してしまうことが、そうしたことの原因になっているのかも知れない。 実際そのようにして子供であった私もまたマーラーの音楽に出会い、その人を知っていったのである。 だが厄介なのはそのこと自体ではない。マーラーは紛れもなく過去の人であり、その音楽はどのようにしても今日書かれる音楽ではあり得ないにも関わらず、マーラーが生き、その音楽が 産み出された「圏」は、寧ろ現在とあからさまに地続きなのだ。文脈から切り離して接することができる程は遠くはなくて、それゆえに寧ろ遠近法的な倒錯が厄介さを増しているのだ。 ウィーン宮廷歌劇場監督であったマーラーは当時の文化的な風景の中においても中心に位置づけることができることもあり、19世紀末ウィーンの文化の中に彼とその音楽を位置づけようと いう試みが為されてきたが、それがマーラーと今日の距離を適切に測るのに必ずしも資した訳ではないのは、それがマーラーの音楽同様、ある種の流行現象となり、まるでそれが 自分達の時代のものであるかのように喧伝されると距離感は喪われてしまった経緯に明らかだろう。

その厄介さは時間の次元だけにとどまらない。アウトサイダーであったマーラーの音楽を、更に外側の極東の島国から眺めた時の展望は単なる外部からの視点であるとは言い切れない。 端的な例が「大地の歌」であって、この場合には李白や孟浩然、王維の詩に対する日本人の距離感が更に加わるから一層ややこしいことになる。例えばアドルノの視点と同じ位置に 立つことは、少なくとも私にはできない程度に漢詩は自分の中に埋め込まれてしまっている。件の世紀末ウィーン文化史にしてもそうだが、漢詩が極東の島国において持ちうる意義は、 かの黄昏の地におけるそれと同じである筈はない。だがそれでは相変わらずマーラーを理解できていないのは一体どちらの側なのかということになれば、あちらとこちらで誤解の様相は 異なるとはいえ、誤解の程度はお互い様なのではないか。お互い様といえば、漢詩について西欧人以上に今日の日本人がわかっているというのだって甚だ怪しいかも知れないのだ。 最初に採り上げた進化論の受容に関しても恐らく例外ではなく、マーラーも含めた彼の地の人々の躓きがかえって腑に落ちない程抵抗感なく受け入れることができているのだろう。 だがこうなるともう、自分独自の展望があるのだとしか言えない気にもなってくる。距離を測る作業、自分の立ち位置を確認する作業などいいから、自分なりの聴き方、 受け止め方をすればいいではないか。そもそもこのことに気付く以前にお前はマーラーの音楽にどっぷりつかってしまったではないか、というわけだ。勿論、年季の入ったマーラー・フリークを 誇るのも考えものだ。遠ければ細部は判別できないが、近ければ今度は全体が見渡せない。結局のところ、存在するのはそれぞれの立ち位置に応じた展望の違いだけで、 それらに優劣をつけることなど出来はしないのではなかろうか。存在するのは関心の深さ、共感の深さ、衝動の大きさだけなのではないか。

確かにそうなのかも知れない。そもそもが、一体何を根拠に同時代に生きる他の誰と私が視点を共有しうるというのか。程度の問題をなかったことにしてしまうのは明らかに極論だが、 過去の異郷に生きたマーラーと私との距離が、同時代の誰かと私との距離以下に原理的になりえないというのは一体どのような抽象的な空間なり場なりを想定してのことなのだろう。 ある相空間においてはマーラーは私の隣人なのだ、とどうして言えないのだろうか。例えばプフィッツナーはマーラーの音楽との接点を見出せないとアルマに対して語ったらしいが、 私は、それが思い込みや視界狭窄に基づくものであったにしても、マーラーの音楽との接点が見出せずに困った経験はない。だが同時代に同じ文化圏に生きた同業者プフィッツナーと マーラーとの距離と私とマーラーとの距離とはそもそも同じ尺度でなど測れないし、比較することにも意味はないだろう。結局、どのような空間を設定するかに依るのだし、 実はマーラーについて語ることとは、そうした空間の定義の作業そのものの一部なのではないか。「私にはこのような風景が見えます」と語ること。語りの衝動は、 その人が見た風景の素晴らしさや不思議さに由来する。それはまた「自分に与えられた素材と手段を駆使して世界を構築すること」に他ならない。 マーラーなら同意してくれることと思うが、世界は認識されるのではなく、構築されるものなのだ。もっと言えば純粋な認識というのは言葉の上の抽象に過ぎず、 それは構築と切り離してはあり得ない、つまり認識と構築は同じことなのだ。そしてそれは勝手気儘な仕方によってではなく「ある声」に従うことによって、 その世界の法則を明らかにすることによってしか為しえないのだ。

なお、この書簡は1995年に出版された"Ein Glück ohne Ruh' : Die Briefe Gustav Mahlers an Alma"ではpp.182-3に収められていて、上掲の1940年版とは若干の異同があるが、 ここで採り上げた主旨の上からは大きな問題はないので、ここでは初出の1940年版に従った。(2009.12.5)