2.マーラー作品のMIDI化状況について
3.和音の定義について
データ分析に取り組むもともとの動機がマーラー作品における調的遍歴のプロセスを取り出すことにあったことから、抽出する特徴量は自ずと和音とその周辺に限定することになり、音のダイナミクスの変化、テンポの変化、音色の違いなどの所謂「セカンダリー・パラメータ」はデータ抽出の対象にしなかった。それ故、それらについてのMIDIファイルのデータの精度や信頼性については問題になることはなかった。勿論、和音の抽出といっても、分析者の視点をもった人間が、自己の関心に基づいて対象を同定し、選択し抽出するのとは異なって、プログラムによって機械的に抽出するとなると、人間だったらそもそも暗黙の裡に処理をしてしまって意識することすらないかも知れない様々な条件を考慮する必要が出てくる。単純な話、音楽作品には無音の部分、単音の部分、重音の部分も存在するわけで、そうした部分の扱いは真っ先に問題になるが、本ブログにおける分析においては、無音の部分は除外するものの、単音・重音は対象として、それらも含めて集計・分析の対象とすることにした。(なお、最初の動機に関しては、五度圏サークル上の重心を計算し、その時間軸に沿った変化を3Dグラフで視覚化した結果を、記事「MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について」で報告しており、本体の和声の出現頻度の分析よりも、こちらの視覚化の方がより高い評価を頂ける場合も少なくない。)
ところで、ここで「和音」とは、音楽理論(和声学)上の「和声」でなく、所謂ピッチクラスセットのことである。実際のMIDIデータには同一ピッチクラスに属する音の集合について、解離・密集の区別や移置関係による区別が存在するので、ピッチクラスを抽出するためには、それらを捨象して同一のピッチクラスセットに分類する処理が必要となる。結果として解離・密集の区別はなくなり、移置の区別も取り除かれることになるが、ここでの移置関係の区別の除去は、音楽理論(和声学)上の主音の判定に基づく和声機能の同一性の判定とは異なることに注意が必要である。特に問題となるのは主和音に相当するピッチクラスについてで、主音の判定(調性推定)なしだと、その和音(ピッチクラス)の和声学上の機能(主和音なのか、属和音なのか)の判定が行えない(主和音も属和音も、ピッチクラスとしては同一である)。だが主音の判定は、それ自体が楽曲分析の結果であり前提ではない。また転回の区別も捨象されるが、機能和声上、転回形により異なるとされる主和音の機能差については区別ができない。(転回についてはピッチクラスの構成音の内、実際の音高が最も低いのはどの音かに基づき区別ができるので、主音判定とは異なり、こちらは対応可能でああり、実際に転回形の区別を行った集計・分析も実施した。だが、主和音以外の和音についても同様の区別をすることにどの程度意味があるものかは判断がつき兼ねるし、繰り返しになるが、ここでいう主和音というのは、あくまでも主和音の構成音からなるピッチクラスセットであって、機能和声上、主和音なのか属和音なのかの区別は行っていない点は常に念頭におくべきであろう。)
上記の点を解決するためには、主音の判定が必要である。実際、本ブログの分析の過程においても調性推定について検討したことはあって、実際、検討結果い基づき、クラムハンスルによる「調的階層」を用いた調性推定のアルゴリズム(詳細は、Carol L. Krumhansl, Cognitive Foundations of Musical Pitch. Oxford: Oxford University Press. 1990 の特に第2章 Quantifying tonal hierarchies and key distance および第4章 A key-finding algorithm based on tonal hierarchies 参照。)を参考にして計算を行い、その結果を公開している。(記事「MIDIファイルを入力とした分析の準備(1):調性推定と和音のラべリング」を参照。)
但し、結果的には調性推定の結果としてそれ単独で公開しているだけで、結果を用いた和音の機能の推定(究極には機能和声に基づくラベリングがゴールということになる)はしていないし、和音の出現頻度分析への適用も未実施である。(前者はともかく、うまくいくかどうかは措いて、後者はやってみればいいのかも知れないが、現時点では実施していない。実は推定結果を具体的に個別の作品について眺めて、大雑把な仕方ではあるが楽曲分析との乖離の程度を確認する作業まではやったのだが、その結果は、方法上当然のことであるとはいえ、気になる点が多くあって、主音推定結果を用いて和音の機能を推定することは躊躇われたことを付記しておく。)
その一方で、既述の通り、機能的に異なるものを区別するという観点から、主三和音に相当するピッチクラスセットに限定し、転回の区別を行った集計・分析の方は実施済である。(記事「付加六は旋法性の現われか?:MIDIデータを入力とした分析続報:主和音形とその転回形・属七・属九・付加六の出現頻度分析」を参照。)
本分析を通じて身をもって感じたことの一つに、音楽理論上の機能を持つとされる「和声」という概念と、楽譜に書き留められた(その結果としてMIDIデータとして存在する)同時に鳴る(べき)音の集合としての「和音」との間に広がる大きなギャップの存在がある。所謂音響処理においては、実現された物理的な音響と、楽譜上に記譜された音高や音価、更には音色といったパラメータを持つ「音」との対応づけも見かけほど単純な問題ではなく、mp3などのフォーマットに収められた音響データをMIDIファイルに変換することもまた、別レベルの様々な困難を伴うが、ここでの問題はそこではなく、楽譜に記譜された「和音」と音楽理論上の機能を持った「和声」の関係である。既に述べた通り、楽譜に記譜されたままの同時に鳴るべき各音の音高の違いを捨象してピッチクラスの集合を抽出したとしても、例えばそれが主和音に相当する音の組み合わせであった場合に、その「和音」が鳴っている区間における調的な中心音が何か、調性は何かといった文脈の情報なしには、それが機能上主和音なのか属和音なのかを判定することはできないし、主和音であった場合には、転回の有無によって機能の差異が生じるため、ピッチクラスの集合にしてしまうのは抽象のし過ぎということになる。だがその一方で、繰り返しを厭わず言うが、文脈の情報は、まさに分析に基づく推論の結果として得られるものであって分析の前提ではないため、後で述べるような部分観測マルコフモデルベースでのベイズ推論システムのようなものを構築し、学習と推定を繰り返し行うことで調整をしていくようなアプローチを採用するならともかく、本ブログで行ったような素朴な集計・分析手法ベースで対応しようとするならば、既述のクラムハンスルの提案手法等によって別途推定した結果を用意して、それも入力として与えてピッチクラスの情報と組み合わせるといった対応が現実的なものであろう。
こうした和声に関する一見するとパラドキシカルな状況については、音声認識における音素の位置づけとのアナロジーが成り立つように思われる。音素という概念は理論的に設定されたものであり、現実の物理的な音声との対応は必ずしも単純ではなく、その実際の音声としての実現は文脈によりかなりの変異があることは良く知られているであろう。では音素は客観的に「実在」しないのかと言えば、それが外部世界の構造として実在するかどうかという観点では実在しない一方で、現実と関わりが全くない単なる理論的抽象というわけではないだろう。具体的には音声認識システムの内部には外部からの入力を処理して分類をする仕組みが存在し、それは音素の体系に概ね対応したものである筈であり、音声認識システムの一つである人間の脳内の神経回路網にはその近似的なモデルが構築されていると考えられる。そしてそれと類比できるような状況が、和声についても成り立っているのではないかと思われる。(上で例として挙げた、部分観測マルコフモデルベースでのベイズ推論システムのようなものはその一例だろう)。それでは一見するとパラドキシカルな状況が現実には問題にならないのは何故かに関して言えば、それは音楽を享受したり、音声を認識したりする「心」のメカニズムは、フリストンの言う「能動的推論」によって特徴づけられるのであって、「現実」の「世界」は、客観的に実在する構造を認識するのではなく、主観的に制作されるという構成主義的な見方がより適切であるような造りになっているからである。(その限りで、ベイズ推論システムは相対的にはより妥当な近似ととらえることができるのではなかろうか?)この点については後述の分析の前提となるモデルについての節で改めて整理することにしたい。
4.和音の抽出方法について
和音(ピッチクラスセット)を対象とするといっても、データ中の全ての音を対象とするわけではない。もともとの動機であるマーラー作品における調的遍歴のプロセスの抽出という目的に照らして、大まかには音楽理論(和声学)上、「意味のある」和音が出現している可能性が高い箇所のみを対象にするのが適当と考えたからである。経過音、刺繍音など、「非和声音」とされる和音を拾うのを防ぐ一方で、すべての「意味のある」和音=「和声音」を拾うのが理想的だが、実際にはそもそも「すべて」を定義することは困難であり、それは楽曲分析の結果であって前提ではない。
そこで、上記の主旨を考慮した上で、(A)各拍頭および(B)各小節頭拍頭の2種類のパターンで和音を抽出することにした。従って集計対象となる和音の抽出の仕方は、ランダム・サンプリングではないがサンプリングが行われているには違いない。しかも機械的に上記2種類の条件で抽出した場合に、主旨にそぐわないケースが出てくることも確かである。例えば装飾音の扱いは常に問題になるし、アウフタクト、シンコペーション等により、特に各小節頭拍については音が鳴っていない場合がある。一方で、長い音価の音の場合、特に各拍の頭で拾うと、音の鳴り始めではなく音が鳴っている途中を拾うこともあるが、それ自体が問題であるというよりは、拍頭以外のところで解決が起きるのを拾い損なうことが起きるのは、和声進行を正しく拾うという観点からは問題があるだろう。特に後述するように、出現頻度の集計対象となる和音を、機能的に意味のあるものとして和声学等で取り上げられる、所謂「名前を持った」和音(煩瑣を厭わずに繰り返すならば、和音に対応するピッチクラスセット)に限定した場合、余計な和音を過剰に抽出してしまう方の弊害は問題ではなくなるが、拍頭以外のところで鳴る意味のある和音を拾い損なってしまう可能性については避けることが困難である。
5.集計対象とする和音の範囲について
前節末尾でも触れたように、和音の出現頻度(出現確率)の集計対象を決める際には、出現するすべてのピッチクラスセットを対象とするか、機能的に意味のあるものとして和声学等で取り上げられる、所謂「名前を持った」和音に対応した、特定のピッチクラスセットに限定するかについての選択が存在する。後者の特定のピッチクラスセットの範囲の定義にあたり参照した文献は、先行研究についての節でも言及した、Eva Ferkova et al., Chordal Evaluation in MIDI-Based Harmonic Analysis: Mozart, Schubert, and Brahms (in Tonal Theory for the Digital Age, Computing inMusicology 15 (2007-08))である。
一方で、出現するすべての和音(ピッチクラスセット)を対象とする方については、実際のMIDIデータに存在する解離・密集の区別や移置関係による区別を取り除いて同一のピッチクラスセットに分類する処理を、出現するすべての和音に対して用意する必要があり、この処理が対応していない和音は分類されず、分析の対象にもならない未分析の和音になる。どういう和音が出現するかは作品毎に異なるし、抽出対象を各拍毎にするか、各小節頭拍毎にするかによっても異なる(更に現実の問題としては、同一作品についての異なるMIDIデータ間にも差異が存在する)ため、実際にMIDIファイルを与えてプログラムを動かし、分類できない和音が出てきたら、分類処理にそのパターンを追加することになる。本ブログの集計・分析の初期の段階では、出現頻度の高い和音については分類できるようにしたものの、出現頻度の低い和音については未分類・未分析のパターンが残っていたこともあって、特定の和音、ないし出現頻度の高い和音に限定した集計・分析に限定せざるを得なかった。(この辺りの具体的な状況については、記事MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 補遺(1):未分析和音の解消を参照されたい。)その結果として途中の段階では、マーラーの作品における出現頻度が上位40種に含まれる和音を対象とするというようなやり方をしたこともあったが、現時点では、手元にあるマーラーの全ての作品の全てのMIDIデータについて、各拍に出現する和音については全て分類ができるようになっているため、全ての和音についての集計・分析が可能となっている。
マーラー以外の作曲家の作品、特にマーラーの同時代以降の作曲家の作品にはマーラーの作品には出現しない和音がしばしば出現するため、集計・分析の対象は自ずと特定の和音に限定される。特に状態遷移パターンの集計・分析を行うにあたっては、未分析・未分類の和音が存在することの影響は大きく、意味のある集計・分析が行えない場合もあった。この最後の点については、記事「MIDIファイルを入力とした分析:未分析の和音の出現頻度―エントロピー計算結果の同時代以降の作品との比較の記事撤回について」で取り上げているが、結果としてマーラーの作品と他の作曲家の作品を比較対照するにあたって、現状の集計・分析環境では、比較対象とする作品を制限することなった。
勿論この問題は、更に比較対象の作品に出現する和音を網羅するように分類のプログラムを拡張すれば解決するし、根本的には、どんな和音についても解離・密集の区別や移置関係による区別を取り除いて同一のピッチクラスセットに分類する汎用的なプログラムを作成すれば良いのだが、第一義的にはここでの集計・分析の対象はマーラーの作品であり、そしてマーラーに作品に限れば、既に述べた通り、手元にある全てのMIDIデータを網羅することはできており、尚且つマーラーの作品について更に集計・分析をすべき課題は山積していて、当然そちらを優先して実施することになる関係上、他の作曲家の作品には手が回らないことから、上掲記事にも記載した通り、今後、上掲記事で報告した他の作曲家の作品の未分析和音を解消すべくパターン・マッチング処理を拡張するかどうかに関して言えば、現時点では否定的である。
- 三和音以上のみに限定するか?単音・重音についても対象とするか?
- 同じ和音の繰り返しをカウントするか、連続しているとしてカウントしないか?
- バスの音高の変化の大きさを区別することにより移置を考慮するかしないか?
- MIDIシーケンサソフトを用いて作成(DTM)
- MIDIIキーボードで人間が演奏したものの記録
後者については、鳴っている音から推定するアプローチはありうるものの、MIDIファイル中のデータを抽出して分析するというアプローチには適さない。前者は、作者の作成ポリシー次第であり、同一曲について複数のMIDIファイルのバージョンが存在する場合には、そのばらつきが存在する。楽譜に忠実な入力ポリシーで作成されたMIDIファイルは、データ分析に使用するのに適している一方で、そうでない場合には、拍毎、小節頭拍毎の抽出を前提にするとサンプリングの条件が異なることになり、結果として出現頻度分布、出現確率分布の形が変わってしまうことになる。
従って、本分析の観点から利用しやすい好ましいMIDIファイルは、MIDIシーケンサソフトを使って入力されたものであり、かつ特に拍子の情報が楽譜に忠実に入力されており、小節の区切りが正しく同定できるものということになる。更に同一作者が入力したMIDIファイルは、入力ポリシーが統一されていることが期待できるので、利用しやすいタイプの入力ポリシーを持った同一の作成者の手になるMIDIファイルが存在することが望ましい。マーラーの作品に関しては、非常に幸運なことに、「大地の歌」を含む全交響曲の同一の作者(加藤隆太郎さん)によるMIDIファイル「全集」が存在したので、分析は基本的にはこの「全集」を用いて実施することになった。なおこの点に関しては、ピアノ伴奏版の歌曲についてはMIDIIキーボードで人間が演奏したものであるが故にここでの分析には向かず、逆にDTMとしてシーケンサソフトで入力する他ない管弦楽作品である交響曲や管弦楽伴奏歌曲のMIDIファイルの方が分析に適しているという稍々意外にも感じられる状況にある。マーラーの交響曲は長大である上に管弦楽編成も大規模であるが故にDTMでのMIDIファイル作成には大きな困難があり、膨大な手間がかかるものと思われることを思えば、マーラーの交響曲のMIDIファイルの状況は大変に恵まれたものであると感じざるを得ない。特にお世話になった加藤隆太郎さんを始めとする作成者の皆様には改めて大きな感謝の気持ちとともに、敬意を表したく思う。
本分析を開始してから和音の出現頻度を対象とした分析が一区切りするまでは、MIDIファイルは理想的には楽譜の替わりであり、機械可読性のある楽譜と見做していた。実際には文字通り楽譜をタグ付けにより機械可読に形式化した、musicXMLというXML形式の楽譜表記のためのオープンなファイルフォーマットも存在しており、こちらは所謂楽譜作成ソフトウェアにより作成することができるようになっている。musicXMLはその名が示す通り、楽譜の表記に対応したタグが定義されており、文字通り機械可読可能な楽譜と見做すことができるだろう。それに対してMIDIファイルは、その利用目的からしても、楽譜の代替として用いることが可能であるとしても楽譜そのものではない。特にそれが明確に表れるのは、デュナーミクやアゴーギクといった側面で、楽譜上は離散的に記号化する(ppp~fff)か、自然言語による指示(accelerando, ritardandoなど)が用いられるのに対して、MIDIファイルでは音量の増減や速度の加減として、いわば「解釈」されたものになる。発想表示や奏法の指示についても同様であり、実際にはMIDIファイルの作成には、演奏そのものではないにしても、具体的にどのように音響的に実現をするかについての「解釈」が含まれるのである。それはMIDIファイルの作成方法として、実際にMIDIキーボードで人間が演奏したものを記録するやり方があることを考えれば明らかなことであろう。楽譜上、音符で表記される音の高さ・相対的な長さは基本的には楽譜に準じた入力がされると見做していいだろうが、長さの変化について、同一の長さで入力速度を増減するのではなく、そもそも微妙に音価の異なる音符として入力することも可能であり、目的によっては全く差し支えないだろうし、拍子の情報、調性の情報はあくまでも参考情報に過ぎず、存在しなくても音響的な実現には影響しないのである。
前節で述べたMIDIファイルのデータとしての信頼性が、ここでの目的にMIDIファイルを使用するという観点に限定されたものであることを強調したのはそのためであり、結果としてMIDIファイルの作成の仕方によって大まかに向き不向きが存在し、シーケンサソフトを用いて入れる場合で、楽譜に忠実な入力の仕方がなされた場合に限り、ここでの分析に利用できるということになったのは既述の通りである。そして楽譜の代替と見做してMIDIファイルのデータを用いる限りにおいて、そのデータは(本来は)確定的であり、作品の「あるべき姿」についての情報であることを前提に集計・分析が行われることになる。そうした見方が可能なのは、ここでの分析の対象が演奏やMIDIファイルの作成といったリアライズにおいて差異が生じうる特徴量についてではなく、和音というリアライズに依らず保存される筈の情報であるが故であって、本質的には音響的実現そのものではなくて(なぜなら調性とか拍子というのは、既に見たように、音響的実現を保存し再現可能にする方法としてのMIDIフファイルにとっては不要なものだから)、実現される音響の背後にある、或る種の「構造」を取り出そうとしているからに他ならない。
この点に関連して、内井惣七『ライプニッツの情報物理学』には「休憩室」と性格づけられた「モナドロジーと音楽」という章がある(pp.195~204)が、ここでは音楽作品(楽譜)とその作品の演奏との関係において、モナドロジーとのアナロジーが成立していることが指摘されている。そのアナロジーに従うならば、作曲者によって設計された音楽作品の楽譜として書き留められ、それが音響的に実現されたときに、その具体的な実現による影響を受けずに「変わらない構造」とされている「状態遷移の順序と他の声部との対応関係」に相当するものが本分析の対象であるという対応関係を認めることができるだろう。勿論、現実のMIDIファイルには入力ミスが存在しうるが、それは演奏において生じうるミスよりも寧ろ、楽譜に含まれうる誤植の対応物と考えるわけである。いずれにせよ、ここで重要なのは、分析の対象となる音楽作品は確定的なものであって、その構造は楽譜として記述されているという見方を採っていることである。
一方で、和音単独の出現頻度の分析を終えて、和音の状態遷移パターンの出現震度や遷移確率が対象となると、分析の枠組みがマルコフ過程のような確率的な過程としてモデル化されているが故に、上述のような確定的過程として捉えようとする立場と齟齬を来すことが起きるようになる。それが最も明確に現れるのはマルコフ過程としてのエントロピーを求めようとしたときで、MIDIファイルから抽出した和音の系列の状態遷移マトリクスを作成した上で、状態遷移マトリクスから定常分布を求めるという手順を踏むのだが、定常分布の存在は過程がエルゴード的であることを前提としている。だが、ここで対象となっているタイプの音楽作品の過程についてエルゴード性が成り立っているとは考えにくい。更に定常分布の計算は、その元となる状態遷移マトリクスが現実の過程の一部分をサンプリングしたものであることを前提とし、それがいずれ一定の確率分布に収束することを前提にしているのに対し、ここで状態遷移マトリクスを作成するために用いた和音の系列は、対象となっている音楽作品の全体についてのものだし、その状態遷移過程は、それが楽譜に書いてある通りの正確なものであるならば確定的である筈ではなかったか。実際にMIDIデータから抽出した状態遷移パターンをもとにエントロピーを計算しようとすると、定常分布がある特定の状態に収束してしまうことがしばしば生じたが、例えばピカルディ終止のようなものを思い浮かべれば、それが必ずしも例外的ではないことがわかる。
それでは音楽作品の分析のモデルとして確率的な過程を用いるのが不適当なのかと言えば、そうではない。上記の議論はあくまでも本分析の枠組から見た場合に限定のものであり、MIDIファイルの作成が、楽譜を作成するよりは寧ろ楽譜の内容の実現としての演奏に近いという点を踏まえるならば、MIDIファイルのデータを分析するより一般的な枠組みとしては寧ろ適切なものである筈である。例えばトーマス・パー、ジョバンニ・ペッツーロ、カール・フリストン『能動的推論 ――心、脳、行動の自由エネルギー原理』(乾敏郎 訳, ミネルヴァ書房, 2022)の第7章 離散時間の能動的推論 では、「離散時間のカテゴリ変数のモデルに焦点を当て、知覚処理、意思決定、情報探索、学習、階層的推論などのモデルを、簡単なものから複雑なものへと一連の例を通して説明する」(同書, p.137)手始めの簡単な例として、音楽の演奏を聴くことが採り上げれられる。それは完全な部分観測マルコフ決定過程( POMDP, Partially Observable Markov Decision Process)の特殊なケース、選択や行動を無視できるPOMDPの特殊なケースとして取り上げている。
「楽譜に書かれている音符の系列は、隠れ(観察されない)状態であり、我々が実際に耳にする音符の系列は、(観察可能な)成果であると考えられる。演奏者がプロの音楽家であれば、隠れ状態と成果の対応は極めて近いものになるだろう。しかし、アマチュア音楽家であれば、演奏されるべき音から聞こえる音への(尤度)マッピングには、ランダム性が加わるかもしれない。また、このシナリオでは、それぞれの音が他の音に先行または後続する確率に関する事前の信念があれば、どの音が聞こえたかをより正しく推論できるかもしれない。」(トーマス・パー、ジョバンニ・ペッツーロ、カール・フリストン『能動的推論 ――心、脳、行動の自由エネルギー原理』, 乾敏郎 訳, ミネルヴァ書房, 2022, pp.137~8)
ここで「我々が聴いている音楽がアマチュア音楽によってどのように生成されるかに関して我々が持つ信念の記述」(同書, p.139)として定式化されるHMMモデルは以下の要素からなる。
- 尤度:音楽家が意図した(隠れ状態である)音をどれだけ正確に演奏(成果)できるかを決める、ある状態(列)からある成果(行)が得られる確率を表す行列。
- 遷移確率:現在の状態(列)から次の状態(行)になる確率
- 初期状態に関する事前信念:系列の初期状態(事前確率)
そしてこの例は、以下のように位置づけられる。
「上述のHMMモデルは、一連の成果に基づく非常に簡単なカテゴリ推論の例を示している。しかし、このモデルで表現されているような(動かない)生き物は、あまり面白くない。自律的な生き物は、感覚データを受け取るだけの受動的な存在ではなく、能動的に環境を変化させ、感覚中枢と双方向のやりとりを行っている。このことは、HMMをPOMDPに変換することの重要性を物語っている。POMDPでは、環境がどのように変化しているかだけでなく、自分の選択した行為系列が環境をどのように変化させるか、そしてどの行為系列を選択すべきかを推論しなければならない。」(同書, p.141)
上記の内容を、MIDIファイルを用いた分析に適用してみたらどうなるだろうか?MIDIファイルの作成方法のうち、MIDIキーボードの演奏記録は、ほぼ上記の演奏を聴くケースそのものであり、MIDIシーケンサを用いたDTMの場合もアナロジーで捉えることが可能そうである。(或る種の演奏解釈が提示されていると考えていい。実際に「理想の」解釈を実現する意図をもって作成されている。逆にそうであるが故に、楽譜上の情報のどの部分が重視されるかに関して、ここでの分析を目的とした場合に比べて、少なからぬ乖離が発生することになる。)
従って、実はMIIDIファイルを用いた分析は、MIDIファイルの作成過程も含めた全体を捉えた場合には、寧ろ隠れマルコフモデルで定式化する方が適切ではないだろうか。演奏で生じうるミスをあらかじめモデルに組み込み、現在の状態から次の状態を予測し、実際に観測された状態が予測と異なる場合にはそれが誤りであるかどうかを判定する、という動的なベイズ推論過程として捉えることが可能であり、人間が演奏を聴く行為のアナロジーとしてMIDIファイルを読み込んで分析を行う「機械」を考えることができる。そうした視点に立った場合、本ブログで行ってきた分析は、そうしたより一般的なモデルの一部分を取り出し、目的に応じた集計・分析がすぐに実施できるように、幾つかの仮定を置いた単純化を行い、変形したものと位置付けることができるだろう。
そうしたより広く全体を捉えたモデルを押し広げていくと、楽譜とその実現と実現されたものの享受(聴取・分析を含む)のフェーズだけではなく、楽譜の作成のフェーズ、つまり創作のフェーズをもモデルに含めることが考えられるだろう。再び内井惣七の『ライプニッツの情報物理学』におけるライプニッツのモナドロジーと音楽のアナロジーを参照するならば、モナドの世界を設計し作り出すのは合理的な神であるのに対応して、楽譜を設計し作り出すのは作曲者であるということになる。マーラーは自らの創作を「手持ちにあらゆる手段を使って一つの世界を構築すること」と語ったが、マーラーの作品の楽譜は、まさに実現されうる世界の設計図であり、その不変の構造を書き留めたものであるということなるであろう。また、そうしたより広い全体を捉えたコンセプトとして、三輪眞弘さんの「逆シミレーション音楽」における音楽の3つの相があるが、そこでの「規則の生成」と「解釈」の部分を、ここで得られたモデルを経由して、ライプニッツのモナドロジーと対比させることは興味深い作業となるように思われる。
そしてそうしたモデルの拡大の行き着く先は、シュトックハウゼンがアンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝に寄せた序文で書いている、地球外からやってきた宇宙人がマーラーの音楽を通じて「人間」を理解するために行う分析をも包括するようなそれであろう。ここでの観点からすると、シュトックハウゼンの発言は、「非人間的なもの」の地平において、マーラーの作品という「出力」から、そうした「出力」を行う能力のある「機械」が、一体どのような構造を備えていなくてはならないかを推測する、といったアプローチを示唆している点で興味深い。そこでは機械対人間(を含む非機械としての生物)の単純で粗雑な二分法は無効化されていて、寧ろ、その両方を包含するような、より一般的な「オートマトン」からなるシステムを記述しうるモデルが要請されているように見える。逆に「地球」=「大地」をその外から、宇宙の側から眺めるようなアプローチ(その先蹤は、アドルノのマーラー・モノグラフにおける「大地の歌」についてのコメントに見られる)によって「人間」を捉えようとした時に浮かび上がるのは、機械対生物という図式が両者を区別する根拠としているレベルとは異なる水準で、「人間」が単なる「生物」と区別されるためのシステム的な構造の条件についての問いではなかろうか?
- クラスタ分析(階層クラスタ分析/非階層クラスタ分析)
- 主成分分析(標準化の有無)
- 因子分析(回転の有無)
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