2024年1月3日水曜日

なぜそこが心を打つか?―嗜好と分析の狭間で―第5交響曲第2楽章の対比群の再現を通じて「決定的瞬間」について考える(2024.1.3更新)

 マーラーの音楽には、「決定的な瞬間」というのがあるように感じられる、というのはマーラーを聴き始めて以来、ずっと抱き続けてきた印象である。それは必ずしも楽曲のクライマックスであるわけではなく、楽式論上想定される構造上の要所というわけでもない。「決定的な瞬間」という言い方からは、アドルノが聴取の類型論でいけば差し詰め教養消費者の特徴とされる小間切れ的聴取、自分で美しいと思い込んでいるメロディとか圧倒的な瞬間とかを待ち受けているフェティシズムを直ちに思い起こされるが、それ以外の特徴においては、寧ろ、情緒的聴取者の規定に寧ろ接近しているようにも見える。自分の本能を解き放ってくれるものとしての音楽、いわゆる「お涙頂戴」の見せ場で、注文通り涙を流すことで、実生活では諦めざるをえない代償を得ようとする聴き方であるという嫌疑が生じるであろう。
 だが具体的にその「決定的な瞬間」のサンプルを検討してみると、どうやらそんなに単純なことでもなさそうだということに気付かされる。それは、口笛で吹かれる(デジタル・エイジの今時なら、着信のメロディーにでもするのだろうか?)「あの」有名な旋律といった類型とはまず無関係な箇所だし、他方においては、例えばアドルノが提唱したカテゴリ、「突破」「停滞」「充足」「崩壊」といったものの典型というわけでもない。(とはいえ、そのうちのあるカテゴリとの関連が深いといった特徴は、結果的には見いだせるかも知れないが。)類型論上は構造的聴取で意識的に把握されるような、形式的な構造連関の結果、前後の脈絡の中での機能といったものがその瞬間の「決定的」であるという印象を産みだしているようにも思えるのである。ただし、最初にまずそうした直観的な感じがあって、分析は後からついてくるから、そこだけ取れば、エキスパートというよりは「良き聴取者」の聴き方に近いかも知れない。
 とはいえ、私は音楽への知的なアプローチは、あくまでも副次的なものであり、Overcoming depression without drugs : Mahler's Polka with Introductory Funeral March, (Author House, 2012)の中で著者のSnyderが述べているような、音楽療法的なものを求めてマーラーを聴いている側面は恐らく無視できないし、そうした聴き方においては、「決定的」というのは、そこで自分の内部状態が極めて強い作用を蒙るということを概ね意味していようから、基本的にはLeonard Meyerいうところの表現主義者側にいることは間違いなく、それゆえアドルノの(そこだけはハンスクリック以来の)形式主義的で、知的な把握・理解を優位におく立場とはどのみち相容れない。下品といわれようが、音楽の「本質」なり音楽「そのもの」から離れて、自分の読み取りたいものしか読もうとしない態度と謗られようが、あるいはまた、結局は「治癒」効果という別の価値基準で音楽を測っているに過ぎないことを断罪されようが、それらが現実なのであれば言い訳をしても始まらないし、しかもここでいう情緒的な聴き方というのは、実際には形式が聴取の過程で引き起こす、聴き手たる自分を掻き乱す強い「流れ」については必ずしも無意識というわけではないから、アドルノの聴取類型にはどのみちうまく収まりそうにない。結局、類型というのは所詮は類型であって、現実をそれに合わせて無理やり整形してしまうのは、少なくとも聴取の現象学からすれば本末転倒も甚だしいということなのであろう。

 だがそもそも、そうした議論の手前の部分で、それは個人的な「嗜好」の問題であって、その嗜好の形成に原因があるにせよ、そんなものを探ってみたところで意味がないのかも知れない。治癒的な効果をもたらす音楽は、Synderさんがはっきりと明記しているように、一般には人それぞれだろう。それは結局、マーラーの楽曲そのものへのアプローチにはちっともならず、その手前で、アドルノが揶揄する教養消費者よろしく、どの演奏がより感動的かといった基準で採点をするような聴き方と変わるところがないのかも知れない。それは聴き手について何か語ることはあっても、マーラーの作品に対して何か寄与するところがある訳ではなく、まさに単なる消費に過ぎないということになるだろう。
 そしてもし「嗜好」であるならば、別のところでも書いた通り、その「嗜好」に変な理屈を纏わりつけて、如何にもそれが何か客観的な正当性を持つかのような言辞を弄する愚は冒すべきでないだろう。考えてみれば、人により感動する箇所、好きな箇所が異なるのは当然だし、それを比較してみても始まらない。机の叩き合いにしかならないのは勿論だが、それよりも、比較の結果得られるものというのがどういう価値を持つのか、極めて疑わしいものにしかならないのは仕方ないことのように見える。

 けれども、そうしたことは承知の上で、それでも「決定的な瞬間」があることは主観的には疑い得ないことだし、それがどういう理由で起こるのかを突きとめてみたいという欲求は残る。そうした欲求の由来を更に詮索することの方はともかく、理由の探求の方について言えば、何か客観的で一般的なものに辿り着くことはなくても、そうしたものを抽出するための素材となる膨大な事例の一つ、統計的なサンプルの一つとしては、なお意味がなくもないだろう。結局のところ、自分が受け取ったものに価値を認めるのであれば、それが主観的な思いこみであり、それ自体に価値を見出すことができなくても、というよりは寧ろそうであるのであれば尚一層、「私はこうしたものと受け取った」という証言をすること以外に、贈与に対する応答の方法はない。贈与の経済において収支が如何に不均衡であり、最終的な破産を延期することについて何ら寄与することが期待しえずともなお、応答はすべきなのだ。アドルノはマーラーの音楽が落伍者に手を差し伸べるといったことを言っているが、差し伸べられた手を掴むこと、そうした匿名の手があったことがドキュメントとして残ることに一縷の意義を認めるというのでなくて、どうしてこの「世の成り行き」をやり過ごすことができようか。
 実際、一旦マーラーを聴くのを止めて後、再びマーラーを聴き始めた時に、コンサートホールに赴いてマーラーの作品を聴くことをも再開することについては尚、躊躇いがあった、否、実を言えば、今なお躊躇いがある理由の一つは、誠に恥ずかしいことに、聴きたいと思う曲であればあるほど、聴いたときの自分の反応が怖くて、公共の空間で周囲にご迷惑をおかけすることへの懸念からなのだが、それはまさにこの「決定的瞬間」にぶつかった時のことを想像してのことだった。だが、そういう経験がなければ、いわゆる感動もなく、時間を使って(つまり、他の何かを犠牲にし、諦めて)コンサートホールを訪れる意味もない。それゆえ、再びコンサートを聴くようになってからは、いつもかなり苦労して乗り切るのだが、強い感情的な波に晒されてくたくたになりはしても、私の場合、マーラーの音楽を聴いて得られるカタルシスは、それが優れたものであれば比喩的なものではなく、まさにそのものずばりなのだ。そうした演奏の記録の一方で、「決定的瞬間」について記さないのは、どこか片手落ちのような気がするのである。

 とはいうものの、私個人の聴取に関しても、ここで「決定的瞬間」の網羅的なリストを提示することは難しい。ここではそのうちの1つ、偶々ごく最近実演に接する機会があって、その「決定的瞬間」の持つ力を改めて確認した箇所についてのみ記録することにしたい。(そもそも他のそうした瞬間の幾つかは既に、別の機会に言及していることもある。)

 具体的な記述の前に、もう幾つか断り書きをしておきたい。それはまず(1)ここで「瞬間」と言っているのが、抽象化された、数直線のアナロジーで語られる時間図式における点としての瞬間のことを意味しないということである。そればかりか、現象学的な内的時間意識の分析における、第一次の過去把持・未来予持を含めた「幅のある現在」ですら、それを心理学的に了解した場合のそれとも違う。それは寧ろ、その前の音楽的な出来事と後続する音楽的出来事に挿まれた、一定の持続を持つ部分のことを意味しており、内部構造すら認められる。それでも瞬間という言い方をあえてしたいのは、それが音楽的出来事の中で、ある種の転換点、相転移が生じる箇所であるからであり、いわば「もはやそれまでと同じではない」「もう後戻りができない」という非可逆的な出来事の出来そのものだからである。しかも私がここでいう「決定的な瞬間」は、時間論的な性格上、そのようなものと思われるにも関わらず、アドルノのカテゴリーでいう「突破」ではない。「停滞」ではないのは勿論なのだが、心理的により近いのは「充足」かも知れない。アドルノのカテゴリーは、少なくともそれが提示されたモノグラフにおいては、例示があり、伝統的な形式との類比はされてもなお、定義が十分に為されたとは言い難い(それは、そのカテゴリーを多少なりともフォーマルな分析に応用することを企図した人であれば、恐らくは必ずやぶつかるであろうと思われる)が、それらを手掛かりに検討してみても、その一部の性格付け(たとえばバール形式におけるBの出現といったような、ある種の補償作用の如き性質を帯びている点)において共通性があるように思われるものの、総体としては、やはり「充足」とも一致しないのである。さりとてもちろん伝統的な楽式論における特定の部分との対応があるわけでもないし、「決定的瞬間」に共通する特徴を抽出しようとしてみたところで、一見した限りでは、それらの間に例えば旋律的、リズム的な類似があるわけでもなさそうである。(今時なら、だまって深層学習をさせてみるというのは考えられるだろうが、あいにくサンプル数が少なすぎて、こんな特殊な事象は統計的な処理にそぐわないだろう。)
 このように否定的な書き方を続けていくと、(2)「決定的瞬間」というのはやはり主観的な恣意に過ぎず、単に私という一人の聴き手が、様々な環境的な要因により強く心を掻き乱される部分にラベルづけしたに過ぎないと思われるかも知れない。しかもここでいう環境には、音楽外的なそれや、音楽外の体験と音楽との連想的な結びつきといった、全く恣意的ということはなくても尚、多分に偶然的なファクターを含むものも含まれるのだとしたら、それは(クセナキスがヴァルガとの対談において自分が幼少期に聴いた音楽について言うとおり)「音楽を聴いているのではな」いし、音楽に感動しているとさえ言えない(寧ろ、そうした連想が引き起こす記憶の方が引き起こす情動が問題になっている)かも知れない。だが、ここで言う「決定的瞬間」はそうした音楽外的連想とは第一義的には無関係である。それはあくまでも「音楽的内容」に対する聴き手たる私の反応なのであって、その意味合いでは純音楽的と言って良い。マーラーの場合にはしばしば歌詞という形で言葉が介在する場合があるが、そうした「言葉」の影響とも、第一義的には独立であると言えると思う。
 他方でそれは、(3)ある演奏の聴取でしか起きない偶然的なものであるということはないのか、という問いに対しては、必ずしもどんな演奏でも起きる訳ではないし、録音媒体に記録された演奏の聴取において可能である、繰り返しの聴取において、必然的に常に惹き起こされるものとまでは言えないが、それは演奏解釈の側の多様性や、聴取のその都度における聴き手という系の内部状態の多様性によるものであって、そうした多様性にも関わらず、比較的安定して、強い情動的反応を誘発することを思えば、それは楽譜という形式でデジタル・アーカイブ化された「作品」がそれ自体の構造の中に含み持つ契機に由来するものであると言って良いように思う。
 というわけで、そうした「決定的瞬間」に対するアプローチは、それが完成した折には、二重のものになるだろう。つまり一方には(a)作品の構造的な分析によるアプローチがあり、他方では(b)聴き手(実際には演奏者も含むことに留意すべきだろうが)の情動的な反応が惹起される過程についての分析によるアプローチがあって、それらが結びつくことになるだろう。だが現実には、前者についてはある程度、既に使える道具立てがあるものの、後者については、まだそうした研究は発展途上にあるというべきだろう。従って、そうしたアプローチの第一歩としては、(a)(b)の両方を含むとはいえ、そのバランスは極端に(a)の側に偏向したものにならざるを得まい。

 さて、ここで取り上げたいのは、ソナタ形式の第5交響曲第2楽章の再現部のうち、対比群(第2主題)の再現が行われる場所である。既述の通り、実際には録音でもそういう演奏にあたることはなかなかないのだが、356小節のEtwas langsamer (ohne zu schleppen)以降、392小節のNicht Schleppenに至る部分が私にとって一番聴いていてきつい部分である。上手く言えないが、自分の中で蓋をして来たものが、音楽に呼び出されて溢れ出て来てしまう感じがするのだ。実を言うと、上記の切り出し方は、「決定的な瞬間」の指示としては、やや範囲を広めに取った言い方で、本当にきついのは練習番号21番の1小節前、371小節から始まる部分以降、もっと言えば、ヴィオラが旋律を弾き始めて、第1ヴァイオリンが途中から引き取ってフレーズを弾き終える箇所(378小節)で、自分の内側の何かが壊れてしまったような感覚に襲われて、そのあと後半のフレーズを引き続きヴァイオリンが弾き始めるとどんどん緊張が高まっていって、392小節に至る経過というように限定した方が適切かも知れない。だが、こうした範囲指定の曖昧さは、一つには楽式論的な区切りを意識したものであるけれど、私見ではそれ以上に、そうした「決定的な瞬間」が前後のプロセスあってのものであり、従ってどの範囲を切り出すかについてはある程度の幅が出てきてしまうという事情が与かっているように思われる。

 というわけで前後を見てみよう。するとまず言えるのは、後続する392小節以降が、先行する第1楽章の第1トリオの「再現」だということである。この第5交響曲の第2楽章は第1楽章の葬送行進曲と動機的には強い連関を持つし、その「再現」なら既にある(例えば練習番号15以降)。そもそもソナタでいう第2楽章第2主題にあたる対比群の素材は、第1楽章第2トリオから取られているのは明らかであろう。でも第1トリオの方は、ここで一瞬だけフラッシュバックするだけである。第1部全体の構造上は、だからここはある種の特異点と言って良い。そしてその特異点に至る手前の部分が「決定的な瞬間」にあたることになっているのである。

 繰り返しになるが、楽式論的には、356小節以降というのはソナタ形式をとる第2楽章における再現部の第2主題部(対比群)の再現部分に相当する。調性の点からすれば、ここは提示ではヘ短調だった。(調性格論的にヘ短調が何を意味するかは、例えばペルゴレージのスターバトマーテルを思い浮かべれば十分だろう。マーラーの他の曲でもヘ短調というのは、やはり一定の性格を持たされていると言えると思うが、ここでは本題から外れるので、その点についての詳細は割愛することにする。)再現部ではどうかというと、実はヘ短調になるのは、既述の第1楽章第1トリオのフラッシュバックが起きた後の練習番号23からなのだ。そしてここまで来ると、気分的にはやや沈静化する(とはいえ、すぐに、またしても対比群の旋律が戻ってきて、もう一度緊張が強まり、Wuchtigに至って、変ホ短調にまで「落ち込む」というのが、大まかな調的なストーリーである。これはフローロスが簡潔に述べていたと思うが、この対比群の再現は、ホ短調から途中でヘ短調を経て、変ホ短調へと推移するプロセスでもある。そういう文脈に「決定的な瞬間」が存在するわけである。

 だが私が「しんどさ」との関連で指摘したいのは、そのこと自体というより、356小節からの対比群自体が持っている性格の方である。対比群再現の冒頭部分、ヴァイオリンがG線を使って、しかも弓替えを激しく行って、非常に強く弾くことが要求されている。これもマーラーでは良くあることだが、対比群に関しては、寧ろ、ここでやっと前面に出てきて、正体を現しているいるような感じがあるように思うのである。それはアドルノの指摘する「未来完了的」な提示(マーラーについてのモノグラフの最終章でアドルノが指摘するのは第9交響曲第1楽章の主要主題の構造自体に関してであるが、ここではそれを「回顧的に聞くことによってはじめて完全に明らかになる」という指摘を受けて、主題そのものの構造を超えて、ソナタの楽式全体にまで拡張することにした上で)、最初の提示は寧ろ主題の暗示であり、再現においてその本来の姿が提示されるというようなあり方の一例ということになろうか。
 そして、そのことを「裏付ける」という言い方をしたいのが、まさに「決定的な瞬間」の部分で、これは正しい聴き方かどうか自信がないのだが、対比群は、提示部以降、ずっとその「前半だけ」が出現し、後半のフレーズはその途中で次のブロックへの推移の性質を帯びてしまい、後半フレーズが最後まで弾かれることがなかったのが、ここに至ってやっと、371小節からヴィオラが弾き始める後半フレーズの前半(の更に前半)だけではなく、ヴァイオリンが引き取って、今度こそ途中で推移的にならずにフレーズをカデンツまで弾ききり(これが378小節)、その後にはずっと押さえつけていた後半の後半が初めて姿を現したような、そんなように私には聴こえるのである。
 更にこの「決定的瞬間」の「しんどさ」に多分に影響があるように思っているのは、ヴァイオリンの旋律の音符一つ一つにつけられたクレシェンド・デクレシェンドの指示で、これを忠実に、身をよじるように弾きながら全体がどんどんクレシェンドしていくというプロセスが、初めて、構造的にはソナタ楽章の外部であり、第2楽章それ自体が知らない自分の来歴、「大過去」形で語られるべき記憶であるところの第1楽章第1トリオのフラッシュバックを惹き起こす程に緊張を高めていく。

 ということで「しんどさ」についての現時点での私の「理由づけ」は、対比群については、実は(アドルノ風には未来完了的に、ということになろうが)再現部こそ真の提示部であり、今までは抑え込まれていた後半部分が、ここに至って初めて、堰を切ったかのように一度きり姿を見せることによって、強い情動的な働きかけが生じるというものとなる。分析としては間違っているかも知れないし、幸いそうでないにしても、これが唯一の解釈だというつもりも全くない。突き詰めれば冒頭述べた通り、単に私にはそのように聴こえるということに過ぎない。

 ここでは紹介しない他の「決定的な瞬間」についても同じことが言えるように感じるのは、マーラーの「再現」の恐ろしさ、それが聴き手にもたらす、時としてそれ自体がトラウマになりそうな程強い情緒的なバイアスである。繰り返しを厭わず言えば、「決定的な瞬間」においては、相転移が生じ、最早、それは単なる繰り返しとしての再現ではないこと、寧ろ、もはや元のようではない、音楽がもう引き返せないところまで来てしまったということを告げているが故にそうした強烈な情緒的な負荷が生じるのではなかろうか。勿論、第5交響曲のこの部分もその例の一つであって、そうしたメカニズムについて言えば、それは他の「決定的な瞬間」と少なくともある部分までには共通するように思えるのだが、それを実際に例証する作業は別の機会に譲ることにしたい。ただし一点だけこの点について指摘しておきたいのは、こうしたメカニズムを支えている技術的な要素として、アドルノ指摘する「ヴァリアンテ(変形)」の技法が挙げられることである。私が上記のように謂わば「描写」した「再現」の恐ろしさは、アドルノがヴァリアンテの技法と時間性との関わりについて述べる以下の一節と対応づけられるように思われるのだ。
「彼のヴァリアンテは、時間を静止させるのではなく、時間によって生成し、さらにまた二度と同じ流れに乗ることはできないということの結果として、時間を生産するのだ。マーラーの持続は力動的である。彼の時間の展開のまったく異質なところは、物まねの同一性に仮面をかぶせるのではなく、伝統的な主観的力動性の中になお一種の物的なもの、つまりは以前に措定されたものとそこから生じたものとの間にある硬化した対照性を感じ取ることによって、時間に内側から身を任せることにある。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.128)
だがこの点について検討し、更にこの点を、本稿でとりあえず「決定的瞬間」という「感じ」の「理由づけ」として「未来完了性」と関連付けて論じるとなると、この文章をスコープを超える作業となるので、それについては後日、別のところで行う宿題として、今は指摘に留めざるをえない。しかしながら彼の「再現」が文字通りの「反復」ではなく、「ヴァリアンテ」がもたらす対照性の効果によって、それが二度と戻ることのない過去に「かつてあった」ことがあり、今やそこから遥かに時間が経過したという決定的な感じを与えることで聴き手を震撼させ、戦慄させ、軽い恐慌状態にすら至らしめるということは言えるのではないかと思う。

 最後に演奏に関して一つ付け加えることがあるとすれば、ここに限らず、マーラーの場合、受動性が露わになる瞬間というのがあって、隅々までコントロールされた演奏より、ある種の弱さというか、「流されてしまう」ような感覚が必要なように思えるということだろうか。抑えて来たものが溢れだすというのは、どちらかというと制御不能だということで、制御不能を「演出する」のと、本当に制御不能になって(といってもこれは音楽が空中分解して崩壊してしまうという意味ではなく)寧ろ音楽に身を任せるような感覚と、どっちもありなのかも知れない。演奏について言えば、プロなら前者もあり(でも、これはかなり難しいし、最後の所でずれが残る懸念は残るが)、アマチュアだと後者が、うまくするとそれと意図しなくても自然に出現するように思われるのである。
(2018.7.22初稿, 2020.6.18追記,2024.1.3ヴァリアンテについて付記)

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