お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2008年2月11日月曜日

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」の題名に関するコメント

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」の題名に関するコメント(アルマの「回想と手紙」原書1971年版pp.168--169, 白水社版邦訳pp.162--163)
Den ganzen Sommer arbeitete er fieberhaft an den Orchesterliedern, mit den von Hans Bethge übersetzen chinesischen Gedichten als Texten. Die Arbeit vergrößerte sich unter seinen Händen. Er verband die einzelnen Texte, machte Zwischenspiele, und die erweiterten Formen zogen ihn immer mehr zu seiner Urform - zur Symphonie. Als er sich darüber klar war, daß dies wieder eine Art Symphonie sei, gewann das Werk schnell an Form und war fertig, ehe er es dachte.
Es Symphonie zu nennen, getraute er sich aber nicht aus dem Aberglauben, den ich schon angedeutet habe; und so glaubte er, unsern Herrgott überlistet zu haben.
All sien Leid, seine Angst hat er in dieses Werk hineingelegt: » Das Lied von der Erde « ! Es hieß im Anfang: Das Lied vom Jammer der Erde.
この文章はアルマの「回想」の1908年夏の章の始まってすぐに出てくるものであるが、ここでは最後の文章で「大地の歌」の題名についての言及がなされている 点が特に注目される。1971年版では脚注がついていて、このタイトルと第1楽章の最終的な曲名との関連に触れているが、この点は全曲の構想を考える上で、 示唆的であるように思われる。
一方、近年研究が進んでいる実証的な草稿の調査結果を含めて題名のプランの変遷を辿ると、"Die Flöte der Jade"「翡翠の笛」(de La Grangeの伝記第3巻p.1123参照)、"Das Trinklied von der Erde"(これはSusanne Villの"Vermittelungsformen verbalisierter und musikalischer Inhalte in der Musik Gustav Mahlers"のp.155が詳しい)などの形態もあったようだ(Danuserのモノグラフのp.26参照)。
最初のものはde La Grangeも言及しているように、Bethgeの詩集の源泉の一つであるユディト・ゴーティエの詩集の題名(「翡翠の書」)を思わせるが、それをマーラーが知っていたかはともかく、かつてDer Pavillon aus Porzellanが「誤訳」に基づくものであるという考証が為され、それなりに話題になったことが思い出される。誤訳は紛れもない事実なのだろうし、陶器の亭というイメージの非現実性もその通りには違いないが、それを言い出せば「翡翠の笛」だって劣らず不自然には違いなく、要するにマーラーの想像力の領域におけるイメージの体系を受け止めるにあたっては、そうした実証的な事情は大きな意味を持たないということを告げているように思われてならない。
一方"Das Trinklied von der Erde"の方は、"Das Lied vom Jammer der Erde"と丁度対をなすように、これもまた最終形態における第1楽章の題名と関連している 点が興味深い。草稿ではTrinkという語が後で書き足されたような形跡があるようだが、開始調の同主調を取る第5楽章がこれまた酒にちなんだ題名を持っていることや、第5楽章のみ成立過程がわからないことなどを考えると、色々と想像力をかき立てられる。いずれにせよ最終的には重心の移動が起こり、JammerもTrink-も冒頭楽章の題名に収まり、全曲はそれらなしの» Das Lied von der Erde «になったわけである。(2008.2.11)

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」作曲のきっかけに関するコメント

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」作曲のきっかけに関するコメント(アルマの「回想と手紙」原書1971年版pp.151--152, 白水社版邦訳p.144)
Vor Jahren hatte ein lungenkranker alter Freund meines Vaters, der seine ganze Liebe jetzt auf Mahler übertragen hatte und an nichts anderes dachte als daran, für seinen Liebling Liedertexte und Anregungen jeder Art zu finden, ihm die neuübersetzte » Chinesische Flöte « gebracht (Hans Bethge). Diese Gedichte gefielen Mahler außerordentlich, und er hatte sie sich für später zurechtgelegt. Jetzt - nach dem Tod des Kindes, nach der furchtbaren Diagnose des Arztes, in der schrecklichen Stimmung der Einsamkeit, fern von unserem Hause, fern von seiner Arbeitsstätte ( die wir geflohen hatten ), jetzt überfielen ihn diese maßlos traurigen Gedichte, und er skizzierte schon in Schluderbach, auf weiten einsamen Wegen die Orchesterlieder, aus denen ein Jahr später » Das Lied von der Erde « werden sollte !
「大地の歌」の成立に関する混乱は、アルマの「回想と手紙」の上掲の記述に起因するようだ。これの真偽については諸説あるようだが、現時点では、ベトゥゲの詩集の最初の出版が1907年10月5日であるという記録から、マーラーが詩に出会ったのが1907年であったにしても、それはその年の夏の休暇の間のことではないし、1907年の夏にシュルダーバッハでスケッチが開始されたというのはありえないというのが一般的な見方のようだ(例えばHeflingのモノグラフのp.31を参照)。
アルマの回想の次章は「秋 1907年」と題されるが、そういうわけで1907年というのはアルマの(あるいは故意の?)記憶違いであったとしても、その一方で大地の歌の作曲がまさに「秋」の雰囲気の中で始められたということは間違いではないようだ。残された草稿の日付から推測するに、マーラーは恐らく第2楽章を最初に書いたらしいからである(1908年7月)。そしてその後の急速の作曲の進展の方については次に紹介するアルマの「回想」の1908年の章の記述の通りで、およそ6週間のうちに次々と6つの楽章の草稿が産み出されたようである。
ところで、その草稿の成立順序が完成した作品での楽章順と一致しないのは、一般には不思議でもなんでもないのだが、こと「大地の歌」については、その構成を死の受容のプロセスとして捉える考え方もあるのであれば、寧ろこの不一致にこそ人生と芸術の微妙な関係を見るべきなのではなかろうか。それをどの程度重視するかはおくとして、草稿の日付の順を書いておくと、日付のない第5楽章を除いて2-3-1-4-6とのことである(Heflingのモノグラフp.35の記述、またpp.47--48の表2も参照)。勿論、残された草稿の日付が何を物語るかについては慎重であるべきで、それとマーラーの心の中で起きたプロセスもまた、単純に同一視すべきではないかも知れないが、いずれにしても、(あるいはそうであればなお一層)、完成した作品の持っている内的な論理と創作のプロセス、そして「死の影の谷」を通過する心的なプロセスとの間の関係を解き明かす作業がそんなに単純ではないことを、この事実は物語っているように感じられる。(2008.2.11)

2008年2月10日日曜日

アルマの「回想と手紙」に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書pp.212--213, 白水社版邦訳p.213)
Mahler hatte die Gewohnheit, einen Einfall, der ihm besonders gefiel, Tage, Wochen, ja oft Monate lang ständig zu wiederholen, darüber nachzudenken und mit vielen Varianten darüber zu sprechen. So sagte er jetzt immer wieder : » Alle Geschöpfe in der Natur schmükken sich unausgesetzt für Gott. Jeder Mensch hat also nur eine Pflicht, vor Gott und den Menschen so schön als möglich zu sein in jeder Weise. Häßlichkeit ist eine Beleidigung Gottes ! «
最初に読んだときに特に印象に残ったわけではないし、現時点でもこの言葉そのものが特にマーラーの言葉として意義深いものであるようには 感じていないにも関わらず、あえてこの言葉を取り上げたのは、この言葉を紹介するにあたりアルマが触れているマーラーの「癖」を考えた時、 別のところで紹介したジルーのアルマについての小説に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉が、もしかしたらそうしたヴァリアンテの一つではなかったか、という気が したからに過ぎない。意味合いもニュアンスもかなり違うから全く見当外れかも知れないが。(寧ろ、言葉遣いの上からは、かの有名なプロテスタントのコラールの 題名が呼びさまされるように感じられる。)
ちなみにこの言葉をマーラーが弄くりまわした時期というのは、アルマの回想の叙述上、 1910年9月にミュンヘンでの第8交響曲の初演で成功を収めた後、冬にアメリカ渡ってから、次章で扱われる同じ年のクリスマスまでの間のことのようである。 「有名人」マーラーがアメリカでインタビューを受けて、その時の答を色々と自分で変形させ、そのあるバージョンをアルマが書き留めた、というのは如何にも ありそうなことだと私には思えるのだが、残念ながら、現時点でも単なる憶測の域を出ないままである。(2008.2.10, 2.11補筆)

アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書p.137, 白水社版邦訳p.129)
Oft sagte er: » Ich bin dreifach heimatlos : als Böhme unter den Österreichern, als Österreicher unter den Deutschen und als Jude in der ganzen Welt. Überall ist man Eindringling, nirgends "erwünscht". «
この言葉はマーラーの評伝の類ではおなじみの、あまりに有名なものだが、実はその典拠はというとアルマの「回想と手紙」が唯一のものらしい。そしてこの言葉が出現する 「回想」における文脈というのは、あの1907年の出来事を語る章の冒頭で、或る種の寄り道というか息抜きとして紹介されるマーラーの若き日の出来事を語る中でなのである。 指揮者マーラーの最初の「任地」はバート・ハルの夏季劇場であったのだが、そこで知り合った人間を冬になってヴィーンに戻ってから訪問したら門前払いを食らった。 それをマーラーは自分がユダヤ人だからだろうと思った、という話に続いて上記の言葉が紹介されるのだ。その間にはアルマ自身によるコメント、門前払いの理由は 単に「夏場の付き合い」というのはそういうものだからに過ぎないのでは、という意見が挿入されている。
深読みしようというのではないが、この言葉が独り歩きした時に持つことになる重みを思えば、その典拠における文脈は些か意外な感じもある。何しろ、マーラーに この言葉を言わせるのに相応しいエピソードは他にも幾らでもあるわけだし、1940年に出版されたアルマの「回想と手紙」自体の出版時の状況―それは序文でアルマ自身が語っているし、その時期に、そしてそれに続く数年にヨーロッパのユダヤ人がおかれた状況について知らない人はいないだろう―を考えると、私には手に負えないような微妙な問題をそこに読み取る人ももしかしたらいるかも知れないとさえ思われる。アメリカへの亡命を余儀なくされたアルマが、わざわざこの時期に、ユダヤ人であった最初の夫の「回想と手紙」を出版したことそのものが、ある種のプロテスト、意思表示であったのは確かなことなのだから。アルマが序文を書いたのは、そうした逃避行の途上のサナリー・シュル・メールでだったこと、そしてこの本がアムステルダムで出版されたことを確認しておくのも意味のあることだろう。
だが私個人としては、そうした背景や意味合いの詮索はおいて、とにかく、この有名な言葉が登場する文脈を私自身が忘れずにおくために、ここに典拠とともに紹介しておこうと思った次第である。(2008.2.10, 2.11補筆修正)