お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2019年12月22日日曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析について:調性推定を巡る対話

 以下の文章は、以前に書いた記事「MIDIファイルを入力とした分析の準備」https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/midi.html に対してお寄せ頂いた分析手法に関する疑念に対する私の「応答」です。疑念は、いわゆる音楽学の立場からの極めて正当なものであり、多くの方が多少なりとも同じような疑問を抱かれていると想像されること、そして個人的には頂いた質問に対する答えを記す過程で、クラムハンスルの手法の適用のどこに私がひっかかっていたかが明確になったことから、その内容を、私なりに整理・編集した上で以下に公開します。問い・応答のいずれも元のままではなく、いわば仮想的に再構性された「対話」であることにご留意頂けますようお願いします。

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1.調性音楽は文化的な構築物であり、かつ言語のように階層的な構造を持つ。喩えてみれば、語以上のカテゴリの問題を、音素レベルで分析するようなもので、要素に還元していく自然科学的なアプローチには限界があるのではないか。
まず、誤解はないと思いますが、私もさすがに区間内の音の頻度の分布で調性が完全に説明できると考えてこの分析をやっているわけではありませんし、それはクラムハンスル自身も同じだと思います。ご指摘の点は、事実としてまさにその通りであると私も考えています。また、音楽情報処理の分野でも、自然言語のアナロジーで音楽を分析するアプローチも行われています。調性の推定に関連したところでは、例えば Fred Lerdahl の Tonal Pitch Space, Oxford University Press, 2001 では、著者が言語学者の Jackendoff と構築したGTTM(Generative Theory of Tonal Music 生成音楽理論)に基づく分析アプローチが提案されています。

 ただし、自然言語に比べると音楽の統語論に相当するものは、遥かに自由度が大きいこと、その一方で、自然言語ではいわゆる「文」のレベルがあり、その上に「テキスト」の階層があってその区別が明確なのに対して、音楽の場合にはその区別が必ずしも明瞭ではなく、いわゆる楽式に相当するレベルについて、自然言語の単純なアナロジーが通用しなさそうな点など、類似している点がある一方で、相違点もまた大きいようです。私見ですが、言語の場合には、書き言葉と話し言葉の区別がありますが、音楽は、情報処理上の観点からすると後者に近く、更に文字言語と音声言語の区別についても後者に近いではないかと思います。

 そして実を言えば、私のように旧世代のAI研究を齧ったことがある人間が、今日の統計処理ベースのAIに対して抱くのは、まさにご指摘のような点なのです。(ちなみに付言すれば、近年のAIの得意・不得意ということがだんだんと整理されてきていて、どうやらやっぱり「言語処理は不得意」という、至極まっとうな結論が共通認識になりつつあるようで、ある意味ほっとしています。そしてその理由を突き詰めれば、ご指摘のような性質が、現在注目を浴びている手法に適していないということに繋がります。)

 ですから、これでマーラーの作品が分析できた、とは全く思っていません。対象を調性の推定に限定しても、ここでやっている処理は、人間のやっていることのほんの一部だけを取り出していることは明らかですし、得られた成果はと言えば、分析のための素材が一つ手に入ったくらいにしか考えていません。あくまでも分析の準備であって、分析そのものはこの先にあるものと思っています。
 
 あえてオリジナルな改良とかをせずにクラムハンスルのアルゴリズムをそのまま用いたのは、それなりに知られたもののようなので、それをマーラーの楽曲に適用したことが(他に既に行われていれば全く価値がなくなりますが)、一般的な資料としての価値を持つのでは、というような発想によります。もう一つ言えば、この手法は非常にシンプルですから、或る要素だけでどこまで行けるかということを、これまたマーラーのケースについて確認することに意味があるのではなかろうかと考えた次第です。


2.調性音楽の階層的な構造やその構造に基づく規則は、聴き手にも共有されており、それを前提にしてはじめて暗示とアイロニーのようなものが成立する。そうした前提なしに、音楽が多義的であったり曖昧であったりといった側面を捉えることはできないのではないか?
こちらもご指摘の通りだと思います。但し、ルールの共有の程度は様々だと考えます。作曲者や優れた音楽学者と経験のない子供では差があって、私のような、マーラーを聴いた回数だけは多くても、きちんとした楽理の教育・訓練を受けていない聴き手は、更にまたちょっと違うかも知れません。そして私は、どちらかといえば、子供の立場で眺めたいと思っていることは、既に別に記載した通りです。無意識にルールを学習可能、ないし、或る程度学習しているけど、ルールを「理解」できているわけではない聴き手にとってどう聴こえるのか、自分がマーラーの作品の調的過程をどう感じ取っているのかの近似値のようなものを取り出せないか、と思っています。上掲の Lerdahl の分析とかもそうですが、多くの分析は、楽典の知識を前提とし、例えばある区間の調的文脈が別途分析によってわかっているものとして(つまり推定の入力として)いる場合が多いように思います。しかし或る意味では楽典の知識を駆使した分析は、ここで想定している現象学的な問題設定に対しては、先回りしていることになるように私には思われます。またこのことは、創作の水準での分析か、聴取の水準での分析か、ということにも関わると思います。例えば、Timoczkoは、自分の理論が創作の側の理論であることを明確に述べています。しかしここでの関心は、聴取の水準なのです。従って、理論はできるだけ前提としないで、聴こえる音のみから分析するというのが(現実には完全にそうであることは不可能にしても)、理念的な原則となります。

(もっとも、実際問題としては、楽典の知識を全体とした分析をやろうとしたら、私の能力では、余りに手間のかかる作業となって、ちっとも結果が出ないことになりそうですし、マーラーという特殊な事例研究でなければ、実はAIの分野では、既に半世紀前に、非常に有名なウィノグラードの研究があって、楽典の知識を総動員したらどこまでやれるかについては、既に、最初の段階で天才がやりつくしてしまっているというのもありますが。)

 上記を踏まえた上で、マーラーに関して、クラムハンスルの調的階層を用いて調性推定をやることの意味に戻りますと、以下のようになると考えます。

 まず、クラムハンスルの調的階層というのは、ある意味ではどっちつかずのものだと考えます。つまり、ある意味では、還元・再合成という操作でありながら、それをやる際に
認知心理学的な実験の結果に依拠するので、ある文化的な構築物のルールをある程度共有している平均的な「聴き手」を想定していることになります。これは科学的アプローチを文化という名の「予見」を排したアプローチと捉え、人文系的な文化的な構築物についての知識(=解釈学的には「前了解」とされるもの)を前提としたアプローチとの対立を厳密なものと捉える観点からは、科学的アプローチの中に人文学的アプローチを(統計情報という形でですが)いわば「密輸」しているとも言えるかと思います。

 科学的アプローチで行くなら、そうした「密輸」はやらないで、とことん予見を排したアプローチをすべきであり、調性の推定を、例えば音響に関する法則のような、文化非依存のものだけに依拠してやればいいのですが、私はそもそも音楽というのは物理法則のようなものではなく、文化的な構築物だと思っているので、それには原理的な限界があると思っています。(何しろ、意識のような一般的にはそうでないと思われているものについても、ある程度は文化的・社会的な構築物であると思っているくらいですので…)従って、科学的な還元主義的な発想からは循環に見えても、それは事柄の性質上、寧ろ当然だと考えています。(これも「補遺への追記」に記載した通りです。)まさに解釈学的な事柄に付きまとう循環だと思います。

 「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺への追記」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post_12.html)の中で検討したのもまさに上記の点で、実はその点が明確になっていないと感じて、公開後に追記を行っていますが、それよりも、替りにその末尾を以下に自己引用することで、私の立場の再確認をしたく思います。

「データに基づく分析をやろうとすると、優れた音楽家や音楽学者でない、平均的な聴き手が無意識に行っている情報処理ですら、その複雑さに圧倒されてしまいます。更に言えば、(それ自体が優れた研究者が苦心の上に編み出したものであって、そこでの捨象の操作の背後にある情報量の大きさに留意するのは勿論ではありますが、その一方で)認知心理学実験で用いられるような単純化されたものではないマーラーの作品のようなものを「聴く」時に背後で起きている情報処理のプロセスの複雑さは、途方もないものだし、そのプロセスを支えているシステムの複雑さ、生物としての、社会的存在としての、美的主体としてといった階層の深さには目眩さえ感じます。ましてや優れた音楽家や音楽学者が直観的に掴み取る、ある作品の特徴を機械に取りださせるというのは途方もない企てに感られます。(そういうことからも、AIと音楽との関係におけるチューリングテストは、人間が聴いてそれっぽい音響を自動生成することがでるかどうかといったレベルにはなく、音楽を聴いて、それに感動したり共感したりすること、その感動や共感について分析できることのレベルにあるのではと思えてならないのです。)その全てを踏破することなど思いも及ばぬことですが、それでもなお、そうした企てへの第一歩と呼べるようなものでなくても、そうした歩みへのせめて呼び水となることを願って、今後も少しずつ手を動かして、その結果を公開していきたいと考えているような次第です。」

 更に言えば、データに基づく分析というのは、あくまでも「ここでの」立場に過ぎず、それが私の通常の聴取の態度というわけではありません。実のところ、私は常にはもっと「情緒的」に、或いは「生理的」に、精神的なバランスをとるための或る種の「治癒」として音楽に接しているような気がします。何しろ私の場合には、色が見えたり、風景が見えたり、臭いや湿度を感じたりといった「クオリア」の印象が圧倒的です。この点では、残念ながら、アドルノの『音楽社会学』における聴取の類型論上、あまり褒められた類型には属さない、結局のところ創作者や知識ある分析者の立場では聴いていない自分の聴き方を確認したいということなのかも知れません。

 ただ、マーラーに関して言えば、伝統的な図式では説明できない側面があり、アドルノがDurchbruch / Suspension / Erfuellung といった類概念を持ち出し、自ら「小説」に類比した独自の時間的構造にアプローチしようとしているという消息もあり、伝統的な楽曲分析とは違った分析のツールが必要ではないかと感じていることは、これまで繰り返し記述している通りです。まだまだ先は長いとはいえ、そうしたアプローチの一つとして、データに基づく分析というのを位置付けているという点も付言したく思います。つまり、調性音楽の理論があまりに高度に完成され、合理的にできているが故に、その末期に出現した(かつては病的と言われることもあった)マーラーのような事例に接するためには、一旦遠回りをしなくては見えて来ないものがあるのではないか?というように思うのです。

 最後に、音楽理論にしても伝統的な調性音楽の聴き手の統計的平均像にしても、それ自体抽象物には違いありません。しかも科学的に要素から組み上げられたものではありません。寧ろ、ブリコラージュの過程で少しずつ理論化されたものと考えた方がいいように思います。そして別の文化的社会的文脈では、別の音楽があり、やはり理論があって聴き手がいます。ガムランは、倍音列について「合理的」なアプローチをしない、結果として完全五度音程を基礎としない稀なシステムを持っているようですが、それさえも、異なる伝統に属する人間にとって(誤解はあるかも知れませんが、ある程度は)、理解不能ではなく、「音楽」として「了解可能」です。そういった点を踏まえ、自分がそもそも100年後の地球の反対側、「仮象」たる「中国」の更に向こう側に棲んでいる子供としてマーラーに出遭い、(実はこちらの方が時間的には後なのですが)能楽のようなものにも継続的に接し、更には「トータルセリー以後の音楽」に接しつつも、今なおマーラーを聴いていることを思えば、完全には無理でも、せめて異文化接触という現実の状況に即して、できるだけ調性音楽固有の文脈や内部の論理に依存しない形でマーラーの作品を眺めてみたいというのもあります。近年しばしば「ビッグデータ」の時代ということが言われますが、或る意味では「ビッグデータ」に蚕食された世界に生きる者ならではの発想で、(何なら、その「症例」の一つとして、)こういう分析が、それとは最も隔たっていると通常は考えられているマーラーの音楽のような対象に対して行われる、ということでもいいように感じています。

要約すると、ご指摘の点について異論がないにも関わらず、なぜあえてデータ分析のようなことをやるのかと言えば、
  • 理論の知識なしで何が聴こえるのかをシミュレートしたい
  • 規範的な理論からは逸脱と見做される現象の背後にある論理を捉えたい
  • 文化的文脈の外部を意識して、文脈依存性の少ない見方をしたい
ということになるでしょう。そして得られたものは分析そのものではなく、あくまでも分析のための素材である。ということになるでしょうか?


3.調性音楽の意味は時間の中で開示されていくものであり、ここで実施されたような計量的な分析は、多かれ少なかれ時間プロセスを捨象したものではないか。
このご指摘は非常に重要な点かと思います。何しろもともと、これら一連の検討・分析は、その出発点を記した記事、「MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/09/midi.html)でその目論見を記載した通り、時間性の分析をするのが最終目的ですので。実際の分析が懸念に十分にお応えできているかは議論の余地があるかと思いますが、この点は今回の分析では、それなりには配慮したつもりです。

 今回の分析では、拍内で鳴る音については鳴る順序はつぶれてしまい、持続(音価)のみを扱い、或る拍が「何調」に聞こえる、というのを平均的な聴き手の判定の情報を基にして計算します。従って、この点ではご懸念の通りではあります。一方で、次の拍では、一つ前の拍と現在の拍の2区間の情報で計算をします。そしてこうした時間の推移による情報の累積を1小節の区切り迄やります。次の小節に入ると、前の小節の情報は忘れて、同じことを、曲の終わりまで繰り返します。結果的に、小節単位にその小節は「何調」に聞こえるか、というのを順番に求めていることになります。小節内でも前の拍で鳴った音も含めての分析となっていますし、クラムハンスル自身の実験とは異なって、小節毎の推定を、一貫した調性に基づいた作品の冒頭についてのみ行ってその曲の調性を推定する目的で行うのではなく、発展的調性を持つ、曲頭と曲尾が必ずしも同じ調性でない作品の全体に対して行うことで、調的な中心の軌道や、その安定性の変化をトレースしてみようという目的で行っています。推定に用いる情報をローカル(ここでは小節単位)なものに限定しているのは、調性音楽の中でも古典的な作品を範例とした分析ではしばしば前提とされる大域的な調性の枠組みの前提を、ここでは一旦外したかったというのもあります。

 勿論、より多くの情報を見るように、或いは区間内でどういう順番で音が鳴っているのかも見るように、など、色々と改善の方向は考えられますし、区間についても機械的に1小節で区切るのではなく、もっと意味のある単位で、或る時には1拍が単位になり、或る時には数小節が単位になるように区間を適切に変えてやるべきなのでしょうが、これはまた別の問題を解くことになります。即ち、それを機械にやらせるときに、外から「区切りはここ」というのを別途教えるのではなく、入力として受け取った音の情報だけから、自動的に区切りを見つけて、その区間で調性を判定させるようにするにはどうしたら良いか、という問題を解かなくてはなりません。

 というわけで前途遼遠、課題は山積ですが、とにかく最初は機械的にやってみたらこうなりました、というのを公開したということになります。

 なお、この「外から教えない」で「データに基づいて判定させる」という点が一つポイントと考えています。とはいえ、小節の区切りは偶々MIDIデータに含まれていることになっていて使っていいことにしていますが、音響データならそんなものはありません。MIDIの情報というのは12音平均律前提でキーナンバーが振られていることから始まって、ある程度の「フレーム」の下で出来ているわけで、厳密に言えば、「密輸」も程度問題ということになります。例えば調号だってMIDIデータに含めることが出来ます、入っていれば使っても言い訳ですが、こちらは逆に使っていません。調号通りに調が変わるわけではないから、というのもありますが、実際にはほとんどのMIDIデータで調号の情報はまともに入っていない、という現実がある、というのも大きいです。ともかく、でもできるだけMIDIノートの音高と持続の情報だけでやる。小節の区切りは、必ずしも意味の区切りではないので、最後は使わずに済ませたいですが、機械的に簡単に実験するために、手始めとして利用しているとお考えいただければと思います。)


4.例えば、中心音ということでも、単一の音、2つの音が鳴った時点ではそれは明確ではなかったのが、時間的経過の中で新たに出現する音により、徐々に明確化されるということが起きたり、中心音が常に鳴っている、実際に鳴る音はその周囲を旋回するだけ、といった事態はごく普通に起きるが、実際に鳴っている音のデータに基づく分析で、こうした事態を扱えるのか。

 この点も前の点と並んで個人的に重視したい点です。これは特に「マーラー作品のありうべきデータ分析についての予想:発展的調性を力学系として扱うことに向けて」( https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_10.html )の後半に書いたことですが、まさに調性が曖昧になったり、潜在的に複数の選択肢があったり、という状況をデータ処理で浮かび上がらせられるような枠組みを探索しています。

 今回のやり方では、(一応、一番相関が高い調性に色をつけてみましたが)、区間ごとに、各調性との相関の推定値を求めています。あるところでは、相関の最大が0.5くらいで、しかも2つの調で同じくらいだとしたら、或る種の宙づりがそこで起きている可能性がある、という具合で、一応、数字によって曖昧さや多義性を扱おうとしています。

 繰り返しになりますが、調的推定は極めて複雑な過程なので、このデータ処理だけで十分ということはなく、例えば別途、和音(和声ではなく音の部分集合、ピッチセットですが、転回形の情報も付けることができます)を取り出すプログラムも作ったので、それと今回のデータを組み合わせれば、上に例示頂いたようなことがデータで語れないか、というように考えています。(2019.12.22公開)

2019年12月12日木曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺への追記

以下は、記事「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺」の更に補足となります。背景については元記事(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post.html)をご覧ください。

(1)まずは気になっていたティモチコの『音楽の幾何学』。これはかなり手強い内容なので、きちんと読むには時間がかかりそうですが、基本的な前提のところで、今考えている方向とはずれがあるようです。例えば中心音と音階は独立だとする。これは原則としては勿論正しいのですが、結果的に個別の(例えば機能和声の、条件つきの、経験的なものでしかない)合理性の在り処を説明する方向には向かわなさそうです。寧ろ、抽象化をしていった上で、その過程で削り落とした要素をそれぞれパラメトリックに独立に扱えるように幾何学化するとどうなるか、という探求のようです。勿論、そうした抽象化の進んだ次元で見えてくる法則性のようなものはあるでしょうし、機能和声や伝統的な対位法では禁則であっても実は合理性があるのだ、というような説明が可能になることもあるでしょう。更に言えば、音楽を抽象化して行って出来るだけ一般的に秩序だてようとする点で、寧ろ三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする「ありえたかも知れない音楽」の仮構のような方向性と親和性が高いように思います。

(2)次にクラムハンスルの『音楽的音程の認知的基礎』および(こちらは邦訳のある)アイエロの『音楽の認知心理学』所収のバトラー、ブラウンの「音楽における調性の心的表現」について。これらは認知心理学の実験結果なので、基本的には理由づけを分析することは一先ず措いて、ある文化的・社会的文脈での習慣づけ=学習の結果を帰納的に(平均化して)求めて行く。結果として得られるものは発見的(ヒューリスティック)な規則になります。だから母集団を変えたら結果が変わるかも知れない一方で、母集団を変えても、「ヒト」であれば基本的には安定した規則性というのが見つけられる可能性はあり、帰納的な極限として(西洋的な)「人間」のみならず、「ヒト」普遍の法則を見出すことはある程度可能でしょうし、実験結果はそれの一定の誤差つきの近似と捉えればいいように思います。

 但しこの規則を正しいとして中心音決定することの意味は確認が必要と感じます。これ自体が目的なら問題ないですが、これを更に和声の機能を調べるために使うとすると、論理的に循環が生じうる、つまり中心音の発見的規則の中に和声の機能に由来するファクターが含まれている可能性が高く、もしそうなら、形式的には「中心音で機能が決まる。機能に基いて中心音が決まる。」という循環があるように見えるからです。

 もっともこの循環は、まずはそれぞれの「機能」という語で指示されている対象が同じでないかも知れませんし、その点を考慮してなお循環があるとしても、排除されるべきものではなく、対象の性質からいって、物理的法則のようなものを想定するのは妥当ではなく、寧ろ生物のような複雑系に近いと考えれば、ブートストラップ、自己組織化のようなものにつきものの再帰性の現われとして正当化されるものではないかと思います。

 ただし、これは対象が平均律と機能和声の枠組みに基本的に依拠しているマーラーの音楽だからであることには留意しておきたいと思います。仮に今、分析しようとしている作品が、12音平均律には基づいていても、機能和声に支えられた12音各音を主音とする長調・短調の調的システムには基づいていないとします。その時、クラムハンスルのアルゴリズムでの推定が意味がないことは明らかです(そもそも、適用しようとは思わないでしょう)。敢えてそれを行ったとしてわかることは、別の調的システムで作られた音楽を、西洋の伝統的な音楽を聴いてきた人間が聞いた時、敢えてそれを西洋の伝統的な音楽におけるシステムの内部で捉えようとしたら、どのように捉えられるか、ということになるでしょう。この場合には、最初に述べた循環が表面に出て、致命的なものとなってしまいます。

(3)ただ、ここで差し当たってやろうとしているのは、中心音の推定なのか、それとも調性の推定なのか、マーラーを対象とする限り、その両者は理論的に関連しているものの、厳密には一般には両者は独立ですから、その2つを区別する/しないについての確認を念のためにしておくことにします。

 クラムハンスルの調性推定のアルゴリズム(およびその変形)を用いて何ができるかと言えば、厳密に言えば、それはあくまで特定の時間枠の中で鳴っている音の集合からどの調性との相関が最も大きいかを推定することであって「中心音」そのものの推定ではありません。平均的にどの調性だと判断されるかの確からしさが求まるだけです。そしてその上で、調性が推定されたとして、調性の定義に従属するものとして中心音が定義されるならば、調性の推定結果(24の長調・短調の各調性との相関を表すベクトルの系列)に対してある変換を施せば中心音の軌道に変換できるということになります。変換に当っては、例えば、長調と短調における中心音の安定性の違いを加味したりすることになるでしょう。

 更に中心音の定義を重心の如きものとしようとすると、今度は重心を計算する空間の定義が必要となります。避けようと思えば12のピッチそれぞれの確からしさの分布そのものが中心音であるとしてしまえば余計な問題は回避できるわけですが、既にマーラーの作品のMIDIデータを入力として五度圏上の重心計算をやっているわけですから、改めて重心計算について考えてみます。
 
 結局、中心音の重心計算がそこで為される空間自体が、(経験的な)調的相関で定義されるものであるなら、筋道としては「調性の推定(クラムハンスルのアルゴリズム、音の出現分布の相関度に基づく)⇒調的相関(これ自体、各調性における音の出現分布同士の距離として計算された結果)の空間における重心としての中心音の計算」となって、これはこれで矛盾はなさそうです(勿論それは、西洋近代の調的システムという「閉域」にいるから矛盾が起きないということに過ぎないのですが)。わざわざ中心音の空間を定義する意味があるか(「閉域」の中にいる限りにおいては、結局分布のある幾何学的表現に過ぎない)を気にしなければ、これはこれでいいように思えます。

 一方、重心計算ではなく、マーラーの作品のMIDIデータを入力とした調性推定結果自体において、例えば調性の曖昧さの度合いやコントラストなどについて様々な特徴が検出できたとすれば(この特徴も、何らかの平均なり特定の別の対象との比較として取り出せるものでしかないですが)、それはマーラー固有のものとして構わないように思いますし、発展的調性を力学系的に捉えるという観点からは、寧ろ適当なような気もします。

 こうして考えると、マーラーの作品の分析なら、差し当たり出発点としてクラムハンスルの調的階層が前提とする調的システムに基づいて中心音を定義することが大きな問題になることはない、従って結局、まずはつべこべ言わずにクラムハンスルのアルゴリズムなり、その変形を使った分析をやればいいし、それをやる意味はありそうだ、というのが結論のようです。

(4)上記の点に関連して、私の前の記事での議論は、一見するとそれ自体、自己矛盾に陥っているように見えると思います。つまり一方で、倍音のような物理的法則に従うレベルの事実は、一定以上の根拠にはなりえないということで、文化的・社会的な多様性が生じる余地を要求しながら、クラムハンスルの実験結果のように帰納的に求められた規則に対し、それが文化的・社会的な条件に制約された一定の集団の平均値に過ぎないという点において留保をするというのは、無い物ねだりなのではないか、では一体何に根拠をおこうというのか、という問いが成り立つと思います。

 それに対しては、(まさにそのような書き方をしたと思いますが)クラムハンスルの実験結果のようなものを全面的に拒絶するつもりはなく、それを分析の手段として(消極的・暫定に)利用することは否定しません。(というか他に手段がない。)それは飽くまでも(機能和声の「規範」とか、「音階」「旋法」のような理論的概念を援用して分析することも同じだと思いますが)問題にアプローチをするための一手段に過ぎません。

 例えばクラムハンスルに対して、バトラー、ブラウンはより文脈依存性にフォーカスした実験を行っているわけですが、いずれの実験結果についても物理法則レベルの根拠はなくても、生理的・知覚的水準での準・法則的なものを想定するならば、それが一定のレベルで反映されたものであると考えることは可能だろうと思いますし、それを用いることに問題があると考えているわけではありません。

 問題が起きるのは、例えばそうした実験的・経験的な事実が、価値判断の尺度になる時です。平均値に近ければ近いほど「優れている」わけではないし、逆に遠ければ遠いほど「優れている」わけでもない。遠い方について言えば、遠ければ「オリジナル」とは限らないし、「オリジナル」であることと「興味深い」ことはまた別です。(この辺りの事情は、各学問領域における研究の価値とパラレルな側面があるような気がします。)物理的に「協和的」であることと、感覚的に「協和的」であることは既に一致せず、後者は文化依存であるとされています。一方で、いずれの尺度においても「協和的」であること(あるいはその逆)が、そのまま作品の価値を決める尺度となるわけではありません。

 同様に、例えばクラムハンスルは、実験で求めた調毎のピッチの出現頻度の分布に基づき、調性間の距離を計算してマップを作成していますが、このマップはあくまでも或る時代の文化的・社会的な平均的プロトタイプに過ぎません。それは規範のレベルでの機能和声理論に対応する、経験的・帰納的レベルでの等価物であると考えることができるでしょう。勿論これを基準とした個別の作曲家の作品の特徴づけを行うことは可能だし、問題はないですが、規範としての機能和声への忠実度が作品の「興味深さ」を直接決定する尺度にはならないように、それもまた、作品の「興味深さ」を直接決定する尺度にはならないと考えているということです。「興味深さ」を探るとなれば、そこを出発点としながらも、更にそこから離れて、アドルノ風の「ミクロロギー」に拠らなくてはならないのではないか、「唯名論的」にその作品固有の論理を明らかにすることによってしかできないのではないかと思うのです。そして繰り返し述べるように、そうした分析を行う際には(そうした分析だからこそ)、データに基づく裏付けが必要なのではないかと思う一方で、データ分析によって出て来るのは(少なくともここで論じているレベルのものは)あくまでも「素材」に相当するものに過ぎす、それ自体がそのまま「答え」になることはないように思います。

 もともとが、非西洋人である「私」がマーラーを聴くとき一体何を聴き取っているのか、というのが問の発端でしたが、その「私」とてマーラーを含めた西洋音楽を聴くことで脳内にマップを形成しているわけですし、結局のところ目的は「私が受け止めたもの」そのものではなく(それは私がトリヴィアルな存在であるのに応じて矮小化されたものになっていて、そんなものに価値はないので)、それを可能にしたマーラーの作品の背後にある論理を分析することにあるのですから、「私」とクラムハンスルの調的階層の背後に存在する平均的な聴き手との偏差に拘っても仕方ありません。

 その一方で、クラムハンスルの調的推定の結果はそのまま用いるべきではなく、中心音のような、より一般的な理論的概念を措く操作は必要なのではないかと思います。マーラーの音楽は、そもそも私が済む極東とは異なる文化的に属している筈ですし、それは既に1世紀も前のものなのです。一方では固有の伝統に属する能楽に接し、他方では、マーラー以降の西洋の音楽の更にその先にあって、まさに同時代の音楽である三輪眞弘さんのように、倍音列において最も基本的な完全五度に基かないガムランに基づく作品もあれば、はそもそも音律すら前提としない作品もあり、かと思えば、12音平均律に基づきつつも伝統的な機能和声に基づく調性音楽とは異なる調性へのアプローチを試みた作品もあるような「音楽」にも接している現実の状況を踏まえて、特定の文化的な文脈に依存しない、より一般的な仕方で、経験に即した「自然」でかつ「興味深い」中心音の定義をマーラーの作品に即して考えることが、マーラーの作品の背後にある論理を探る際のきっかけになるように思えるからです。そしてその出発点として用いるのであれば、クラムハンスルの調的推定は妥当であるといって良いように思われます。

(5)ここで元々の問題を改めて取り上げて確認してみます。元の問題はI⇒V,VI⇒Iはどう違うか、IとVはパターンとしては同じなのに機能が違うのはなぜ、という問いでした。これはマーラーの個別の作品の特徴がどうの、というのとは一先ず別の次元の問題です。

 答えは「あるパターンが別の機能を持つのは、そのパターンが出現する文脈による」というものでした。文脈を中心音が定義づける、中心音は調性推定の確からしさと等価であるならば、そのパターンの出現する調性が異なる=中心音が異なるからで構わない。では調性はどのようにして決まるのでしょうか?それは多分そのパターン自体を含めた、でもそのパターンだけではない、水平方向、垂直方向の両方向での周辺の音の分布で求まるということになるでしょう。

 ここで音の分布⇒調性の推定の手段は 統計的に求められた相関に基づくとします。それは経験的に学習されたものですが、何かそこには物理的ではなくても知覚的な法則性のようなものは認められるかも知れません。それが仮に経験的に求められたものに基づくものであったとしても、「中心音は、天下りに与えられてはならない」という要請に対しては、中心音を、或る区間で鳴っている音の集合(つまり入力データに含まれている情報)から求めているということで充足しているので、この方法で構わないことになります。

 鳴っている音の分布⇒調性⇒中心音、という論理が辿る筋道がクラムハンスル的な経験的な根拠によってしか可能でないとしたら、その経験を形成するのが分析対象となる作品を含めた聴取の経験による、という点に循環がみられるでしょうが、この点については(2)で検討した通りで、循環は問題にならず、寧ろ対象の性質上、必然的なものと考えます。調性音楽を支える論理というのは、倍音列のような物理法則の水準にあるものではなく、文化的な構築物であって、寧ろ「解釈学」の対象と考えるべきで、循環は元々備えている性質であると考えるべきです。

 では、この問いはトリヴィアルだったのだろうかと考えると、上記のような答えが直ちに思い浮かぶのであれば(ご覧の通り、残念ながら私にとっては自明には程遠かったわけですが、わかっている人にとっては)確かにトリヴィアルなのかも知れないと思いつつも、少なくとも以下のようなことを確認できたとすれば、それは無駄ではないのでは、とも思うのです。

 それは、抽象化されたピッチの集合だけを見ていたのでは、なぜそのように聴こえるのか?という問いへの答は見つからないということです。その観点から言えば、元の問題は厳密には2つのことを告げているように思えます。IとVがパターンとして同じなのに機能が違う、というのは、単独の和音だけではわからないということを告げているのに対し、I⇒V,IV⇒Iは2つの和音の系列のみを見ていたらわからない。IとVのどちらなのか、I⇒V,IV⇒Iのどちらのカデンツなのかというのは、ピッチセットとして抽象化してしまえば区別がつかなくなるのは当然で、抽象化のプロセスで捨ててしまった情報、即ちそれ以外の水平、垂直の両方の次元での周辺の音やピッチセットの構成要素が、音高方向にどういう順序で並んでいるか(つまりどれがバスで、どれがソプラノか)を見なければわからないのだ、ということです。通常の楽曲分析での説明は、そうした背後にあるプロセスを全て端折って、結論の部分だけで議論をしているということだと思います。それは結果としてこうだ、という説明ではあっても、ではなぜそうなのかについては語らない。目的が違うのだから、それは別に構わないのですが、ここでの分析のような目的にその知見を利用しようとする場合には注意が必要だということのように思います。

 それでは一体、どの範囲を見ればいいのでしょうか?どのような切り口で見ればいいのでしょうか?データに基づく分析をやろうとすると、優れた音楽家や音楽学者でない、平均的な聴き手が無意識に行っている情報処理ですら、その複雑さに圧倒されてしまいます。更に言えば、(それ自体が優れた研究者が苦心の上に編み出したものであって、そこでの捨象の操作の背後にある情報量の大きさに留意するのは勿論ではありますが、その一方で)認知心理学実験で用いられるような単純化されたものではないマーラーの作品のようなものを「聴く」時に背後で起きている情報処理のプロセスの複雑さは、途方もないものだし、そのプロセスを支えているシステムの複雑さ、生物としての、社会的存在としての、美的主体としてといった階層の深さには目眩さえ感じます。ましてや優れた音楽家や音楽学者が直観的に掴み取る、ある作品の特徴を機械に取りださせるというのは途方もない企てに感られます。(そういうことからも、AIと音楽との関係におけるチューリングテストは、人間が聴いてそれっぽい音響を自動生成することがでるかどうかといったレベルにはなく、音楽を聴いて、それに感動したり共感したりすること、その感動や共感について分析できることのレベルにあるのではと思えてならないのです。)その全てを踏破することなど思いも及ばぬことですが、それでもなお、そうした企てへの第一歩と呼べるようなものでなくても、そうした歩みへのせめて呼び水となることを願って、今後も少しずつ手を動かして、その結果を公開していきたいと考えているような次第です。(2019.12.12初稿、12.16,17加筆) 

 

2019年12月7日土曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺

 以下は、既に公開済の文章「マーラー作品のありうべきデータ分析について:発展的調性を力学系として扱うことに向けて」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_10.html )の中で「素朴な疑問」として提示した問いを出発点に、若干の補足を行ったものです。なお、以下の「疑問」に対する指摘は私が創作した架空のものではなく、実際にある専門家から頂いた指摘です。ご指摘に感謝するとともに、その事実を付記させて頂くことにします。

 まず、そこで掲げた問いを再掲します。

 シェンカーのI→V→Iという原則は、上記の文章で提示した五度圏でのピッチの並びに基いた和音のビット列での表現およびその上での力学系においても確かにコスト的に小さく、経済的であるように見えます。
 ただ素朴な疑問として、以下の疑問がすぐに浮かびます。
(1)V→IというのはVが不安定でIが安定だという前提をおけば自然だが、ではVが不安定なのは何によるのか?ビット列としては同じバターンで右に1ビットシフトするのだが、そのことがアトラクタとなるのはなぜか?
(2)左1ビットシフトIV→Iもアトラクタの資格を持っているが、これはI→Vとビット操作上は区別がつかない。何が区別を可能にしているのか?
(3)V→Iが何かの理由でアトラクタであることを認めたとする。このときI→Vがそもそもなぜ起こるのか?これは、音楽は何故始まるのか?なぜ音楽があるのか?という問題に
帰着するようにも思えます。

上記の問に対しては、以下のような指摘が考えられるでしょう。まず(1)(2)について。
A1.(1)(2)とも、やはり中心音、つまり起点とそこからの距離、方向を捨象しているために生じる問いであり、中心音を導入すれば、そもそも問題にならないのではないか?
A2.そのためには、調性の情報を与えればいいのではないか?そもそもがここで対象となっている音楽は、調性システム(のあるバージョン)を前提として組み立てられているのは事実であるから、分析上もその前提に立つべきではないか?
A3.五度圏の隣り合う7つの音の重心の中心からの方向(θ)を中心音と定義すれば、それはドリア旋法ということになる。ところで、旋法のシステムにおいて長調・短調に相当するのはイオニア旋法、エオリア旋法であるが、これは教会旋法のシステムには存在せず、歴史的には新しいものである。この点をどう考えるか?なぜそうなったのか、どのような力が働いたのかを考えるべきではないか?
この指摘について考えたことを以下に記します。

A1.まず中心音についてですが、中心音を否定したいわけではないのです。それはきっとあります。あるから、かほど壮大な楽理の体系が出来て、何百年も続いて、異文化の極東の島国でも教えられているのだと思います。でも鳴っている音を聴いたとき、事前に教えてもらうわけでもなく、中心音に印がついているわけではありません。それは聴くと「自然とわかる」ものなのではないしょうか?そしてここでは、聴く立場に立って考えたいのです。できたら中心音を外から持ち込むのではなく、鳴っている音の構造から自ずと決まってくるものとしたいのです。そうじゃないと、聴経験と一致しません。

 だから、鳴っている音から中心音がこのようにして決まってくるというルールをデータから取り出したい。その時に、ピッチクラス=ビットの並びだけに限定し、バスの音が何であるか、転回を無視して音名の集まりだけにしてしまうのは抽象のし過ぎかも知れないということは既に述べた通りで、ピッチクラス=音名の組み合わせパターン+最低音を
ひろって、きっと長三和音・短三和音の基本形はアトラクタなんだろうということで、まず、アトラクタがどこに現われるかを抽出することが考えられると思い、データ抽出を試みています。(「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」 https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi.html 参照。)

 中心音については、アトラクタとなる長三和音・短三和音の基本形のベースの音名がそれである、という定義は考えられます。ただ、その後ビット列が変化して、色々な和音が出て来るとき、中心音がどう変わるかも、データの側から取り出したいと思います。これも結果として転調の移行、確定のパターンが所謂「カデンツ」として取り出せるということで構いません。でも向きはこの向きでないとならない。そうしないと、規則で書かれた時にどうなるかは説明できても、規則通りにならない時に、系の状態がどうなっているのかが説明できなくなってしまうし、中心音の候補が2つあって、どっちつかずの状態みたいなことも言えなくなるのではないでしょうか?

 そもそも中心音というのは、具体的にはどのように計算されるものでしょうか?それは、ビット列で表現される同時に鳴っている音名の集合(ピッチクラス)の「重心」(まさにこれまでやってきた重心計算の結果)ではない筈です。もしそうなら、ビット列とは別に中心音が必要になることはないのではないでしょうか?いや、これはおかしいかも知れません。別に五度圏上の重心であっても良くて、重要なのは、何らかの定義に基づき計算された中心音が、「次への遷移の演算」の入力となるという点であるとしても構わないかも知れません。実際に、アルゴリズミック・コンポジションにおいて、そのような力学系が用いられており(ただし正確には、重心は「次への遷移の計算」そのものには持ちられておらず、もっと大域的な軌道の制禦にのみ用いられています。また、それは和音の遷移ではなく、ある区間の単旋律に出現する音の集合を対象としています。そして単旋律か、和声を備えているかという差が中心音という概念にどう影響するかについては、過去の西洋の音楽における歴史的な背景なども併せて理論的な意味合いを正確に突きとめる必要があるでしょうが)、もともとそれをマーラーの作品の分析に謂わば「逆輸入」するというのがきっかけでこの検討が始まったのでした。ただ、西洋近代音楽に限って言えば、中心音は五度圏上の重心ではない。正確を期するなら「最早~ではない」と言うべきなのかも知れません。ここで「西洋近代音楽」と言って西洋音楽としないのはそれ以前の長い歴史においては別のシステムが用いられていたからで、重心計算というのは、その別のシステムにおいては適切であっても、所謂「機能和声」に適用するのは不適切なところを、私が無思慮に適用してしまった結果、「捩じれ」のようなものに悩まされているということは多いにあり得ることだと思います。更に言えば、機能和声に先行する時代の長さに比べれば機能和声の時代など、ごく最近のことなのかも知れませんし、「ありえたかも知れない音楽」の枠組みとして五度圏上の重心を中心音とするシステムを「仮構する」というのは、そうしたことを考えれば深い合理性を持っているようにも感じます。(因みにこうした歴史的なパースベクティブの感覚は、「ヒトが意識を持つようになったのは…」というのと何となくスケールの感覚が似ている気もします。音楽の背後にあるシステムが意識の構造と対応している、というのはあまりに突飛な仮説かも知れませんが…)

‪ いずれにせよ、西洋近代音楽も後期ロマン派のような「小説」がモデルとなるような作品を事例にとった時に、そこでの中心音の定義は、明らかとは言い難いのではないか?充分にありえることとして、西洋音楽の中でも、中心音の決め方自体変遷があり、かつまた作曲者の個人的な嗜好もあるというのは成り立つでしょうが、個別の作曲家に限っても
それは明らかになっているとは思えません。結局何を目的として分析するかが最後には問題になり、結局私がしようとしているのが、ある特定の音楽についての中心音の決まり方を探ることだとしたら、それこそ、それはデータからボトムアップに推定すべきなのではないでしょうか?

 とはいえ、それを最終的に機械に処理させるにしても、どのようなデータを与え、どのようなモデル上でやるかについて設計するために、或る程度の見当をつけるべく考えてみるならば、ビット列で表現される同時に鳴っている(音名ではなく、音高を捨象しない)音の集合を入力に計算されるものである筈です。但しある時点のビット列だけに入力を限定する必要はなく、一つ以上の複数の前の時点のビット列の状態の記憶の系列が入力となるのは自然な仮定だと思います。また、その計算規則は、物理法則のような普遍的妥当性を持つ必要はなく、物理法則に逆らわないある程度自然なものであり、尚且つそれを事前に知らなくても自然に習得可能なものと考えるべきと思えます。それは文化的によって異なりうる幅があって良く、かつまた「嗜好」を受け入れる幅を備え、加えてその嗜好の中で多様な作品を可能にするようなものの筈です。更には中心音は常に一意に決定されるものではなく、決まらないことがあってもいい。中心音についての空間における重心のようなものが、幾つかの候補からの距離によって決められるといったあり方で良いと思います。完全に等距離ならその時には中心音が存在しないとも言えますが、通常は距離で順序づけられた後補が複数あるが、場合によっては2つの候補がほぼ同じ確からしさを持っている場合も生じ得る、というのが自然な仮定のように思います。そうであることによって、発展的調性のような逸脱が可能になる。しかも発展的調性と呼ばれているものの内実は、必ずしも単一のプロセスであるとは思えません。私見では、それは様々なタイプの逸脱に仮にラベルづけをした便宜的なものに過ぎず、その内実は個々に異なる、それこそ「唯名論的」に異なるのではないかと思います。

 というわけで、入力として私が差し当たり採用したのは、ビット列で表現される同時に鳴っている音名の集合+どの音名が最も低い音かについての情報です。ただし遷移規則の方はまだわかりません。データ分析とAIが流行りの今時なら、つべこべ言わずに中心音の「正解」を与えることができれば、それを正解データとして機械学習によって中心音の定義を機能的に推定するのが普通かも知れませんが、今、私にとっては、中心音の定義(計算方法)自体が未知なので、この方法は取れない。まあ、色々な分析の共通見解とか自分の聴経験から正解を作ることも可能なのでしょうが、これはなかなか手間がかかります。とはいえ他に方法もないし、機械学習を適用しないまでも、データを眺めてそれらしい仮説を自分で作るのであれば、それを自分でやるか機械にやらせるかの違いしかなく、いずれ準備が出来れば機械学習を適用する可能性もあると思いますが…

A2.については、中心音に関する上記の議論に基本的には準じるのですが、それは措いても、ビット列の状態の系列からその系列の「調性」を判定する方法を考えられないかというのは、音楽情報処理的な問いとしてあるのだろうと思います。例えば、ある調の構成音の集合(7音)に基いて「調性」を推定するといったやり方が考えられるでしょう。楽理上の説明として一般に言われていることとして、転調が起きたことの確認は、その7ビットの外の音を使った時ということになっていることなどを判定の規則として用いるわけです。

 他方で、調性を前提としてしまえば、以下のような考え方もあるかと思います。ある時点で3つの音が鳴ったとします。その3つの音が含まれうる調性の候補の集合を持つ。ビット列が遷移するにつれて、その候補の集合も変わっていきます。そのうちに中心音が浮かび上がってくるのでは、という発想です。ただ候補の集合の要素はあまり絞り込めないことがすぐにわかる。五度圏だと両隣は常に候補に含まれます。逆に不協和であっても調性決定上は強い制限のある音程もあります。いずれにせよ、一つ前、二つ前、と記憶をたどって、最も確からしさの大きい調性を求めるというやり方が思いつきますが、これはうまくいくものでしょうか?

 一つ興味深く思われるのは、もしビット列の遷移上でそれが可能であれば、それはピッチクラスから更に対称性を除いたコードのパターンのレベルで解ける問題だということで、上で入力として別に求めたどれがバスかという情報は不要ということになる点です。まあつべこべ言っていないで、試してみるべきかも知れませんが。もう一つ言えば、このやり方は措定される調性の候補の集合というのを持たないとならない。長調・短調の2種類は仕方ないとして、教会旋法など、他のシステムが用いられている可能性はないのかとか考え出すと、やはり問題の立て方が逆立ちしているように感じられてしまいます。仮に作る側からすれば特定の調性システムありきであっても、聴く側にとっては、それは分析の最後に得られるものであって、調的には曖昧であっても中心音はこの辺にあるとか、この音とこの音が拮抗しているということが言えないものだろうかというように思ってしまいます。さしあたってマーラーを分析するのであれば、24の長調・短調の調性のそれぞれの間に距離が定義された空間を想定して、その空間の中で軌道を描くイメージでも構わないのかも知れませんが…

 なおもともとの(2)の疑問、IV→IとI→Vの違いそのものについて言えば、結果的には指摘の通り、その文脈での中心音の違いによる、というので全く構いませんが、上述の通り、こちらも同様に中心音を天下りに与えたくなく、和音の系列自体によって浮かび上がってくるものとしたいというのがここでの立場となります。その時に直ちに考えられるのは、過去の系列についての記憶を入力とすることですが、それだけではなく、五度圏上、ないしビット列上での操作としては軸対称となっている左シフトと右シフトが抽象する前の対象では異なっていること、それは結局のところ、どちらのピッチが相手に対して低い/高いという音高を捨象していることに由来するわけで、最低限バスがどのピッチかという情報を補うことによって過度の抽象による対称化を補正することが必要なのだろうと思います。そしてそのことは、振動比に基づくポテンシャルの大きさの系列を保存することにもつながります。
 
 一方で、音高ということで行けば、隣接音とか導音といった相対的な音高(=振動数の差)に依拠したメタファーに基づく水平方向の概念が楽理にはありますが、それらをどう考えるかというのが別の問題としてあるかと思います。シェンカーのウアザッツにおいても、上声の動きはウアリーニエとして重視され、それは第5音ないし第3音から主音に下降する図式が典型とされているわけですが、それと振動数の比に依拠した和声的な(つまり五度圏上でのピッチクラス間の)距離の概念とが、いわば共存しているように思われるのです。突飛な喩えになりますが、数論における加法と乗法の微妙な関係は様々な未解決問題、予想を産み出す源泉となっているようですが、ここでの振動数の差と振動数の比という2つの概念は、加法と乗法の関係のように強固なものではなく、寧ろ水と油のように異質に感じられつつも、機能和声においては緊密に結びついたものとして立ち現れます。また、一方は上昇/落下、他方は緊張/弛緩というようにいずれも物理的なポテンシャルに結び付いていることについては、別に考えてみる必要を感じます。

 最後に、この辺りの議論については、クラムハンスルによる和声認識についての認知心理学的な研究を思い浮かべる向きがあるかも知れません。しかしここでの立場から眺めると、それは西洋の伝統的な音楽を学習用データとして学習したネットワークに対して任意の和声を与えて、学習済みデータによって形成された重みに基づいて協和度を計算させているように見えます。クラムハンスルがプローブ音法によって求めた和音の「親近度」に基づく距離をベースにすることは、結局のところある文化的伝統に属する音楽の統計的な平均に対して、マーラーの作品の和声進行の持つ「逸脱」がどのように関わるのか、それで逸脱の度合いを測ることができるのか、或いは、どのように適用するかにも拠りますが、逆に逸脱の度合いを測ることにしかならず、固有の力学を取り出すことはできないのでは、といった点が気になります。もう一つには、それが必ずしも物理的な協和度の高さと一致しているわけではない点が挙げられるでしょう。つまりそれはある文化の「閉域」の内部でのみ有効であって、その外部に対しては有効でないとしたら、マーラーの音楽の周縁性というものがそれで捉えられるものなのかという疑念が湧いて来ます。
 
 物理的な協和度と聴感の乖離は、和声のみならず、音程の協和についても指摘されており(ヘルムホルツが倍音構成に基づき演繹した不協和度に対して、プロンプ、レヴェルトが実験結果に基づいて帰納した不協和度を比較検討したものが知られています)、これをどう考えるかはここでは扱いきれない問題ですが、上記の通り、それは音楽が単なる物理現象ではなく、社会的・文化的な構築物であるということを示しているとともに、音楽が何の為に存在するのかという点にも関わるように思えます。実際のところ、音楽が物理的な協和度に従うものであるならば、音楽は文化的・社会的な差異を持たない均質なものである筈ですが、現実には極めて多様なシステムに基づく音楽があるというだけはなく、その多様性は物理的な協和度という基準では到底測れないい複雑さを備えていることは明らかなことに思われます。

 他方で、ピッチクラスに相当するビット列上のパターンから更にシフト対称性(五度圏の回転対称性に相当)を取り除いていくという抽象化の方向については、ドミトリ・ティモチコの『音楽の幾何学』におけるオービフォルドを用いたマップ構成の試み、或いは「一般化された調性ネットワーク」の提唱について調べてみる必要があると考えています。その理論は極めて一般性の高いもののようですし、説明能力の高いもののようですから、既にそこで答えが示されている問題もあるのではないかという期待もあります。他方ではそれが抽象化への方向を持つ限りにおいて、理論的な知識のない聴き手にとってどう聴こえるかをシミュレートするというここでの目的とは相反する方向を持つようにも思います。

A3.について:これは西洋音楽の理論的な捉え直しのようなものですから、私のような音楽理論を専門に勉強したこともない人間の手には余る問題です。確かにダマスコの聖イオアンにアトリビュートされるビザンツのオクトエコスにはA,H,Cを終始音とする旋法はなかったようです。実作でどうだったかはともかく、イオニア旋法、エオリア旋法は一体どこから来たのか、それが後年機能和声の枠組みで特権的な旋法として選ばれ、発達したのはどういう理由なのかというのは興味深いテーマでしょうが、このことについての説明というのも寡聞にして知りません。どなたかご存知の方はいらっしゃれば、是非、教えて頂き炊く思います。

 一方で、dur-mollのビット列の並びや五度圏上での重心を確認した限りにおいて言えるのは、それが実は(マーラーもその中に含まれる伝統の中で産みだされた膨大な作品に基づく学習により形成された感覚とはずれていますが)それが相対的には不安定なものであり、緊張を孕んだものであるということでしょうか?いわばそれはポテンシャルの空間の中での最低点ではなく、相対的には安定しているものの、寧ろその周辺の地形が多様性に富んでいて複雑なシステムを構築することが可能になるような場所なのではないかと思えるのです。繰り返しになりますが、ドリアンモードなら安定しているわけで、これが教会旋法では第1旋法であったのは故なきことではないのでは、と思います。そのことと裏腹の関係だと思うのですが、その替わりそれは静的で、変化の可能性が限られた閉じたシステムとならざるを得ないのではないでしょうか?(勿論、形式的には旋法を定義し、旋法上に和声とカデンツを定義し、旋法間の変換(転調に相当)を定義し、というシステムの構築は幾らでもできますが、振動比のような物理的な基盤の側から見たときにコストが小さく「自然な」ものという観点からすると、安定したシステムは変化の余地が乏しいというようなことは言えるのではないかと思います。この点については(3)の問いと関わりが深いと思われるので、そちらで改めて論じることにします。

 いずれにしても、ここで問題にしたいのは、イオニア旋法、エオリア旋法が長調・短調として選ばれ、それを元に和音に機能を持たせて、というように展開していく中で、選ばれた旋法の中心音が重心からずれていることがどのようにシステムに影響しているのか、ということです。繰り返しになりますが、単音、二音、三和音で重心がずれていく、しかも長調と短調でずれ方が異なり、対称的でないことは、機能和声の三和音のシステムの力学は五度圏上の重心だけでは説明できないということなのだろうと思います。発想としては、主三和音の重心に「何かの変換」を施すと中心音が出てくる。しかもそれが長調と短調の両方を含む(但し完全に長調と短調が対称である必要はない。歴史的にもピカルディの三度のような偏りがあるし、ソナタ形式における第2主題も、長調ならVだけれど、短調なら並行調のIIIというように非対称になっていて、それらは構造的に関連している筈だと思います)ということになるのでしょうか?長調も短調も、本来の中心音からズレたり、対称性が崩れてたりしていることが、逆にシステムの複雑さを可能にしているようなことが起きていると考えることはできないでしょうか?(ここでの説明は、「中心音」を機能和声に支えられた長調・短調の2つの調性によるシステムにおける「主音」と同一視する前提に立てば、ナンセンスに思われるかも知れません。けれども理論が全くの数学的な構築物ではなく、実際の聴こえ方に根拠を持つものだとしたら、果たして理論で定義された「主音」と「中心音」が常に一致することは自明とは言えないのではないか、短調の主音と長調の主音は機能的にも異なるのはないか、ということが言いたいのです。)

 ちょっと飛躍しますが、こういうイメージが浮かびます。ウルフラムの一次元のセル・オートマトンの有名な実験があります。初期値を変えるとその後の振る舞いが変わるけど、おおまかに4つのクラスに分かれるというあれです。ここではビット列の初期配列を変えるのではなく、「中心音」の計算の「何かの変換」にあたるものを変えていく、するとある場合には複雑な挙動が起きる余地ができ、ある場合には美しくシンプルな挙動しか
起きない、といった感じです。勿論、あれかこれかの二択ではなく、程度問題ですが、機能和声はあえて前者をとったのではないかと思うのです。その時ポイントは第3音(しかも短三度・長三度の二種類があること)にあるように思います。オクターブ・四度・五度のような単純な振動比を持たない要素を入れ込んで中心音の定義を書き換えることで、音楽に動性を持たせることができるようになった。最初はそれでもオクターブ・四度・五度のドミナントのシステムにいわばはめ込んで使っていたのが、次第に一人歩きを始める。更に長調・短調間の変換が定義されると三度関係を軸とした変換の可能性が開拓され、そのうちに出発点に戻る力学的な理由が希薄になっていき、その果てに発展的調性のようなものが出てくる…あまりにラフなイメージですが上記のようなイメージが浮かびます。

ついで(3)について
B.(3)については、そもそもが些か禅問答的になりますが(もっともこの問いは、ギリシア以来の存在論的な疑問、しばしばライプニッツに帰せられる「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」をも連想させますが)、人間(生物)は常に変化を知覚するから、つまり、自分が定常的な状態でも、外部が変わればそれに適応して反応する必要があるから、外部からのきっかけで安定状態が崩れることで音楽は始まる
といった答えが考えられると思います。

 音楽においてもLeonard Meyerの緊張→弛緩という図式は良く言われますが、これは物理系だと振り子のような系、不安定な状態に(外的な要因で)なった系がだんだんと定常状態になる過程の説明でおしまいになってしまうように思います。一方、ここで問うているのは、いわば逆向きの動きで、最初に主和音から始まり中心音が定まっているのに、そこから不安定な状態になる、というのは、止まっている振り子が動き出すようなものです。

 なお、シェンカー理論のウアリーニエ、即ち上声部は典型的には第3音乃至第5音から下降して主音に帰結するという図式は、物理的な落下の法則に一致しているように見えます。けれどもそれはウアザッツの一部であって、和声的には、まさに問題にしたI-V-Iの図式がそれを支えているわけです。そしてここで問題にしているのはまさに後者です。、ソナタ形式を例にとれば、ソナタ原理のテンプレートでは、上声において、例えば第3音から第2音への下降が提示部の第2主題部で起きて、和声はVとなる。上声部の下降はそこで中断され、和声的にはVが延長されたまま展開部に入り、再現部の第2主題になって上声は主音、和声的にはIに帰着するというのが一つの典型とされるようですが、色々な出来事が起きて緊張が高い状態となるのは一般には展開部であって、冒頭に最も高かった緊張が単調に弛緩するというのは多くの場合当て嵌まらないし、仮にそれを認めたところで、マーラーのソナタ楽章のような長大な楽曲を支えているのは、寧ろその緊張を継続し、解決を延期するメカニズムにこそあるのではないかとも思えます。しかも発展的調性をとるマーラーの作品の場合、楽章単独にしても、全曲を通しても、冒頭主音と思われたものが実はそうではない、ということが起きている筈です。どうしてそのようなことが可能になるのか?マーラーのソナタではしばしば第2主題は長調の場合でも属調をとらず、短調の場合も並行調を取りませんが、そのことは図式をどう変えてしまうのか?長大な、しかもしばしば回帰さえする序奏がこうした脈絡において果たす役割は何か、必ずしもシェンカー図式を典型とし、それからの逸脱と捉えるのではなく、等しく存在する可能性の1つという資格で、その力学を考えてみたらいいのではないかというように思う訳です。

 言い替えると、緊張→弛緩は、音の構造に内在的に説明できるけど、逆は、外からエネルギーを加えてやらないと起きないことになる。音楽は、複雑系(生物もその一種)であって、外からエネルギーが加わって動きだし、エネルギーが供給されることで運動を続けるシステムとして捉えるのが自然なように思えます。つまり音響態の外部が音楽には必要で、それを辿っていくと、例えば由来に行きついたりしないだろうか、と思ったりもします。外部で何かが起きたことへの反応として、歌う衝動が湧いて、歌が始まる。歌のはじまりのきっかけは外からやってくるというように言える道筋が浮かんで来はしまいか、というように思っています。勿論一足とびにそこには行けないでしょうが、それでも三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」の定義は、中心音を定義してから始めることもそうだし、音響態の外部の「由来」を「音楽」の構成要件として必須のものとすることによって、今ここで現象論的にアプローチしているものを、まさに逆側から仮構し、シミュレートするものであると言えるように思うのです。

 そもそもの発端は、音楽的時間を考えるときに、小説や叙事詩に喩えられるような、人間的なドラマの時間が一方であり、他方では、自然法則に近いような時間の展開があって、コンピュータにとっては後者は扱いやすいが、前者は親和性が低いというような話があって、じゃあ、音楽を物理システムみたいに眺めたらどうだろう、というあたりが出発点でした。

 一方で、マーラーに関するモノグラフがあり、邦訳された文献としては『ベートーヴェンの美学』があるDavid B. GreeneがNelson Goodmanのメタファー的例示(examplify)を援用しつつ、西洋音楽の時代様式をモデルとなる時間性と対応付ける際の具体的な時間表象の不適切さのことも思い浮かびます。そこではバロックの音楽の時間性をニュートン的な時間、ないし時計をモデルとする機械的な時間と対比させているわけですが、勿論、メタファーといってしまえば何でもありとは言いながら、音楽を振り子や時計との類比することは、そもそも不適切なのではないかという気がしてならないのです。(もっともGreeneのメタファー的例示についての疑問は、バロック時代=ニュートン的時間に留まらず、その他の時代の音楽にも、マーラーについての分析にも当て嵌まります。個別の楽曲分析そのものは示唆に富んでいるにも関わらず、肝心の時間論的分析は惨憺たる有様といって良いと思いますが、前に別のところに備忘を記したことがあるので、ここでは繰り返しません。)力学系といっても、外部からのエネルギーの供給がない振り子の振動のような閉鎖系だと単純すぎて、放っておいても起こる緊張→弛緩の過程の説明にしかならず、これは音楽において起きていることの半分の説明にしかなっていないように思うのです。緊張と弛緩を繰り返すようなものは、最低でも散逸過程じゃないといけない。にも関わらず、普通される音楽の構造の説明って、その後半の部分の話が多い、というかそっちばかりな感じがします。もっとも、どのようにして音楽を前に進めるかは、それこそ規則で決まるようなものじゃないのでしょうが…

 一般に複雑系というのは散逸系で動的不均衡で準安定なわけですが、そもそも音楽は(比喩じゃなく、上記のビット列の力学系の挙動として)まさに複雑系的な挙動をするような系であるというように言えるのではないかと思うのです。外部からエネルギーを与えるというのを、いきなり音楽外の要因が音楽の局所的な振舞に影響を及ぼす、と考える必要なない。勿論、そういう場合があってもいいでしょうが、そうではなく、エネルギーの流入で系の変化に自由度が増した結果、局所的にゆらぎが起きたときに、系がどちらの方向に発展するかについて、必ずしも決定的ではなく、カオス力学系とかで観測される分岐のような現象が起きているようなケースもあるのではないか?

 発展的調性というのは、どこに辿り着くかが事前に決まっているのではなく、複数の調的な極の間で競合があって、そのどちらかが選ばれるような系が条件となります。言い換えれば、発展的だが決定的というのはなくて、寧ろ、不決定性があるから、ある時には
開始の調性に回帰し、ある時には関係調に、ある時には遠隔調に辿り着くということが起きると考えるべきなのではないだろうか、というようなことを思っています。準備なしに遠隔調に転調するのはコストからすれば大きいわけですが、それもあるベイスンから脱出して尾根を超えて隣のベイスンに移るには、尾根を越えるためのエネルギーが必要だというように記述できます。すると遠隔調に転調するような複雑な音楽の場合には、きっと常にコスト最小の原理で遷移プロセスが定まっているわけではないのだと思います。

 一方で上述の通り、セルオートマトンのような単純な力学系でも、規則の与え方によっては複雑なプロセスが起きたりもします。(こちらの場合は当然、計算して内部状態を書き換えて、系が動くには外部からのエネルギーの供給が前提です。)だとしたら、前半部分の緊張を起こす方の側だって、衝動とか霊感でおしまいというのは性急で、もう少し
音楽が勝手に進んで、時として緊張が高まっていく論理というのがあるんじゃないか、というようにも思えます。勿論の西欧の音楽は、セルオートマトンとは異なって、決定的な書換え規則に従って動いているわけではありません。でも、全く出鱈目というわけでもなく、何かそこに傾向のようなものがあって、それをデータから抽出してみたい。それはどのような音楽でもある程度普遍的に通用する緊張→弛緩の過程の一般的な説明(これが楽理なのでしょう)とは別に、緊張がどのように作られていくか、その結果として解決が遅れたり、宙ぶらりんになったり、etc.ということが起きることを可能にするような、何らかの条件であるはずで、それをできたらデータから導きたい、というように考えているのです。

 またこのことは、だからこそ音楽は「時間の感受のシミュレータ」たりうるのではないかという点にも関係すると思います。それは具体的に何が起きたかについての「記号」にはなりませんが、(それを記号と見做してプログラム=標題を外から与えるのはまた別の問題です。)どのようなことが外部から到来したか(、そして、或る種の音楽はそれよりも一層どのような反応が起きたか)について、「時間の流れ方」という形で証言することはできるのではないでしょうか?それは或る種の抽象には違いないですが、通常の抽象とは逆に「記号」とか「意味」とかの認識の内容的な面を捨象して、感受の様態であったり、それに伴う情動とか身体的な反応といった側面のみを抽出し、他者にそれを(共感という形で)伝達するものなのではないでしょうか?
(2019.12.7公開、12.8, 12.17, 28加筆)


2019年11月17日日曜日

MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):和音の分類とパターンの可視化(2021.8.23更新)

重心計算を除けば、MIDIデータを入力としたこれまでの作業は、ほんの初歩的なデータ処理に過ぎなかったわけですが、ようやく「音楽」として普通にイメージされる分析の出発点として、各小節頭拍で鳴っている和音(含む単音、2音)を

(1)ひとまず転回を無視して分類
(2)単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音を抽出
(3)転回を判定するために、最も低い音を抽出
(4)上記を用いて、長三和音、短三和音が鳴っている時点を転回つきで抽出する

といったことをやってみました。データとしては既に公開済の基本データのなかのseqと呼んでいる、同時に鳴っている音の組み合わせの系列を抽出したデータのうち、B系列と呼んでいる各小節頭拍のデータのみを抽出した結果を使いました。ただしそれだけだと(4)のための情報がないため、上記に加えて、同時に鳴っている音の組み合わせのうち、最低音の音名の系列を抽出したデータを用意しました。

結果を示すために、リュッケルト歌曲集の「私はやわらかな香りをかいだ」についての上記の処理結果を図示したものを以下に示します。



一番左の列が(1)の結果です。37小節分のデータがあり、そのうち36小節を分析しています。(MIDIファイルでは、曲頭の小節を色々な初期設定情報を詰め込むためのダミーとすることが良くあります。)和音のパターンは、単音、2音はすべて、三和音、四和音、五和音、六、七、九は分析対象としたマーラーの作品(全交響曲と幾つかの歌曲)や比較対照用の他の作曲家の作品に出現するものを直観的に頻度が高そうなものを130種類くらい用意しました。

  • 4,5行目に0小節,100%と出ているのは、未分類の和音の数、分類進捗率を示します。未分類の和音がなく、分類がすべて終わっていることを示します。
  • 6,7行目の15小節、41.667%というのは、3和音, 4和音からなる小節数、占める割合です。
  • 8,9行目の0小節、0%は、5和音以上の複雑な和音の小節数、占める割合です。この例では5和音以上の複雑な和音は使われていないことを表しています。

10行目以降が各小節毎の和音の種類を示します。
背景色は、単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音についてはパターンを表現し、その他の和音については、3和音なのか4和音なのか、5つ以上の複雑な和音なのかの分類を表現したものです。数字は例えば32がCの単音、256がAの単音、2057は432はGesの長三和音といったように、和音のパターンを示します(ビット表現を10進数で表したものです)。またわかりやすさのために、1音、2音のは文字色を青に、未分類の和音は文字色を赤にしてあります。この歌曲は「大地の歌」の末尾と同様、付加6の和音で終わることで知られていますが、最後の背景色桃色の番号3456はDの付加6を表しており、正しく抽出されていることがわかります。

二列目が(2)の結果です。

  • 4,5行目に4小節, 88.889%と出ているのは、単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音には分類されない和音の数、単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音の占有率を示します。4小節分は、上記に含まれない特殊な和音が使われていることを示します。
  • 6,7行目の21小節、58.333%というのは、単音と2音のみからなる小節数、占める割合です。
  • 8,9行目の11小節、30.556%は、長三和音、短三和音、七の和音、付加6の和音の小節数、占める割合です。
  • 背景色の定義は(1)は一列目に準じますが、ここでは背景色が白い部分は単音、2音、長三和音、短三和音、七の和音、付加6のいずれでもない和音を示します。またわかりやすさのために、1音、2音のは文字色を青にしてあります。
三列目は分類された和音パターンにラベルをつけたものです。同一の分類に属するビットパターンを正の整数とみなした場合の最小値としています。例えば単音の場合には、1,2,4,8,16,32,64,128,256,512,1024,2048の12種類(それぞれDesから五度圏のドミナント方向廻りにFisまでの12音の単音に対応)がありますが、このパターンのラベルは、12種類の中の最小値である1としています。最後の小節の27は付加6の和音のパターン(転回形は同じパターンに属するとして区別しない)を表します。

五列目・六列目が(3)の結果です。
各小節頭拍で鳴っている音のうちMIDIコードで最も小さい値=最も低い音の音名のみを抽出したものです。数字は音名を表します。ここではDesが最下位ビット、Fis=Gesが最上位ビットとしてビット列を定義しているので、数字と音名との対応は以下のようになります。
Des  1
Aes 2
Es 4
B 8
F 16
C 32
G 64
D 128
A 256
E 512
H 1024
Fis 2048
背景色は私の持っている色聴をベースに、しかしそれに似せることを目的とせず、それらしく区別ができるように上記の数字と音との対応に基いてColorindexの中から適当な色を選択しています。なお、参考までに、同様の方法で最高音を抽出して色づけしたのが、名七列目・八列目になります。

四列目が(4)の結果となります。
(2)の中の長三和音、単三和音だけに注目して抽出したものに対して、各小節頭拍において(3)で抽出した最低音の音名から、それが各和音の基本形か第1転回形(6の和音)か第3転回形(4-6の和音)かを文字色で表現しています。即ち 黒=基本形、緑=第1転回形、赤=第二転回形です。文字はその音名を根音とする長三和音、単三和音に相当する音の組み合わせがその小節の頭拍で選ばれていることを表す形式的なものであり、楽曲分析の結果得られた主音を意味している訳ではありません。

背景色は、(2)に準じますが、長三和音、単三和音のみなので、ピンク色が長三和音、橙色が短三和音を表します。またここでは背景が白で数字が入っていない小節は、長三和音、単三和音以外が頭拍で鳴っていること一方、背景色が灰色の部分は、その小節では音が鳴っていないこと(ビット列に対応する数字は0)を示します。曲頭の灰色はMIDIデータにおけるダミーの小節でなければアウフタクトで始まる場合を表しています。曲末の灰色はその手前が最後の小節であることを表しています。

以上からわかる通り、ここで行っているのは通常の意味での楽曲分析ではなく、その手前の鳴っている音名の組み合わせが何であるか、またその最低音の音名が何であるかについての「記述」に過ぎません。しかしながら、上記の情報からだけでも、ある作品に使われている音の組み合わせ・和音の種類数の多寡とか、利用頻度の偏りといった統計的な情報が得られますし、特に主和音の基本形・転回形の出現頻度も同様に調べることができます。また単純なドミナント・サブドミナント・ドミナントセブン(と付加6)によるカデンツに相当するパターンを抽出することも可能でしょう。ただしあくまでもここで抽出できるのは、音の組み合わせの遷移のパターンであって、楽曲分析において機能づけされた和音のカデンツを見出すこととは違いがあります。例えば調性の概念や中心音の概念はまだありません。それらをアプリオリに前提とせずに、選ばられた音の組み合わせの系列の遷移過程を眺めることで、マーラーの音楽の特徴のようなものを抽出できないか、というのがここでの問題設定であることがご理解頂けるのではないかと思います。

最後に、今回の分析をやったづれづれの感想を記しておきます。また計算結果が出たばかりで、結果を細かくてみているわけではないのですが、幾つか今後の作業を進めるにあたって方針づけとなる知見も得られたように思います。

これまでに重心軌道計算結果や基本データを公開してきましたが、今回の分析をするにあたって、MIDIファイルから抽出された入力データが、そもそも(完全にではなくても、分析を進めるにあたって支障とならない程度には)正しく小節頭から抽出されているかをはじめとして、MIDIファイルのデータの信頼性について、大まかにではありますが検討を行いました。

その結果、従来の基本セットについて幾つかの問題があることがわかりました。そのうちの一つは、DTMの領域では「クオンタイズ」の対象とされる問題、つまり通常は演奏されたデータにつきもののタイミングのばらつきのために分析上正しい位置に音が存在しないことに由来する問題です。これは従って一般的にはMIDIシーケンサが持つ「クオンタイズ」の機能を用いれば解決する性質のものです(ただしそれを全自動でやることは非常に難しく、今日のAIのベースとなっている機械学習の恰好の問題であると思われます)が、「クオンタイズ」を行うことは楽譜への忠実さという点からはプラスになっても、それを聴いて利用する点からは却って不自然になる可能性もあり、目的に応じて判断は変わってくるでしょう。いずれにしても歌曲のデータのうち、最も多くの歌曲のデータを公開しているサイトのMIIDファイルが、「カラオケ」を提供するという目的故に、ここでの目的に限って言えば極めて信頼性が低く利用に耐えないらしいことがわかりました。それを踏まえて基本セットの見直しを歌曲について行い、対象作品を限定しました。(歌曲では、特にピアノ伴奏版において、高声用、中声用、低声用といったように原調から移調されたヴァリアントが存在するという事情もあります。)

この「クオンタイズ」に纏わる問題は他の交響曲のMIDIデータでもかなりの頻度で発生していますし、類似した問題として、拍の頭がグリッドに対して規則的にずれている、それがチャネル毎に異なるようなケースもありますが、結果だけを見て、それが単に「クオンタイズ」をしていないだけなのか、楽器の特性等を考慮して意図的にずらしたものなのかを判断するのはしばしば困難を伴います。いずれにしても、「拍の頭で鳴っている音を抽出する」以上、鳴っている筈の音が、ほんのわずか遅れて鳴り始めるために拾えないこともあれば、前の拍に属する音が次の拍にかかってしまっていることもあるといった事態が致命的なことはご理解頂けるかと思います。この問題については分析の際に或る程度の補正をすることは考えられ、実際に試行も行っていますが、補正が常にうまくいくとは限らず、却って元のデータを誤って加工してしまう可能性が排除できないことから、公開しているデータは補正を行わずに解析を行った結果をとしています。

上記以外にもMIDIファイルの仕様に由来する(つまり楽譜だけからは思いつかないような)問題もあります。そのうち今回の分析にとって致命的なのは、タクトの情報が欠落している、或いは入っているがずれている場合です。これも入力したデータを再生して聴くだけなら全く問題が起きないことから、そもそもMIDIデータ作成の目的が異なれば仕方ないことではありますが、小節の頭拍の和音を抽出しラベルづけする、重心を計算するといったことをしようとした時には大きな問題になります。特にマーラーの場合、変拍子が比較的頻繁に発生するので、単純には解決できません。(その一方で、聴感上の強拍と譜面上のそれが意図的にずらされているケースもまたマーラーの場合珍しくないですが、こちらは別の問題で、そもそも小節の頭拍を機械的に抽出するという、今回のアプローチ自体の問題になります。)

もう一つ、これもマーラーの場合に特に問題になるのが打楽器の扱いです。MIDIの仕様上、ピッチの決まらない打楽器はデフォルトでは第10チャネルに割当られてられ、この場合に限り、MIDIノートナンバーが音高ではなく、音色の違いを表しているのはご存知の方も多いかも知れません。ただしMIDIファイルの作り方には大きな自由度があり、シーケンサによってやり方は様々です(従って入力をする人間がそれを常に意識しているとは限りません)。打楽器でもピッチのあるものは別チャネルになっている場合もあれば、第10チャネルの中に混在している場合もあります。後者の場合にはMIDIノートナンバーが実質的にピッチを表している場合とそうでない場合が混在していることになり、はなはだ厄介です。そこで考え付く極端な解決策は、第10チャネルを解析の対象から除外してしまうというやり方で、最終的にここで選択されたのは、実はこのやり方です。ピッチがある場合でも打楽器はその音色の特性からピッチが明確に聴き取れるわけではなく、しばしば他の楽器によって同じピッチが裏打ちされていることを考えれば一定の妥当性があるようにも思えますが、ご存知の通り、マーラーの場合にはティンパニを初めとして打楽器のソロというのが珍しくないので、MIDIデータの作り方によっては、そうした部分が切り落とされてしまうということが起きてしまいます。結局、何を目的で分析を行うのか、その是非を決めることになり、今回、私は、最終的にはそれを含めることで、分析結果にノイズが入り込む可能性よりも、それを除外することで一部の和音から音が欠落することの方がより問題が小さいという判断をしたことになります。

こうしたことを考えると、ありとあらゆる場合に対応した解析プログラムを作成することは非常に面倒な作業になるため、現実的な割り切りとして、対象としているデータセットにおいて問題が起きないようにプログラムを作るといったことが必要になります。その時、特定の人が特定のMIDIシーケンサを使って入力したデータは基準が統一されていることが期待できるので、対象データの選択にあたっては、まずカバレッジ(被覆率)の高い作者のデータを用いることが最初の選択肢となりますが、その際には、例えば入れ間違いの頻度といったことも含めた他の問題を抱えていないかどうかも併せての判断となり、しばしば一部の問題点については目を瞑らざるを得ないということが起きます。一長一短あるならば全てのデータの結果を公開するという発想もあるでしょうが、今度は、全てのデータについて対応できる汎用的なプログラムを用意すること、全てのデータについて、それぞれに異なる制限を確認する膨大な作業が発生することを考えると、これもまた現実的な選択肢になりませんでした。

ということで現在公開しているデータセットは、上記のような様々な事情を勘案した上での或る種の妥協の産物であるに過ぎない点をここで明確にしておきたく思います。末尾に記載の[ご利用にあたっての注意]は、この場合に限っては形式的なものではなく、実質的なものであることにご注意ください。(ちなみに上に例として出した「私はやわらかな香りをかいだ」は、上述の様々な問題の影響が比較的少ないことを確認して掲出することにしたものです。)

また比較対照用に用意した他の作曲家のデータについても、今回の分析で大まかな傾向ではありますが、それなりに興味深い知見が得られました。

例えば今回用意した130くらいのパターンで、バッハから古典期にかけての作品は、あくまでも選択された作品の範囲ではありますが、ほとんんど分類可能であることが確認できました。その傾向は特に声楽曲に強いように見受けられました(声楽曲の方が単純、ないし保守的な傾向があるようです)。ロマン派ではブラームスに比べてシューマンの方が未分類の和音が若干多い傾向が見られました。ブラームスは和音が凝っている印象があったのでちょっと意外な気もしましたが、曲の選択のせいかも知れませんし、上述のMIDIファイルの精度の問題のせいかも知れません。マーラーはここでの分析結果に限れば、未分類率だけからすればシューマンの方により近く、作品によりばらつきがあるブルックナーやワグナーと似たような傾向を示す一方で、ラヴェルやシュトラウスは明らかに未分類率が高く、複雑な和音を用いていることを窺わせます。聴感とも一致しますが、マーラーが全音階的とはいっても、和声の種類について言えば保守的でもなければ単純というわけでもなく、その特徴を表すものが何なのかを突きとめるには、時間をかけてきちんと調べる必要がありそうです。ただし、今回確認した範囲でも、マーラーの中では、歌曲の方が複雑な和音を用いる程度が低く、年代区分としては、後期にいくに従い未分類の和音が増加する傾向は認められるように思えます。

転回形に関連して一つ不思議に思ったのが、シェーンベルクがプラハ講演で、マーラーの第8交響曲第1部におけるEsのIの4-6和音(第2転回形)を頻繁に用いていると述べている件があるのを何となく覚えていて、どうかと思って処理結果を眺めてみたのですが、単純な三和音だけに限定すれば、文字通りのEsのIの4-6和音(第2転回形)が有意に多いようには思えませんでした。ただしEsのI和音全体としてみれば、他の作品に比べて頻度が高いのは確実に言えそうです。しかもここでの分析は小節の頭拍のみに限定していますから、それ以外の拍に出現したEsのIの4-6和音(第2転回形)は考慮されていません。全ての拍について調べてみる必要もありそうです。

なお、上記の分析結果のデータのうち、マーラーの全交響曲と一部の歌曲のデータを以下で公開しています。

https://drive.google.com/file/d/1WlBYSIrJIgKi4cV039sa5rl5YzbpfLZr/view?usp=sharing

解凍するとexcelファイルが3種類とpdfファイルが1種類出てきます。
pdfファイル(experimental_MidiFileName.pdf)は対象となったMIDIデータ・作品の対照表です。excelファイルについては以下の通りです。

chord_seq:上記の1列目(sheet1)・3列目(sheet3)に対応。sheet2は3列目で用いているラベル毎に、各グループに属するビットパターンの類型出現回数を集計した結果です。
main_chord_seq:上記の2列目に対応
bass_seq:上記の:4列目(sheet1)・5列目(sheet2)・7列目(sheet3)に対応


用いているMIDIデータや対象となっているマーラーの作品については、以下の重心計算のページをご覧ください。

https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/09/midi.html

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。

(2019.11.17公開, 11.19データ公開, 11.22更新,11.24加筆・修正,12.1最高音のデータを追加し、第8交響曲第1部のEsのI46について付記、2020.1.28 データを改訂版に差し替え)、2.1 MIDIデータ解析上の様々な問題点について付記, 2021.8.23重心計算ページへのリンクを修正。)

2019年11月10日日曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析についての予想:発展的調性を力学系として扱うことに向けて

 「マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_4.html)の末尾で、マーラーの音楽の音響態としての構造のどこに「物語性」を成立させる契機が含まれるのか、ひいては「意味」を見出す手掛りがあるのかについて、漠然とした予感ながら、音楽が時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想を採り、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて音楽の構造を分析すること、しかも完全に客観的なデータの分析というのは不可能であるという点は踏まえた上で、作曲のためのユーティリティに過ぎない規範、或いは先行する時代のモデルとなる作品を分析するために設定された規範(例えばシェンカーのモデルもそうしたものの一つであろう)からの逸脱の距離を測るのではなく、マーラーの楽曲のデータそのものから読み取れるものは何かを探るというアプローチについて述べた。

 一方、そうしたデータ分析の実践として、「MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/09/midi.html)において、MIDIファイルを入力としたごく初歩的で予備的な分析について報告した際には、それまでに行った分析の具体的な問題点を思いつくままに述べたが、明らかなように、上記の中には、幾つか異なるレベルに理由が求められるものが混在しており、五度圏の円上の重心計算という方法に起因するものもあれば、それより手前の、相対的な音高の上下を捨象し、五度圏上での音の構成に限定してしまうことに起因するものもあった。

 前者の例としては、そこでの重心が西洋の和声学上の調的中心の近似としてはかなり粗いものに過ぎないこと、単純なところでは、同時になっている音が2つ以下の時は重心は五度圏の円周に近づく一方、中心からの方向が三和音(I)からずれていく点、言い替えれば、ある音の五度圏上の座標の円中心からの方向に対して、その音を主音とする調の主和音の座標の円中心からの方向がずれてしまうこと、更に、それが同時に鳴っている音の数に由ること、つまりトニカと空虚5度、根音のみの重心は、θがずれてしまうことが、伝統的な調的中心への近似としては問題がある点の他、和声→重心の写像がが一対一対応ではなく、逆写像が単射にならない。つまり幾つかの異なる音の組み合わせが同一の重心を持つことを挙げた。

 一方後者に属する問題点は、和声の推移のパターンの抽出をしようとすると、同一和声が複数時区間にわたって持続する情報はパターン抽出の邪魔(同じ音の連続というパターンとして扱ってもいいが、分類の観点からはノイズにすぎない)というような、単に重複を取り除くことで技術的には簡単に対応できるものは除くと、更に詳細に分類することが可能であり、根音や転回の有無の情報がなくなることは、五度圏に帰着させる際に音高を捨象してしまうというここでの方法論に起因するのに対して、以下の点は、寧ろ、このようなデータ分析をする上で、人間の分析者が、スキルやノウハウとして暗黙の裡に身に着けている処理が明示化されることが必要となるという、人間の作業の一部を機械化する情報処理システムの構築の際に起きる事態、特にAIの領域においては、かつて「知識工学」の課題として捉えられたようなレベルのものと考えられる。
・サンプリングする時刻において同時に1音、2音しか鳴っていない時、1音、2音で重心計算した結果を、3つ以上の場合と混在させることの問題。伝統的な発想では、1音、2音の時も常に3和音のどれかに帰着させるはず。
・上記を考慮しなくても、3つ以上の音の重なりの和声機能の候補は常に複数あり、調的文脈なしでは決定できないこと。長調・短調の区別すら文脈なしではできないこと。
 ここではこの問題を、データ処理における具体的なデータ構造に関連付けつつ、もう一度振り返ることによって、ありうべきデータ分析についてのイメージを示すことを目指したい。それは「マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ」末尾で述べたような、具体的にデータを処理しようとしてぶつかる問題への対応を一つ一つ検討していくことによって、既成の規範を暗黙の前提とすることなく、それをいわば現象学的還元して、寧ろそれが拠って立つ基盤を明らかにすることへの試みであり、規範からの逸脱としてではなく、寧ろ異なる選択肢を都度(アドルノの言葉を借りれば)「唯名論的に」選び取って、実質的な仕方で世界を構築する仕方を拡大していったマーラーの営みを明らかにする端緒となることを目論んでいる。

 そしてそれを出発点として、データ分析を進めていく際の、さしあたりの目標、サブゴールのようなものとして掲げた、発展的調性を力学系として扱うことへ向けての第一歩として、Dika Newlin 以来の発展的調性を、調的なスキーマ(ドミナント優位のシェンカー的図式ではなく、 同主調とか3度関係、サブドミナント側への連鎖などの使用や、転調のプロセス、 特に媒介なしの切り替えの使用など、Dahlhaus の言う「オリジナリティの原則」の周辺で、 具体的な特徴が取り出せるのではというように感じている)と関連づけ、これまた Paul Bekker 以来の交響曲という多楽章からなる楽式に関する古典的な問題、即ちフィナーレの問題と結び付けて再解釈することにより、マーラーの音楽の時間性の特徴である「物語性」にアプローチするための第一歩となればと考えている。

まずMIDIデータから抽出した、小節頭拍に鳴っている五度圏上音の集合を、12音各音を1ビットとする12ビットのベクトルで表現することを考える。ビットが立っている(=その桁の値が1である)場合に、そのビットに対応する音が鳴っていること、ビットが立っていない(=その桁の値が0である)場合は、そのビットに対応する音が鳴っていないことを表すとする。この時、調的遷移の過程は、このベクトル列上のビットの遷移パターンの系列で表され、その変化の過程を力学系として考えることができる。ただし遷移規則は今のところ未知であり、また遷移規則が求める付加的なデータ構造(典型的には直前ではない、過去の状態の記憶であったり、ビット列以外の外部的なデータであったりするだろう)については、その必要の有無も含めて、現実のマーラーの楽曲のデータからボトムアップに推定されるものと考えたい。遷移規則自体も伝統的な和声学や対位法、楽式論のような既成の規範に基いて天下りに与えるのではなく(そうしてしまうと規則からの逸脱を測るといった発想から逃れることは困難だ)、実際の作品が描き出す軌道から法則性を抽出するといった方法をとることにしたい。この枠組みだと機械学習で規則を学習させるというのも可能であろう。だがここではそうした先走った議論は一先ず措いて、上記のベクトル表現と、その上での遷移規則が具体的にどんな性質を持つことになるのかを、少し細かく見ていくことしよう。

 12ビットのビット列のどの桁に五度圏上のどの音を割り当てるかは任意だが、例えば下から6ビット目がCであり、かつその左隣、つまり1桁上が五度高いGを表すというように定めれば、隣接ビットが五度圏上でも隣接する音となる。 000001100000 と隣接ビットに1が立つ。あるビットに対応する音に対して左隣が5度上の音、右隣が5度下の音となる。また一番左のビットの更左隣は一番右のビットとなるという巡回的な構造となっている。つまり 100000000001 では、最上位桁と最下位の桁が隣接しており、五度圏の円を、丁度、最上位桁に対応する音と最下位桁に対応する音の間で切断して、直線に移したような具合になっている。注意すべきは、ここで定義したビット列上では転回形の区別がなく、五度と四度というのはビットパターンとしては区別がつかないことになることである。即ちCに対してGは五度上の音でもあり、四度下の音でもある。逆にCに対してFは四度上の音でもあり、五度下の音でもある。

 同様にして、長二度(短七度)は1ビット離れて 000010100000 、短三度(長六度)は2ビット離れて 000100100000 、長三度(短六度)は3ビット離れて 001000100000 、短二度(長七度)は4ビット離れて 010000100000 、最後に増四度は5ビット離れて、 100000100000 となる。最後のケースでは、左右いずれの側からも5ビット離れており、これは五度圏の円の反対側に位置していることに対応する。そして上記で同時に2音が鳴るケースの全パターンを網羅していることになる。
 同時に3音が鳴る、いわゆる三和音の場合に進むと、C音を主音とする長調のIの和音(ミソド)は 001001100000 のように表現され、ここでも転回形は区別されない。ドミナントもサブドミナントも、上記のベクトルを左右に1ビットシフトさせるだけでできるから、ビットパターンとしては区別がつかないことになる。一方で同主短調は、000001100100 平行短調は 001100100000 でビットパターンとしては長調の左右対称形になっていることがわかる。そして、いわゆる全音階の基本的な三和音は、ビットパターンとしては上記の2パターンに帰着されることになる。
 四音が同時になる七の和音、五音が同時になる九の和音も同様に、
001001101000、001011101000 となり、付加6の和音は 001101100000 で、後の2つのビットパターンは自己対称性を持つ。

 次に、こうしたビット表現に対してビット列とビット列の変換を定めると、典型的な変換としては以下のような操作が基本操作として考えられる。
(1)左シフト・右シフト(5度・4度転調)
(2)左右反転(長調・短調の転調)
(3)ビットを立てる(音を増やす)・ビットをクリアする(音を減らす)
常に3声体を前提にすれば(3)は不要になって楽だが、現実のデータはそうはなっていない以上、(3)の操作はパターンの遷移を記述する上で省略することができない。更には、同時に1つの音のみが鳴っている場合、2つの音のみが鳴っている場合に、それを三和音に帰着させるためには、ビット列の遷移以外の情報が必要となることがわかる。

 そしてこれらの操作のそれぞれについて操作にかかるコスト(必要とされるエネルギーの量)を考えることができるだろう。例えばドミナントやサブドミナントへの遷移は、(1)の操作1回で済むのに対して、それ以外の操作は(1)を複数回繰り返す必要があるので、その分コストがかかるといった測度が導入できることになる。同様にして、3度の転調でも短三度と長三度を比べると前者より後者の方が「意外感」が大きいのは、シフト操作の移動量が大きいからという説明が可能になるように思われる。同様に、ビットを立てるにしても、空虚5度から三和音なら1ビットの追加で済むように、三和音の構成音を抜いたり足したりのコストは小さいことになりそうだ。

  (1)(2)(3)の操作の間のコストの大小については何らかのやり方で決めてやる必要があるが、コスト関数が文化依存か物理的な一般性があるのかは今は問わないことにしよう。とにかく操作コストで距離空間を張ることができて、距離により意外性のようなものが測れると同時に、例えば転調の移行の際のピボットやドッペルドミナントとかサブドミナントマイナーのような借用和音も、やや大きいが一定のコストの範囲内で収まる操作として定義づけることができることから、「多少の捻りを加えることによって変化を与えつつ、比較的自然な推移を実現する」といったヒューリスティクスの根拠を、ある程度自然なかたちで定義することが期待できそうである。

 これまでの説明は、通常五度圏上で行われる議論を、ある場所で円環を切り開いて作られる巡回ビット列(一番左の左は一番右に繋がっている)の操作に置き換えているだけなので、当たり前のことを説明しているだけに見えるかも知れないが、逆に問題が起きる場合には、五度圏での説明自体が妥当でない可能性があることを念頭においておきべきだろう。或いはまた、ここでの五度圏の使い方が誤っていて、本来適用すべきでない事柄に不当に適用していることが原因である場合もあるだろう。例えば、既に例示したように、ここでのビット列での表現では音高の情報が落ちてしまい、和声においては転回形の区別がつかなくなっている。そしてこのことがビット列の遷移の規則を推定するにあたって問題を引き起こしている可能性がある。特に三和音の第2転回形である四六の和音は、単独の機能を持たず、前後の文脈に依存するという説明の仕方が為されることがあることに留意すべきだろう。ただし、音高の情報を喪うことが規則の推定にどの程度影響するかは明らかではないし、個別のケースに依存する可能性も考えられる。ここでも和声学は規範として第2転回形を使う際の制約条件を与えるが、データ分析において禁則が出現した場合に、それがどのような力学を持つかの説明はしてくれない(少なくとも私が知る限り)。上記の例で行けば、第2転回形についてだけ制限がつくのは何故なのかの説明はないし、第1転回形は形の上では異なるにも関わらず基本形と機能上の違いが無いのは何故なのかの説明もまたない。勿論、和音の並べ方の規範としては、まさに「単独の機能を持たない」ことが禁則の「理由」に他ならないのだろうが。序でに言えば、ビットの付加・削除の操作に相当するのは、声部の増加・減少だが、これも上で触れたように、和声学の規範の上では例外としての扱いを受けるもののように見える。特に声部が1つないし2つになった場合の力学は明らかではない。だが現実のデータではそれなりの頻度で出現するわけだし、規範からすればそこには不決定性や曖昧さがあるということであればあったで、力学系としてはそれも含めて記述したいのである。当然、ここでの音高を落としたビット列での表現が必要にして十分であるということを主張するつもりはなく、実際に分析をしてみて、それが致命的な問題を引き起こすのであれば、データ表現を音高を保存する形に修正すべきなのだが、一方で、ここでのビット列の情報だけで何が出て来るのかを見てみることも全くの無意味というわけではないだろうから、とりあえずはこのデータ表現を前提に議論を進めることにする。

 その一方でここのビット列での説明を、以前に行った五度圏上での重心計算および重心間の距離に基づく分析のモデルと比較した場合、両者には共通点がある一方で、重心計算では上記の(1)(2)(3)の操作が、重心による距離の空間で一元的に表現されるのに対して、こちらのビット列に対する操作については、ビットの左右反転操作(長調・短調間の移行)や音の数の増減が、ビットのシフトや反転とは異なる操作によって表現されることから、前者において生じたような角度上の捻じれが起きるような問題や移動距離が不自然(一度に鳴る音の数が増えれば増える程、円の中心に密集して、単純な距離定義では直感に反することになるなど)は気にせずに済ませることが期待できそうに思われる。(ちなみに調性の数学的モデルというのはそれだけで研究テーマとなるようで、例えば、Elaine Chew, Towards a Mathematical Model of Tonality, MIT, 1998 など幾つかの文献にあたっているが、五度圏園上の重心表示の方は多少接点があるものの、ここでのビット列の状態遷移の力学の方は目的が異なるため、ここでは参照は行わない。)

 さて、上記の説明は和声学の基本との対応づけを意識し、それをなぞるようにしているが、あくまでも説明の便宜上そうしているだけであって、ビット列の時系列上の並びが、実は和声学のような規範を意識して作られた作品から抽象されたものであることを一旦括弧入れしてしまえば、抽象的なビット列の遷移の系列について、ビット列に対すする幾つかの基本操作とその組み合わせによって遷移の力学を推定するという一般的な問題として扱うことができる。そのような見方をした場合には、ビット列上では区別がつかないある和音を或る場合には主和音と分析し、別の場合には属和音、下属和音と分析できるのが何故なのかを逆に問うこともまた可能になるだろう。だが、ここではそれはあくまでも後付けの説明であり、あくまでもデータをしたは或るビット列によって表現される同時に鳴らされる音の集合があり、それがある規則により変化するありさまが時系列に並んでいるという捉え方を一旦してみたいのである。些か極端に見えたとしても、主音、調的中心といた概念は、音楽のある側面を表現しているデータの系列がアプリオリに備えているものではなく、あくまでも分析者=聴取者が、そのデータの系列から読み取り抽出するものであると考えたいのだ。ことにマーラーの音楽のように、古典的な調的図式からの逸脱が指摘され、発展的調性のような代替図式が提案されるような場合には、主音の決定が保留の状態や、2つの調的極を揺れ動くようなことが遷移過程の中で生じており、その様相を明らかにしようとすると、主音や調的中心というのがアプリオリに存在するとするよりも、或る条件の下で形成されるアトラクタのようなものとして捉えた方が適切に思われるのである。

 ある社会的・文化的環境の下では、そうした系列を聴くと、そこには主音や調的中心があるように聴き取り、それに基づく和声の変化の分析をすることが、あたかも自然で当然のことのように出来てしまうし、マーラーの作品もそこに含まれる調性音楽の場合には一般に、そもそも作曲の際にそうした規範が参照されているのは事実に属することなのだが、例えば、既にある程度は社会的・文化的環境の中に予め組み込まれつつも、少なくともそうした規範を十分に意識された形では自覚していない、その限りでは規範を知らないと言って良い子供、或いはド・ラ・グランジュのマーラー伝への序文においてシュトックハウゼンが想定した宇宙人が、上記のような特性を持ったマーラーの音楽を初めて聴くといった状況を考えたり、更には今日ではAIが当該データを分析するといったケースを考えた時、上記のような捉え方をすることに一定の意義が認められると私は考えたいのである。

 和声学でのカデンツは局所的な遷移のテンプレートだし、転調であれば移行した後の調性の確立(これ自体カデンツが使われるわけだが)の方法というのがヒューリスティクスとして確立して、稍もするとそれが規範というよりは客観的な法則、絶対的な規則であるかの如き様相を呈するのだが、それは時代の嗜好に応じて変遷するものであることから明らかなように、一定の物理的・心理的な合理性に基づくものではあっても、物理的客観でも心理的客観でもないのだから、ここではそれらを天下りにルールとして外から与えるのではなく、力学系の遷移の過程で形成されていく地形として考えたいのである。恐らくトニカに「解決」するというのは、そこが力学系でいけばアトラクタなのだ、ということなのだろうし、カデンツはベイスンに沿った軌道を描けるように用意されているのであろう。文脈が作られて、それがトニカであると判定ができるというのも、ビット列の変化が描き出す軌道が動き回る空間におけるポテンシャルの地形に応じて、どっちには行きやすい、どっちには行きにくいというのが出来てくる、或いは場合によっては、それが一本道ではなく、サドル上で分岐が生じることもある、というふうに考えたいのある。

 そうした立場をとると、或る意味では素朴で、もしかしたら非常に原理的な疑問が直ちに幾つか浮かんでくる。例えばシェンカー分析の前提となっている理論を取り上げてみよう。シェンカーが分析の前提とする I→V→I という原則は確かに上記のビット列の力学系でもコスト的には小さく、経済的であるように見える。だが一方で同じ力学系をベースに先入観なく考えれば、素朴な疑問として、例えば以下のようなものが直ちに出て来ることになるように思われる。
(1)V→IというのはVが不安定でIが安定だという前提をおけば自然だが、ではVが不安定なのは何によるのか?ビット列としては同じバターンが右に1ビットシフトするのだが、そのことがアトラクタとなるのはなぜか?明らかにここでいう安定性はビット列自体が客観的に備えている性質ではないようだ。
(2)左1ビットシフトIV→Iもアトラクタの資格を持っている(プラガル終止)が、これはI→Vとビット操作上は区別がつかない。このことから、それはビット列自体の性質でないだけでなく、ビット列の局所的な遷移が持つ性質でもないことになる。では何が区別を可能にしているのか?
(3)V→Iが何かの理由でアトラクタであることを認めたとする。だがこのとき、そもそも一旦はI→Vというポテンシャル地形上は山登りとなるようなコストの大きな動きがなぜ起こるのか?物理学では、ここで温度の上昇でゆらぎが大きくなるというような話になるのだが、是非は一旦措いて、そのアナロジーを適用するならば、ここで温度に相当するものは何か?また、山登りは偶然に起きるものではないし、山登りの経路というものも(場合によっては複数)想定できるだろうが、それを定めるものは何か?
(1)と(2)は、上で触れた地形の形成の問題だが、最後の一つは少し水準が違った問題、音楽はそもそも何故始まるのか?もっと言えば、何もないのではなく、音楽があるのは何故なのか?という問題に帰着するようにも思える。自律主義的な美学というのは音楽の内部に、その力学の根拠が内在するという立場なのだろうが、それは既に不安定な状態にあるものが安定な状態に移行することは説明できても、何故そもそも不安定な状態になったのかを最後のところで説明できないのではなかろうかという疑いが残る。その一方で、さりとてそれを Nattiez が物語論的分析の妥当性について述べたような「語りの衝動」のようなものを外部から持ち込むことによって解決しようとするのは、今度は音楽が自律的に描く軌道の可能性を十分に汲み尽くさずに済ませてしまう危険を孕んでいるように思われる。さりとてシェンカー分析を含めたのような或る種の規範を前提とする分析は、結局のところ、ある作品が持っている軌道を、予め用意された規則や規範、テンプレートを用いて説明し、それに従わないところは「逸脱」として説明することになり、その軌道が備えている固有の力学を捉えそこなってしまう惧れがあるのではなかろうか。

 以下では、上記のような予備的な検討から導き出されるマーラー作品のありうべきデータ分析についての予想をラフスケッチしておきたい。結論を先取りして言えば、それは標題にあるように、発展的調性を力学系として扱うこと、もっと踏み込んで言えば、高次元のカオス力学系のようなもの(ただし差し当たり離散的なものという制限はつくが)として扱うことになるのではなかろうか、ということになる。その当否は、具体的なデータ分析によって今後得られる展望により判断されるものであるべきだろう。そして、それだけで判断ができるわけではないだろうが、少なくとも判断の条件の一部としてデータ分析の裏付けが含まれるべきではあろうと考える。

 マーラーの調的遷移の特徴として、一方では古典的なドミナント優位の遷移があるかと思えば、特に準備なしで3度を始めとする遠隔調への転調が頻繁に用いられるように、しばしばコストが大きい遷移が敢て選択されることがある。古典派とロマン派と対比という枠組みでは、専ら後者が「逸脱」として記述されて注目されることが多いようだが、現実にはマーラーの調的プロセスは、非ドミナント系の転調における移行過程の入念さ、繊細さや巧妙さそのものにあるというよりは(実際、そうした技巧に関しては、他の同時代の作曲家と比べたとき、マーラーは寧ろ素朴にさえ見える)、複数のシステムの併存と、その結果として起きる競合に特徴があるように思われる。一方ではごくオーソドックスなプロセスがあるかと思えば、一瞬にして別の領域に足を踏み込むかのような急激な変化があり、ある調的領域をあっという間に通り過ぎたかと思えば、最初は仮初めに見えた領域に長いこと留まってみたりという具合に、その多様性こそが特徴なのではないかと思われる。

 しばしば発展的調性と一括りにされる調的プロセスも、個々に見ればその様相は多様なのだが、共通するのは、どこに辿り着くかが事前に決まっているのではなく、複数の調的な極の間で競合があって、そのどちらかが選ばれるかについて、事前に定められた経路に従って予定調和的に進んでいくのではなく、ある時には開始の調性に回帰し、ある時には関係調に、ある時には遠隔調に辿り着くということが起きるという不決定性のように思われるのだ。つまり「発展」というのは寧ろ実態を正しく言い当てておらず、偶々曲頭の調性に回帰しなかったことを以て遡及的にそう述べているに過ぎないというのが実態に近いようにさえ感じられるのである。他方で、曲頭の調性に回帰するが故に発展的調性の枠組みから除外される作品(第1交響曲、第6交響曲、第8交響曲、そして第10交響曲)についても、その調的遷移の過程は作品ごとに固有であり、まさにアドルノの言う「唯名論的」という形容が当て嵌まるし、その一方では発展的調性の側に分類される作品と力学において共通な側面もあるであろう。要するに、外面的に曲頭の調性と末尾の調性の一致・不一致による分類よりも、マーラーの作品全体を通して共通する固有の力学を、実現された作品の具体的なプロセスの多様性を説明できるような仕方で見出すことが目標とされるべきなのではなかろうか。

 そこでは古典的なシステムにおけるような意味合いでの真のアトラクタは存在せず、しばしば何が主音であるかについて複数の候補の間での競合状態が続いたり、調的領域が曖昧な状態が起きたりもするし、寧ろ準安定点が複数あってそれらが形作る複数の領域(ベイスン)の間を遍歴するかのような挙動を示しているように見えるのである。

 そのような系の挙動の定性的特徴から連想されるのは、まさにカオス的遍歴という疑似アトラクター間の遷移を挙動上の特徴として持つ高次元カオス力学系のような複雑系であろう。一般に複雑系というのは散逸系で動的不均衡で準安定なわけだが、マーラーの音楽は上記のビット列の力学系の挙動という点に関しては、比喩ではなく文字通りに複雑系的な挙動をするような系であるということはないのだろうかと思えてならないのである。上述の発展的調性についても、エネルギーの流入で系の変化の自由度が増した結果、局所的にゆらぎが起きたときに、系がどちらの方向に発展するかについて必ずしも決定的ではなく、これもカオス力学系で観測される分岐現象が起きていると考えることはできないだろうか。

 今日、脳の活動をカオス力学系と見做してモデルを構築する試みが為されているが、あたかも「意識の流れ」の如き「小説」に類比される時間性を持つマーラーの音楽が或る側面に注目した場合にカオス力学系のような複雑系としてモデル化できるというのは、必ずしも突飛な思いつきではないだろう。ただし、あくまでモデルはビット列の状態遷移であり、離散力学系である点には留意する必要がある。和声学の規則をルールとして実装することを例にとっても良いが、自然なモデル化としてまず思いつくのは1次元セル・オートマトンのような状態遷移システムであろう。もっとも近傍の定義は明らかでなく、セル・オートマトンで通常用いられるとは異なるものを用いなければならないかも知れず、ビット列の置換規則がどのようなものになるのかは、寧ろ機械学習の恰好の課題かも知れないが。いずれにしても必要なのは、音楽に対してメタな立場から、メタファーとしてラベルを宛がうことではなく、その音楽の持っている構造自体を分析することによって、その振舞を適切な語彙で説明することなのではなかろうか。実際にマーラーの音楽の調的遷移のプロセスがどのような数理で記述できるのかは、今後の課題ではあるのだが、それはアドルノが半世紀前にマーラーに関するモノグラフ冒頭で喝破した通り、伝統的な楽曲分析によってでもなく、さりとて今日なら記号論的アプローチを用いることによって洗練されたものになったとはいえ、音楽を外部の何者かの「記号」として扱う点では昔ながらの「標題性」についての議論と変わるところのない方法によってでもなく、それら両者がいずれも背負っている文化的伝統の重荷からは自由な立場で、個別の楽曲のデータ分析し、モデル化することによって明らかにされるものなのではなかろうか。或いはその結果、まだ極めて肌理の粗い直観に過ぎない上記のような予想が誤りであることがわかるかも知れないが、仮にそうなったとしても、曖昧なメタファーを隠れ蓑にした、捕らえ処のない議論に終始するよりは遥かにましであると考えたい。そしてそこに向けての果てしない道程の最初の一歩として、ここでごく初歩的な検討を試みた、マーラーの作品の各時点において鳴っている音をビット列で表現し、そのビット列の状態遷移過程を力学系として記述する試みを位置づけてみたく思っているのである。

 分析の稚拙さ、記述の不正確さについては、もとよりそれ意図したものである筈はなく、海容を乞う他なく、あわよくばその意を汲んで頂き、ここでは初歩的なレベルに過ぎない分析を議論に耐えるようなレベルにまで進展させて下さる方が現れるのであれば、この拙い文章の意図は十分に達成されたことになる。(2019.11.10-11未定稿, 14,16加筆)

2019年11月4日月曜日

マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ

 マーラーの交響曲の分析の中には、物語論(Narratology)的分析と称するグループがある。アドルノがマーラーに関するモノグラフにおいてその1章の標題を「小説」とし、マーラーの交響曲を(叙事詩との対比において)「小説」に類比したことは有名だが、ここでの物語論は、自らアドルノのアイデアの衣鉢を継ぐものであると主張するものの、道具立てとしては、文学の記号論的分析を背景とした文学理論としての物語についての理論の音楽への適用を試みるもののようだ。一口に物語論的分析と言っても、論者により立場は様々であるけれど、それらの論考に接していて、いずれの分析においても疑問に感じる点が少なくないので、自分の整理を目的とした備忘のために、以下にその疑問点を記載しておきたい。最初にお断りしておかなくてはならないのは、私が参照したのは、あくまでもマーラーの音楽への物語論的分析の適用に関する論考であって、一般的な音楽の物語論的分析についてのそれではないことだ。更に言えば、専門の研究者でもなく、組織的な研究の一環として読んだわけでもないので、マーラーに限定してもなお網羅的であるわけではない。それ故以下は、あくまでも私が接し得た範囲での私の個人的な反応の雑多なメモ書きに過ぎない。

  当然のことながら、もともとは文学についての理論である物語論を音楽に適用することの是非や適用可能性についての検討は為されていて、論者によってその立場にはかなりの多様性がある。そもそも音楽への適用以前に、文学理論の側も単一の理論がある訳ではなく、様々な論者が様々な理論を提唱しているから、その中のどのバージョンを採用するかという点について選択肢が存在することになる。そして音楽に適用するフェーズに至ると、まず一方には音楽は「物語る」ことがそもそもできないという主張があり(例えばJean-Jacques NattiezやCarolyn Abbate)、他方では言語とは異なった仕方ではあるが「物語る」ための手段があるという立場がある(こちらは枚挙に暇がないが、思いつくままに挙げれば、例えばV. Kofi Agawu, Seth Monahan, Thomas Peathe, Neal Warner, Vera Micznik)。前者については物語ることができない理由についての相違があり、更に、では、にも関わらず音楽が「物語る」ように思われる時に起きていることは何であるかについても様々な見解が存在することになる。後者について言えば、「物語る」手段の具体的な選択肢が論者により異なってくることになる。具体的な選択肢としては、音楽に内在的なものに限っても、調的構造、楽式、主題の展開、カデンツ等、更には様々なセカンダリー・パラメータ、即ちリズム的な輪郭、楽器の配置や音の厚みなどのテクスチュア、音色の選択、様々なアタックの区別やダイナミクス等々までその範囲は及ぶようだ。
  音楽は「物語る」ことがそもそもできないとする立場について語るべきことはあまりないのだが、Nattiezのように、それを語り手のNarrative Impulseに基づく単なるメタファーとするような主張は、ではその衝動がそもそも何に由来するのか、あくまでも言語表現の水準のメタファーだとして、全くの恣意というわけではなく少なくともメタファーが成立するからには、それを支えるものは何なのかを問えば、単に問題解決を放棄しているだけであることが明らかだし、Carolyn Abbateの理由づけもまた、音楽が「過去形を持たないから」というもので、これは適用元の文学の媒体である言語の構造を異なった媒体に依拠する音楽に対して不当に外挿しているに過ぎず、こちらも同様に、ではなぜ音楽が「物語る」ように感じられるのかを問われれば、自己引用(自己参照性)とか他の作品の引用(間テキスト性)のようなものに(それを音楽の構造に内在するかたちで規定すれば、「物語れる」ことになるから)曖昧な形で依拠せざるを得なくなる。
  間テキスト性に至っては、音楽作品だけではなく言語芸術や視覚芸術といった他のジャンルとの関わりを論じることになり、その先は最早、音楽の外側に議論をずらしてしまうのだが、そうした間テキスト性がジャンルを超えて、メディアの違いを超えて成立する根拠は相変わらず曖昧なままだし、そもそもこの水準の議論は、何らかの仕方で音楽が「物語れる」とする立場からも可能であり、実際にRobert Samuelsのように、ある時には音楽の構造のある側面に注目し、ある時には音楽的素材や様式(例えば特定の舞曲のジャンル)が持っている文化的コノテーションに依拠し、更にはジャンルを超えた間テキスト性を論するといった論者も存在する。間テキスト性の平面でなら、例えばあからさまに標題性に依拠したり、対象となる作品への言及を含む手紙や証言といったものさえ手掛りにされるのだが、こうなってしまえば最早、音楽の内在的な構造についての議論ではありえず、音楽自体を或る種の文化的記号の如きものとして扱っていることになる。但し、それが如何にして正当化されるかについては相変わらず不明瞭なままだが。

  マーラーの周辺においては、音楽の物語的分析が可能であるという立場ではVera Micznikの見解が比較的参照されることが多いように見えるので、Music and Narrativity Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler (2000)を参照しつつ、その見解を少し細かく見てみると、そこでも傍目には不可解としか思えないような議論がなされているようだ。思いつくままに幾つか気になる点を挙げてみると、まずおかしいのが、story/discourseという道具立てだ。前者が語られる内容で、後者が語り方ということなのだろうが、語られる時間と語りの時間の重層性という言葉にも関わらず(従ってstoryの側には語れる出来事間の時間的な順序が想定されているように見えるのにも関わらず)、実際には前者はstoryではなく、storyを構成する要素(musical event)に過ぎないことが直ちに明らかになる。
  後者については、まず奇妙なのは、(記号のシステムの階層構造ではなくて、)記号そのものの重層性(形態的・統語的・意味的レベルが論じられるにも関わらず、Roland Barhesを参照して、denotation/connotationの区別を持ちこんで、音楽はdenotationはできないが、connotationは可能であると述べると、途端にmusical eventのレベルはそっちのけとなり、いきなり舞曲のジャンル(例えばワルツ)が持つ文化的・社会的なconnotationの例を持ち出すことによってmusical ideaがrepresentないしstand forされると定義される意味論的レベルが説明されてしまう点だ。この説明で全てなら、音楽の「意味」というのはつまるところ、音楽そのものではなく、それを文化的・社会的文脈において「記号」として取り扱うことによってのみ成立することになるから、既に述べたように、音楽そのものは「物語ることができない」とする立場との違いがどこにあるのかがわからなくなる。しかもここでシニフィアンの位置に来る「ワルツ」という舞曲のジャンルが、musical eventを要素として構成されるはずの記号のシステムにおいてどのように定義されるものであるか、そもそも構成的にボトムアップに定義可能なのか、例えば、作者が「ワルツ」と標題なり発想標語として記した(勿論、言語記号によって)ことに依拠するということはないのかなど、理論的にはおよそ見通しがついているとは言い難い。
  その後のChomskyの performance/competence の区別が持ち出されるところも、それを援用する意図の方はよくわからない。前者にはsubjective, individualが、後者にはintersubjectiveが割り当てられ、affectとかcharacterとかtopicといった概念は、後者に由来するとの主張なのだが、そうであるならば、音楽への適用可能性が疑わしいChomskyに由来する概念など持ち出さずに、結局音楽においてはaffectなりcharacterなりtopicというものは音響態としての構造から文脈自由にボトムアップに規定されるものなどではなく、特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものなのだ、とだけ言えば済むことのように思われる。

  音楽の物語性の具体的内実については、古典派とロマン派における物語性の違いが取り上げられる。つまり古典派においては、主調・属調の調的枠組みの中で主題が構成素(動機)に分解されて構成素(動機)レベルでの操作が行われる一方、主題そのものは形態的に不変でその性格を変えることがないのに対し、ロマン派においては調的スキームが弛緩した中で様々な動機が主題の一部としてではなく並列的に提示され、動機群や主題は全体として回帰する一方で、回帰するごとに形態が変容を蒙るのみならず、セカンダリ・パラメータの操作などに伴われつつその性格を変えていくとされる。それぞれの範例は古典派側はベートーヴェンの第6交響曲の第1楽章、ロマン派側はマーラーの第9交響曲の第1楽章である。この指摘自体は特段問題はなく妥当なものだが、それに付随してDahlhausとSchoenbergの名前とともに呼び出される「発展的変奏」についての議論は、こと後者との関連では不思議なものである。即ちこの議論における「発展的変奏」は、上記の区分でいけば古典派における主題や動機の操作と結び付けられているようなのである。だが、ことSchoenbergの文脈では「発展的変奏」というのは寧ろ後期のマーラーにこそ典型的に当て嵌まり、彼自身の作曲法に繋がっていくものではなかったか?Schoenberg自身において「発展的変奏」というのが必ずしも一貫しておらず、場合によって恣意的に用いられるという事情はあるにせよ、それなら尚更のこと古典派・ロマン派の物語性の違いの説明のためにそれを持ち出すのは不適切ということになるのではなかろうか?
  だが物語性という点について言えば、この区別で留意されるべきは、古典派的なそれとロマン派的なそれが単に区別されるだけではなく、論文の標題にある通り、両者では物語性の「程度」(degree)に差があり、ロマン派的な枠組みの方がより高いと考えられている点に存する。例えば叙事詩と小説というジャンルの違いに応じて、物語性の具体的な性質が異なるというのではなく、古典派の交響曲よりもロマン派の交響曲の方が「物語性」の程度において、より勝っているという序列が存在するようなのだ。無論のこと、これは「物語性」の定義如何ということなるだろう。それが明示的であるわけではない点も譲れば、ここまでならロマン派の音楽の構造に内在する要因によって、「物語性」がより高くなるという説明であって、恐らくは暗黙裡にそのように想定されているように、近代的な小説が「物語性」に関する範例であるならば、アドルノの主張をより具体的な「如何にして」付きで展開したものであるということになるだろう。
  しかしながら、では「物語性」を高めることに寄与しているロマン派的な枠組みの実質は何であるかを確認していくと、必ずしもそうではないことに気付かされるのである。即ち、ロマン派的な枠組みが「物語性」を生じさせる根拠というのは、結局のところそれが古典派的な枠組みから逸脱する程度において測られるというように読めてしまうのだ。つまりここでも歴史的文脈というのが含意されているのだが、更にこれが、上でも注意を向けた音楽的「意味」の規定、即ちそれはdenotationは不可能だが、connotationは可能であるという主張、更にaffectなりcharacterなりtopicなりといったものが特定のイデオロギー下の文化システムにおける規約にその根拠を持つものであるという主張と重なった時、結局、「物語性」というのは歴史的・文化的な文脈によって規定されるものであって、或る種の音響態の構造が内在させている契機によるものではないのだという方向に議論が収斂していくかに見えるのである。序でに言えば、音楽の「意味」を文化的・社会的な「記号」として操作できるものとして定義することによって、ソフィスティケートされた高度な教養を要するものなのか、素朴で子供じみたものなのかの違いはあれ、それは陳腐な標題性と水準において何ら変わらないことになるだろう。アドルノのモノグラフ冒頭の、伝統的な楽曲分析とともに標題性に関する議論を批判する言葉を想起するならば、この定義に依拠する限りにおいて、出発点であった筈のアドルノの意図を裏切っているように思われる。

  私は上記のような議論に対して全面的に異を唱えるつもりはないし、それは不可能であろうと思っている。だがその一方で、音楽的「意味」なり、「物語性」なりを歴史的・文化的な文脈によって規定され尽くすものであるという主張に対しては、制限を設けたいと思っているのである。今ここで、その理由を明示的に提示することは困難なので、それに替えて、まず最初に、上記の主張の根拠となる「気分」を問わず語りに示すようなケースを提示することを手掛かりとしたい。

  マーラーの音楽の聴き手として、マーラーの音楽に対して上記のような物語的分析をすることができる存在、マーラーの音楽の同時代のみならず、それに先行する音楽史のみならず文化的・社会的背景にも通暁し、かつマーラーの音楽のディテールは勿論、マーラーの音楽に含まれる先行作品の引用や暗示に加え、そのように引用され、暗示された作品自体についても知悉しているような音楽学のプロフェッショナルではなく、つまりモノグラフを書いたアドルノその人を範例とする存在ではなく、だがそのアドルノがまさにモノグラフの中で言及する、あの「子供」、或いはよりシンプルに、作品が書かれてから100年後に、マーラーの作品の文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材となった郵便馬車のポストホルンや兵営のファンファーレも、レントラーもセレナードも、過去の遺物としてすら接する機会のない地球の反対側の異郷で、マーラーが引用したり参照したりしていると音楽学者が指摘する作品も含め、音楽史上先行する膨大な作品群を聴くより以前に、或る日初めてマーラーの音楽に接した子供のことを、まずは思い浮かべてみよう。そしてそれに続けて、マーラーの音楽に対して「聴き手」の位置に立つ「人間」以外の存在、マーラー受容の文脈で馴染みがあるところでは、シュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の序文で思い浮かべた宇宙人が、或いはより今日的な文脈ならば、AIがマーラーの聴き手になるという事態を思い浮かべてみよう。
  いや、そんな極端なケースを思い浮かべる必要はなく、専門家ならぬ単なる市井の愛好家たる私がマーラーを聴くとき、私はアドルノや件の音楽学者のようには聴いていないだろうし、彼らの要求水準を満たす日が何時か来るとも思えないのだ。それは単にお前の聴き方に問題があることを告げているだけで、マーラーをどう聴くべきかに関する規範はあくまでも件の音楽学者のような聴き方なのだ、という主張に対して私自身は抗弁する言葉を持たないけれど、それでもなお、作品が書かれてから100年後に、地球の反対側の異郷でマーラーの音楽に耳を留め、またたくうちにそれに魅了された子供たちについては擁護を試みたいと思わずにはいられないのだ。そうした子供は、単に無媒介に、民謡風のわかりやすい旋律といった特徴のみに惹かれてマーラーの音楽に魅了される訳ではない。もしかしたらそうした側面に初めから些か鼻白みつつも、マーラーの音楽において際立っている豊饒で複雑で、時として否定的なモメントや不気味さや混沌すら排除されることのなく絶えず精妙に変化して止まない世界の様相に魅了されるのではなかろうか。
  同様にして、AIにマーラーの音楽の音響に関するデータを与えて分析をさせることを考えた時、そもそも分析の入力となったデータの中に、マーラーの「音楽」の全てがあるわけではないことを認めるに吝かではなく、別のところで述べたように、仮に分析をし尽くしたAIが、マーラーの音楽そっくりの作品(そっくりどころかボルヘスの『伝奇集』に登場するピエール・メナールのように全く同一の作品かも知れない。ただしそ現実にそれが実現する確率の低さは宇宙論的スケールのものだろうが。)を出力するというような状況を想定したとき、工学的なチューリングテストのルールから見たら違反になろうとも、そのことがAIがマーラーになったということを意味する訳では些かもないと考えているのだが、それでもなおマーラーの音楽が小説に類比できるとするならば、その根拠をなす特徴のかなりの程度の部分がAIに入力するデータの分析から得られる筈である、しかもそのデータにはマーラーの作品を含める必要はあっても、上述の理論において想定されているような「伝統からの乖離」の測定を可能にするような莫大な先行作品のデータを用意する必要はないと考えたいのである。そしてそう考える理由は、上で批判的に紹介した物語論的分析を不適切であると考える理由と表裏一体の関係にあると私は考えている。そこで以下に私の目には事態がどのように映っているかを素描して、この備忘を締めくくることにしたい。

  まず音楽において語られる時間と語る時間の2つの層を想定するのは端的に誤っている。確かに音楽はdenotationを持たない限りにおいて「意味」とは無縁であって、専ら「語り方」そのものであるのだが、であれば音楽的時間とは端的に語りの時間そのものなのだ。寧ろ音楽は第一義的には、言語記号であれば随伴的と見做されるであろう感得的な質自体であり、何かを指示する記号としてではなく、外部からの働きかけに対する反応として感得的である限りにおいて聴き手に伝達され、同調を働きかけるものなのではないか。要するに言語記号とのアナロジーは、音楽自体の裡では成立しないのだ。
  ただしそのことは二次的に音楽がメタレベルの「記号」として用いられることを否定するものではない。マーラーの作品のような物語的な脈絡を備えた音楽は、その要素の一部、或いはそれ自体が文化的・社会的な記号として機能することはあり得るだろうが、それは言ってみれば外側から事後的に宛がわれたものに過ぎない(それを当の分析者自身が行っていて、そのラベルづけの是非が問われるというような不可解な状況すら発生しているかに見える)。だがそれは、第一義的には自伝的自己の統合的な世界の認識の「何を」よりも、寧ろ優れて「如何にして」についてのシミュレータであり、だからこそ音楽を作ることは仮想的に世界を構築する(恰も異なる世界の内部存在であるかの如き内部的なループを脳内のネットワーク上に産出する)ことに他ならず、それ故音楽を聴くことは仮構された世界を仮想的に(上記の「あたかも」ループを駆動することにより)経験することに他ならないのである。discourseに先立つstoryなどなく、あるのは常に編集済のものとしての「経験」なのである。
  そもそも人間の意識は知覚したものをそのまま受け取っているわけではなく、意識が受け取るものは既に編集済の結果であることは、ベンジャミン・リベットの実験を始めとする様々な研究により明らかにされている。また、発達心理学における質的研究によってやまだようこが明らかにしているように、自己の確立の過程では、共感的な「うたう」側面が認識的な「とる」側面に先行して発達し、その両者が統合されることによって自己が成立し、自己が成立すると今度はその自己は己の経験を編集して「物語化」していくことによって「自己」を維持していくのである。つまり「物語化」というのは、とりわけ高度な心性を持つ存在にとっては、特定のイデオロギーに基づく文化的・社会的な個別的な文脈よりも遥かに手前において、そもそもが意識や自己といった心的装置が成立する前提条件であり、寧ろ前了解の層に属するものなのだ。勿論、文化的・社会的な文脈はそうした前了解にも浸透していることも確かだが、それはあくまでも世界の認識の「如何にして」を先行的に規定するのであって、denotationであろうがconnotationであろうが、認識の「何を」の水準ではない。それらは発生論的に言ってセカンド・オーダーに属するものなのだ。

  ところでここでの「物語」は上で検討した物語理論の音楽への適用におけるような「物語性」における「小説」の優位を前提としない。強いて言うならば、古典派のような一定の調的スキーマの制約の存在は、口承的な叙事詩や昔話等における定型的なストーリー(ただしその内部で無数のヴァリアントが存在しうるのだが)や記憶の便宜のために定められた韻律を始めとする様々な規則と、その規則に導かれて成立した定型的な表現形式との共通性を感じさせるのに対し、マーラーの作品のそれは記憶の代補となる記憶媒体(音楽においては記譜法)の発達によって獲得された自由度を最大限に生かした散文形式、比喩としてではなく、まさしく「意識の流れ」を叙述する「小説」との共通性を感じさせはするし、繰り返しになるが、この指摘については特段の問題があるわけではない。ただしそれは叙述レベルの重層性といった人称や時制を表示する機構を備えた言語を媒体とした小説固有の構造とは一先ず無縁であって、音楽は「誰が」語っているのか、「何時の」出来事が語られているのか、それが直接経験される出来事なのか想起によって回想された内容であるのかを直接表すことはできないのだが、それでもなお語りの主体が切り替わったこと、出来事の系列が断絶したり、語りのレベルが切り替わったことを聴き手に感得させることができないわけではないのである。 ほんの一例を例示するならば、とりわけそれが調的配置のデザインを伴う場合には、多楽章形式がそうした時間的な断絶や視点の変化、叙述のモードの切り替えを告げる媒体となりうるだろう。マーラーにおいてはDika Newlinの示唆以来のテーマである発展的調性についても、それが主和音・属和音中心の調的配置が志向する主和音への「回帰」という予定調和的な目的論的図式自体を上書きして、何が終結の調性になるかについては、途中段階では複数の選択肢が存在し、それらが競合するかのような時間発展のモデルである限りにおいて、「小説」に類比される経験のシミュレーションの媒体たりうる時間性を備えることを可能にしているのである。そういう意味では、上記のような「物語論」的アプローチから見れば、単なる比喩のレベルという評価となるのかも知れないが、Donald Mitchellが、単独の楽曲のみならず連作歌曲や交響曲のような複数の楽曲の組み合わせからなるもの含めて、マーラーの作品で用いられている調性的なプロットが、楽曲自体の固有の論理と呼びうるコヒーレンスよりも心理的なプロットに対応するように選択されている点をnarrative tonalityという言葉によって指摘しているのは、ここでの発想に近いように感じられる。

  そして共感的な「うたう」能力というのを軽視してはならない。まずもって現生人類が現存する類人猿と比べて際立っている能力、そして種の存続に(少なくともかつてのその環境においては)有利であったが故に発達し、絶滅した他のヒト属の種と比して際立っていたと推定される能力こそ、相手に共感し、模倣を行う能力であったらしいのだ。そしてこれは遺伝子決定論を意味しない。その能力はエピジェネティックに解発され、学習によって強化されるものであり、それ故に置かれた環境に柔軟に適応することができる。それが博識で怜悧な音楽学者の高度な要求を十分に充たすものであるかは予断を許さないとはいえ、作品が書かれてから100年後に、文脈を形成していた伝統とはほぼ無縁で、素材がもともと帰属していた文脈とはほぼ断絶した地球の反対側の異郷においてさえ、作品が提示する時間性に同調的な感受が生じ、作品を通して世界の認識の仕方を学ぶといったことが可能になるのだ。伝統からの乖離の距離に「物語性」が生じる動因を求めることは、論理的には或る種の文化的・社会的決定論を帰結することになろうが、自己形成の結果ではなく、寧ろそれを可能にする根拠として共感する能力を備え、自己が確立した後は「物語」を紡ぐことによって己を維持するようにいわば「宿命づけられた」存在である「子供」は、そうした決定論の軛をいともやすやすと乗り越えてしまう。
  そしてこの点は同時に、AIと「子供」の間に存在する乗り越え困難な差異でもあるだろう。データを分析し、特徴を抽出する能力という点ではAIは「子供」に遜色ないレベルを達成できるかも知れない(定義によっては既に達成している場合もあるだろう)。そして音楽学者が「物語性」の程度の基準とする、伝統的な書法との乖離の度合いを計算することもまた可能だろう(ここでは恐らく「子供」よりもAIが勝っており、もしかしたら音楽学者の分析能力を凌駕するかも知れない)。そして、それが文化的・社会的な「記号」として操作できる限りにおいて、音楽の「意味」を抽出することもまた可能であろう。 だがAIには「共感する」ことができない。少なくとも現在のAIの延長線上では、表面的な模倣はできても、表面的に巧みに歌うことはできても、それらを「共感をもって」行うことはできない。AIに音楽を入力し分析させることは可能だろうが、AIは音楽を分析する動機づけを欠いている。
  その意味でAIは、仮に音楽学者顔負けの分析が行えたとしても、仮にマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」を作りだせたとしても、マーラーの音楽を「子供」のように「聴く」こと、「聴いて」共感することはできないし、そこから世界の認識の仕方を学ぶこともできないのだ。更に言えば、私はマーラーそっくりの「ありえたかも知れない作品」と言い、或いは先立っては、ボルヘスの小説を参照しつつ、マーラーの作品を寸分違わず再作曲するといった状況にも言及したが、にも関わらず、一見すると遥かに現実的で、容易にさえ思われるかも知れない第10交響曲の補筆完成版の作成には言及しなかったが、これは勿論意図的にそうしているのである。第10交響曲を既存のマーラーの作品の様式の学習結果によって作り出しても、それはマーラーその人が達成したであろうものとは決定的に異なることについては大方の同意が得られることと思う。一般に創造というのは、過去の自分を模倣することではないし、ことマーラーのように、一作毎に発展してきた作曲家の場合には優れてそうであろう。クックを始めとする補作の試みを入力にしたところで同じであって、出て来るのは様々な補作のどれにも似ないかも知れないが、単なるそれらの模倣に過ぎないものであろうし、マーラー後の音楽を入力に含めたとして、マーラーの作品とは似ても似つかない奇矯な混淆物が出力されるのが関の山だろう。要するにこれを一言で言えば、何故作曲するかの動機づけがAIには欠けているのだ。更に言えば、クックは(もしかしたら他の補作者でそのようなことを思った人間が居た可能性はあろうが)マーラーに替って作曲するなどといったことは思いつきもしなかっただろうけれど、それでも恐らくは彼の補作作業すらAIには達成できないに違いない。AIには何故補作を行うかの動機がないからで、クックの作業は、一見してそうは見えなくても、クックその人にしかできなかった際立って創造的な側面を含み持っていて、時として霊感がクックを訪れたとした思えないような瞬間があるように私には思えるのだ。

 もう改めて繰り返す必要もないだろうが、これまで「子供」やAIを登場させることによって間接的に言い当てようとしたことのトリヴィアルで後ろ向きな半面は、上で検討したようなマーラーの物語論的分析がマーラーの音楽の「意味」に到達することはないだろうということである。
 そもそもが言語を範例とする「記号」として音楽を扱うということ自体に理論的には無理があると思うのだが(音楽が「記号」としても機能しうる点を認めるに吝かでないが、それはまた別の話である)、そこを強引な(にしか見えない、もっと言うとナンセンスに近い気さえする)アナロジーで対応づけるか、それをあっさり放棄して、音楽の「実質」を抜きに、領域横断的な話題に終始するかのいずれかであるように感じてしまい、違和感が募ることが多いのである。そもそもが規範との差分であったり、過去の楽曲、更には他のジャンルの作品との関係に基づくアプローチというのは、そうしたアプローチを提唱し、実践する当事者たる音楽学者の厖大な学識と、高度な分析能力を前提したものであり、例えば私自身がマーラーの作品を聴くときに、彼らの要求するような水準の聴取が出来ているとは到底思えないし、マーラーに初めて出会った時の「子供」であった私の経験を、彼らの分析は少しも説明してくれない。勿論、高度な分析が、自分が気付かなかったようなマーラーの作品の秘密を明らかにしてくれることを否定するわけではなく、私のような愛好家はそうした分析の恩恵を最も被っているに違いないのだが、それでもなお違和感が残る。そしてその由来を端的に述べれば、マーラーの音楽を聴く時には、確かに高度な記号操作が行われているには違いないのだろうが、その背後で起きていること、音楽が人を惹きつけ、感動させ、或いは世界の見方を変えさせさえするにといった側面については、そうした分析が語ることが余りに乏しいことに存するように思える。そして私が知りたいのは、寧ろ、背後で起きていることの側であり、それが起きるメカニズムの側なのだ。
 背後で起きていることは、一般には心理とか情動という言葉で語られ、そうした側面についての研究も行われているが、それらの多くは、あえてやや戯画化した言い方をすれば、何種類かの作品を与えて、何種類かの感情なり、情動なりのタイプを事前に決めておいて、その間の対応づけを行うといったレベルに終始する限り、余りに肌理が粗すぎて、ここで私が知りたいことに対する回答はおろかヒントさえ与えてくれるようには思えない。せめてよりミクロな音楽の脈絡に応じて、聴き手の「心」の内部で起きていることに対して、例えば今日ならば脳の働き方を測定することによって探りを入れるようなものであるべきだろうと思う。勿論、そうした実験結果から言いうることと、ここで私が知りたいと思うこと間の径庭は大きいと思う。例えばデリック・クックが『音楽の言語』で試みたようなアプローチは、今や辛うじてながら、それでも異なる文化的伝統を身体化している極東に住む我々から見れば、音型と情動の結び付けは、全く恣意的ではないとはいえ、非常に多く文化的・社会的な文脈で形成されるものであることは間違いなく、他方でそうした我々が、クックが解明しようとした伝統に属する音楽を「聴く」ことができるからには、文化的・社会的決定論というのも誤りで、その結び付けは学習によって後成的に形成可能であることもまた、明らかであるように思える。であるとするならば、その結び付けの手間で、そこに辿り着く前に音楽の構造の側でやれることはたくさんある筈だ。

  だがもう半面の側、ではマーラーの音楽の音響態としての構造のどこに「物語性」を成立させる契機が含まれるのか、ひいては「意味」を見出す手掛りがあるのかというポジティブな半面についてここで私が具体的に語れることは、幾つかの漠然とした予感を除けばほとんどない。辛うじて言いうることがあるとすれば、それは自伝的自己を備えた延長意識の構造の解明とパラレルであろうということと、音楽が時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想を採り、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて音楽の構造を分析することが、トンネルを反対側から掘り進める方法として考えられるのではないかということである。そしてその限りにおいては、上で検討した「物語論的」枠組みでのマーラーの交響曲の個別的な分析の内容には参考にすべき点、傾聴すべき点が少なくないのだ。必要なのは或る種の展望の変換であり、完全に客観的なデータの分析というのは不可能であるという点は踏まえた上で、作曲のためのユーティリティに過ぎない規範、或いは先行する時代のモデルとなる作品を分析するために設定された規範(例えばシェンカーのモデルもそうしたものの一つであろう)からの逸脱の距離を測るという遠近法的倒錯をやめて、マーラーの楽曲のデータそのものから読み取れるものは何かを探るというアプローチではないかと私には思えてならない。
 批判ばかりしていないで、では具体的にどうすればいいのかについて述べるべきとは思いながら、漠然とした予想めいたものを書き留めることしかできないでいることは上記のに記した通りだが、ことマーラーに関して言えば、具体的なあてが全くないわけでもない。例えば、これも上で言及したDika Newlin以来の発展的調性を、調的なスキーマ(ドミナント優位のシェンカー的図式ではなく、 同主調とか3度関係、サブドミナント側への連鎖などの使用や、転調のプロセス、 特に媒介なしの切り替えの使用など、Dahlhausの言う「オリジナリティの原則」の周辺で、 具体的な特徴が取り出せるのではというように感じている)と関連づけ、これまたPaul Bekker以来の交響曲という多楽章からなる楽式に関する古典的な問題、即ちフィナーレの問題と結び付けて再解釈することなどが、「物語性」にアプローチする方法の一つとして考えられまいか、というようなことを考えているのだ。その一方でマーラーの場合には、いわゆるセカンダリー・パラメータの重要性というのは夙に指摘されてきており、何よりも「うたう」ことを念頭に置いた場合、旋律と旋律の複合としての対位法がマーラーの場合には特に重要なのは明らかで、 調的な図式を抽象した分析ばかりをやっていては取りこぼしてしまうことがあまりに多いのを嘆息するばかりなのだが。だがそれでも、具体的にデータを処理しようとしてぶつかる問題への対応を一つ一つ検討していくことが、既成の規範を暗黙の前提とすることなく、それをいわば現象学的還元して、寧ろそれが拠って立つ基盤を明らかにすることに繋がりはすまいか、そのようにして、規範からの逸脱としてではなく、寧ろ、異なる選択肢を都度(アドルノの言葉を借りれば)「唯名論的に」選び取って、実質的な仕方で世界を構築する仕方を拡大していったマーラーの営みを明らかにする端緒となりはすまいかということを思わずにはいられないのである。(2019.11.4-6初稿・公開,10加筆)

2019年11月2日土曜日

シュニトケから見たマーラー

  シュニトケにはマーラーの初期の習作、ピアノ四重奏曲断片に基づく作品があるけれど、シュニトケであるかどうかより手前で、私はマーラーの作品の一部を引用したり、素材として利用する(リミックスであれ、映画音楽としての利用であれ)こと(加えて言えば、マーラー自身を映画の素材とすることも含めてだが)に対しては全く関心がないので、そういう意味合いで他のマーラー・ファンなら感じるであろう結びつきを意識することはなかった。勿論、シュニトケの場合には彼のある時期を特徴づける「多様式主義」がそうした引用や様式的な模倣といった「手法」を意識的に利用しているではないかと問い返すことが可能だし、マーラーの側では、では習作のピアノ四重奏断片ではなく未完成で遺された第10交響曲ではどうなのかといった問いは成立しうるだろう。(第10交響曲の補作の中には、補作者本人の言い分とは別に、私の主観では「補作」で許容される限度を逸脱しているように感じられるバージョンもあるわけだし。)

 更に言えば、マーラーこそ件の「多様式主義」の先駆であるというような主張すら出て来かねないだろう。この最後の点については、私見では一応は両者は区別可能だし、区別されるべきものであるように思われるのだが、実はこの点は、私が最初に実演で接して以来、シュニトケに対して感じていた違和感のようなものに直接関わってもいるようだ。マーラーを比較対象として用いれば、マーラーが行った民謡や行進曲の模倣を始めとする様々な「卑俗」と言われもする音楽様式の取り込み、ファンファーレや鳥の鳴き声の素材としての利用、Es管のクラリネット、スコルダトゥーラのヴァイオリン、ポストホルンといった、所謂「芸術音楽」以外の他のジャンルとの結びつきを持つ楽器、更には鐘や鈴、カウベル、ハンマー、ルーテ、調律されていない金属の棒のような特殊な打楽器の利用はどうなのか、ということになるだろう。更には、例えば古典派の音楽が民謡を素材とするような場合、典型的には変奏曲の主題とするような場合とは異なって、それが伝統的な「交響曲」というジャンルにとって異質であるという意識をもって、つまり様式的に変換してから取り込むのではなく、様式ごと素材として持ちこむことによって或る種の「異化」を企図したとさえ見做されるのであるから、シュニトケの立場との区別は付け難い面があることは否定できないだろう。にも関わらず私には、両者には素材としての扱い方に感覚的にはっきりと区別できる違いがあるように感じられる。程度の問題といってしまえばそれまでなのだが、この点は、恐らくマーラーの音楽への適用が盛んな文学理論におけるナラトロジーの適用の是非の問題と密接に関わっているのではなかろうか?そうした素材の取り込みが、言語記号との類比を可能にするようなメタな操作であり、従ってそこには記号論的な概念、例えばコノテーションのような概念が適用可能なのだというようには、ことマーラーの場合には思えないのである。裏返せばシュニトケの場合には、そうした適用が可能な場合があるかもしれないと思う、ということになるだろう。

 勿論これは、私がマーラーが生きた100年前のオーストリア=ハンガリー帝国に生きているわけではなく、そうした素材の元々の文脈の生々しさから疎外されているからという事情が関わっているに違いないし、一方のシュニトケの場合であれば、場所の隔たりはあれど、同じ時代の一部を共有し(大まかにはシュニトケの後半生30年間と私の前半生30年間が重なっているわけだから)、しかも文化的にはいわゆる「国際化」が遥か極東まで及んで均質化が進んだ時代ということもあり、その素材の持つ文脈の生々しさの度合いが遥かに強いことは否定できない。だが、例えばシュニトケの「レクイエム」の「クレド」におけるリズム・セクションの扱いが私のように(能楽や義太夫節を除けば)他のジャンルをほとんど聴かない人間にとって強烈な違和感をもたらすのは、そうした素材が、取り込まれた側の文脈の中でどのように用いられるかに拠っているように思われるのである。

 つまりマーラーの場合とシュニトケの場合とを比べると、素材の機能の仕方の向きが異なるように思えるのだ。マーラーの場合それは世界を構築する素材であり、素材は取り込まれる前の文脈を交響曲の中に持ちこむことによって、世界の構成要素となり、新しい層を産み出す働きをしているのに対して、シュニトケの場合には、持ち込まれた素材は、予めある文脈と競合し、攪乱する働きをしているということになるだろうか。マーラーのポストホルンやファンファーレは、それが素材として既成のものであるとしても、マーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素であるのに対し、シュニトケにおける様式の混在は、基層の音楽の脈絡の中に、それとは異質のものとして、いわばメタレベルで「音楽というもの」として侵入するかのように感じられることすらある。同様にして、素材となった音楽は、その様式の由来となったもともとの脈絡では受ける筈のない加工や変形を、いわば外部から、同様にメタレベルの操作として受けることになる。映画音楽において音楽がモアレのように朧にかすんでしまったりフェードアウトしたりするのは、音楽自体の動力学によってではなく、音楽を「利用する」側のメタレベルでの要請に基づくものだが、そういう意味で、シュニトケの場合には音楽が恰もオブジェのように外から操作されてしまう(それが音楽的主体によっては受動的な経験であるかのように)といった印象がある。マーラーの場合にも第4交響曲における擬古典様式についての有名なアドルノの指摘があるが、これは、仮に様式模倣であることは認めたとしても「引用」ではないし、アドルノの「昔…があったとさ」という言い方は、強いて言えば聴き手たるアドルノの恣意的な読み取りに過ぎず、控え目に言ってもミスリィーディングであって、これは第1交響曲や「さすらう若者の歌」の民謡調であったり、より直接的には第3交響曲の中間楽章、更には当初は第3交響曲のフィナーレであった第4楽章のフィナーレの様式との脈絡で考えられるべきであろう。それがフェイクであるというのなら、マーラーの初期交響曲はその総体がフェイクであるということになりかねないし、実際にはフェイクに感じられた音楽は、それが展開するに従って、フェイクであるという最初の見かけの方がフェイクであることがわかるのではなかったか。かくしてこの最後の場合もまた、ポストホルンやファンファーレと同様にマーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素に他ならず、それが文化的・社会的な「記号」として機能するというのは、マーラーその人の作曲とは一先ず無関係なことである。そのことは既に同時代にあって、マーラー自身がこの作品が「誤解」されることに酷く傷ついたことからも窺えるだろう。序でに言えば、してみるとそうした、聴き手の都合による「勝手読み」は、マーラーの同時代以来、常に付き纏ってきたものであり、マーラー・ルネサンス以降の時代固有の現象というわけではないようだ。

 シュニトケにおいての方がマーラーよりも音楽が恰も記号であるかのように操作・編集される度合いが高いことは感じられるし、そこで音楽は、自分自身の内在的な論理によって展開するのではなく、外在的な要因によって編集される対象の如き様相を呈している。或いは同じことを逆向きに述べることになるのだが、主体の回想そのものが音楽化されるのではなく、主体の回想の中に流れる音楽が、回想の音楽化の裡に二次的に埋め込まれて響くかのようなのだ。かくして古典派の音楽が、定型的な韻文、或いは語り方自体も高度に様式化されている昔話や民話のような定型的なプロットを備えた叙述に構造的に類比できるとするならば、マーラーは、アドルノの言うように「意識の流れ」的な小説の叙述に構造的に類比できるのに対し、シュニトケは、実際に彼がそのための音楽をたくさん作曲した映画、ないしは映画をノベライズしたものに構造的に類比できるように思われる。

 要するに、両者の間には音楽によって構築される世界のビジョンに対する認識の違いが横たわっているのではなかろうか?シュニトケも交響曲というジャンルの作品を残しているが、それらを聴くと、最早マーラーのような交響曲を書くことはできないという認識の下にあることがはっきりと読み取れる。シュニトケにとってより相応しいのは寧ろ協奏曲という形態ではなかったかと思えるし、実際に彼はかなりの数の様々な協奏曲を書いているが、それは名称だけからは同じに見えても、かつての新古典主義の作曲家達が量産したそれとは全く異なった音調と脈絡(のなさ)を備えている。いや、この点だけとれば、交響曲だってそうなのだが、コンチェルト・グロッソにせよ、ソロのコンチェルトにせよ、そうしたフォーマットが借り物であることが明らかである一方で、その内実自体もかつての文脈からそのまま借用するのではなく、いわば換骨奪胎することによって世界認識のあり方の例示たりえているように思えるのだ。

 もう一つ見逃せない点は素材の扱いで、未だアコースティックの時代に生き、ようやくプレイヤーズ・ピアノ(ピアノ・ロール)には接しても、演奏の録音には関わることのなかった(従って、大指揮者マーラーの演奏記録は遺憾ながら一つとして残っていないのだが)マーラーとは異なって、シュニトケが録音・再生・編集テクノロジーの浸蝕を蒙っている点は直ちに見てとれるであろう。シュニトケの態度はこちらについても或る意味では誠実なものであったと言える。即ち、そうしたテクノロジーの侵入を恰もなかったかの如くの「昔ながらの」音楽を書くのではなく、素材の扱いの点で、はっきりと知覚がテクノロジーの影響を受けて変容していることを示すような手法を用いている。それが時としてその作品にいかがわしさやフェイクのような印象をもたらし、シニカルで時として絶望的な印象を与えることにもなる。正直に言えば、それ故にシュニトケの音楽を聴くことは決して楽ではなく、寧ろ抵抗感さえ覚えることも多いのだが、前段において述べた素材の機能の仕方の向きの件ともども、それが「現実」の反映であることは否定すべくもなく、テクノロジーの都合良い面のみを見て、後は恰も存在しないかの如くに過去の追憶に耽る態度に比べれば、仮にそれが時として顰蹙や反発を買うにしても、シュニトケの音楽の(アドルノ的な意味合いでの)批判的な意義は疑うべくもないものに思われる。マーラーの音楽と同様に、シュニトケの音楽も「意識の音楽」といって良いだろうが、その意識は、マーラーのそれに比べて、テクノロジーの侵入を受け、支配されていて、結果として知覚そのもののあり方が変容してしまっているのだが、音楽のそうした相貌は我々が今日まさにその中で生きている現実を映したものなのだから。

 因みに上記の最後の点は、これまたアドルノがマーラーに関して述べた点に通じるのだが、そうはいっても両者の間に存在する断絶の方に対しても目を瞑るわけにはいかないだろう。そもそもシュニトケ本人がマーラーに関して強い共感を表明する一方で、相違点として『さすらう若者の歌』や『子供の魔法の角笛』のような民謡のような作品を書く能力の有無を挙げているくらいであって、これは正しくシュニトケが置かれた環境のマーラーとの違いに由来するものであろうし(言ってみれば、それが佯りのものであるかどうかは措いて、シュニトケにはマーラーにはあった「自然」が最早存在しないのだ)、何より象徴的なのはファウストに対する姿勢の違いであろう。シュニトケはマーラーとは異なって、ゲーテのファウストではなく(それを彼は「理想化された」と見做しているようだ)、伝説の描く魔術師としてのファウスト、悪魔に魂を売ったファウストに向かうのだが、それは彼自身も述べているように、世界に対する認識、人類史に対する展望の違いに根差しているのである。

 だがしかし、それ故に逆説的にシュニトケは、マーラー的な精神のある側面の、彼の生きた時代における後継者であったということはできるだろう。例えばシュニトケ自身は高く評価しているらしいシルヴェストロフの交響曲はしばしば「マーラー的」と言われるようだが、私見ではそれは寧ろ、マーラーを受容する現代の消費者の態度との共通性を示唆するものでこそあれ、マーラー自身の志向との共通性を些かも意味していない。クレーメルだか誰だかが件の交響曲を「キエフに死す」と綽名したらしいが、さもありなん、それはヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』がマーラーを「利用する」姿勢との共通性はあっても、マーラーその人とその作品の志向とは凡そ懸け離れたものであろう(当時、マーラーを知る人々がどれだけ激しくヴィスコンティの挙措に対して反撥したかは既に忘却されてしまっているかのようだが…)。ハンス・マイヤーはマーラーのテキストの使い方を巡って彼を簒奪者であると批判したが、『ヴェニスに死す』におけるアダージェットの「読み替え」こそ、簒奪という形容に相応しいものに私には思われる。たとえそれが、第5交響曲自体が持っているかも知れない側面、クレンペラーがそれをもって作品の演奏を拒絶するような契機に通じるところがあるかも知れないにしてもなお、そうであると考える。

 一方、シュニトケの方はと言えば、晩年に近付くに従って徐々に「多様式主義」の装いを脱ぎ捨てて行ったように見える。だが、そこで残ったものは、実は「多様式主義」の作品の中にも基調の響きとして流れていて、それゆえ外からやってくる素材に対して抵抗し、文脈の競合を起こし、或いは逆に素材に攪乱されるものではなかったか。シュニトケの音楽にほぼ一貫して流れている暗澹とした音調は、それが借り物の様式を身に纏うかどうかに関わらず、外部からの暴力によって時としてシニカルな、時として絶望的な、悲劇的なトーンを帯びる点でもマーラーと軌を一にするかに見える。マーラーがそうであるように、シュニトケも「世の成り行き」から身を引き離し、閉じ籠もることはしなかった(シュニトケが、シルヴェストロフについて「自分に投げつけられる「日々の石」を欠いている」と述べつつ、彼は「人間は石を投げつけられる必要がある」と述べていること、そしてシルヴェストロフの側はともかく、シュニトケ自身の側についてはそれが単なる言葉の上でのことではなかったことを思い起こそう)。ショスタコーヴィチのそれと比較されることの多いその後期様式についても、マーラーのそれとの比較は興味深い課題だろう。ショスタコーヴィチは無神論者であったようだが、シュニトケはそうではなかった。「クレド」を書けないからという理由で「ミサ曲」を断念したマーラーは、実はこの点では両者の中間に位置づけられるのではないか。(2019.11.2-4初稿・公開, 11.16加筆修正)

2019年9月29日日曜日

アドルノ「エピレゴメナ」(『幻想曲風に』所収)に寄せて

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 マーラーの内実はごく簡単に言い当てられると人は思いがちだ。絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しないという風に。彼以前のほとんどすべての音楽がお経のように繰り返してきた存在論的な神の証明を、マーラーは信じていない。すべて正しいのかもしれない、しかしその中身は失われている―彼の痙攣的な身振りはこのことに対応している。しかしながら、まさにそれ故にこそ、彼の作品を前にしたとき〔神は存在するという〕不毛のお題目は、何と惨めで、抽象的で、誤ったものに見えることか。マーラーの音楽においては、世界観的スローガンが釘付けにしようとして取り逃がすものが、個々の点しか見えていない判断などには決して明かされることのない経験の全体の中で開花し、獲得される。これがあるからこそ彼の真理内実は、人々の心情を揺さぶることが出来る。生の意味についての空疎な決まり文句が、ただ無力に生の背後に取り残されるしかないのと同様、判断もまたその背後に取り残されるしかない、そういう心情を。
(…)
アドルノ「エピレゴメナ」より(『アドルノ音楽論集 幻想曲風に』, 岡田暁生・藤井俊之訳, 法政大学出版局, 2018 所収)

ようやくにして待望の翻訳の成った『幻想曲風に』には、マーラーに関連した文章として、従来より別の訳で読むことのできた有名なウィーン講演の他にもう一つ、「エピレゴメナ」、つまりウィーン講演の補足として書かれた文章が収められており、これをようやく正確な日本語で読むことができるようになった価値は計り知れないものがある。

勿論、『幻想曲風に』には他にも重要な論文が並んでおり、翻訳の価値の総体は、それら総体を踏まえて測られるべきであるけれど、マーラーという文脈に限って、更に「エピレゴメナ」一篇に限っても、その意義の大きさは、恐らく一読すれば明らかなことであろう。特にマーラーの作品に固有の音楽的時間の解明という観点から眺めた時、この「エピレゴメナ」には、音楽的時間の問題として扱われるべきほぼ全てが出揃っていると、そのように私には思えるのである。休止然り、逆行や回顧然り、リズムと同期の問題も登場している。小説的時間、絵画や映画との比較もまた然り。

だが一読して改めて感じる事は、問題は巨視的な、いわゆる楽式のレベルの持続(と断絶・再開)の構成にあるということにある。この翻訳では「キャラクター」と訳されているものも、そうした持続の中でのヴァリアンテとの関わりで捉えられるべきだし、それに関連して、これまたモノグラフで取り上げられ、ウィーン講演でも言及される突破や停滞・充足や解体といったカテゴリもまた然りであろう。

別のところにも書いた通り、20世紀以降の音楽が拒絶したものとして、「人間的」な時間経過、「物語的」「小説的」な時間の流れ方があり、かつまたそれは「うたうこと」の拒絶とどこかで通じているように感じられる。そして勿論そうした音楽的時間の獲得なり生成なりというのはAIには困難なこと、できないことでもあるだろう。AIによる自動作曲ではなくても、アルゴリズミック・コンポジションのような立場からしても、数理的な扱いやすさという観点から見た場合、小説的な時間というのは扱い辛いもののようである。そこではそもそも伝統的な楽式というのが極めて恣意的なものとなってしまう訳だが、一つには自然言語にもある階層的な構造を考慮しなくてはいけないということがあるにしても、それだけで問題が解決する訳では勿論なく、言語を用いた作品で行けば、文のレベルではなく、文を繋いでテキストを編んでいくための原理というのが必要なのだということになるだろう。意味が通る、文法的にも正しい文章を連ねることはできるだろうし、それなりにコヒーレンスのある文の連なりを生成することだって可能かも知れないが、それでもなお、それと小説を書くこととの間の径庭は未だ大きなものがあると言わねばなるまい。

だが一方で、そうした楽式論を規範とする通常の音楽分析が、マーラーの作品のような音楽的時間の流れをどう扱うかと言えば、それを伝統的な図式からの偏倚としてしか記述できないのは、アドルノがマーラーモノグラフの冒頭で述べている通りである。もしそれがアドルノの言うとおり「唯名論的」に実質的なものであるならば、規範からの距離としてではなく、そこに固有の力学が読み取れる筈だし、それを試みるべきなのではないかというように思われるのである。

他方において、アドルノの言っていることは斯くも「まっとう」で悉く正鵠を射ているように思えるけれど、それをボトムアップに、例えばMIDIデータの分析によって裏付けるということを考えると、途轍もない懸隔を感じてしまうのもまた事実である。一つだけ例を挙げれば、マーラーの音楽が強い「形而上学的」志向を備えているというアドルノの指摘は、感覚的には首肯できても、それでは「形而上学性」がMIDIデータの分析で「検出」できるものなのか、一体、音の並び・組み合わせのどこがどうなると、音楽が「形而上学的」になったり、ならなかったりするのかというように問題を設定してしまうと、そもそもが音楽的時間に関する実質的で内容的な分析、つまり「意味」についての分析というのは実は全く手つかずなのではないか、というようにさえ思えてならないのである。

勿論上記のような問いは、それが余りに性急な、短絡的な問いであろうことは自分でも想像できるのだが、さりとて、ではどのようにしてそのギャップを埋めることができるのかの具体的な方策について言えば、その見通しがあるわけではないことを率直に認めざるを得ない。

ただ、このように考えることはできるのではないか。些か無茶な定義であることは承知の上で、何時の日かAIがマーラーの音楽を聴いて、「エピレゴメナ」のような指摘をすることができるようになった折には、AIが音楽を(人間にとってのそれとして)「理解した」ことを認めるに吝かではないと。

既述の通り、アドルノの指摘は私には正鵠を射たものであると感じられるが、このような指摘をAIができるようになるのか?そのためにはAIに必要なものは何か?その時AIは、比喩でなく、「人間」そのものにならなくてはいけないのではないか?折も折、9月25日付朝日新聞夕刊の記事で、『幻想曲風に』の訳者の一人である岡田先生が指摘されているように、逆に人間がAIのようになっていくのであるとしたら、人間は、自分のための「音楽」を自ら手放すことになってしまうのではないか、というようにさえ思えるのである。

その一方で、AIは措くとして、MIDIデータに基づく分析に限定してみるとしても、それはつまるところ単なる音響態だけに分析の対象を限定していることになり、三輪眞弘さんが逆シミュレーション音楽の定義で明らかにした「音楽」を成り立たせている条件からすればそれは既に抽象を経たものに過ぎないのだが、それでもなお、その音響態の構造なりパターンなりから、アドルノの指摘に対応する何かが抽出できるのでは、という問題設定は有効だし、有効でなくてはならないように思う。

勿論、「絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しない」というような言葉が妥当と感じられる音響態とは?いや、百歩譲って「彼の痙攣的な身振り」とは一体音響態のどこに、どのような分析によって検出できるのか?といった問いに対して、具体的な見通しがあるわけではないのだが、それでもなお、もしアドルノの分析を真に受けて、それを引き継ごうとするならば、このような問いを避けて通るべきではないのではないかと思えてならないし、「エピレゴメナ」はそうしたアプローチのための具体的な手掛かりを与えてくれるものに思えるのである。

「エピレゴメナ」の末尾は、マーラーのあの有名なデスマスクについての言葉で終わる。
ここを読んでいて、実は私は、デスマスク(その実物に接したことは私はないが)ではなく、今年の春に乃木坂で接したロダン作の塑像のことを思い浮かべた。その時の感想は若干の付記をした上で別に公開済なのでここでは繰り返さないが、それを踏まえた上で、そしてデスマスクに関する「エピレゴメナ」末尾の記述をも踏まえた上で、私は以下のようなことを思わずにはいられなかった。

ボルヘスの短編に、ドンキホーテを「再創作」するという趣向の作品がある(『伝奇集』(Ficciones)所収の「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」(Pierre Menarrl, autor de Quijote))。そこでのボルヘスの意図は措いて、まさにピエール・メナールのようにマーラーの作品をAIが「再創作」したとしよう。その時、音響態としては同一なわけだから、チューリングテストのような問題設定では、作者の区別はつかないことになる。AIはチューリングテストにパスすることになるだろう。だが作者が人間なのかAIなのかで、音響態としては同一の作品の「意味」は変わるとしてはいけないのだろうか?勿論これは工学的には反則だろうが、こと「音楽」に対する接し方としては、実はそちらの方が正当なのではないか?

これは一見したところかなり極端な立場に見えるかも知れない。別にAIを持ち出すまでもなく、いわゆる自律主義的な美学とは相容れないのは明らかであるわけだし。だがここで主張されているのは単に、テキスト至上主義に対する作者の復権などではない。一見そう見えたとしても、作品をそれが成立した文化的・社会的文脈(作者もまたそうした「環境」の一部に過ぎず、特権的なものではないとする立場もあるだろう)に還元しようとしている訳ではない。寧ろそれは、AIがマーラーの作品の「聴き手」たりうるかという問いの変形なのだ。或いは同じことだが、AIをマーラーの作品の分析者の位置に据えた時、一体「何を目的に分析を行うのか」という問いの変形なのだ(因みにこれは、岩崎秀雄さんが『BioRealityをめぐる生命美学的遍歴』(日本ヴァーチャルリアリティ学会誌第23巻3号, 2018年9月)で提起された視点そのものである)。言い換えれば、記号論的三分法における「作者」というのは理論的な抽象に過ぎず、既に音楽記号論の不毛が示しているように、そうした抽象によって「音楽」を捉えることはできないし、音楽の「制作」を捉えることはできないのだ。

一昨年物故したアンリ・ルイ・ドラグランジュのマーラー伝の序文においてシュトックハウゼンが想定した、マーラーの音楽を通じて「人間」を理解しようとする宇宙人は、既にアントロポモルフィズムの産物ではないだろうか?(例えば久保田晃弘さんが『他者のためのデザイン』で想定する「他者」を思い浮かべてみよう。)だが、或る意味ではシュトックハウゼンは正しかったという見方もできるだろう。マーラーの音楽こそ、良きにつけ悪しきにつけ、「人間」による「人間」のための「音楽」の一つの極限であるという意味合いにおいて。それは丸山桂介さんが指摘したように「隠れたる神」の時代の「音楽」、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」以後の、自伝的自己=延長意識を備えた「人間」の、アドルノの言う「形而上学が不可能であるということが最後の形而上学」となった「人間」の「音楽」、つまりシンギュラリティ(「技術的特異点」)を前にし、シンギュラリティの向こう側に辿り着くことなき我々のための「音楽」なのだから。(2019.9.29公開, 30加筆, 10.20加筆訂正)

2019年9月24日火曜日

マーラーに関連した2つの展覧会について:マーラー愛好家の専門家への手紙より

(…)今年はオーストリアと日本の外交関係のアニヴァーサリーとのことで、クリムトの名を冠した展覧会が上野と乃木坂で2つ並行して開催されているようです。

まずGWの前半に上野の方に行ったのですが、これは率直に言ってがっかりさせられました。マーラーの関連で良く知っているという意味では(クリムトの周辺とか、社会的文化的背景にあたるものも含めて)良く知っているのがマイナスに作用しているのかも知れませんが、クリムトの作品が出展の半分にも満たないのに「クリムト展」と銘打つのもおかしいし、サブタイトルで日本趣味を持ち出している割には展示はほとんど無関係。GW中であったこともあってか、開場から30分程度なのに入場するのに並ばないとならないので、「興行」としてはうまくいっていたんでしょうが…

ベートーヴェン・フリーズの原寸大複製なるものが展示されたブロックではベートーヴェンの第9交響曲の録音がBGM…。分離派展ではマーラーが合唱をあえてブラスの合奏に編曲して、ウィーンフィルのメンバーを呼んでその場で演奏したとのことですが、そういう経緯を思い浮かべるにつけ、当時持っていた「意味」は勿論、その微かなアウラまでもが既に消し飛び、まるで骨董品をその由来書に従って「演出」して見せるかのような頼りなさ(これくらいのことならバブル期に流行ったCMでも可能だったろうと思えます)に、一体何を意図してこれを100年後の日本に持ってきたのか私には理解できませんでした。単に企画側が見せたいと思い、会場を訪れた夥しい人達が見たいと思ったものに対して私が独り盲目であったに過ぎないのかも知れませんが。

それに対して一昨日の乃木坂の方は、「ウィーン・モダン展」と銘打たれた展覧会の全体がどうというよりも(こちらも目玉の一つらしいクリムトは、油彩の大作はパラス・アテネとエミリエ・フレーゲくらい)単に、マーラーの周辺の(画家としての)シェーンベルク、ゲルストル、ココシュカ、ロダンといった人たちの作品を集めた区画が最後にあったことが私にとってはとても有難かったということかと思います。先生は現物にウィーンで接しておられるでしょうから、改めて足を運ばれる程のものではないかも知れませんが。

シェーンベルクの絵(あの有名なベルクの肖像画とか、私にとっては馴染み深い「マーラーの葬儀の印象」)が来ていて、これも有名なゲルステルのシェーンベルクの肖像画やロダンのマーラーの塑像とかと一緒に、永らく写真でのみ親しんできた作品の現物に接することができたのが良かったです。(ココシュカの連作版画の方は、これはPHILIPSが企画して、中途で頓挫してしまったハイティンク/ベルリン・フィルのマーラー全集――従って、残されたものは選集ということになりますが――で組織的に取り上げたことを、熱心なマーラー・ファンなら思い出したことでしょう。)

シェーンベルクの絵は実物の方が遥かに素晴らしいし、ロダンの塑像は、3次元の現物をじっくり眺めて、その出来のあまりの素晴らしさに驚かされました。写真では感じ取れないマーラーの「精神」とでも言う他ないものが、ロダンの像からは伝わってくるように思えたし、マーラーが歴史上の過去の記号としてではなく、確かにその場に居たという感覚を持ちました。

我が家には、1910年に出版された例のマーラー生誕50周年の記念文集があって、これには図版が2つ、ロダンの塑像とクリムトのベートーヴェンフリースのマーラーがモデルであると伝わる騎士像の写真が収められていて、ロダン作の塑像の写真を保護するパラフィン紙には、ロダンの直筆のサインがあって、自宅にあってマーラーの生前に直接繋がる貴重な接点なのですが、ロダンの塑像も、シェーンベルクの絵などと一緒におかれた現物を見て、その総体を介して、時空を超えて繋がっているという確かな感覚を持ちました。

上野のクリムト展が、徹底的に過去の、外国のものであるという断絶の印象であったのに対して、クリムトはともかく、ココシュカ、ゲルストル、シェーンベルク、ロダンの作品がある乃木坂の展覧会の最後の一室だけは、奇妙な形で自分と繋がっている感じがして、それが錯覚であったとしても、稀有な経験であったと思います。そこにマーラーがいるわけではなくても、確かにマーラーが生きていたアウラが残っていることを感じとることができる空間に足を踏み入れたような気が致しました。

勿論、上に述べたようなことは私の個人的な印象、極めて限定された文脈からの展望に過ぎないですし、それを一般化しようというつもりも毛頭ありません。そもそもがマーラーに引き付ける見方自体、展覧会の見方としては甚だ偏向しており、それをもって客観的な判断とすることができないのは明らかなことです。一方で、にも関わらず、それでもなお私の印象には毫のぶれもないのも動かせない事実です。つまるところそれは、1世紀前のウィーンの文化的・社会的文脈一般に、その中で産み出されながら、その後の時代の変遷に耐えて存続している、否、それどころかますます輝きを増しているかにさえ見える作品の持つ「何か」、つまり(パウル・ツェランの言葉の通り)、時間を超えてではなく、時間を通して送り届けられた投壜通信の価値を還元することの不可能性を告げているように私には感じられます。

無論のこと、時代の中で求められ、時代の中で受け入れられるべくして創作され、受容された作品にもまた固有の価値はあるでしょう。だけれども、時代と場所を隔たりを経て受け取る場合の受け取り方がそれと同じ筈がありません。例えば、その部屋には、その背景を思わせる写真があったわけでもなく、幸いないことに(!)BGMとして彼等の音楽がかかっていたりもしませんでしたが、そういう「演出」を考えてみれば、そうしたことが、ここで経験したことと如何に無関係であるかを感じることができるかも知れません。

上で私は、「マーラーが生きていたアウラが残っている」という言い方をしましたが、それは、見かけ上そのように見えたとしても、自分の経験したことのない過去にマーラーを位置づける操作ではないのです。常には作品を通して、或いは書簡とか証言とかを通して知る他なかったマーラーその人のアウラに別の仕方、或る意味では直接その人物に接するような仕方で、不遜な言い方を御赦し頂きたいのですが、例えばシェーンベルクが接した彼に、その傍らで私もまた接しているかのような印象を抱いたと言えばいいでしょうか?シェーンベルクのかのプラハ講演の言葉が一切の誇張のない、掛け値なしの彼の気持ちであったことをまざまざと感じたように思えるのです。そう、それは或る種の精神的な「圏」の中に足を踏み込んだかのような圧倒的な経験でした。(…)

(2016.5.28執筆、9.24加筆・修正の上公開)

2019年9月1日日曜日

「時の逆流」および時間の「感受」のシミュレータとしての「音楽」に関するメモ

 私は以前より「時の逆流」に関心を持ってきました。これはもともとは、ホワイトヘッドのプロセス哲学の拡張の議論の中で出てきたアイデアで、プロセス神学的な枠組みでフォードが提示したものを意識の場に移し、意識の解明に寄与すべく修正することを試みた遠藤弘「時の逆流について―フォード時間論の批判的考察―」で検討が行われているものです。これを出発点として、私が試みたいのは、自伝的自己のような高度な心性を備え、(やまだようこさんの質的心理学における意味において、或いはまた、藤井貞和さんの物語理論における意味において)「うたう」こと、「ものがたる」ことができる「人間」が経験する時間性の中における「時の逆流」を、超越とか創造性とかの経験、そしてそのその背後にある他者との出会いの経験に関わる時間的構造として提示することです。

一方で「時の逆流」を一般的に捉えれば、そうした自己意識のような高度な心性を想定せずとも、まずもってエントロピーによる時間の矢の向きの議論の場で考えることができるでしょう。時間の方向は、熱力学の第二法則におけるエントロピーの増大によって定義されますが、そこでは「時の逆流」はエントロピーの縮小として捉えることができます。直ちに思い浮かぶのは、今日、複雑系の理論を背景に深化が試みられている「生命」を巡る議論です。微視的に可逆な過程から、どのように巨視的な不可逆な過程が生じるかについては、カオスを媒介とする説明が試みられています(田崎秀一『カオスから見た時間の矢』)し、より「生命」を意識した議論なら、プリゴジーヌの「散逸構造」論であったり、アトランのノイズによる秩序の形成を「時間の逆行」として捉えた議論(『結晶と煙のあいだ』所収の「時間と不可逆性について」)といった、ゆらぎによる秩序形成についての理論にまずは関わると考えられます。

私は形而上学的な議論というのが苦手ですので、私にとっては時間とは常に、時間の経験(時間の「感じ」)が出発点となります。(そういう意味では、哲学では「現象学的」な志向なのだと思います。)直線的時間・円環的時間といった時間表象は、そこから出発して抽象を経て得られるもので、二次的なものです。多くの場合、遠近法的倒錯によって、既に手にした抽象から出発して、背後を覗き込もうとするから話が錯綜とするわけですが、私は(「発生論的」に、あるいは「構成論的」に)、ある系が時間の「感じ」をもつことが如何にして可能になるかを出発点にとりたいと思います。勿論「感じ」はホワイトヘッド的な意味合いにおけるfeeling(「感受」)として一般化されて、高度な意識を持つ主体限定のそれではなく、意識を持たないシステムの外部との相互作用をも記述する用語として類比的に拡張して用いられ、そのことによって「脱人間化」が可能となり、更には方法論上、数理を背景にした理論との関連付けの可能性も出てくると考えています。

大急ぎでそうした数理を背景にした理論で、いわばボトムアップに「生命」の時間に、果ては自己意識のような高度な心性を備えた「人間」の時間に辿り着くための基礎となるようなアイデアとして思いつくものを列挙すれば、まずは同期現象、引き込み現象などについての力学系理論が出発点となるでしょう。(脳の活動に関して、この方向から探求したものとしてブサーキ『脳のリズム』が挙げられると思います。)また、今、我々が現実に目の当たりにしている唯一の「生命」の事例たる地球上の生物の場合には、それがタンパク質を素材としている点に留意する必要が、こと時間を扱う場合には欠かせないと考えます。生物固有の(例えばシリコンチップによりできているデジタルコンピュータとは異なる)基本的な速度があり、例えば、抽象化されると無時間的に行われると前提される論理的な演算すら、有限時間で、遅延を伴って行われることにより生じてくる違いを無視することはできません(この方向性では津田一郎『複雑系脳理論』の中の「ステップ推論」が重要と考えます)。同じ理由で、同期/非同期性に注目すべきであるということにもなります(非常に単純な系でさえ、セル・オートマトンの計算・状態書換えを非同期的に行うことで、複雑系的な挙動を示す割合が増加するという実験結果が郡司幸夫さんにより示されています)。

永遠とか瞬間とかといった語彙で語られることの多い、「永劫回帰」とか「悟り」の瞬間とかにしても、私はそれらを高度な意識を持つ生物たる「人間」が含まれるシステムの構造の上に成り立つものと捉えたい。そしてそれがどのように可能になっているかは、「人間」の心の成立ちの理解を通してしかわからない。意識・無意識を始めとする語彙に基づき、論理的に矛盾しているとして性急に否定したり、逆にそこにパラドクスを見出して、そのパラドクスから理論を構築するといったアプローチはいずれも私には適切な道筋には感じられません。さりとて勿論、現象学的なアプローチ「のみ」では限界があり、脳神経科学でも、精神病理学でもいいですが、そうした知見を参照して、心のモデルを組み立てて(ヴァレラの「神経現象学」はそうしたアプローチの一例でしょう)、シミュレーションするといった形でしかアプローチできないと考えています。

ただし、そうしたシミュレーションが現時点での知見で一足とびにできるとは思えないので、構成主義的に現在でもトライすることが可能なのは、「感じ」を上記のように一般化した上で、意識を持たない非常に単純なシステムの外部との相互作用の中で、時間の「感じ」が出てくることをモデル化することだろうと思います。(そしてこれは、バクテリアの生物時計のような時間生物学的研究や、人工生命における時間発生のシミュレーションと繋がっていると考えます。)

一方で、もう一つのアプローチとして、音楽を(「人間」が)聴いてうける「感じ」から、音楽の構造の側に折り返すこと、音楽自体が、時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想をとって、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて、音楽の構造を分析することが考えられます。(単に「時間のシミュレータ」と呼んだ方がすっきりするのでしょうが、最初に述べた通り、私は時間を物象化したり、形而上学的な概念として、主体の経験としての時間の「感受」の相を抽象化することに抵抗感を覚えます。誰かが聴かない音楽というものがあり得ないように、体験されない時間というものもない、言い替えれば、時間というのは常に主体の構造や体験の内容に相関的なものであって、経験不可能な超越論的な時間というものはない、というのが私の立場です。抽象を経た時間の表象に関心があるのではなく、アウグスティヌス以来の時間のパラドクスも、それ自体には関心はなく、寧ろそれを疑似問題として解消する説明を探したいと思っています。)

音楽の構造を心理的な含意を持つ図式で捉える試み、或いは例えば詩学や物語論(ナラトロジー)の成果を応用して音楽の構造を捉える試みは、20世紀の音楽学の領域で試みられてきています。他方では、20世紀の言語学の大きな成果である生成文法理論を音楽の構造に適用するような試みも為されてきました。ただし管見では、それらはあくまでも音楽学者の分析の方法論として提案・実践されたものです。それが作品に対する卓越した理解を背景にした直観によって適用された場合には大きな成果に繋がる点を認めるに吝かでなくとも、そうした手法を、いわば天下りに押し付けるのではなく、楽曲そのものを或る切り口で眺めた時に対象の側が持っている数理的な構造を取り出すような、いわばボトムアップのアプローチの方が、ここでの方法論としては適切に思われるのです。そこで伝統的な楽曲分析手法でないやり方で、データの方からボトムアップに音楽を眺めてみようということになります。

冒頭の「時の逆流」に関連した側面のみに限定するならば、そのような分析を通して、恐らくは、なんらかの「特異点」のような構造が、音楽を三輪さんの定義する意味での「音楽」たらしめるものとして浮かび上がってくるような筋道が想定できますが、仮説と呼べるようなものすらない現時点で先に進むことは慎むべきと考え、これは今後に期することにし、ここでは最後に、手持ちのリソースを用いて先ずは感触を掴むためといったレベルのささやかな試み、仮説を立てる前段階の、一先ずは事象を眺めてみようといったレベルのアプローチの一つのサンプルを以下に示して終わりたいと思います。

データからのボトムアップの分析のとっかかりとして、例えば全音階的な和声法ベースで作曲された(20世紀的な意味合いでのいわゆる「現代音楽」ではないという意味で)伝統的な音楽の時間方向の変化を見ていくのに、調的中心のようなものを手掛かりにするようなことが考えられると思います。もっとも楽曲分析の真似事をすべく、ちょっと齧ってやってみるとすぐにわかることなのですが、自動的にプログラムで処理することを前提として調的中心の決定のためのアルゴリズムを書き出すことは簡単なことではありません。そこで差し当たりは簡単に取り出せる調的中心の類比物の時間経過における軌道を眺めてみて何かわかることがないだろうか、ということになります。

そもそも西洋音楽の和声学は、いみじくも「機能和声」と呼ばれるように、それを「人間」が利用するということを前提にした「美的規範」を目がけた合目的性のシステムであり、製作者の利便性に配慮した或る種のヒューリスティクスの集合であると見做せます。「音楽」に対してそうした合目的性を完全に排除できるかどうかという点については実は個人的に私は懐疑的なのですが、それでもなお、「音楽」をそうした「規範」に捉われることなく、一つのシステムとして眺めようとしたとき、前了解的に仮定されてしまっている「機能」を一旦括弧に入れて、音の集合の遷移パターンを眺めてみる、という操作を行ってみることには一定の価値があるように思えます。

そしてそれは、これがまだ初歩の初歩、第一歩に過ぎないとは認識しているものの、直観的には人間的なドラマとは相性が悪そうな「数理的なもの」を敢て用いて、「人間的なドラマ」側に分類されるような音楽の時間的な経過を見つけ出す、ささやかな試みと看做せないだろうか、ということでもあります。

その具体的な実践については(あまりに初歩的なものである上に、未だに最初の試行錯誤の段階にあって、ここでの議論に寄与するような何かが見えてきた訳ではないので)ここでは割愛させて頂きますが、個人的な能力や時間の制約の限界は措くとすれば、音楽的な時間に対するアプローチの仕方として、MIDIファイルを始めとしたデータを入力として、プログラムを用いた「アルゴリズミックな」分析を行うことが、いつの日か、音楽を聴く「主体」と「音楽」の間に生じているプロセスの記述を通じて、「音楽」を創り、演奏し、聴取する、高度な心性を備えた「人間」の構造を解明することに、翻って「音楽的時間」の解明に最終的には繋がると夢想することはできないものかと思わずにはいられません。それはまた副産物的に、「深層学習」などの技術的ブレイクスルーを背景に喧しく論じられている「AI芸術」なるものの現時点での水準での不可能性の説明にも資することになると思われます。

ただし現時点でやるべきは、手当たり次第の展望なきデータ分析ではなく、ここでこれまで書いてきた「思いつき」を仮説と呼べるレベルにするための理論的な枠組みの整備であるという指摘については、素直にその通りであるということを認めざるを得ません。また現時点において、具体的にどのようにデータを分析していけば、そうした構造が取り出せるのかについて私に見通しがあるわけではないし、限られた能力と時間を思えば、それを自分ができると考えているわけではありません。寧ろ、私が此処に思い描いた通りでなくても良いので、誰かが此処に記載した内容をきっかけにして、岩崎秀雄さんがその刺激に満ちた著作『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』で取り上げておられる「システム生物学」と類比されるような「システム音楽学」とでも呼べるような領域をまずは開拓して頂けたら、更にその先で「合成生物学」に対応するであろう「人文工学」へと歩みを進めて頂けたらというように願っているのです。(2019.9.1公開、9.7加筆)

MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について(2021.8.23更新)

1.背景:「時の逆流」と「時間の感受のシミュレータ」としてのマーラーの音楽

私は以前より「時の逆流」に関心を持ってきました。これはもともとは、ホワイトヘッドのプロセス哲学の拡張の議論の中で出てきたアイデアで、プロセス神学的な枠組みでフォードが提示したものを意識の場に移し、意識の解明に寄与すべく修正することを試みた遠藤弘「時の逆流について―フォード時間論の批判的考察―」で検討が行われているものです。これを出発点として、私が試みたいのは、自伝的自己のような高度な心性を備え、(やまだようこの質的心理学における意味において、或いはまた、藤井貞和の物語理論における意味において)「うたう」こと、「ものがたる」ことができる「人間」が経験する時間性の中における「時の逆流」を、超越とか創造性とかの経験、そしてそのその背後にある他者との出会いの経験に関わる時間的構造として提示することです。

一方で「時の逆流」を一般的に捉えれば、そうした自己意識のような高度な心性を想定せずとも、まずもってエントロピーによる時間の矢の向きの議論の場で考えることができるでしょう。時間の方向は、熱力学の第二法則におけるエントロピーの増大によって定義されますが、そこでは「時の逆流」はエントロピーの縮小として捉えることができます。直ちに思い浮かぶのは、今日、複雑系の理論を背景に深化が試みられている「生命」を巡る議論です。微視的に可逆な過程から、どのように巨視的な不可逆な過程が生じるかについては、カオスを媒介とする説明が試みられています(田崎秀一『カオスから見た時間の矢』)し、より「生命」を意識した議論なら、プリゴジーヌの「散逸構造」論であったり、アトランのノイズによる秩序の形成を「時間の逆行」として捉えた議論(『結晶と煙のあいだ』所収の「時間と不可逆性について」)といった、ゆらぎによる秩序形成についての理論にまずは関わると考えられます。

私は形而上学的な議論というのが苦手で、それゆえ私にとって時間とは常に、時間の経験(時間の「感じ」)が出発点となります。(そういう意味では、哲学では「現象学的」な志向なのだと思います。)直線的時間・円環的時間といった時間表象は、そこから出発して抽象を経て得られるもので、二次的なものです。多くの場合、遠近法的倒錯によって、既に手にした抽象から出発して、背後を覗き込もうとするから話が錯綜とするわけですが、私は(いわば発生論的、ないし構成論的に)、ある系が時間の「感じ」をもつことが如何にして可能になるかを出発点にとりたいと思います。勿論「感じ」はホワイトヘッド的な意味合いにおけるfeeling(「感受」)として一般化されて、高度な意識を持つ主体限定のそれではなく、意識を持たないシステムの外部との相互作用をも記述する用語として類比的に拡張して用いられ、そのことによって「脱人間化」が可能となり、更には方法論上、数理を背景にした理論との関連付けの可能性も出てくると考えています。

大急ぎでそうした数理を背景にした理論で、いわばボトムアップに「生命」の時間に、古果ては自己意識のような高度な心性を備えた「人間」の時間に辿り着くための基礎となるようなアイデアとして思いつくものを列挙すれば、まずは同期現象、引き込み現象などについての力学系理論が出発点となるでしょう。(脳の活動に関して、この方向から探求したものとしてブサーキ『脳のリズム』が挙げられると思います。)また、今、我々が現実に目の当たりにしている唯一の「生命」の事例たる地球上の生物の場合には、それがタンパク質を素材としている点に留意する必要が、こと時間を扱う場合には欠かせないと考えます。生物固有の(例えばシリコンチップによりできているデジタルコンピュータとは異なる)基本的な速度があり、例えば、抽象化されると無時間的に行われると前提される論理的な演算すら、有限時間で、遅延を伴って行われることにより生じてくる違いを無視することはできません(この方向性では津田一郎『複雑系脳理論』の中の「ステップ推論」が重要と考えます)。同じ理由で、同期/非同期性に注目すべきであるということにもなります(非常に単純な系でさえ、セル・オートマトンの計算・状態書換えを非同期的に行うことで、複雑系的な挙動を示す割合が増加するという実験結果が郡司幸夫さんにより示されています)。

永遠とか瞬間とかといった語彙で語られることの多い、「永劫回帰」とか「悟り」の瞬間とかにしても、私はそれらを高度な意識を持つ生物たる「人間」が含まれるシステムの構造の上に成り立つものと捉えたい。そしてそれがどのように可能になっているかは、「人間」の心の成立ちの理解を通してしかわからない。意識・無意識を初めとする語彙に基づき、論理的に矛盾しているとして性急に否定したり、逆にそこにパラドクスを見出して、そのパラドクスから理論を構築するといったアプローチはいずれも私には適切な道筋には感じられません。さりとて勿論、現象学的なアプローチ「のみ」では限界があり、脳神経科学でも、精神病理学でもいいですが、そうした知見を参照して、心のモデルを組み立てて(ヴァレラの「神経現象学」はそうしたアプローチの一例でしょう)、シミュレーションするといった形でしかアプローチできないと考えています。

ただし、そうしたシミュレーションが現時点での知見で一足とびにできるとは思えないので、構成主義的に現在でもトライすることが可能なのは、「感じ」を上記のように一般化した上で、意識を持たない非常に単純なシステムの外部との相互作用の中で、時間の「感じ」が出てくることをモデル化することだろうと思います。(そしてこれは、バクテリアの生物時計のような時間生物学的研究や、人工生命における時間発生のシミュレーションと繋がっていると考えます。)

一方で、もう一つのアプローチとして、音楽を(「人間」が)聴いてうける「感じ」から、音楽の構造の側に折り返すこと、音楽自体が、時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想をとって、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて、音楽の構造を分析することが考えられる。(単に「時間のシミュレータ」と呼んだ方がすっきりするのでしょうが、最初に述べた通り、私は時間を物象化したり、形而上学的な概念として、主体の経験としての時間の「感受」の相を抽象化することに抵抗感を覚えます。誰かが聴かない音楽というものがあり得ないように、体験されない時間というものもない、言い替えれば、時間というのは常に主体の構造や体験の内容に相関的なものであって、経験不可能な超越論的な時間というものはない、というのが私の立場です。抽象を経た時間の表象に関心があるのではなく、アウグスティヌス以来の時間のパラドクスも、それ自体には関心はなく、寧ろそれを疑似問題として解消する説明を探したいと思っています。)

それは例えば、マーラーに関連したところで行けば、アドルノがマーラーに関するモノグラフにおいて、マーラーの作品を分析する時に、既存の楽曲分析の道具立てとは別に提示する幾つかの「カテゴリ」、即ちDurchbruch(突破) / Susupension(停滞) / Erfuellung(充足) といったカテゴリを、「小説」形式との関連を意識しつつ心理学的に捉えるのではなく、一旦、数理的な構造に「翻訳」することに繋がると考えます。

アドルノはそれらのカテゴリのそれぞれについて具体的な作品における該当箇所の例示はしますが、定義の方は明確に示していません。強いて言えばErfuellung の説明でバール形式の後段が参照されるくらいで、総じて例示から雰囲気はわかるといった程度だと思います。同じ著作で出てくる「小説」形式と上記のカテゴリの関係もまた、明示されません。ではありますが、実際のマーラーの音楽の構造的な急所が伝統的な楽式論とずれていて、伝統的な楽式を換骨奪胎して、独自の構造を「唯名論的」に都度産出していったという把握の仕方には説得力を感じます。そこに独自の時間論的構造があるだろう、そしてそれが私が外ならぬマーラーの音楽に特異的に惹かれる理由なのではないだろうか、とも思うのです。


2.目的:「時の逆流」を数理的なアプローチで見出す探求の第一歩として

アドルノの提示したカテゴリを、「小説」形式との関連を意識しつつ心理学的に捉えるのではなく、一旦、数理的な構造に「翻訳」することは、(勿論、アドルノは、それを十二分なマーラー作品の分析に基づく、卓越した理解を背景にした直観によって言い当てているのですが、それでもなお)そうしたカテゴリを天下りに押し付けるのではなく、楽曲そのものを或る切り口で眺めた時に、対象の側が持っている構造として取り出すことができないだろうかという疑問に繋がってきます。そこで伝統的な楽曲分析手法でないやり方で、データの方からボトムアップにマーラーの音楽を眺めてみようということになりました。

そしてその最初の切り口として、マーラーの音楽が全音階的な和声法ベースであることから、時間方向の変化を見ていくのに、調的中心のようなものを手掛かりにしてみようと思い立ったわけです。もっとも、楽曲分析の真似事をすべく、ちょっと齧ってやってみるとすぐにわかることなのですが、自動的にプログラムで処理することを前提として、調的中心の決定のためのアルゴリズムを書き出すことは簡単なことではありません。そこで差し当たりは簡単に取り出せる調的中心の類比物の時間経過における軌道を眺めてみて何かわかることがないだろうか、ということになります。そしてそれは、これがまだ初歩の初歩、第一歩に過ぎないとは認識しているものの、直観的には人間的なドラマとは相性が悪そうな「数理的なもの」を敢て用いて、「人間的なドラマ」側に分類されるような音楽の時間的な経過を見つけ出す、ささやかな試みと看做せないだろうか、ということでもあります。

具体的に、先行する分析を参照して述べるなら、例えば上記のような分析を介して、アドルノがマーラー・モノグラフで述べている「未来完了性」を捉えるといったことは考えられないでしょうか?(具体的には、Taschenbuch版で300ページ、VIII. Das lange Blickの第9交響曲に関する叙述に”Im Fururum exactum steht auch der Bau des Hauptthemas.”といったようなかたちで登場します。 定義は例によってさほど明快とは言い難い感じがしますが、要するに、最初に主題が「決定的な形態で」提示されるのではなく、暗示されるように出てきて、後になって(例えばソナタ形式なら、提示部の確保の時、あるいは再現の時に)決定的な形態での提示が行われるようなあり方を指しているとここでは捉えたいです。(ことここでアドルノが直接言及している第9交響曲の第1楽章に限って言えば、確保の際に本来の姿を現すというシンプルな捉え方も可能だと思いますが。)すると「主題提示・展開・再現」ならぬ「主題予示・発展・提示」という図式となるということでしょうか?でも、そこまで行くなら更に、再現が主調への回帰という意味合いで、系の軌道の収束であるという本来の機能が弱まるのと対応するように、コーダ(およびコーダを準備する推移の部分)が、何らかのかたちで「充足」となっていること、言い替えれば、それがダメ押し的な再認であれ、解体であれ、そこでようやく系が安定を取り戻す動きをしているという点を加えることができるかも知れません。マーラーの楽式を論じる際に、ソナタ形式の換骨奪胎という見方をするのは、今や常套的なアプローチですが、にも関わらず、換骨奪胎の具体的なやり方をアドルノのカテゴリと突き合わせるようなことが行われているという話は寡聞にして知りませんが、そうしたことは寧ろ、従来の図式を適用してはみ出す部分を見るのではなく、端的に軌道の動きをトレースすることでより良く把握できてくる側面を持っているように思います。

更にはまたいわゆるナラトロジー系の音楽分析というのがあって、例えば手元には Vera Micznik, Music and Narrative Revisited: Degree of Narrativity in  Beethoven and Mahler, Journal of Royal Musical Association, 126 (2000)  というのがありますがが、この手の分析についても、そこで主張されているベートーヴェンとマーラーのナラティヴィティの程度の違いなるものがデータ分析ではどのように検出できるものなのか?という問いも成り立つかも知れません。

マーラーはゲーテの愛読者で「原植物」のようなゲーテの発想を音楽に当て嵌めるようなこともしていますが、その意味での理想はバッハの音楽あたりになる一方で、自分の音楽は必ずしもそうではなく、(バフチン的な意味合いで)ポリフォニックであるという自覚を持ってもいました。実際には後者の認識の方が先行して初期の「角笛交響曲」に強く表れ、前者が意識されてくるのは中期以降であって、その到達点が、アドルノが「一つの旋律から成り立っている」というヴィンフリート・ツィリッヒの評言をモノグラフで引いている第9交響曲の第1楽章ということになるのでしょうが、その第9交響曲の第1楽章ですら「他者(との遭遇)の痕跡」があると言えると思います。アドルノのカテゴリのうち、特に「突破」は、そうした音楽的出来事を捉えようとしたものではないでしょうか?そして、もしそうであるとするならば、それはデータ分析では、どのようにして突きとめることができるでしょうか?

マーラーが「世界を構築する」と言うとき、それは恰も神様が世界の外側にいて創造行為そのものや被造物との関わり合いに巻き込まれることなく創造するような仕方でやるわけではない。マーラーの音楽は、外から覗き見る世界のミニチュアではなく、その中を奏者や聴き手(勿論、マーラー本人も)が動き回って、色々な出来事に遭遇するような世界のシミュレータなのだと思います。それ故、その音楽には世界の内側からの視点が映り込んでいるし、その音楽の時間性の分析は、アプリオリに「人間のドラマ」と決めつけずに「数理的な」道具立てのみを敢て用いたとしても、高度な心性を備えた複雑なシステム固有の「時の逆流」の構造を浮かび上がらせるものとなるように思うのです。

ただし、現時点において、具体的にどのようにデータを分析していけば、そうした構造が取り出せるのかについて私に見通しがあるわけではないし、限られた能力と時間を思えば、それを自分ができると考えているわけではありません。寧ろ、私が此処に思い描いた通りでなくても良いので、誰かが此処に記載した内容をきっかけにして、岩崎秀雄さんがその刺激に満ちた著作『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』で取り上げておられる「合成生物学」の先蹤としての「システム生物学」と類比されるような「システム音楽学」とでも呼べるような領域を開拓して頂けたら、というように願っているのです。


3.アプローチ

マーラーの作品はMIDI化がかなりされているようなので、MIDIファイルを入力として、まずは各拍、各小節頭拍の位置で鳴り響いている音を抽出し、その結果に基づき五度圏上で重心を計算してプロットするというのをやってみることにしました。

以下はマーラーの第8交響曲第1部での実施例の一部です。

MIDIファイルから抽出した各小節頭拍の音の分布(音高の違いは無視して1行目の音が鳴っているパートの数を数えたものの冒頭からの一部)が中央にあり、五度圏上での音の座標の定義が左側3列(上半分は1列目の単音のx,y座標が2,3列目に、1列目の音を基音とする主三和音の重心のx,y座標が2,3列目に定義されています)、中央の数値を入力とし、左側の座標定義に基いた重心計算の結果が右側2列(x,y座標の冒頭からの一部)となります。

データとしてMIDIファイルを利用することについては、三輪眞弘さんに示唆して頂きました。MIDIファイルは上記の意図であれば十分な情報を持っていると期待できます。(実際にやってみると、個人が手で入力したそれは、ここでの意図でも色々と問題を持っていることがわかってきます。それゆえ国際マーラー協会は、MIDIのような機械可読のフォーマットについてもクリティカル・エディションを出してくれたらいいのに、と思わずにはいられません。演奏にあたっての利用料を請求するようなことが出来ないが故にビジネスとしての旨味はないのでしょうし、バカ高い値段をつけられたら結局私のようなアマチュアの個人は手も足も出なくなってしまうような気がするので、そもそもこういう期待は見当外れであって、まずは今日のWebの状況に感謝すべきだとは思いますが…)

なお、上記のような問題点も含め、マーラーのMIDIファイルの状況についてはWebで作成状況を調査した結果を公開したことがあります。

https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2016/01/midi.html#!/2016/01/midi.html

MIDIファイルを解析して音を取り出し、重心計算をする一連のプログラムは自作です。一方で、五度圏の重心計算そのものは、三輪さんの作品のアイデアからの借用で、重心計算のプログラムについて三輪さんから質問されてお答えしたのがきっかけです。

但しここでは、重心計算の対象は三輪さんの場合とは異なり(三輪さんの場合は単旋律で、状態遷移系列の各時点で鳴っている音(実際には時点には幅があって、計算された音が継起するわけですが)が対象でした)、基準となる拍(ここでは小節の頭の拍)で、鳴り始める音+前から鳴り続けている全ての音を拾ってその重心を計算しています。


4.結果の図示:共感覚(色聴)の活用

以下は第8交響曲第1部の計算結果を時間方向を潰して軌道を平面に重ねたもの。試しに、楽式論的なセクション毎に色を変えたりしています。
まずは提示部。

次いで展開部。

再現部。

最後がコーダです。

更に同じ結果について、フリーの3Dグラフ表示ソフト(RineanGraph3D)で時間方向を残して図示したものが以下のものです。横軸が小節数、断面が五度圏上の重心になります。小節数についてはMIDIデータのものですので、楽譜上と1小節ずれています。

何箇所かでこれまでも書いている通り、私は調性に関する色聴を持っていて、古典派では特にモーツァルト、ロマン派では、 アナクロニックに全音階的であるが故に調性格論が特に有効と個人的に私が考えているマーラーについては、聴いていて色が比較的はっきりと見えます。

それとぴったり対応、というわけではないのですが、折角なので、重心と色聴で見える色との対応を確認するために色を付けています。黄色がフラット3つ(Es-dur)あたり、 青がシャープ4つ(E-dur)あたりです。数が減ると白色に近付き、増えると暗くなるのですが、それは表現できていません。また短調はくすんだり赤味がかるのですが、これも表現できていません。もっとも私の場合には、いつもそんなに色彩がヴィヴィッドに見えているわけでもないので、細かいところに拘ることに意味があるとも思えません。




5.関連研究・課題など

試行にあたり、一応、簡単にではありますがWebで文献調査を行い、コンピュータを用いた音楽学の分析についての論文にもあたりました(例えばS.ケルシュ『音楽と脳科学』(佐藤正之編訳, 北大路書房, 2016)の第2章、Tonal Theory for the Digital Age, Computing inMusicology 15 (2007-08)、Elaine Chew, Towards a Methematical Model of Tonality, (MIT, 2000), など)。調的関係の表示の仕方については古典的なものも含めて色々と提案されているものの、これで決まり、というものがあるようには見えませんでしたが、単なる調査不足かも知れません。

一方、実際にやってみて、現在の素朴なやり方には色々な問題があることは認識しています。ここでの重心は、西洋の和声学上の調的中心の近似としてはかなり粗いものに過ぎません。単純なところでは、同時になっている音が2つ以下の時は重心は五度圏の円周に近づく一方、中心からの方向が、三和音(I)からずれていく点が、伝統的な調的中心への近似としては問題があるでしょう。(いや、これは逆立ちした言い方で、ある音の五度圏上の座標の円中心からの方向に対して、その音を主音とする調の主和音の座標の円中心からの方向がずれてしまうという言い方をすべきかも知れません。)それも含めて、ざっと考えただけでも以下のような問題が思い浮かびます。

・和声→重心が一対一対応ではなく、逆写像が単射にならない。つまり幾つかの異なる音の組み合わせが同一の重心を持ちます。これは伝統的な和声の構造上は問題がある性質です。
・サンプリングする時刻において同時に1音、2音しか鳴っていない時、1音、2音で重心計算した結果を、3つ以上の場合と混在させることの問題。伝統的な発想では、1音、2音の時も常に3和音のどれかに帰着させるはず。また、トニカと空虚5度、根音のみの重心は、θがずれてしまう。θのずれ自体には何等かの意味があるかも知れませんが、伝統的な和声機能で考えるときにはこのθのずれは、中心からの距離の関数で補正した方が自然に感じられます。
・上記を考慮しなくても、3つ以上の音の重なりの和声機能の候補は常に複数あり、調的文脈なしでは決定できません。しかも長調・短調の区別も文脈なしではできません。
・五度圏に帰着させる際に音高を捨象してしまうため、根音がどれか、転回の有無の情報がなくなりますこれも伝統的な和声機能の判定上は必要な情報の欠落です。
・和声の推移のパターンの抽出をしようとすると、同一和声が複数時区間にわたって持続する情報はパターン抽出の邪魔(同じ音の連続というパターンとして扱ってもいいが、分類の観点からはノイズにすぎない。)

ただ、ここで重心が意味しているものが全く無意味なわけではないと思うので、西洋音楽の和声学に合わせた補正をすべきかどうかについては議論の余地があるかも知れません。そもそも西洋音楽の和声学は、いみじくも「機能和声」と呼ばれるように、それを「人間」が利用するということを前提にした「美的規範」を目がけた合目的性のシステムであり、製作者の利便性に配慮した或る種のヒューリスティクスの集合であると見做せます。「音楽」に対してそうした合目的性を完全に排除できるかどうかという点については実は個人的に私は懐疑的なのですが、それでもなお、マーラーの音楽を「規範」からの逸脱の度合いという観点ではなく、一つのシステムとして眺めようとしたとき、一旦そうした「機能」を括弧に入れて、音の集合の遷移パターンを眺めてみる、という操作を行ってみることに一定の価値があるように思えるからです。

それでもなお、マーラーの音楽が西洋音楽の和声学に準拠している点を踏まえ、マーラーの聴き手は、それゆえ、そうした規範に一定程度馴化されることをも考慮して、上記のずれを補正をしようとすると、和声学上の主音の認識が必要になり、和声学的な分析を事前に行うことが前提となってしまいます。勿論、それがある程度自動的にできるのであればそれでも構わないのですが、音楽学者の分析結果が必ずしも一致したものにならないことなどを見るにつけ、簡単にできるようには思えず、現実的な問題として、こちらの方向への改良の方針が立たないことも与かって、一旦は重心計算の結果をそのまま公開することにした次第です。

ここでは結果を図示したものを幾つか示しましたが、公開する意味があるのは重心計算の結果そのものと思われますので、こちらについては以下からダウンロードできるようにしました。
小節毎の重心計算結果
https://drive.google.com/file/d/13_6xfAykk0gdRSf4UOjh6kS3MXdrJs3-/view?usp=sharing
拍毎の重心計算結果
https://drive.google.com/file/d/109iHIi88f_xiMfht--SYLydRCCrEO6Q2/view?usp=sharing

小節頭毎の重心計算結果のうち交響曲(「大地の歌」含む)の3Dグラフ表示結果のファイルはは以下からダウンロードできます。(bmp形式)
https://drive.google.com/file/d/1siyeAbOjIHybNNTq1WgKXcZqXbWGXy0x/view?usp=sharing

また、重心計算の元となったMIDIファイルから抽出した基本データは以下においてあります。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/midi_7.html

基本データによるクラスタリング結果は以下においてあります。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/httpsbox_7.html

更に、本稿執筆後に行った和声の分類とパターンの可視化の試みについての記事を以下で公開しています。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi2020128.html

上記の和声の分類結果を基にして、マーラーの作品(楽章毎)に加えて他の作曲家の作品も併せて和音の出現傾向を分析し、マーラーの作品の特徴づけを試みた結果を以下の記事で公開しています。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2020/02/midi.html(その1)
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2020/02/midi2.html(その2)
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2021/07/midi6.html (その6)

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。

(2019.9.1公開。9.6,7,13追記。11.19基本データ、クラスタリング結果、和声の分類とパターンの可視化の試みへのリンクを追加。11.25画像が誤っていたため差し替え。2020.1.28 重心計算結果データ改訂版に差し替えし、データをダウンロードするのみに変更。1.29 重心計算結果の3D表示ファイルを改定版に差し替えし、データをダウンロードするのみに変更。2.1 ご利用にあたっての注意を追加。2.26,27分析結果へのリンクを追加・差し替え。2021.8.22 和音の出現傾向の分析について、補遺(その3)および最新の分析結果(その4~6)を追加。8.23和声の分類とパターンの可視化のページへのリンクを修正。)