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2019年12月12日木曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺への追記

以下は、記事「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺」の更に補足となります。背景については元記事(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post.html)をご覧ください。

(1)まずは気になっていたティモチコの『音楽の幾何学』。これはかなり手強い内容なので、きちんと読むには時間がかかりそうですが、基本的な前提のところで、今考えている方向とはずれがあるようです。例えば中心音と音階は独立だとする。これは原則としては勿論正しいのですが、結果的に個別の(例えば機能和声の、条件つきの、経験的なものでしかない)合理性の在り処を説明する方向には向かわなさそうです。寧ろ、抽象化をしていった上で、その過程で削り落とした要素をそれぞれパラメトリックに独立に扱えるように幾何学化するとどうなるか、という探求のようです。勿論、そうした抽象化の進んだ次元で見えてくる法則性のようなものはあるでしょうし、機能和声や伝統的な対位法では禁則であっても実は合理性があるのだ、というような説明が可能になることもあるでしょう。更に言えば、音楽を抽象化して行って出来るだけ一般的に秩序だてようとする点で、寧ろ三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする「ありえたかも知れない音楽」の仮構のような方向性と親和性が高いように思います。

(2)次にクラムハンスルの『音楽的音程の認知的基礎』および(こちらは邦訳のある)アイエロの『音楽の認知心理学』所収のバトラー、ブラウンの「音楽における調性の心的表現」について。これらは認知心理学の実験結果なので、基本的には理由づけを分析することは一先ず措いて、ある文化的・社会的文脈での習慣づけ=学習の結果を帰納的に(平均化して)求めて行く。結果として得られるものは発見的(ヒューリスティック)な規則になります。だから母集団を変えたら結果が変わるかも知れない一方で、母集団を変えても、「ヒト」であれば基本的には安定した規則性というのが見つけられる可能性はあり、帰納的な極限として(西洋的な)「人間」のみならず、「ヒト」普遍の法則を見出すことはある程度可能でしょうし、実験結果はそれの一定の誤差つきの近似と捉えればいいように思います。

 但しこの規則を正しいとして中心音決定することの意味は確認が必要と感じます。これ自体が目的なら問題ないですが、これを更に和声の機能を調べるために使うとすると、論理的に循環が生じうる、つまり中心音の発見的規則の中に和声の機能に由来するファクターが含まれている可能性が高く、もしそうなら、形式的には「中心音で機能が決まる。機能に基いて中心音が決まる。」という循環があるように見えるからです。

 もっともこの循環は、まずはそれぞれの「機能」という語で指示されている対象が同じでないかも知れませんし、その点を考慮してなお循環があるとしても、排除されるべきものではなく、対象の性質からいって、物理的法則のようなものを想定するのは妥当ではなく、寧ろ生物のような複雑系に近いと考えれば、ブートストラップ、自己組織化のようなものにつきものの再帰性の現われとして正当化されるものではないかと思います。

 ただし、これは対象が平均律と機能和声の枠組みに基本的に依拠しているマーラーの音楽だからであることには留意しておきたいと思います。仮に今、分析しようとしている作品が、12音平均律には基づいていても、機能和声に支えられた12音各音を主音とする長調・短調の調的システムには基づいていないとします。その時、クラムハンスルのアルゴリズムでの推定が意味がないことは明らかです(そもそも、適用しようとは思わないでしょう)。敢えてそれを行ったとしてわかることは、別の調的システムで作られた音楽を、西洋の伝統的な音楽を聴いてきた人間が聞いた時、敢えてそれを西洋の伝統的な音楽におけるシステムの内部で捉えようとしたら、どのように捉えられるか、ということになるでしょう。この場合には、最初に述べた循環が表面に出て、致命的なものとなってしまいます。

(3)ただ、ここで差し当たってやろうとしているのは、中心音の推定なのか、それとも調性の推定なのか、マーラーを対象とする限り、その両者は理論的に関連しているものの、厳密には一般には両者は独立ですから、その2つを区別する/しないについての確認を念のためにしておくことにします。

 クラムハンスルの調性推定のアルゴリズム(およびその変形)を用いて何ができるかと言えば、厳密に言えば、それはあくまで特定の時間枠の中で鳴っている音の集合からどの調性との相関が最も大きいかを推定することであって「中心音」そのものの推定ではありません。平均的にどの調性だと判断されるかの確からしさが求まるだけです。そしてその上で、調性が推定されたとして、調性の定義に従属するものとして中心音が定義されるならば、調性の推定結果(24の長調・短調の各調性との相関を表すベクトルの系列)に対してある変換を施せば中心音の軌道に変換できるということになります。変換に当っては、例えば、長調と短調における中心音の安定性の違いを加味したりすることになるでしょう。

 更に中心音の定義を重心の如きものとしようとすると、今度は重心を計算する空間の定義が必要となります。避けようと思えば12のピッチそれぞれの確からしさの分布そのものが中心音であるとしてしまえば余計な問題は回避できるわけですが、既にマーラーの作品のMIDIデータを入力として五度圏上の重心計算をやっているわけですから、改めて重心計算について考えてみます。
 
 結局、中心音の重心計算がそこで為される空間自体が、(経験的な)調的相関で定義されるものであるなら、筋道としては「調性の推定(クラムハンスルのアルゴリズム、音の出現分布の相関度に基づく)⇒調的相関(これ自体、各調性における音の出現分布同士の距離として計算された結果)の空間における重心としての中心音の計算」となって、これはこれで矛盾はなさそうです(勿論それは、西洋近代の調的システムという「閉域」にいるから矛盾が起きないということに過ぎないのですが)。わざわざ中心音の空間を定義する意味があるか(「閉域」の中にいる限りにおいては、結局分布のある幾何学的表現に過ぎない)を気にしなければ、これはこれでいいように思えます。

 一方、重心計算ではなく、マーラーの作品のMIDIデータを入力とした調性推定結果自体において、例えば調性の曖昧さの度合いやコントラストなどについて様々な特徴が検出できたとすれば(この特徴も、何らかの平均なり特定の別の対象との比較として取り出せるものでしかないですが)、それはマーラー固有のものとして構わないように思いますし、発展的調性を力学系的に捉えるという観点からは、寧ろ適当なような気もします。

 こうして考えると、マーラーの作品の分析なら、差し当たり出発点としてクラムハンスルの調的階層が前提とする調的システムに基づいて中心音を定義することが大きな問題になることはない、従って結局、まずはつべこべ言わずにクラムハンスルのアルゴリズムなり、その変形を使った分析をやればいいし、それをやる意味はありそうだ、というのが結論のようです。

(4)上記の点に関連して、私の前の記事での議論は、一見するとそれ自体、自己矛盾に陥っているように見えると思います。つまり一方で、倍音のような物理的法則に従うレベルの事実は、一定以上の根拠にはなりえないということで、文化的・社会的な多様性が生じる余地を要求しながら、クラムハンスルの実験結果のように帰納的に求められた規則に対し、それが文化的・社会的な条件に制約された一定の集団の平均値に過ぎないという点において留保をするというのは、無い物ねだりなのではないか、では一体何に根拠をおこうというのか、という問いが成り立つと思います。

 それに対しては、(まさにそのような書き方をしたと思いますが)クラムハンスルの実験結果のようなものを全面的に拒絶するつもりはなく、それを分析の手段として(消極的・暫定に)利用することは否定しません。(というか他に手段がない。)それは飽くまでも(機能和声の「規範」とか、「音階」「旋法」のような理論的概念を援用して分析することも同じだと思いますが)問題にアプローチをするための一手段に過ぎません。

 例えばクラムハンスルに対して、バトラー、ブラウンはより文脈依存性にフォーカスした実験を行っているわけですが、いずれの実験結果についても物理法則レベルの根拠はなくても、生理的・知覚的水準での準・法則的なものを想定するならば、それが一定のレベルで反映されたものであると考えることは可能だろうと思いますし、それを用いることに問題があると考えているわけではありません。

 問題が起きるのは、例えばそうした実験的・経験的な事実が、価値判断の尺度になる時です。平均値に近ければ近いほど「優れている」わけではないし、逆に遠ければ遠いほど「優れている」わけでもない。遠い方について言えば、遠ければ「オリジナル」とは限らないし、「オリジナル」であることと「興味深い」ことはまた別です。(この辺りの事情は、各学問領域における研究の価値とパラレルな側面があるような気がします。)物理的に「協和的」であることと、感覚的に「協和的」であることは既に一致せず、後者は文化依存であるとされています。一方で、いずれの尺度においても「協和的」であること(あるいはその逆)が、そのまま作品の価値を決める尺度となるわけではありません。

 同様に、例えばクラムハンスルは、実験で求めた調毎のピッチの出現頻度の分布に基づき、調性間の距離を計算してマップを作成していますが、このマップはあくまでも或る時代の文化的・社会的な平均的プロトタイプに過ぎません。それは規範のレベルでの機能和声理論に対応する、経験的・帰納的レベルでの等価物であると考えることができるでしょう。勿論これを基準とした個別の作曲家の作品の特徴づけを行うことは可能だし、問題はないですが、規範としての機能和声への忠実度が作品の「興味深さ」を直接決定する尺度にはならないように、それもまた、作品の「興味深さ」を直接決定する尺度にはならないと考えているということです。「興味深さ」を探るとなれば、そこを出発点としながらも、更にそこから離れて、アドルノ風の「ミクロロギー」に拠らなくてはならないのではないか、「唯名論的」にその作品固有の論理を明らかにすることによってしかできないのではないかと思うのです。そして繰り返し述べるように、そうした分析を行う際には(そうした分析だからこそ)、データに基づく裏付けが必要なのではないかと思う一方で、データ分析によって出て来るのは(少なくともここで論じているレベルのものは)あくまでも「素材」に相当するものに過ぎす、それ自体がそのまま「答え」になることはないように思います。

 もともとが、非西洋人である「私」がマーラーを聴くとき一体何を聴き取っているのか、というのが問の発端でしたが、その「私」とてマーラーを含めた西洋音楽を聴くことで脳内にマップを形成しているわけですし、結局のところ目的は「私が受け止めたもの」そのものではなく(それは私がトリヴィアルな存在であるのに応じて矮小化されたものになっていて、そんなものに価値はないので)、それを可能にしたマーラーの作品の背後にある論理を分析することにあるのですから、「私」とクラムハンスルの調的階層の背後に存在する平均的な聴き手との偏差に拘っても仕方ありません。

 その一方で、クラムハンスルの調的推定の結果はそのまま用いるべきではなく、中心音のような、より一般的な理論的概念を措く操作は必要なのではないかと思います。マーラーの音楽は、そもそも私が済む極東とは異なる文化的に属している筈ですし、それは既に1世紀も前のものなのです。一方では固有の伝統に属する能楽に接し、他方では、マーラー以降の西洋の音楽の更にその先にあって、まさに同時代の音楽である三輪眞弘さんのように、倍音列において最も基本的な完全五度に基かないガムランに基づく作品もあれば、はそもそも音律すら前提としない作品もあり、かと思えば、12音平均律に基づきつつも伝統的な機能和声に基づく調性音楽とは異なる調性へのアプローチを試みた作品もあるような「音楽」にも接している現実の状況を踏まえて、特定の文化的な文脈に依存しない、より一般的な仕方で、経験に即した「自然」でかつ「興味深い」中心音の定義をマーラーの作品に即して考えることが、マーラーの作品の背後にある論理を探る際のきっかけになるように思えるからです。そしてその出発点として用いるのであれば、クラムハンスルの調的推定は妥当であるといって良いように思われます。

(5)ここで元々の問題を改めて取り上げて確認してみます。元の問題はI⇒V,VI⇒Iはどう違うか、IとVはパターンとしては同じなのに機能が違うのはなぜ、という問いでした。これはマーラーの個別の作品の特徴がどうの、というのとは一先ず別の次元の問題です。

 答えは「あるパターンが別の機能を持つのは、そのパターンが出現する文脈による」というものでした。文脈を中心音が定義づける、中心音は調性推定の確からしさと等価であるならば、そのパターンの出現する調性が異なる=中心音が異なるからで構わない。では調性はどのようにして決まるのでしょうか?それは多分そのパターン自体を含めた、でもそのパターンだけではない、水平方向、垂直方向の両方向での周辺の音の分布で求まるということになるでしょう。

 ここで音の分布⇒調性の推定の手段は 統計的に求められた相関に基づくとします。それは経験的に学習されたものですが、何かそこには物理的ではなくても知覚的な法則性のようなものは認められるかも知れません。それが仮に経験的に求められたものに基づくものであったとしても、「中心音は、天下りに与えられてはならない」という要請に対しては、中心音を、或る区間で鳴っている音の集合(つまり入力データに含まれている情報)から求めているということで充足しているので、この方法で構わないことになります。

 鳴っている音の分布⇒調性⇒中心音、という論理が辿る筋道がクラムハンスル的な経験的な根拠によってしか可能でないとしたら、その経験を形成するのが分析対象となる作品を含めた聴取の経験による、という点に循環がみられるでしょうが、この点については(2)で検討した通りで、循環は問題にならず、寧ろ対象の性質上、必然的なものと考えます。調性音楽を支える論理というのは、倍音列のような物理法則の水準にあるものではなく、文化的な構築物であって、寧ろ「解釈学」の対象と考えるべきで、循環は元々備えている性質であると考えるべきです。

 では、この問いはトリヴィアルだったのだろうかと考えると、上記のような答えが直ちに思い浮かぶのであれば(ご覧の通り、残念ながら私にとっては自明には程遠かったわけですが、わかっている人にとっては)確かにトリヴィアルなのかも知れないと思いつつも、少なくとも以下のようなことを確認できたとすれば、それは無駄ではないのでは、とも思うのです。

 それは、抽象化されたピッチの集合だけを見ていたのでは、なぜそのように聴こえるのか?という問いへの答は見つからないということです。その観点から言えば、元の問題は厳密には2つのことを告げているように思えます。IとVがパターンとして同じなのに機能が違う、というのは、単独の和音だけではわからないということを告げているのに対し、I⇒V,IV⇒Iは2つの和音の系列のみを見ていたらわからない。IとVのどちらなのか、I⇒V,IV⇒Iのどちらのカデンツなのかというのは、ピッチセットとして抽象化してしまえば区別がつかなくなるのは当然で、抽象化のプロセスで捨ててしまった情報、即ちそれ以外の水平、垂直の両方の次元での周辺の音やピッチセットの構成要素が、音高方向にどういう順序で並んでいるか(つまりどれがバスで、どれがソプラノか)を見なければわからないのだ、ということです。通常の楽曲分析での説明は、そうした背後にあるプロセスを全て端折って、結論の部分だけで議論をしているということだと思います。それは結果としてこうだ、という説明ではあっても、ではなぜそうなのかについては語らない。目的が違うのだから、それは別に構わないのですが、ここでの分析のような目的にその知見を利用しようとする場合には注意が必要だということのように思います。

 それでは一体、どの範囲を見ればいいのでしょうか?どのような切り口で見ればいいのでしょうか?データに基づく分析をやろうとすると、優れた音楽家や音楽学者でない、平均的な聴き手が無意識に行っている情報処理ですら、その複雑さに圧倒されてしまいます。更に言えば、(それ自体が優れた研究者が苦心の上に編み出したものであって、そこでの捨象の操作の背後にある情報量の大きさに留意するのは勿論ではありますが、その一方で)認知心理学実験で用いられるような単純化されたものではないマーラーの作品のようなものを「聴く」時に背後で起きている情報処理のプロセスの複雑さは、途方もないものだし、そのプロセスを支えているシステムの複雑さ、生物としての、社会的存在としての、美的主体としてといった階層の深さには目眩さえ感じます。ましてや優れた音楽家や音楽学者が直観的に掴み取る、ある作品の特徴を機械に取りださせるというのは途方もない企てに感られます。(そういうことからも、AIと音楽との関係におけるチューリングテストは、人間が聴いてそれっぽい音響を自動生成することがでるかどうかといったレベルにはなく、音楽を聴いて、それに感動したり共感したりすること、その感動や共感について分析できることのレベルにあるのではと思えてならないのです。)その全てを踏破することなど思いも及ばぬことですが、それでもなお、そうした企てへの第一歩と呼べるようなものでなくても、そうした歩みへのせめて呼び水となることを願って、今後も少しずつ手を動かして、その結果を公開していきたいと考えているような次第です。(2019.12.12初稿、12.16,17加筆) 

 

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