2022年10月10日月曜日

ポスト・コロナ禍における第2交響曲演奏の意義(2022.9.11 マーラー祝祭オーケストラ第20回定期演奏会によせて:2022.7.27 最終稿)

 「復活」というタイトルで親しまれ、マーラーの作品の中で最も人口に膾炙した作品であろう第2交響曲について、既に色褪せたものとする主張が半世紀以上前にアドルノによって為されている。国内でも柴田南雄がフィナーレの器楽部分への批判を述べているし、最近では村井翔の評伝の作品篇には第8交響曲同様、第2交響曲の解説もまた存在しない。こうした識者の評価に対し、第2交響曲の意義を擁護することは今日如何にして可能だろうか?

 この作品の構成が緊密とは言い難いことは様々な論者により繰り返し指摘されてきたが、7年にも及ぶ錯綜を極めた成立史もまた、最終形態に至るまでの構成上の紆余曲折を物語って余りある。この作品の最初の構想は第1交響曲の初期稿が完成した1888年迄遡るが、最初に完成したのは最終形態の第1楽章で、草稿のタイトルは番号なしの「交響曲ハ短調」であった。当時、後に第1交響曲となる作品はまだ2部からなる交響詩「巨人」であり、その状況は第2交響曲が完成した1894年においても同様であったから、この作品はマーラーが「交響曲」として構想した最初の作品であるのみならず、「交響曲」として最初に完成した作品でもあったことになる。

 その最初に完成した部分が一時期、交響詩「葬礼」として独立した作品として扱われていたことは良く知られているが、他方で交響曲としての構想において楽章順序の揺らぎが存在したこともまた、ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想や遺品によって確認できる。最終形態で第2楽章となるアンダンテが書かれたのが第1楽章の完成に近い時期であるにも関わらず、当初マーラーはこの楽章を第1楽章に後続させることを考えておらず、アンダンテを第1楽章、スケルツォ、「原光」に続く第4楽章に置く I-III-IV-IIという順序を構想したスケッチが遺されている。更に1895年1月に行われた最初の3楽章の試演では最終形態と同じI-II-IIIの順序で演奏されたようであるが、その折に作成された写譜における楽章順はI-III-IIであり、スコアの練習番号がスケルツォのみ、第1楽章が27番で終わるのを受けて28から始まる点にその名残が見られる。最終稿における第1楽章と第2楽章との間の5分間の休憩の指定は、構成上の弱点が最後まで解消されなかったことについてのマーラー本人の自覚を告げていよう。

 交響詩「巨人」や第3交響曲と異なり、各楽章のタイトルこそ付されなかった替わりに、この曲にはプログラムが遺されており、作品紹介の定番アイテムの一つとなっているようだが、本人の手になるとはいえ、当時の環境下での或る種の方便として後付けで用意された、それこそとっくに賞味期限切れに違いないものを、時代と文化的環境の隔たりが恰も存在しないかの如くに文字通りに受け取り、内容を論じることに意義があるとは思えない。マーラーの「復活」「再生」についての考え方は書簡や回想によって確認することができるが、作品そのものの今日的意義を測る上でより重要なのは、寧ろフィナーレの歌詞に対するマーラーの介入であろう。クロップシュトックの「復活」の讃歌は歌詞の冒頭部分のみに過ぎず、その後の追補は「自作」のものであると、作品を仕上げている最中の1894年7月のベルリナー宛書簡でマーラー自身が述べている通りで、全体としては後年の「大地の歌」終楽章でも見られる「追創作」の先駆と見るのが妥当だろう。

 この点はハンス・マイヤーがマーラーを「簒奪者」と断じる理由に他ならないが、同時に彼は、それを同時代の芸術的代理宗教に属するもので、信仰の衰退の証言としてではなく、新しい宗教感情の芸術として受け止めてもいて、岡田暁生がマーラーの音楽を「神なき時代の宗教音楽」と規定し、フランス革命後の市民社会が産み出した制度であるコンサートのためのジャンルであるにも関わらず、その交響曲が聴衆から拍手喝采を浴びるための音楽ではなく、祈りの音楽であることを指摘する点に通じていよう。更にマイヤーは「大地の歌」が第2交響曲の撤回を意味するとも述べているが、この指摘は第2交響曲末尾の変ホ長調の主和音(それは第8交響曲にも共通する)と比べて「大地の歌」末尾の付加六の和音を「不協和」と見做すことに構造的に対応しており、かつまた第2交響曲におけるハ短調⇒変ホ長調という並行長調での解決の図式を共有する唯一の作品が「大地の歌」(イ短調⇒ハ長調)であり、だが前者での長調の主和音の解決に替えて後者では付加六の和音で解決が宙吊りされていることに対応している。柴田南雄は第8交響曲以降の後期作品を指して「背後の世界の音楽」と名付けたが、それはまた第2交響曲にも相応しく、第8交響曲第2部と同様、第2交響曲も死の影に覆われている点で「大地の歌」に通じることの方が重要ではなかろうか。

 マーラーがピアノで第1楽章を弾くのを聞いたハンス・フォン・ビューローの拒絶反応と並んで、そのビューローの葬儀で歌われたクロップシュトックの「復活」の讃歌に霊感を受けて終楽章を書き上げたという経緯もまた有名だが、そこに精神分析的な「父親殺し」を見出そうとするテオドール・ライクの主張よりも、クロップシュトックの讃歌という「他者からの呼び掛け」に触発されてようやくマーラーが自らの語りへの衝動を掴み取ったことに寧ろ注目すべきだろう。後者については1897年2月17日付のアルトゥール・ザイドル宛書簡で「聖書を含むあらゆる文学書を渉猟しつくした挙句」のことだと回顧しているが、例えばド・ラ・グランジュに拠れば、終楽章に取り組んでいる時期にマーラーがフリッツ・レーアへ作品集の送付を依頼したとされるヘルダーリンの「ヒュペーリオン」第2巻第2部に「わたしたちは生きるために死ぬのです」(Wir sterben, um zu leben.)というディオティーマの言葉が見出せるのは偶然だろうか。続けて神々の世界では「すべてが平等」で 「主人も奴隷もいない」と語られるのが第2交響曲のプログラムの内容と呼応するように感じられるのはどうか?実証的な裏付けは不可能にせよ、他者達とのやりとりが半ば無意識の裡に作品中に仮想的な風景として定着された結果、作品を介して他者達が語っていること、更に時空の隔たりを通じて我々もまたそれを「投壜通信」のように拾い上げ、更に継承していくことが重要なのではなかろうか?

 「簒奪」に見えたものは、実は「他者からの呼び掛け」に対する「応答」に他ならなかったのだ。またしても第8交響曲も含め、敬虔さや超越者との対話といった変ホ長調の調性格論的な規定を考えれば、それが「他なるものへの応答」であることが確認できよう。そしてそれに見合うように、この作品は構成上の困難を埋め合わせるに足る決定的な瞬間に事欠かず、彼を通して他者の声が響きわたる瞬間の持つ圧倒的な力が色褪せることはなさそうに見える。

 コンサートホールが祈りを追放し、チケットの代金と引き換えに動員された聴衆が演奏者と一体となる高揚感の挙句に拍手喝采を惹き起こす場所であるのに対して、しばしばこの作品のモデルとして引き合いに出されるベートーヴェンの第9交響曲とは明らかに異なって、この第2交響曲は一見そうした熱狂を惹き起こす企図を共有するかに見えて、それに反するベクトルをも含み持っているのだ。今日のコンサートにおいて確実に集客が見込める「主力商品」である一方で、しばしば第2交響曲が特定の出来事を「記念」するための音楽でもあるのも、そのことを物語るように思われる。コンサートホールの杮落しや演奏者のアニヴァーサリーを「記念」することも勿論だが、それにもましてこの曲が、その場にいない者への「追悼」や「追憶」のための音楽であることは、数多いこの曲の演奏記録の中でも圧倒的な第二次世界大戦後のワルターのウィーンへの里帰りコンサート―それはナチスにより禁じられたマーラーの音楽の「里帰り」という意味合いもあっただろう―やケネディ大統領追悼の放送のためのバーンスタイン指揮のニューヨークフィルハーモニックによる演奏のような例を思い起せば十分だろう。

 翻って今回の演奏が、新型コロナウィルス感染症の蔓延とそれに伴うコンサートの延期・中止といった出来事を追憶し、そこからの甦りの祈念という意味合いを持つことは、ステージにあふれんばかりの巨大な管弦楽と独唱・合唱を必要とし、それを聴くために集まる満場の聴衆を必要としているこの作品のような音楽を演奏し、継承していくことが一時的とはいえ不可能となったことに照らした時、決して偶然ではないだろう。それが故に今回のコンサートの意義を噛み締めることは、時代を通り抜けて継承されるべき価値をマーラーの音楽に見出す人間にとって一つの責務であるように思われるのである。(2022.5.18-9初稿, 5.22改稿)

 [後記]上掲の文章は 2022年9月11日のマーラー祝祭オーケストラ第20回定期演奏会のプログラムに寄稿させて頂いた文章の最終稿(プログラムノートに掲載される直前の稿態)です。直前迄、公演に立ち会う予定であったものの、事情により叶わず大変に残念でしたが、そのことのお詫びとともに公演へのコミットメントへの記録して公開させて頂きます。(2022.7.27脱稿, 2022.10.10公開)

0 件のコメント:

コメントを投稿