2022年12月7日水曜日

備忘:意識の音楽、自我の音楽:アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ『グスタフ・マーラー:失われた無限を求めて』を参照しつつ(2022.12.7更新)


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意識の問題を優先させるのだ。これこそが解くべき問題。
だが、意識の「何を」解けばよい。
音楽は無力。だが、信仰もまた。
それは「私」しか救えない。

音楽が他人を楽しませるのなら、他人を癒すなら、それは役に立っている。
作ること、演じることは、役に立つ。
だが、聴取は他人には働きかけない。
それはせいぜいアフォーダンス、可能態に過ぎない。

信仰は私の一人称の問題を主観的には解決するかもしれない。
だが、二人称の問題に対しては無力だ。
無力さを意識し、何かに委ねることは、制度としての信仰がなくても可能だ。
委ねる何かに何らかの超越性を認めるかどうか、人格性を認めるかどうかの 違いに過ぎない。勿論、だから行為へのいざないをもつ「教義」というのが あるのかもしれない。だが、それとて、ここで扱わなくてはならない意識の 問題の系の一部なのだ。行為へのいざないは、そうした外在的な制度が なくても、存在するし、意識することができる。

意識の問題とは、だから、一人称に限定されない。
二人称の、あるいは三人称の、相互主観性の問題を扱わなくてはならない。
ただし、認識のレベルではなく、役に立つかの、行為の、実践の、インタラクションのレベルで 扱わなくてはならない。

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ベクトル場としての音楽。
運動(行為)が新たな場を引き起こす。

意識の音楽、自我の音楽を定式化すること。
マーラーの場合、多くの場合には常に自意識が働いている、目覚めている。だが、いつもではない。
単なる気分や情緒でなない、メタレベルの自己言及性が表現されている。
皮肉、韜晦、二重言語、パロディが成立するレベルがある。これは文化的な方向付けの上での 解釈とは別次元で保証されている。そういったレベルは実在する。
可能世界意味論。あるいは世界制作。

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音と主体
主体とは、結局(自)意識のこと。自覚的システムのこと。
実験音楽が音を問題にするとき、そこでは(自)意識は問題になっていない。
ある抽象的な状態が問題。抽象的形式的な枠のみ与える。
そこから自意識への作用は聴き手にまかされている。表現の断念、拒否。

ある構えの呼び起こし―知覚
を考えたとき、その呼び起こしの中に、自己言及的なレベルを含むか
記憶の問題?
ある相互作用自体の呼び起こし?

津田一郎「複雑系脳理論」p.84のスマリヤンによる推論者の階層的定義に従って、意識の現われるレベルを位置づける。
0.命題なりパターンなりの呼び起こし
1.命題だけでなく、命題に対する志向的態度も呼び起こされること
/1a..志向的態度のみが呼び起こされること
2.命題に対する志向的態度に関する認識も呼び起こされること
2a.志向的態度に対する認知が呼び起こされること
シミュレーション能力:自覚的システム=自意識。
時間の感受のシミュレータとしての音楽。

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意識と音楽、結局アドルノ風の観相学は有効。
ただしその社会批判的な側面は制限してよい。
観相学においても、作品にあらわれたものとしての(つまり結果としての)意識の現われについて語り得る音楽は 限定される。(ex. マーラー/ショスタコーヴィチ)
それは世界に対する反応の、しかも反省を含めた(高度な推論者を含めた)記述でなくてはならない。

単なる情動、反応でないような認識の構え
屈折か、外性の意識が必要。
外と主体との「調停」ができていない方が関係の様相ははっきりする。
破綻の瞬間―アフォーダンス、存在の開け
倫理的次元の彼方…。
死についての意識。老いについての意識。別れについての意識…。

外性の大きさ、主観の強さをモデル化できないか。
そのように思われるのは、何によるのか?
統一性、素材の節約の度合い。
コヒーレンスのようなもの
世界のあらわれの度合い?
主観の受動性?

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可能世界。夢や空想、幻想、神秘的で非日常的な経験。
こうだった、こうでありえたかも知れない、という記憶や予期に彩られた現在。
そして、音自体ではなく、音を触媒に音以外の事象についての地平を、 フレームを浮かび上がらせる音楽は、やはりかけがえのない豊かさを持っている。
音楽が役に立つか、を問うならば、それもまた効果の一つであり、豊かな方が良い。
もちろん抽象的な音の運動を浮かび上がらせる姿勢も一つの態度ではある。
だが、役に立つかを問題にしたとき、それは、結局のところ認知実験ではないのだから、 文字通り「世界が限られている」。

Sartreの自我の超越―構成するものでなく、されるものとしてのEgo
物理学的描像―自我の構成についての説明というのは、まああり得るかもしれないのだが、 自我の構成する働きが消える訳ではない。
自我は構成されるものであり、かつ構成する機能を持っている。その間には二者択一はない。
そもそも矛盾などないからだ。
自我をinertなもの、クオリアの様なものとして還元するのは、自我を専ら機能的なものと考え、 自己感というクオリアを消去するのと同じにように間違っている。

幻想の否定もそれが主観の展望なり信念である限りは幻想に過ぎない。
救いもその否定も、主観の思いなしに過ぎない。志向的スタンスの問題に過ぎない。
ショスタコーヴィチが間違っているのではないが、より正しいという訳でもない。
だが、ミームの存続は?作品は?主体と異なる他者としての作品の存続は?

幻想ということは結局は物語、fictionであるということ
1.どういう物語なのか?他者との関係は?物語の共有?交換?作品としての物語の存続、ミームとしての伝承
2.経験の質、クオリアによる計測、迫「真」性という測度の導入?

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意味や価値を見出せない、という状態も、主体の状態の一つに過ぎない
それは何か特定の価値を信じる盲目を嗤うかも知れないが、だが特権的な位置に居るわけではない。
自分の背中を見ることができない、という点では同じなのだ。
何事も相対化してしまい、肯定的な価値を置いていたものの裏面に否定的な契機を嗅ぎ付ける態度は 批判的といえば聞こえはいいが破壊的だ。
そうした傾向は、主体が覗き込めない主体を支える無意識の、下意識のメカニズムに由来するのだろう。

一方で、生物学的な、神経科学的な「事実」というのは、目を背ける訳にはいかない。
有限性、儚さは事実だ。
否、多分、それはもう問題ではない。価値の多様性と相対性、価値の領域におけるダーウィニズムが問題なのだろう。

多元性に何故傷つくのか?
「自分」の眺望の意味は担保するものの、根拠薄弱は仕方ない。
それがどうして己の行為の価値への疑いになるのか?
自然も、音楽も、思想も、己の価値の体系の中にあったものが、かつて程は自分をひきつけなくなっている。
それらの限界を、制限を無視できない。
「夢中に」なれなくなっている。
対象を信じられないのは、自分を信じられないのに対応している。
だが、それを知ったところでどうすればいいというのか?

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表象(物語のイメージ「も」含む)―KleinのObject、表象についての論争にとって、どういう意味合いを持つのか?
世界認識のスキーマの有無?
「表象なしの知性」etc.の文脈―フロイトの動力学的な解釈は可能か?
記憶と表象の問題
客観的、現実的な対象、というときも実際にはあるスキーマを通しての認識だ。
経験によって獲得される後成的なネットワークがあるのは確かだが、―クラインならPositionと呼ぶのだろう。
生物学的に―遺伝的に、先天的に与えれる条件があるのも確か
タブラ・ラサは虚構だ。

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どこまでさかのぼる事ができるのか、という問題なのだ。
Adornoの方向とHusserlの方向には大きな隔たりはない。
強いて言えば、遡及の途上を根源と見做して、基礎付けを宣言するのは誤りだ。
そして己の背中を見ることはできないから、内観主義的な方法は限界を持つ。
(それは説明されるべき経験の可能性自体であって、説明の道具にはならないのだ。)
だが、それに替わる方法に唯一正解があるわけではない。
Adornoの「その先」が、どんなに恣意的な物語であるかは、実際の適用―音楽に対する―を見れば明らかだ。
オリジナリティ、独創性と工学的な方法論(追試可能で、検証可能な)の緊張もあるだろう。
Husserlの還元もそう。
大言壮語は不要だが、すべてを否定することはない。

de La Grangeの「自分の魂の状態を表現する以上のことを求めた」(アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『グスタフ・マーラー:失われた無限を求めて』, 船山隆・井上さつき訳, 草思社, 1993, p.13)というのは全く正しい。
マーラーの音楽は、意識の音楽だが、それは内部状態の記述に終始しない。「超越」についての報告たり得ている点で それはもはや主観的とはいえないのだ。
またマーラーは、自分を限定され、己の有限性の中に閉じ込められた存在とは考えない。まさに作曲を通じて 無限なるものへと通じていると感じていた(それが思い込みであったにしても―その疑いは、R. Straussが H. Pfiznerが皮肉交じりにすでに指摘していた)

「失われた無限を求めて」というde La Grangeの著作の題名は、だから両価的だ。一方でそれは無限を問題に する限りで正しく、他方でそれはそれを「失われた」―かつてあったものと捉える点で間違っている。
だが、無限なものとのつながりの予感は、唯物論的に、またミームの進化論の観点からも正しかった。
まさに彼は、作品を通じて「永遠」へと(ただし、非形而上学化された進化論的に限定つきでだが) 通じている。
(de La Grangeが後期様式について語った「永遠」観念的な、甘美なものとここでの永遠は何の関係もない。)

※では「大地の歌」のEwigはどうなのだ?de La Grangeではなく、マーラー自身とも無関係だというのか?

心理・音楽学(同書, p.110)は興味深い。が、これが精神分析を方法論とする必然性はない。勿論、言われるところの 無意識を否定することはないが、まずもって必要なのは創作の謎ではなく、創作されたものの謎だ。
だからそれはまずは認知的なレヴェルにとどまらなくては。
創作されたものから創作への性急な遡行は Adornoにも見られる(彼は精神分析にも否定的ではない)。
だが、まずもって謎があるとすれば作品だ。

精神分析の自然主義化が必要なのだ。無意識、エス、超自我、いずれにしても、それは脳内に後成的に 形成されたネットワークの構造に過ぎない。

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マーラーの「反復」についての考えに留意すること(同書, p.129)
「反復や再現や後戻りは「偽り」(マーラーの言葉)であり、またまったく単純に作曲者の 脆弱さとその役割の放棄のしるしであった。」
「二人ともAdornoが「非可逆行性」と呼んだもの、つまり同一の足跡に戻ることは不可能だと いう考えをやはり確信を持って表明している」
勿論、これはAdornoの言うヴァリアンテの技法に関係している。(古典的な意味での変奏ではない。) 
「やはりアドルノの創案した用語を使って言えば、マーラーの「小説風交響曲」の起源は まさにこのような点にあるのであり、そこではいくつかのエピソードが物語りのなかでのようにあらかじめ定められたプランに従わずに自由に連続し、登場人物たち(諸主題)は discoursにそって動き回る。」
と同時にこのことはマーラーの音楽を「心理的に」意識の流れとして読むことを保証している筈だ。

一方で、本物の劇的展開―つまりオペラや劇音楽のうち、統合性の高いもの―との比較に 注意すべきだ。つまり―例えばマーラーの内部に例を求めれば、「嘆きの歌」や第8交響曲第2部の様な部分は、まさにプロットが 音楽の流れを直接支配するが、これと上の意味合いでの心理的展開、小説としての流れとは 一致しないのだ。ソナタやロンド、変奏曲形式、なかんずく二主題の変奏曲形式のあるタイプが むしろここではモデルになる。
その展開の力学は「物語」に由来するものではない。そうではなくてある意味では自律的な 法則を持っている。第3交響曲第6楽章や第4交響曲第1,3楽章、第6交響曲第4楽章、第9交響曲第1,4楽章、第10交響曲第1楽章といった器楽の音楽が、その法則の具体化なのである。
音楽の持つ「効果」による「例証」。連続性、断続、充足、終結、あるいはAdornoのDurchbruch/Suspensionも含めて 心理的(フロイト派でも何でも)ではなく、せめて認知心理のレベルで意識の様相の記述と対応付ける。

音楽自体を記述の媒体として捉えること。
表現と記述。クオリアの再現が可能なある記述の体系なのだ。 (少なくともマーラーの音楽は)意識現象は様々なレベルと手段で記述できる、そのうちの1つとして位置づける。 ―音楽は意識の流れ自体ではない。感情そのものではない。
それを「ひき起こす」側面のみが(表現の側面のみが)強調されるが、音楽もある仕方で、そうした流れや 感情の記述になっている。ロマンと対比される程のマーラーの音楽は特にそうだ。
それは外部事象の模倣(描写音楽)ではなく、内部事象の記述なのだ。

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標題に、歌詞にひきずられずに音が記述するものを読み取る。
それを標題や歌詞とつき合わせてイロニーが判定できる。
アドルノ的な歴史のスキーマは一旦捨てるべき。勿論創作の極の「文化史」なり意識のありよう、 社会のありようがしかじかであったという事実はある。
だが、読み取るのは音楽が記述することなら、何が隠れているのかを事前に決めなくても良い。
西欧の社会の歴史を読み取らなくてもよい。
観相学は別の枠組みで機能させることも可能ではないか?
文化史は結構(フローロス)だが、アドルノはそれ自体を「素材」と見做しつつも結局、「文脈」に 戻ってゆく。創作の文脈の外にあるものは音楽からは聴き取れない。
だが音楽作品は別の文脈でも機能しうる。
相互作用も起きる。そうした文脈形成を、つまりはミームとしての存続を保証するのは作品そのものだ。
アドルノ的な文脈から離れて作品の認知的なスキームを記述すること。
所詮は文化依存のものとはいえ、「意識」レベルでの共時的な記述を試みること。

認知のレベルは一般的だが、「意識の音楽」という定式には限界がある。
マーラーならOKだが、他の作曲家がどうかは個別に検討すべき。
マーラーが中心、出発点の展望は自明でない。それに留意すれば、だが、その展望ならではのものがあるだろう。 しかもここではさしあたりマーラーの場合で十分なのだが。

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自分の例えばバルビローリのマーラー演奏に関する評言を練り直すこと。
意識の音楽、主観の、世界に対する反応の音楽というのが、如何にして正当化されうるのか、の議論が必要だ。
形式的には、バルビローリについて演奏スタイルについてのコメント―聴くことをめぐる幾つかの視点を 書いたのが参考になるだろう。
あるいはショスタコーヴィチについて書いたときの論点をマーラーにapplyすることによって少なからず明らかになるだろう。

テンポの設定の問題も、意識の様態として考える際の重要なパラメタになりうる。遠近法(空間性)図と地、特に地の、 地平の存在はマーラーの場合これまた重要だろう。

過度に主観的に受け取ることについての異論が存在するだろう。それは歌曲の側から来る。
主観的な抒情詩の世界からはマーラーは遠い、ムソルグスキー、ヤナーチェクというAdornoの連想は多分正しいのだ。
一旦中期のRueckertの時期に主観性に辿り着いたという見方もあるだろう。
だが、多分中期においてすら、少なくとも交響曲では、いわゆる抒情詩的な主観性と異なるものがある。 要するに、意識の音楽は、主観の音楽は「主観的な」音楽ではないのだ。この点を強調する必要がある。

そもそも交響曲の構成原理は、主観的な叙情からはでてこない。よくマーラーの交響曲の形式は借り物だ、 と言われるが、だが、交響曲が「既存の」形式であった以上、同時代の誰にとってもそれは借り物なのだ。 要するに、交響曲の構成を支える要素は、世界の側に存する。マーラーにとっては毀損の交響曲という形式そのものが「世の成行き」なのだ。

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シェーンベルクの「メガホン」。書きとらされているというマーラーの証言。

Sibeliusの孤独、何と遠いことか。
あの主観と風景のあり様は、やはり例外的なものだろう。
単に人との交わりを絶って、ひとりになることはではない。
例えばマーラーの第3交響曲が書かれた環境や、Ich bin der Welt abhanden gekommenを考えればよい。
それは主体の享受の相で捉えることができる。

第3交響曲は一見、客観の力をほとんど制御せずに(第9交響曲でそうであったように)主体はほぼ媒体として機能しているように見えて、その主体の「形式」の 「形式化する」力はきわめて強い。要するに、ここでの立場の違いは、世界を表現することと音の自律的な運動に身を委ねることの違いなのだ。「メガホン」であることは、非人称性は、作品の無個性、汎個性を意味しない。(事実は全く逆だ。)

Selbstgefuehlという標題は興味深い
確かにこれを「うぬぼれ」と訳すのは妥当でなさそうだ。
しかも、この歌詞はマーラーの音楽の持つ「批判的態度」の典型的な例証となっている―ただし、自分の気持ちが 「わからない」というアイロニーの形をとってだが。

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(2022.12.7:2002~2008の間に書き留めた備忘を整形・校正・編集)

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