お知らせ

アマチュア・オーケストラ演奏頻度を2025年の公演の集計を追加して更新しました。(2025.12.25)
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年6月17日月曜日

「パルジファル」から「子午線」へと過ぎ越す「応答」としての第9交響曲(2024.6.17更新)

パルジファルの音楽は、それが現実に場を持たない感じがしない。 第1幕の前奏曲からして、それは既にあまりに現実的な空間を浮かび上がらせる。 それは具体的な現実の歴史の中の出来事ではなく、その中に場所も時点も 持たない。それは過去に起きた歴史的出来事の再現を企図しているのではない。 にも関わらずそれはひどく現実的で、まるである可能世界で「現実に」生じた、 あるいは生じつつある出来事のようだ。これは「ありえたかもしれない」出来事 なのだろうか。

劇場での上演という制約のためなのだろうか?音楽だけを聴いても その音楽は、ひどく現実的なものに聞こえる。神話的な空間での 出来事にも関わらず、登場人物は現実の身体を持つ「生身の人間」であり、 アムフォルタスにせよ、クンドリーにせよ、その苦悩はひどく人間的なもの、 あまりに人間的なものであり、その感情はいわゆる「この世ならぬもの」の 息吹からは遠い。神話的で、或る意味で図式的でありながら、少しも 現実的な感情を逸脱しようとしない。寧ろ、現実的な筋書きを持つ オペラが、そらぞらしくわざとらしく感じられる(ごく単純に、人は普段そのように 歌ったり、振舞ったりしないものだという白々しさの感覚に囚われる)のに対し、 ここでは演劇的なもののもつ空々しさは、或る意味で巧みに帳消しに されているという見方もできるだろう。(パルジファルの筋書きだけを取り出して 映画をとったときのことを考えてみればよい。むしろそちらの方が現実離れ した感じを与えるのではないだろうか。)科白が歌われること、音楽が 常に物語の背景に流れ続けていることは、ここではまるで当たり前であるかの ようだ。逆に、音楽を介して、ある可能世界の現実が成立しており、 音楽を介してしか、その世界の出来事を理解可能なかたちに翻訳することが できないかのようだ。

それに対応するように、「聖金曜日の奇跡」は少しも奇跡のようでない。 それは寧ろ、ごく普通の四季の循環のプロセスにおける出来事に対する 価値付け、解釈の結果のようであって、劇場の舞台の上で如何なる 奇跡も現実には起きないように、音楽もまた如何なる奇跡をももたらさない。 それはごく普通に或る瞬間に、この世において生身の人間が見るであろう 風景のようだ。

時間論的に未来完了的な構造を備えていることとの関連について言えば、 ここでは前奏曲で予示されてしまった「音楽的出来事」が展開されるだけであって、 新たな何かが到来することはない。「再現」はここではベクトル性の深みを欠き、 どこか遠くに来てしまって、後戻りが利かないという感覚は希薄だ。 全ては起こるべくして起こった。仕組まれており、偶然やゆらぎのもたらす、本当の 意味での「新しさ」がここには欠けているのではないか? 寧ろそれは、かつて起きたことの反復、これからも永遠に繰り返される出来事の 提示のように感じられる。 物語のプロットは非可逆的性を備えているようであるにも関わらず、それは 反復されうるように感じられる。同じものがそっくりそのまま繰り返されるのだ。

色々な演出での色々な時点と場所におけるパルジファルの上演は、演出家が 如何に差異を意図し、オリジナリティに取り憑かれていたとしても、結局は同じものの 繰り返しにしかならないよう予め定められているかのようだ。しかしそれはある意味では 当然で、演出を替え、衣装を、舞台装置を替え、歌手を、オーケストラを、指揮者を 変えても、音楽そのものは変わらない。ここでは音楽が全てを生じさせる根拠なので、 所詮はそうした変化は、或る種の展望の相違、視点の相違に過ぎない。 ある春の日が、別の一日と気温も湿度も、光の調子も、何一つとして全く同一と いうことはないのに、結局は同じ春の一日に過ぎないと感じられるのに近い感覚がそこにはある。

こうしたあり方を指して「神話的」と呼ぶのであれば、これはまさしく「神話的」であり、 神話そのものと言っても良いようにすら思われる。 この作品が成功しているのか、失敗しているのかは、そこに何を求めているかによるだろう。 しかし、どちらにしてもこの作品が極めて完成度の高い、優れた作品であることは間違いがない。 ある見方をすれば、これは恐るべき力を持った、あまりにうまくできた、完璧な成功作であろう。 この作品を、或る種の頂点、極限と見做すことは不当なこととは思えない。

「舞台神聖祝典劇」というジャンルの創出企図にも関わらず、舞台の上で、あるいは 音楽の裡で起きる出来事は、あまりに強い実在感を備えすぎているし、想像される意図 からすれば意外なことかも知れないし、人が期待するものからしてもそうかも知れないが、 超越的な契機を欠いているようなのだ。一言で言えば、その音楽は聴き手を 「どこか別の場所」に連れ去らない。勿論、パルジファルの物語の空間は、虚構であり、 現実ではない。そしてこの音楽が聴き手を、物語の空間に、虚構の中に誘う仕方が 如何に完璧で、如何にその力が強力かについては既に述べた通りである。 だが、それは「どこか別の場所」が備えているべき「他性」を欠いているように思われる。 彼方から到来するものの息吹に欠けている。

恐らくはベクトルの向きが逆なのだ。予め虚構の時空の中で繰り広げられる 物語は、現実が彼方からの息吹によってこの世ならぬものに変容する一瞬を 持ち得ない。変容する瞬間のもつ「突破」のベクトル性の深みもまた持ち得ない。 どこかに裂け目があって、そこから何かが到来するという構造がここにはそもそもないからだ。 皮肉なことに、ある意味でこの音楽が完璧なだけ、もしかしたら作者の企図の実現の 度合いに関して、例外的な程までに成功しているがゆえに、その出来の良さの分だけ、 「他性」を、「超越」のもつ受動的な構造を、作品自体は決定的に欠いているのだ。 作品の内側においては、ある仕方では「超越」のもつ受動性が示されているという見方も 可能だろうが、それは皮肉にも逆の意味を帯びてしまいかねない。このような仕方で 受動性が提示されてしまうと、それはそれで一面的なものとなり、本来はその背後に 働いている契機が、恰も否定されてしまうかの如き誤解を生じかねない。もっとも ワーグナー自身にしてからが、もともと本当にそう考えていたのであり、だからここには 「誤解」などなく、寧ろ私の側に「誤読」があるか、控えめに言っても、無い物ねだりを しているだけなのだという意見はあるだろうし、それにも一理あることは認めざるを得ない。

だが音楽はそもそもすべからくそうしたものではないのか、という問いに対しては、 そうかも知れないが、必ずしもそうとは限らない場合もあるように思える、と言うほかない。

私が経験した限りにおける「パルジファル」において生じていると私に感じられた上のような事態を ベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」で導入した「一次過程」について、 「冗長性とコード化」の夢の中のコミュニケーションに関するくだりを補いつつ照合してみると、 「パルジファル」に関して、それが現実に場を持たない感じがしない、というひどく回りくどい言い方を 私がしたのは、ベイトソンが夢の特性として指摘している性質故ではないだろうかというように思える。 それは直説法的ではない。まさに「ありえたかもしれない」ものの提示であり、ある「パターン」の提示、 ホワイトヘッド的な永遠的客体の無時間性を備えた、括弧入れされた提示なのではないか。 だからそれは、何度でも、変形されつつも、同じ「パターン」として提示されうる。 「パターン」の不変性を担うのが、ここでは「音楽」であるというように私には思える。

更にベイトソンはフロイトが夢を「夢の作業」による加工・変形を経た二次的なものであるという考えを、 或る種の転倒と見做している。 だが、「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」と いうベイトソンの定義に忠実にあろうとしたとき、既に意識を備えた有機体である人間の、その意識が己の 構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとしたとき、そうした転倒は避けて 通ることのできない経路なのではないか。あえて自分の背後を覗こうとした意識が受け取るものは、 自分自身を含む精神の「幽霊」なのだということに気づくことはないのか。 そしてそういった意識と無意識の関係が原理的に抱える問題に気づいた意識は、 ベイトソンの言う「魂の部分間の統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を 「無意識」とする精神の多重レベル間の統合」を企図したとして その企図が破綻を運命づけられている場合もまたあるのではないか。

ベイトソン自身、「目的意識対自然」においてその統合の困難について語っている。 単に意識を融解させて無意識的なものを噴出させるのではなく、統合を企図したとき、 既に予め分裂している状態で生じるのは、ポリフォニーであり、幽霊との「対話」による 超越の試みではなかろうか。「世界を構築すること」としての交響曲創作は、そうした統合の 試みであり、マーラーは生態学的心理学的な意味合いでの拡張された「心」のあちらこちら (それは自分の内部の無意識かもしれないし、外部の環境かもしれない) からの声に耳を澄ませ、それに形式を与えようとしたのではないか。

それゆえ破綻を宿命づけられた超越の試み自体を定着させた作品があってもいいし、 それは見方によっては壮大な「失敗作」と断定されもするのだろうが、そうした作品に よってしか聴き取ることのできない音調というものがあるだろう。 未来完了的な音楽の構成法という点では表面上は共通しているにも関わらず、 「どこか別の場所」の端的な非在を告げつつ、そうすることで「どこか別の場所」を 浮かび上がらせるような作品というものがある。それはツェランがある詩篇で戦慄すべき 簡潔さで言い当てたように、どこにもない傷をもここから取り去らねばならないといった 現実から発して、時間を通って、だが、誰に届くかもわからず壜に詰めて投じられると いった作品のあり方に、こちらはこちらで正確に対応した内実を備えている。 それは作品の中で「対話」を志向し、作品そのものもまた「対話」を志向する。 「虚構」を「虚構」と指し示し、裂け目から垣間見たものが幻影に過ぎなかったのでは ないかという懐疑にさいなまれつつ、そうした裂け目の彼方を目がけてなおも発せられる 予め挫折を運命づけられたかのような作品によってしか告げられない超越の様態がある。

アドルノはマーラーの第8交響曲における否定的な契機の欠如を批難する。 だが、マーラーが「パルジファル」であれば第2幕に対応するような場面を第8交響曲に含めなかったのは、1曲全体が「突破」の瞬間を押し拡げたものであるかの如きこの 作品にとっては当然のことであり、そうすることで得られたであろう芸術的な成功は、 そうしなかったことで得られた「応答」としての切迫、パウル・ツェランが「子午線」で語ったような、「探しあてらるべき場所の光に 照らされての―どこにもない場所=ユートピアの光に照らされての」「みじめな生き物」としての 「人間」の「場所(トポス)の探索」のぎりぎりの試みの持つこれ一度きりの切迫を 損なってしまったであろうことを思えば、どちらの側に私が与するかは明白である。 聴く者は、自分がどこにいるのかが一瞬わからなくなって恐慌に陥るかも知れない。 「ありえたかもしれない」世界を克明に、あたかも現実のように示す芸術の傍らに、 「ありえない」場所を浮かび上がらせる営みがある。

それを思えば、マーラーが1883年に聴いた「パルジファル」への「応答」が、 第9交響曲であるということ(この点はアドルノが「『パルジファル』の総譜に寄せて」で指摘している。本ブログの記事「アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及」を参照)は、一見すると矛盾しているかにさえ見えるマーラーの 内的な一貫性を示していると考えることができるだろう(アドルノの側についてもまた、本ブログの別の記事「アドルノがパウル・ツェラン宛書簡で自己引用した「マーラー」における第9交響曲についての言及」で触れているように、ツェランに宛てた書簡の中で、よりによってマーラー・モノグラフの第9交響曲に関する箇所を自己引用していることを指摘していることを以て、ここでの「子午線」への過ぎ越しへの企てが筆者の恣意ではないかという疑念に対して答えておくことにしよう)。全く異なる色彩と音調を備えた 風景の中で聴き手は逍遥し、未来完了的な主題構成法も、移行の機能も、 鐘の響きも全く異なるものに変容させられていることに気づく。否、それが「パルジファル」の エコーであることにそもそも気づかないということだっておおいに有り得るし、それで構わないのだ。 モンサルヴァートの春の野辺での聖金曜日の奇跡の代わりに訪れるのは、ドロミテの地で "Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、 菫色などの色彩に変化する現象であり、太陽が沈んでいくある夕べの対話の一刻である。 そうであってみれば、そうした「山中の対話」(ただしこちらはエンガディンにおいてだが)を語ったもう一人の小さなユダヤ人のことばが、 そこでの消息をこの上もない正確さで告げていたとしても、何の不思議もない。私如きが 付け加える言葉は最早ない。だから私はここで沈黙し、もう一人の小さなユダヤ人に 語らせることにしよう。

(...) Erst im Raum dieses Gesprächs konstituiert sich das Angesprochene, versammelt es sich um das es ansprechende und nennende Ich. Aber in diese Gegewart bringt das Angesprochene und durch Nennung gleichsam zum Du Gewordene auch sein Anderssein mit. Noch im Hier und Jetzt des Gedichts - das Gedicht selbst hat ja immer nur diese eine, einmalige, punktuelle Gegenwart - , noch in dieser Unmittelbarkeit und Nähe läßt es das ihm, dem Anderen, Eigenste mitsprechen : dessen Zeit.

Wir sind, wenn wir so mit den Dingen sprechen, immer auch bei der Frage nach ihrem Woher und Wohin : bei einer »offenbleibenden « , » zu keinem Ende kommenden «, ins Offene und Leere und Freie weisenden Frage - wir sind weit draußen. Das Gedicht sucht, glaube ich, auch diesen Ort. (...) (Paul Celan, "Der Meridian")

(…)この対話の空間の中で、はじめて、語りかけられるものがかたちづくられます、語りかけられるものが、語りかけ名ざす「わたし」のまわりに集まってきます。しかもこの語りかけられたもの、名ざされることによっていわば「あなた」となったものは、この現前の中へおのれの別のありようをも持ちこむのです。詩の「ここ」と「いま」においてなお――たしかに詩自身はつねにこのただ一つの、一度かぎりの、そのたびごとの現前しかもたないのですが――このような直接性と身近さの中においてなお、このものはみずからの、つまりわたしたちにとっては「別のもの」の、ひたすら固有なるものをともに語らしめます――すなわちその時間を。

 このようにして、わたしたちが物事について語るとき、わたしたちはつねにそのものたちの「どこから」と「どこへ」をも問いかけているわけです――これは、「未解決にとどまる」「決して終わることのない」問いかけ、そして、ひらかれたもの、うつろなもの、ひろびろとしたものを指向する問いかけです――わたしたちははるか外へ出てしまっています。詩もまた、この場所を求めるのだ、と思います。(…)(パウル・ツェラン、「子午線」、飯吉光夫編・訳、『パウル・ツェラン詩文集』、白水社、124~5頁 )

(2012.12.15公開,17加筆. 2023.12.6 ツェラン「子午線」の引用部分の邦訳を追記。2024.6.17改題の上、自他の文献の参照を追記)

2022年12月7日水曜日

備忘:意識の音楽、自我の音楽:アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ『グスタフ・マーラー:失われた無限を求めて』を参照しつつ(2022.12.7更新)


* * *

意識の問題を優先させるのだ。これこそが解くべき問題。
だが、意識の「何を」解けばよい。
音楽は無力。だが、信仰もまた。
それは「私」しか救えない。

音楽が他人を楽しませるのなら、他人を癒すなら、それは役に立っている。
作ること、演じることは、役に立つ。
だが、聴取は他人には働きかけない。
それはせいぜいアフォーダンス、可能態に過ぎない。

信仰は私の一人称の問題を主観的には解決するかもしれない。
だが、二人称の問題に対しては無力だ。
無力さを意識し、何かに委ねることは、制度としての信仰がなくても可能だ。
委ねる何かに何らかの超越性を認めるかどうか、人格性を認めるかどうかの 違いに過ぎない。勿論、だから行為へのいざないをもつ「教義」というのが あるのかもしれない。だが、それとて、ここで扱わなくてはならない意識の 問題の系の一部なのだ。行為へのいざないは、そうした外在的な制度が なくても、存在するし、意識することができる。

意識の問題とは、だから、一人称に限定されない。
二人称の、あるいは三人称の、相互主観性の問題を扱わなくてはならない。
ただし、認識のレベルではなく、役に立つかの、行為の、実践の、インタラクションのレベルで 扱わなくてはならない。

* * *

ベクトル場としての音楽。
運動(行為)が新たな場を引き起こす。

意識の音楽、自我の音楽を定式化すること。
マーラーの場合、多くの場合には常に自意識が働いている、目覚めている。だが、いつもではない。
単なる気分や情緒でなない、メタレベルの自己言及性が表現されている。
皮肉、韜晦、二重言語、パロディが成立するレベルがある。これは文化的な方向付けの上での 解釈とは別次元で保証されている。そういったレベルは実在する。
可能世界意味論。あるいは世界制作。

* * *

音と主体
主体とは、結局(自)意識のこと。自覚的システムのこと。
実験音楽が音を問題にするとき、そこでは(自)意識は問題になっていない。
ある抽象的な状態が問題。抽象的形式的な枠のみ与える。
そこから自意識への作用は聴き手にまかされている。表現の断念、拒否。

ある構えの呼び起こし―知覚
を考えたとき、その呼び起こしの中に、自己言及的なレベルを含むか
記憶の問題?
ある相互作用自体の呼び起こし?

津田一郎「複雑系脳理論」p.84のスマリヤンによる推論者の階層的定義に従って、意識の現われるレベルを位置づける。
0.命題なりパターンなりの呼び起こし
1.命題だけでなく、命題に対する志向的態度も呼び起こされること
/1a..志向的態度のみが呼び起こされること
2.命題に対する志向的態度に関する認識も呼び起こされること
2a.志向的態度に対する認知が呼び起こされること
シミュレーション能力:自覚的システム=自意識。
時間の感受のシミュレータとしての音楽。

* * *

意識と音楽、結局アドルノ風の観相学は有効。
ただしその社会批判的な側面は制限してよい。
観相学においても、作品にあらわれたものとしての(つまり結果としての)意識の現われについて語り得る音楽は 限定される。(ex. マーラー/ショスタコーヴィチ)
それは世界に対する反応の、しかも反省を含めた(高度な推論者を含めた)記述でなくてはならない。

単なる情動、反応でないような認識の構え
屈折か、外性の意識が必要。
外と主体との「調停」ができていない方が関係の様相ははっきりする。
破綻の瞬間―アフォーダンス、存在の開け
倫理的次元の彼方…。
死についての意識。老いについての意識。別れについての意識…。

外性の大きさ、主観の強さをモデル化できないか。
そのように思われるのは、何によるのか?
統一性、素材の節約の度合い。
コヒーレンスのようなもの
世界のあらわれの度合い?
主観の受動性?

* * *

可能世界。夢や空想、幻想、神秘的で非日常的な経験。
こうだった、こうでありえたかも知れない、という記憶や予期に彩られた現在。
そして、音自体ではなく、音を触媒に音以外の事象についての地平を、 フレームを浮かび上がらせる音楽は、やはりかけがえのない豊かさを持っている。
音楽が役に立つか、を問うならば、それもまた効果の一つであり、豊かな方が良い。
もちろん抽象的な音の運動を浮かび上がらせる姿勢も一つの態度ではある。
だが、役に立つかを問題にしたとき、それは、結局のところ認知実験ではないのだから、 文字通り「世界が限られている」。

Sartreの自我の超越―構成するものでなく、されるものとしてのEgo
物理学的描像―自我の構成についての説明というのは、まああり得るかもしれないのだが、 自我の構成する働きが消える訳ではない。
自我は構成されるものであり、かつ構成する機能を持っている。その間には二者択一はない。
そもそも矛盾などないからだ。
自我をinertなもの、クオリアの様なものとして還元するのは、自我を専ら機能的なものと考え、 自己感というクオリアを消去するのと同じにように間違っている。

幻想の否定もそれが主観の展望なり信念である限りは幻想に過ぎない。
救いもその否定も、主観の思いなしに過ぎない。志向的スタンスの問題に過ぎない。
ショスタコーヴィチが間違っているのではないが、より正しいという訳でもない。
だが、ミームの存続は?作品は?主体と異なる他者としての作品の存続は?

幻想ということは結局は物語、fictionであるということ
1.どういう物語なのか?他者との関係は?物語の共有?交換?作品としての物語の存続、ミームとしての伝承
2.経験の質、クオリアによる計測、迫「真」性という測度の導入?

* * *

意味や価値を見出せない、という状態も、主体の状態の一つに過ぎない
それは何か特定の価値を信じる盲目を嗤うかも知れないが、だが特権的な位置に居るわけではない。
自分の背中を見ることができない、という点では同じなのだ。
何事も相対化してしまい、肯定的な価値を置いていたものの裏面に否定的な契機を嗅ぎ付ける態度は 批判的といえば聞こえはいいが破壊的だ。
そうした傾向は、主体が覗き込めない主体を支える無意識の、下意識のメカニズムに由来するのだろう。

一方で、生物学的な、神経科学的な「事実」というのは、目を背ける訳にはいかない。
有限性、儚さは事実だ。
否、多分、それはもう問題ではない。価値の多様性と相対性、価値の領域におけるダーウィニズムが問題なのだろう。

多元性に何故傷つくのか?
「自分」の眺望の意味は担保するものの、根拠薄弱は仕方ない。
それがどうして己の行為の価値への疑いになるのか?
自然も、音楽も、思想も、己の価値の体系の中にあったものが、かつて程は自分をひきつけなくなっている。
それらの限界を、制限を無視できない。
「夢中に」なれなくなっている。
対象を信じられないのは、自分を信じられないのに対応している。
だが、それを知ったところでどうすればいいというのか?

* * *

表象(物語のイメージ「も」含む)―KleinのObject、表象についての論争にとって、どういう意味合いを持つのか?
世界認識のスキーマの有無?
「表象なしの知性」etc.の文脈―フロイトの動力学的な解釈は可能か?
記憶と表象の問題
客観的、現実的な対象、というときも実際にはあるスキーマを通しての認識だ。
経験によって獲得される後成的なネットワークがあるのは確かだが、―クラインならPositionと呼ぶのだろう。
生物学的に―遺伝的に、先天的に与えれる条件があるのも確か
タブラ・ラサは虚構だ。

* * *

どこまでさかのぼる事ができるのか、という問題なのだ。
Adornoの方向とHusserlの方向には大きな隔たりはない。
強いて言えば、遡及の途上を根源と見做して、基礎付けを宣言するのは誤りだ。
そして己の背中を見ることはできないから、内観主義的な方法は限界を持つ。
(それは説明されるべき経験の可能性自体であって、説明の道具にはならないのだ。)
だが、それに替わる方法に唯一正解があるわけではない。
Adornoの「その先」が、どんなに恣意的な物語であるかは、実際の適用―音楽に対する―を見れば明らかだ。
オリジナリティ、独創性と工学的な方法論(追試可能で、検証可能な)の緊張もあるだろう。
Husserlの還元もそう。
大言壮語は不要だが、すべてを否定することはない。

de La Grangeの「自分の魂の状態を表現する以上のことを求めた」(アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『グスタフ・マーラー:失われた無限を求めて』, 船山隆・井上さつき訳, 草思社, 1993, p.13)というのは全く正しい。
マーラーの音楽は、意識の音楽だが、それは内部状態の記述に終始しない。「超越」についての報告たり得ている点で それはもはや主観的とはいえないのだ。
またマーラーは、自分を限定され、己の有限性の中に閉じ込められた存在とは考えない。まさに作曲を通じて 無限なるものへと通じていると感じていた(それが思い込みであったにしても―その疑いは、R. Straussが H. Pfiznerが皮肉交じりにすでに指摘していた)

「失われた無限を求めて」というde La Grangeの著作の題名は、だから両価的だ。一方でそれは無限を問題に する限りで正しく、他方でそれはそれを「失われた」―かつてあったものと捉える点で間違っている。
だが、無限なものとのつながりの予感は、唯物論的に、またミームの進化論の観点からも正しかった。
まさに彼は、作品を通じて「永遠」へと(ただし、非形而上学化された進化論的に限定つきでだが) 通じている。
(de La Grangeが後期様式について語った「永遠」観念的な、甘美なものとここでの永遠は何の関係もない。)

※では「大地の歌」のEwigはどうなのだ?de La Grangeではなく、マーラー自身とも無関係だというのか?

心理・音楽学(同書, p.110)は興味深い。が、これが精神分析を方法論とする必然性はない。勿論、言われるところの 無意識を否定することはないが、まずもって必要なのは創作の謎ではなく、創作されたものの謎だ。
だからそれはまずは認知的なレヴェルにとどまらなくては。
創作されたものから創作への性急な遡行は Adornoにも見られる(彼は精神分析にも否定的ではない)。
だが、まずもって謎があるとすれば作品だ。

精神分析の自然主義化が必要なのだ。無意識、エス、超自我、いずれにしても、それは脳内に後成的に 形成されたネットワークの構造に過ぎない。

* * *

マーラーの「反復」についての考えに留意すること(同書, p.129)
「反復や再現や後戻りは「偽り」(マーラーの言葉)であり、またまったく単純に作曲者の 脆弱さとその役割の放棄のしるしであった。」
「二人ともAdornoが「非可逆行性」と呼んだもの、つまり同一の足跡に戻ることは不可能だと いう考えをやはり確信を持って表明している」
勿論、これはAdornoの言うヴァリアンテの技法に関係している。(古典的な意味での変奏ではない。) 
「やはりアドルノの創案した用語を使って言えば、マーラーの「小説風交響曲」の起源は まさにこのような点にあるのであり、そこではいくつかのエピソードが物語りのなかでのようにあらかじめ定められたプランに従わずに自由に連続し、登場人物たち(諸主題)は discoursにそって動き回る。」
と同時にこのことはマーラーの音楽を「心理的に」意識の流れとして読むことを保証している筈だ。

一方で、本物の劇的展開―つまりオペラや劇音楽のうち、統合性の高いもの―との比較に 注意すべきだ。つまり―例えばマーラーの内部に例を求めれば、「嘆きの歌」や第8交響曲第2部の様な部分は、まさにプロットが 音楽の流れを直接支配するが、これと上の意味合いでの心理的展開、小説としての流れとは 一致しないのだ。ソナタやロンド、変奏曲形式、なかんずく二主題の変奏曲形式のあるタイプが むしろここではモデルになる。
その展開の力学は「物語」に由来するものではない。そうではなくてある意味では自律的な 法則を持っている。第3交響曲第6楽章や第4交響曲第1,3楽章、第6交響曲第4楽章、第9交響曲第1,4楽章、第10交響曲第1楽章といった器楽の音楽が、その法則の具体化なのである。
音楽の持つ「効果」による「例証」。連続性、断続、充足、終結、あるいはAdornoのDurchbruch/Suspensionも含めて 心理的(フロイト派でも何でも)ではなく、せめて認知心理のレベルで意識の様相の記述と対応付ける。

音楽自体を記述の媒体として捉えること。
表現と記述。クオリアの再現が可能なある記述の体系なのだ。 (少なくともマーラーの音楽は)意識現象は様々なレベルと手段で記述できる、そのうちの1つとして位置づける。 ―音楽は意識の流れ自体ではない。感情そのものではない。
それを「ひき起こす」側面のみが(表現の側面のみが)強調されるが、音楽もある仕方で、そうした流れや 感情の記述になっている。ロマンと対比される程のマーラーの音楽は特にそうだ。
それは外部事象の模倣(描写音楽)ではなく、内部事象の記述なのだ。

* * *

標題に、歌詞にひきずられずに音が記述するものを読み取る。
それを標題や歌詞とつき合わせてイロニーが判定できる。
アドルノ的な歴史のスキーマは一旦捨てるべき。勿論創作の極の「文化史」なり意識のありよう、 社会のありようがしかじかであったという事実はある。
だが、読み取るのは音楽が記述することなら、何が隠れているのかを事前に決めなくても良い。
西欧の社会の歴史を読み取らなくてもよい。
観相学は別の枠組みで機能させることも可能ではないか?
文化史は結構(フローロス)だが、アドルノはそれ自体を「素材」と見做しつつも結局、「文脈」に 戻ってゆく。創作の文脈の外にあるものは音楽からは聴き取れない。
だが音楽作品は別の文脈でも機能しうる。
相互作用も起きる。そうした文脈形成を、つまりはミームとしての存続を保証するのは作品そのものだ。
アドルノ的な文脈から離れて作品の認知的なスキームを記述すること。
所詮は文化依存のものとはいえ、「意識」レベルでの共時的な記述を試みること。

認知のレベルは一般的だが、「意識の音楽」という定式には限界がある。
マーラーならOKだが、他の作曲家がどうかは個別に検討すべき。
マーラーが中心、出発点の展望は自明でない。それに留意すれば、だが、その展望ならではのものがあるだろう。 しかもここではさしあたりマーラーの場合で十分なのだが。

* * *

自分の例えばバルビローリのマーラー演奏に関する評言を練り直すこと。
意識の音楽、主観の、世界に対する反応の音楽というのが、如何にして正当化されうるのか、の議論が必要だ。
形式的には、バルビローリについて演奏スタイルについてのコメント―聴くことをめぐる幾つかの視点を 書いたのが参考になるだろう。
あるいはショスタコーヴィチについて書いたときの論点をマーラーにapplyすることによって少なからず明らかになるだろう。

テンポの設定の問題も、意識の様態として考える際の重要なパラメタになりうる。遠近法(空間性)図と地、特に地の、 地平の存在はマーラーの場合これまた重要だろう。

過度に主観的に受け取ることについての異論が存在するだろう。それは歌曲の側から来る。
主観的な抒情詩の世界からはマーラーは遠い、ムソルグスキー、ヤナーチェクというAdornoの連想は多分正しいのだ。
一旦中期のRueckertの時期に主観性に辿り着いたという見方もあるだろう。
だが、多分中期においてすら、少なくとも交響曲では、いわゆる抒情詩的な主観性と異なるものがある。 要するに、意識の音楽は、主観の音楽は「主観的な」音楽ではないのだ。この点を強調する必要がある。

そもそも交響曲の構成原理は、主観的な叙情からはでてこない。よくマーラーの交響曲の形式は借り物だ、 と言われるが、だが、交響曲が「既存の」形式であった以上、同時代の誰にとってもそれは借り物なのだ。 要するに、交響曲の構成を支える要素は、世界の側に存する。マーラーにとっては既存の交響曲という形式そのものが「世の成行き」なのだ。

* * *

シェーンベルクの「メガホン」。書きとらされているというマーラーの証言。

Sibeliusの孤独、何と遠いことか。
あの主観と風景のあり様は、やはり例外的なものだろう。
単に人との交わりを絶って、ひとりになることはではない。
例えばマーラーの第3交響曲が書かれた環境や、Ich bin der Welt abhanden gekommenを考えればよい。
それは主体の享受の相で捉えることができる。

第3交響曲は一見、客観の力をほとんど制御せずに(第9交響曲でそうであったように)主体はほぼ媒体として機能しているように見えて、その主体の「形式」の 「形式化する」力はきわめて強い。要するに、ここでの立場の違いは、世界を表現することと音の自律的な運動に身を委ねることの違いなのだ。「メガホン」であることは、非人称性は、作品の無個性、汎個性を意味しない。(事実は全く逆だ。)

Selbstgefuehlという標題は興味深い
確かにこれを「うぬぼれ」と訳すのは妥当でなさそうだ。
しかも、この歌詞はマーラーの音楽の持つ「批判的態度」の典型的な例証となっている―ただし、自分の気持ちが 「わからない」というアイロニーの形をとってだが。

* * *

(2022.12.7:2002~2008の間に書き留めた備忘を整形・校正・編集)

2021年5月9日日曜日

第3交響曲が私に語ること(2021.5.9 マーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会によせて:初期稿)

第3交響曲はマーラーの音楽の特徴が様々な側面で最も顕著に表れた作品であるといって良いだろう。この作品に限れば後付けの説明ではなく、複雑な変遷を経て1902年のクレーフェルトでの初演のプログラムにその最終形が掲載された標題のみならず、マーラー自身の書簡、ナターリエ・バウアー=レヒナーやブルノ・ワルターの回想等に残された証言も豊富であるが故に、この作品は、マーラーの作品を巡ってしばしば生じる、音楽の実質から遊離した言説の最大の被害者であると同時に、音響外の要素を一切捨象して最終的な音響態のみを自律的、自足的なものとして取り出そうとする姿勢の抽象性を暴き立てるという点で最も雄弁な証言者でもあろう。更にマーラーの交響曲の形式的な面での伝統的な交響曲形式からの逸脱の具体的な様相として思い浮かぶ、作品の長大化、楽章数の拡大、「部」(Teil)という階層の導入、楽章間の長さのコントラストの拡大、管弦楽編成の拡大、特殊楽器の使用や声楽の導入、そして空間的な次元の導入(舞台裏や「高いところから」といった指示)といった特徴の悉くが当て嵌まるこの作品は、それが生まれた時代にほぼ今日の姿になった巨大なコンサートホールでの演奏会という制度の中で、その可能性を極限まで追求した試みという見方もできるだろう。2部6楽章からなる重層的な全体構想における楽章間の調的な配置、そして各楽章の構造、中でも巨大で複雑な第1楽章の構造については、規範からの逸脱という見方ではその独創性を汲み尽くし難く、安易な分析を受け付けない。

調的な構想について見ると、「夏の朝の夢」という標題とともにヘ長調という調性を記された草稿が遺されているかと思えば、ニ短調としているオスカー・フリート宛書簡もあり、全体の調性がニ短調かヘ長調に関して諸家の意見は分かれるようだ。実際、第1楽章はニ短調で始まりヘ長調で終わり、イ長調の第2楽章の後、第3楽章はハ短調だがポストホルンの長大なエピソードはヘ長調、続く第4楽章はニ長調、第5楽章はニ短調のエピソードを持つヘ長調であり、第6楽章に至ってニ長調となるのであり、ヘ長調とニ長調の葛藤・対立があって、フィナーレではニ長調が主調として確証されるという構想が読み取れる。そこから逆算するように第1楽章は提示部末尾で一旦ニ長調に到達しながら、末尾のみならず楽章全体としてもヘ長調が優位であり、最初にトニックとして確立されたかに見える調性が実はドミナントであったというサブドミナント方向への三度関係の動力学が読み取れよう。

作品の成立過程については、構想上の紆余曲折を経て、フィナーレとして、アドルノの言う「充足」カテゴリのアダージョを持ってくることにより、いわゆる「フィナーレ問題」に回答を与える見通しがついた地点に至って、それまでに書かれていた楽章すべてを第2部とし、第1部として、それと釣り合う破格の規模を持ち、当初は2つの別々の部分として構想された序奏とソナタ楽章本体を一つに融合した第1楽章を持ってくるという構想が定まったと考えることができるようだ。そして「フィナーレ問題」の解決とともに、当初の構想の要石であった歌曲「天上の生活」がはみだしてしまい、そちらは第4交響曲として別に作品化されることになる。マーラー自身が弄り回した挙句、昇ったら不要になった梯子のように 最後には放棄してしまったとはいえ、様々なバージョンが遺されている標題の変遷過程は、完成した狭義での第3交響曲についてのそれではなく、こうした動的で流動的な創作過程の軌道の痕跡であり、最終的な2部6楽章の形態を、結果として第4交響曲のフィナーレに収まった歌曲をフィナーレとする構想のような幾つかの疑似的なアトラクタを経て辿り着いた不動点と捉えることを要求しているようだ。

第1楽章はその調的プロセスから、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタと捉えることができるが、それは、やはり第1部としてこちらは強い素材連関を持つ独立の2つの楽章を擁する第5交響曲、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタという構想をフィナーレに適用した第6交響曲を経て、序奏が回帰しつつ2つの対比的な主要主題が変形を繰り返す側面がソナタ形式を内側から圧倒してしまう第7交響曲の第1楽章を通って、第10交響曲のあの無比の構造を持つアダージョに至るマーラーの絶えざる試行の最初の一里塚ともいうべき成果であり、創作の巨大な過程の一部として捉えることができるであろう。

更に書簡や回想等に遺された言葉から窺えるのは、マーラーが音楽によって「ひとつの世界を構築」しようとしたことと同時に、何物かに命じられて書きとらされるかのような姿勢をもっていたことである。ここで注意すべきはベクトルの向きで、 稚拙な標題にしてからが「~が私に語ること」であり、作曲する「私」が聴き手の立場になっていることである。 マーラーの音楽を単純に主観的な独白と見做すのは、それを世界観なり思想なりの表明と見做すのと同様、実質を損なう捉え方で、作曲する主体と作品との関係についてロマン主義的な単純化した見方をしている点では共犯関係にある。際立って意識的な人間だったマーラーは、そうした点に自覚的だったようだし、作品が常に 自分をはみ出していくことについても充分に意識的であったようだ。であってみれば、大言壮語の類として片付けられがちな「君はもう何も見る必要はないのだ。僕が音楽に皆、使い尽くし、又、描き尽くしてしまったのだから」というワルターに向けた言葉についても、そこに自然に対する芸術の優位を主張する芸術至上主義的な傲慢さよりも、音楽作品の在り方の不思議さこそを見るべきなのではないか。作曲はマーラーにとって「神の衣を織ること」であったが、だとしたら音楽作品は「神の衣」であり、「ひとつの世界」は閉じた自足的な全体ではなく多世界の中の「ひとつ」であり、複数の可能世界の中の一つのバージョンと考えるべきだろう。

マーラーの作品群はしばしば連作として捉えられるが、第3交響曲は、それ自身には含まれない集積点の如きものとして、自らの外部に第4交響曲のフィナーレである歌曲「天上の生活」を持っている。独立した作品でありながら単純な作品の内側と外側という図式に収まらない内部構造を持ち、かつそれが作品の外部にも繋がっているというクラインの壺のようなトポロジーによって、「作品」を箱庭の如きものとして外部から眺めるのではなく、「世界」に対してそうであるように「作品」の中に棲み、内側から眺めることを求めているかのようだ。第3交響曲のような多元的・重層的な作品はそれ自体多重の時間の流れを含み持っているが、聴く「私」もまた別の時間の流れの一つであり、聴取によって複数の層の間の干渉・同調・引き込みが起きる。「作品」は仮想現実であり、「世界」のシミュレータなのである。聴取の行為は「世界」の経験のシミュレーションに他ならず、そうすることにより我々もまた、マーラーがそうしたように「世界=作品」の「語ること」に耳を傾けるのである。そしてそれは、マーラーがそう意図したように、世界の構築に、「神の衣を織る」ことに通じるのである。演奏者も聴き手も、交響曲という「世界」の多元性を、事後的な結果としてではなく、まさに今・ここで生じている「出来事」として経験すべきなのだ。作品は、それが生み出された時代の文脈から逃れられないけれど、時代を通じて継承されることにより存続する。そのためには新たな聴き方を可能にする新たな文脈を聴き手が用意する必要があるのではなかろうか?

だとしたら、今、第3交響曲が我々に語ることは何だろうか?

それを考える上で、マックス・テグマークが汎用人工知能について語るフレームとして提示したLife3.0を取り上げてみよう。するとマーラーの時代は、まずもってLife1.0に関する今日的な認識の基本が形成された時代であることに気づく。例えば伝染病の流行が珍しいことではなかったことはマーラーの伝記を紐解けばすぐにわかることだ。コッホによるコレラ菌の発見は1884年であり、今日当然のこととされる、細菌が伝染病の原因であるという認識すらまだその確立の途上にあった。その一方でLife2.0は生物学的な「ヒト」ではなく、ジュリアン・ジェインズのいう「二分心」の崩壊以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」以前のエポックの存在様態を指していると解釈するならば、それは「ニーチェ」が「神の死」という形で言い当てた「隠れたる神」の時代に生きる存在ということになろう。

勿論そのことがマーラーの創作に直接影を落としているわけではないが、第3交響曲のフィナーレが「私の傷を見てください」というモットーを持つことを思えば関連は明らかだし、のちに長女を亡くす原因やマーラー本人の死因にしても今日ならペニシリンで治療可能であることも含め、一世紀経って進歩はしたとはいえ、今まさに新型コロナウィルスの猛威に晒されていることを思えば、相変わらず状況には変わりなく、二分心以降・シンギュラリティ以前という同時代にマーラーも我々も生きていることを再認させられずにはいられない。

してみれば第3交響曲はLife1.0の誕生からLife2.0の先までの展望―そこではLife3.0は、Life2.0の人間に続くものとして天使や神として形象化され、子供や超人もまた含まれている―を示したものであり、今ならLife2.0が産み出したシミュレーション・ソフトウェアの設計図と見做すことができるだろう。それを思えば、マーラーの作品の中でも優れて第3交響曲は、自分の生きる世界にどう向き合うか、どのように認識し、感じ、行動し、変わっていくのかについて示唆を与えてくれる存在ではなかろうか。

新型コロナウィルス禍において、ウィルスというLife1.0の手前にある存在が、Life3.0への越境へと向かいつつあるLife2.0たる人間の持つ基本的な性向である社会性、模倣し共感し協力する性向に襲いかかり、集い、役割分担することで新たな「現実」を生み出し、今・ここで生じている「出来事」として共有することを妨げ、未来を目がけて構築したもう一つの現実としての「作品」の上演と継承を困難にしてしまった。とりわけてもこの第3交響曲の上演には、巨大なコンサートホールの舞台に溢れんばかりの大編成の管弦楽に加え、独唱と児童合唱、女声合唱が必要であり、更にまた客席を満たす聴き手が必要であることを思えば、公演の度重なる延期は、まさに我々が置かれた状況を最も雄弁に証言するものであり、無作為ではなく、存続に向けての抵抗の一つのかたちであろう。であればこそ、今、ここで第3交響曲が上演されることの意義は大きい。第3交響曲は、このような状況の下で聴き手の一人ひとりがそれぞれ「~が私に語ること」に耳を傾け、自分が受け止めたものを語り、行動することへと私たちを誘っているように私には思われるのである。(2021.3.17)

[後記]上掲の文章は 2021年5月9日のマーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会のプログラムに寄稿させて頂いた文章の初期稿です。諸般の事情により公演に立ち会うことが叶わず大変に残念でしたが、そのことのお詫びとともに、初期稿の掲載を以て、書き記すことができなかった演奏会の記録のせめてもの替わりとし、今回の公演が目下の困難な状況の下で実施されたことに対する敬意の表明とさせて頂きたく思います。(2021.5.9)