第5部:比較対象・代替手法・方法選択の根拠
五度圏重心という設計は、理論的な比較検討のみから最初に選ばれたものではなく、実際に他のアプローチを試みたうえで、それぞれに固有の理由で退けた結果として採用されたものである。本稿ではその経緯と根拠を記録するとともに、同じくDFTに基づく既存研究(Wavescapes)との異同を整理する。なお、5.1節で参照する検証はマーラー単独コーパス(全50楽章)の段階で実施されたものであり、第2部で述べた現行の8作曲家・55楽章フルコーパスとは異なる、研究の初期段階のコーパスである点に注意されたい。
5.1 Krumhansl-Schmuckler不採用の理由
クラムハンスル=シュムックラー(K-S)の調的階層モデルによる調性推定を、初期段階でマーラー全10交響曲+《大地の歌》の全50楽章(現行の8作曲家・55楽章フルコーパスとは異なる、当初のマーラー単独コーパス)に対して実際に行い、結果を公開した(「MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):クラムハンスルの『調的階層』を用いた調性推定と和音のラベリング」)。この方法は各時点について24の調(長調12・短調12)それぞれに対する尤度を与える。ここで得られる出力は24次元の尤度ベクトルであり、これをそのまま一本の連続的な軌道として扱うことはできない。最尤の調を選んで時系列を構成することは可能だが、これは複数の調に対する尤度が拮抗している「調的に曖昧な」瞬間について、その曖昧さの度合いを消去して単一のラベルを強制的に割り当てることを意味する。本研究が捉えようとする調的溶解——複数の調的可能性の間で重心が定まらなくなっていく過程——を、K-Sのカテゴリカルな出力形式は原理的に表現しにくい。
5.2 Chew Spiral Array不採用の理由
三度関係(長三度・短三度の隣接性)を五度関係と同時に組み込む、Chewのスパイラル・アレイのようなモデルも検討した。三度関係がロマン派の和声、とりわけマーラーにおいて重要な役割を果たすことは認識しているが、この方向は採用しなかった。三度関係を空間の構成要素として明示的に組み込むことは、それ自体が「三度関係は音楽的に重要である」という音楽理論的主張を空間の定義に埋め込むことになり、機能和声とは異なるが、それによく似た理論的バイアスを持ち込むことになると判断したためである。本研究が最終的に目指すのは、マーラー後期からペッテションに至るまでを同一の枠組みで扱うことであり、古典的な三度堆積の和声語法自体が前提として成立しにくい書法(ペッテション)に対しては、三度関係を軸の一つとして組み込んだ空間は適合しない危険がある。
五度圏重心は、この2つの試行を経たうえで採用された、単一の関係軸のみを用いる最も単純な幾何学的写像である。この単純さは、より精緻な方法を知らなかった結果ではなく、複数作曲家を横断する連続的な調的溶解の軌道を、理論負荷を最小化した形で追跡するという目的に照らして、消去法的に選択された設計である。
5.3 Wavescapesとの関係
Viaccoz, Harasim, Moss & Rohrmeier (2022)による”Wavescapes: A visual hierarchical analysis of tonality using the discrete Fourier transform”(Musicae Scientiae, 27(2), 390–427)は、本研究と同じくLewin–Quinn–Amiotの系譜にあるDFT基盤のピッチクラス集合分析を用いるが、問いの立て方が本質的に異なる。
同論文は、既存のkeyscape(Sapp 2001, 2005)——楽曲の任意の入れ子区間について最良適合する長短調を推定し、三角形状に色分けして可視化する手法——が、Krumhansl-Schmuckler型の調推定アルゴリズムに依存するために拡張的調性(後期ロマン派以降の作品)には適用困難であるという問題意識から出発する。これは本稿5.1節で述べたK-S不採用の理由と同型の問題意識であり、リストの《ファウスト交響曲》冒頭のkeyscapeが「ヘ短調→嬰ハ短調→イ短調」という、実際の和声内容(増三和音ベースの構造)と乖離した調推定を返す例(同論文Figure 2)は、本研究のコーパスが抱える問題と直接対応する外部証拠として参照できる。
Wavescapesはこの問題を、keyscapeの階層的な三角形表示という形式は保持したまま、色分けの基準を「K-S調推定」から「DFT係数(f1〜f6)の位相・大きさ」に置き換えることで解決する。すなわち、楽曲のあらゆる入れ子区間(1小節から全曲まで)についてピッチクラスベクトルのDFTを計算し、位相を色相に、正規化された大きさを不透明度に写像することで、どの階層(時間スケール)でどのフーリエ成分(=どの和声的性質)が支配的かを、決定論的かつ連続的に可視化する。
方法論上の異同:本研究とWavescapesは、DFTという共通の数学的基盤に立ちながら、以下の点で設計思想を異にする。
Wavescapesは「この曲のどの階層(1小節か、楽章全体か)でどの和声的性質が優勢か」を問う静的・階層的分析であり、本研究は「この曲の調的重心が時間とともにどう動くか」を問う動的・軌道的分析である。両者は同じDFT基盤を共有しつつ、問いの次元が異なる相補的な関係にある。第2部で述べたFEPの三層構造(特に層2:状態空間における行動パターン)は本質的に軌道・力学系志向であり、本研究が階層的分割ではなく時系列軌道を分析単位として選んだことは、この理論的立場と整合的である。
Wavescapesからの示唆:Wavescapes論文のFigure 6(和音・音階の種類ごとの正規化された大きさの一覧表)は、本研究が独自に確認した対称和音の分類(増三和音・減七・全音音階・三全音ダイアド等がf5で原点に収束する現象、第1部1.3節)を、より広い和音種のカタログとして裏付ける独立した確認になっている。また同論文が典拠とするClough & Douthett (1991) “Maximally Even Sets”(Journal of Music Theory)は、本稿が「回転対称性を持つ和音」と呼んできた概念に対する、確立された音楽理論上の呼称(最大均等分割集合)を与えるものであり、第1部の参照文献として追加する価値がある。
参照文献:Viaccoz, C., Harasim, D., Moss, F. C., & Rohrmeier, M. (2022). Wavescapes: A visual hierarchical analysis of tonality using the discrete Fourier transform. Musicae Scientiae, 27(2), 390–427. Clough, J., & Douthett, J. (1991). Maximally even sets. Journal of Music Theory, 35(1), 93–173. Sapp, C. S. (2005). Visual hierarchical key analysis. Computers in Entertainment, 3(4).
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