お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2007年6月30日土曜日

アドルノのウィーン講演(1960)より

アドルノのウィーン講演(1960)より(Taschenbuch版全集16巻pp.337--338、邦訳:酒田健一編「マーラー頌」pp.317)
(...)

In Mahlers Musik wird die beginnende Ohnmacht des Individuums ihrer selbst bewußt. In seinem Mißverhältnis zur Übermacht der Gesellschaft erwacht es zu seiner eigenen Nichtigkeit. Darauf antwortet Mahler, indem er dir Form setzende Souvränität fahrenläßt, ohne doch einen Takt zu schreiben, den nicht das auf sich selbst zurückgeworfene Subjekt zu füllen und zu verantworten vermöchte. Er bequemt sich nicht der beginnenden Heteronomie des Zeitalters an, aber er verleugnet sie nicht, sondern sein starkes Ich hilft dem geschwächten, sprachlosen zum Ausdruck und errettet ästhetisch sein Bild. Die Objektivität seiner Lieder und Symphonien, die ihn so radikal von aller Kunst unterscheidet, die in der Privatperson häuslich und zufrieden sich einrichtet, ist, als Gleichnis der Unerreichbarkeit des versöhnten Ganzen, negativ. Seine Symphonien und Märsche sind keine des disziplinierenden Wesens, das triumphal alles Einzelne und all Einzelnen sich unterjocht, sondern sammeln sie ein in einem Zug der Befreiten, der inmitten von Unfreiheit anders nicht zu tönen vermag denn als Geisterzug. Alle Musik Mahlers ist, wie die Volksetymologie eines seiner Liedertitel das Erweckende nennt, eine Rewelge.

アドルノの、これは1960年のマーラー生誕100周年記念の講演の末尾の部分。歌曲「起床合図」に言及した最後の文章は特に有名だろう。 (これにちなんで言うと、対をなす「少年鼓手」の方は、処刑を前にしてGute Nacht!と叫んで終わるのであって、内容上もまさに対をなしている。また 目覚めているということでいけば、同じWunderhornliederの中のDer Schildwache Nachtliedでは、Verlone Feldwachtが登場し、最後は 終止形に到達することなく、Feldwachtという単語を引き伸ばして終わる。勿論、更にRückert LiederのUm Mitternachtへと連想を延ばすこともできるだろう。)

アドルノは社会と個人の関係を問題にするが、―そしてそれは勿論正しいのだろうが―、個人が己の価値の無さに思い当たるのは、別に社会の力に よってだけではないだろう。個人が社会に拘束されているという契機を軽視することはできないだろうが、それでも、社会的なものだけが個人を制約する わけではない。生物学的な限界もまた存在する。ここでアドルノがいわゆる中期のマーラーの「客観性」への言及で話を結んでいるのは、そういう意味で 妥当なのだ。だが、後期はどうなのか、後期様式に見られる―シェーンベルクがとりわけ第9交響曲について指摘した類の―非人称性についてはどうなのか、 というのが最近の私の関心の中心の一つである。社会がどうであれ、「否定性」というのは主観に、意識に予めプログラムされた徴なのではないか、と思えて ならないのだ。意識というのは、遺伝子の搬体たる生物としての個体に比べてもなお、儚く取るに足らないものなのだから。

そうした問題はおくにしても、このアドルノの指摘の的確さは、全く驚異的だと思う。マーラーの音楽がそうした儚い「主観性の擁護」であるという考えは、 まさにこうしたアドルノの言葉で言い尽くされてしまっているとすら思えるほどである。

なお、この講演は酒田健一編の「マーラー頌」で読むことができるが、それ以外にも例えば、シュライバーのマーラー論の「証言」の棹尾を飾るものとして 収めされている(ただしDie Objektivität seiner Lieder und Symphonien, 以降最後まで)。ただし、こちらの邦訳はその最初の文の従属節の解釈がおかしくて、 それだけ読むと、意味が逆転しているようにとれてしまうし、その後の文章も、恐らくはわかりやすくしようとして節の順序を入れ換えたり、原文の構造を崩して 言い換えたりしているのだが、結局、かえって意味がとりにくくなっているように見受けられるので、邦訳を利用する場合には注意が必要だと思われる。

別にけちをつけるのが目的でやっているのではないから、こうやって引用にコメントするたびに邦訳に対する疑義を書くのは本意ではないのだが、 幸か不幸か、そうせざるを得ない場合が多いのは遺憾なことだ。だが、気づいてしまったものを書かなければ備忘の用をなさないので、 止む無くコメントを残しておく次第である。(2007.6.30)

2007年6月23日土曜日

ヴァルターの「マーラー」より:その「人」についての回想

ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.113, 邦訳p.207):その「人」についての回想
Es ercheint mir als die große moralische Leistung seines Lebens, daß er sich niemals über die Qualen der Kreatur und die seelischen Leiden der Menschheit mit dem achselzuckenden Ignorabimus des Philosophen beruhigte, um den Blick ungestört dem Schönen und Beglückenden des Weltbildes zuwenden zu können. » Daß du ihr Vater nicht, daß du ihr Zar «, diese Worte aus der Totenfeier des Mickiewicz konnte er in düsteren Momenten auch zu Gott sagen. Aber dann fühlte er wieder, daß hier ein Mißverständnis walten müsse, und blieb der Aufgabe, die ihn gewählt hatte, treu: zu leiden und einen göttlichen Sinn darin zu suchen.
ヴァルターはここで晩年のマーラーが彼宛に送った書簡を思い浮かべながら、マーラーの「態度」について非常に説得力のある説明をしていると私には思われる。 この文章には、長年に亙ってマーラーと親しく接した人ならではの、決して一時の印象に引きずられない視線が感じられる。(もとの書簡も「語録」の方で 紹介しているので興味のある方は参照されたい。)
こう言ってしまえば身も蓋も無いかも知れないが、人間は矛盾に満ちた存在で、その歩みは決して論理的に整合的なわけではない。ある経験を介して、 一方の極から他方の極へと飛躍することだって、無くはないし、それを責めることは(少なくとも我が身を振り返れば)できない。 ヴァルターはそうしたマーラーの歩みに見られる不変項を取り出しているのであろう。 そしてこうした印象が決して個人的なものではなく、例えば、決して親密とはいえなかったヴァルターとアルマの両方から 聞けるというのは、それが必ずしも主観的な偏見の産物とは言えないことを示しているだろう。アルマもそうだが、ヴァルターにしても決してマーラーの「欠点」に 対して盲目だったわけではないのは、この回想を通読すればはっきりと窺えることでもあるし。
だが、これはマーラーの「人」に対してのコメントであって、その音楽はまた別のものだ、という意見に対しては、ヴァルター自身の以下の言葉が 反論することになる。(2007.6.23)

2007年6月18日月曜日

アルマの「回想と手紙」にある「子供の死の歌」作曲に関するコメント

アルマの「回想と手紙」にある「子供の死の歌」作曲に関するコメント(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.97, 白水社版邦訳p.85)
... Er vollendete die Sechste Symphonie und vermehrte die zwei Kindertotenlieder um drei weitere, was ich nicht verstehen konnte. Ich kann es wohl begreifen, daß man so furchtbare Texte komponiert, wenn man keine Kinder hat, oder wenn man Kinder verloren hat. Schließlich hat auch Friedrich Rückert diese erschütternden Verse nicht fantasiert, sondern nach dem grausamsten Verlust seines Lebens niedergeschrieben. Ich kann es aber nicht verstehen, daß man den Tod von Kindern besingen kann, wenn man sie eine halbe Stunde vorher, heiter und gesund, geherzt und geküßt hat. Ich habe damals sofort gesagt: » Um Gottes willen, Du malst den Teufel an die Wand!«
私見では、もし人と作品との間の懸隔を語るのであれば、後期作品よりも寧ろ「子供の死の歌」こそ問題にされてしかるべきだと思われる。

引用したアルマの回想の記載とは細部において異なるのだが、現在の通説では、「子供の死の歌」は1901年に1,3,4曲、1904年に第2,5曲が追加された ということになっているようだ。いずれにせよ、この歌曲集については、なぜこのような詩に曲を付けようと思ったのかについては、少なくとも説明なり 解釈なりを要する「問題」ではあるだろう。この1904年の時点においても彼が長女を喪うのはまだ先のことだし、1901年に至っては、まだ結婚すらしていない のである。

一方でこの事実を逆手にとるかのように、精神分析学的な解釈に基づくかどうかによらず、この曲を「預言的な」もの、あるいは 「現実が芸術を模倣する」例であると主張する意見もまた存在する。個人的にはそうした方向の説明なり解釈には関心がない(私が知りたいと思うことの 説明になっていないから)ので、その当否を論じることはしないが、いずれにせよ、ここでのアルマの叫びは―もっとも彼女は 回想して書いているのではあるけれど―全く正当なものであるように感じられる。

しかも、アルマのこの発言は、それを「創作の謎」として、一般人には理解し難い領域に押しやることを禁じてしまってもいる。少なくとも彼女も 作曲をした以上、「一般論」として、作品と人生の関係はそんなものだ、などとは言えないだろうから。それはマーラーという個別のケースの謎なのだろうか? 「天才的な肉食獣」の謎?

勿論、そうした事情は取るに足らぬこととして、当時の「世紀末の流行」のテーマを取り上げたのだ、という説明で乗り切ってしまうこともできるのかも 知れない。だがそうした文化史的な還元による説明は上述の「預言」もどきの解釈を脱神話化する効果は認めることはできても、あのアルマさえ たじろいだ「マーラーの場合」の特殊性を説明し切れていないように思われてならない。何より、作品の持つ破壊的なまでの強度がそれに異議を唱えて いるように思えるのだが、、、(その強度は、例えば情景描写の克明さとか、嘆きの表現の巧みさなどから、この作品が全く背を向けてしまっていることに よって寧ろ強められていることにも注意すべきだろう。)

この作品と比較すべきは、(勿論、文化史の研究としては、重要なテーマかも知れないが、ここではそれは関心の外なので)同じテーマを扱った 同時代の他の作品などではなく、寧ろ彼自身が後に書いた「大地の歌」ではなかろうか。出来上がった作品も、生成史もひっくるめて、 「大地の歌」に繋がる要素、「大地の歌」と異なる要素を個別に見極めていく必要があるのだろう。いずれにせよ、「子供の死の歌」がマーラーの 創作の秘密を解く一つの鍵であることは確かなことに感じられる。私の前ではその鍵は最後まで開かないかも知れないが。(2007.6.18)

2007年6月11日月曜日

ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書381番, p.414。1979年版のマルトナーによる英語版では382番, p.329)
... Ich durchlebe jetzt so unendlich viel (seit anderthalb Jahren), kann kaum darüber sprechen. Wie sollte ich die Darstellung einer solchen ungeheuren Krise versuchen! Ich sehe alles in einem so neuen Lichte -- bin so in Bewegung; ich würde mich manchmal gar nicht wundern, wenn ich plötzlich einen neuen Körper an mir bemerken würde. (Wie Faust in der letzten Szene.) Ich bin lebensdurstiger als je und finde die "Gewohnheit des Daseins" süßer als je. ...
一つ前の手紙の半年後にニューヨークから書かれた手紙。「大地の歌」と第9交響曲の間の時期に相当する。実は「大地の歌」の創作の時期については 異説があって意見の一致を見ていないようだ。もっとも一つ前の手紙が書かれていた1908年の時期がその只中であるのは確実のようではあるのだが。
この手紙の文中の1年半というのは、勿論、1907年夏の娘の死と、自分の病の宣告という出来事以来の期間を指している。 ここでは第8交響曲のファウストへの言及が印象的で、マーラーが「死の影の谷」を抜けたことを告げているように感じられる。 「大地の歌」の創作は、まさにその「受容」と「回復」の過程そのものだったに違いない。そして更に半年後には、マーラーは第9交響曲に向かうのである。 第9交響曲の第1楽章についてベルクの言った感動的な言葉と響きあうものが、引用した文章に感じ取れるように私には思えてならない。
それゆえ、例えば村井さんがその著書でこの手紙を引用する部分で、「「人生」と「芸術」との関係など、しょせんこの程度なのだ。」と述べているのを 読んだときには、全く驚いてしまった。なぜなら私は、まさにこの手紙にこそ、とりわけ晩年のマーラーならではの「人生」と「芸術」との密接な関係を 見出していたのだから。ベルクも言っているように、第9交響曲の第1楽章は、この手紙で告げられている「回復」の、生きることへの意志の表現でなくて なんだというのだろう。村井説のように、音楽が表現しているものの方を「通説」(「死が私に語ること」式の死のイメージの表現なり、「死との対決」という プログラム)に縛り付けたままにしておきながら、それを利用して「人生」と「芸術」との分離の方を強調してしまうのには、私は強い違和感を感じずには いられない。音楽とそれによって表現されるものの関係を単純化してしまうから、分離が結論されてしまうのではなかろうか。
私は精神分析の専門家でも、文学や音楽の専門家でもないので間違っているかも知れないが、まずもって「死の受容」のようなプロセスが、 そんなに一直線の単純なものであるとは限らないように感じられてならない。個人差もあるだろうが、ニューヨークで指揮をしている時には このように書いても、半年後に再び孤独に戻った時に、再度、そのプロセスを―ただし、今度は、もはや「回復」した人間がとりうる距離感を 保ちつつ―反芻するようなことはありえないのだろうか? そしてもう一度、第9交響曲はそうしたマーラーの心理的な状態と無関係ではなく、 例えば、自分が「かつて」経験したことを、まるで他人事のように客観的に「芸術作品」の内容として「表現」するといったような、他の作曲家であれば もしかしたらあり得たかも知れないような(無)関係ではなく、もう少し微妙な繋がりを持っているように感じられてならないのである。
単純な伝記主義は、「人生」における外面的な事件に「芸術」を還元してしまいがちで、これはあまりにも粗雑だろう。また例えば職業的な作曲家、 しかもずっと昔の、音楽の機能がマーラーの時代とは異なっていた時代の職業的作曲家であれば、「人生」と「芸術」とを分離すべきなのは もっともだ。だがマーラーの場合には「標題」の問題を見直す必要があるのと同様、「人生」と「芸術」との関係もまた見直す必要があるとはいえ、それでもなお、 その音楽はマーラーその人の「心」と深く個性的な結びつきをもっていて、それゆえ聴き手の「心」に強く訴えるのだと私は思う。勿論、 作品ごとにその結びつきの具体的なありさまは微妙に異なるだろう。「大地の歌」と第9交響曲を一緒に扱うことはできないだろう。だが、 「大地の歌」に比べて第9交響曲がより個人的でない、などということは言えないと思う。寧ろ、(この点では村井さんの言い方に同感なのだが) 「個人的であるがゆえに超個人的な、普遍的な作品」なのだろう。もっとも、この言い方は正鵠を射ているとは思うが、このままでは些か レトリカルで、どうしてそのようなことが可能なのかについての説明こそが必要なのではないかという気がするし、他の部分での 「人生」と「芸術」との関係の説明と、矛盾こそしないが、説得力のある仕方では噛み合っていないように感じられるが。
私個人のことを言えば、第9交響曲の第1楽章のあるタイプの演奏を聴くと、まるでマーラーが周囲に広がる風景を享受するその様態そのものが、 自分の心の中に沁み込んで来るように思われることがある。風景ではなく、風景を味わう意識の状態が感じ取れるように思えるのだ。 「感受の伝達」の直接性において、音楽ははるかに言葉にまさっている。だが、それだけではない。音楽は生の経験の不完全な、色褪せた コピーには留まらない。マーラーはこの曲を書くことを通して、風景を享受する仕方を産み出したのだ。(勿論、音楽だけではなく、言葉もまた そうした産出に、別の仕方ではあるが関わることができるだろうが。)それは彼の経験に根ざしているけれど、 同時にその経験を超えてもいる。「人生」と「芸術」との関係は、やはり(他の場合はいざ知らず、マーラーの場合には)もっとずっと 微妙なものに思えてならない。
勿論、単なる思い込みだと言われてしまえばそれまでではあるが、でも私にとってマーラーの音楽は、そういう類の音楽なのだ。(2007.6.11)

2007年6月9日土曜日

ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書378番, p.410。1979年版のマルトナーによる英語版では375番, p.324)
... Aber zu mir selbst zu kommen und meiner mir bewußt zu werden, könnte ich nur hier in der Einsamkeit. -- Denn seit jenem panischen Schrecken, dem ich damals verfiel, habe ich nichts anderes gesucht, als wegzusehen und wegzuhören. -- Sollte ich wieder zu meinem Selbst den Weg finden, so muß ich mich den Schrecknissen der Einsamkeit überliefern. Aber in Grunde genommen spreche ich doch nur in Rätseln, denn was in mir vorging und vorgeht, wissen Sie nicht; keinesfalls aber ist es jene hypochondrische Furcht von dem Tode, wie Sie vermuten. Daß ich sterben muß, habe ich schon vorher auch gewußt. -- Aber ohne daß ich Ihnen hier etwas zu erklären oder zu schildern versuche, wofür es vielleicht überhaupt keine Worte gibt, will ich Ihnen nur sagen, daß ich einfach mit einem Schlage alles an Klarheit und Beruhigung verloren habe, was ich mir je errungen; und daß ich vis-à-vis de rien stand und nun am Ende eines Lebens als Anfänger wieder gehen und stehen lernen muß. ...
丁度マーラーが「大地の歌」に取り組んでいる時期に、ヴァルターに宛てて書いた手紙の一部だが、これもまた、ヴァルターの「マーラー」伝を始めとして色々な ところで引用されてきた有名な部分であろう。この文章には、まさに「大地の歌」に結晶する「受容」の過程が、その傷の深さとともにはっきりと刻印されている。 「そんなことはとっくの前にわかっていたことだ」という言葉は、若き日のマーラーを思えばいつわりは微塵も含まれていないが、にも関わらず、その言い方には 逆説的にマーラーの蒙った傷の深さを窺い知ることができるように感じられて痛ましい。ウィーンの宮廷歌劇場に40歳にならずして君臨し、すでに第8交響曲までの 作品を書き上げた天才が、一からやり直さなければならない、と書いているのを見るのは信じ難くさえ思える。
と同時に、この手紙を読めば「大地の歌」が何を語っているのかについての手がかりを得ることができるのではないか。それは「受容」の過程の結晶なのだ。 「とっくの前にわかっていたこと」のために一からやり直さなければならないという状況を受容して、再び仕事を続けられるようになる過程の反映なのだと思う。
勿論、ある人の生と作品とは別のものだ。けれども、マーラーの場合に限って言えば、そして特に「大地の歌」に限って言えば、その区別を殊更に 強調するような主張には私は抵抗を感じる。私はやはり、「大地の歌」を聴けば、マーラーのこの手紙のような心のありようとその音楽がほとんど 不可分なまでに結びついているのを感ぜずにはいられない。どうしてそんな結びつきが可能なのか?それこそが、彼が天才であるゆえんなのだろう。 いずれにせよ、その結びつきの切実さと誠実さこそその音楽の魅力の不可欠な要因だと思うし、私の様な平凡な―だが、傷つくことに関してだけは 彼と変わることのない―人間にとって、それを聴くことが、ある時にはほとんど不可欠にさえ思えるような力を持っているのは確かなことなのだ。
それを「普遍性」といえば語の厳密な意味では正しくないことになるだろう。だが、もういいではないか、という気がしてならない。100年も後の、 こんなに離れたところに生きている、気質も能力も異なる人間に対してその音楽の持つ力は、「普遍的」とか「永遠の」とかいう形容詞を 色褪せさせる。そんな天空のどこかで真偽が確証されるような概念は、少なくとも彼の音楽を聴く私にとっては不要である。 まさに「大地の歌」はそうしたものへの告別ではなかろうか。(2007.6.9)