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2025年1月16日木曜日

マーラーの音楽は未来を予言しているのか?(2025.1.16 再公開)

人はとかく音楽を未来を予言する書物に比し、作曲家を未来の預言者に仕立て上げたがるかのようだ。 さながらマーラーの音楽の場合なら、西欧の近代的な文化の没落を予見していた、みたいな ことがまことしやかに主張されることになる。 更には、例えばことばに比べて音というのはそれが何かは定かではないながらもある種の空気を察知する面が あるということを根拠に音楽が他の媒体に比べたとき、優れて予言に適した媒体ではないのかという 問いが為されることがある。

だがいわゆる表現媒体の違い、意味作用や享受者への働きかけ、創作のプロセスの違いによって 「時代を予見する」という点について音楽が特権的な地位を占めているというようには思えない。 個別の作品を創作する行為はあらゆる人間の活動を包含するような 意味合いでの「世界」において時間的・空間的な特定の座標において行われる ものだから、そうした文脈の側からの影響に対して無縁ではありえない。 それは創作者の立場(時代に意識的にコミットしようとするのか、超然とした 或る種の普遍性を希求するのが、そもそもそうした立場の決定自体に無頓着 なのか)とは独立に言えることだろう。文脈というのは、同じジャンルの 先行作、同時代の作品から始まって、社会的・経済的・政治的なものも含まれうる。

ところで「予見性」についての評価は事後的なものにならざるを得ないが、だとしたら幾らでも 後付の理屈がつけられてしまうのは避け難い。 けれども、そもそも時間的にいって後に起きることを字義通りに予見する というのは恐らくどのジャンルでもありえないだろうから、まずは同時代の 空気をどの程度反映しているか、更にはその空気が後続する時代との ある種の連続性を帯びたものであるのか、といった点が議論になるというのが 実態なのではないか。

実際には人間の活動は、どんなものでもある種の目的論的な図式が後から 適用できるような、いわば過去に基づき、未来に向けて現在のあり方を (受動的な場合も含め)選択していくという側面を持つ。 そしてそれは作品としての文化的な「遺産」の蓄積、書籍他の記録媒体、 文字や楽譜のような記録のための手段といったものがいわば「前提」と なって、その上で可能になっていると考えられる。(両者は独立ではない。) 従って、文化的な活動が優れた意味で何らかの「未来」をめがけたもので あるということは、程度の差はあれ(仮に創作者本人はひたすら過去を向き、 時流に反したアナクロニズムを実践していると自己了解している場合も含めて) 言いうるのではと思われるが、その一方で、こうした機制は非常に一般的な ものだと思われるので、個別のジャンルには依らないだろう。

勿論だからといって ジャンルによる違いがないことにはならないが、個別と一般のどこに区切りを入れるのが 適当かについての基準を仮にであれ設定するのは如何にして可能だろうか。 それ自体が歴史的・文化的な事後的な或る種の解釈を前提とした、いわば先行的 解釈を孕んでしまうのは避け難い。そもそも「音楽」にしても決してその内実は一義的ではなく、 マーラーの音楽をもって音楽一般を語ることが出来ないことは当然だが、では「音楽」一般を 語らなければマーラーの場合について語ることができないかといえば、そういうわけでもなかろう。 だからここではジャンルへの依存といった水準の議論はひとまずおいて、マーラーの場合 という個別のケースについて見ていくことにしたい。それによって明らかになるのは、 音楽が未来を予言するといった発想自体がある種の錯視の上に成立している有様ということになるだろう。

ある人が音楽を未来を予言する書物に比し、作曲家を未来の預言者に仕立て上げようと企図するとき、 実はその人は彼自身がその未来に住まっていて、いわば事後的に同時代者を過去に 見つけようとしているに過ぎない。勿論、作曲者自身が預言者を気取り、自己の音楽の進歩性を、前衛性を 自ら唱導することもあろうし、作曲者の同時代人が彼の音楽にいわば「新しい道」を見出し、その先に未来を 思い描くことの方もまた、ありふれた光景には違いない。そして未来に居る人の審判を待つこともなく、確かなものに 思われた多くの道が実は作曲者とともに瞬く間に消滅することもまた、ありふれた事態であり、未来に居る人間は、 そんな道があったことすら忘れてしまって、少なくとも出発点においては、偶々自分の時代にまで延びている 道のみを頼りに過去への遡行を始めることになるのであってみれば、残った音楽の裡に、自分の時代に繋がる 何かを事後的に発見するのは、寧ろ約束されたことなのかも知れない。だが、それが進化を支配する淘汰の原理を 目的論的に解釈してしまう錯誤と異なるものであることの方もまた、ほぼ確実なことだろう。けれども注意しなくては ならないのは、もしかしたら文化的な領域というのは、そもそもがそうした過誤と不可分で、そうした過誤を惹き起こす 構造にいわば基礎付けられているかも知れないという点であろう。それが優れて「人間」の営みである由縁こそ、 そうした「目的論的図式」を支える時間性に存するからである。

それにしてもマーラーの場合は極端であったということはできるのではないか?クルト・ブラウコップフのあまりに 有名なマーラーの評伝は「未来の同時代者」という副題を持っていた。それ以外にもマーラーを未来の預言者に 見立てるキャッチフレーズは枚挙に暇がないだろう。バーンスタインは「彼の時代はやってきた」と題する文章を書き、 その冒頭を「マーラーの時代はやってきたのだろうか?」という問いで始めている。クーベリックはより端的に、 「マーラーの時代は来た。」と冒頭で宣言する。ブーレーズは「マーラーは今日的か?」という問いをタイトルに 掲げる文章を書き、その末尾で「音楽の未来についての今日的な反省にとって欠くことのできない存在」として マーラーを位置づけて文章を結んでいる。いわゆる流行現象を事後的に確認するというよりは、そうした身ぶりを 装って、実は対象としている流行現象の一部を為しているに過ぎない類の広告紛いのコピーや、そうした流行に 対して一見距離を装って、既に四半世紀も前から判りきった認識を今更のように唱導してみせることで、実際には そうした流行の後追いをしているに過ぎないような論説の類はおくとしても、マーラーの音楽が未来を予言する ような類のものであるというのは、広く共有された認識であるかのようだ。

予言という言葉の持つ或る種のいかがわしさには、予言の「内容」というのが、とりわけてもそれが現時点において 未来の事象を扱うものである場合、はなはだ曖昧で、事後的にその内容を評価しようとした時に、どのようにでも とれるようなレトリックが潜ませてあることが多いことに由来する側面があるだろう。だが、事後的な後追いの理屈の 場合ですら、多くの場合には流行現象を説明するべく、或る種の時代の雰囲気の如き、甚だ曖昧なものが 予めその音楽に表現されているといった類のものが多い。より具体的なものでは、恐らくはアルマの第6交響曲に纏わる 回想がいわば連想の起点となって、その音楽が象徴するものというより寧ろ解釈者がその音楽に象徴させたがっている ものをかわるがわるにあてがうことが繰り返し行われている。内容は家族やマーラー自身に起きた不幸といった私的な ものから、広島・長崎への原爆投下に至るまで様々で、不毛な「標題音楽」についての議論はおいて、それ自体は 紛れもないマーラーの音楽の音楽外のものへと関わろうとする志向がそうした解釈を呼び寄せていることは確かなことに見える。

何よりも生誕100年以降今日までのマーラー受容に決定的な役割を果たしたことについては議論の余地のない、 アドルノのマーラー論は音楽社会学的な視点を備えた内容であったし、既に触れたマーラー評伝の著者である クルト・ブラウコプフもまた音楽社会学者であり、下ってマーラー事典を編んだアルフォンス・ジルバーマンもまた然りで、 アドルノの視点が一般的な了解における音楽社会学の枠組みを逸脱するものであるとはいえ、単純な反映理論では ないにせよ、音楽作品が窓のないモナドのように時代を反映させるという発想に基づいてその音楽の観相学を 試みるという志向自体、音楽作品がそれを生み出した時代と無関係でありえないという了解に基づいたもので あるのを考えれば、マーラーの音楽自体にそうした解釈を誘う傾向があるのではと考えるのはごく自然な発想であろう。 勿論、そうした事態は別にマーラーの場合にのみ生じている訳ではなく、それは他の音楽についても言えることである という反論が一方では想定され、他方では、そこで問題になっているのは専ら音楽作品の(アドルノ的な意味での) 「素材」の音楽作品への影響であり、成立した音楽作品の持つ影響であったり社会的な機能ではないという 反論もまた可能だろうが、そうした反論を一旦認めてなお、マーラーの音楽に顕著な何らかの傾向が、 マーラーの音楽を「予言的」たらしめているということは言いうるであろう。

その一方で、狭義での音楽の歴史の展望の下においてもまた、マーラーと新ウィーン楽派とのある種特権的な 関係をもって、マーラーの音楽に次の世代の音楽の予兆を読み取ろうとする傾向が存在する。音楽そのものにとっては外的な 人的な交流の水準のみならず、マーラー自身の音楽の発展史を俯瞰してみれば、その中期以降の作品に新ウィーン楽派を 準備する要素を見出すことはそんなに難しいことではないだろう。そしてその影響の範囲は新ウィーン楽派に留まる わけではなく、新ウィーン楽派に由来するセリエルな発想に対する代替として出てきたコラージュ的な作曲法、 層的な作曲法、空間性の重視、音色の多様性や調律されていない雑音的な音響の組合せなど、マーラーとの影響 関係が議論される手法は少なくない。これまた後付けの理屈ではあるけれど、そうした作曲法のいわば先駆として マーラーを発見することは、そのままマーラーの音楽の「未来性」の証言であるという認識に繋がっていく。

マーラーの音楽そのものの時間性の方はと言えば、それは目的論的な構造を持っているが、外から与えられた(ということは 既に使い古された、ということでもあるが)図式が無批判に利用されることはなく、唯名論的にその都度形式が吟味され、 時には破綻が生じたようにも見え、時にはそれが或る種の別の構造へと作り変えられるといったことが生じる。 だが、目的論的な構図がなければそれらはそもそも機能しない。そして目的論的な構図というのは、少なくともマーラーの時代以降、 21世紀の現在に至るまで、マーラーが聴かれるような文化的・社会的な空間における存在論的な基本構造である。 ジュリアン・ジェインズが構想したような意識の考古学のような射程においては、それは必ずしもある時代の反映ではなく、 もっと長期的な(ただしそれが地球上の人間の在り方として多数派であるというのは、単なる思い込みである可能性が 高いことは念頭においておいた方がいいだろう)存在論的な「時代」を通じて見られる一般的な構造であるだろうが。 だが、ある時期以降、マーラーははっきりとアナクロニスムになった可能性もまた考えてみるべきだろう。確かにある文化に属する あるジャンルの中の展望としては、それはこの半世紀、流行現象と言って良いほどの受容がなされたのは確かだろう。 だが、その外部の広がりの大きさを考え、更にそれがマーラーの時代以降、だんだんと大きくなり、ますます大きくなっていくで あろうことを思えば、マーラーの音楽を聴くこと自体が最早時代にそぐわない、アナクロニックな行為と見做されるのではないか。 確かにいわゆるコンサートのレパートリーとしてはある時期以降、あくまでも相対的に順位を上げ、演奏頻度が上がってきている のは確かだが、それが今日演奏されるの意義が、マーラーの生前、例えば1910年の第8交響曲の初演の持つ意義と 比べて、あるいはまた、第二次世界大戦後のウィーンで再びマーラーの作品が鳴り響いた折の意義と比べて、その頻度と アクセスのし易さに応じて大きくなったとはいえないのではなかろうか。そもそも自分は何故マーラーの音楽を聴くのか? もしかしたらそれは、今や絶滅に危機に瀕しているかも知れない存在の様態を擁護し、その意義を信じて投壜通信を 行うためではないのか?

勿論、マーラーの音楽が聴かれなくなる未来というのを想定することはできるだろう。否、同じ時代に生きていながら、 マーラーの音楽とは無関係に生きている人間の方が圧倒的に多いことを考えれば、マーラーの音楽が聴かれる場というのは、 常に既に極めて限定されたものであったし、今でもそうだし、恐らく将来もそうであるに違いない。ジュリアン・ジェインズの二院制の心に おける意識の考古学が告げるように、マーラーの音楽は、過去のある時期より遡っては存在しえなかっただろうし、未来のある時点、 ポスト・ヒューマンの時代には、マーラーの音楽は既に絶えて久しい、かつて「人間」と自己規定した存在の在り方を証言する 考古学的な遺物となる可能性だってあるだろう。だがその時には、そもそも音楽自体が今のままではありえないのではなかろうか。 例えば三輪眞弘さんが「感情礼賛」で仮構したような事態を思い浮かべてみれば良い。そこでは「音楽を一人きりで聴く」という こと自体が最早不可能であるに違いないのだ。そしてその時は、同時にマーラーの音楽は最早如何なる意味においても 「未来」とは関わりのない、化石のような記録に過ぎないものとなるだろう。だが、その時にはこの私は、マーラーの音楽よりも更に 儚く堆積の下に埋もれ、かつてあった痕跡すら喪われ、端的に無に帰しているに違いない。マーラーの音楽なき未来は、だから 私にとっては端的に存在しない。私よりもマーラーの音楽の方が永続的なのだ。してみれば、マーラーの音楽は、こと私に限って言えば、 常に未来に在るといってもいいのかも知れない。ただしそれは、マーラーの音楽が、かつて未来であった今日を予言していたという意味合いでは 全くない。寧ろマーラーの音楽は、その個別の作品の時間性の裡においてそれ自身の未来を(仮にある時には幻滅の下、断念されたものとして であったとしても)志向するのだ。

(2013.4.23,27, 2025.1.16 改題の再公開)

2024年12月5日木曜日

妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡にある「作品」に関するマーラーの言葉(2024.12.5 更新)

妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡にある「作品」に関するマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.356, 白水社版酒田健一訳p.398)
... was wir hinterlassen, was es auch sei, ist nur Haut, Schale etc. Die Meistersinger, die Neunte, der Faust, alles sind nur abgstreifte Hüllen! Nicht mehr als was im Grunde genommen unsere Leiber! Nun freilich sage ich nicht, daß das Schaffen überflüssig sei. Es ist dem Menschen nötig zum Wachsen und zur Freude, die auch ein Symptom der Gesundheit und Schaffenskraft ist. ...

…われわれが後世に残すものは、それがなんであれ、外皮、形骸にすぎない。『マイスタージンガー』、『第九交響曲』、『ファウスト』、これらはすべて脱ぎ捨てられた殻なのだ!根本的にはわれわれの肉体以上のものではない!もちろんそうした芸術的創造が不用な行為だというわけではない。それは人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないものだ。とくにこの歓喜こそは、健康と創造力の証(あかし)なのだ。…

 この言葉のみをこの手紙から抜き出すのは危険なことかも知れない。手紙というのは、極めて局所的で限定的な、だがその限りでは大変に明確な 目的を持って書かれることがあって(いや、正確には、普通はそういうものか、、、)、従って、こういう言葉を取り出してきて、そうした手紙の意図を 抜きにして云々することは、原理的に言って、全く見当違いの結論にすら結びつきかねない。

だが、かつてこの本を繰り返し繰り返し読んでいた頃の私にとって、この言葉は衝撃的な力を持つものであった。そして、実際にはその力は今の 私にとってもやはり大きなものであり続けている。歳をとって、多少は受け止め方も変わってきてはいるけれど。

それにしても、この言葉は、本気で―つまり「方便」としてでなく―言われているのだろうか? 

実は、この手紙の前の方で、こうした「作品」についての考え方をアルマはすでに良く知っていると 思う、というくだりがあって、だとしたら、やはりこれは、少なくともその当時のマーラーの考え方だったのだ、とするのが適当なのかも知れない。 私のような、自分では何も生み出せない人間が言うのであれば、別にどうということもない―負け惜しみくらいに取られるのが落ちだろう―が、 言っているのがマーラーであれば、話は別ではないだろうか。あるいは寧ろ、天才であればこそ、こうしたことが言えるのだろうか。

もう一つの可能性がある。つまりマーラーは第2交響曲や第8交響曲を支えている「不滅性」についての考え方を、比喩としてではなく、「文字通り」 信じている、という可能性が。それならば、それに比べれば「作品」が取るに足らないというのも、きっと筋が通っているのであろう。 だが、現実にはこの時期のマーラーは、大地の歌から第9交響曲へと歩みを進めていた筈なのである。

あるいはまた、ここで言っている「作品」は、それを出発点として、作者の「精神」へと辿ることができる媒体といったほどの意味合いで使われている のかも知れない。作品を産み出す精神の働きの方が尊いのだ、というのであれば、これは納得がいく。だが、よく読むとそれは少し都合の良すぎる 読み方ではなかろうか。マーラーは「われわれの肉体」と「作品」とを対比しているのだ。するとやはり、最初に書いた通り、結局この手紙が書かれた ごくローカルな「意図」に立ち返るべきなのか、、、

いずれにしても、この言葉は私にとって「躓きの石」であり、今後も、この言葉を巡ってあれこれ考え続けることになりそうである。

だが、作品が抜け殻に過ぎないということばを理解するための手がかりとして、一つだけ、ある情報の「深さ」に関する近年の考え方に目くばせしておくことにしよう。それはマーラーの同時代から始まった(例えばポワンカレやマクスウェルを思い浮かべて頂きたい)複雑性や情報についてのアプローチが大きな進展を示し、深化を続けている21世紀に生きる者が拾い上げた壜の中味を解読するための重要な手がかりの一つなのではないかと思えるからである。

ある作品の持つ「深さ」はどのようにして測る事ができるのか。伝記主義的な実証はそれが生み出された背景をなす 環境を指し示しはするが、作品を、作品から受け取ることができるものを何ら明らかにしない一方で、形式的な分析もまた、 それ自体「痕跡」であるメッセージの、情報伝達の形態のみを問題にし、ノーレットランダーシュが『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(柴田裕之訳, 紀伊国屋書店, 2002)で述べるところのexformation、 メッセージが生み出される際に処分され、捨てられた情報(更にはベネットの「論理深度」とか、 セス・ロイドの「熱力学深度としての複雑性」もまた思い浮かべていただきたい)を扱うことができない。 勿論、形態の美しさ自体が、その深さと密接に関係するということもあるだろう。マクスウェル方程式にたいしてボルツマンが 発したことば、ゲーテのファウストの引用、更にはマクスウェル自身の言葉「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、 私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」ということばを思い浮かべるべきだろう。 そしてまた、マーラー自身もまた、それに類する発言をしていること、「…が私に語ること」により作品を創り上げたことを思い起こすべきであろう。そのとき差出人たる幽霊とは一体何者だろうか。ダイモーンの声、ジュリアン・ジェインズの二院制の心の「別の部屋」からの声。 情報を捨てるプロセスそのものを事後的に物象化したものを幽霊と呼んでいるのだろうか。「抜け殻」としての作品。 そして捨てられた情報の大きさは、受け取るものがそこから引き出すことができる情報の豊かさに対応しているに違いない。

人の一生を超える時間の隔たりと、地球を半周の場所の隔たりを乗り越えて、 だが、実際にはそうした距離の測定を無効にする印刷技術が可能にした記譜法のシステムと 録音・再生のテクノロジーに支えられて、ふとした偶然によって耳にすることによって、マーラーの音楽を私は拾いあげ、それらに耳を澄ませる。それらは事後的に差出人を指示するが、それは常に痕跡としてでしかない。 私の裡にこだまするのは常に既に幽霊の声なのだし、作品は「抜け殻」に過ぎないのではなかろうか?

かくして21世紀に生きる私は、マーラーの言葉を、上述のような情報についての考え方に照らして了解すべきなのではないか。そして更にこの考え方は、意識は「抑制」であり、「引き算」で引く部分にあたる(津田一郎、松岡正剛『科学と生命と言語の秘密』, 文春新書, 2023, p.287)という考え方を接続することが可能ではなかろうか。かくして一見したところ謎めいたマーラーの言葉は、「意識の音楽」たるマーラーの音楽の秘密に迫るための鍵であるようにも思えてくるのである。
(2007.5.17, 2024.11.25,12.5 加筆更新)

2024年6月29日土曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽についてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽についてのマーラーの言葉(1984年版原書p.138, 1923年版原書p.119, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.301-2)
(...)"Die Musik muß immer ein Sehen enthalten, ein Sehen über die Dinge dieser Welt hinaus. Schon als Kind war sie mir etwas so Geheimnisvoll-Emporttragendes, doch legte ich damals mit meiner Phantasie auch Unbedeutendes hinein, was gar nicht darinnen war." (...)
(…)「音楽は、常にある憧憬を含んでいなくてはならない。それは、この世界の事物を越え出ようとする憧れだ。すでに子供の頃から、音楽は僕にとって何か謎のような、僕を高みに連れていってくれるようなものだった。でも僕は当時、想像力によって、音楽の中になどまったくないような無意味なものまで、そこに押し込んだのだ。」(…)
この言葉はナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録のSommer 1899 8. Juni - 29. Juli の章、Auf Bergeshöh(山の頂で) の節に含まれる。(1923年版には 22. Juli という日付の記載があるのだが、 1983年版では削除されており、1983年版に基づく邦訳にも当然日付の記載はない。削除の理由は詳らかでない。)この日、彼らはPfeiferalmに登り、その頂きにある小屋のヴェランダでの 言葉として記録されている。よくあることで、マーラーは突然こうした言葉を語ったのであろう、バウアー=レヒナーはどうしてそこでこうしたことをマーラーが語ったのかわからないと付記している。
 
だが私がこの言葉に初めて接したのは、実はナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録ではなく、アドルノのマーラー論の中での引用によってではなかったかと思う。ただしアドルノが引用したのは 最初の一文のみであるが(I. Vorhang und Fanfareの最後のパラグラフ、Taschenbuch版全集第13巻p.165,邦訳(龍村訳)では p.23)。アドルノがこの言葉を引用した文脈はそれは それで興味深く、そうした憧れの表現が、世の成り行き(Weltlauf)を正当化する装飾と化す事無く、他なるものの他性を損なうことなく、見失われたもののうちに見つけるのでなければならないというように続く。 (このあたりをレヴィナスの超越論・他者論と突き合わせる作業は、そのいずれもがヘーゲルの現象学に対する読解なのであってみれば、非常に興味深いものとなるであろう。) 日曜作曲家、休暇の作曲家であり、世間的には歌劇場の監督であったマーラーは単純に世の成り行きを拒絶したのではない。実際の動機は何であれ、彼は日々の糧を得るべく、 身をすり減らし、自分の時間のほとんどを費やしたけれど、その最中、合間を縫うようにして音楽を書き続けた。意地悪な見方をすれば、実は件の憧れは「私はこの世に忘れられ」という 題名がいみじくも告げているように、そうした日常からの逃避だったのではないか、結局のところマーラーの音楽とて、本人にとっては楽長殿のはた迷惑な道楽であり、所詮は娯楽に 過ぎないのでないかと疑ってみることもできよう。実際、アドルノの発言を裏返したように、例えばハンス・マイヤーは(多少異なった文脈でだけれども)、マーラーの音楽は日曜宗教みたいな もので、装飾品ではないかという発言をしていたりもする。(Rainer Wunderlich刊行のマーラー論集に収められた"Musik und Literatur"の特にp.152以下。邦訳は酒田訳「マーラー頌」p.361以下。) マーラーがこの言葉を発した状況は、私には例えば第6交響曲第1楽章展開部後半の、アドルノのカテゴリーではSuspensionにあたるブロックを思い起こさせるが、マイヤーの手にかかれば 自然に対するマーラーの態度も同断であって、ディレッタント的な簒奪者ということになってしまう。だが、一見したところ対立するように見えるマイヤーの主張の結論はアドルノのそれと、少なくとも 決定的に背馳するものではない。マイヤーは「大地の歌」が「第2交響曲」の撤回であり、カフカやシャガールを引き合いに出しつつ、マーラーの芸術には救済が拒まれていると述べているのだから。
 
しかしここではアドルノやマイヤーの所説を検討するのは控えることにしたい。それよりも私にとって気になることは、マーラーの音楽を1世紀後に「消費」している私は、それでは一体何なのだ という点である。かつて中学生であった私がそう思ったように、私もまたディレッタント、簒奪者ではないのか。そうでないような立場が可能なのかは、現在の私にも未だ判然としないのだ。 お前に一体何がわかるんだと問い詰められれば、私には返す言葉がないのははっきりしている。まるで(これまたアドルノがマーラー論で引用した)カフカの「審判」のヨーゼフ・Kのように、 マーラーの角笛歌曲に歌われる「ひかれもの」のように。
 
けれども実は、寧ろそうであるからこそ上記のマーラーの言葉に、そしてその言葉を決して裏切らないマーラーの音楽に私は強い共感を覚えるのかも知れない。悟った人から見れば、こうした私のスタンスは 悪あがきに映るだろうし、そうした人にとってはもしかしたらマーラーの音楽さえ、そうした悪あがきのサンプルということになるのかも知れない。だがそれならそれで、ここでコミットメントが生じているのだ。 きっとマーラー自身がそうであったように、かの如き憧れなしに「世の成り行き」に身を浸すのは耐え難いことだけれども、だからといってそれは単なる息抜き、娯楽であるわけではない。 再びマーラー自身がそうであったように、それがある種の目的論的転倒であるにせよ、「神の生ける衣を織る」こと、為し能うかどうかは定かでなくとも、そのように努めることをせずには いられないのだ。マーラーの没後、「マーラーが何から救われたいと思っていたのかわからない」、と冷静で怜悧なリヒャルト・シュトラウスは語ったといわれるが、是非はおくとして、とにかく 私がマーラーとともに愚かさの側にいるのは確かなことのようだ。
 
そうした私にとって、上に掲げたマーラーの言葉はある種の「モットー」のような重みを持っている。勿論、音楽家ならぬ 私にとって主語は音楽には限定されない。でも序列の違いはあれ、マーラーだってそうだったろうし、私の側ではマーラーの音楽が上記のモットーに合致したものの一つであることは確かだ。 否、逆にそうした志向を子供だった私に与えたのはマーラーの音楽の方なのかも知れない。音楽を聴くのは気晴らしなどでは決してなく、ある種の感受の、認識の様態を感受することに よって自らの裡に受容し、刻印することに他ならない。そうしたプロセスの結果として、比喩でなく文字通り、私は少しだけマーラー「である」のだ。かくして アドルノの印象的な言い方を借りれば
So mag ein Halbwüchsiger um fünf Uhr in der Früh geweckt werden von der Audition eines überwältgend niederfahrenden Lauts, auf dessen Wiederkunft zu warten der, welcher ihn eine Sekunde zwischen Wachen und Schlaf gewahrte, niemals mehr verlernt. (Taschenbuch版全集第13巻p.153 )
このように、十代半ばの子供は人を圧するように打ち降りて来る音を耳にして朝五時にたたき起こされるのかもしれない。その音を夢うつつにほんの一瞬耳にした者は、それがもう一度やってくるのでは、と期待するのを決して忘れはしない。(邦訳(龍村訳) p.6)
ということになる。否、それは単にジェインズの言う「別の部屋」からの声に 過ぎないのかも知れない。だが例えばラマヌジャンが公式を見出したのはそうした声に導かれてではなかったのか。マーラーが「書き取らされた」のはそうした声に導かれててではなかったのか。 「全世界が映し出されるような巨大な作品においては、人は宇宙が奏でる1つの楽器に過ぎない」という言葉もまた同様に、マーラーの時代においてすら過去のものとなっていたロマン主義的な 意味合いではなく、そうした意味合いで文字通りに受け取られるべきなのだ。マーラーの音楽をそれが出てきた背景に還元して理解するが如き姿勢は、マーラーが上掲の言葉で語ったような 志向に対する背馳ではないか。そうした姿勢が「今こそマーラーの時代が来た」などという厚かましい呼号と対になっているのは、そこに存在する遠近法的錯誤の甚だしさを証言するものだろう。 マーラーが「音楽によって世界を構築する」、と発言したのを、その言葉のみではなく、実際に彼が為し得たことによって測ろうとするならば、比喩ではなく、文字通りに、だが肥大したロマン主義的 主体の妄想としてではなく、主体の背後にあって主体を構成している動的な構造を含めた上での環境と有機体の相互作用のあり方として、実践的な仕方での「世界」(だが、ここでいう世界は 一体どこから始まるのだろうか?)との関わり、解釈学的過程としての音楽のあり方を述べたものとして捉えるべきなのだ。生誕100年の時点でアドルノは、マーラーの音楽は形式的な楽曲分析に よっても標題によっても充分には解明されえないと述べたが、寧ろマーラーの音楽を分析し、その構造を記述するためのデバイスは半世紀後の今日においても未だ準備されておらず、 今後の脳神経科学や意識の科学の発展とともに、ようやく少しずつ的確な記述が可能になっていくのではないのか。本格的なマーラーの音楽の観相学はまだ可能になっていないのではなかろうか。
 
勿論そうした観点から帰結するところもまた、結局のところ人間は自分の行動様式という監獄からは自由になれない、ということに過ぎないのかも知れない。 賽を投げるのも、スピノザの自由意志についての議論よろしく、自分がそちらに向けて投げているのではなく、そう投げるように仕向けられ、馴化されてしまっただけなのかも知れない。 (もっともそうした意識の受動性に対する認識が、意識下で行われている活動についての意識が存在するという事実に基づく違いは残るし、マーラーの音楽はとりわけてもそうした 意識の構造のある種の反映となっている点で際立っていると思われるのだが。)それでもともかく、ein Sehen über die Dinge dieser Welt hinausが自然主義的な 展望の下で「どこ」に位置づけられるにせよ、あるいはマーラーの音楽の本格的な観相学のため準備が未だ整っていないとしても、そうした志向を共有するものにとって、 マーラーの音楽はこの上ない同伴者であるには変わりはないと私には思われる。(2009.12.19, 2024.6.26,29 邦訳を追記。)

2024年6月26日水曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:創作プロセスについてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:創作プロセスについてのマーラーの言葉(1984年版原書p.163, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.132-3)
(...) "Denk dir, die Stellen, welche ich bei der Arbeit nur geschwind, interimwiese hinschreibe, um weiterarbeiten zu können - von denen ich annehme, ich werde sie dann streichen oder ganz ändern -, dir erweisen sich nachher als die besten: als so wichtig und notwendig, daß ich, ohne zu schaden, keine Note hinzutun und keine wegnehmen kann.
Noch seltsamer ist es mir bei einem Passus ergangen, mit dem ich gar nicht ins Reine kommen konnte und der mich die letzten Tage schrecklich quälte. Da ruft mir heute im Schlaf eine Stimme zu (es war die Beethovens oder Wagners, mit denen ich jetzt überhaupt - keine üble Gesellschaft! - nächtlichen Umgang pflege): 'Laß doch die Hörner drei Takte später einfallen!' Und damit war die Schwierigkeit aufs einfacheste und wunderbarste gelöst, daß ich meinen Augen nicht traute!"

 (…) 「ねえ、僕がただ仕事を先に進めるために、一時しのぎに速く書きとばした箇所――いずれ削ってしまうか、そっくり書き変えてしまうつもりでいた箇所――が、後になってみると最高の出来である、ということがあるものだ。それを傷つけずには、音符ひとつでも付け加えたり、削ったりすることができないほどに重要かつ必然的である、ということがね。
ある一節では、もっと奇妙なことが起こった。僕は、そこがすっきりせずに、このところひどく悩まされていたんだけれど、きょう眠りのなかで、ある声が僕にこう呼び掛けてきたのだ。(それは、僕がこのごろ夜毎に付き合っている――といっても、悪い仲間じゃないよ!――ベートーヴェンかヴァーグナーの声だった。)『ホルンが三小節おくれで出てくるようにしなさい!』このことで難題が実にあっさりと、見事に解けてしまったのには、自分の目を疑ったよ!」

これは「マーラーのエッカーマン」ことナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録のアッター湖畔シュタインバッハの1896年夏の章に含まれる、自身の創作プロセスの経験をマーラーが語った言葉である。前後の脈絡から明らかなように、この時マーラーは第3交響曲の作曲の最中であり、上記の言葉もその途上で起きたことであろう。 なお理由は詳らかにしないが、この部分は1923年版には含まれていない。「故郷と少年時代について」という日付なしの回想の記録のあと、「作曲と楽器付け」という7月16日の日付つきの パラグラフの前に、7月10日という日付つきで、だがタイトルはなしで、その日の午後、自転車でウンターアッハに同行した折にマーラーが語った言葉として収められているのである。

 
上記の証言はマーラーの創作プロセスにおける無意識の力と、それをマーラー自身がはっきりと認識していたことを証言する記録として貴重なものに感じられる。創作のプロセスの あり方は人それぞれだろうし、マーラーその人とて、これが全ての作曲に当て嵌まるわけではないだろうが、にも関わらず、こうしたことが起きたという証言は、一方ではマーラーにおける創作の あり方を端的に証言するものであろうし、他方では例えばジュリアン・ジェインズの二院制の心についての主張を裏付ける証言のリストに追加することができるだろう。
 
ジュリアン・ジェインズは、創造的思考には幾つかの段階があると述べている〈柴田訳「神々の沈黙」紀伊国屋書店, 2005, p.58〉。第一の準備段階で問題が意識的に検討され、 続く孵卵期には問題に意識的に集中されることなく、突如として解明が訪れ、後付けで正当性の論証がなされる。マーラーの証言を、ジェインズが傍証として引用している ヘルムホルツ、ポワンカレ、アインシュタインといった面々の証言に追加することは全く容易なことに思われる。(ちなみにここで引用されている証言の主がマーラーの同時代人であるのは興味深い。 とりわけヘルムホルツはマーラーと同じ街に住んでいたこともあり、マーラーを知っていたし、物理学に深い関心を抱いていたマーラーはヘルムホルツの学説にも強い関心を抱いていたことが 書簡などから窺える。またマーラーが特に親しかった物理学者のベルリナーはアインシュタインの友人でもあった。)3つのB、すなわちバス、風呂、ベッドが発見がなされる3つの場所だという 言葉に、己の経験に照らして納得する人は多いだろう。なお「声」がベートーヴェンやワグナーといった、彼にとっての規範的な存在の姿を纏っている点もジェインズの主張と一致する。 勿論、フロイト風に、一方ではエスの働きがあり、他方で超自我の声がある、というような説明も可能だろうが、寧ろ近年の意識についての見解のように、より広いパースペクティブの中に 位置づける方が一層興味深い。
 
マーラーの場合に興味深いのは、にも関わらず意識の働きがその音楽に痕跡として残されているかに感じられる点だ。マーラーはいわゆる技能として身体化された次元だけで音楽を 書いたわけではない。だが一方で意識的な「意図」が技法を選びとったというような説明ではマーラーの場合を説明したことにならない。マーラーの場合にしばしば問題になる「標題」に ついての議論もこのことと関係している。「標題」に従って音楽を編んでいったのではなく、編まれた音楽を事後的に説明するものとして「標題」があるのだ、とはこれまた本人の 証言だが、してみれば編まれた音楽に事後的な説明を付加することが可能になるような意識と無意識の往還がマーラーの場合にはあるのだ。そしてこうした機制はマーラーが表面的には「標題」を 拒絶した後も基本的には変わらなかった。その延長線上に、シェーンベルクがプラハ講演で述べた、あの第9交響曲についてのコメントが存在するのである。「内的な標題」という言葉に囚われて そうした標題を探索するのはホワイトヘッドの言う「具体性の履き違えの誤謬」である。マーラーが好んだといわれるショーペンハウアーの「思考は言葉で具体化された瞬間に死ぬ」という言葉を 思い浮かべるべきなのではなかろうか。
 
そのようなことを考えたとき、マーラーがアルマ宛の書簡で晩年に語った「作品は抜け殻に過ぎない」という言葉が別の意味を帯びてくるように思われる。恐らくマーラーは「ファウスト」のゲーテの 顰に倣い、「初めに行いありき」〈第1部1237行〉、「絶えず努め励むものを我々は救うことができるのです」〈第2部11937行〉といった言葉を念頭において語っているに違いない。音楽作品も また具体化された思考、思考の痕跡に過ぎないのかも知れない。だが意識のやっていることが情報の処分であり、情報の圧縮の過程で生じる「深み」こそが作品の価値の源泉なのだとしたらどうだろう。 作品の「如何にして」は、その作品が生み出された思考と切り離して論じることは困難だから、その意味で思考が作品に優越するということができる。だが情報を如何に処分するか自体が 背後の思考と無関係ではありえないとしたら、作品はその処分の仕方の「如何にして」の分だけ、その作品の背景となった思考を超え出ている。
 
作品の価値が中立的・自律的なものではないのは、作品の解読の過程についても同様だ。作品がどのような価値を持つかは聴き手がその作品からどのような情報を展開・構築しうるかにかかっている。 勿論それは作品の「如何にして」と独立ではありえないが、聴き手の側にも多くのものが課せられているのだ。押し付けられた不完全な標題に囚われ、作品が含み持つ豊かさに背を向けて、受け取った 情報を恣意的に処分してもう一度「言葉」を取り出すことに一体どのような意味があるのだろう。作品が生み出された文脈を渉猟し、あたかも「正解」に辿り着こうとして様々なものを排除する そのプロセスは「抜け殻」から更に色褪せ、次元の縮退した欠片を取り出す不毛さと貧困に行き着くことにしかならないのではなかろうか。
 
確かに作品は抜け殻に過ぎないかも知れない。だが、それは同時にそれ自体、神の衣でもあるのだ。マーラーの音楽は、聴き手がある瞬間に別の部屋からの声を聴くことを可能にするような類のものなのだ けれども、それは当然、ここで参照したマーラーの創作のプロセスでの「別の部屋からの声」と、同じものなくても、無関係ではありえない、同相のものであるに違いない。 (2010.5.5, 2024.6.26 邦訳を追記。)

2023年10月29日日曜日

[お知らせ]『配信芸術論』刊行について

 三輪眞弘:監修、岡田暁生:編『配信芸術論』がアルテスパブリッシングより、2023年10月25日に刊行されました。詳細は以下の出版社の公式ページをご覧ください。

https://artespublishing.com/shop/books/86559-282-5/

 


 本ブログ管理者も、2019年4月~2022年3月に実施された京都大学人文科学研究所の共同研究「「システム内存在としての世界」についてのアートを媒介とする文理融合的研究」に参加させて頂いた経緯より、論考「二分心崩壊以後・シンギュラリティ以前の展望から見たライブの可能性」を寄稿させて頂いており、その中でマーラーの音楽についても触れています。更に参考文献に本ブログを含めている他、注において個別に参照している本ブログの記事として、「デイヴィッド・コープのEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣についての覚え書」 および「音楽を一人きりで聴くこと:マーラーの場合」の2つがあり、本ブログの内容とも多くの接点がある内容となっていますので、ご一読頂ければ幸いです。なお三輪眞弘さんの活動については、本ブログの姉妹ブログ、『山崎与次兵衛アーカイブ:三輪眞弘』をご覧ください。(2023.10.19, 20公開, 10.26更新)

2022年5月16日月曜日

デイヴィッド・コープのEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣についての覚え書(2022.5.16更新)

 2019年7月刊行ということなので、もう2年半も前のことだが、 EMI(Experiments in Musical Intelligence)システムという自動作曲のコンピュータ・プログラムの開発者であるデイヴィッド・コープの著書Computer Models of Musical Creativity(音楽的創造性のコンピュータモデル)の邦訳が出版されていることに最近気づいて、慌てて取り寄せてざっと一読したのは既に1ヵ月程前のことになる。その全体を紹介するだけの余裕はそもそもなく、仮に出来たにせよこのブログはそれに相応しい場ではなかろうが、MIDIデータを用いたマーラー作品の分析を少しずつ進め、その結果を公開したり、第10交響曲の補筆完成に関連して人工知能に言及してきたこともあって、上掲書についてもマーラーとの関わりに限って今までに知りえたことについての紹介をしておきたい。

 邦題は『人工知能が音楽を創る 創造性のコンピュータモデル』(音楽之友社)で、原著の題名は邦訳では副題の方で言及されていることになる。自動作曲は、人工知能の研究が始まったばかりの頃以来の研究テーマであり、人工知能で用いられる手法もルール・ベースのアプローチから、蓄積された事例に基づくデータ駆動型プログラム、生物の進化における選択・淘汰のモデルのアナロジーに基づく遺伝的アルゴリズム、ニューラルネット、更にはファジー論理のような確率モデル、力学系に基づくシステムに至るまで様々であるから、自動作曲を行うコンピュータ・プログラム=人工知能と考えれば、邦題は非の打ちどころなく正当なものだということになろうが、深層学習がもたらしたブレイクスルーによって到来した今日の何度目かの人工知能ブームにおいて流布しているイメージからすれば、ミス・リーディングとまでは言わないまでも、マーケットを意識したキャッチ―な題名のように感じられる。

 ただしこの印象は、私がかつての人工知能、ブルックスによってGOFAI(Good Old-Fashoned AI)と呼ばれた記号処理ベースの人工知能システムに、産業応用を生業とするエンジニアとして多少なりとも関わったことがあって、その時に人工知能研究に対して抱いた違和感に似た感覚を、今頃になって感じることになったという個人的な事情による部分が大きいように感じる。それにしてもブルックスがサブサンプション・アーキテクチャをもって記号処理ベースのAIに異議申し立てを行ってからでさえ既に四半世紀が過ぎようとしており、その間にそれまではタブーとされた意識や心について論じることが当たり前になっていることを思えば、ここでのコープの立場は情報工学的研究としては申し分ないかもしれなくとも、些か保守的であるという印象を拭い難い。注意深く選択されたコープによる創造性の定義は或る意味では非の打ちどころがないが、チェスのようなゲームを例として説明される創造性が、音響のパターンの組み合わせ方の選択という、多くの場合、必要条件ではあることは認められるかもしれなくても十分条件であるかどうかは極めて疑わしい側面に「音楽」を還元してしまっていることがもたらすであろう帰結についてコープは無頓着に見える。彼によれば創造性には意識は勿論、知性も不要だし、生命すら不要であるというのだが、それは検証可能な仮説というよりは、寧ろ信念に近いものに感じられる。結果としてコープがやっていることは、創造性を自分の信念によって定義して、その定義に沿った出力を計算するシステムを開発し、動作させた結果をもともとの信念による定義に照らして創造的であると言い募ることとの区別が限りなく曖昧になってしまっているように感じられてならない。コープはコンピュータが生成した作品を人は真っ当に聴こうとさえしないと不満を募らせるが、そうした態度を招来する原因の一端は明らかに、特定の作曲家の様式の模倣を行うという彼が自ら選んだやり方に起因している筈である。コープは模倣の元となった作品と生成された作品を比較すれば、生成された作品のオリジナリティがわかるという言い方をするが、端的に言って、そういう比較を聴取に持ち込むこと自体が対象を「音楽」として受容することと相容れないことにコープは気が付いていないようだ。

 だがそうしたコープの見解について検討を行い、きちんとした批判を行う作業を行うだけの余裕が今はないので将来の課題とせざるを得ず、そのかわりにここでは端的に、コープが開発したEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣について、後日の検討のための覚えを記しておくことにしたい。非常に肌理の粗い言い方になるのを承知の上で敢えて言えば、コープのような立場は、或る様式に従った音響パターンとしての作品の職人芸的な生産という音楽制作の或る局面においては一定の有効性を持つだろうが、それはマーラーの作品が位置づけられる局面とは最も疎遠であると私は以前より考えてきたし、今でもそう考えている。であるが故に、コープがよりによってマーラーを様式模倣の対象として選択したことに酷く驚き、『人工知能が音楽を創る』に付録Aとして付されたEMIによる作品リストに含まれる様式模倣の作曲家の中で、マーラーが特別な地位を占めていることに当惑し、その理由を突き止めようという衝動を覚えたのであった。以下は将来その作業に着手するための備忘として書き留めておくものである。

 『人工知能が音楽を創る』の中で最初にマーラーが取り上げられるのは、第5章、コープが創造性の一翼を担っていると考えている「引喩」についてのところである。最初に「フレームワーク」の節で第4交響曲第1楽章の冒頭主題の上部構造としてヘンデルのメサイア中の或る旋律を指摘するレオナルド・マイヤーの見解が参照され、続いて第9交響曲第4楽章の序奏部分の音型、ドレスデン・アーメンの例としての第1交響曲第4楽章の一部、第5交響曲第1楽章冒頭のファンファーレ、「子供の死の歌」第2曲のトリスタン音型が参照される。マーラーの音楽に様々な先行作品の「引用」を指摘すること自体は寧ろありふれたことであるから、ここでマーラーがサンプルとして取り上げられること自体に不思議はない。一方で、コープの定義する創造性の観点からすると、ここで「引喩」と呼ばれているものが或る既存の特徴的な音響パターンの再利用以上のものであるかどうかは自明ではないだろう。コープは最後の「子供の死の歌」第2曲の引用に関して、よりによって(と私には思えるのだが)マーラーの伝記的事実を参照してみせるが、それがコンピュータの創造性の探求という文脈においてどう正当化されるのかについては些かも明らかには見受けられない。繰り返しになるが、何しろコープによれば創造性には生命は不要なものなのだから、子供の死など関係がない筈だし、ましてや作曲者の娘の死が作曲者に与えた影響を論じることが創造性の構成要素としての「引喩」に関わる筈がないではないか。そのレッテルの正当性についての議論を一先ず措けば、或る種の誤解に基づくにせよ「自伝的作品」といったような規定が為される類の音楽は、コープの定義する創造性からすれば最も縁遠いものの筈である。

 だがコープのEMIによる模倣においてマーラーが単なるサンプルに留まらない或る種特別な地位を占めていることが、最終章である12章「美学」に至って明らかになる。この章の冒頭では、コンピュータが作曲したという知識が聴衆の作品の受容の態度を予め規定してしまい、まともに評価されないのはどうしてかについての検討が行われる。そこで例として取り上げられるのがEMIによるマーラーをタイトルロールに持つ「オペラ」の自動作曲なのだ。そしてそれが美学的インタラクションとどう関係するかは措いて、コープはオペラ「マーラー」についての説明を(コープ自身の並々ならぬ思い入れも含めて)延々と行い、その中のアリアの1曲についてはヴォーカルスコアではあるが、まるまる1曲全体の譜面を提示しさえするのである。ここでのコープの議論の進め方について気になる点を書き出し始めればきりがないことになるので、ここでは控えることにするが、例えば、

「(…)オリジナル曲とオペラ中のパッセージとを比べると、後者は引用というよりは言い換えに近い。私は通常このような模倣は好まないが、マーラー自身は好んで自作を引用したから、ここでは気にしないことにする。」(邦訳 p.366)

という一節を取り上げると、「引用というよりは言い換えに近い」模倣が、マーラー自身の(言い換えならぬ)自己引用によってどうして正当化されるのか、読み手は途方に暮れることになる。これだけなら単なる揚げ足取りの類と見做されてしまうかも知れないが、少なくとも私には、コープのようなアプローチを採ることと、その素材としてバロックや古典期のような一定の様式に基づく作品が職人芸によって量産された時代の作品ではなく、よりによってマーラーの作品を取り上げることの間には乗り越え難いギャップがあるように感じられる。

 これも皮相な一例に過ぎないかも知れないが、歌劇場監督、オペラ指揮者としてあれほど優秀であったマーラーが、最初期の学生時代の試みと、ヴェーバーのオペラの補筆を除けばオペラの作曲を手掛けることが決してなかったことは良く知られているし、そのことの理由についても繰り返し考察されてきた事柄であり、コープ自身「彼自身オペラを作曲することはなかった」(p.365)と認めながら、そうしたマーラー本人をタイトルロールとしたオペラを、「自分自身の特別な好み」(ibid.)に基づき、「自分が聴きたかった」(ibid.)から作ろうと思いつくこと自体私には理解し難い。百歩譲って或る種のアイロニーとしてとか、或いは返す刀でオペラのコンセプト自体も脱構築する(これも前世紀ならともかく、21世紀の今日では今更な感じが否めないが)とかいう観点でもあれば別だが、何より決定的なのはそうしたオペラをよりによってマーラーの書法の模倣によって作ろうというのだから最早返す言葉がない。序でだからもう一言だけ言えば、これも物議を醸す材料に事欠かないマーラーにおける音楽とテキストの関係を知っている者は、コープが、

「コンピュータの作曲した曲に歌詞をつけるのは、興味ある挑戦である」(p.366)

と事も無げに言い出すのを目の当たりにしてあっけに取られてしまうだろう。

 実はオペラ《マーラー》の存在自体については、楽譜が売られているのを見かけたことがあるので知っていたのだが、それがマーラーの様式模倣を行う自動作曲システムによる作品だということに気付かず、ここで初めて知って大変に驚いたのだった。かてて加えて既に触れたように付録としてつけられたEMIによる作曲リスト(pp.399-400)を確認する限り、マーラー作品の模倣は10作品にも及び、作品数だけとればバッハやモーツァルトを上回って最多であることがわかって更に困惑は深まるばかりとなる。

David Cope の歌劇「マーラー」のヴォーカルスコア

 既述の通りコープの主張には理解に苦しむ点が多々あるが、それについて理路を整えて批判する作業は後日を期することとして、ここでは(或る意味ではコープがそう望んでいる通り)、コープの語っていることではなく、自動作曲の出力そのものを聴取した印象を、しかもマーラーの作品の模倣、およびそれとの対比の目的で聴いたモーツァルトの作品の模倣に限って書き留めておくことにしたい。(実は個人的には模倣作品のリスト中にペルゴレージの名前があれば、多少はコープのことを見直したに違いないのだが、生憎ペルゴレージはコープの関心の対象外なようだ。大量の偽作やストラヴィンスキーの「プルチネッラ」のような事例を考えれば寧ろペルゴレージこそ格好の「ネタ」に違いないのにどうして?という気がするが、コープにとってはこういう事情は恐らく関心の外なのだと思う他ない。)

 Amazonで確認した限り、本稿執筆時点でそのうちの7曲の楽譜が入手可能であることが確認できた。更には邦訳書の冒頭に記載の通り、著者のWebページおよびyoutubeの著者のアカウントでは、自動作曲システムを用いて生成した「マーラーもどき」の作品の幾つかを(全て断片ではあるが)聴くことができる。

 参考までに、以下に『人工知能が音楽を創る 創造性のコンピュータモデル』の付録Aに記載されているマーラーの作品の模倣による作品を、2022年4月の本稿執筆時点で日本のAmazonで楽譜が入手できるかどうかの対応つきで一覧しておくことにしよう。以下で(*)が付されている作品は楽譜の入手が可能なようである。

  • アダージョ  Adagio, 弦楽オーケストラ, 8分
  • 4つの歌  Four Songs, ソプラノ、アンサンブル, 28分 (*ピアノ伴奏版および室内アンサンブル版)
  • 生と死の歌  Lieder von Leben und Tod , 独唱(複数)、オーケストラ, 25分 (*ヴォーカルスコア)
  • オペラ《マーラー》Mahler (opera), 独唱(複数)、合唱、オーケストラ, 4時間 (*ヴォーカル・スコアおよび3分冊のフルスコア)
  • オペラ《マーラー》(短縮版)Mahler (opera)(short version), 独唱(複数)、合唱、オーケストラ, 2時間
  • 歌の交響曲 A Symphony of Songs, オーケストラ, 30分 (*)
  • 管楽器のための組曲 Suite for Winds, 管楽8重奏, 40分30秒 (*)
  • マーラー・カンティクル Mahler Canticles, 合唱、吹奏楽, 14分 (*ヴォーカルスコアおよびフルスコア)
  • 3つの歌 3 Songs, テノール、ピアノ, 12分
  • 3つの二重唱 3 Duets, 20分, アルト、テノール、合唱、ピアノ, 20分 (*)
 ちなみにこれもまた揚げ足取りの類と見做されるかも知れないが、上記のリストを眺めて或る日ふと思ったのが、コープが作品に付したタイトルの奇妙さである。初期の破棄された試みと、初期創作の掉尾を飾り、かつマーラー自身が「作品1」と認めたカンタータ『嘆きの歌』を除けばマーラーは交響曲と歌曲しか書かなかった。確かに編曲の中にはバッハの管弦楽組曲の編曲が含まれるものの、人によっては内的な論理を見出し損ねた挙句、その交響曲を組曲・ポプリの類に過ぎないとの揶揄をすることはあれど、マーラーの創作において「組曲」というジャンルは明らかに異質なものに感じられ、自ら自発的にそうしたジャンルを題名として選択する可能性があったようには思えない。また「歌の交響曲」というのは、研究者がマーラーの作品の性格付けを行うための規定としては考えうるだろうが、個別の作品のタイトルとしては明らかに異様である。

 だが「そうした指摘は揚げ足取りで、コープがやっているのは音楽そのものの模倣であり、タイトルはその対象ではない」といった類の抗弁は、「生と死の歌」というタイトルの前で沈黙せざるを得なくなる。ご丁寧にこれだけはドイツ語のタイトルだから、他のタイトルとは異なって、ここではそれが模倣の実質的な一部を為しているのだろうと想像する人がいてもおかしくはなかろう。だがアドルノのマーラーに関するモノグラフに馴染んだ人は、直ちにその末尾の第8章「長きまなざし」(ここでは引用は法政大学出版局から1999年に刊行された龍村あや子による新しい邦訳による。以下についても同様。)の中の「大地の歌」を論じた箇所にある以下の一節を思い浮かべるに違いない。
「《大地の歌》という題名は、もしこの作品の内容がその並々ならぬ要求を正当化し、悲しみの真理によって大げささを払拭していなければ、新ドイツ派の「自然交響曲」や「生と死に関する高尚な歌曲」といった範疇との絡みが疑われるかもしれない。」(アドルノ『マーラー』, 邦訳 pp.197-8)  
 よもやこのアドルノの言葉を、マーラーが新ドイツ派的であって、そのようなタイトルの作品を書いていると述べていると受け止めたわけでもなかろうし、これはモノグラフの冒頭すぐに出てくる「マーラーの第9交響曲に書かれてしまったあの馬鹿げたほど大げさな「死が私に語りかけること」という標題は、真理の契機を歪曲するものとしては第三交響曲の「草花や動物たち」よりもたちが悪い。」(同書, 邦訳p.4)というくだりの意図を取り違えたわけではなかろうが、「歌の交響曲」同様、研究者によるマーラーの作品の性格付けとしてならともかく―実際、ドナルド・ミッチェルの3巻よりなるマーラー研究の最後の巻は "Gustav Mahler, Songs and Symphonies of Life and Death" というタイトルを持っている―「高尚な」を除けば良いというものでもなく、結局のところコープの姿勢が創作者ではなく研究者であり、これらの作品は創作であるよりも研究における模倣の実験の結果に近いことを告げているように思えてならない。繰り返しになるが、作曲家によってはタイトルへのアプローチを問題にすることに拘る必要が希薄な場合もあるだろうが、ことマーラーに関して言えば、決してそんなことはない。仮に百歩譲ってコープのタイトルの付け方がマーラー的でないこと、或いはコープのタイトルへの姿勢がマーラー的でないことを不問に付したとして、どのみちここでコープのやっていることはマーラーの「模倣」として疑問の余地があることは確実なことに思える。

 だがタイトルという「パレルゴン」についての議論はこれくらいにして、youtubeで作品の幾つかを聴いた印象に移ろう。以下に本稿執筆時点(追記をした2022年5月時点、ただし4月時点と変わりがないようだ)でyoutubeで公開されていることが確認できたコンテンツを一覧しておく。オペラ《マーラー》の一部が大半を占め、それ以外はアダージョの一部のみのようである。
  1. ・オペラ《マーラー》に関するもの
    • 間奏曲
      • David Cope Emmy Mahler (6:43):David Cope's Experiments in Musical Intelligence Program's composition, an intermezzo from the opera Mahler, in Mahler's style.
      • Mahler opera Emmy David Cope (2:59):Portion of an intermezzo from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
    • アリア
      • Mahler opera aria Emmy David Cope (2:59):Portion of an aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
      • Mahler opera Emmy aria (2:04):Portion of aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
      • Mahler Opera Emmy David Cope (1:22):Portion of another aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
      • Mahler opera fragment Emmy David Cope (6:43):Fragment of an aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
    • 二重唱
      • MAhler opera Emmy David Cope (2:07):Portion of a duet from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope. 
    • 四重唱
    • レシタティーブ
    • 断片
    • 管楽合奏用編曲の断片
      • Mahler opera emmy frag (4:09):Fragment From the Experiments in Musical Intelligence opera Mahler arranged for wind ensemble by David Cope. 
    • ウィンド・オーケストラ版(?)
      • Mahler Emmy Opera (4:17):From Mahler's opera for Wind Orchestra by David Cope's Experiments in Musical Intelligence.
  2. アダージョに関するもの
    • Mahler Adagio Emmy David Cope (1:57):Mahler Adagio for Strings fragment by Experiments in Musical Intelligence (Emmy) programmed by David Cope.
 聞いてみてまず思ったのは、データ分析に用いたMIDIデータを素材として、Google Magentaで模倣(としての自動作曲)や記憶した系列の再生の実験をしばらくやった経験に拠れば、その生成物にとても似た感触があるということだった。EMIの出力結果だけ聞いた場合と比べて、自分が感じた違和感の在り様と在処の把握について感覚的につかむ素地を事前に持てたことだけでも、別途Google Magentaで実験をやっていて良かったと思ったのだが、その共通する印象を非常に単純化して言ってしまえば、学習のサンプルとして与えたマーラーの作品に含まれるローカルなパターンの奇妙な継ぎ接ぎで、時々、ほとんど引用紛い(というより、その箇所だけ取れば、記憶された断片が連想によって想起されたものに印象としては近いもの)になる。けれども全体としては全くマーラー的ではない、というのが率直な印象である。奇妙な継ぎ接ぎというのは、でたらめではないけれど違和感が拭えないということで、連結としては可能であってもフレーズの構造上は奇妙な脈絡(それはシェーンベルクの言う「音楽的散文」、マーラーの作品を特徴ずける不均衡なフレーズ構造とは似て否なるものである)が生成されるのだが、恐らくそのことは機械学習がミクロなパターンの組み合わせの再生はできても、巨視的な構造を扱うことが難しいという点に関係するのではないかと思われる。実はGoogle Magentaでの実験は、当初は触れ込み通りの自動作曲の試行(つまり、まさにコープのやろうとした「模倣」を自作のプログラムではなく、Google Magentaというツールを使って試みること)の筈だったのだが、実験をしているうちにやっていることの意味合いに疑問を感じるようになったために、一旦は記憶した系列の再生の実験に方針を変えたのだが、そうした試行錯誤の過程で受けた印象に類似した印象を受けたのである。従ってGoogle Magentaでの実験で感じた、やっていることの意味合いに対する疑問は、そっくりそのままコープのやっていることにも当て嵌まるのであって、或る種の既視感を感じさせる経験だった。

 別段それを誇るとかいうのではなしに、交響曲だけではなく、歌曲についても子供の頃から繰り返し聞いてきたが故に、私はマーラーの作品はほとんどすべて(完璧に暗譜しているわけではないにせよ、不完全ながら頭の中で概ね再生できる程度には)記憶しているので、ある部分のネタがどの作品なのか嫌でも気づいてしまう。これがモーツァルトとかだと、私が知らない作品、聴いたことがない作品、聴いたことを覚えていない作品もたくさんあり、かつモーツァルト自身にも他者の様式模倣のような作品が少なからずあるので、そういう意味では「らしさ」を感じる余地が相対的にはあるのだろうが、やはり「劣化した」モーツァルトにしか聞こえない。古典期の忘れられた作曲家の作品だと言われたら、そうかなと思ってしまう程度の出来のものはあるように思うが。だがマーラーに関してはそうではない。そもそもマーラーは自己引用はしても様式的な自己模倣というのとは最も縁遠い作曲家で、言ってみればどの曲も他の曲と似ておらず、それぞれが特殊なものなのだ。だからコープがやっているようなアプローチはそもそもマーラー的ではない。時折、ある交響曲が先行する交響曲の二番煎じであるという批判があるにしても、それはよりマクロな構想に関して言われるのであって、個別の楽曲の様式の水準においては既成の自分の作品に似た作品というのをマーラー自身が決して書かないので、ここで行われているような模倣そのものが、そもそも着想の時点で非マーラー的に思えてしまうということなのだと思う。(岡田暁生は『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』, 世界思想社, 2019において、AIによる自動作曲に一章(第7章 AIはモーツァルトになれるのか?)を割いて音楽学的な観点から批判をしている中で「偉大な芸術家は絶対に自分のコピーはしない―これをどれだけ強調してもしすぎではない」(p.166)と述べているが、少なくともマーラーに関しては、私はその見解に全面的に賛成である。)

 それ以外にも、恐らくコープがそれによってマーラーに似せることができる、あるいはできたと思っているに違いない特徴は、私に言わせると確かに表面的にはある作品のある部分に実際に存在するけど、だけれどもそれを使ったらマーラー的に聞こえるというと全くピント外れに思えるのだ。素人が偉そうにとは思うけど、私にはコープは、マーラーのマーラーたる所以が全く分かっていないとしか思えなかったというのが正直な印象である。

 勿論、こうした印象が私の方が間違っているせいで生じている可能性もあり、コープのマーラー作品の模倣に接した他の人の印象がないかと思って少しだけ探してみると、日本語で読めるものとしては、以下のような記事が確認できた。

森田浩之「ヒトの知能とキカイの知能」⑧ (https://www.jihyo.co.jp/topics/hitonotinoutokikainotinou8.html)

 ここで参照されている「マーラースタイル・アダージョ」は、付録Aの作品目録より判断する限り、弦楽合奏向けの8分程の長さのアダージョと思われるが、それに対応すると思われるyoutubeの2分程度の長さを持つ音源を聴く限り、上掲記事にある「交響曲第9番の第4楽章を基礎にした別の曲」ではなく第3交響曲第6楽章のアダージョに基づく模倣にしか私には聞こえない。(以下に現時点でアクセスできるyoutubeのコンテンツのURLを再掲しておく。)

Mahler Adagio Emmy David Cope (https://www.youtube.com/watch?v=oPcaGlaROjA) 

 この点について現時点で考えられる可能性としては、上掲記事が参照しているものと、現時点でyoutubeに公開されているもののいずれもが8分程ある長さの作品の一部ではあるけれども、作品中の異なった部分である可能性があるだろう。第3交響曲第6楽章と第9交響曲第4楽章のキメラと言えば人間には想像もつかないが、プログラムにとってはそうしたキメラの合成が難しくないことは、例えばホフスタッターが『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の中で紹介している(邦訳 pp.596~7)人工知能による自動作曲のごく初期の成果、即ちマックス・マシューズが作成したプログラムが「ジョニーが凱旋するとき」と「イギリス擲弾兵」を入力として出力した「作品」等によって良く知られていることであろう。せめてアダージョのスコアが入手できれば確認ができるのだが、残念ながら既述のAmazonで購入可能なスコアのリストにはアダージョは含まれないので、ここでは推測に留める他ない。

 だがその点を措けば、局所的な素材だけとれば「そのまま」だけれども、全体としては如何にもAIが生成したらしい、みすぼらしい継ぎ接ぎにしか聞こえないという点や、にも関わらず、もし知らない人が聴けば本物との区別がつかない可能性を否定しない点も含めて、上掲記事の著者と私とは概ね似たような印象を受けたものと想像される。

 なお上掲記事では第10交響曲の別バージョンを機械に作らせたらというアイデアも披露されており、この点について既に私自身、後述の通り、過去に書いてWebで公開している幾つかの記事の中で、特にスタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」(『虚数』所収)を参照にしたりしつつ何度か取り上げていることもあって、大筋において首肯できるものがある。(但し上掲記事では、「横」=メロディー、「縦」=オーケストレーションとした上で、デリック・クックによる補筆完成の経緯を踏まえた説明が為されているが、ここでオーケストレーションという言葉で包括されているものの実質は、アドルノがマーラー・モノグラフ第2版の後書きに記した通り、寧ろ和声づけおよび対位法的な補完であることを指摘しておきたい。無論のこと管弦楽法についてもマーラーの断片的な指示に基づく補完作業が行われたのは事実だが、クックの補筆の寄与の最も大きい部分は垂直方向の和声と対位法の次元の補完であり、だからこそクック版とカーペンター版やホイーラー版といった他の補筆完成版との相違が顕著になるのがその次元なのだし、他方でアドルノ他の論者が第10交響曲の補筆完成を不可能と判断した理由も、まさに垂直方向の和声と対位法の次元の補完をマーラー本人以外が行うことを越権と見做したが故の筈なのである。)

 既述の通り、実は私自身、第10交響曲の人工知能による補筆の可能性について、過去の記事において何度か触れているのだが、その度に繰り返し、その結果に対して悲観的であることを記してきたのだった。一つだけ例を挙げるならば記事「第10交響曲への言及1件(アルフ・ガブリエルソン「強烈な音楽経験による情動」)」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/07/101.html)においては以下のように記したのであった。 

(…)今日の展望からすれば、例えば第10交響曲の補筆をAIにやらせたらどうなるのか、というような問いを立てることができるだろう。かつてスタニスワフ・レムは「ビット文学の歴史」において、ドストエフスキーの翻訳をしていたコンピュータが、空き時間を使って、「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」の間を埋める「ありえたかも知れない」作品を産み出すといった状況を提示してみせた。加えて、カフカの「城」の未完成部分の補完には失敗したという「オチ」さえ用意しているのだが、それらに比べれば、ほぼ完成した第1楽章があって、その他の楽章も粗密はあっても水平的には最後までドラフトが遺された作品の補完作業は遥かに可能性が高そうに見えるかも知れない。おまけに今なら、クック以外にも存在し、かつますます増え続けているかに見える様々な補完のヴァリアントを機械学習の素材とできるわけである。既に機械学習技術が、バッハのコラールもどきを人間を騙せる程度にまで自動生成できるのであれば、遥かに長大で複雑な作品であっても、様々な補完作業の良いとこ取りなら技術的に不可能とは言えないだろう。完成された部分は遥かに多くても、フィナーレのコーダが全く欠落し、かつフィナーレのための試行錯誤に費やされた余りに長い時間故に、先行する3楽章との間に様式のギャップが生じてしまっているかに見えるブルックナーの第9交響曲に比べても、有利な条件は揃っていそうではないか。

 だが、現状の機械学習の能力を前提にする限り、その試みは大して興味の持てる結果をもたらさないであろうことは、予め決まっているのだ。それは、最大限に成功して、極めて巧妙な折衷に過ぎないのだ。もしかしたら、過去のマーラーの作品の側により引き摺られた結果が得られる可能性はあるだろうが、マーラーその人が切り開きつつあった「未来」の方向に踏み出した結果が得られることは、原理的に言ってあり得ない。マーラー以降の様々な傑作をサンプルとして与えたところで、それはマーラーの「ありえたかも知れない未来」とは無縁のものであり続けるのは明らかなことだ。古典派以前の、作曲家が音楽職人であり、消費財としての作品を、固定化されたパターンを再利用して、コピーするようにして生産する時代であれば事情は異なるだろうが、(今は価値の優劣は一先ず措くとして)マーラーのように一作、一作毎に発展し続けた作曲家においては最後の作品が目指していた「未来」が含み持つ、未聞の「新しさ」の理解抜きに補筆はあり得ない。そして「新しさ」と「例外」の区別は、つまるところ創造性は、少なくともシンギュラリティの手前の現時点では未だに「人間」のものであるようだ。レムの「ゴーレムXIV」におけるゴーレムやオネスト・アニーの「旅立ち」は未だ暫らく先のことだし、有性生殖と有限の寿命といった生物学的な拘束条件を持たない彼らにとっては、そもそも第10交響曲の「遠く」など全く無縁のものだろう。(…)

 だがEMIによる作品リストを眺めた時に、そういう試みがなされているかを実際にはきちんと調べたことがないことにはたと気付いて調べてみると、豈図らんや、以下のような記事に行き当たった。まずはAFPの2019年9月の記事。

AIがクラシックの巨匠と肩を並べた? マーラー未完の曲を「完成」2019年9月10日 14:34 発信地:リンツ/オーストリア(https://www.afpbb.com/articles/-/3243774)

日本語で読める記事としては、音楽之友社のサイトの類家利直さん執筆の以下の取材記事が確認できた。

メディア・アートの祭典「Ars Electronica2019」レポート:AIが学習し、再現するブルックナー、マーラー、グレン・グールドたちを観る(https://ontomo-mag.com/article/report/arselectronica2019-20191211/)

Ars Electronicaと言えば、メディアアートの世界的なイベントとして有名で、本ブログの姉妹ブログで紹介している三輪眞弘さんが2007年にデジタルミュージック部門の最高賞であるゴールデン・ニカ賞を受賞していることもあって、決して疎遠な世界ではないのだが、よりによって2年前の2019年のArs Electronicaでこのようなことが行われていたことにようやく気づき、汗顔の至りである。これもまた本来ならば気づいてすぐに紹介すべきところ、デイヴィッド・コープのマーラー作品の模倣の紹介ともども多忙に紛れて1ヵ月以上が経過してしまった。

いずれについても備忘がわりの覚え書で済ませるような内容ではなく、そもそもが上に自己引用した私の見解を検証する格好の素材なのだから、機会があればいずれ改めて取り上げたいが、現時点では調べた限り、演奏の断片的な映像を除けば、人工知能が補作した作品を聴いて確かめることはできないようでもあり、最後にArs Electronica自体の紹介ページ(英語)とブログ記事(ドイツ語)へのリンクを紹介して覚え書を一旦終えることで当座の責めを塞ぐこととしたい。

Mahler-Unfinished(https://ars.electronica.art/futurelab/de/projects-mahler-unfinished/

Mahler-Unfinished : Wenn Mensch und Maschine Musik machen

https://ars.electronica.art/aeblog/de/2019/09/02/mahler-unfinished/

[付記]本稿の内容とは直接関係ないが、『人工知能が音楽を創る』における創造性についての議論の中で非常に気になる記述があるので、備忘のためにここで指摘をしておきたい。以下に引用する記述は第2章背景の先行研究の節の冒頭の部分である。

「創造性研究の歴史はたいてい上下二院制(原文では点による強調)の精神から始まる。上下二院制の精神とは、我々の精神は2つの部屋から成るという初期ギリシア時代の概念である。一方の部屋は、ムーサの神々を通して創造の神によってもたらされる新しいひらめきを創り出す部屋と考えられた。ムーサの神々とは叙事詩のカリオペ―、歴史のクレイオ、愛詩(原文ママ)エラト、音楽と抒情詩のエウテルペ、悲劇のメルポメネ、神々への讃歌のポリヒュムニア、舞踏のテルプシコレ、喜劇のタレイア、天文のウラニアの9人の女神を指す。彼女らは超自然的イノベーションを起こし、それをもう一方の受動的な精神の部屋に注入する。面白いことに、プラトンはこの新しいひらめきを創り出す部屋を狂気の源として、つまり高度な創造性は狂気と表裏一体であると考えていた。しかしアリストテレスは、連想説(原文では点による強調)として知られるプロセスをもって上下二院制の考え方に反対した。一般に、連想説は、創造的な思考を無意識あるいは潜在意識化の連想として特徴づけるものである。アリストテレスの見方では、思考とアイデアの結びつき、イメージと経験の結びつき、原理と方式の結びつきから類推が導かれ、それがさらに創造的な思考法を生みだすとされている。」(邦訳pp.45-46)

そして連想説に関する考察の参考文献として、John S. Dency & Kathleen H. Lennon, Understanding Creativity, San Francisco, Jossey Bass, 1998のpp.15-41を示しているのだが、上記の記述は、本ブログの記事でも何度となく参照してきたジュリアン・ジェインズの<二分心>(bicameral mind:二院制の心)の仮説を想起させずにはおかない。但し、ジェインズの仮説はあくまでも近年の心理学や脳科学の知見と言語学・考古学的な傍証に基づいた、神の住まう部屋が右脳、それを受け取るのが左脳であるとするジェインズ自身の仮説であるのに対して、ここでは初期ギリシアにそういう概念があったと述べられている点が異なる。(ちなみにジェインズは、そういう概念が初期ギリシアにあったというように述べてはいない。)連想説についての文献は掲げられているが、上下二院制の精神に関する参考文献の指示はないこともあり、どこまで追跡できるかはわからないし、この点がコープの創造性についての主張と直接関係を持つわけでないが、機会があれば更に調べてみたい。

[付記その2] John S. Dency & Kathleen H. Lennon, Understanding Creativity, San Francisco, Jossey Bass, 1998を取り寄せて確認したところ、第2章 A brief history of the concept of creativityの最初の節(p.16)の見出しがずばり The Bicameral Mind であり、それがジュリアン・ジェインズの命名であること、学術的な仕方でこの見方を取り上げたのがジェインズが最初であることが明記されているのを確認できた。詳細については別途報告するが、取り急ぎ現時点で確認できたことを報告しておくことにする。

(2022.4.10暫定版公開, 4.11付記を追加, 4.13付記その2を追加, 4.24作品リストなど追加。5.9 作品のタイトルについてのコメントおよびyoutubeで聴けるサンプルの情報を追記。5.14,16 「模倣」に関する箇所に対して参照文献についての情報を付記した上で補筆)

2019年7月6日土曜日

続・マーラーにおける「うたう」ことについて:ある音楽学者への手紙より

(…)

私が「うたう」ことを持ち出した、その拘りの由縁をもう少し書かせて頂きたく思います。主旨としては「うたう」ことの回帰は、「器楽の歌化」なのか?個別には少しずつ異なるのではないか?というような気がするということになるかと思います。

マーラーについては、今回は簡単にします。端的に、彼の場合には人「も」歌うことに目くばせをしたいと思います。しかも、天使と争うヤコブも、悔恨の涙を流すペテロも、女声がうたう。「大地の歌」には、アルトとバリトンの選択肢が用意されていますが、一般にアルトが好まれるのは、コントラストのためだけではなく、「誰」が歌うのかについてのマーラーにおける或る種の異化作用とでも言うべきものに、そちらの方が合致しているからだと思います。バリトンの歌唱での優れた演奏記録が存在することを少しも否定する気はないけれど、バリトンでやれば、それはアウトサイダーとしての、「非人間」への、外への歩みの契機を一つ手放すことになるのでは、と思います。

これもまたアドルノが言っていますが、マーラーはドイツリートの系譜に属していない(新ウィーン楽派の方が正統的)し、バルトーク、ヤナーチェクの土着性・民俗性に対して、マーラーの民謡は紛い物(「魔法の角笛」自体が紛い物に加えて、3重の疎外を抱えたさまよえるユダヤ人が取り上げるのは、ナショナリズム的な観点からは何とも不当な越権行為に見えたであろうことは、「独創性の欠如」「カペルマイスタームジーク」「文化の簒奪者」というレッテルから窺い知ることができると思います。)これまたアドルノの「仮晶」で言い当てられていますが「中国」は初めから紛い物でした。ベトゲの詩も悪名高い紛い物nachdichtungだが、マーラーも、そういう意味でnachkomponierenではないかという見立ても成り立つでしょう。でも、そもそもマーラーの作曲は、第3交響曲でも「大地の歌」でも、否、全作品において一貫して、カペルマイスターの日曜仕事、ブリコラージュではなかったでしょうか?第3交響曲の作曲の折のあの有名な発言("Symphonie heißt mir eben : mit allen Mitteln der vorhandenen Technik eine Welt aufbauen. "「私にとって交響曲とは、使える技術すべてを手段として世界を構築することを意味します。」)は、まさにブリコラージュの証言そのものであるように思えます。nachkomponierenの価値はかくして転倒するように思えます。あえてアドルノに引き付けるならば、それは彼が「唯名論的」と呼ぶ行き方に外ならないのではないでしょうか?

このように、マーラーにおいて「うたう」は何重もの屈折を帯びます。だけれども、その行く先は、人声と器楽ということに拘った例示ということであれば、「大地の歌」の「告別」のあのフルートとアルトのレシタティーヴォのように、別の例ならば、第9交響曲のアダージョの対比群の、あの大きく乖離した二声の対位法のように、「人間」と「自然」といった対立を解消してしまって、シェーンベルクの「非人称」へと赴くといったものではなかったかと思えてなりません。「Esがうたう」は、確かにマーラーにおいて真だと思いますが、そのEsは一体何でしょうか?それはフロイトの心的装置論の構成要素という限定を超えて、さりとて集団的無意識のような、暗黙裡に「人間」概念が忍び込んでいるようなものでもない。互盛央さんに『エスの系譜』という優れた思想史の著作があって、そこではマーラーが愛読したらしい、ショーペンハウアーの「意志」も、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無意識の哲学」も登場しますが、そこで扱われているようなものではなく、寧ろ、今日の展望に立てば、通常は環境とか外部と呼ばれるものへの生態学的な、行為・実践的な関与の様相(ギブソンのアフォーダンスを思い浮かべています)に近接するものではないか、マーラーにおいての「うたう」ことは、そういう意味において人と器楽を区別しない、だが他方で「うたう」ことが「人間」の条件である限りにおいて、人間によって演奏されるものであるとは言えまいかというように考えます。

私見では、寧ろEsの概念の方を改訂・更新する必要があるのではないかと思います。そのために、一先ずはEsを自然化する必要があるように思うのです。脳神経科学的説明でもいい、最近、構成主義的な認知ロボティックスで試みられているようなアフォーダンスの構造のカオス理論によるモデル化でもいい。そこまで科学的な記述に行かないまでも、例えば「二分心」とその崩壊による意識の発生の仮説を科学的な知見で裏付けることによって、Esとは何かを語りなおす必要があると考えます。

これは藤井貞和さんの『古日本文学発生論』のような文学の起源、生成の過程に関する卓越した成果と突き合わせる必要があると思うのですが、「うたう」ことにbeschwörenを突き合わせると、リズムの周期的な反復の呪術的効果が視界に入ってきます。そして、反復を嫌うマーラー、或いはDurchkomponierte Formに対して、Strophen Form、韻律といったものの対立が浮かび上がります。そういう意味では、マーラーの「うたう」はリズムの周期的な反復という狭い意味合いでのbeschwörenからは遠ざかるように見える。にも関わらず、「うたう」ことは放棄されていないし、beschwörenは存続しているように見える。それは一体どういうことなのか?ジュリアン・ジェインズの「二分心」の仮説を踏まえるならば、「二分心」に遡る古い層(ヘルダリンにおいては、晩年のスカルダネリ詩篇群に相当)と、「二分心」崩壊後の、「隠れたる神」の時代の「意識」の新しい層(ヘルダリンであれば、後期のあの空前にして絶後の自由律の讃歌群に相当)を考えるべきなのか、といった話にも繋がってくるかと思います。そしてそれは、レヴィ=ストロースにおいては双分制と三分観の問題として取り上げられていることとの関わりにおいて考えてみるべきかとも思っています。

(…)

ところで、自殺を思い止まるきっかけ、精神的ショックのあの麻痺状態から脱出するきっかけ、といった文脈では、単なる偶然かも知れませんが、不思議とブラームスの、しかも声楽曲が出てくるように思います。私自身、東日本大震災の際、親しくしていた知人が被災された後にお会いした折、お見舞いというわけでもなかったのですが、シュタイン指揮バンベルク交響楽団の交響曲全集のCDを差し上げた際の経験があります。ブラームス自身は旋律が書けないと悩んでいて、ドヴォルザークやヨハン・シュトラウスを羨ましがったらしいことを思えば、ブラームスの「うた」は、これもまた一つの大きな謎に見えます。

東日本大震災以来、「ヒーリング・ミュージック」が世間を席巻し、「がんばろう日本」ともども、そうした現象に対する高所からの、冷静で怜悧な批判が為されてきたことを知らないではありませんが、一見すると音楽を自己治療の道具としている点では同じに見える上記の2つのケースは、本当に分離不可能なのか?

正直に言えば、私が音楽なしにやっていけないのには、明らかに自己治癒的な使い方をしている側面があるのは否定できず、アドルノの聴取の類型論でなら、寧ろ批難されるタイプの聴き手であることを白状せざるを得ません。でも、マーラーの場合、作曲が自己治癒であり、特に「大地の歌」が「喪」の状態からの脱出のドキュメントであることは寧ろ事実に属するものだし、アドルノに抗して開き直ってみたい気持ちも正直ありますが(苦笑)。

その当時、レクイエムの不可能性の認識にたって三輪眞弘さんがLux aeternaを作曲され、その初演に立ち会って、その辺りのことはその感想に記しましたし、ここでは繰り返しませんが、「がんばれ」という言葉に対して、それを控えるべきだとの正論を書かれた文章に、私は心底反撥したのでした。被害に直面して、でもとにかく何とかしなくてはならなかった、頑張った(いや過去形で書くのはおかしい、まだ続いているし、終わる見通しは立っていないのですから)人達がいたことを訴えたかったのです。「がんばれ」はやめようという主張には理論的にも裏付けがあるようだし、実際頑張れと言われて折れてしまう人だっていたでしょう。が、現実に、復旧に携わられた「現場」で、それこそブリコラージュの繰り返しによって日々格闘された方々の思いは別だと訴えたかったのでした。それが高所から見てどのように批判的に扱われようと、そうした行為なしには現実は立ち行かない訳ですし。

ちなみに私の場合、東日本大震災直後の麻痺状態からの脱出は、或る日の朝、出勤の時にオフィスの近くを歩いていた時に、頭の中に突然流れ出した、マーラーの第9交響曲の第1楽章、場所は練習番号8番の10小節手前、Noch etwas zögernd, allmählich übergehen zu ... Tempo I の部分でした。もっと正確には、更にその5小節前あたり、ホルンのシグナルが途切れて、ヴィオラに導かれてヴァイオリンが入ってくるところ以降、バーンスタインがスル・ポンティチェロで弾かせることで有名な部分です。(最初に聴いたのが、あの伝説的なベルリン・フィルライブのFM放送で、これが長らく唯一の音源だったのに、私の頭の中では、スル・ポンティチェロでは鳴りませんが。)

これは先生がお書きになられた、マーラーの後期作品にも残っているBildungsroman的な契機と関わりがあると思います。それはヘーゲル的な「世の成り行き」への回帰だったのでしょうか?第9交響曲は非常に遠心的な構造を持っていて、第1楽章を取り囲むように残りの3楽章が配置され、中間楽章では明らかに「世の成り行き」が回帰して、だから私はしばしば第1楽章で聴くのを止めてしまう程なのですが、近年多くの方が、その第1楽章こそ、例えばその主題を取り上げて、甘ったるくて懐旧的、感傷的であるという言い方をされるようです。

確かにそうかも知れません。でも、それならそれで、寧ろ私はそこにこそ「うたう」ことへの回帰を見てとりたい気持ちがあるのです。「大地の歌」が「喪」からの回復過程のドキュメントである限りで、観方によってはそれもまたヘーゲル的な「世の成り行き」への回帰なのかも知れません。だけど、回帰するとき、もはや「うた」は同じじゃなく、元と同じようには「うた」えないのではないでしょうか?それでも回帰する「うた」がマーラーの「うた」ではないでしょうか?この件の最初の手紙で私が記したマーラーの「うた」の様々な特徴は、「うた」の不可能性の中での「うた」の回帰という状況に構造的に見合ったものに思えます。

(…)

(2019.7.6)

2015年5月9日土曜日

ある市井のマーラー愛好家の専門家宛の手紙より

(…)

宿題になっていた、「神の存在をどう思うか」というご質問に対するお答をしなくてはなりません。 この質問に答えることは大変厄介であると感じていますが、それは一つには、神ということで何を 指し示すかについての了解自体がとりわけ現在の日本では形成し難いということに由来するように 感じています。一つだけ例を挙げれば、「無神論」という言葉の含意が西欧と日本ではかなり異なる のは比較的知られていることと思います。その日本でも嘗ては「神仏をも懼れぬ仕業」といった 言い回しが意味を持っていたわけですが、現在ではこの表現を実生活で聞くことはほとんどないのでは ないかと思います。それでもなお、初詣には行き、墓参りをすることは未だ多くの日本人にとって 自然なことでしょう。他方で「存在する」ということについての了解の方も実際には自明とは 云い難い。フッサール現象学やハイデガーの(中絶しましたが)基礎存在論の企ては、その困難を 物語って余りあります。しかし、ここは予備的な分析する場ではありませんので、 誤解を怖れずに、結論から述べてしまいたいと思います。

端的に言えば、既成の個別の宗教における神を信じるかと問われれば否です。だけれども、 神的なものを否定するかと言えば、これは明確に否ということになるでしょう。 「神の存在」に対する答えからすると、少々遠回りに感じられるかも知れませんが、 先賢の顰に倣って、日常の具体的なところから始めることをお許しください。 恐らくそうすることによってのみご理解いただけることがあろうかと思います。

私はしばしば「祈り」ます。何に対して祈っているのかを突き詰めることを常にしているわけではなく、 けれども「祈り」という行為は私にとって自然な行為です。実家に戻れば仏壇の前で手を合わせるし、 墓参りはするし、初詣もします。のみならず例えば散歩をしている最中に神社や祠を見かければ、 立ち寄って賽銭を投げて祈ることも珍しくはありません。と同時に、そういう場での行為としてではなく、 より私的で内的な行為として、何かをするにあたって、あるいは何かを終えたときに、私は 何者かに対して祈ります。祈りは(内的独語であれ)言葉による語りかけのかたちをしばしばとります。 けれども、祈りの対象を人格を持つ存在として捉えているかといえば、どうもそうではない。 そもそもその対象がどんな姿をしているかを考えたことはありません。言葉が通じると思っているわけでもなく、 寧ろ言葉は自分の思いを固定するために、寧ろ自分向けに用いている道具なのです。何を祈るのかを 自分が確認するために言葉を使っていて、それは「祈り」にとっては入口のインタフェースに過ぎず、 それがその先でどのように変換して、対象に伝達されるかについてはどうやら無頓着で、何故か 通じるものと考えているようなのです。

祈りの対象はどこに存在するでしょうか?そもそもどこかに存在するのでしょうか?私が物理的・ 生物学的に其の中に住んでいる世界の時空の具体的な座標をそれが占めているというようには 考えていないようです。そういう意味では、それは「存在」しません。けれども仮想的なもの、 観念的・理念的なものも含めた現象学的な世界ということであればどうでしょう? 恐らく、語りかけの入口は穿たれている。けれども現象学的な地平の「彼方」にそれは存在するのではないかと 思います。そういう意味合いで、それは超越的な存在であり、端的には非存在だということになるのでは ないかと思います。ではその入口はどこに穿たれているのか、どうやらそれは、自分の心の奥に 穿たれていると考えるのが自然に思えます。例えば神社仏閣のように、一見したところ祈る対象が 物理的に目前にあるように思えるときでさえ、私の祈りは一旦は心の奥に向かい、その上で(もし届くのであれば) 対象に届くと感じているように思えます。路傍で見つけた眼前にある石仏自体は只の石像に過ぎないですが、 その前で祈るとき、それでもなおその石像を或る種の媒介として、祈りはこの世界では端的に不在な なにものかに対して届くと考えているように思います。

私が自分の祈りの構造の良い近似になっていると感じているのは、ジュリアン・ジェインズという心理学者が 提唱した「二院制の心」(bicameral mind)という説です。意識というのが歴史的な産物であり、 その形態は過去においても異なっていて、変化してきたという認識を推し進めると、今度は レイ・カーツワイルのような特異点論者が予測するように、未来にはまた、意識は異なる形態をとる可能性が あるだろうと思います。その時には、祈る対象の方も恐らくは今とは異なった「現れ」方をするのだろうと 思います。けれども差し当たり、技術的特異点の手間で寿命が尽きてしまうであろう世代の人間である私にとっては、 将来生じるであろう意識の変容は、興味深いものであっても、所詮は自分には関係のないものです。

そういう意味では私はマーラーと同じエポックに属する人間であり、自己の存在の有限性を前提として 色々なことを考えざるを得ないと思っています。そしてその音楽を聴くにつけ、超越的なものに対する フィーリングのようなものにおいて、マーラーは自己の同類であると感じています。 もっとも子供の頃に出会ってからこの方、寧ろマーラーの音楽が孕んでいる世界観の方に私の方が 影響されつつ自己形成してきたという見方もでき、そうであれば同類であるのは何か稀有な、 誇るべきものなどではなく、寧ろ当然の結果であることになります。

彼は死後の世界を信じていたでしょうか?第2交響曲フィナーレのプログラムについてのエピソードは、 そのプログラムがそのまま、いつかこの世で生起するとまでは彼が考えていなかったこと示しているように 私には思えます。勿論彼は、精神的なものが物質的なものとは独立に存在し、それが自分の生物的な死を 超えて存続することを信じていたと思いますが、それは例えば、音楽作品というのが、実現にあたって 物理的な音響というかたちで現象するものであったとしても、(もの凄く単純化してしまえば、 )ある音の継起と組合せのパターンの情報をデジタル化して、何度でも再現できるように固定したものであり、 物理的なスコアという手段を通して、だけれどもそれ自体は抽象的な存在として、世代を超えて継承される こと、そしてそうした継承を通して、マーラーの「精神」なるものも継承されていくものであり、それが 仮に進化の偶然の賜物であったとしても(現実には私は、ほぼ間違いなくそうであろうと思っていますが)、 意識を持つことになった人間の精神的な領域における営みは(理念的なものである)無限(への漸近)を 目指すものであるという、今日でも恐らくは十分常識的な見解と接続することが十分に可能なものであったと 私は考えています。マーラーが唯物論者でなかったのと同じ程度に、1世紀後の私も精神的な領域の 自律性を確信していると思います。言い方を替えると、1世紀後の日本にもしマーラーが居れば、 彼の考え方は、私のそれをさほど重大な齟齬を来たすことはないだろうと感じているということです。 (繰り返しになりますが、それは寧ろ彼の遺した音楽を通じて、彼の影響のもとに私が成立していると したら、当然のことではないでしょうか?)

ファウスト第二部終幕の解釈に関連したアルマへの書簡ではっきりとそう書いていたと思いますが、 彼はそれを「比喩」として捉えるだけの批判的な知性を持っていましたし、キリスト教的な伝統に ついても、十分批判的な見方をしていましたが(一部はユダヤ人として、そういう見方をすることを 強いられた部分があるのでしょうが)、その一方で、Veni Creator, spritusを彼なりの捉え方で 音楽化し、「ところでそれが来なければ」という悪意に対しては、断固として、そうした超越的な ものの彼方からの到来が現実に起きること、そしてそれは決して無ではないことに対して、 擁護の論陣を張ったであろうと思いますし、私としては、1世紀後の日本においてなお、 第8交響曲の「理念」は異国の文化史の研究の対象でしかない1世紀前の西欧の世紀末の文化遺産などではなく、 今、此処で擁護可能なものだし、擁護しなくてはならない、そうでなければ、博物館の文化財の陳列を眺めるように、 マーラーの交響曲をコンサートホールで「鑑賞」することになど、意味はないと考えています。

同様に、第8交響曲と「大地の歌」の間にも、両者の世界観や神の存在についての認識に、 分裂や矛盾など無いと考えています。マーラーは意識を備えた人間の精神の飛翔が無限を目がけるもので あることを正しく把握し、音楽化したし、その一方で個体としての、個としての自分が過ぎ行くもの、 仮初めのものの側に属していて、そのままでは永遠に与りえないことも正しく把握していて、それをも 音楽化したのだと私は考えています。

もう一度、最初の問いである「神の存在」に戻りましょう。マーラーの音楽は超越的なものへの志向を 備えているという点で際立ったものですが、それは別に既に解決済みの過去の問題であるわけではなく、 寧ろカーツワイルの言う技術的特異点に達するまでのエポックは、マーラーの音楽の「今」であり 「此処」であると考えるべきであり、マーラーにおける「神の存在」の問題の基本的構造は、 そのまま我々のものであり続けているのだと思います。(繰り返しになりますが、ジェインズの意識の考古学は、 その範囲を最も広くとった場合の「我々にとってもそうである」ことに対する説得力ある説明であると思います。)

否、我々を広くとることは止めてもいいでしょう。我々を、マーラーの音楽を聴く事で「目を覚ます」ことを 余儀なくされた者の集団というように限定してもいいでしょう。(私はここで、アドルノのウィーン講演の 結びの部分を思い浮かべています。)これも今や歴史的文献、過去の世代の証言に属するものとなり、 読み返す人も多くないのかも知れませんが、ワルターの以下の言葉こそが、そうした「幽霊達」、即ち マーラーの音楽にコミットする者達の「神の存在」に対する共通認識ではなかろうかと私には思われるのです。

否、更にそうですらなく、これは私だけの孤立した、例外的な認識なのでしょうか?ワルターすら、マーラーに ついてこのように言うものの、自分は別の世界に生きていたのでしょうか?恐らくそんなことはないと思います。 そうでなければ、彼が殊更にマーラーを選び、傾倒する必要などないのですから。
「私は、かれが宗教的精神をもち、ときにその高揚があったとはいえ、かれを敬虔な信仰者と呼ぶことはできない。 かれの感動の高揚は、かれを信仰の高みに登らせはしたが、信仰の確固たる安息の保証はえられなかった。 かれの心はあまりに痛ましく、生きるものの苦悩を感じた。動物相互の殺戮、人間同志の悪徳、疾病に対する 肉体の敏感性、間断なき脅威、それらすべてが、いくたびとなくかれの信仰の基底をゆるがせ、そして、 この世の悲哀と悪徳とをいかにして神の親愛と全能との調和せるむるか、それがかれの自覚し、又かれの 一生涯にわたってますます強くなった問題であった。」(ワルター, 『マーラー 人と芸術』,村田武雄訳, 音楽之友社, 1960, pp.186-7
マーラーは「神を探していた」という評言こそが適切で、彼にとって神は丸山桂介が言う通り 「隠れたる神」であったのだと思います。しかし、それは1世紀後の極東に生きる我々に とってもそうではないかと思うし、少なくとも私にとってはそうなのです。 「隠れたる神」は非存在です。だけれども存在しないものはただちに無であるわけではなく、 仮想的なもの、想像的なものにして創造的なもの、理念的なもの、かつて存在して今はないという形でその記憶が存続しているもの、 言ってみれば「幽霊的なもの」の領域が「在る」のです。勿論、そうした構造を無意識的に、そうとは 気付かずに生きることと、それを意識しつつ生きることは同じことではありません。そしてマーラーは 明らかに後者のタイプに属しているのだと思います。(ちなみに、マーラーの同時代の日本で、この 構造に気づいた先駆者こそ、北村透谷であると私は考えています(彼は文学者であり、ジャンルは異なりますが)。 良く知られているように、その後の日本文学は、透谷の持つ普遍性と超越への志向を引き継ぎませんでした。 そして1世紀の隔たりにも関わらず、時代の意匠を取り払えば、透谷の認識からそれほど遠くに来たとは到底思えません。 彼の見出した問題、とりわけても「信仰なき者の祈り」の問題はそのまま残っていると私には感じられます。 そして、今日のテクノロジーやメディアの環境の文脈の中で、全く別の方法論によってその問いの答えを探求しているのが、 作曲家でメディア・アーティストの三輪眞弘さんであると思います。)

音楽もまた、総じて仮象に過ぎません。時間の経過とともにそれは過ぎ去り、消えてしまう。 だけれども、そうであるが故に作品の演奏は、その都度、一回性の「出来事」なのですし、 その効果は有限の生命を持つ人間の脳の中の「魂」と呼ばれるものにしか働きかけることができなくとも 決して無ではないし、物理的な音響が消えた後も、その「何か」は存続するし、その価値にコミットする のであれば、その存続に自ら与らなくてはならない、しかも自らの有限性の限界を超えた存続に 与らなくてはならないのだと思います。

恐らく「神」というのはそうした存在と非在の間の領域、精神=聖霊=精霊=亡霊(Geist)の領域の理念的な極限、 超越的な「存在の彼方」の名前なのではないでしょうか?プラトン以来、「存在の彼方」とは善や美といった、 価値に関わる領域を指し示していることを思い起こしてみるべきかも知れません。ともあれ、 それはヒトが現在のような意識の構造を持ってから発見した領域であり、かつ、未だその領域を覗き見た程度であって、 人間が現在の形態である限りは、つまり技術的特異点の手前にいる限りは、それがどれほどの拡がりを 持っているのかを知ることはできず、それゆえ差し当たりは超越的な「存在の彼方」として把握されるほか ないのかも知れません。(カントの言うところの「理性」の宿命は、従ってある意識構造のエポックの 内部でのそれに過ぎないのかも知れません。)個人的にそれをあえて今尚、「神」と呼ぶのが適切かどうかに ついては疑問の余地なしとはしないのですが、一方で、自分が手前に留まる存在であることを前提とするのであれば、 そうした未知の領域のことを従来通り「神」と呼ぶ方が寧ろ一貫するという見方もできるでしょう。 結局のところ、そういうものとして、私は「神の存在」を捉えている、というのがご質問の回答になるかと思います。

漠然としたことを延々と書き連ねてしまい申し訳ありません。しかしながら、私にとってお問い合わせの内容は 簡単な断定で済ませられるようなものではありません。結論が出ているわけでもありません。しかし、 こうした問題に対して、結論めいたことを言うことがそもそも構造的に可能なのかどうか。 聊か言い訳めきますが、そうした点をご考慮いただき、ご勘弁いただけますようお願い申し上げます。

(…)

(2015.5.9)

2015年4月22日水曜日

丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」より

丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」(in 「音楽の手帖 マーラー」(青土社, 1980))より

(…)
 マーラーの音楽、なかでもとりわけ第九終章の「アダージョ」を聴いていると、 ときに私は自分の存在の無限のはかなさを感じる。 そこでは生の意味が徹底的に懐疑され、 ほとんど耐え難いほどの世界苦にマーラーの魂が呻吟しているのが余りにもはっきりと私に伝わってくるからである。 彼の苦悩する精神の現実が私の内に浸透し、私をゆり動かし、共苦させるのである。 マーラーの音楽が、日本のこの現実に生きる私達にも深い感動を呼びおこすのは、 孤独な魂の叫びが私達の存在の基盤をゆさぶるからではないだろうか。 十九世紀末の時代精神に根をおろしたマーラーの芸術は、 その意味では時空を超えているといえるかもしれないが、 私にはしかし彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに立っているように思われる。 この歴史的現実を超越することによって、かえって私達の現実にもあてはまる存在の懐疑を彼の音楽は私達にもたらすのである。
(…)
 マーラーの作品はつまるところ音響態でしかないかもしれないが、しかしその音の響きを背後から支えているこのような 彼の創造理念が私達にも感動を与えるのだといえるだろう。クーベリークも来日時に、第九は終章にさしかかるとそれまでの暗雲が 切れて突然のように青空が拡がり、天使が舞い降りてくるといっていた。もちろんマーラーの音楽を聴くのに天使はいらない といえばそれまでだろう。日本では、あるいはそのような受け取り方がなされていることの方が多いかもしれない。 だが芸術においては、その人間が信じているものは表われるのだ。或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが表われる。
(…)
 既にニーチェが指摘しているのであれば、マーラーの時代にも彼を取り囲んでいたのは神の殺害者であったといえるだろう。 そのなかにあって、彼は神を探し求めた人間のひとりであった。 もちろんルターやバッハにおける隠れたる神と、マーラーにおけるそれとは意味を異にしてはいただろう。 それに実際にヨーロッパの歴史を通じて、キリスト教とユダヤ教がどのような関係にあったのか私には詳らかでないし、 おそらくマーラーにあっても、ニーチェと同様神は超越者一般を指してはいただろう。 ニーチェの「ツァラトゥストラ」の「酔歌」とマーラーの音楽における明るみの、 不思議なほどに一致する感覚の質がそのことを何よりもよく証しているように思われる。 だがそれにもかかわらず「ヨーロッパ文化への入場券」を買うものは、隠れたる神を探したものの仲間に加わらざるを得ないのだ。 何となれば、おそらくはヨーロッパなるものの本源はそこにしかないからなのだ。 しかも神を探すものは、しばしば周囲から嘲けりを受ける運命にあるようにみえる。 マーラーもまた超越者に関わることによって、社会的にも叩きのめされたのではないか。 仕事のうえでのまさつは、彼がユダヤ人だったからであると同時に、 彼が超越者との関わりを芸術の領域に持ちこんで、 周囲の人間には容易に見えない高邁な理念にしたがってことを運ぼうとしたからである。 マーラー自身は、たしかに隠れたる神としての意識をそれほど明確には持っていなかったように思われるけれども、 結局彼もヨーロッパの根源に掉さすことによって、究極的には神の不在の問題に還元されることになる、 人間の生への深い反省や死との対峙を余儀なくされたのである。 彼も本質的に何かを求め探していた人間だったのだ。 だからこそときに烈しく叩きのめされながらも、いや、かえってその故に、 苦難の最中に数々の作品を創造し得たのではなかったのだろうか。
 マーラーの「アダージョ」のような作品には、温かい明るみが満ちていると同時に、 私にはまた一方でそこにはしんしんとした孤独が介在しているように思われる。 物狂いの人にのみつきまとっている、これは存在の孤独とでもいったらよいものだろう。
 たしかに私達の多くは神の不在にも、神の存在にも関わりをもたない幸福な生活を営んでいるようにみえる。 だがそのような、いわば生なき生の最中にあっても、 マーラーの音楽は突然のように私達に人間の何であるかを開示してみせるようだ。 私達はそれ故に感動し、またそこに社会的疎外感などが加わることによって、 感動はいっそうその振幅をおおきくするのである。 けれども、私達は、というより私はというべきかもしれないが、 その感動を感動として、つまり現実の生活から切り離された次元において、 芸術の鑑賞領域における感動として受け止めているが故に幸福な生活が送れるのかもしれないのだ。 もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを探しはじめるだろう。 そしていまの私には、決して不可能であるとはいわないまでも、 そうした何かを探求しつつ生きる生活は、当面日本の現実と決定的に相容れないもののように思われるのである。


 丸山桂介の上記の文章に出会ったのは、今から35年前に、音楽の手帖「マーラー」(青土社, 1980)に 掲載されているのを読んだときのことであるが、私見では、日本語で書かれたマーラーを巡る文章の中でも 群を抜いて、圧倒的で永続的な印象を与えられた文章であり、今尚読み直しても、その内容は聊かも古びて いないと思われる。バッハとベートーヴェンの研究者として知られる著者がマーラーを扱ったという点で、 マーラーの文脈ではマージナルな存在かも知れないが、時代を隔てて日本でマーラーを尚、聴くことの意義を 示しているという点では際立った内容だと思う。

 その内容をきちんと受け止めて、それに相応しい文章を書くだけの余裕が、残念ながら今の自分には 無いのだが、最小限の応答として、その内容について若干のコメントを記して後日に備えたい。

 著者は「彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに 立っているように思われる。」と述べているが、これは「隠れたる神」が 問題になりうる意識様態の構造というのが、ある特定の文化的・社会的文脈の 更に特定の時点の環境に依存したものではないという点では正しいが、 にも関わらず、権利上、如何なる歴史的時空との関わりを超越したものである という意味合いではありえないだろう。

 時間を超えることは端的に不可能であって、作曲者の死後も生き永らえている マーラーの音楽とて、時間を通って存続し続けることで辛うじて永遠に漸近すると 言いうるに過ぎない。それは社会的・文化的な場の歴史的連続性を超えて、 (恐らくは幾分の誤解とともに)1世紀後の極東の島国で受容されているが、 それが、ジェインズ的な意識の考古学におけるホメロス以前の意識の構造にまで 及ぶものなのか、あるいはカーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の 向こう側にまで及ぶものなのかは、自明なこととは言えないだろう。

 進化生物学的な意識の発達史、あるいはジェインズ的な意識の考古学と、 カーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の向こう側の 両方を収めた展望の下では、「隠れたる神」の問題はやはり、 それ自体歴史的な存在である、ある種の意識様態に固有の問題であろうし、 最も外延を広くとっても、遺伝子の搬体としての生物個体の中で 自伝的自己を伴う自己意識を備えた者に固有の問題であろう。

 超越性というのは、そうした存在様態固有の認知パターンなのだし、 そうした認知パターンにおいてのみ「隠れたる神」が問題になりうるのだ。 (ただし必要条件であって、十分条件ではないが。) 神を探すことが成立するためには、単に自伝的自己を伴う自己意識を 備えているだけではなく、そうした構造を把握し、境界に身を置かなくては ならないのだろう。カントのいう、アンチノミーに悩むことを宿命づけられている 「理性」が必要なのであり、そうした「理性」が生じるような場所でのみ、 「隠れたる神」が問題になりうるのだ。

 勿論それは、西欧固有のものに過ぎず、極東の島国ではア・プリオリに 禁じられているというわけではない。例えば北村透谷が1世紀前、(奇しくも彼の生涯は マーラーのそれにすっぽりと覆われてしまっていて、なおかつお互いに因果的な過去・ 未来に住んでおらず、知り合うことがないという意味において、 本来の意味での「同時性」が成立しているのだが)マーラーの同時代の 日本に生き、やはり或る意味において「ヨーロッパ文化への入場券」を買い、 当時の日本にあっては(もしかしたら、現代の日本においても未だなお) 例外的な出来事であったかも知れないが、彼なりの展望において「隠れたる神」を 探し求めたことが思い浮かぶ。

 「もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを 探しはじめるだろう。」というのは全くその通りだと思う。 だが何かを探求しつつ生きる生活の不可能性は、 「当面日本の現実」と「決定的に相容れない」だけでなく、 常に既に、何時の時代の何処の文化的環境においてもそうではないのか? また、マーラーがユダヤ人であったことは、リーの指摘するように、 彼が西欧の社会における「マージナル・マン」であるための原因の一つで あるだろうし、具体的なその様態を捨象することは (ここで問題になっているのが音楽作品という感性的なオブジェクトで あることを考えれば特に)できないだろうが、にも関わらず、 唯一の原因ではないし、従って「隠れたる神」の探究に至る唯一の 原因ではないだろう。

 寧ろ、マーラーの音楽が鳴り響く文化的環境に生を享け、 ふとした偶然からある日マーラーの音楽を聴いた子供は、その「出来事」を介して、 「隠れたる神」の探究に誘われるのであり、それは恐らく、 自伝的自己を伴う自己意識を備えている存在(それには全ての「ヒト」が 含まれるわけではないかも知れないし、逆に「ヒト」以外の存在が そこに含まれえないと決めつけることもまた、できないだろう)であれば 潜在的に持ちうる可能性であり、それが現勢化するかどうかは、 「出来事」の到来という偶発時にかかっているのだし、逆に一旦 そうした「出来事」が到来してしまえば後戻りはできないのだろう。

 著者は「しょせんは音響態に過ぎないかもしれない」としても「芸術」に おいて、「或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが 表れる」と述べているが、これも全くその通りだろう。ただしその如何にしてを 考えたとき、それは作品の素材に過ぎない標題性などとは別の水準で可能になって いることには留意すべきであろう。作品は(マーラー自身、晩年に妻に対して 書いたように)「抜け殻」に過ぎないだろうし、「出来事」の経験についていえば、 その痕跡に過ぎないだろう。だが一回性で反復不可能な到来としての「出来事」は その痕跡であるところの「作品」なくしては、記憶され、想起され、 反復され、継承されえないのだ。「出来事」の主体の有限性を超えて、 死後の生命を獲得することはできないのである。

 作品は活動プロセスの痕跡であり、その定着には記号化・離散化・ デジタル化が不可避である。化石がそうであるように、響きそのものではなく、 響きのパターンが記録される。それは「抜け殻」(マーラー)かもしれないが、 自己を超えて生き延びることとは、そのようにしか可能ではない。 見方を変えれば、そうすることによって生物個体としての有限性を 超えて、遺伝子の複製とは異なった水準での、個体の記憶の継承、一回性の 「出来事」の記憶の継承という「反逆」(ダマシオ『自己が心にやってくる 意識ある脳の構築』)が 可能になるのだ。それは「抜け殻」であると同時に、(マーラーが、これはゲーテの 「ファウスト」第1部の地霊の台詞を引用して述べるように)「神の衣」でもあるのだ。

 我知らずして、いわば盲目的に神の衣を織るためには、自伝的自己を 伴う自己意識は必ずしも必要ない。だがある価値にコミットして、 己の出遭った価値あるものの(漸近的な)永続化をめがけ、 そうした出遭いという一回性の出来事を記憶し、出来事の一回性を超え、 自己の有限性をも超え、他者に向けて継承することを目指して、 作品としてデジタル化する意図をもって「衣を織る」ことは、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ない。

 そして、そのことを「作品」を聴くことによって感じ取るのもまた、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ないだろう。否、実際には、 マーラーの音楽を聴くという経験が、意識がある様態を持つように自己 形成することに寄与している筈なのであって、それ自体が或る種の 文化的複製子(ミーム)なのである。自伝的自己を伴う自己意識が 取りうる或る種の意識の様態、超越性、外部からの到来に対する応答と いった出来事が生じるような様態を伝播させる搬体がマーラーの 音楽作品という文化的複製子だ、というわけである。

 それはある種の 共進化の如きものとして捉えることができるのかも知れないが、 それよりも私にとって興味深いのは、マーラーの作品の構造が持つ、 意識の様態との構造的な類似性である。マーラーの音楽は、ある種の 意識の様態を別の素材を用いて物質化して定着させたかの如くであり、 それ自体は「生きて」はいなくとも、生がどのような構造を備えて いるかは、それによって推測できるような構造物であり、その限りで カールハインツ・シュトックハウゼンが、宇宙人が「人間」のことを 知ろうと思ったら、マーラーの音楽を調べれば良いといったのは (勿論、その「人間」は、生物学的な意味でのヒトのことではなく、 広くとってもジェインズのいうヒュポスタシス以降、カーツワイルの 特異点以前のエポックの、自伝的自己を備えた意識を持つ存在という ことになろうが)、それなりに正しい直感に基づく発言なのではと思われる。

 マーラーの音楽は、優れて「意識の音楽」であり、マーラーの音楽自体が、 自伝的自己を伴う自己意識の「時代」を証言し、その構造を映し出し、 その宿命を示唆する存在、つまり自伝的自己を伴う自己意識の自己認識の 結果であり、尚且つ、そうしたマーラーの音楽を聴き、それによって自己を 形成し、その上でそれについて証言することは、そうしたマーラーの音楽に 対するコミットメントとしての行為遂行性を帯びており、それは自伝的自己を 伴う自己意識の自己の宿命に対する或る種の「反逆」に対するコミットメント でもあるのだ。

 それをマーラー音楽というミームの詭計と捉えることも できるだろうし、そうした見方にも一部の理はあるだろうが、もしそうであると するならば、更に一歩進んで、マーラーがこのような音楽を創造したこと自体もまた、 或る種の宿命であり、仕組まれたものなのだということになるだろう。著者の言うように、 マーラー自身が「来たれ」という呼びかけに応答すべく、作品を創造したのだが、 今度はその(作曲者が、ではなくて)作品自体が、聴き手に対して「来たれ」と 誘うことになる。

 ここで、シェーンベルクのプラハ講演における第9交響曲に関する コメントを想起してもいいだろう。曰く、作曲者はメガホンに過ぎず、その背後に 真の主体が居るといった見方は、まさにここで問題になっているような構造を 言い当てたものに違いない。その主体はまた、第8交響曲の2つの「来たれ」の 命令を発した存在なのだが、それは一体誰なのか。

 進化論についての論争でもそうであるように、そうした詭計を仕組む者を 「神」と呼ぶ立場もあろうし、「隠れたる神」がそうであるように、寧ろそうした 立場こそが伝統的、正統的な立場なのであろう。だが今日であれば、それは或る種の 自己組織化の結果、創発的な現象と見做すべきではなかろうか。マーラーの音楽を 19世紀末の西欧という、歴史的・文化的環境に還元して理解するのではない、別の可能性がここには 開けているように思われる。「神」や「天使」という語彙ではなく、だが、 超越を、出来事の到来を語る別の語彙が必要なのではなかろうか。 神を殺すのではなく、その後の時代に相応しい「隠れたる神」を探す別の仕方が ここでは問題になっているのだ。ドイッチュの言う「無限の探究」もまた、 そのような試みの一つなのだと私には思われる。

 神経科学の発達で脳のメカニズムが少しずつ解き明かされ、 意識についての語り方が変わりつつある今、それは、別の仕方で説明し直されることを 求めているのではなかろうか。そしてそれは、まずもってマーラーの音楽を 狭義の音楽学の語彙によってではなく、或る種のシステムとして捉えること、 狭義の美学の語彙によってではなく、情報の観点から捉えることによって可能に なるのではなかろうか。そしてそれはマーラーの音楽を、それ自身そのように 志向していたように、狭義での「芸術」の閉域の境界において考えることを 求めているのではなかろうか。マーラーの音楽はベイトソンの言う 「無意識のエクササイズ」なのであり、超越的なものへの開け、出来事の到来を 記録したアーカイブであり、カーツワイルの言う特異点の手前に居る人間にとって、 差し当たり特異点に達するまでの間は少なくとも意義を持つものに違いないのだから。

(2015.4.22/24)

2014年2月16日日曜日

マーラーの音楽の時間性についてのメモ

音楽は時間の組織化、構造化である。それは生物的な、感覚受容や身体的事象へ反応といった体験の時間とは異質の、非日常的に、人工的に編まれた時間の結晶体である。音楽的時間の経験は、様々な時間経験の一種に過ぎないが、それは高度な意識を持つ生物種である人間ならではの社会的・文化的な歴史の沈殿物の摂取であり、或る種の意識経験の様態を自分の中に(変形しつつ)移植することである。 叙事的、ロマン的(アドルノ)と形容される時間の流れを、その複雑さを毀損することなく捉えようとしたとき、充分に意識的で、 批判的・反省的な知性の持ち主であったマーラー自身による説明におけるゲーテの原植物を含む有機体論や進化論的メタファー(エンテケレイアなど)の進入については、その事実を骨董に関する薀蓄よろしく、歴史的な事象として指摘することなどではなく、さりとてそれを単なる比喩や修辞として、音楽自体とは別のものとして無視するのでもなく、システム理論や複雑系の理論の発展を通過した今の地点から捉え直すことこそが必要であろう。

調性組織における発展的調性は、楽式論における単なる反復、ダ・カーポを嫌い、絶えず変容し発展しようとする傾向との間に 明白な相関を有するのであって、出発点に過ぎない和声法や楽式論の図式を逸脱してしまう。その結果として、多楽章形式はここでは 複数の視点、複数の層からなる時間の布置を実現するデヴァイスであり、多重世界論(デイヴィッド・ルイスの様相実在論)の如き理論装置を要請する。 マーラー自身が敏感に感じ取り、指揮者への指示として書き込んだように、楽章の始まりと終わりは一様ではないし、楽章間の関係も、 画一的な単なる中断、中休みには決してならず、ある時にはそこに断層があり、ある時には休止を跨いで連続するといった具合に、 その連関の様相は多彩である。 オーケストラならではの、非平均律的な均質でない和声組織に支えられた調性格論は、直接的には共感覚的に色彩を喚起するものであると同時に、心理的時間としては、モーダルなヴァーチャリティの様々な質・諧調を実現しており、その肌理の細かさに対応した理論装置を要求する。

*   *   *

マーラーの音楽は、職人技による工芸品的な単純なパターンの反復、規則的な変形による線形変化のもつ、物理的とでもいうべき 時間ではない。他方で、外的なプロットに束縛されることのない、独立したモナド的な主体性を備えている。 それが近藤譲の言う「身振り」の音楽であるというのは、命題的態度の音楽であるということであり、それは高度な心性を持つ 意識的主体においてのみ可能となる構造を前提として初めて生じうる時間性を備えているということであり、その時間性は 現象学的・実存的な時間論が分析の対象とするようなものである。

そしてそれは閉じているわけではなく、世界、他者との接触により生じる間主観的な出来事としての実存的時間を備えている。 その空間性は、相対論的に出会うことなく、常に遅れてしか出会い、応答できない同時的存在としての他者との距離であり、 主体の内的時間と同調しない、容赦ない推移の流れ(「世の成り行き」)に身を浸すという意味で、高度な心性を有する 意識的な主体の間主観的な生成過程の組織化である。

その限りにおいては、異星人が地球上の人間について知りたければ、 マーラーの音楽を調べれば良いという、カールハインツ・シュトックハウゼンの言葉は妥当性を持つ。これは(とりわけても 西欧的な意味合いでの)「人間」でなければ産み出しえない類の音楽であることは間違いない。更に、ジュリアン・ジェインズ的な 意識の考古学的な展望を、レイ・カーツワイルのような技術特異点論者のポスト・ヒューマン的な展望と接続する立場からは、 これは将来のある時点で、「かつての人間」の意識の様態を記録した考古学的遺物になるのだろう。マーラーの音楽が音楽で 在り続けるのは、「人間」がかつての、そして大きな変容を蒙りつつ、今なお辛うじて存続している「人間」の存続期間の 範囲内であり、賞味期限つきなのである。ジェインズの記述するホメロスの時代、あるいは西洋中世といった意識なきエポック ではマーラーの音楽はありえなかったし、タイムマシーンで遡及して送り届けたところで理解不可能なものであったに違いないが、 未来の方向に向けても、三輪眞弘さんが「感情礼賛」で「夢を見た」ようにポスト・ヒューマンのエポックにおいてはマーラーの音楽は理解不可能なものとなるであろう。(再帰的に、音楽を聴取する、しかも自己自身のような複雑な音楽を聴取する経験自体もまた、そうした時間性を備えている。このことから、マーラーの音楽自体が聴き手にとって優れた意味での他者である、つまり複雑な内部構造を有し、固有の時間性を持つ他者であり、レヴィナス的な意味で、決して自己固有化できない「他者」であるということが帰結する。それは私の中に埋め込まれても、或る種の飛び地、クリプトとして 存在し続けるだろう。)

*   *   *

マーラーの音楽の時間はアドルノ風の、「突破」「停滞」「充足」「崩壊」といったカテゴリが示唆する心理的時間であり、 意識の構造に由来するアスペクト的な特性を持つ。楽章内においても時間の断絶、複数の層の不連続な継起があり、 ホワイトヘッドのプロセス哲学における時間論における「時の逆流」を彷彿とさせるような瞬間にも事欠かない。 それは単一の時間ではなく、複数の重層的な時間。時間の分岐と合流であり、ヒンティッカが試みたような可能世界意味論による解釈の下で、 フッサール現象学における内的時間意識の不連続性を取り扱う必要性を認識させる。

第一次過去把持・第二次過去把持の区別は勿論、忘却・想起・回想といった出来事を、多重世界の圏域体系上で解釈しようとしたとき、 しばしばその人工性や模倣的で根無し草の性格が取りざたされるマーラーにおける「民謡」調や、とりわけ「大地の歌」での 東洋趣味もまた、スティグレール的な第三次過去把持による前主体的過去、社会的、集合的記憶への仮構された遡及としての (ありえたかもしれない、架空の)「民謡」。「東洋」(「大地の歌」)として、同じ多重世界の圏域体系上で解釈可能な ものになるのではないか。

*   *   *

そしてその先には、第10交響曲がある筈であった。嬰ヘ調という調性の持つヴァーチャリティと、その文脈における ニ長調がコントラストによって蒙る変容。過去が絶対的な過去になり、現在は通常の時系列的なパースペクティブから 隔離されて浮遊する。(臨死経験との類比からすれば、それは可能性としての「未来」を最早持たないことの 帰結なのだろうか?)だがそこにおいてこそ、(数学的な意味での)極限としての未来の到来・生成の場があり、 それは主体の側からは自己超越による死と再生の過程である。第10交響曲はそうした時間を作品の裡に 刻み込んでいるという点で、極めて特異な作品である。

この作品が未完成であることについては多くのことが 言われているが、この音楽が、芸術に許されたヴァーチャリティを限界まで徹底させ、「実現しない未来」の 時間を定着しつつあったことを思えば、ありとあらゆる迷信の類を取り除いた後に、その実質と、作品が「この」 現実世界、様相実在論的な可能世界意味論における用語法におけるそこでは、それがスーパーヴィニエンスである ことを確認した上で、未完成に終わったことに対して、「人間」は何某かの意味を読み込みたい欲求に抗うことは 難しい。それを「あまりに人間的」と断定する批判は正しいが、「音楽」が結局は「人間」のものでしかないことに 対する無視は致命的である。

*   *   *

第8交響曲の冒頭のEsのペダル音は、人間の消滅の時に響く「基底の音」であるかも知れない。(実際、三輪眞弘さんの 「ひとのきえさり」ではEintonという「楽器」がそのように響く。)第8交響曲はアドルノ風には「突破」の瞬間の 拡大であろうが、その音楽は経過につれて、人間がそのままの姿では見ることのできない出来事と化してゆく。 勿論、(プフィッツナーが悪意を篭めて揶揄したといわれるように、またアドルノが両義的な態度の中で、不承不承か、 あるいは寧ろ、己の恃む否定性の威を借ってか認めたように、それは「到来しなかった」かも知れないのだ。 それは1世紀後の極東で、深夜、自室で「録楽」としてそれを聴いた聴き手のちっぽけな脳内で起きた事象に過ぎず、 何も変わっていはしない。これまたアドルノの言うように、ファウストの終景から聖書的近東を経由して 辿り着いた「大地の歌」の極東は紛い物に過ぎないかも知れない。だが、どんな形而上学も可能ではないということが最後の形而上学たりうる ように、あるいはまた、架空の極東の民族の(だから決して「到来したことのない」)滅亡を記憶する機械による朗読が、 あたかも最後の「音楽」のように、あるいは「音楽」の終焉のドキュメントとして、それ自体は現実に生起し、 その事実が語り継がれていくように、第10交響曲の、決して到来することのない、決して経験することのできない 時空は、マーラー自身によって完成されることはなかったけれども、デリック・クックによって演奏可能な形にされ、 1世紀を経てなお、極東の地で再演が試みられる限りにおいて、まさに「音楽」として、「音楽」を介して、 現実的に生起するのである。

かつての「音楽」、かつてそう呼ばれ、今なお、人がそれをそう呼ぶことに何の疑問を抱かない音楽作品と その演奏を振り返ってみたとき、逆に、或る過去の時代の、自分とは異なった歴史的・文化的伝統に属する人間が作曲し、 記譜して残した作品を、別の誰かが演奏するとき、あるいはまた、不幸にして未完成に終わった作曲を、 別の誰かが補うとき、更には同時代にいながら、それゆえに常に遅れてしか応答できないにせよ、自分のできる仕方 (それ自体は「音楽」ではないかも知れない)での応答を試みるとき、そうした人間の営みによって、 音楽が、第一義的にはまず自分自身という人間のためのものでありながら、そうした自分という或る種の制限、 檻の如きものが制限づけているに違いない視界の狭窄、感性の水路の狭窄にも関わらず、 その音楽(だがそれは、正確には「どれ」のことを、「どの範囲」の出来事を指しているのだろうか?)が 人間の限界を超越して、想像することの出来ないような彼方へと(そう、まるで宇宙船にカプセル化されて 未知の知的生命体に向けて送り出されたものであるかのように)、突き抜けていってしまい、 私のようなちっぽけな人間には及びもつかないような存在に感じられることが、しばしば生じる。 その限りで、いかに突飛で滑稽に見えようとも、アドルノが「大地の歌」に関連して、宇宙飛行士が外側から 見ることになる地球の青さを先取りしていると述べたのは、それがジャン=ピエール・デュピュイの賢明な破局論 での意味合いにおける「予言」である限りにおいて、文字通り正しいのである。だとしたら、レイ・カーツワイルの 述べる技術的特異点の彼方で生起することの「予言」が、第10交響曲において、それ自体未完了で開かれたままの 状態で行われていると考えることもまた可能であろう。

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勿論、技術的特異点の彼方において、この「音楽」が、否、おしなべて「音楽」自体が最早意味を喪失し、 無用のものとなる可能性もある。そうではなくても、かつての「人間」の制約条件に強く拘束されているがゆえに、 過去の遺物として、博物館での展示品としての価値しかなくなる可能性もあるだろう。その一方で、第10交響曲の 「今」と「ここ」がようやく適切な現実を獲得する事態も考えられるだろう。マーラーより更に100年前にヘルダーリンが、 早すぎる晩年の寂静の裡に記した断片 "Wenn aus der Ferne" の「今」「ここ」と同様、現在の現実世界では ヴァーチャルな、「場所なき場所」を指し示すそうした作品が、丁度ホメロスの叙事詩のように、今より更に100年後、 新たな光の裡で、新たな光を放たないと誰が言いうるだろうか?

全ては両義的である。まさにそのために書かれたにも関わらず、完成した暁にはコンサートホールでオーケストラによって 演奏されることになっていたことが明らかなこの作品は、しかしながら、演奏はおろか、作曲の途上で、楽譜の上においてさえ、 そうした形態を採る前に作者たるマーラーの手を離れた。だが、技術的特異点の向こう側から 見たとき、生物学的な基盤の持つ限界からの自由を獲得し、時間的にも空間的にも、現在の人間の持っている 制限から自由になったとき、人間のアイデンティティの定義も当然だが、作品のアイデンティティの側もまた 変容してしまった後で、この作品を取り巻く様々な状況の意味はどのように変わり、どのような形態で、 どのような媒体での受容が行われることになるのだろうか。最早人間の可聴域の制限すら超え、媒体の制約も超えて、 クックの作業の更なる延長線上に、寧ろその未完成が故のポテンシャリティによって、現在では思いもつかないような 受容のされ方がなされるかも知れない。

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人間的なものの極限に、人間を超えたものが顕現するかに思われる瞬間がある。通常の自己の記憶の回想ではない、 自己の経験していない過去を展望できるかに思われる瞬間があり、それに応じて、実現可能性のある現在の延長としての 未来ではない未来、人間の意識がその形態のままでは経験不可能に思われるような未来、極限としてしか想像できない未来が 顕現するかに思われる瞬間がある。音楽は実際には起きはしないことをあたかもそれが今ここで成就したかの如く偽る 詐術などではない。それは現実とは異なる実在の多重世界の別の一つにおける別の現実の投影なのだ。

これは現在の瞬間が拡大されて、永遠と化する奇跡ではない。そこで起きるのはまた、充実ではなく、「ノエマの 爆発」の如き出来事であり、寧ろ自己は没落し、滅して、純粋な受動性の領域が現れ、外から何かが到来する瞬間、 外に対して自己を被曝する瞬間であると同時に、主体の自己超越の瞬間なのだ。そうした瞬間は孤立した出来事ではなく、 それが生じるための力学が働く多層的な脈絡と多岐的な広がりとが必要となる。 マーラーの音楽は、そうした瞬間をその中に胚胎しているという点で特異な音楽であろう。そうした瞬間を孕む 時間的な構造はそれ自体、人間の歴史の蓄積の結果であり、マーラーの音楽はそうした文脈の下で起きた一回性の事象であった。 勿論、もう一度歴史が反復されれば、それが生じる可能性はあるが、それが生じるのは必然ではなく、系の持つゆらぎの 産物に過ぎず、異なった径路を辿ることになると考えるべきだ。

その音楽にあっては「ここ」こそが主体にとって未だ訪れることがなかった異邦の地であり、「自己」が滅したときにしか 出現しないという意味で、最も主体から遠い場所なのだ。これほど「人間」から遠ざかった音楽は、だが「人間」にとって遠いのであって、それは「人間」的主体の構造に基づいていて、それゆえ優れて「人間」のためのものなのだ。 シェーンベルクの第10交響曲への評言は、しばしば歴史的には誤解に基づいた、仰々しいほどまでに大袈裟なものと されることがあるが、実際には個別の出来事の事実関係の差異を超えて、その音楽の質を正しく言い当てている。 我々は、それを聞くための準備がまだ出来ておらず、その音楽に値しない。その故にその音楽は我々にとって未完成のまま留まる。それは常に未来に向かって開かれたまま、聴き手の個体の限界をさえ超えて存続し続ける。(2014.2.16初稿,2.21加筆)

2013年4月28日日曜日

マーラーの音楽が私に語ること:「時の逆流」について

マーラーの音楽を聴く時、一体何が起きているのだろうか。マーラーの音楽が私に語ることは何か。

現前している楽音の内に、先行する楽音が留置されることをフッサールは第一次過去把持と呼ぶ。 かくして保持された先行する楽音の直接的記憶は次の楽音への期待を産み出す。 こちらはフッサールの内的時間意識の現象学の枠組みでは未来把持と呼ばれる。 第一次過去把持が知覚の現在の内部構造であるのに対し、想像力に属し、過去を(再)構成 するのが第二次過去把持である。第二次過去把持により所謂「記憶」の「想起」が可能になる。 ブレンターノが第一次過去把持もまた想像力によるものであるとし、第二次過去把持との区別を しなかった点にこうしてフッサールは異議申し立てをするわけだが、では本当に第一次過去把持は 想像力の産物ではないのかといえば、それはそれで単純化のしすぎであろう。実際には第二次 過去把持は第一次過去把持と「ともに」しか成立しえないし、第一次過去把持は第二次 過去把持の影響なしには成立し得ない。

そこでフッサールにおける第一次過去把持と第二次過去把持の関係を考えてみよう。 実際には程度の差はあれ、第二次過去把持は、第一次過去把持の中に常に埋め込まれた 状態でしか成立しないことに注目しよう。すなわち、過去における事象の想起において、 まずはかつて第一次的に把持された意識の現在における想起が含まれており、 把持の想起自体がかつての把持の生々しさを帯びることもありえる。その一方で、第二次 過去把持は知覚に由来するものではなく、想像力に由来するものであるが故に、 知覚に由来する現在における地平の様々な意味付与の動機付けから全く自由というわけには いかない。記憶を第一次的に把持しなおすことは原理的にできないのだ。それゆえ想起には 現在の把持に由来する変様が伴う。 一方で、第二次過去把持なくしては、睡眠や失神による意識の中断を乗り越えた流れの 同一性を確保することができないから、結局「私」を成り立たしめているのは、第二次過去把持の 働きに他ならない。

音楽を聴くというとき、直接的には第一次過去把持のレベルで音楽対象の時間の流れが 形作られる。では第二次過去把持が音楽にどのように影響するだろうか。 音楽作品の巨視的な構造、流れの脈絡の把握やこれから起きる音楽的事象への期待の 地平の構築には第二次過去把持が不可欠である。つまり今聴いている部分の受容に 極限せずに、作品の全体像を把握しながら聴こうと思えば、第二次過去把持は欠かせない。 とりわけマーラーの交響曲のような長大な作品、単一の楽章が長大であるのみならず、 複数の楽章から構成される作品、更には作品間に主題的・動機的連関のネットワークが 張り巡らされているような作品群を対象としたとき、第二次過去把持の蓄積の豊かさが 第一次過去把持における聴取の豊かさを可能にするという傾向は著しいものになる。

録音技術の登場により、全く同じ演奏を繰り返し聴くことが可能となった時、その都度の聴取の方は 同一なものではありえない。この同一物の差異の由来は先行する聴取の経験の記憶への沈殿物 (一般に「知識」と呼ばれるもの)の作用であり、あるいは都度の聴取の際の周辺の文脈の違いである。 ここでいう周辺の文脈には、自己の身体内事象や心理状態から始まって、自己を取り巻く環境の ありとあらゆる側面における差異が含まれる。ところが周囲の文脈もまたそれぞれ、過去の来歴に よって用意されたものである。(ただし、その全てが「私」にとって遡及可能なものであるわけではない。 相対性の原理により、同時に生起した事象の直接的経験が不可能であるのに対応して、 私の経験していない過去が私が属する「世界」には沈殿しており、私は私の知らない過去からの 影響を間接的なかたちであれ受けているのである。) 第二次過去把持は、第一次過去把持を選択するための基準、音楽の場合なら、音楽的対象を 構築していく条件を規定する「期待」の「地平」としての役割を果たす。だがそうした第二次過去把持の 背後にある録音技術による同一演奏の反復の可能性は、まずは事実問題として第二次過去把持の あり方に無視できない影響を及ぼしている。その点に注目したのが、スティグレールの第三次過去把持である。

スティグレールの第三次過去把持は、レコードやCDのような録音・再生技術の発達によって可能になった ものであり、意識とともに無意識をも構成する。そして同一対象の権利上無限の反復の可能性を、 単一の私に対してのみならず、我々に対して可能にする点にポイントがある。 第三次過去把持は、私的なものを超えた、私の遡行できない過去から到来したものであり、同時にそれは 「我々」を規定し、もう一度、今度は未来に向けて私的なものを超えた、私の到達できない未来への 地平を構成する。それが可能になるのは技術を媒介にしてであり、私が自分の個体としての限界を超えて 理念的なものに到達するためには技術の媒介が必要なのだ。マーラーの音楽であれば、まずは「楽譜」が そうした(スティグレールならオルトテティックな記憶技術と呼ぶであろう)媒介であり、録音された演奏の記録も また、それらの集積の結果として理念的対象としてのマーラーの音楽「そのもの」を仮構する契機となる。 更にレコードやCDのような録音・再生技術の発達により、知覚は映画的なものでしかなくなる。 メディアが可能にする時間的対象の同一の反復の経験によって、カント的主体の意識の流れ、 超越論的な枠組みへの踏みとどまりは最早不可能となり、カントにおいては超越論的枠組みで 考えられていた想像力=構想力の働きは外在化され、物象化されたとスティグレールは述べる。 それは意識の個別性を毀損する可能性を秘めている。

そもそも想像力=構想力は、カントの「純粋理性批判」の第1版において純粋悟性概念の超越論的演繹の 部分における3段階の「綜合」をになう能力(生産的構想力)として、超越論的統覚に先行する 「すべての認識、特に経験の可能性の根拠」(A118)として提示されながら、ハイデガーが「カントと形而上学の 問題」で指摘するように第2版における当該箇所の全面的な書換えによりその役割を制限され、「悟性の一つの機能」 として位置づけられることになった。

既にイエナ期の若きヘーゲルがカントの「綜合」における想像力=構想力の役割に注目し、 これを「信仰と知」において直感的知性と同一視することにより、カント自身は人間の認識の限界として、 いわば極限として無限の彼方に設定したものをあっさり踏み越えてしまう。そして このヘーゲルとカントの立ち位置のずれは「判断力批判」における「崇高」の問題でもそのまま 繰り返されることになる。

カントは「崇高」(das Erhabene)について「超感覚的」であると語っている。カントにおいては「美と崇高」が 対比され、美が感覚的なものに、崇高が超感覚的なものに対応づけられる。 カントにおいて超感覚的なものは理性の理念であり、ふさわしい表現はないが、 ふさわしい表現がないことの感覚的な表現は可能なので、心情にはたらきかけることが できると述べる(「判断力批判」第23節)。ヘーゲルは「美学講義」の「崇高の象徴論」において このカントの「崇高」論の批判的展開を試みており、そこでヘーゲルは、「崇高の表現」とは 表現に相応しい対象を見出しえぬまま無限なるものを表現する試みと言っている。 ヘーゲルの批判のポイント自体は、カントが主観の側からしか崇高を見ていないことだが、ここでも カントはもともと主観の限界を見極める「批判」を企図しており、ヘーゲルが前提にしてしまっているものは カントにとっては「人間」には到達できないものなのだ。

想像力=構想力を巡るカントの逡巡に対するハイデガーの「カントと形而上学の問題」に おける批判を、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる。即ちそれが既に述べたような、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力= 構想力の役割である。

想像力=構想力による「想起」が「現実」をいわば仮構するものであるとして、更にそれを根拠 づける「外部」、私からは絶対的に到達できない過去があり、私が決して到達することのできない未来が あることもまた、上述の分析は明らかにしている。それはカントがそこで踏みとどまったように権利問題と しては問うことのできない領域であり、地平の更に彼方を、無限を思惟することに他ならない。それは カントが超越論的弁証論において論じた超越論的仮象、「純粋理性批判」第1版序文冒頭で 「人間的理性」の「特異な運命」と述べた問い、「現象」の手前ないし彼方についての問いである。 それはいわば起源への問いが停止した更に手前を問うことなのだが、そうした個体としての「人間」の 在り方を、個体を超えて、いわば背後から規定しているのが、世代を超えて継承される文化的なものであり、 それを支える媒体として生物学的な身体を補綴する「道具」であり、その基盤としての「技術」なのである。 「技術」は個体にとって生成の根拠である一方で、常にその個体の特異性を脅かすといった構造もまた、 「人間的理性」の「特異な運命」なのであり、マーラーの音楽はそうした運命の中で創造され、 演奏され、記録され、聴取されているのである。

マーラーをCDで繰り返し聴くことをもう一度考えてみよう。誰かのいつぞやのマーラー演奏記録 (それは一回性の出来事であるとしよう)を繰り返し聴くことは、 だが、ライブ録音と呼ばれているものも、しばしば同一プログラムの複数回の演奏を編集 することがあるし、セッション録音の場合はそもそも「演奏の一回性」自体が虚構となってしまっている。 だが、ここで問題にしたいのは演奏の地平ではなく、マーラーの作品というもう一つ手前のレベルなのだ。 CDによる記録だけでなく、コンサートホールでの実演の聴取の記憶、或いはピアノでトランスクリプションの 一部や歌曲のピアノ伴奏を弾いてみる経験といったもの、更には様々な楽曲分析や背景についての 研究等も含めたマーラーの作品にまつわる「私」の経験の総体が投影されるスクリーンに映し出される 或る種理念的な対象としてのマーラーの作品のレベルを問題にしたいのである。

マーラーの創作過程を知る者は、記譜法のシステムというのが単に出来上がった作品を記録する といった保存の水準のみならず、創作の方法自体に本質的に組み込まれていることに気づかざるを 得ない。マーラーの作曲の仕方は記譜法のシステムに根本的に依存していて、それはあらゆる 場面で登場する。記録された楽譜もまた決して完全に安定した状態にはならない。作曲家=指揮者 であったマーラーは、自分で演奏をするたびに管弦楽法に手を入れたとは良く知られているし、 後世の指揮者にも改変の権利を与えたという証言が伝わっているが、そうであれば一体どれが 「本物」なのかという問いを立てることにはあまり意味がなくなることになろう。 寧ろ、作品が享受される限りにおいて準安定状態にありつつも絶えず微少な調整を行いながらの 利用は常に行われているばかりか、そうした調整作業の継続こそが作品の受容を促進し、 絶えさせないための条件とすら言いうるのではなかろうか。

そしてそうした準安定状態の中での常に更新される受容が、私を成立させる。それは私の生成 そのものなのだ。 人間の個体的・集団的時間性(シモンドン的な意味合いにおいての)は、人間が後成的系統発生的な 存在であるが故に可能となる「幽霊性=再来性」と反復によって構成される時間性である。 全く孤立した「我」がまず発生し、その後で他者と出会うことで「我々」になるのではない。 フッサールが「デカルト的省察」の第5省察以来、膨大な間主観性についての草稿群で分析したように、 間主観性的な構造の発生の方が個体の 発生を規定するのであって、実際には我と我々は同時に一気に生成すると考えるべきなのだ。

であるとしたならば、デリダのいかんともし難い「運命」としていわば構造的に宿命づけられた「反復可能性」と コミットメントへの倫理的要請としての「反復」への誘いの「差異」を、マーラーを聴くという場面に適用してみたら どういうことになるだろうか?

他者への応答は、応答の内容が如何に否定的なものであったとしても、コミュニケーションが成立する以上、 最初に根源的な他者に対する肯定があって成立する。このいわば先行する肯定もまた、第二の肯定によって 確証され、反復されることなしには成立しえない。第二の肯定による確証の要請は、反復可能性が 構造的なものであるとするならば、それは確証を伴わない機械的な反復の可能性が常に存在するからだ。 寧ろ記号によってそうした機械的な反復が可能になるのであり、それを支えるのが技術である。 想像力に由来する第二次過去把持である想起によって、かつてあった/今は不在の対象が仮構され、 そうした仮構された想像的な媒介物がそれ自体自律した対象として予め存在していたかの如く 措定されたとき、理念的な同一性が確保される。ここまでは第二次過去把持による記憶が抽象化され、 個別性を喪失し、反復可能な「存在」として沈殿することで、ホワイトヘッド的には客体的不滅性を帯びる 過程を記述しているのだが、その沈殿物を生物学的な人間が備えている記憶媒体たる脳の中ではなく、 自分の身体の外側に、いわばそれを補綴するものとして物質的な媒体に記録したとき、第三次過去把持の 領域が開かれる。第三次過去把持によって「私」なしの反復可能性はいわば完成する。

その一方でデリダが要請する「反復」、確証を伴った第二の肯定としてのそれを先の第二次過去把持が 常に第一次過去把持の中に埋め込まれているという事態に照らして考えてみると、こちらもまた、必ずしも 能動的で主体的な選択としてではなく、現在の地平にいわば誘われるようにして変様が起きてしまうという 傾向を認めなくてはならない。反復の方が自動化される一方で、反復を損なう契機が常にあって、 積極的に反復しなければ、自動化された反復はいわば毀損したものとなってしまうということなのであろう。 だが逆に積極的な反復は、新たな地平における都度新たな「歓待」であり、そこに創造の可能性もまた 存しているのだ。理念的なものはアプリオリに与えられるものではない。それは第三次過去把持により、 私に先行して事前に存在しているかの如き現れ方をするが、理念的なものは未来に向けて、常に未完了の 状態で開かれたまま、繰り返し投射されることで準安定的な状態を維持できるのだ。創造は一回性の出来事だが、 再創造が行われなければ創造の結果は維持し得ない。

そしてそうした再創造の可能性はどこにあるのかと言えば、身体的できごとを外部の記号に 変えてしまう意識ではなく、意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに注目すべきであろう。 主体の不在においても反復可能でなければ、それが記号として意味を持つことも、理解することも 使用することもできないという事態は、上述の意識の時間論的構造と関連しており、 意識は身体的なできごとを記号として解釈してしまう。しかし記号は現実を抽象した結果であり、その一部を 為すに過ぎないものであって、無意識のレベルでは意識が捨象してしまう様々な因果的な効果が働いている。 そして意識主体の選択には、そうした背後で働いている効果が影響せざるを得ない。第二次過去把持まで ではなく、更に第三次過去把持を考える必要があるのは、そうした意識の領野外で意識に影響を及ぼしている 対象の機能を解明するためである。それは技術的なものと無関係ではありえないが、技術的なものに 全く従属的というわけでもない。否、技術的なものによって可能になりつつ、技術的なものが含み持つ 共時化による意識の個体性の消滅に抵抗する契機として、ベイトソンが「われわれの無意識の層を伝え合う エクササイズである」という芸術の存在意義がある。芸術が、意識を持ってしまった有機体の、その意識が 己の構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとする営みであるという規定を考えたとき、 「世界を構築しなければならない」と作者自らが規定するマーラーの交響曲こそが、この定義に最も相応しい ものの一つであるように私には思われる。

人間の意識の構造は可塑的なものであり、ジュリアン・ジェインズが示したように、数千年という 文明的な時間スケールにおいては、意識の様態は変化しうるし、意識が発生したり、 消滅したりということも起きえる。 理性的存在者の存在と、その同型性、構造的な一意性をア・プリオリに主張することはできない。 一方でフッサールが分析したような内的時間意識の構造もまた、少なくとも現在に至るまでの 「この」場、即ちマーラーの音楽が演奏され、聴かれるような場においては、準安定状態にあると 言って良いだろう。長大な持続を結するだけでなく、多様な時間性を内包するマーラーの音楽は まさにそうした意識構造が可能にするものであり、同時に、そうした意識構造により可能になる 世界に対する態度(認識のみならず、行動の面でも)の様態の或る種の「結晶」の如きものとして 考えられる。「世界を構築すること」というマーラーの自分の創作(直接には第3交響曲)に 対する良く知られたテーゼは、自分が作曲するのではなく、背後に居る何者かに書き取らされて いるような感覚の証言とともに、マーラーの音楽が優れてある時代と場所における意識構造と 不可分の関係にあることを告げている。

そしてそれは同時に、そうした意識固有の想像力の場、ヴァーチャリティの時空間を内包している。 そればかりではなく、第三次過去把持としての記憶技術によって、遺伝子の複製・交差によって 世代交替が起きるせいで、個体の経験が継承されることがないという制限を超えた理念的なもの へと関与することを可能にしている。そうした音楽にとって、ファウスト第2部の終幕の場はまさに 自己言及的な内容であるだろう。そこではファウストの甦生が語られ、比喩的な仕方で語られた 理念的なものの客体的不滅性が意識を超越を経て、新たな甦生に誘うという機制が 表現されている。マーラーの音楽の単なる文字通りの反復を嫌い、だが、 主題を再現させるときに、紛れもなくそれがかつて提示されたものの再現でありながら、 かつてとは最早同じではなく、非可逆的な過程を過ぎ越してしまい、もう元には戻れないと いう印象を強くもたらし、更にそのことによって、再現されることによって初めて主題が確保されたかの ような印象を与えるとともに、未だに生成の途上にあるといった様相を呈するという時間的な 構造はそうした「作り=為す」ことの衝動に見合っている。

創造は一回性の出来事であるが、反復し、常に動き続けることにより安定状態は維持されるので あり、目的論的図式から出発して錯覚されるように安定状態において動きが停止するわけではない。 エントロピーの極大の状態をではなく、エントロピーを減少させることによって準安定状態を維持し続けるためには、 系は閉鎖系ではなく開放系でなくてはならず、常に外部からエネルギーの供給を受ける必要がある。 そして系に新しさをもたらすのは、系を破壊する可能性のある偶然的なもの(ノイズ)であり、ノイズを いわば「消化する」ことによって自己組織化システムは維持されるのである。このときシステムは外部を持ち、 内部には多層的な部分構造を備え、安定化機構としての記憶を保持する必要がある。 そこでは偶然やノイズや死のプロセスが、組織化や学習の中で創造の契機となっているのである。 そしてマーラーの音楽はそうした高度な自己組織化システムである意識の構造を反映した意識の音楽なのだ。

その軌道は複雑で、簡単に記述することを拒むけれど、一例を挙げれば第3交響曲の終楽章の 練習番号26番におけるような、あるいは第8交響曲第2部の練習番号156番におけるような マーラーの音楽のあの強烈な「再現」に匹敵するものを私は他の音楽に見つけることができない。 それは単純な反復ではないのだ。

例えば第8交響曲第2部の練習番号165番の第1部の第2主題(Imple superna gratia)の再現。 主題が再現するということの持つ圧倒的な力をここまで徹底的に感じさせる瞬間というのは、なかなかない。 最早これは日常的な時間意識の裡にない、というのは確かなように思える。仮に第1部を聴かずにいた 場合であっても、私はこの作品を(楽譜によって、あるいはCDのような記録媒体の助けをかりて、何度も 繰り返し聴くことにより)記憶してしまっているので、記憶と知識によって、それを補うことができるのが、 この部分は、マーラーの決定的な主題再現がいつもそうであるように、それが単純な反復ではない 「再現」であるという徴を帯びている。或る種の時間的な感覚を呼び起す何かがあるのだ。 「かつてあった」という感覚、そこから遙かに遠くに至ったという感覚。目も眩むような 距離感が「再現」には含まれている。 マーラー自身、ここの箇所にetwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと記しているのだ。 歌詞もまた、Er ahnet kaum das frische Leben,...と、ファウストの再生を歌う。)

あるいはまたマーラーの音楽においては枚挙に暇がない、「後戻りができないポイント」の存在。またしても第8交響曲 第2部から例示すれば、まずは練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入りが挙げられる。 アドルノとは異なって、私が一瞬何が起きたかと思い、ぞっとするのはここだ。このあたりから音楽は少なくとも 私にとって未知の、未聞の領域に入っていくのを感じる。何度聴いてもそうなのだ。何か、人間が、この儚い、 有限の生命しか持たない生物が、そしてその生物に進化の悪戯によって備わった、さらに取る足らない意識が 到達することのできない場所に、自分がそのままでは見てはいけない何かに近づいている気がする。同様に、 練習番号176のマリア博士の歌唱の部分には「到達した」という非常に強い感覚を呼び起すものがある。 またしてもずっと遠くに来てしまった、そしてもう引き返すことなく、決して戻れないのだという感覚。 ちょっとした戦慄、軽い恐慌状態。

更にはアドルノがマーラーの第9交響曲について述べた未来完了的な主題提示の問題、再現と提示の問題を 考えて見ることもできるだろう。第9交響曲に限らず、マーラーが主題の再現を強調する時、実は再現こそが 真の提示であり、最初の提示はその予告に過ぎないという見方はできないだろうか。 再現の聴取において何が生じているのか。それは単なる再認ではなく、その間に横たわる時間の厚みを 通した再認の持つベクトル性の深みを感受しつつ、そこに単なる反復ではなく、冗長性という意味での 秩序に収まらない新しさを経験するという事態が生じているのではないだろうか。この事態こそまさに、 既に述べたあの、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる場面そのもの、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力=構想力の 役割が確認できるような場面、高度な有機体における(再)創造の過程を定着させたものではなかろうか。

そしてプロセス哲学における「時の逆流」はそうした高度な有機体における(再)創造の過程の時間性を 捉えたものなのである。 プロセス哲学的な超越は創造性の否定であり、2つの生成の間を越えるだけではなく、可能的世界を事実 性によって限定することを通じて現実性から可能性への永遠的客体へと超えることでもあるとされる。 そして時の逆流とは、 「意識の生成の中で配景を形成している諸事象―当然のことながら、この中にたったいま過ぎ去った 根源的現在が含まれる―の死としての自己疎外を体験しつつ、その意味でそれらの事象の心性の滅した 未来を体験しつつ全体としては永遠の客体との関わりが不確定から確定への進む、心性の甦生への歩みである。」 (遠藤「時の逆流について」pp.39-40)

勿論、上述のプロセス哲学的な「時の逆流」は、事象連鎖を通じての対象の生成のレヴェルではなく、 実体体属性という永遠的対象に関わるレヴェルでの一事象の生成の時間を捉えようとしたものであることに 留意すべきだろう。具体的な聴経験について考えるとき、確定的な部分事象の連鎖の中での事象の生成に 基づく対象の生成を考えるならば、これは「時の逆流」が問題にしているレヴェルから見れば、いわば二次的で 派生的なレヴェルを扱っていることになる。だがその一方で、そのような二次的なレヴェルで時が恰も 逆流しているように感じられるとするならば、それはいわば幻想であって、実際には時の逆流自体を経験している わけではないにせよ、その感じの根拠を問うことはできるだろう。或る種の目的論的な発想は、それ自体が 意識がそれと気づかずに構成してしまうフィクションであるにしても、それを可能にするメカニズムが存在し、 まさにそれが意識を生じさせているのであれば、そうしたメカニズムの働きが「時の逆流」の「感じ」のいわば 原因となっているのだ。いわば自分自身を支える背後の機制を垣間見るようにして、二次的に「感じ」としての 「時の逆流」の経験が生じるのであろう。

あたかも生成する事象が、先行する過去の事象よりも、これから起きるであろう未来の事象によって 決定されるかのように思われるとき、現在の生成の創造性の源泉は過去ではなく未来にあると考えられる。 これはいわゆる目的性に従った行動の連鎖において、あたかも意図に添って事象が生じるかのような 幻想(というのは実際の出来事の系列は因果決定論を覆すものではなく、そうした意図そのものが 過去の出来事の結果に過ぎないからである)が生じるケースとは区別される。勿論、この場合でも そうした幻想が生じるのは何故かをなおも問うことはできるだろう。音楽作品のようないわゆる人工の 産物においても、結末に向かうようにいわば「仕組まれて」いる場合にそのような感覚が生じることが あるだろう。

だがそれとは異なったケースがある、それは予示されていたものが今これから実現する瞬間、 しかもその瞬間になってはじめてそれが予め可能性として示されていたことが、いわば事後的に 判明するような場合、つまるところ「新しい秩序」がもたらされたように感じられるような瞬間、 後成説的に潜在的であったものが成長して発現したかのような、不可逆的な過程が生じた ことがわかり、その時点から過去を回想したときに、その過去は最早遡及不可能なもの、 あたかも前生での出来事であるかに感じられる瞬間において感じられる「時の逆流」もある。

そうした瞬間はどんな音楽にも生じるというわけではない。それは或る種の時間的構造の下で しか生じないし、そうした時間的構造が生じるために作品が備えていなくてはならない構造的な 条件があるだろう。すなわちそれは、秩序に傾斜したあからさまな人工物ではなく、だが 自然現象の中でも物質的、無機的な構造(結晶構造のような秩序を思い浮かべれば良い)に 似たものではなく、さりとて無秩序でもない、エントロピーや情報量という尺度では単純に測れない 秩序と無秩序の中間領域にある「複雑性」の領域にある作品の場合、言い換えれば、 有機的な生命現象の模倣に近い、層的で内部構造を持ち、固有の時間を持つ複数の部分よりなる、 複雑さを備えた後成説的発達が可能な、自己組織化に類比できるような作品において感じられる場合である。

「時の逆流」が感じられるのは、そうした作品の中のある瞬間においてなのだ。明確な目的に 向かって進んでいくべく、隅々まで意識的に作曲しつくされた作品ではなく、寧ろ作曲する主体の 背後にあって主体の志向を定めている無意識的なものの声に従い、夢に見られるようなプロセス、 つまるところ内的時間意識を備えた主体のものではあるけれど、寧ろそれを支える背後の 自己組織化の過程によって形式そのものがその都度形作られる作品において感じ取ることができる 「時の逆流」があり、マーラーの音楽におけるそれはこちらの方なのだ。意識が決して見ることのできない 自己の起源を覗き込む瞬間、それは現在の延長としての未来把持ではない、これまた意識がそのまま 自己を滅することなく到達することが不可能かも知れない未来への超越の瞬間である。

そうした瞬間は構造的に定められるものなので、構造的な聴取を行っている限りは、それが起きることを 知っていたとして印象が薄れることはない。逆に「時の逆流」を感じ取るためには、その作品の膨大な 脈絡を記憶し、何が潜在的に用意され、何が実現可能かを(無意識的にであれ)押さえている 必要があるのだ。まさに音楽としての経過を知覚するために最低限必要な第一次過去把持の レヴェルではなく、それを背後から規定する第二次過去把持は勿論、第三次過去把持のレヴェルに 及ぶ広範な綜合作用を行うスティグレール的な意味での想像力、ベンヤミン=アドルノ風には 想起ではなく追憶、即ち想起する主観に先立つ客観についての回想が必要とされるのである。

具体的な経験のレベルに移せば、マーラーのような長大で複雑な作品を想起するための手段として 複製技術による記憶媒体による録音は有効であり、同じ録音を何度も反復する可能性、しかも 「私」だけではなく、誰に対しても同一の音楽を提示することの可能性が獲得されるが、その一方で、 常に聴取はその都度毎に一回性のものであることから逃れることはできないのである。そしてその都度の 聴取の態度は様々でありうる。ベンジャミン・リベットの実験が明らかにしたとおり、受動的な経験であると 意識が思いなす楽曲の聴取のプロセスは、実際には意識の背後における前意識的・無意識的な 活動により編集されたものであり、同一の演奏の繰り返しの聴取は、そうした編集の地平を形成し、 その地形を変化させるだろう。変化に富んだマーラーの音楽の脈絡は、一回性の受動的な聴取においても 聴き手を厭きさせることはないだろうが、その巨視的な設計や、マーラー自身の創作のプロセスにおいて 既に「書き取らされた」ものである精緻を極める動機の相互連関のネットワークや変形の技法を 把握するためには、演奏の次元においても指揮者による緻密な事前の総譜研究が欠かせないように、 聴き手も総譜を参照しつつ、繰り返して聴くことにより、自分自身にとってのマーラーの個別の作品の像を 構築していかなくてはならない。

しばしば議論の的になる、長大な経過における巨視的なシェマの知覚の 問題、例えば発展的調性の知覚の問題も、そうした反復に支えられた聴取の前では、問題設定そのものの 抽象性を露呈することになる。しかるべき事前条件下での心理学実験ならぬ現実の聴取においては、 総譜研究を通した知識すら、楽曲の把握の地平として動員されて当然であるし、絶対音感の有無は おくとしても(調性と色彩の共感覚とともに、あった方がより容易なのは明らかなことと思われるし、逆に事実としてそれがある場合にはその効果は本人にとっては明らかなのだが)、相対的な音高を想起できるほどに楽曲を自分の中に定着させた聴き手にしてみれば、巨視的なシェマもまた、都度の聴取にとって単なる知識としての地平であるのみならず、身体的できごとを外部の記号に変えてしまう意識のレベルではなく、 意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに関わるものとなるであろう。かくしてマーラーの 作品が産み出す(比喩的な意味での)「風景」は、聴き手自身の(現象学的存在論的な意味合いでの) 「世界」のそれとなり、聴き手の意識を含めた「心」の構造そのものを構成する素材となるのだ。

それゆえ常に聴き手は新たな聴き方をすることによって、理念的で 無時間的に凝固した作品を都度新たに(再)賦活しつつ、応答しなくてはならないという要請が生じる。 ここで注意すべきは、そうして再創造されるのは作品だけではなく、そのようにして「私」の側もまた 再創造されるのだということである。私が事前に存在して、作品を待ち受けるのではない。作品を 受け取りつつ、同時に私もまた都度生成するのである。そしてそうした記憶媒体の助けをかりることに よって、マーラーの音楽は私固有の身体そのものになる。私の頭の中でそれは物質的な音響を経ずに鳴り響く までに至る。それは私の経験しなかった過去の風景であり、私の中に住まう他者、私をも「作り=為す」 ことにいざなうべく語りかけるのである。(2013.4.28, 29, 5.1,3,12,21)

2013年4月23日火曜日

音楽を一人きりで聴くこと:マーラーの場合

アンソニー・ストー「音楽する精神」(原題:"Music and the Mind", 1992)には、「音楽を一人きりで聴くこと」と 題された章がある。音楽を一人きりで聴くというのは、音楽の聴取の側面における様態を問題にしているのであって、 なかんずく対比されているのは、音楽を誰か「とともに」聴くことであろう。後者の様態の例としてすぐに思い浮かぶのは 例えばコンサートホールにおける聴取だろう。今日の一般的なコンサートのあり方においては、自分の住まいからは 離れた場所にある専用のコンサートホールで、決められた日時に、決められた演奏者が決められた曲目を演奏するのを、 複数の人間がその場を訪れて聴くことになっている。理由はさておき事実として演奏会場では、その演奏会を聴くという 目的を同じくすること以外にはほとんどの場合接点のない、見ず知らずの数多くの人間とともに演奏を聴くことになるわけだ。 予め定められた(プログラムされた)曲目・演奏家の演奏を同時に不特定多数が同じ場所で聴くという点で、複数の 意識の時間的・空間的な同期が生じているわけである。移動するための公共輸送機関の利用といった間接的な側面は 無視できないかも知れないし、演奏会場を支える電気や上下水道といったインフラの存在を閑却することもできないが、 聴取の現場では、アコースティックな楽器の発する音響を直接自分の耳で聴くという昔ながらの状況が辛うじて 保持されているとは言いうるだろう。

一方で、例えばラジオ放送を介して音楽を聴くときはどうだろうか。予め定められた(プログラムされた)曲目・演奏家 の演奏を同時に不特定多数が聴く点までは同じだが、「同じ場所で」という側面が脱落していることがわかる。更に演奏が録音された 記録媒体の再生装置による再生によって音楽を聴く場合は、「同時に」という側面すら脱落してしまう。と同時に、演奏が、 翻って演奏の聴取が備えていたはずの「1回性」という特性すら失われてしまう。勿論聴取そのものは都度異なったもので ありうるだろうが、「再生」される音楽は「同じもの」の「再生」であり、同一のプログラムを何度か演奏するのに立ち会うのとは 根本的に異なった事態が生じていることは否めない。

音楽を一人きりで聴くことの方を考えてみると、厳密には誰かの生演奏の聴き手が私一人であるといったケースを考えれば、 メディアの介在なしには絶対に成立しえない訳ではないように見える。だがしかし、ストーの言う音楽を一人きりで聴くことには、 演奏者が場所と時間を同じくしないという条件が含意されているのである。人は音楽を一人きりで聴くとき、そこには 再生装置こそあれ、他者は不在なのである。更に言えば再生装置というのは、演奏家のような存在とは異なって、いわば その存在の対象的性格が希薄な存在、ハイデガーの道具的存在であり、更には或る種の透明性を帯びているのは メディア(媒体)という規定が端的に示すとおりである。人は自分の目前に演奏者(達)を想像することができるだろうが、 それはメディアが生み出す虚像に過ぎない。そしてその行き着く果ては、演奏者(達)も消えてしまい、端的にそこに音が 鳴り響いている場に一人で立ち会っている、という構図であり、恐らくはストーが言い当てたかった事態もまた、この 最後のケースであろうと思われる。それは従って、メディアによって可能になった聴取であり、メディアなしでは成立しえない タイプの聴取のあり方なのだ。

このとき「音楽を一人きりで聴く」私は、端的に「音楽」に対面することになる、と言えるだろう。勿論人はそれを誰が演奏したかを知っている。同じ演奏を何度も繰り返し聞くことや、いろいろな演奏を何度でも聞き比べることが できることによって、一度きりの演奏に立ち会うことでは困難な演奏解釈についての反省的な把握というのも、 メディアの介在によって可能になった聴取のあり方の一つであろう。他方で人は、誰が演奏したかを知らずにある作品に 端的に接することも可能だし、演奏者を意識することなく作品そのものを聴くといった姿勢をとることが少なくとも 可能にはなっている。あたかも作曲家との「個人的な」対話が成り立っているかの如き感覚に捉われることも不可能では なかろう。音楽がある種の情動を伴いつつ、具体的な風景や光の調子、空気感や色彩感といったものを聴き手に伝達する ものであるとするならば、「音楽を一人きりで聴く」時、聴き手は寧ろ端的にそうした音楽が浮かび上がらせる想像上の 風景の中に居るのであって、決してコンサートホールに居るのではない。逆にコンサートホールでの聴取においても コンサートホールに居ることをしばし忘れて音楽に聴き入り、音楽が描き出す想像上の空間の中に身を置くような 聴き方だって可能であろう。だがその時、演奏者とのコミュニケーションはどうなるのであろうか。そもそも音楽に没入し、 演奏者をいわば「消去」してしまった聴き手は演奏が終わった後、拍手をするだろうか。

コンサートホールに おける際立って感動的な経験は、演奏者と聴き手との間の或る種の交感による一体感がもたらすものだ。 コンサートホールでの聴取は実際には単なる聴覚に限定された経験ではない。演奏を視るという視覚的な 側面も重要だし、演奏者が演奏する楽器から直接伝わる空気の振動を感じ取るといった側面も際立って 強い作用を聴き手にもたらすだろう。 他方において今日のコンサートホールでの演奏においてすら、演奏は超越的な何物かに対する奉納でありえるし、 聴き手も含めての礼拝たりうる。勿論、代替物は他にも幾らでもあるし、そうした集合的な熱狂、共同体的な 一体性の経験が危険と隣り合わせであることもまた確かなのだが。ましてやマーラーの場合には、 そうしたことが作曲者の企図でもあったらしい第8交響曲以外の作品においても、演奏の場は孤独ではありえない。 指揮者の存在はあるが、オーケストラは集団的なものであり、ピアノ・ソロのリサイタルのような個人の 声に満場の聴衆が聞き入るといった事態からも程遠い。

コンサートホールで指揮を「視る」とき、解釈している指揮者が現前していて、 解釈が提示されているのであって、作曲者が現前している のではない。あたかもマーラー自身が語っているかのように、あたかもマーラーの声を聴くかの ように、あたかもそこでマーラー(の幽霊)と対話するかのように音楽を聴こうとするとき、 人は、自ら奏者になるか、あるいは演奏という媒介を括弧入れする操作をしなくてはならない。 前者の場合には、楽譜が作曲者の代補となり、後者の場合には録音技術による演奏を記録 した物理的媒体、即ちレコードやCDといったもの、本来は演奏の代補であるはずのものが、 或る種のショートカットによってあたかも作曲者の代補であるかのような思いなしが可能となる。

いずれにせよ確実なことは、投壜通信の媒体としての楽譜・レコード・CD等を介して、一人で自宅で マーラーの作品を聴くような聴取の在り方は、恐らくはマーラーの同時代には想像もつかない、想定外の ものであっただろうということだ。好きなときに、好きなだけ、何度でも聴くことが可能で、実演の経験では 到底不可能な様々な解釈の比較も可能だ。じきに音楽を楽譜もなしに思い浮かべることも可能になるだろう。 そして不完全で薄れがちな記憶の頼りなさは、何度でも繰り返し再生可能な記録媒体によって都度修復し、 記憶の中に「作品そのもの」を構成することをさえ可能にするかに見える。マーラーの音楽はLPレコードの普及の 恩恵を最も受けた代表的な存在であるという言われ方が何度となくされてきたが、マーラーの音楽のような長大で 複雑な作品の場合、場所を選ばずに何度も聴けること、場合によっては自分が聴きたい部分のみの部分的な 聴取すら可能にすることだけでも、その作品の受容にとっての寄与は大きなものであっただろう。

あたかも 演奏の個別性・恣意性をフィルターして、「作品そのもの」に辿り着けるかの如き錯覚が生じ、ことマーラーの場合なら、 マーラー自身(の幽霊)と直接対話しているかの如き錯覚が生じるのだが、例えばそれはスコア・リーディングによって 音楽を構成していく作業でも生じうるという点で、同じくスティグレールの第三次過去把持の水準にあるもので ありながら、仮構の具体的な在り方は異なって、鳴り響くであろう音を自ら想像するのではなく、 既にその場に響く音を受容するという仕方でまず大きく異なる。そこでは端的に音楽が「彼方」から私を 目がけて到来する。コンサートの経験というイヴェントにおいて演奏という媒介の働きを共時的に体験するのと 異なった、無媒介な音楽自体との遭遇が可能であるかの如き錯覚が成立する。CD等の記憶媒体を介しつつ、 こうして記憶され内面化されるうちに媒体の外部性は忘却され、恰も音楽が自分の内側で鳴り響き、 自分の奥底から響いてくるようになっていく。勿論、マーラーの音楽が鳴り響く仮想の空間の広がりは確保 されるのだが、それは現実の空間ではない、内面に穿たれた想像上の可能世界の中に響きわたることで実際には 仮想的なものであれ、空間そのものを構成するのである。これはマーラー自身の言った「一つの世界を構築すること」の実現ではないのか? 一匹の生物のちっぽけな脳の中での出来事、それ自体は個体の死によって無に帰してしまう、世代を超えて継承されることないエフェメールな出来事に 過ぎず、世代を超えた連続性は、実はそれを事前に可能にしていたCDや楽譜といった媒体によって 保証されているのだが、マーラーの音楽が頭の中に鳴り響く瞬間、そこにはその生物の生涯の持続を超えた 時間的な広がりが可能となり、物理的な制約を超えた空間的な広がりの展望とその中での自由な時空間の (仮想的な想像上の)移動が可能になるのだ。

その一方で、そうした「私的」な聴取とまさに呼応するかのように、「私的」な交響曲という逆説が存在する。 古典派までの交響曲は明らかにそうではなかったし、時代を下って例えばソヴィエトで生きたショスタコーヴィチの 場合もまた、別の意味合いで交響曲には公的な性格がいわば強制されたのだが、マーラーのそれについて言えば、 交響曲という形態が、例えばコンチェルトのような「パフォーマンス性」を持たず、歌劇やバレエのための音楽のように 音楽外的なものと関連するわけでもなく、宗教音楽のような儀礼のための機会音楽でもないというその抽象性によって、 作曲家の最も私的な領域に通じ、いわば個人としての作曲者にとって自由に筆を揮うことのできるキャンバスの ようなものであることが、聴き手の側の聴取の「私性」と呼応しているかのようだ。協奏曲や室内楽が、歌曲や場合によっては 歌劇すらも、特定の奏者が演奏することを想定して作曲されることがしばしばあるのに対し、ロマン派の交響曲の作曲は 無益な営みといった趣があり、それがゆえに生前は第一義的には有名な指揮者、楽長であったマーラーの場合であれば、 歌劇場監督の余技の類、道楽だと揶揄されもすることに繋がる。その一方で、その作品はバロックや古典期の作品が そうであったように、或いは今日なおそうした目的で大量の作品が生産され、消費されているのだが、大量に生産し、 一度だけ消費されれば使い捨て、といった消費のされ方を自ら拒絶する志向を備えているに違いない。勿論、繰り返し 演奏されるか、とりわけても作曲者の没後に繰り返し演奏され、録音され、レパートリーとして、あるいはカタログの上に 定着して残っていくのは莫大な作品の中のほんの一部に過ぎないのだが、マーラーの音楽が、そうなることを期待して 作曲され、そして実際に未来に生き延びたことは確かなことだろう。

そもそもマーラーの交響曲は「私的」な心境の表白ではなく、マーラー自身が言ったように一つの世界を構築することであり、 発想的にもポリフォニックな傾向を本質的に備えているとはいえ、その作品の世界に聴き手があたかも一人で歩み入り、 その世界を自己のものとすること、言い換えればその世界に触発されて一つの主体として生成することを可能にするかのようだ。 「音楽を一人きりで聴く」のはだからマーラーのケースに限って言えば、その作品そのものがそうした聴取を要請するとまでは 言えなくても、少なくとも許容するような契機を孕んでいるからであるといえるかも知れない。それを誇大妄想的な巨大な独白と 見做さずとも、その音楽の持つ時間性は、マーラーの時代の、更にはマーラー以後、21世紀の現在に至るまでの主体の、 意識の在り方のあるタイプのそれそのものと言って良く、まさに楽譜の形で、あるいは録音媒体を通じて記録されたマーラーの 作品を受容することによって、文字通りに人は或る仕方で存在するように自己を形成するのである。従って音楽を聴くことは 主体の行為というよりは、それを通じて主体が形成される過程であり、どのように形成されるかについてプログラムされた回路の 作動であるというべきなのだ。

勿論、マーラーの音楽が聴かれなくなる未来というのを想定することはできるだろう。否、同じ時代に生きていながら、 マーラーの音楽とは無関係に生きている人間の方が圧倒的に多いことを考えれば、マーラーの音楽が聴かれる場というのは、 常に既に極めて限定されたものであったし、今でもそうだし、恐らく将来もそうであるに違いない。ジュリアン・ジェインズの二院制の心に おける意識の考古学が告げるように、マーラーの音楽は、過去のある時期より遡っては存在しえなかっただろうし、未来のある時点、 ポスト・ヒューマンの時代には、マーラーの音楽は既に絶えて久しい、かつて「人間」と自己規定した存在の在り方を証言する 考古学的な遺物となる可能性だってあるだろう。だがその時には、そもそも音楽自体が今のままではありえないのではなかろうか。 例えば三輪眞弘さんが「感情礼賛」で仮構したような事態を思い浮かべてみれば良い。そこでは「音楽を一人きりで聴く」という こと自体が最早不可能であるに違いないのだ。そしてその時は、同時にマーラーの音楽は最早如何なる意味においても 「未来」とは関わりのない、化石のような記録に過ぎないものとなるだろう。 (2013.4.23,27,28)

2010年11月6日土曜日

 かつてパウル・ツェランはブレーメン講演において、マンデリシュタムが「対話者について」で述べた「投壜通信」を引用して、 詩を、必ずしも希望に満ちてはいなくても、いつかどこか、心の岸辺に打ち寄せると信じ、流される投壜通信であるとした。 航海者が遭難の危機に臨み壜に封じて海原に投じた、己れ名と運命を記した手紙。誰も聞いてくれないのに 小声で語られる末期の言葉は、だが、彼が去ったのちに、どこかの砂浜に打ち上げられ、砂に埋もれた壜に偶然気づいた人に 拾い上げられて読まれることはないのだろうか。
 
 マンデリシュタムはやはり「対話者について」において、そうした手紙を読むことが 自分の権利であると言っている。壜を見つけたものこそが手紙の名宛人なのだと。 かくしてある時には人の一生を超える時間の隔たりと、地球を半周の場所の隔たりを乗り越えて、 だが、実際にはそうした距離の測定を無効にする印刷技術が可能にした記譜法のシステムと 録音・再生のテクノロジーに支えられて、ふとした偶然によって耳にすることによって、詩のみならず、 ある音楽が拾い上げられ、読まれる。それらは事後的に差出人を指示するが、それは常に痕跡としてでしかない。 私の裡にこだまするのは常に既に幽霊の声なのだ。
 
 ある作品の持つ「深さ」はどのようにして測る事ができるのか。伝記主義的な実証はそれが生み出された背景をなす 環境を指し示しはするが、作品を、作品から受け取ることができるものを何ら明らかにしない一方で、形式的な分析もまた、 それ自体「痕跡」であるメッセージの、情報伝達の形態のみを問題にし、ノーレットランダーシュの言うところのexformation、 メッセージが生み出される際に処分され、捨てられた情報(更にはベネットの「論理深度」とか、 セス・ロイドの「熱力学深度としての複雑性」もまた思い浮かべていただきたい)を扱うことができない。 勿論、形態の美しさ自体が、その深さと密接に関係するということもあるだろう。マックスウェル方程式にたいしてボルツマンが 発したことば、ゲーテのファウストの引用、更にはマクスウェル自身の言葉「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、 私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」ということばを思い浮かべるべきだろう。 そのとき差出人たる幽霊とは一体何者だろうか。ダイモーンの声、ジュリアン・ジェインズの二院制の心の「別の部屋」からの声。 情報を捨てるプロセスそのものを事後的に物象化したものを幽霊と呼んでいるのだろうか。「抜け殻」としての作品。 そして捨てられた情報の大きさは、受け取るものがそこから引き出すことができる情報の豊かさに対応しているに違いない。
 
 だが、読まれたことは如何にして知られるのか、事実性の水準での認識の問題としてではなく(なぜなら既に差出人はいないから、 配達証明は無意味なのだ)、投壜通信が読まれることと読まれないことの価値論的な差はどこにあるのか。拾った主が拾ったことを 更なる(ということは差出人と受取人以外の)他者に伝えることなくして、投壜通信が読まれたことにはならない。 拾った者の個別的な有限性の中で受け取ったものを朽ちさせてはならないのだ。だがそれではどのようにして受信を証することが可能になるのか。 お前もまた「作品」を生み出すことができるのであればともかく、受け取るばかりの者はじきに支払うことができなくなり、 破産する他なくなるだろう。だが、そうした贈与の経済は「世の成り行き」とは異なる時空間に場を持つ 遭難者の論理にそぐわないのではないか。自分自身の力では打ち勝つことのできない悲しみゆえ、壜は投じられ、 あるいは果て無き砂浜を彷徨いつつ、己れ宛の壜を探し求めるのだというのに。
 
 「作品」の存在論が必要なのだろうか。広義での人工物に属し、記譜法のシステム、演奏されたものを記録する 様々な方式や媒体といったものを質料的な基盤として備えた、だが道具連関には回収しきれない存在。 そしてここにまた、普通にはコミュニケーションの道具と見做されながら、「世の成り行き」における規範に抗いつつ、 口ごもり、何度となく言い直され、但し書きが付けられ、何重にもモダリティを担わせられたことば。あえて「とおまわり」を、 迂回をすることを選んだことば。過去化し、存在化した沈殿物としての「作品」、抜け殻としての「作品」を連関から 切り離し、抽象して扱うのではなく、それ自体、何者かに向かっての語りかけとして、何者かに促されての構築としての、 「世の成り行き」の目的連関から逸脱した、経済的には単なる蕩尽であるような無為の営み。深さの次元として、 exformationとして、捨てられた情報としてしか事後的には観測できない豊饒。
 
 ことばは、私のそれであるはずのことばが発しているはずの私に対してこのように語りかける。他人からみれば不毛な独語に 見えるだろうが私にとってそれは独語であろう筈はなく、むしろ私を通して語ろうとしていることばが私を諭すかのようだ。 お前は水路、通り道、拡声器に過ぎない。おまえのことばなどないし、お前の作品の固有性などありはしない。
 
 例えばどの音楽を己の裡に埋め込み、どの音楽を拒絶するかは、その人の特殊性の一部である。 もっと言えばそうすることそのものが都度、個体化の過程であり、個体化はその脈絡によって制約されるだけでなく、 常に既に、選択であり排除である。そしてそうした過程の描き出す軌道を事後的に観察するとき、やっとそこに 「主体」が過去化の結果として、存在する。個性とは、そうした選択のもたらす特殊性の沈殿した結果に過ぎない。 (ホワイトヘッドの抱握の理論を思い浮かべていただければよい。)
 
 勿論「主体」は己の来歴のある部分を否定し、抑圧することもありうる。 抑圧されたものが何であるかは、事後的に推測することもある程度は可能だろうが、潜在性のまま現勢化することなく 去ったものがそうであるように、実際にそれを言い当てることは困難だろうし、そうした作業が意味を持つのは、その 「主体」が否定しなかったもの、「作品」として遺したものの裡に沈殿したもの価値如何だろう。大抵の場合、 そんなことに関心を持つものはいない。個体化がありふれた事象であるように、個性の多様性の海の中で、 ある特殊性が価値を持つことは稀である。そしてそれが特異点であるかどうかは、事後的にしか、巨視的な 観測によってしかわからない。
 
 そしてまた引用の織物そのものが、ある星座を描き出すかもしれない。主体が黙しても、他者の声の重なりが、 交響が、沈黙を引き受ける。誰もいない空間、現象から身を引き、「世の成り行き」から退いた空間の中を、 だが己に埋め込まれた他者達の声が交わる。お前は無だが、お前の裡に響き渡る他者の声はそうではない。 お前はあるベクトルを備えた軌道を寄せ集めるアトラクターなのだ。
 
 その一方で、それと同時に自分の中にあるもの、逆説的に、抑圧によって破壊されず護られた空間が、 ふとしたきっかけで顕れる。今なお恐らく呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。
 
 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか?(例えば臨死経験の報告例の間に見られる類似性は、 その時に置かれた脳の状態の共通性に由来するだろう。差異の方はといえば、各人が埋め込まれた文化的・ 宗教的脈略に応じて、具体的なイメージとして把握されたものには違いが生じるのだ。結局のところ 生理的・生物学的基盤の共通性が、異なる文化的伝統に属する対象の享受の同型性を保証するということは 確認されるべきだろう。ことさら共役不可能性を言挙げするのは控えめに言ってもバランスを欠いている。) けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。
 
 心の中には、どこか懐かしい、だが徹底した闇に包まれた、それでいて同時にその裡に光を閉じ込めた満天の星降る夜、 あるいは慈しみに満ちた雨の夜が封じ込められてはいないだろうか。自ら選択して抑圧し、その結果二重・三重にも隔離された空間。 きっと誰もが心のどこかに潜ませていて、だから決して未知ではなく、けれども常には安全に閉じ込めておける感情、 けれどもそれゆえに祈りが、救済が必要とされる動因となるような心の動き。その向こうには明るい夜が開けている。
 
 意識は明るい夜の裡に睡み、夢見ることで、だが私の中の誰かは目覚めている。 「世の成り行き」とは別の何かの幻影の裡でその誰かは涙し、安らう。 そして雨の夜は奥底の別の部屋(ここで私はまたしても、ジェインズの二院制の心を思い浮かべている) に繋がっているに違いない。覚醒し続け、外の暴力に抗い続け、告発を続けること、 現実を見つめるシビアな姿勢は顕揚さるべきだろうが、それはまずもって自ら「世の成り行き」と 化すことに繋がりはしないかという懸念もあれば、それ以上に、意識の賢しらさが嘲笑される瞬間に ふと垣間見える深淵、意識の手前にある領域の存在を私は知っているゆえ、 そうした「別の部屋」への通路を持たない音楽は、それが非人間的で超越的な秩序の反映だろうが、 人間の愚行と野蛮の歴史の告発であろうが、結局のところ、自分の外で響くものでしかない。
 
 「別の部屋」からの展望は、「世の成り行き」からすれば非-場所であるだろう。 それが「世の成り行き」に対する退行であるとしても否定はすまい。病理学的な標本でも結構である。私は 己が抑圧したその空間を、結局のところ否定しきれないようなのだ。それは「世の成り行き」と直接触れれば、 炉心融解によって水蒸気爆発が惹き起こされるような崩壊が起きるだろう。だからそれは何重にも閉じ込めて おかねばならない。だが、愚かな意識は、己に課された監視の務めを良く全うし得えずして、時おり、そうした 崩壊が生じ、その後には長い麻痺状態が続き、「世の成り行き」から落伍する。
 
 だがその別の部屋に住まうのは私ではない。寧ろ私という部屋に辿り着いた音楽やことばがそこで響きあい、 わたしに命じておりふしに、外に向かって溢れ出る。その流れを私が調整することはできない。自分の心の中の ある地層が大規模な落盤を起こし、その影響を「世の成り行き」に晒さずに措くために、何重もの無感動の ヴェールで覆い、凍りつかせることによって界面を辛うじて保護しようとする過程において、一緒に堰き止められたと 思われた、あるいは今度こそ涸れ果てたと思われた泉は、だが断層によって思いもよらぬ方向に浸透し、しばらくの 沈黙の時を経て、その浸透がある瞬間に相転移を惹き起こし、外に溢れ出ようとする。 その水圧は私の心の中の地形を元のままにはしておかない。変形によって生じた空間の歪みが、 今までとは異なった反響を惹き起こし、音楽やことばの交響もまた変容する。
 
 わたしの中に潜んだあなたがた、わたしの中から時おりこみ上げ、立ち尽くすわたしを、だが、そうして支え 生かしている、それゆえに辛うじてわたしが生きている所以である「あなたがた」にとっては私は楽器なのだ。 沈黙の中、あるいは饒舌の支配するなか、私は「あなたがた」を担い、運び、溶け合わせ、響かせ、 流れ出させる、固有の方向づけをもって、永遠には辿り着かずとも、あたかもそれを希求するかのように、 時を通って、だれかのもとに届けられることを希って。私は「あなたがた」の記憶であり、私の歩み、たどたどしく、 覚束無い、時には蹲ることもある歩みのその方角、それは「あなたがた」の定める力学によっている。 声の複数性、複数の声の反響、共鳴の場である私は、「あなたがた」の示す方角に歩むほかない。 こうして語ること、ことばを紡ぐことは、別の部屋に住まう「あなたがた」が、まだ私という搬体を捨てず、 私のなかで結晶し、析出しようとすることの現象でなくてなんであろう。
 
 私はそうした「あなたがた」の運動の痕跡、私が発したと思いなされたことばは「あなたがた」の軌跡、 「私の作品」は「あなたがた」の抜け殻に過ぎない。私という意識は、そうした空間を照らし出す照明に 過ぎない。擁護されるべきは意識そのものではなく、意識が照らし出すわたしではないのに、外からは わたしと見做されるところの、だがむしろ「あなたがた」の相貌であるところの結晶の構造、結晶が形成される 空間の地形そのものなのだろう。
 
 もちろん慧眼な人たちはここに或る種の自家中毒の危険、自己正当化の匂いを嗅ぎつけることだろう。 おまえの無価値を、おまえの無能を、営為の麻痺を「他者達」の価値によって代償させることは許されることでは ないという告発に対して、私は否認のことばを持たない。そればかりか、私が無であること、無価値であることを 認めよう。だが、私を形作っている「他者達」についての判断を、それゆえに誤らないで欲しい。「他者達」が 流れ出し、あるいは結晶として析出することを妨げて欲しくない。私の意識は、「別の部屋」の声に耳を澄ます。 いつしか「別の部屋」が空となり、もはや誰も棲まない場所となるかも知れない。だがそのときは恐らく、 私もまた、このように語ることもないだろう。いつしか相転移の起きる臨界の領域を、豊饒なカオスの縁から 軌道は離れ、あるいは沈黙の支配する冷たい秩序に、あるいはカオスのざわめきの中に落ち込んでしまうかも 知れないが、そのときにはそもそも「私」そのものが最早存続していないだろう。
 
 そう、これは私の「投壜通信」である。だが、より正確には、私の奥底の誰かが私を介して投じたものと言うべきだろう。 それは私の内なる「別の部屋」に響く他者達の声を「外に」伝えるために為される必要がある。そしてそれは己が 投壜通信の受信者であることを証することでもある。このようにして時間のなかを他者達の声は伝わっていく。 私のたどたどしいことばは、勝りたるものの仮晶、私の個性そのものが、あるいはまた個別性そのものもまた、 そうした他者達の声の交響が浮かび上がらせるホログラムなのだ。意識である私はそうした他者達に耳を傾け、 それを書き留めることでしか存在し得ない。かくしてことばを綴ること、誰に宛ててでもなく、だが、決して独語ではなく、 誰かにあてて自分が聴き取ったものを書き記すことこそ、崩壊した私の修復の営みに等しく、そうやって ばらばらになった断片が拾い集められ、貼り合わされて私が恢復されるのだ。そう、私とは他者達の幽霊に他ならない。 かつまた他者達にとって私は私ではない私のうちなる他者達のことばから事後的に構成されるほかない(まずもって 私自身に対してもそうなのだ)という意味合いでも幽霊でしかありえない。(2010.11.6/10, 2011.9.12)

2010年10月17日日曜日

「大地の歌」は交響曲ではないのか

今年はマーラー生誕150年というアニヴァーサリーであるにも関わらず、かつての1980年代後半から1990年代前半にかけての「マーラー・ブーム」前後の状況と比べれば、 少なくともこの極東の国における雰囲気は随分と落ち着いたものであると感じられる。勿論、コンサート・プログラムやら、放送における企画やら、雑誌における企画やらが ないではないが、もう四半世紀も前のあの「根拠なき熱狂」は一体何だったのかと思わずにはいられない。マーラーは既にフレームに納まりはしたが、新たな読み直しを する程の時間はまだ経っていないという事情もあるのかも知れないし、あるいは単純に、海外の事情は詳らかにしないし、実感も持てないので判断は差し控えるが、 こと日本国内においては商業的なプロモーションをするだけの経済的な余裕が喪われてしまったというのが実情なのかも知れない。オーケストラの運営状況は厳しさを増す一方のようだし、 マーラーの普及に大きく貢献した録音媒体の方も、LPからCDへと移行して後、今は丁度過渡期にあるようだし、書籍についてもまた然り、ベルナール・スティグレール風に言えば 「第3次記憶」を支える基盤の変動の最中にあって、これまでマーラーに関する「記憶」を保持していたあり方もろとも、マーラーという記憶そのものもまた、現在との接点を喪って 過去の地平の彼方に没しつつあるのだというのが、更に四半世紀が過ぎてから回顧しての展望にならないとも限らないとさえ感じられる。

その一方で、今はまだ時期が熟していないかも知れなくても、もう四半世紀が過ぎた頃には今度はようやく新たな読み直しが可能となって、現時点では予想もつかないような仕方で マーラーの受容が行われているということだってありえるだろう。意識のあり方とて歴史的に規定され、その意識がそこに埋め込まれている社会的文脈との相互作用によって変容 していくものであるとすれば、遠い将来のある時点でジュリアン・ジェインズがホメロスの時代の意識の様態を探ったのとパラレルな探査がマーラーを素材にして行われたりするのかも 知れない。シュトックハウゼンのように宇宙人を持ち出すまでもなく、そもそも「人間」というのも一つの概念であり、時代とともに移ろい、変化していくものなのだから、意識の 考古学の如きものを考える方が遥かに興味深い。否、そうしたシュトックハウゼンのマーラー認識そのものが、例えばアドルノがマーラー論において「大地の歌」に関連して 宇宙飛行士が宇宙から眺めた球体としての地球を持ち出したことなどとともに、ある時代の認識の様態を端的に象徴するものとして分析の対象になっても不思議はなかろう。

そうした中で「クラシック・ジャーナル」という雑誌がマーラーの特集を企画し、そこに掲載された「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」と題された前島良雄さんの文章を たまたま目にする機会があった。そしてその文章の中に「「大地の歌」は交響曲か」、という一節があり、「「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられているのは、 わが国の特殊事情によるものであるようだ」とし、それを受けて「大地の歌」を交響曲に分類することに「第9の迷信」が影響しているという主張がなされるのを知り、強い違和感を 感じずにはいられなかったので、まずは自分の整理と備忘のために、もう一つには同じ文章を読まれた方に対して、前島さんの文章を読んで私が素朴に抱いた疑念、あるいは 思い浮かべたこと、更にはまた改めて調べてみたりした幾つかの事項を参考までに記録しておくことを目的として書き留めておくことにする。

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前島さんの文章において「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられていることの根拠として挙げられているのは、CDなりLPなりの「交響曲全集」に 「大地の歌」が含まれるかどうかに関する調査結果であり、日本国内と海外での扱いの差に、日本特有の事情を見ておられるようなのだが、 一読した限りでまず不思議に感じられるのは、その指摘の後に続く、「大地の歌」を交響曲とすることについて「第9の迷信」が影響しているという主張が、先行するCDやLPの 「交響曲全集」での「大地の歌」に対する日本国内と海外での扱いの差とどう結びつくのかが判然としないことである。 仮に「第9の迷信」についての影響の差が日本国内と海外での扱いの差の原因であるとするのであれば(ただし、 そのように明確に書かれているわけではないが)、何故その差が生じることになったかこそがこうした社会学的な議論においては重要ではないかと思えるのだが、 その点については触れられていないので、読み終えてみて些かはぐらかされた感じになり、実は前半の話と後半の話は独立の話なのだろうかと思ってみたりすることにもなる。

ひっかかりの原因を突き止めるべく、再読してみた結果、前島さんの主張は二重・三重の意味で私には不可解に感じられることがわかった。 まず1つ目は「「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられているのは、わが国の特殊事情によるものであるようだ」という主張がLP, CDの交響曲全集に それが含まれるかどうかという点のみに基づいて為されている点である。2つ目は、「大地の歌」を交響曲に分類することに「第9の迷信」が影響しているという主張が、 「わが国の特殊事情」なのかどうかについて些かも明らかではないにも関わらず、あたかも「第9の迷信」が「わが国の特殊事情」であるともとれるような書き方になっている点である。 流れからすれば「わが国の特殊事情」の説明として「第9の迷信」が影響しているという主張になるはずだが、もしそうであるとするならば、今度は「第9の迷信」が「わが国の特殊事情」 であることの実証があってしかるべきだし、どのような事情で「第9の迷信」が日本では根強く信じられているのかについての説明があっても良さそうなものだが、その点についての 説明が為されることはない。そして3つ目は、最後に至って突然シベリウスの「クレルヴォ」が比較対象として取り上げられ、「大地の歌」を交響曲に分類することには営業的な 意味があるのではないかという主張がなされ、それは「わが国の特殊事情」に纏わるものに違いないのだが、では何故日本ではそうなのかの説明はまたしても為されず、 なおかつ「第9の迷信」とは少なくとも権利上は全く独立のものであるが故に、それぞれがどう関係し、あるいは関係しないのかについての説明がないのも腑に落ちないといった 具合なのである。

勿論、「交響曲全集」に「大地の歌」が含まれるかどうかに関する調査結果は事実として受け止められるべきなのだろうが、後半の「第9の迷信」についての議論との相関が 気になりだすと、「「大地の歌」は交響曲か」に関する他の手がかりはないものかと考えてみたくもなる。そこで私が思いついたのは2つあって、1つはこれまた「マーラー・ブーム」の頃には 日本でも頻繁に行われ、今年から来年のシーズンにかけては海外・国内いずれにおいても行われる予定であるらしい、コンサート・ホールでの「マーラー・ツィクルス」での「大地の歌」の扱い、 もう1つはマーラーの「交響曲」に関する文献における「大地の歌」の扱いであった。いずれについても網羅的な調査をやるだけの環境も時間も能力も私にはないので、学問的な 分析に値する調査は専門の研究者に期待することとして、ここではとにかく、市井の愛好家がふと出来た休日の空き時間を使って調べた限りで知りえたことを紹介しておくことにしたい。

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まず、「マーラー・ツィクルス」の方だが、まず1990年前後に国内で行われたケースについて記すと、シノポリ/フィルハーモニア管弦楽団による東京芸術劇場の杮落としでは歌曲集や 「嘆きの歌」とともに「大地の歌」が取り上げられていて、CD同様、交響曲に限定されないのに対し、ベルティーニ/ケルン放送交響楽団によるツィクルスは「交響曲」のみであり、 だがそこで「大地の歌」が第10交響曲のアダージョと組み合わされてツィクルスの1回分を構成していたようである。一方、ほぼ同じ時期に3年かけてサントリーホールで行われた 「純国産」の企画である若杉/東京都交響楽団のツィクルスでは、交響詩「巨人」が第1交響曲のハンブルク稿として 初演されたり、交響詩「葬礼」が第2交響曲の第1楽章に置き換わる形で、後続する4楽章と続けて演奏された点や、新ウィーン楽派の3人だけでなく、ツェムリンスキー、 シュレーカーの作品とマーラーの交響曲が組み合わせられたプログラム構成が特徴的であったが、マーラーに関してはやはり「交響曲」に限ったプログラムであった。その一方で、ここでは「大地の歌」は別枠の特別演奏会という形態で第10交響曲のアダージョと組み合わせたプログラムで取り上げられた。 (パンフレットに掲載された諸井誠さんとの対談で若杉さんは、交響曲全曲という場合には「大地の歌」も含めなくてはならないと述べているので、特別演奏会はその発言の意図に沿ったものだったのかも知れないが。) 時期は少し下るが、「国産」のもう一つのツィクルスである1999年シーズンの井上道義/新日本フィルハーモニーのそれは歌曲集やらピアノ四重奏曲等を 併せて取り上げたプログラム構成になっており、その中で「大地の歌」を含めている。要するにマーラーの管弦楽作品を取り上げる場合は勿論、交響曲に限定した場合も 「大地の歌」は含まれているようなのである。

以上は日本国内で演奏されたものだから、CDやLPでもそうであることを前島さんが指摘したのと同様に、外来のオーケストラのコンサートであったとしても「国内向け」仕様なのでは、 という考え方もあるだろうから、海外におけるツィクルスについても多少調べてみると、1920年のアムステルダムでのマーラー祭、1967年のウィーン芸術週間、1995年のアムステルダムでの マーラー祭のいずれも歌曲集、「嘆きの歌」などとともに「大地の歌」を含むもので、いずれもそもそも交響曲全曲という枠組みではない。 現在進行形である今年から来年のシーズンはどうかと言えば、コンセルトヘボウ管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、北ドイツ放送交響楽団のものは「大地の歌」を含むし、 ストックホルムでの複数のオーケストラによるものは含まないといった具合である。コンサートの場合、1回のプログラムの長さの問題もあるし、歌手の招聘の問題もあるだろうから、 交響曲だけのツィクルスというのは企画上却って難しいのかも知れないし、マーラーの作品のみ特別に集中して行うのか、他の作曲家の作品と組み合わせて定期演奏会の枠組みの中で やるのかといった点も影響するかも知れない。いずれにしても「「大地の歌」は交響曲か」という問いに対してコンサートにおけるマーラー・ツィクルスは明確な判断材料を与えるものではなさそうである。 ということは同時に、ここでは日本と海外との間には大きな差異があるわけではなさそうだということでもある。

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ではマーラーに関する文献の中での扱いはどうだろう。歌曲や「嘆きの歌」も含めた全作品解説ではなく、タイトルに「交響曲」と銘打った文献に限って調べることするが、 結果はやはりLPやCDの場合とは些か勝手が異なるようだ。

古いところでは、例えばベッカーのGustav Mahlers Sinfonien(1921)は「大地の歌」を含んでいる。ほぼ同じ時期のイステル編の Mahlers Symphonien(2 Auflage)もやはり含んでいる。それらが、アルマが撒き散らした伝説の圏内で書かれたものであるという時代的な制約の下にある点は否定できないが、 その一方で新しいところでも、例えばレナーテ・ウルム編のGustav Mahlers Symphonien : Entstehung - Deutung - Wirkung (4. Auflage, 2007)は「大地の歌」を含んでいる。 実を言えば、当の前島さんが訳されているフローロスのモノグラフ第3巻(1985)がそもそもずばり「交響曲」という題名を持っているのだが、この中でもやはり 「大地の歌」は扱われているのである。まさかこの点に気付かずに(あるいは忘れて)前島さんが上記の文章を書かれたということはあり得ないから、前島さんの主張する 「「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられているのは、わが国の特殊事情によるものであるようだ」というのは、LP, CDといった録音媒体の企画やら マーケティングに限定した議論なのだということなのだろうか。こうした文献における分類は何かの理由で考慮する必要がないのだろうか。私にはその辺の事情が 判然としないのである。

実を言えば、Webページでの分類をご覧になっていただければわかるとおり、「「大地の歌」は交響曲か」という問いに対する見解そのものについては、私は前島さんの 主張に賛成なのである。「大地の歌」は交響曲と歌曲の中間的な形態であり、こうした形態に辿り着いたことが「マーラーの場合」の特殊性を示していると私は考えている。 だがこれは別に私独自の立場というわけではなく、既にアドルノがモノグラフにおいて「《大地の歌》は純粋な形式というものに反乱を起こしている。それは一つの中間型なのである」 (龍村訳p.194)と述べ、更に続けて「歌曲交響曲Liedersymphonieという構想は、マーラーのイデーにまことに適している。それは、先験的に上から与えられた図式に拘泥 することなく、意味深く互いに連続する個々の出来事の結果として生成する一つの全体であるのだから。」(同)と述べていることを指摘しておこう。ともあれ、それゆえ私は一方で ピアノ伴奏版の「大地の歌」もまた、他の連作歌曲集の場合と同様それ固有の価値を持つと考えるし、それゆえ例えば平松・野平による全曲をソプラノ歌唱・ピアノ伴奏で 演奏する形態にも違和感を感じていない。だが、だからといってもう一方でマーラー自身が「大地の歌」を草稿の上でだけとはいえ「交響曲」と呼んだ事実は残るし、 そのことに言及せずに論を進める前島さんの議論は、例えばその後で交響曲の「ニックネーム」に関しては作者の意向を顧慮する立場を取られていることからすれば 一貫しないのではなかろうかと感じずには居られない。

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「第9の迷信」について前島さんは、アルマの作り話である可能性すら示唆しているが、私にとって問題なのは「第9の迷信」を広めた点についての事実関係はおくとして、 それを否定した序に「「大地の歌」は交響曲か」についての本質的な議論の方まで葬り去られてしまうことである。 フローロスとてアルマがそう伝えるから「大地の歌」が交響曲なのだとは言っていない。フローロスに限らず「大地の歌」が作品の構造上、 交響曲と呼ばれるに相応しい実質を備えているかどうかの検討をそれぞれの論者が行っているわけで、確かに「大地の歌」は単なる連作歌曲とは言い難い、少なくとも 第8交響曲が交響曲であるのと類比的に論じられる程度には、交響曲的な実質を備えているのは確かなことなのである。

そもそもアルマの回想が意図的か否かを問わず、多くの歪曲・記憶違いを含むものであることや、アルマが編んだ書簡集がかなりの程度に改竄されたものであることは 今では良く知られていて、寧ろ旧聞に属するものであると私には思われる。子供であった私が最初に読んだマーラーの評伝は、デント社のシリーズの1冊として書かれた マイケル・ケネディのものの邦訳だったが、ケネディのようなどちらかといえば一般向けの啓蒙書といった体裁のものですら、そうした点の指摘は既に行われていた。ちなみに ケネディのモノグラフが置き換わることになったレートリヒの「ブルックナーとマーラー」(マーラーの部分の更に一部だけ邦訳がある)においても「死後出版の3つの交響曲」という章で 「大地の歌」が扱われているが、ここでは「第9の迷信」が事実として言及されている。従って、「第9の迷信」に限って言えば、文献が執筆された年代を考慮に入れる 必要はあるのだろうが、「「大地の歌」は交響曲か」という点について言えば、あくまで管見ではあるが、近年の研究においてさえ「大地の歌」を交響曲と見做さない立場が 優勢であるようには思えない。何より前島さん自身が訳されたフローロスにしてもそうであって、フローロスはアルマの証言をひとまずは受け入れる立場を取っているからには 見解が対立しているにも関わらず、「大地の歌」のテキストの問題については詳細な訳注をもって介入することを厭わない前島さんが、その一方で「「大地の歌」は交響曲か」と いう点についても、「第9の迷信」についてもフローロスの立場に異議を唱えるわけでなく、訳注による介入をするわけでもないのは思えば不可解という他ない。

勿論私には「第9の迷信」が現時点でどの程度日本に蔓延っていて、それが「大地の歌」を交響曲に分類することにどの程度与っているかについて実証的に検証することは できないので、前島さんの説を否定することはできないが、それを言い出せば「第9の迷信」がアルマの作り話であるという実証的な裏づけがあるわけでもなく、要するに 前島さんにとって「「大地の歌」は交響曲か」の判断基準が奈辺にあるや杳として知れないというのが正直な印象なのである。

仮にの話だが、「第9の迷信」が虚構であったとして、だからといってアルマが回想で記述した「大地の歌」成立の経緯、フローロスが引用し、前島さん自身が訳している 「彼は、それぞれ別々のテクストをつなぎ合わせ、間奏を作曲し、長大になった音楽形式はしだいに彼本来の音楽形式―つまり交響曲への彼自身を引き寄せていった。 これが交響曲のような作品になりそうだということにマーラーが気付くと、作品はみるみるうちにその形を成し、彼が考えていたよりも早く完成してしまった」(AME 175を フローロスが引用したもの。前島訳p.318)という件の信憑性はまた別のものだろう。アルマ自身が、それは最初は歌曲として構想されたと述べているのである。 「大地の歌」はマーラー自身が演奏することがなかったし、生前に出版されることもなかったから、最終的な形態については所詮は想像の域を出ないとはいえ、 ピアノ伴奏版の完成度が管弦楽版よりも劣ることや、形態的に前の段階を示している可能性があること、更にマーラーが「大地の歌」の出版契約にあたり、 自分の用意したピアノ伴奏版の出版は想定していなかったことを告げる書面が残されていることなどを傍証としてあげることができるように、 「大地の歌」が交響曲「でも」ある、否、第一義的には完成した作品はマーラーが草稿にはそう書いたようにSymphonie für eine Tenor- und Altstimme und Orchester であるという経緯をアルマの回想は生き生きと証言しているのではないか。細かい区別に拘泥するならば、「第9の迷信」は寧ろ番号付けに纏わる問題であって、 「大地の歌」が番号なしであれ「交響曲」であるという主張とは別の平面の話であるという見方も可能だろう。

念のため繰り返して強調するが、前島さんも「大地の歌」は交響曲ではないと断定しているわけではないし、私がその点について異議があるわけではないのも既に 述べた通りである。私がひっかかったのはその点ではなくて、上記のような微細な議論の齟齬もさることながら、「大地の歌」を交響曲に分類することが恰も日本固有の、 しかも近年の(「海外の」という含意がもしかしたらあるのだろうか)研究成果を知らないが故の、更にはアルマが流布させた「第9の迷信」による誤解であるかの如き論調に まずもって非常に強い違和感を抱いたのである。序に言えば、私は「大地の歌」にまつわる情報の多くをHeflingのモノグラフから得ているが、Heflingがピアノ伴奏版に ついて報告した論文の題名にしてからが"Das Lied von der Erde : Mahler's Symphony for Voices and Orchestra - or Piano"なのであって、 「大地の歌」は交響曲だということになっているのだ。CD, LPの交響曲全集の問題はともかくも、交響曲「大地の歌」という呼称は「わが国の特殊事情によるもの」でもなければ、 「第9の迷信」に基づく誤解ばかりというわけでもないようにしか私には思えないのである。

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前島さんが指摘するCD, LPの交響曲全集に「大地の歌」が含まれるのが日本固有の事情である理由は、別途原因を探るべき価値があるテーマかも知れない。 また単純に海外と日本を対立させるのではなく、時代の経過とともに「大地の歌」の受容がどのように変遷してきたかについて、これは海外、日本ともども追跡してみる べきなのかも知れない。寧ろ見方によっては、マーラーについての文献は「大地の歌」を交響曲に分類しているにも関わらず、海外でのCD, LPの交響曲全集に 「大地の歌」が含まれないことの方を異常なことと見做して、何故そういうことが生じるのかを追求するような立場だって可能かも知れないのだ。もしかしたらそこに 「大地の歌」という「標題」を持つ「交響曲」に対する微妙な態度が浮かび上がらないとも限らない。

前島さんはシベリウスの「クレルヴォ」が交響曲と呼ばれることを「大地の歌」と類似した例として挙げられているが、実際には作曲者がそれを交響曲と呼んだかどうかに ついての差異が両者には存在するし、「クレルヴォ」を交響曲と見做すのは日本人だけではないという点を指摘しないのは公平を欠くだろう。更に別の作曲家に目を向ければ、 例えばチャイコフスキーにおける「マンフレッド交響曲」のような例はどのように位置づけられるのだろうか。そもそもベートーヴェンの「戦争交響曲」と呼ばれる 「ウェリントンの勝利」はどうなのか。それらが標題交響曲なり描写音楽であり、はっきりと他の交響曲と異質であるというのであれば、アイヴズの第4交響曲と 「祝日交響曲」の差異はどうだろうか。あるいはまた、マーラーならむしろ第8交響曲を連想させる2部構成をとり、3楽章よりなる器楽によるシンフォニアを第1部とし、 9曲からなる声楽を含むカンタータを第2部として持ち、作曲者自身が「交響カンタータ」と呼んでいたらしいメンデルスゾーンの第2交響曲はどうだろうか。 声楽が全編を占めるということで言えば、ニックネームの項で前島さんが言及するショスタコーヴィチの 第14交響曲だけではなく、同じく「大地の歌」の影響なしには考えられないブリテンの「春の交響曲」やらツェムリンスキーの「叙情交響曲」はどうだろうか。 スクリャービンの「法悦の詩」「プロメテウス―火の詩」は交響曲全集(ピアノ協奏曲は含まない)に含まれるだろうか。こうした例は幾らでも挙げることができるだろうが、 そこにはマーラーの場合に見られるような海外と日本との差異が、日本固有の事情がやはりあるのだろうか。ないとすればそれは何故なのか、あるとしたらそれはそれで マーラーの個別の事情であるはずの「第9の迷信」の影響というのはそうしたパースペクティブの下ではどういう位置づけになるのか。

一方で、実際には上述の例の幾つかにおいて既にそうであるように、ごく単純に作曲者自身が番号を振ったかどうかという点を問題にすることもできるだろう。 前島さんが取り上げられたシベリウスであれば、第7交響曲を「交響的幻想曲」という題名のままにしておいたらどうなっただろうか。あるいはまたショスタコーヴィチを 取り上げるなら、第14交響曲のみならず、第2交響曲や第3交響曲のようなケースや「バビ・ヤール」が番号付き交響曲であることについてはどうだろうか。 ショスタコーヴィチのそれらの作品同様、メンデルスゾーンの「賛歌」も、ヴォーン・ウィリアムズの「海の交響曲」や「南極交響曲」もまた、 番号付きであるという理由だけで交響曲全集から排除することができない。単純にそうすれば欠番が生じて「全集」ではなくなってしまうからだ。 その一方で既述のスクリャービンの場合は第4交響曲と見做されていた「法悦の詩」と「プロメテウス―火の詩」の間に線を引く 選択肢がありえるだろうか。だがそもそもマーラーの場合に立ち返れば、それらとは異なって「大地の歌」を除いても欠番は生じないし、第9交響曲が後に続いているのだ。

前島さんが最後に書いた「交響曲」と名づければ売れるという、恐らくそれ自体は全く間違っている訳でもない理由付けは、その理由が「第9の迷信」によるかどうかに関わらず、 マーラー自身が「大地の歌」に番号を振らずに、次の器楽曲に番号を与えたという事実がまずあっての話なのではないか。裏を返せば海外で「大地の歌」を 「交響曲」に含めないというのを事実として認めたとして、それはそれで海外ではそちらの方が売れるからなのか、「大地の歌」を含めたら売れなくなる理由があるのか、 という問いの立て方だって可能に違いない。

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結局のところ欧米のマーラー交響曲全集から「大地の歌」が排除されるのは、「大地の歌」が備えている特徴のうち、何が最も大きく寄与しているのだろう。 上に幾つか挙げた例との類比に限れば、最も表面的には、それが作曲者によって「番号」を与えられなかったからという説明だった成り立ちそうだし、「大地の歌」という 題名、交響曲には似つかわしくない題名のせいかも知れない。もう少し実質的な水準において交響曲的な構造を備えた連作歌曲であるからということであれば これは極めて正当な理由だということになろうが、これとて「交響曲」についてのドクサに従わないマーラーの形式の唯名論的な性格が、それ以外の理由、例えば素材として 用いられている五音音階、アドルノ言うところの「仮象」としての東洋趣味ともども「交響曲」の理念にそぐわないという暗黙の判断がそこに働いているというふうに考えることも できるだろう。要するにマーラーの音楽は今日においても未だ、通念のレベルでは西欧音楽においてマージナリティを帯びており、その中でもとりわけ「大地の歌」は幾つもの理由で「交響曲」から 排除さるべき徴を帯びているのではないか。だとしたら、「第9の迷信」を隠れ蓑にして、マーラー自身が番号をつけなかったことを幸い、あるいは「大地の歌」という「交響曲」には 相応しからぬ題名を作者によって与えられた作品である「大地の歌」を交響曲のカテゴリーから排除するのは、研究文献やら作品解説の水準では「交響曲」として認知されながらも、 しかもマーラーの意図を違えてまでそうするのは寧ろ西欧の伝統そのものではないのかと疑ってみてもいいのだ。

そもそもマーラーの交響曲は第6交響曲を含めてもなお、交響曲の規範からの逸脱の連続である。 そしてアドルノが「突破」「停滞」「充足」あるいは「崩壊」といったカテゴリーを用いたように、その構造は 伝統的な図式とは別の次元での力学を備えていて、それが例えばソナタ形式のような伝統的な図式を変容してしまう。 アドルノのいうマーラーの音楽の唯名論的な性格に惹かれる聴き手にとって、ジャンルの問題は連続的で せいぜいがプロトティピカルなものでしかない。結果として私にとっては交響曲と歌曲の間に序列があるわけではない。寧ろカンタータと連作歌曲と交響曲が 連続的で移行可能な形態であること、歌曲が交響曲楽章の一部になりえてしまうというより大きな展望の方が重要なのだ。

そう名づければ売れるという売る側の思惑や「第9の迷信」もあるには違いないだろうが、端的に「大地の歌」を他のマーラーの交響曲と同じように聴くことに 困難を覚える聴き手は日本にも居るに違いないし、寧ろそれはその人が聴いてきた音楽が形成する地平と相関しているのではなかろうか。 かく言う私も、「大地の歌」を他の交響曲と同一の仕方で聴いているわけではない。もっともそれを言えば私に限っては、第8交響曲もまた、 番号付きではあってもやはり普通の交響曲とは異なるものに感じられる。そういう意味では第8交響曲だってもし番号が付けられなければ「大地の歌」と同じように 排除されたとしても違和感はないのである。一方で「大地の歌」を交響曲に含めるのと同じレベルで、例えば「嘆きの歌」を同列に扱うことは、他の作曲家における 類似のケースはともあれ、ことマーラーの場合に限れば不可能だろう。何よりもまず、作曲者自身がそれを同列のものと見做していないという点は尊重されるべきだし、 それ以上に作品そのものの水準において、結局のところ「大地の歌」にはあり、第8交響曲にはより多く備わっていて、かつ「嘆きの歌」にはない、 「交響曲」に含められるだけの実質というのがやはりあるわけで、それを抜きにした議論は事態を不当に単純化することにしかならないと私には感じられてならない。

「大地の歌」を「交響曲」として扱い、CDの交響曲全集に含めれば売れるというのが日本独特の事情であることを認めたとして、そして更に百歩譲って、 それが可能であることの背景として「第9の迷信」が影響しているという仮説を認めたとして、そうしたレベルで議論が終始すること自体が批判の対象と 同じ土俵の上にいることを告げているように思えてならないのである。それがマーケティング戦略の副産物だとして、「大地の歌」を交響曲に含めることが 自然に受容される日本の特殊性を逆に積極的に評価する意見さえありえるかも知れないし、更に微妙な問題を含む第10交響曲のクック版の扱いについても、 日本で企画されたインバル/フランクフルト放送交響楽団のそれには協会全集版アダージョとともに全集に含まれている点を積極的に評価する向きがあったとしても 不思議はない。

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従って実のところ、このように書いてはみたものの、私自身にとってはニックネームの問題も「大地の歌」の分類の問題も、「第9の迷信」の問題も、少なくとも前島さんが 扱う水準に限れば別段興味を惹くような話題ではないのだ。ニックネームは不要だし、「大地の歌」は交響曲と連作歌曲の融合だし、「第9の迷信」の事実関係によって マーラーの後期交響曲の「内容」なり「意味」なりと呼ばれるものが変わるわけではないというのが私の立場である。そもそもフローロスの言う「標題」に対しても私が 懐疑的なことは別のところで既に述べたとおりである。それよりは歌詞と音楽との関係や音楽の構造の具体的な様相そのものに寄り添うことの方が一層興味深いことに思えてならない。 繰り返しになることを厭わずに再度確認すれば、「大地の歌」の魅力は、それが交響曲と連作歌曲の融合であって、「「大地の歌」は交響曲なのか」式の問いを無効にするような 実質を備えていることと不可分の関係にあるのではなかろうか。 (2010.10.17初稿)